萬世百物語卷之三 十一、野島が婚禮
十一、野島が婚禮
あだし夢、伊豫の河野が家に野島太郞左衞門といへる武士ありけり。いまにたぐへば、二、三千石の領をも所務して、河野が一族のうへ、またなき家の、きり人なり。
[やぶちゃん注:「河野」伊予で勢力を持っていた戦国大名河野氏は、最後の当主が河野伊予守通直(永禄七(一五六四)年~天正一五(一五八七)年)であるが、彼よりも三代前に同じ名を名乗った河野家当主に湯築(ゆずき)城(グーグル・マップ・データ)三代城主であった河野弾正少弼通直 (明応九(一五〇〇)年~元亀三(一五七二)年)がおり、ちょっとこの人物がモデルではないかと思わせる記事が、山岡尭氏の「伊予たぬき学会」のこちらの「年表」の中にある。躊躇するが、ややネタバレ風になるのを覚悟で示す【ネタバレの虞れが厭なら、これ以下を読まずに飛ばして本文をどうぞ!】と、それによれば、延暦年間(七八二年~八〇六年)に、弘法大師八十八ヶ所開基の際、狡猾な狐を追放し、正直明朗な狸を寵愛したとあり(ただ、一説に、この追放も条件附きで、大師は「四国と本州との間に橋が架かったら帰ってよい」としたというから、こちらの追放は既に解除されていることになる。なお、弘法伝承には別に「四国と本州に橋が架かると邪悪な気が四国を襲う」と予言したという伝承も別にあるらしいことを、架橋前後に聴いたことがある)、その後、享禄年間(一五二八年から一五三二年)の項に、『湯築城三代城主』『河野通直に奥方二人騒動、狐を四国から追放』とあるからである。この後者の道直の奇譚は、私の「柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(12) 「河童ノ詫證文」(3)」の本文に「本朝故事因緣集」(作者未詳。元禄二(一六八九)年板行)の「八十七 四國狐不住由來」(四國に狐住まざる由來)を柳田國男が引くのを、原本を確認して注を附した(太字部分)ものを参照されたいのだが、実は長い間、現代に至るまで、四国にはタヌキ(イヌ科タヌキ属タヌキ亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus)はいるが、キツネは棲息しないと信じられていた。少なくとも動物学者を除いて、一般の日本人の多くはそう信じており、全国的にもこれが一般的認識であったし、今もそう思っている人は有意に多いのである(ウィキの「キツネ」で四国に居ない旨に記載が訂正されたのは実に七年前の二〇一三年五月である)。しかし、それは間違いで、キツネ(食肉目イヌ科キツネ属アカギツネ亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica)は四国にもいるのである。但し、本州・九州に比して個体数は有意に少なくはある。しかし、嘗ては確認地域が高知県と愛媛県の境に集中し、他の地域での情報は非常に少なかったが、ここ最近では徳島県や香川県でもキツネの目撃情報が多くなっており、全体的には数が増えている傾向にあるのである。但し、実は「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね)(キツネ)」でも、寺島良安も『按ずるに、本朝、狐、諸國に之れ有り。唯だ、四國【伊豫・土佐・阿波・讃岐。】には之れ無きのみ』と書いてあるのである(同書は正徳二(一七一二)年成立)。しかし、だからと言って「江戸中期には狐はいなかったんじゃないの?」と反論されても困る。「判らぬ」としか答えようはない。しかし、ともかく、今は確実にいるのである(後者の私の注でも実証出来る記事(捕獲された狐の写真有り。場所は香川県高松市)をリンクさせてある)。
「野島太郞左衞門」不詳。国書刊行会「江戸文庫」本では姓は『野嶋』の表記である。
「きり人」所謂、「切れ者」と同じ。主君の寵愛を受けて権勢を振るう人を指す。]
ある時、廿ばかりなる靑侍、門前に案内せり。
「いかなる人ぞ。」
と尋ねさするに、
「われらは丹波の國のものなるが、野島殿の御一族、京極の家におはする德居民部(とくゐみんぶ)といへる人に、同國のよしみあるゆへ、それよりの仰せにより、中國がた奉公の望(のぞみ)にて、きたれり。すなはち德居殿の狀、こゝにあり。」
とてわたすに、野島、よくうけて、
「民部のたのみ越(こ)せし人、親疎(しんそ)のへだてあるべからず。」
と對面し、
「亂逆(らんげき)、みち、さりあへぬに、かろうじて、おはせし事、珍重(ちんちやう)なり。德居が方(かた)音信(おとづれ)をも久しうてきゝつる事、ひとへに御芳志と存ずるなり。浪人の身のかたづき、一旦には、なりがたし。おりもあらば、國主にも推擧すべし。先(まづ)その程は心(こころ)永(なが)に休息し、中國かたをも一見し給へ。」
と、ねんごろにもてなしければ、うちとけてぞ住みける。
[やぶちゃん注:「京極の家」安土桃山から江戸初期にかけての大名に丹後宮津藩(宮津城)初代藩主で高知(たかとも)流京極家の祖京極高知(元亀三(一五七二)年~元和八(一六二二)年)がいるが、時代は河野弾正少弼通直とは合わない(生年が通直の没年)。しかし、作者が本怪談を創作するに際して厳密な歴史考証を成したとも思えないから、彼の意識の中のモデルがこの京極高知であった可能性は大いにあるように思われる。
「德居民部」不詳。
「狀」書状。手紙。
「亂逆(らんげき)」読みは国書刊行会「江戸文庫」版によった。下剋上の世。
「みち、さりあへぬに」「道、去り敢へぬ」。道中、行き悩んで来られたであろうに。]
野島、したしくなりて、日がら、ふるまゝ、かの男が仕わざをみるに、つねのわかものともみへず、ものゝふの道は、ひとつひとつ、いふにやおよぶ、和歌・有職(いうそく)のみち、いづれ、のこせることなく、きようの仁體(じんてい)、まして、人の心根を、よくよくみはかり、野島がおもはん程の筋は、先だちてわきまふるに、
『いにしへの賢人の心も、か程までは入りたゝじ。あはれ、河野殿に申(まうし)て、ちかく奉公にも出ださばや。』
なんど、ほれまどひぬ。
[やぶちゃん注:「日がら、ふるまゝ」「日柄、經るまま」。日数が経つうちに。
「いふにやおよぶ」「言ふに及ばず」の意。
「有職」博識で、歴史・文学・朝廷の儀礼等によく通じていること。
「いづれ、のこせることなく」「孰れ」も「殘せる事無く」。どのような場合でも、その言動に漏れ足らぬことが見当たらず。
「きよう」「器用」。
「か程までは入りたゝじ」「かくまで用意周到にして完璧な境地までは、とても入り立つことなど出来まいぞ!」。
「あはれ」感動詞。讃美驚嘆の「ああっつ!」。
河野殿に申(まうし)て、ちかく奉公にも出ださばや。』
「ほれまどひぬ」「惚れ惑ひぬ」殆んど理性を失うほどに惚れ込んでしまった。]
野島は男子はなく、娘ひとりありし。なれ行くまゝ、かの男のうるはしさに、いつしか、れんぼし、ならの社のちかごともあひ見てゝこそものすべけれと、人しれず、行き通ひぬ。
[やぶちゃん注:「なれ行くまゝ」「馴れ行く儘」。娘がこの男に慣れ親しんゆくうちに。
「れんぼし」「戀慕し」。
「ならの社のちかごともあひ見てゝこそものすべけれ」読みや出典は不詳。読みを確定出来ない理由は「江戸文庫」版が『なゝの社のちかごとも』となっているためで、「社」は「やしろ」と読んで和歌の上句とはなるものの、「奈良の社」でなのか、「七(なな)の社」(多くの神社)での「誓言」(ちかごと)なのかが判らぬからである。「奈良」の地名を引き出すのは何だかおかしい気もする。下句はそんな沢山の神頼みなんぞより、大事なことは、「相ひ(「逢ひ」も掛ける)見て」「てこそ」(連語。接続助詞「て」+係助詞「こそ」。文中に用いて「て」の受ける部分を強調する。文語文では「こそ」のかかっていく述語を已然形で結ぶ)「ものす」(様々な動作の婉曲的代動詞)ことをすることであるに違いない――互いに一瞬見て愛し合ったのだから、することは、もう、一つしかないでしょう――の謂いではあろう。如何にもな、古歌のそれらしい感じはするものの、和歌嫌いの私には原拠が判らぬ。識者の御教授を乞うものである。]
いつしか身さへたゞならずなれば、内の人もあやしみ、父母も、しりぬ。野島、きゝて、
『侍の家に居(を)らんもの、かゝる不義、いかに女のしたへばとて、あるべき事にもなし。是、ひとつなんかの男に事たらぬことよ。』
と、心ゆかずおもへど、かくなり行きてのち、とりかへすべきやうもなく、わかきがうへに、罪ゆるし、嗣(よつぎ)の子なきも、いまさら、幸(さいはひ)におぼへ、
「世人、多くしらぬ程に。」
と、とりはかり、すじだてゝ、家(いへ)相續の事ねがへば、異議なくかなひ、それよりは「野島主馬之丞(しゅめのじよう)」と名づけて、家の目出度き、よつぎ、めきたり。
[やぶちゃん注:「したへばとて」「慕へばとて」。
「ひとつなんかの男に事たらぬことよ」「一つ何かの男に事足らぬことよ」。「一箇の普通のその辺の成人男子の一人分にもこと足りぬ、大戯(おおたわ)け者ではないか!」の謂いか。
「おぼへ」ママ。]
かくて三年の秋風ふきかへ、文月(ふみづき)の十五日にもなれば、主馬之丞、寺にまうでぬ。
名殘のあつき歸るさの道にこうじて、そうぞく、ぬぐまでもなく、ゑんのはしちかく、凉(すずみ)とりて、ふしぬ。
はじめの程こそ女どもあつまり、うちわの風すゞしさそへて、もてあつかひけれ、いとよくねいれば、やおら、しりぞきて、おのが、かたがたに、たちぬ。
あまりに。こうじやしけん、いきたかくふしぬるを、ひとりの女、
『ようも、こうじさせ給ふや。いぎたなき御(おん)ふるまひぞ。』
と、ものかげより、はしたなくみれば、大きやかなる尾といふものを、ゑんより下に、
「ぶらり」
とさげて、人みるとも、しらず。
かの女、あまりにおどろき、
「かれの、これの。」
と、おのがどち、さゝやきてみるほど、女房も、きをつけ、立ち寄り、みる。
とのゝふるまひ、ことやうなるに、さして、おどろくけしきもなく、
「かゝるべしとは、かねておもひよる事あれど、我が心からしいづるわざ、まいて兒(こ)さへいづれば、何といふべきかた、なし。今更、うちつけに、父母にいはんも、はづかし。家司(けし)の、それ、めしてこよ。」
とて、よび出(いだ)し、みするに、
「かゝる事、そのまゝには、なしがたし。ともかうも、殿(との)に申(まうし)てこそ。」
とて、野島にしらす。
此さまをみるより、大きにはら立て、主馬之丞が方へ近づく。
はじめて、目や、さめけん、それよりは、尾も、みへず。
常のさまなれど、おしつけて、繩かくるを、女房は、
「今更、口おしき。」
と、さすが、また、
「あはれなる。」
と、さしつどひて、うらみ泣く。女ども、何と、わくことなく、あやしき中にも、めのまへのあはれに、たへぬなみだもろさは、女のつねなるべし。
主馬之丞、おどろき、
「こは、いかにすればか。」
と、大(おほ)やうにもてなすに、野島、はらにたへず、馬場すゑに引き出し、例(れい)の煤茅(すすがや)とりあつめ、侍・下部、こぞりて、いま迄は主(しゆ)なるおそろしき人を、ゑしやくもなく、いぶせば、終(つひ)にたまらず、
「あら、くるし。子までいでくるうへを、いかにかくするぞ。今は何をか、かくすべき、我こそ丹後の國京極が家のそのものなるが、その先(せん)、京極の娘の色よきにめでて、さまざまにたぶらかせしかど、道理(だうり)につまりて、たちはなれぬ。それより國々を見めぐり、此所にいたるに、か程の娘、又なくおぼへて、かくしつるが、いまは、是れまでにこそ。」
と死しけり。
みれば、大きなる「ふるだぬき」なり。
むすめ、見て、
「ちくせうの女(つま)となるいんぐわ、人にむかひて、いかにおもてむくべき、あさまし。」
とて、かの子をさしころし、我もそのまゝ、じがいしけるなん、あはれなる物語ぞ。
[やぶちゃん注:「文月の十五日」陰暦七月初秋の望月である。
「こうじて」「困じて」。疲れて。
「そうぞく」ママ。「裝束(さうぞく)」。
「いきたかくふしぬる」高鼾(たかいびき)をしているのである。
「うちつけに」無遠慮に。強いて言いつける。
「家司」家政を担当した家臣の中の重役。
「それ」個人名を伏せた表記。
「女房」主馬之丞の妻。
「大(おほ)やうに」「大樣に」。この場合は、その妻を始めとした女どもの反応の仕方が、何か中途半端な感じであることを言っているのであろう。則ち、獣の化けたものとおぞましくも感じながら、目に見えているのは、三年もの間、馴れ親しんだ美男の夫であり、主人であるからである。しかし、それが野島の怒りを刺激してしまうのである。
「煤茅」一般に火起こしの材料や、囲炉裏や火燵などに敷き詰める灰を作るための燃えやすい茅の束。
「ゑしやくもなく」遠慮「會釋も無く」。
「いぶせば」「燻せば」。実際の狐狸を捕らえる際に複数ある穴に煤藁を突っ込んで、燻り出すことから、狐狸の憑き物と見なされた患者に近代までこうした同じような煙責めが行われた。
「子までいでくるうへを」「子(こ)まで出で來る上を」。頑是ない子どもまで生まれたにも拘わらず。
「京極が家のそのものなるが」京極家に古くから棲みついておった物の怪であるが。
「道理につまりて、たちはなれぬ」何らかの高邁な僧などの調伏を受けた感じである。その辺りを知りたくは思うが、ここまで来れば、それを長々しく語るのは怪談としてはダラついて上手くないから、仕方ない謂いではある。しかし、不親切の感は免れぬ。
「ちくせう」ママ。「畜生(ちくしやう)」。
エンディングは女子どものスプラッターで後味が甚だ悪い。ここまでの展開が開放的で、どこかあっけらかんとして陽性部分がチラついていただけに、どうもコーダに失敗している感が強い話柄である。]
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