萬世百物語卷之四 十四、穗井田が仙術
十四、穗井田が仙術
[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版の挿絵をトリミング合成し、上下左右の罫を消去し、出来る限り、清拭してみた。穂井田の父が壁書する様子が描かれ、起句の頭「夢裡人间」までが記されてある。背後に少年の孫。]
あだし夢、文祿のころ、備中の國猿懸(さるかけ)に、穗井田(ほゐだ)何がしといふありけり。もとは尼子(あまこ)が家にかたうどして、代々此所の國人(くにうど)なりしが、尼子も、いつしか毛利がために、ほろぼされ、殘黨もちりぢりになるゆへ、先祖、民間に下(くだ)れど、本國なれば此所に住しぬ。鄕人(ごうじん)ども、たつとび、主人のごとく、うやまふゆへ、田畝(でんぽ)もおほく、家ゆたかなる暇(いとま)にまかせ、つねは、たゞ寺院に出入(でいり)、學徒にひとしく、雪をあつむる窻(まど)にならひて、殘螢(ざんけい)の囊(ふくろ)をかゝげ、文章の筋(すぢ)をこのみける。
[やぶちゃん注:「文祿」一五九三年から一五九六年。豊臣政権下。
「備中の國猿懸」備中猿懸城のあった地(グーグル・マップ・データ)。猿掛城とも書き、現在の岡山県倉敷市真備町(まびちょう)妹(せ)と小田郡矢掛町(やがけちょう)横谷(よこだに)の境に存在した山城である。ウィキの「猿掛城」によれば(太字下線は私が附した)、『現在の倉敷市から矢掛町にまたがる標高』二四三『メートルの猿掛山に存在した連郭式の山城で』、『その歴史は平安時代末期に遡るといわれ、武蔵七党の一角を占める児玉党の旗頭であった庄家長』(しょうのいえなが)『が備中国に領地を与えられ、ここに城と居館を築いたことに始まると伝えられている。以後、戦国時代に至るまで庄氏の居城となった』。『南北朝時代初期には南朝の北畠親房に属し、足利尊氏配下の高師直と戦火を交えた』。『戦国時代中期の』天文二(一五三三)年)当時の城主であった庄為資は松山城の上野頼氏を攻め滅ぼし』、『備中半国を配下に収め、為資は松山城に移った。猿掛城には一族の穂田(穂井田)実近が入った』。天文二二(一五五三)年、『尼子氏と結んでいた庄氏に対し、鶴首』(かくしゅ)『城主で備中に覇を争っていた三村家親は毛利氏と結び』、『猿掛城を攻略した。為資と家親は家親の長男の元祐』(もとすけ)『を穂田実近の養子とし』、『猿掛城主に据えることで和睦した』。永禄一一(一五六八)年、為資の子『庄高資は備中に侵攻した宇喜多直家に呼応したため、宇喜多氏が一時』、『猿掛城を落とした。これに危惧を感じた毛利元就は四男の元清を遣わし』、『猿掛城を奪取する。この年、毛利氏の援軍により』、『家親の子の元親が高資を追い落として松山城主となり』、『備中に覇を唱えた』。天正二(一五七四)年、『元親が織田信長と結んだため、毛利氏と三村氏が争う備中兵乱が起こり』、『猿掛城は三村氏攻略の前線基地となった』。天正三(一五七五)年五月、松山城は陥落、『備中兵乱は終結、元親は自刃した。この時の戦功と元清の愁訴によって、元清は猿掛城を預かる城番となり、猿掛城の所在する備中国小田郡を中心に』五『千貫の知行地を与えられた。元清はそれまでの居城であった安芸桜尾城を妻の御北尾と九弟の才菊丸(後の小早川秀包)に任せて猿掛城に移り、毛利氏の東部方面への侵攻を抑える重鎮となった。また、この際に元清は在城した猿掛城のあった穂田郷という在名から穂田(穂井田)を名字とした』。天正一〇(一五八二)年には『羽柴秀吉による高松城水攻めの際、毛利輝元の本陣となった』。翌年、『元清は猿掛城の西部にある茶臼山に中山城を築いて移』り、『猿掛城には重臣の宍戸隆家を城代として置いた』。慶長五(一六〇〇)年、毛利輝元が「関ヶ原の戦い」に於いて『西軍総大将として敗将となったため』、防・長二国に『大幅に減封され』、『城の周辺は幕府領となり、猿掛城は廃城となった』とある。されば、この主人公はもともと猿懸(掛)城のあった穂田郷を生地・本拠地とした前者荘氏に直系の流れを汲む者と読まねばなるまい。されば、そのルーツは庄氏ということになる。その辺りは引用に疲れたによって、ウィキの「庄氏」を読まれたい。或いは本話のモデルとなった実在の人物が特定出来るのかも知れぬが、私には判らぬ。ただ、上記ウィキには終わりの方に、『庄勝資は』『宇喜多氏との一連の対峙において落命したようで、庄氏は歴史の表舞台から去ったのである。庄氏は、武士の興隆期に分国の守護代として、また管領家の内衆(重臣)として威を示した。しかし細川氏の衰退後は、これに代わる権力の裏付けと言う点で確立が遅れ、同じ国衆である三村氏に権勢を奪われている。庄氏は、戦国時代の備中に守護家を凌ぐ威を張りながら、最終的には守護家と同様に戦国大名へとは変貌できなかったのである。この点では、隣国浦上氏にも類似した行動様式(守護赤松氏と並立し、国衆を束ねる立場を取る)があり、やはり長年にわたって培われた「家格」とでも称する感覚(権力の支持者であったが故に、完全にはそれを否定できない)が作用した可能性もある』とある。その線上にこの主人公は陽炎のように消えてゆくのかも知れない、などと思ったが――とんだ、見当違いであった――最後の注を読まれたい。
「尼子」宇多源氏。佐々木氏の一族。出雲・隠岐の守護京極高秀の子高久が近江国犬上郡尼子荘を領して尼子氏を称した。その子持久が出雲守護代となり、代々、月山 (がっさん) 城主となり、持久の子清定、さらに経久(つねひさ)の時、勢力が伸張し、山陰を支配した。永禄九(一五六六)年、義久が毛利氏に敗れた後、支族であった勝久が織田信長と結んで再興策を企て、天正五(一五七七)年、秀吉の播磨上月城攻略後、ここに拠ったが、翌年、毛利軍の攻囲を受けて落城、自殺して尼子一族は滅亡した。戦国史のファンにはたまらなく面白いところであろうが、冥い私には専ら、上田秋成の「雨月物語」中の名篇「菊花の約(ちぎり)」を想起するばかりである。
「かたうど」「方人」。味方に組すること。]
うちつゞいて、みだるゝ世の中、いつまたおさまるべきともなく、おや、うたるれば、子、また、うらみ、きのふまで二心(ふたごころ)なき味方とみるも、けふはいつしか、ほねをきざむ怨敵となる。かしこにて功をあらはし、鬼神(おにがみ)ときゝし士(さぶらひ)も、こゝにては終(つひ)にかばねを郊原(こうげん)の雨露(うろ)にさらす。すべて、名をこのみ、利をあらそふ人間の慾心とや、いはん。武士の道は、おのが心の修羅よりおこるまどひなれば、よしや、かくてもあらめと、民とても、また、安からず。戰場にかりたてられ、或(あるい)は、かり田・亂妨(らんばう)・とりものとて、一日(いちじつ)もやすき隙(ひま)なく、いとおしき妻子にわかるゝのみか、一身だに、やすく立ちがたき世のさま、すべてあさましき人界とや、さとりけん、同國長田山の深谷にこもりて、仙の跡、したひけり。
[やぶちゃん注:「鬼神(おにがみ)」「江戸文庫」版のルビを採用した。
「かくてもあらめと、」私はここは「かくてもあらめど、」と、あるべきところではないかと疑っている。但し、「江戸文庫」も『と』ではある。
「かり田」実った稲を勝手に刈り取って奪取すること。
「亂妨」乱暴狼藉。
「とりもの」物品や家畜及び婦女の略奪。
「長田山」岡山県真庭(まにわ)市樫東(かしひがし)にある。五八三・九メートルの長田山(ながたやま)か(国土地理院図)。]
此長田山といへるは、「千載集」に爲政の卿、
千とせのみおなじ琴をぞしらぶなる
長田の山のみねのまつかぜ
と、よまれたる所なりけるが、世のうきよりは、住みよかるべき事ざまとや、おもひけん、その後(のち)、子どもにも、かくと、しらせず、行衞なしに、うせにけり。
[やぶちゃん注:「千載和歌集」の「巻第十 賀歌」の一首であるが、この和歌の引用には誤りがある。
*
後一条院の御時、長和五年大嘗會
主基方(すきかた)御屛風に、備
中國長田山の麓に琴彈き遊びした
る所をよめる
善滋爲政
千世(ちよ)とのみ同じことをぞしらぶなる
長田(ながた)の山の峰の松風
*
が正しい。長和五(一〇一六)年年十一月十五日の大嘗会(だいじょうえ:即位後最初に行う新嘗祭)。「主基方」は大嘗会に於いて「悠紀國(ゆきのくに)」「斎 (ゆ) 酒 (き) 」で「神聖な酒」の意。それを奉る地を指し、京の東方の国と定められていた)に次いで新穀を奉る京よりも西方の国に設けられた斎場のことで、平安時代以降は備中と丹波が交替に務めた。上句は「『千年までも』(チョンチョンというオノマトペイアか)と同じ事を何度も琴で演奏するのが聴こえる」で「こと」が「事」と「琴」に掛けられている。作者「善滋爲政」これで「かものためまさ」と読むようである。岩波新古典文学大系の人名索引によれば、生年未詳で、一条院(寛弘八(一〇一一)年没)・後一条院(長元九(一〇三六)年没)期の人物とするから、藤原道長の全盛期とほぼ一致する。姓は「慶滋」とも。能登守保明の子で、小野宮実資の家司にして従四位上に至り、漢詩をよくし、「本朝文粋」や「本朝麗藻」などにその作が見えるとあるのみである。ネットでは文章博士で賀茂氏とする。]
終に存亡をもしらず、孝行の一子、父の名殘をおしみて、形を畫像にかゝせ、まことの親につかうまつるごとく、朝夕に保養(ほやう)する事、すでに三十年にあまりける。
[やぶちゃん注:「おしみて」ママ。
「保養」「江戸文庫」版では『ほうよう』(ママ)とルビする。孝養を続けるの意。]
ある日、一子がるすに、何がし、たちまち歸り來て、客殿の上に座し、もとありし家人の名をよべど、それも今はなきものとなりて、しれるものなし。孫なる十二、三なるが、
「たそ。」
とて、出づるに、硯(すずり)筆(ふで)乞(こふ)て、かたはらの壁に書(かき)とゞめ、筆をすて、また、いづ地(ち)ともなくうせぬ。
子なる男、歸りてみれば、
夢裡人間歲月多
歸來往時已消磨
惟有門前鑑池水
春風不改舊時波
といふ詩をぞ書きたりける。
「そのかたち、いかなりしぞ。」
と、とふに、
「おさな心に見覺えて、不思議にも影堂(えいだう)の人によく似たり。」
と、いふにぞ、
「扨は。仙道などいふ事をも學ばるゝや。」
と、いまさら、悲歎の淚をながしける。
今そのすゑ、穗井田八郞左衞門とて、近江の志賀に居をしめ、畫像も、なを、家につたふ、と、きく。
[やぶちゃん注:漢詩は、底本では二段組で返り点が打たれてあるが、ずれて見苦しくなるので除去し、一段で示した。「江戸文庫」版(完全ひらがなルビ添え)を参考に書き下してみる。
*
夢裡(むり)の人間(じんかん) 歲月 多し
歸り來たれば 往時(わうじ) 已に消磨(しやうま)す
惟(た)だ 門前 鑑池(かんち)の水(みづ)有りて
春風 改めず 舊時の波(なみ)
*
「人間」は「江戸文庫」版は『にんげん』であるが、採らない。「鑑池」は澄んだ鏡のような池であろう。但し、「前鑑」には「鑑」を「かんがみる」と訓じて、「先人の残した手本」或いは「前人の経験したことを想起して自らを戒めること」の意があり、それを効かせてあるように思われる。というより、この漢詩は彼の作ではなく、しかもこの後半のシチュエーション全体が、中国の隠者の伝承の中のシークエンスそのままなのである。例えば、知られたものでは、北宋の蘇軾の「東坡志林」の「巻二」の「異事上」の「黃僕射」がそれである。
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虔州布衣賴仙芝言、連州有黃損僕射者、五代時人。僕射蓋仕南漢官也、未老退歸、一日忽遁去、莫知其存亡。子孫畫像事之、凡三十二年。復歸、坐阼階上、呼家人。其子適不在、孫出見之。索筆書壁云、
一別人間歲月多
歸來人事已消磨
惟有門前鑑池水
春風不改舊時波
投筆竟去、不可留。子歸、問其狀貌、孫云、
「甚似影堂老人也。」
連人相傳如此。其後頗有祿仕者。
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インスパイアどころか、そのまんまで、見つけた時は、ちょっと鼻白んだ。
「影堂」先の子が父の画像を描かさせ、それを祀った御影堂の意。
「仙道などいふ事をも學ばるゝや」子が、自分が若き日の記憶に基づいて描かせた画像と変わらない(年をとっていない)ことから、かく述懐したものである。
「穗井田八郞左衞門」不詳。]