今日の先生――透視幻覚2――そして「Kのために美事に破壞されてしまつて、自分もあの叔父と同じ人間だと意識」する先生――
以下、『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月7日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百六回より。一部の傍線太字を私が施した)
「私の亡友に對する斯うした感じは何時迄も續きました。實は私も初からそれを恐れてゐたのです。年來の希望であつた結婚すら、不安のうちに式を擧げたと云へば云へない事もないでせう。然し自分で自分の先が見えない人間の事ですから、ことによると或は是が私の心持を一轉して新らしい生涯に入る端緖(いとくち)になるかも知れないとも思つたのです。所が愈(いよ/\)夫として朝夕妻と顏を合せて見ると、私の果敢ない希望は手嚴しい現實のために脆くも破壞されてしまひました。私は妻と顏を合せてゐるうちに、卒然Kに脅(おびや)かされるのです。つまり妻が中間に立つて、Kと私を何處迄も結び付けて離さないやうにするのです。妻の何處にも不足を感じない私は、たゞ此一點に於て彼女を遠ざけたがりました。
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これはもう二人が結婚のかなり早い時期から、とうにセックスレスの関係にあったことの示唆に他ならないと私は考える。
「子供は何時迄經つたつて出來つこないよ」と先生が云つた。
奧さんは默つてゐた。「何故です」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」と云つて高く笑つた。
という「第八回」の、あの奇体におぞましい先生の異常な高笑いの声が響き返してくるのである。
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私は一層(いつそ)思ひ切つて、有の儘を妻に打ち明けやうとした事もあります。然しいざといふ間際(まきは)になると自分以外のある力が不意に來て私を抑へ付けるのです。私を理解してくれる貴方の事だから、說明する必要もあるまいと思ひますが、話すべき筋だから話して置きます。其時分の私は妻に對して己(おのれ)を飾る氣は丸でなかつたのです。もし私が亡友(ぼういう)に對すると同じやうな善良な心で、妻の前に懺悔の言葉を並べたなら、妻は嬉し淚をこぼしても私の罪を許してくれたに違ないのです。それを敢てしない私に利害の打算がある筈はありません。私はたゞ妻の記憶に暗黑な一點を印するに忍びなかつたから打ち明けなかつたのです。純白なものに一雫(ひとしづく)の印氣(いんき)でも容赦なく振り掛けるのは、私にとつて大變な苦痛だつたのだと解釋して下さい。
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これらは先生の驚くべきエゴイスティクな理屈にならない理屈である。しかも、驚くべきことに、漱石は、これを、おぞましいエゴイズムとは微塵も感じていないのである。いやさ、確信犯だということなのである。それだけに先生=漱石の精神の疾患は救い難く重篤であると言える。
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然し私の動かなくなつた原因の主(おも)なものは、全く其處にはなかつたのです。叔父に欺むかれた當時の私は、他(ひと)の賴みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他を惡く取る丈あつて、自分はまだ確な氣がしてゐました。世間は何うあらうとも此已(おれ)は立派な人間だといふ信念が何處かにあつたのです。それがKのために美事に破壞されてしまつて、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらぶらしました。他に愛想(あいそ)を盡かした私は、自分にも愛想を盡かして動けなくなつたのです。
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ここに至っても「Kのために美事に破壞されてしまつて」という表現を用いて、何らの自己矛盾や自己合理化を認知していない先生=漱石は、やはり恐ろしく変だ……いや……無論、俺もそうさ……しかし……どうだ?……お前も、あんたも、皆……実は――そうなんじゃないのか!?!…………
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