萬世百物語卷之四 十六、海中の捨舟 / 萬世百物語卷之四~了
十六、海中の捨舟
あだし夢、永祿年中、毛利・大友の鬪爭を和睦せしめんと、將軍家義輝公の仰せにより、安藝へは聖護院(しやうごゐん)の法親王、豐後へは久我の左大臣殿下らせ給ふ。
[やぶちゃん注:「永祿年中」一五五八年~一五七〇年。但し、永禄八年五月十九日(一五六五年六月十七日)に三好義継や三好三人衆及び松永久通たちが共謀して二条城を襲撃、室町幕府第十三代将軍足利義輝を殺害(「永禄の変」)しているから、そこまでの間となり、具体的には永禄六(一五六三)年である。後注参照。
「毛利・大友の鬪爭」一五五〇年代から大友氏と毛利氏は豊前・筑前の二ヶ国を巡って、度々、戦いを繰り返していた。特に知られるのは「門司城の戦い」で、永禄元年から永禄五年までに豊前国門司城を巡って行われた、大友宗麟(義鎮:よししげ)と毛利元就との数度の合戦で、永禄四(一五六一)年の戦闘が最も有名。
「聖護院の法親王」聖護院道増法親王(永正五(一五〇八)年~元亀二(一五七一)年)生まれ。近衛尚通(ひさみち)の子で、天台宗聖護院門跡。園城寺(おんじょうじ)長吏や熊野三山検校(けんぎょう)などを務めた。義輝の依頼を受け、永禄四年に毛利元就と尼子義久との、永禄六年、元就と大友宗麟との紛争の調停に当たっている。和歌・連歌に精通した。彼が親王を名乗るのは、父尚通が太政大臣となり、後の永正一六(一五一九)年に准三宮(太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者)となったからであろう。
「久我の左大臣殿」久我通堅(こがみちかた 天文一〇(一五四一)年~天正三(一五七五)年)と思われるが(ウィキの「門司城の戦い」に、『足利義輝は大友家に久我通堅と聖護院道増と大館晴光を通じて』、『代々』『将軍家陪臣出身の戸次氏・鑑連に対して御内書を下していて、鑑連が宗麟に対して意見を具申すべき極めて枢要な立場であった。この仲介により、一度』、『大友氏と毛利氏の間で休戦が』暫く『続いた』とある)、彼は正二位(左大臣にはなれる)・権大納言で左大臣にはなっていない(後に勅勘を被り、永禄八(一五六五)年)には従二位に落とされ、次いで永禄十一には解官されている)。]
おほくのうなばらを過(すぎ)て、すでに府内(ふない)近くならんとせし時、とまりをおなじうせる船あり。大臣のめされたる御船(みふね)ちかう見へける。さすがに人乘(のる)とも見へず、何の音もなし。
[やぶちゃん注:「府内」大分県大分市中心部の明治初期までの旧称。府内は豊後国の国府であり、江戸時代には府内藩の藩庁府内城が置かれた城下町であった。
「さすがに」そうは言っても。]
かくしてあくる日も、ならべ、こぐ。
その夜は、風、あしうして、府内まで入(いり)がたければ、荻原(をぎはら)といふ所に御船をかけける。かの船もまた、同じく、磯ちかく、よす。
[やぶちゃん注:「荻原」不詳。これは「荻原」の誤りで、現在の大分県大分市萩原(グーグル・マップ・データ。以下同じ)ではないかと思われる。現在は内陸であるが、近代の古い地図を見ると、海側は二つの河川の河口で島もあり、複数の新しいものと思われる岸壁で囲われた田になっていて(スタンフォード大学の明治三六(一九〇三)年測図・昭和一七(一九四二)年修正・陸地測量部參謀本部作成の「大分」)、江戸時代以前は、河口の砂州が出来る以前、もっと海が大きく貫入していた可能性があり、大型の船が繋留出来る場所があったとしてもおかしくない気がするのである。]
「あやし。」
と御覽じて、はし船(ぶね)おろさせ、人してみせ給ふに、内には、のれる人もなく、船のともに、多く、血のつきたるあと、のみ、みへて、外には、たゞ絲(いと)、一すじ、二、三尺ばかりもあるべきに、文(ふみ)やうのもの、つけてありける。
とりよせて見給へば、同國鶴崎といふ所より、中津といふまで、船、やとうて、荷物つみたる「おくり」といふものなり。
殿、あやしませ給ひ、すなはち、守護に、
「かく。」
と御物語あれば、かの所にせんぎあり、船頭を尋ね出し、そのやう、たゞさるゝに、あき人をば、ころして、荷物をとり、人のうたがはん事をおそれ、舟をば、すてけるなり。まがふすじなければ、船頭はおきてになりたるとなん。
冤罪のくちおしさを大臣に訴へけん、靈の程こそ、おそろしけれ。
[やぶちゃん注:「はし船」艀舟(はしけぶね)。艀。本船に対する端船(はせん)で、大型船に積み込んでおき、人馬・貨物の積み下ろしや陸岸との連絡用に用いる小型の舟。
「船のとも」「船の艫」。船の舵取りををする後部。船尾。
「絲、一すじ」(ママ)「二、三尺ばかりもあるべきに、文(ふみ)やうのもの、つけてありける」「文」は手紙。ただ、ちょっと説明が不十分で大事なそのシチュエーションの映像を想起し難い。どこにその糸が結び付けられてあり、その先に結ばれた手紙(書置き)は、船体のどこにあったのかが、全く、判らぬ。これは作者の大きな瑕疵と言える。
「鶴崎」大分県大分市大字鶴崎(つるさき)。萩原の東四キロほどの位置。
「中津」大分県中津市。北の国東(くにさき)半島を回り込んだ周防灘の南岸。
「やとう」ママ。「雇ふ」。
「おくり」「送り」で「送り狀」のことと採る。
「守護」鶴崎は豊後、中津は豊前であるが、孰れも当時の守護は大友宗麟であるから、問題ない。
「せんぎ」「詮議」。
「そのやうたゞさるゝに」「その樣、糺(ただ)さるるに」。
「あき人」「商人」で「あきんど」と読んでおきたい。
「まがふすじ」ママ。「違(まが)ふ筋(すぢ)」。
「おきてになりたる」「掟」処罰された。
「冤罪のくちおしさを大臣に訴へけん、靈の程こそ、おそろしけれ」と、ここが怪談のキモなればこそ、やはり、糸に繋がった送り状の描写の致命的な不全が甚だ痛い。]