萬世百物語卷之二 五、一眼一足の化生
萬世百物語卷之二
五、一眼一足の化生
[やぶちゃん注:「江戸文庫」版の挿絵をトリミング補正し、合成した(これは正直、かなりよく処理出来たと思う)。左の幅の座った角髪が於房丸で、恐らくは、その右手前(左幅中央)に立っているのが於房丸の師僧であり、それに向かい合って座って、こちらに顔向けている(左幅右手上部)のが治部卿と思われる。話の展開中にはこのようなシークエンスはでないが、この絵を前半の某権僧都の入院の宴としてとっては面白くもなんともないからである。そこを思わせておいて、実は、という絵師の配慮はあるかも知れぬ。]
あだし夢、叡山中堂に近きあたり、禪學院といふありけり。
「あまりに中堂にとなり、火難あやうし。」
とて、寛文の比(ころ)、料(れう)など給はりて、寺地を五町ばかり、へだて移されたりけり。
[やぶちゃん注:標題は「いちがんいつそくのけしやう」。「化生」は化け物・妖怪・変化(へんげ)の意。
「叡山中堂」比叡山延暦寺の総本堂である比叡山延暦寺根本中堂。最澄が延暦七(七八八)年に一乗止観院という草庵を建てたのが起原とされる。本尊は最澄が一刀三礼して刻んだ薬師瑠璃光如来と伝えられており(秘仏)、その宝前に灯明をかかげて以来、最澄の点したその火は千二百年の間、一度も消えることなく輝き続けているとされることから「不滅の法灯」と呼ばれる。中堂という呼称は最澄創建の三堂(薬師堂・文殊堂・経蔵)の中心に位置することから薬師堂を中堂と呼ぶようになったが、この三堂は後に一つの伽藍に纏められ、中堂という名が残ったとされる。比叡山延暦寺の中心であることから「根本中堂」といい、比叡山では東塔(とうどう)という区域の中心的建築物である(以上はウィキの「延暦寺根本中堂」に拠った)。
「禪學院」不詳。最澄が弘仁九(八一八)年に記した延暦寺伽藍計画「比叡山寺僧院等之記」に記した九院・十六院の中にこの名の院はない。東塔近く(「五町」は五百四十五メートル半である)に計画されたものや、伝承で廃絶したとされる僧坊の中に似た名前を探すと、東塔北谷の「禪林院」(但し、これは実際に建造されたかどうかさえ不明)や、東塔北谷虚空蔵尾(きただにこくうぞうお:根本中堂の正面東側)の「善學院」がある(東塔には五つの谷があり、東谷(仏頂尾・檀那院)・西谷・南谷・北谷(八部尾・虚空蔵尾)・無動寺谷に分かれる)。そもそもが、以下「といふありけり」と伝聞過去で終止しているから、この話柄当時、既に無く、その伝承が残っていたという感じである。]
何の權僧都(ごんのそうづ)とかや、はじめて遠國(をんごく)より住(ぢう)し、山のさた覺束(おぼつか)なきほどなり。また、弟子に少納言の帥(そち)里境坊(りきやうばう)といふなんありける。
[やぶちゃん注:「權僧都」僧綱(そうごう)の「僧正・僧都・律師」の僧位一つの略式呼称。僧正の下にあって僧尼を統轄するのが「僧都」で、本来は「権」はその次席に当たることを指す。
「少納言の帥里境坊」不詳。「帥」は本来は大宰府の長官職(遙任職)を指すが、同職は従三位でなくてはなれない(太政官少納言は従五位)から、ただの通称。「帥」には一般名詞として「頭(かしら)」。「将軍」の意がある。]
秋の夜(よ)、月のあかきころ、近院の衆徒、入院(じゆゐん)の悅びにあつまり、酒たふべて遊びける。おりあしう、師・弟子ともに一度に厠(かはや)にぞ行きける。
山の習(ならひ)、所廣きにまかせ、厠(かはや)に作(つくり)、崖(きし)にむかひて、戶などいふものもなく、いとはれやかなり。月はことさらにさへて、椎柴(しひしば)・なら・樫(かし)など、すべての木草(きくさ)に露きらめきわたり、天にすむうさぎなどいふものゝ毛さきもかぞへつべき。何にくまなき夜のさまなり。
[やぶちゃん注:「崖」断崖。谷に張り出しているのであろう。その谷向かいに山があるのである。
「椎柴」椎の木のこと。ブナ科クリ亜科シイ属ツブラジイ Castanopsis cuspidata・スダジイ Castanopsis sieboldii の他、近縁種のマテバシイ属のマテバシイ Lithocarpus edulis も含んめて総称される。葉は光沢がある。実を食用にし、大好物の私などは一目で特定出来る。
「なら」ブナ目ブナ科コナラ亜科コナラ属 Quercus の内、落葉性の広葉樹の総称(英名の「オーク」(oak)に相当)。秋になると、葉が茶色になる。本邦では例えばクヌギ Quercus actissima・ミズナラ Quercus crispula・カシワ Quercus dentata・コナラ Quercus serrata などが代表種である。
「樫」ブナ目ブナ科コナラ亜科コナラ属の内、常緑性のものを指す。例えばウバメガシ Quercus phillyraeoides・アカガシ Quercus acuta・シラカシ Quercus myrsinaefolia などで、他にクリ亜科マテバシイ属シリブカガシ Lithocarpus glaber も樫と呼ばれる。葉に光沢があり、葉の周囲に鋸歯を持つものが多い。以上の下線は暗い夜に何故識別出来たかを不審に思われる方のために附した。]
まへの山を十五、六にも見ゆるかつじきの、あしばやにかけくだるをみれば、顏はめでたけれど、目ひとつなるが、厠の口に近寄りて、
「そ」
と、たゝずむ。
「こはいかに。」
と見れば、足もまた、ひとつなり。
おもてあはするより、
「ぞ」
と、さむけだち、いかに、ふためともみられんや。なみなみならば、きへも入(いる)べきを、此人、尋常にたがひ、法(のり)のみちすぐれて、いとたうときすぎやうじやにて、ことにたゞ人ならねばか、本性(ほんしやう)よくねんじてあられける。
[やぶちゃん注:「かつじき」「喝食」で「かっしき」(現代仮名遣)とも読む。「喝」は「唱える」の意で、本来は禅寺に於いて諸僧に食事を知らせ、食事の種類や進め方を告げること及び、その役名や、その役目をした有髪の少年を指し、「喝食行者 (あんじゃ)」とも呼んだ。後には宗派に関係なく、寺で働く「稚児」の意となり、「喝食姿」と言えば、広義の元服前の少年の髪形の一つで、髻 (もとどり) を結んで後ろへ垂らし、肩の辺りで切り揃えたものを言う語となった。
「きへも入べき」ママ。「消えも入るべき」で気絶してしまうような、の意。次段のそれも同じ。
「すぎやうじや」「修行者」。
「本性よく」正気を正しく保ち。]
かのもの、また引き返して、峯にかけのぼり、それよりは行方(ゆきかた)しらずぞなりぬ。
帥(そつ)がみたりしも、もとより、所のかはりたるに、形と時と、つゆたがはざりし。ふしぎなりかし。かれは修行のわかさにぞ、こゑたてぬ計(ばかり)におどろき、かけ出(いで)、肝(きも)きへぬべくありつれど、『人にわかわかしうかたるべき事にもなし』と、師・弟子共(とも)に、たがひに、かうとも、いはず、さらぬ風情にもてなし、座にぞかへられける。
[やぶちゃん注:「わかわかしう」「まるで子供っぽく」或いは「経験が浅いままに」。両義でとってよい。]
されども何となく心にはかゝりて、それより、ものがたりもしめやかならず。賓人(まらうど)のもてなしさへ、おのづからおろそかになりける。いかに氣もすみ給はずや、
「夜もやうやうふけぬ。いざ、まかでなむ。」
とて、みなみな歸りにけり。
[やぶちゃん注:「しめやかならず」落ち着きがなくなった、の意。
「賓人(まらうど)」現代仮名遣「まろうど」。「まらひと」の音変化で、古くは「まろうと」。広義の客人の意。その場に呼ばれた僧たちを指す。
「もてなし」応対。
「氣もすみ給はずや」「氣も濟み給はずや」怪異を見たことで生じた鬱屈した気分もお晴れにならなかったせいであろうか、の意。]
院に祗候(しこう)の供人(くにん)竹本玄俊(げんしゆん)といへる老法師(おいはうし)、此樣を見て、あやしみ、
「いひ出づるこそ稀有(けう)なりけれ、まだ、山のほど、おぼつかなくおはしなんが、今宵のやう、見奉るに、いちでう、『一眼(がん)一足(いつそく)』をみ給ふにや。」
と、ほゝゑみて問ふ。
[やぶちゃん注:「祗候」「伺候」に同じい。貴人のそば近くに仕えること。ここは二人の僧のいる「禪學院」付きの下役の僧。
「竹本玄俊」不詳。彼だけ姓名を示すのは、怪異譚の真実性を高めるためである。
「いひ出づるこそ稀有(けう)なりけれ、」「こそ~(已然形)、……」の逆接用法。「口に出して申すは、これ、不躾にしてとんでもないことでは御座いまするが、」の意。
「山のほど、おぼつかなくおはしなんが」叡山のいろいろなことについて、未だご承知なきことの多く御座いましょうが、の意。
「やう」「樣」。御様子。
「いちでう」ママ。「一定」で「いちぢやう」(いちじょう)が正しい。副詞で「きっと・必ずや」の意。]
僧都、おどろき、
「さて、いかにぞや。我れ葛河(かつらがは)に住みける程、いく度か、あらき行(ぎやう)をもなし、おそろしき山をたづねてこもりしが、かゝるあやしきもの、いまだ、みず。扨(さて)常にも出づるにや。何のわざぞ。」
と、とふ。
[やぶちゃん注:「葛河」続く謂いから見て、京都府を流れる淀川水系の桂川の上流部であろう。この辺り(グーグル・マップ・データ)。]
少納言もうちきゝ、
「今までは我がおくしたる念ゆへに、きつね・たぬきやうの、たぶらかしにぞ、とおもひし。そこにもみさせ給ふ。」
うへ、語り出(いだ)し、
「おそろしき事のかぎりをも、みつ。」
と、侘びあへる。
[やぶちゃん注:「そこにもみさせ給ふ」「そこ」は二人称で師である僧都を指すが、適切ではない。文末では最高敬語を使っているものの、「そこ」或いは「そこもと」は同等か同等以下の相手に使うものだからである。或いは弟子である少納言の帥の、地金の傲慢が見えたものか。
「侘びあへる」ともに口に出して、その恐ろしき極みを謂い合い、慄(おのの)いたのである。]
玄俊、聞きて、
「一眼一足といへるばけもの、此山にたへて久しき事にて、常は西谷・北谷のあいにて、人はおほくみつ、と、いひし。されど何の害をなすこともなければ、しれるものは、あやしともおそれず。これにあはれなる事候ふは、慈覺大師の御時にてやありけん、橫川禪定院(よかはぜんじやうゐん)に治部卿(じぶきやう)といへる學徒いまそかりける。止觀(しくわん)の學びおこたらず、禪定の窻(まど)の前には三密(さんみつ)の月あきらかならん事をねがひ、わかきが中には、すぐれたるじちほうの人なれば、『末いかならんかしこさ』ともてはやさる。師の御坊もことなるものにぞあいせられける。また西谷の今の行光坊に、萬里殿(までどの)の末の御子(みこ)於房丸(おふさまる)といへる、やんごとなき人、住まれける。優に色あるさま、すぐれければ、山塔(さんたふ)のわかき人々、たぐひなき上﨟の筋に、めであひ、また、家とて和歌のみちさへ情ふかうありつれば、よみすてのたんざくまで、すき人(びと)のたぐひは、たうときたからのやうにめでけれど、師の御坊、腹あしき人にて、たへて他(た)の出入(でいり)もゆるさず、ねたみあわれける、となり。一日(いちじつ)、大會(だいゑ)の時、治部卿、何(なん)たるすぐせにか、見初(みそめ)めける日より、わりなうおもひまどひ、ちづかの文のたよりをもとめ、細布(ほそぬの)のあひがたき戀をもしつるに、兒(ちご)もあはれなる方(かた)にひかれ、人目(ひとめ)の關守いかにしてしのばれけん、ふかう、なれむすばれけるを、師の御坊、きゝつけ、例のはらあしう、
『にくきものゝしかた。』
と、せちにいかり、せめられける。あまりにつよふいさめ給ふとて、いかなる事か、せられたりけん、あやまりのかうじて、終(つひ)になきものにせられける。よざまには、
『つねの習(ならひ)。』
に、いひなし、死骸をふかう埋まれけれど、かくれなき、さがなき人の、いひ、あはれぶを、治部卿、
『かく。』
と聞くより、身もあられず、
『おくれて何せん命ぞ。』
と、湖水のあわと、きへける。
そのうらみ、たえずやありけん。今にその執(しふ)かくのごとし。念々沒生(ぼつしやう)未來永劫にも、罪ふかき物語なり。」
と、いひし。
[やぶちゃん注:「西谷・北谷のあい」「あい」はママ。「間」・「合」など孰れでも「あひ」でなくてはならない。
「慈覺大師」第三代天台座主円仁(延暦一三(七九四)年~貞観六(八六四)年)の諡号(しごう/おくりな)。座主就任は仁寿四(八五四)年。
「橫川禪定院」廃絶して現存しない。タケちゃん氏のサイト内の「巡礼が通った道〔黒谷青龍寺〕」で現存する「禅定院掃除場」の標石によって大体の位置(地図有り)が分かる(「掃除場」とは当該寺院が担当する清掃区域のことを指す)。
「治部卿」不詳。官職としてのそれは、本来は治部省(外交・戸籍・儀礼全般を管轄し、結婚・戸籍関係の管理及び訴訟や僧尼その他宮廷関係諸事の監督を職掌としたが、後は僧尼・仏事・雅楽及び山陵の監督のみが主務となった)の長官で正四位下相当であったが、公卿が兼任することが多かった。ここは単なる通称に過ぎない。
「止觀」本来は天台宗の中心的修行法で、一切の妄念を「止」め、正しい知恵で対象を「観」察することを言うが、後に天台宗の異称となった。ここも後者。
「禪定」ここは院名。
「三密」昨今の密閉空間・密集場所・密接場面では無論ありませんよ。仏教用語としては、広く秘密の「身」・「口」・「意」の三業(さんごう)、則ち、仏の「身体」と「言語」と「心意」によって為される不思議な働きを指すが、特に真言密教の行者が、手に契印を結ぶ「身密」と、口に真言を唱える「口密(くみつ)」と、心に本尊を観ずる「意密」とを指す。ここは最後のそれ。
「じちほうの人」意味不明。後は「法の人」(本来は「はふのひと」であるが、「法」は古文献でも「ほう」と記されることは多い)で、正法(しょうぼう)を究めんとする人でよかろうが、前の「じち」が全く分からない。歴史的仮名遣を無視すれば、「持智」(ぢち)が一番しっくりはくる。正「法」の示す真の「智」を堅「持」せんとするの意で考えた。大方の御叱正を俟つ。
「ことなるものに」「殊なる者に」。他に比して格別に優れた修行者として。
「西谷の今の行光坊」東塔西谷にあったが、現在は廃絶。
「萬里殿」万里小路家(までのこうじけ;名家の家格を有する公家で、藤原北家勧修寺(かじゅうじ)流支流。参議吉田資経(すけつね)の四男資通(すけみち)を家祖とし、鎌倉中期に始まった。家祖資通がその邸宅地を冠して万里小路と称されてから、子孫代々これを家名とした)が浮かぶが、話の時制が合わない。さすれば、作り話の色が俄然、濃くなった。
「於房丸」不詳。
「家とて和歌のみちさへ情ふかうありつれば」特に万里小路家は堂上和歌の家系として知られてはいない。但し、戦国時代の公卿・歌人の第十一代万里小路惟房(これふさ)などは、『特に書道と歌道に優れ、格調高く迫力迫る和歌懐紙等が大名家に伝来している。室町時代の公家の気骨を知る上で、きわめて重要な書』とされ、また、『千利休が活躍した安土桃山時代の公卿でもあり、惟房の和歌懐紙の掛け幅は、現在の茶道において極めて珍重されている』とウィキの「万里小路惟房」にあったのを紹介してはおく。
「たへて」ママ。副詞に「全く」の意の「絕えて」であろう。
「ねたみあわれける」ママ。意味不明。「嫉み合はれける」としても、ここの文脈では師が嫉むばかりであって、この御仁と嫉み合っているわけではないはずだから、おかしい。寧ろ、「ねたみ、あはれまれける」ならば、腑に落ちるのだが。
「大會」規模の大きな法会(ほうえ)。
「すぐせ」「過ぐ世」。「二、不思議懷胎」で既出既注。「宿世(すくせ)」が正しい。「前世」のその因縁の意。
「わりなう」道理から外れて、どうしようもなく。
「ちづか」「千束」。千束(たば)で異様に多いことを指す。
「細布」「狭布の細布(けふのほそぬの)」(きょうふのほそぬの)。衣に仕立てようにも幅が狭く不足するところから、「逢はず」「胸合はず」などの序詞に用いる。
「兒」於房丸を指す。
「あはれなる方」いとしいお方。治部卿を指す。
「人目の關守」寺内での多くの人の目を関所の番人に喩えた。
「しのばれけん」この場合の「しのぶ」は「忍ぶ」で、「人目を避けて、恋人同士が情を結ぶことを指す。
「なれむすばれける」「馴れ結ばれける」。親しんで割りない仲となったことを指す。
「あやまりのかうじて」「誤りの昂じて」。「高じて」でもよいが、師僧としてあり得ぬ妬心が昂じて、過剰な責め苛(さいな)みを於房丸にしてしまった結果、「終になきものに」してしまった、殺害してしまったのである。
「よざま」「世樣」で世間体(せけんてい)にはの意であろう。
「つねの習(ならひ)」世の常の人の命は無常にして、老少不定、といった謂いか。要、手に懸けてしまった師僧は、「これ、ふとした病いで空しゅうなった」とでも言い添えて、殺害の事実を隠蔽したのであろう。但し、それは表向きのことで、彼が殺(あや)めたことは無言のうちに寺内に知れ渡ったものであろう。その隠された真相を治公卿は「かく」と聞いたのである。そうしてこそ、怪奇談の闇は深くなるからであり、伝承として「そのうらみたえずやありけん、今にその執(しふ)かくのごとし。念々沒生(ぼつしやう)未來永劫にも、罪ふかき物語なり」という結語も痛烈に胸を撲(う)つのである。
「湖水」琵琶湖に入水自殺したのである。
「あわ」ママ。「泡(あは)」。
「きへける」ママ。「消えける」。
「念々沒生未來永劫」愛憎の妄執の念は生まれては消えを繰り返し、それは未来永劫に続くのであるというのである。私はそもそもが、この一つ目の一本足の稚児の妖怪は於房丸の変じたものだとは思わない。師僧が少年に与えたリンチが片目を潰し、片足を切るというそれであったなどという下劣なアメリカのホラーやスプラッター映画のような解説もいらぬ。かといって、民俗学者が解析するインキ臭い「一つ眼一本足の神」の起原解析へと勘違いして逆流することなども、寸毫も思わぬ。――この奇体な妖怪は――二人の男に愛されてかくなる凄絶な最期を遂げねばならなかった美少年於房丸と――愛するあまり嫉妬から彼を殺してしまった猟奇の破戒の師僧と――三密を破って少年に懸想して自死した治部卿との――三つ巴の情念のキメラのおぞましい怪物なのである――。
なお、実は本篇は既に2017年1月2日に「柴田宵曲 妖異博物館 一つ目小僧」で電子化している。但し、それは「江戸文庫」版を底本としたもので、今回は底本も違うし、そちらでは注も附していない。また、ブログ・カテゴリ「柳田國男」では、かの「一目小僧その他」のオリジナル注附きの全電子化も終わっていることを言い添えておく。
さうして――お前らの知ったかぶりに――ほくそ笑む――あばよ――――]