萬世百物語卷之二 六、たのしみの隱家
六、たのしみの隱家
[やぶちゃん注:標題は「樂しみの隱家(かくれが)」と読んでおく。挿絵は「江戸文庫」のものをトリミング合成した。淡路左衛門の狩衣の部分がひどく汚損しているのが残念。]
あだし夢、芳野山のふもとに、世をいとふて、おぼつかなう住みなす人ありけり。姓氏をあらはさぬがゆヘに、まことの名はしらねど、あたりの民はたゞに戶五郞とぞいひける。
[やぶちゃん注:「ゆへ」ママ。
「戶五郞」不詳。]
寬文のころ、院の北面淡路左衞門といふもの、和歌このむ心より、よし野の櫻、名にめでゝ、彌生のさかりをつもり、はるかなる花見にぞまかでける、道行(みちゆき)ぶりに、馬子(まご)なんどいふいやしきものさへ、戶五郞の物語をしいで、
「『馬の上ねぶりさまさす』とて、世にかはれる人のよう。」
と、いひつゞけける。いかさまにも、今の代、めづらかなるすじにきゝなしけるに、
「幸ひ、所も此あたり。」
といふ。うれしく馬うちよせける。鄕(きやう)をさる事、十町ばかり、さがしき谷陰に、岸根(きしね)かたどり、茅(かや)ふける軒(のき)、ふたつぞ、みえける。淸水(しみづ)をわたりて、細道につき、程なう至りてけるに、かたへは我がふし所とみへ、かたへは子のすむ家にはありける。子は妻(め)をもぐして、常の民なり。家居の前、すこしへだて、椎柴(しひしば)の垣をしつらひ、衡門(かうもん)のいぶせき、何のふせぎになるべしともみへねど、かたばかりにぞなしける。
[やぶちゃん注:「寬文」一六六一年~一六七三年。第四代徳川家綱の治世。
「院の北面淡路左衞門」「院」とは時制から見て、第一〇八代後水尾天皇(文禄五(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年/在位::慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年)か、第一一一代後西(ごさい)天皇(寛永一四(一六三八)年~貞享二(一六八五)年/在位:承応三(一六五五)年一月~寛文三年一月二十六日。十歳の識仁(さとひと)親王(霊元天皇。第一〇八代の後水尾天皇の第十九皇子。在位は貞享四(一六八七)年まで)に譲位した)の孰れかとなる。「北面」北面の武士。院御所の北面(北側の部屋)に近衛として詰め、上皇の身辺を警衛・御幸に供奉した武士。平安後期(康和年間(一〇九九年〜一一〇四年)と推定される)に白河法皇(第七二代天皇)が創設した。院の直属軍として主に寺社の強訴を防ぐために動員され、重きを成した。後代になるが、知られた人物としては清盛の父平忠盛・源為義や、後者の子で頼朝の父である源義朝、そして藤原義清(後の西行)、遠藤盛遠(後に頼朝に挙兵を促した文覚)がいる。「淡路左衞門」不詳。
「つもり」「積り」で「見計らう」の意であろう。
「道行ぶり」「道行振り」。花見に参る連れと洒落(しゃ)れて。日本文芸では旅の途次の地名を次々と詠み込む表現形式を「道行文」と言うが、それを下僕(複数の可能性がある。後で「下僕など」と出るからである)・馬子(これも後に「馬子はら」と複数で出る)連れで、その馬子に旅程の各地の名所などを語らせる、という諧謔を成したのである。ここはまさに他でもない、賤しい馬子をそう見立て、馬子が田舎言葉丸出しで自慢げに語るというシチュエーションによって、滑稽な面白さが倍加している。
「馬の上ねぶりさまさす」原拠は不詳であるが、恐らくは作者のここでの意識は、秘かに、時制上はずっと後の松尾芭蕉の貞享五(一六八八)年「更科紀行」の一節、
*
棧橋(かけはし)・寢覺(ねざめ)など過ぎて、猿が馬場・立峠(たちたうげ)などは四十八曲りとかや。九折(つづらをり)かさなりて、雲路にたどる心地せらる。步行(かち)より行く者さへ、目くるめき魂しぼみて、足さだまらざりけるに、かの連れたる奴僕(ぬぼく)、いとも恐るるけしき見えず、馬の上にてただねぶりにねぶりて、落ちぬべきことあまたたびなりけるを、あとより見上げて、あやふきこと限りなし。
*
や、或いはその前の貞享元年の「野ざらし紀行」の陰暦八月二十日の「小夜(さよ)の中山(なかやま)」での句文、
*
廿日餘りの月かすかに見えて、山の根際(ねぎは)いとくらきに、馬上に鞭をたれて、數里いまだ鷄鳴(けいめい)ならず。杜牧が早行(さうかう)の殘夢、小夜の中山に至りて忽ち驚く。
馬に寢て殘夢月遠し茶のけぶり
*
などが想起されていたものと私は思う。馬子の語りではあるが、やはり風雅な道行を匂わせる叙述となっている。
「人のよう」ママ。「人の樣(やう)」。今の世には最早、稀れなる隠者の様子。
「すじ」ママ。「筋(すぢ)」。
「鄕」人里。
「十町」約一キロ九十一メートル。
「さがしき」「險しき」「嶮しき」で山谷がけわしく、危険なさま。
「岸根かたどり」谷水の流れの傍らにそれ(隠者の住まい)らしく作って、の意か。
「みへ」ママ。「見え」。以下複数、この形で出るが、これ以降は注さない。
「ぐして」「具して」。
「椎柴」既出既注。椎の木のこと。ブナ科クリ亜科シイ属ツブラジイ Castanopsis cuspidata・スダジイ Castanopsis sieboldii の他、近縁種のマテバシイ属のマテバシイ Lithocarpus edulis も含んめて総称される。実を食用にし、私の大好物である。
「衡門」二本の柱に横木を掛け渡しただけの粗末な門。冠木門(かぶきもん)。転じて貧しい者又は隠者の住居をも言うが、ここは以下でそれを「いぶせき」(不快な感じがする・得体が知れず、気味が悪い)もので、「何のふせぎになるべしともみへねど」とあることから、えらくごっつい感じの奇体な門のようである。しかし「かたばかりにぞなしける」とあるから、頑丈なものでもないようだ。或いは、俗人を拒むような粗野な感じの冠木門なのであろう。]
左衞門、みるに、心、きよう覺へければ、おのづから敬心(けいしん)生じて、道の傍(かたはら)にて馬よりおり、下部(しもべ)などをもこゝにとゞめ、ひとりぞ行き、ものしける。
[やぶちゃん注:「きよう」「興」。面白み。
「おのづから」自発の意。自然と。
「ものしける」平安時代に多く用いられた婉曲表現の代動詞。ここは「家に向かって声を掛けた」の意。]
「道まどふ旅人なるが、火ひとつ給へ。」
といふをしるべして、戶五郞が住める方の竹ゑんに腰かけて、そこら見まわせど、調度(てうど)めくもの、ひとつも、みへず。書などいふものもなく、風流(ふうりう)事(こと)さりて、只、兀然(ごつぜん)たる翁(おきな)のみ、何心なげに日のさす方にせなかをあぶりて座したり。
[やぶちゃん注:「しるべ」きっかけ。
「竹ゑん」「竹緣」。
「見まわせど」ママ。
「事さりて」「殊さりて」か。「殊なり」という形容動詞の語幹を接頭語のように用いて「別して払い去って」の意でとっておく。
「兀然」読みは「こつぜん」でもよい。凝っと動かないさま。]
左衞門、しづかに、
「此あたりの古蹟、いかに。」
と問ふさまして、いひ續くるは、
「是れよりあとの宿にて聞きさぶらふが、翁の事にや。籬門(りもん)を出でざる事、三十年なりと承はる。まことに人の國なる朱陳村(しゆちんぞん)といふにて、世をはなれたる人ぐさのためしにいひ置きさふらふに、かくまで世の事きかぬ山ぢべに、淸き心の瀟洒(せうしや)たるは、もろこし人にもおとるまじ。いと殊勝なり。」
と再三かんじける。
[やぶちゃん注:「あとの」自分の物理的な位置から後ろの意で、先に泊まったの意。
「籬門」籬(まがき)を巡らした家の門。
「朱陳村」「朱」と「陳」は人の姓で、中唐の名詩人白居易の五言古詩「朱陳村」(八一〇年頃の作)に描かれる彼が作り上げた桃源郷のような村のこと。現在の江蘇省徐州市の北の境にある豊県(漢の高祖劉邦の生まれた地とされる)を去ること百余里(唐代の一里は約五六〇メートル)の山中にあって、市街地からは遠く離れていることから、風俗が純朴で、村中は朱と陳の二姓の者だけであり、それぞれが代々互いに婚姻し、その土地に安住して生活を楽しみ、皆、長命であると詠われている。「維本文庫」の当該詩篇をリンクさせておく。
「世をはなれたる人ぐさのためし」「世を離れたる人草の例」。遁世した人々の当代の代表的な例。
「山ぢべ」「山地邊」。]
戶五郞、笑って、
「いやとよ、それは人の申(まうす)なしなり。御覽ぜよ、門外に桑の木の森々たる陰さふらふが、此十五年以前とおぼし、夏の夕暮、涼みがてらにまかでたり。しかれば門出(いで)ずとも申されず。げには、時に用もなく、又、人にもとめなき身に侍へば、おのづから里にはさらに出でず候なり。」
と答ふ。
[やぶちゃん注:「人にもとめなき身」他者に求めねばならぬものとてない身。無論、その逆の謂いともとれ、表向きはそうした謙遜の辞のようでもあるが、寧ろ、やはり彼からの世人との関係性へのベクトルが全くないというところにこそ遁世の徹底があるように私は感じる。]
左衞門、
「さて翁には元より此所(ここ)の生まれにて侍(さふ)らふや。家の北なるは息(そく)にておはすや。」
と問ふに、
「かくねん比(ごろ)にとはせ給ふは、いかさまにも、山住(やまず)みこのませ給ふ御心(みこころ)とみえへたり。さらば、身のあらまし御慰(おなぐさみ)に申(まうす)ベし。我は、そのかみ、さる事ありて、兄弟ひきつれ、都を出(いで)、御出(おいで)あれば、道なる村、むかふの岡に居をしめ、山田の畦(あぜ)の、わづかに五十畝(せ)ばかりなるを、兄と共に耕して、やうやう飢(うゑ)をもまぬがるゝ計(ばかり)に世渡り候(さふらふ)を、兄なるもの、子ども、多くなりもて行き、娵子(よめご)なんどいふものもさしそひ、それよりは屬(ぞく)多(おお)うなりて、食事もたらぬがちになり候へば、『あさまし』とおもひ、田は、みな、兄にゆづり、我(わが)妻子をば引きつれて、何にすぎわひもしらねど、先(まづ)うつろひぬるを、里人どもあはれがり、此屋所(やどころ)をあたゆれば、終(つひ)に爰(ここ)に住(すみ)付きたり。ある時は藥をとり、鄕の庸醫(やぶい)にしろかへ、春は峯の早蕨(さわらび)をかてとし、また葛(くづ)なむといふものをほりて、朝げのけぶり、やうやうに郞等(らうだう)をやしなひ候へど、命絕えぬばかり、いかに粥(かゆ)をだにつぎゑぬを、また鄕人(がうにん)のあはれびて、山田三十畝を得させけるほど、一子もすでに人となり、よく耕し、いとまのおりおりは、ちんとりて、人にちからをかしなどして、今は、五、三人、かれが、はごくみにて、翁も心やすう、老のねざめをあかし候ふ。」
[やぶちゃん注:「御出あれば」(ここまでおいでになられたのであれば、その途中の「道なる村」の「むかふの岡」に住まい。
「五十畝」凡そ千五百坪ほど。
「娵子」嫁。
「すぎわひ」ママ。「生業(すぎはひ)」。世を渡るための生計(たつき)。
「うつろひぬるを」「移ろふぬる」今のこの場所に移り住んだところが。
「あたゆれば」ママ。「與ふれば」。与えてくれたので。
「藥」薬草や生薬。
「庸醫(やぶい)」音は「ヨウイ」。この読みは国書刊行会「江戸文庫」版のそれを採用した。日中辞典を調べたところ、「藪医者・へぼ医者」とあった。
「しろかへ」「代換へ」。金に換えて。
「早蕨」芽を出したばかりのワラビ(シダ植物門シダ綱シダ目コバノイシカグマ科ワラビ属ワラビ Pteridium aquilinum)。食用となるが、あく抜きが必要で、別に近年、発癌性のあるプタキロサイド(ptaquiloside)が微量に含まれていることが明らかになっている(約0.05~0.06%含有)。なお、ウィキの「ワラビ中毒」によれば、『人でも適切にアク抜きをせずに食べると』、『中毒を起こす(ビタミンB1を分解する酵素が他の食事のビタミンB1を壊し、体がだるく神経痛のような症状が生じ、脚気になる事もある)。一方、ワラビ及びゼンマイはビタミンB1を分解する酵素が含まれる事を利用して、精力を落とし』、『身を慎むために、喪に服する人や謹慎の身にある人、非妻帯者・単身赴任者、寺院の僧侶たちはこれを食べると良いとされてきた』事実があった、とある。
「葛」マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ変種クズ Pueraria montana var. lobata。本邦では古くより食用(長く大きな根から採れる葛粉)とされ、根・花・葉が生薬とされ、また、天然繊維の素材としても新石器時代から用いられてきた歴史がある。
「いかに粥(かゆ)をだにつぎゑぬを」「ゑぬ」はママ。なんとまあ、一椀の粥でさえも注(つ)ぐ得ぬというありさまであったので御座るが。「つぎ」は或いは「繼ぎ」で、「たかが粥を食うことさえも続けることが出来なくなったが」の意ともとれる。
「三十畝」約九百坪。
「いとまのおりおり」ママ。「暇(いとま)の折々(をりをり)」。
「ちんとりて」「賃取りて」。報酬を取って。
「五、三人」三人、四人、五人と。不定数ではなく、子が順調に生まれて増えたことを言っていよう。
「はごくみ」「育(はごく)む」(「育(はぐく)む」に同じ)の名詞化。]
左衞門、
「かゝる御物語承はるに、たゞ人ともおもはれず。わかきより聖(ひじり)の書なんどいふものを、さだめて、おほく見給ふらん。」
と、才の程、あやしがる。
「いや、何の書という事をか、わかち侍らはん。それ、翁のわかきほど、都にありて、儒學・神佛の學び、くらからざる智者といふ人を、しれるばかりも、つくづく指を折りて考ふるに、かへりて無智なる雜人(ざうにん)におとりたるこそ多けれ。其うへ、名利(みやうり)の心といふは、智よりたきますほのほとこそみへたれ。なまじひに神佛のことわり、さかしげに口にのみとき、後の世おそるゝ事もなく、妙(めう)なる鬼神のさたまで、ようもしらざる心より、なきものにいひおとし、さらば、人の世の敎(をしへ)なる仁義とかやをも、口にかわりて、心にわらへず。わかきは色にもまよひ、老ひたるは利をむさぼる、恥とはしらで、いにしへの人、ついへなきいましめにかこつけ、『種子(しゆし)をたつは、聖のおしへ、不孝の數なり』など、かしこういひまぎらし、獨(ひとり)をつゝしむまことのまもりもなく、たゞに人まへを、かたき事にこしらへ、さながら、ゑぼし・かり衣(ぎぬ)きたらん人の、小田かへす風情に、時世に遠きおろかさは、ものしりのうへにみえ侍れば、我れ、つくづくおもふに、書と道と、かくまで、へだてあるものにや。とにかく、智は我慢增長のもととこそおもひ侍れ。生死(いきじに)は生(しやう)ある習ひ、何ものか、のがれ侍らん。今更、さして、おどろき、心を入るべき事にもあらず。一日なりとも、ながらふるうち、こゝろめやすく、月花にもめでず。妻子をも、おのがまゝにおもひすて、慾うすからん道をねがはんには、端座(たんざ)に過ぎたることあらじと、道は朝夕に御覽ぜらるゝさまのみにて、月日を送り侍る。おのづから、いとなむ事なければ、心も、うごかず。慾、生(しやう)ぜねば、身、やすし。波しづかにして月影の圓(まど)かなることはりをも、あらましは、ゑとくし侍るやうなり。しかし、廿年ばかりもや過(すぎ)候はん、椎柴の袖なる人、一册をたづさへて給ひしが、名もなく、内にはたゞ稱名(しやうみやう)・經の事のみくわしうときてありけれど、「淨名(じやうみやう)經」といふものをみねば、しらず。只(ただ)何となくおもしろさに、目はなさで言(いひ)侍りし。いつしか書をもうしなひ、老のひが心に、ひとつふたつの覺(おぼえ)さへ、なくなし侍る。」
と、語るけはい、たゞ人ともみへねば、左衞門、あまりにかんじ、物語りのおもしろさ、おぼえず日暮にかゝるを、馬子はら、立ちいそぐがうへ、問ふベき事もなかばにして立ちさる。
子なるものゝ家に立(たち)より、一禮するに、かれがさま、親におとれるものゝ、一向(いつかう)の村郞(そんらう)なれど、淳朴(じゆんぼく)のていなる古風ありて、殊勝なりし、とかたりし。
[やぶちゃん注:「智よりたきますほのほとこそみへたれ」「みへ」はママ。下らぬ人「智より焚き增す炎(ほのほ)とこそ見えたれ」。
「口にのみとき」「口にのみ說き」。
「妙(めう)なる鬼神のさたまで、ようもしらざる心より、なきものにいひおとし」玄「妙なる鬼神の沙汰」(存在の在り方)「まで、良うも知らざる」半可通の「心」から、そんなものは総て「無きもの」であると、「謂ひ落とし」。ここでこの老人は鬼神を相応の存在として認めていることが判り、その点に於いて彼は老荘思想的人物であるように私には思われる。
「口にかわりて」ママ。「口に變(かは)りて」であろう。その時々の謂い方で同じ、人物でも全然違ったことを言って平気でいる。あまりのいい加減さに呆れて、「心にわらへず」ということであろうか。
「ついへなき」「費へなき」。金のかからない、の意か。
「種子(しゆし)をたつ」女犯(にょぼん)の戒めを言っているものか。
「聖のおしへ」(ママ)は「不孝の數なり」ということで採る。女と交わり子を成すことは不孝の一つであり、「聖の教(をし)へ」としての女淫の戒めを守らねばならぬ、と表向きは「かしこういひまぎらし」(「賢く言ひ紛らし」)ておいて、その実、「獨(ひとり)をつゝしむまことのまもりもなく」と続けていると読む。ただ、若干、この部分、読みが採り難くなっている。大方の御叱正を俟つ。
「ゑぼし・かり衣(ぎぬ)きたらん人」公家の官人や武家。
「小田かへす風情」「新小田を返す風情」の意。「新小田」は「田を耕(かえ)す」ことから「かへす」を引き出す枕詞で意味はない。ここは掌を返すように、言っていることと反対の行動を欲望に身を任せてとるエゴイスティクな豹変のさまを批判して言ったもの。
「書と道と、かくまで、へだてあるものにや」ありがたいとされている多くの書物に書かれている内容と、実際に人間が生きて行く「道」、真の生き方としての行動とは、かくも、絶望的なまでに隔たりのあるのものなのだろうか?
「我慢增長」個人の持つ我(エゴ)と慢心から、邪(よこしま)なる智が際限なく増長すしてゆくこと。
「こゝろめやすく」「心目安(=易)し」。傍から他人が見ても、見た目がよく、無難で、感じがよいように生き。これはすぐ前の「生死は生ある習ひ、何ものか、のがれ侍らん。今更、さして、おどろき、心を入るべき事にもあらず」と合わせると、例の卜部兼好の「徒然草」で「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蟬の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮らすほどだにもこようなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年を過ぐすとも、一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世に、醜き姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱多し。長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそめやすかるべけれ」(第七段)の章段との親和性が認められる。後の「妻子をも、おのがまゝにおもひすて、慾うすからん道をねがはん」というのも、「徒然草」の当該部の裏返しで、いやにそれが臭ってくるのである。
「月花にもめでず」月だの花だのを殊更に言い立てて賞美する風雅なんどとかいう気持ちは持たないことを言う。ここは鵜の目鷹の目の風流狂いを拒絶するというのは、やはり兼好が「徒然草」で「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」(一三七段)と言っている内容と重なる。それがあまりに見え見えで、少し興覚めがする。そもそも、兼好自身が言っていることと、実際の生々しい生きざまとの乖離を起こしていたことを知っている今の我々には、高校古文の定番なだけに、最後になって私などは鼻白んでしまう台詞なのである。
「波しづかにして月影の圓(まど)かなることはりをも、あらましは、ゑとく」(「會得」)「し侍るやうなり」ここなんぞはまさに禅の公案みたような謂いである。
「椎柴の袖なる人」喪服を着た人。椎の樹皮が喪服の染料になったことに由る。但し、ここは墨染めの衣で、僧を指していよう。
「名もなく」書名も無く。
「稱名・經の事」後の「淨名經」との謂いからは「稱名經」というお経の名のように見えるが、そんな経典はない。「稱名」は仏・菩薩、特に阿弥陀如来の名号である「南無阿弥陀仏」を称えることを指し、そうしたことを説いた「經」典のことを指すと採っておく。但し、ここは後の「淨名經」の誤記なのかも知れぬ。
「淨名經」は大乗仏教の奥義に通じ、雄弁で巧みな方便を用いて、仏教流布に貢献したとされる維摩詰(ゆいまきつ 生没年未詳:維摩居士。サンスクリット語ヴィマラ・キールティの漢音写。古代インドの商人で釈迦の在家の弟子とされる)という長者が登場する経典。ウィキの「維摩居士」によれば、『古代インド毘舎離城(ヴァイシャーリー)の富豪で、釈迦の在家弟子となったという。もと前世は妙喜国に在していたが 化生して、その身を在俗に委し、大乗仏教の奥義に達したと伝えられ釈迦の教化を輔(たす)けた。無生忍という境地を得た法身の大居士といわれる』。『なお、彼の名前は』「維摩経」を中心に、「大般涅槃経」などでも「威徳無垢称王」などとして『挙げられている』。従って、『北伝の大乗経典を中心として見られるもので、南伝パーリ語文献には見当たらない。これらのことから』、『彼は架空の人物とも考えられる』一方、『実在説もある』とある。さて、『彼が病気になった際には、釈迦が誰かに見舞いに行くよう勧めたが、舎利弗や目連、大迦葉などの阿羅漢の声聞衆』(しょうもんしゅう)『は彼にやり込められた事があるので、誰も行こうとしない。また』、『弥勒などの大乗の菩薩たちも同じような経験があって』、『誰も見舞いに行かなかった。そこで釈迦の弟子である文殊菩薩が代表して、彼の方丈の居室に訪れた』。『そのときの問答は有名である。たとえば、文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。彼の真意は「非道を行じながら、それに捉われなければ仏道に通達できる」ということを意味している』。『大乗経典、特にこの維摩経では、このような論法が随所に説かれており、後々の禅家などで多く引用された』とある。
「けはい」「氣配」。
「馬子はら」「はら」は「原」で「ばら」が一般的。複数を表わす卑称の接尾語。「ども」。
「一向の村郞」全く以ってひた向きな一途な村の男。
「淳朴」かざりけがなく素直なこと。人情が厚くて素朴なこと。純朴。]
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