金玉ねぢぶくさ卷之一 讚州雨鐘の事 / 金玉ねぢぶくさ卷之一~了
讚州雨鐘(あまがね)の事
[やぶちゃん注:本篇は十三年前の二〇〇七年二月二十一日に、サイトで「雨鐘(あまがね)の事」として注と現代語訳を既に公開している。但し、そちらは底本をここで一九九四年校合本としている国書刊行会刊「叢書江戸文庫34 浮世草子怪談集」を用いており、漢字は新字体である。その冒頭注で記している如く、これを電子化訳注した理由は、この最後のパートの奇体なエピソードが私の極めて偏愛するものであり、後の寛保二(一七四二)年に板行される三坂春編(はるよし)の「老媼茶話」の「入定の執念」へ、そして安永五(一七七六)年の上田秋成「雨月物語」の「青頭巾」の、はたまた、同人の「春雨物語」の「二世の縁」(孰れも私の電子化訳注サイト版)へと連綿と、インスパイアされてゆくという奇譚系譜の流れがすこぶる明確に見えてくる優れた怪談だからである。また、その時は、私が高校教師時代に「雨月物語」の「青頭巾」を授業したように、高校生が読むことを考えて、漢字は「江戸文庫」版の新字を採用したのであったが、今回は原本を底本として、全くの零から始め、注も完全に一から施してある。また、ここでは挿絵が分離しており、話柄の展開に合わせて、配置を途中にもって行った。画像自体も今回、また新たにスキャンし、トリミングした。]
讚州高松の城下より五里さつて、西南の方に室崎(むろさき)といふ所あり。後(うしろ)は山に便(たよつ)て、峯(みね)、峙(そばだ)ち、まへは海に續(つゞい)て、浦、ちかし。晝は樵歌(しやうか)・牧笛(ぼくてき)の聲、風に和(くわ)してきこへ、夜は漁歌(ぎよ〔か〕)の聲、岸うつ浪の音に夢をさまして、誠(まこと)におもしろき風景、矢手(め〔て〕)に金平(こんぴら)、ゆんでに矢嶋だんの浦(うら)、やくりがだけ、相引の鹽(しほ)、西海の多景(〔た〕けい)を、居ながら、兩眼(がん)の内(うち)に盡(つく)せり。
[やぶちゃん注:「讚州」。讃岐国(さぬきのくに)。現在の香川県。
「室崎」現在、このような地名は香川県内に見出せない。但し、高松城下から「西南」方向にあり、「矢手」(右手:古くは馬手(めて:馬上で手綱を持つ手)、左手を弓手(ゆんで:弓本体を執る手)と呼んだが、右手は矢をつがえる手であることから、「矢手」とも表記した)に「金平」、則ち、琴平山(金刀比羅宮)を配すとなると、一つの候補地としては香川県三豊市詫間町箱の室浜地区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)が挙げられるが、ここは高松からは直線距離でも凡そ四十三キロメートルも離れており、琴平以外の後の叙述と全く合わないから違う。室浜は庄内半島の先端部で備後灘に面しており、現在も清閑景勝の地ではあるものの、後に出る屋島・檀ノ浦・八栗ヶ岳・相引川等、室浜から約五十キロメートルも離れた屋島周辺を眺めることは地形図から見ても有り得ないからである。さすれば、そもそもが立ち戻って「西南」を「東北」の誤りととると、「金平」を除けば、大方の合点が行くのである。その場合、「室崎」は「牟礼」を候補とする。現在の香川県高松市牟礼町(むれちょう)牟礼及びその周辺域である。ここは左手が八島となって完全に一致する。「金平」はそもそもが何の対象を指して言っているか判らぬ。普通なら、琴平山(金刀比羅宮)であるが、それでは方向も何も合致しない。或いはそうではない対象物を指している可能性があり、又は「矢手」が「先手」の誤記であって、ずっと左奥の彼方(ここからは「西南」になる)に琴平山が見えて、手前の「ゆんでに」と続くなら、矛盾が氷解するのである。
「後は山に便て、峯、峙ち」この牟礼の半島部は以下に出る「やくりがだけ」(八栗山。五剣山とも呼ぶ。山上に四国八十八ヵ所第八十五番札所八栗寺がある。標高三百六十六メートル)やその南東に源氏ヶ峰(標高二百十七メートル)、半島中部から北部にも女体山・竜王山・遠見山・大仙山と続く。
「矢嶋だんの浦」八島壇ノ浦。これは無論、平家滅亡の赤間関の「壇ノ浦」ではなく、現在の香川県高松市屋島の東岸一帯の地名(かなりの部分が干拓され(後述)陸地化している)として名を残している場所を指す(言わずもがな、「平家物語」で那須与一が扇の的を射るエピソードのロケーションがここである。「那須与一扇の的」や「義経弓流し」(前のリンクの下方を見よ)の名場面のそれも完全に陸地である)。「壇ノ浦」ではなく「檀ノ浦」とするの正しいとする記載を見かけるが、国土地理院の地図上に見出せる地名も「壇ノ浦」であるから従わない。
「相引の鹽」相引川の「潮」の干満のことを指していよう。相引川は屋島と本土を隔てる全長約五キロメートルの東西に流れる人工河川の名。両端は瀬戸内海に開く(現在、東側が上記壇ノ浦と繋がっている。というより、往時の「壇ノ浦」は相引川の東西部川岸として陸地になってしまっているのである)。北の屋島と本土の間は本来は海であったが、江戸時代以降の埋立によって、八島は完全に陸続きとなって、旧海峡部分は川と呼称されるまでに狭隘化してしまったのであった。原文の「鹽」は「汐」=「潮の干満」の意であって、川の両端が海に繋がっている形となっているため、干潮の際には川の水が東西両方向に向かって相互引いていくという変わった現象が見られ、これが「相ひ引き合う」で河の名の由来となったとする説の他、「屋島の戦い」の際、この海域で源平双方が互いに譲らず「相ひ引いた」、引き分けたことによるという説もある(ここは概ねウィキペディアの「相引川」の記載を参考にした)。]
さんぬる天和のころ、高松の御家中に、一國名取の男色、植木梅之介とて、いまだ二七の花の盛(さかり)、兄分といひかはせし人、聊(いさゝか)過(あやまち)の事あつて、御仕置に親疎(しんそ)なければ、ぜひなく、切腹おふせ付られ、梅の助へ書置一通殘し、則〔すなはち〕、御ぼだい寺において、いさぎよく、武士の本望(〔ほん〕もう)、成〔なし〕死をとげ侍りぬ。
梅の介、其節は病気にて此事をしらず、少し快氣のおりふし、久しく對面せねば、床(ゆか)しく思ひ、
「長々の病中、終(つい)に一度も、とひたまはぬ。」
なんど、恨(うらみ)て、文〔ふみ〕こまごまと、したゝめ、
「是をとゞけよ。」
と、下人に渡しければ、親達、
「かゝる病中に右のおもむきをしらせなば、病気のうへに愁歎をかさね、いよいよ、病ひ、さかんになるべし。此返事、いかゞ。」
と、あんじ煩(わづら)ひ、やうやう、一つの謀(はかりごと)をもうけて、
「さんぬる比〔ころ〕、上より御使(し)しや役(やく)おふせ付られ、既(すで)に江戶へ發足(ほつそく)の砌(みぎり)、御身へ、いとまごひの爲、これへも來られ候へども、その節(せつ)は、御身、病氣、十死一生の折節なれば、對面させ申事、かなひ難く、我々、曖(あいさつ)のみにて、歸したる。」
との物語。
梅の介、殘ねんなる顏つき、
「さては。それなれば、長々、音づれなきも理〔ことわ〕り。しかし、『病ひ本ぶくのおりふし、見よ』とて、一筆の文〔ふみ〕にても殘しおかれぬ所、曲(きよく)もなし。」
とて、神ならぬ身の、且(かつ)は恨(うら)み、または戀しく、江戶にての隙入〔ひまいり〕、道中上下の日限〔にちげん〕、ゆびを、おつて、かぞへ、
「もはや、御歸りも、程近し。」
と、男色の情(なさけ)の道に、露(つゆ)と消(きへ)し人を、まつも、はかなし。
[やぶちゃん注:「天和のころ」一六八一年~一六八四年。第五代将軍徳川綱吉の初期の治世(征夷大将軍宣下は延宝八(一六八〇)年で、この時期は「天和の治」と呼ばれた綱吉の善政時代であった)。この当時の讃岐高松藩は第二代藩主松平頼常(水戸光圀長男であったが、妾腹(女中)の子であったため、松平家養子となった。父の光圀は兄の松平頼重(讃岐高松藩初代藩主)を差し置いて自身が水戸藩主となったことを遺憾としていたことから、頼重の次男であった綱條(つなえだ)を光圀の養嫡子として藩主を継がせている)の治世であった。因みに、本書は元禄一七(一七〇四)年板行であるから、たかだか二十年ほど前となり、この最後の怪奇譚は、所謂、つい最近起こった事実として信じられている「噂話」、まずは大坂・京都に於ける「アーバン・レジェンド」として流布したであろうことが判るのである。それは、前に注した通り、これ以降に、繰り返し、繰り返し、この奇譚が別な作家によってインスパイアしていることからも証明出来るのである。
「一國名取の男色」讃岐国中に知らぬものとてない若衆道の美男。ここで言っておかなくてはならないが、当時の習慣ではこうした若衆道に入るのは、武士世界では至って普通のことであり、世間的に正常なものと認識されていたことである。見染めた年上の武士が、若侍の父母に義兄弟の契りを望み、誓約書を交わして、少年の父母から公認の許諾を受けるという礼式もごく普通に行われたのである。そうした誓約書の原本が今も残っていたりする。
「植木梅之介」不詳。
「二七」数え十四。
「親疎なければ」藩士として藩主から親しく重用されていたとか、疎遠で存在も知られていなかったとかによる、斟酌は全く汲まれることはないので。
「梅の助」ママ。「すけ」は通用し、自分でも書き変えた事例は幾らもある。
「おふせ」ママ。「仰(おほ)せ」。以下も同じ。
「本望(〔ほん〕もう)」ルビはママ。歴史的仮名遣は「ほんまう」が正しい。
「おりふし」ママ。「折節(をりふし)」。以下も同じ。
「終(つい)に」ルビはママ。「つひに」が正しい。以下同じ。
「曲もなし」愛想もない、つれないことだ。
「神ならぬ身の」神のようには理非を弁え、我慢することの出来ぬ身なれば。
「隙入」課せられた藩の使者としての任務の推定所要時間。
「おつて」「折(を)つて」。ママ。]
[やぶちゃん注:半幅一枚の挿絵。国書刊行会「江戸文庫」版よりトリミングした。後の一枚も同じ。]
其後、病氣、次第に本復(〔ほん〕ぶく)して、
「けふは溫(あたゝか)なれば。」
とて、さかやきをそり、身を淸(きよ)め、食ごなしの爲、杖をさゝへ、病中、たびたび見まひに預りし少年中間(しやう〔ねんなかま〕)への礼ついでながら、彼〔かの〕人の屋しき、なつかしく、まはりて、其門ぜんを通れば、ふしぎや、屋舖がへありしと見へて、門に、我〔わが〕友達の宿ふだ。内をのぞけば、おりふし、あるじ立出、梅の介を見付、
「さても永々の大病、御本ぶく、けふは初立(うい〔だち〕)と見たてまつりぬ。まづ、少し、是〔これ〕へ、御入〔おいり〕あれ。」
とて、ぜひに、ざしきへともなひ、四方山〔よもやま〕の物がたり。
見れば、書院(しよいん)のかゝり、庭の木立(こ〔だち〕)、ありしにかはらぬ躰(てい)、梅の助、何とも、ふしんはれず、
「さても。是はきれいなる所へ御屋舖がへ。いつより、是へ御うつり候や。」
と問(とへ)ば、あるじの返答(へんたふ)に、
「まへの屋しき主、切ぷくの以後、早速、此屋舖拜領いたし候へども、忌中五十日、遠慮、先月より、これへうつり、長屋のはしばしまで、いづれも普請ねん入れおかれ、われわれに過〔すぎ〕たる大屋しきなれども、當分、しゆふくの世話もなく、あんど致したる。」
との物がたり。
[やぶちゃん注:「さかやき」「月代(さかやき)」。男性が前額から頭の中央にかけて髪を丸く剃り落とした部分及びそうした髪形を指す。本来は、武士が戦場で兜(かぶと)を被った際、髪があると、熱気が籠って苦痛であることから起こった風習で、早くは平安時代からあったとされる。当初は戦さが終わると、髪を伸ばしたが、やがて常時、月代を剃るようになり、江戸の太平の世にも行われ、一般町人にも普通に広がった。
「我友達」言うまでもないが、これは先の「少年中間」(「中間」は「なかま」で「仲間」の意で、武家下人の中間(ちゅうげん)ではない)とは別人。
「宿ふだ」「宿札」。表札。
「初立」病後の初めての外出。
「かゝり」構え。
「しゆふく」「修復」。「修」は「しう」が歴史的仮名遣であるが、「しゆ」と読むことがかなり多い。
「あんど」「安堵」。]
梅の介、
「はつ」
と、おどろき、くはしく、しさいを問(とは)まほしけれど、爰にてとふも、はしたなき事におもひ、心をおさめ、あるじへ、いとまをこひ、彼〔かの〕屋しきを立出〔たちいで〕、道すがら、ともの下部(〔しも〕べ)をせめて、くはしくやうすをとへば、ありし次第を語るにぞ、梅の助、いとゞ胸ふさがり、覚悟を極(きはめ)、我屋しきへ歸りて、
「扨も、藤介殿事、不慮(〔ふ〕りよ)成〔なる〕死を致され、かねて、『死〔しな〕ば、一處(〔いつ〕しよ)』と申〔まうし〕かはせし中〔なか〕を、我等、病氣ゆへ、其節、たいめんをだに、とげず。さぞや、さいごの砌(みぎり)、われら、戀しく、おぼしつらん。しかれども、しらざる事は、ぜひもなし。延引(えんいん)ながら、今、かく聞付(きゝ〔つけ〕)て、独(ひとり)跡にながらふる時は、衆道の一分〔いちぶん〕立(たち)難し。不孝のだんは御めんを蒙(かうふ)り、我も彼〔かの〕靈前(れいぜん)において自害(じがい)をとげ、同じ苔(こけ)の底に形をうづんで、生(いき)ては、人に恥(はづ)る事なく、死しては、彼人へ男色のいき路(ぢ)を立〔たて〕、二世〔にせ〕のちぎりを結(むす)びたき。」
よし。
[やぶちゃん注:「おさめ」ママ。「納(をさ)め」。
「ともの下部」「供の下部」。お供の僕(しもべ)。彼は当然、隠されてあった事実を知っていたのは言うまでもな、父母から隠蔽を指示されていたのである。
「藤介殿」ここで相手の名が初めて読者に明かされる。人物は不詳。
「中〔なか〕」「仲」。
「ゆへ」ママ。「ゆゑ」が正しい。
「たいめん」「對面」。
「延引ながら」延び延びとなって遅れてしまったけれども。
「一分〔いちぶん〕」一身の面目。一人前の人間としての名誉。体面。
「いき路」「意氣地」(自分自身や他者に対する面目(めんぼく)から自分の意志をあくまで通そうとする気構え)を、若衆道に生きた者のせめてもの魂の「生きる」唯一の「路(みち)」に掛けたもの。
「二世〔にせ〕のちぎり」来世までもともに愛し合う者同士として連れ添おうという約束。]
父母、おどろき、いろいろなだめ、
「愁歎のあまり、さ程におもふは理(ことわ)りなれども、死して何の益(ゑき)かあらん、もはや、日數(ひかず)も程經(へ)ぬれば、追付(おいつく)事も、かないがたし。親のなげきを義理にかへて、かならず、おもひとゞまれ。」
と。
[やぶちゃん注:「益(ゑき)」ルビはママ。「えき」でよい。
「追付(おいつく)」ルビはママ。「おひつく」が正しい。
「かないがたし」ママ。「叶ひ難し」。]
達(たつ)て、敎訓、もだし難(がた)く、竊(ひそか)に屋舖(しき)をぬけ出〔いで〕、彼(かの)ぼだい寺に行〔ゆき〕、一堆(いつたい)の塚(つか)のまへにて、はかまの上(かみ)、おしくつろげ、既に自害に及びし所に、をりふし、和尚、物かげより此躰(てい)をほのかに見付、刄(かたな)をうばひ、やうすを、だんだん、せんさくのうへ、
「尤〔もつとも〕、一通りは義理にて、それは血気(けつき)の勇(ゆう)のみなり。仁義の道には、かなひ難し。主(しう)の追(をい)ばら切〔きり〕、親のかたき、兄分の助太刀を討(うつ)は、武士(ぶし)たる人のつねの道(みち)なり。たゞ今、これにて自害したまふは、忠にもあらず、孝にもあらず、心中の誠〔まこと〕もたゝず、たゞ親へ不孝、君(きみ)へ不忠となるのみにて、無益(むやく)の事に命をすつれば、おもふ人の為(ため)にもならず。誠〔まつこと〕其人の事を大切(たいせつ)に思ひ給はゞ、命をながらへ、修行の功をつんで、跡(あと)をとひ、ついぜんをなしたまはざる。」
と、義を說(とき)、道(みち)を立、理非(りひ)分明(ぶんめう)に敎化(けうげ)ありしかば、梅の介、たちまち悟道發明(ごだうはつめい)して、
「さてさて、あり難き御しめし、我身、無學麁昧(むがくそまい)の小人(せうじん)、ぐちの闇(やみ)に迷(まよ)ひ、仁義にあらぬ死を、とれり。此上は師弟のちぎりを結び、長く敎へをたれたまへ。」
と、父母、一門にもいとまごひして、直(すぐ)に此寺にとぢこもり、螢雪讚仰(けいせつさんがう)の功をつんで、翌年、三五の月の形(かたち)を、機散(きさん)の春の落花とともに、終に翠柳(すいりう)の髮(かみ)を剃落(そりおと)して、おしきかなや、紅顏の男色、すみ染の袖にちり果(はて)ぬ。
[やぶちゃん注:「達(たつ)て」副詞。「たって」は「達て・强つて」の字を当てるが、これは当て字で、「理を斷つて」の意が元である。どうしてもあることを実現しようと強く要求したり、切実に希望したりするさまを謂い、「無理に・強いて・どうあっても」の意。但し、使用法がやや変則的で、これは「敎訓」を飛び越えて、離れた「もだし難く」に掛かって、以下の「竊に屋舖をぬけ出」という仕儀となるのである。
「敎訓」「父母の諭し」で、それを突っぱねるわけには行かないので、その場では行動に移らなかったものの、で以下の「もだし難く、竊に屋舖をぬけ出」という隠れた実行行為にジョイントさせるという、やや強引な表現である。
「もだし難く」とても自身の思いをそのままにはしておけぬ故に。
「彼(かの)ぼだい寺」かの藤介の菩提寺。
「一堆(いつたい)の塚(つか)」土饅頭。藤助の墓である。
「はかまの上(かみ)、おしくつろげ」切腹の礼式。
「せんさく」「穿鑿」。細かに問い質すこと。
「尤〔もつとも〕、一通りは義理にて」「なるほどな、まあ、一通りは義理が通った話のようには見えるが、しかし、」という逆接表現である。
「主(しう)」ルビはママ。普通は「しゆう」であるが、しかし「主人」の読みの如く「しゆ」もあり、ここはそれ。主君・主人。
「追(をい)ばら」ルビはママ。「追腹(おひばら)」。主君の死後に臣下の者がその後を追って切腹すること。殉死。「二君に仕えず」とする武家社会の基本道徳で、当初は戦死の場合に行われることが殆んどであったが、後には主人の病死でも行われ、江戸初期には全盛期を見た。幕府は寛文三(一六六三)年に殉死禁止令を出したが、それでも後を絶たなかったことから、寛文八(一六六八)年に起こった宇都宮藩での追腹一件(おいばらいっけん:藩主奥平忠昌が江戸汐留の藩邸で病死したところ、忠昌の世子であった長男奥平昌能(まさよし)が忠昌の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対して「いまだ生きているのか」と詰問し、杉浦は直ちに切腹した事件。幕府は奥平家に対して二万石減封の上、出羽山形藩九万石への転封に処し、殉死した杉浦の相続者を斬罪に処するなど、非常に厳しい処分を行った。昌能が家禄だけの処分となったのは、彼が徳川家康の長女亀姫の血を引いていたからである)で関係者を連座させて厳刑を科して以来、激減した。
「跡をとひ」跡を弔い。
「ついぜん」「追善」。
「分明(ぶんめう)」ルビはママ。「ぶんみやう」が正しい。
「悟道發明」仏道に入って悟りを開くこと。
「麁昧」性質(たち)が粗雑で、智に冥(くら)いこと。
「ぐち」「愚痴」。仏語。愚かなこと。無知によって惑わされ、総ての事象に関して、その真理を見極めることが出来ない愚かな心の状態を指す。
「螢雪讚仰(けいせつさんがう)」苦学に励み、師の徳を仰ぎ尊んで修行に励むこと。「螢雪」は「蛍の光」の歌や「蛍窓」でも知られるが、晋の車胤(しゃいん)が蛍を集めてその光で書物を読み、孫康が雪の明かりで書物を読んだという「晋書」の「車胤傳」の故事に基づき、「讚仰」(仮名遣「さんごう」)は「さんぎやう(さんぎょう)」とも読み、出典は「論語」の「子罕(しかん)」篇の「仰之彌高、鑽之彌堅」(之れを仰げば彌(いよいよ)高く、之れを鑽(き)れば堅し:師の徳は見上げるほどにますます高くあり、その御意志は剪(き)りつけようとすれば、ますます堅いものとなる)に基づく。
「三五」数え十五歳。
「月の形」年齢のそれを旧暦の欠けることのない大円の望月に擬え、欠けるところとてない円満なる悟達を見事に果たしたことを指す。
「機散(きさん)」最も正しく散るべき時機を弁えること。ここも同じく出家遁世の成就の時機を指す。
「すみ染の袖にちり果(はて)ぬ」くどいが、誤解してはいけない。ここは亡くなったのでは、当然ない。穢れた世を捨てた真の仏道に生きる遁世者となったことを指す。]
然〔さる〕に、此寺も大樹(たいじゆ)のぼだい寺なれば、家中よりのさんけい、しげく、
「いにしへの友をさくべき隱室(いんじつ)にあらず。」
と、彼(かの)室崎(むろさき)に來〔きた〕り、一宇を結んで、晝は遠浦(ゑんほ)の歸帆に目を悅ばしめ、夜(よる)は松ふく風の音(おと)に心をすまして、親族の緣を切〔きり〕、世のまじはりを斷(たて)ば、おのづから、人も、とい來(こ)ず、よくもなく、怒(いかり)もおこらず、偏(ひとへ)に後生(ごしやう)ぼだいのみを心にかけて、道心けんごに行ひすましぬ。
[やぶちゃん注:「然〔さる〕に」接続詞。逆接。「しかるに・ところが」。
「大樹」名刹・大寺院の比喩。
「さんけい」「參詣」。
「さくべき」「避くべき」。
「とい來(こ)ず」ママ。「訪(と)ひ來ず」。
「よくもなく」「欲も無く」。
「けんご」「堅固」。
「行ひすましぬ」「行ひ澄(淸)ましぬ」。「すます」は動詞の連用形について、「一つのことに心を集中してその行為をする」或いは「完全に~する」の意を表わす。「ひたすら戒を守って修行し続けた、の謂い。]
然〔しか〕るに、此所〔ここ〕に「雨鐘(あまがね)」とて、奇代(きだい)の事あつて、雨(あめ)ふれば、いづくともなく、鐘の音、かすかにきこへて、念佛の聲は、なし。
「さだめて、迷ひ變化(へんげ)のわざなるべし。」
とて、所の者も、おそれあへり。
此道心、ふしぎのあまり、
「かやうの事を見とゞけてこそ、後世(ご〔ぜ〕)の疑(うたがい)もはれ、修行の種(たね)ともなるべけれ。」
と、終夜(よもすがら)、心をつくして、終(つい)に鐘の鳴(なる)元を見屆(とゞ)け、其所に印をさして、立歸り、翌日(よくじつ)村のものども、あまた、やとひ、彼(かの)所をほらせければ、土より四尺程下に、楠(くすのき)の板、一枚あり。
はねおこして、その下を見れば、歲の程四十ばかりのほうし、鼠色の大衣(だいゑ)をちやくし、せうすいと、やせおとろへ、まへに鐘鼓(せうご)をひかへ、手に鐘木(しゆもく)をさゝへ、西むきに、けつかふざせり。
[やぶちゃん注:「鐘」これは後の描写で判るが、梵鐘や摺り鐘などではなく、仏具として用いる小さな鐘鼓(しょうご:「鉦鈷」とも書く)である。特に念仏を唱える際に拍子を打つの用いるもので、皿に似た青銅製の小型の鉦(かね)である。T字型をした撞木(しゅもく)を持って打ち鳴らすものである。言わずもがなであるが、地中よりこの鉦の音(ね)が絶えたとき、即身成仏を遂げたとするのである。されば、その鉦の音がずっとし続けること自体が有り得ない恐るべき怪異なわけである。
「迷ひ變化(へんげ)」聴きなれぬ語であるが、この「迷ひ」は他動詞「迷はする」的な用法で、「人を迷わせる変化(へんげ)の物の怪(け)」の謂いで採っておく。
「後世(ご〔ぜ〕)」来世。
「疑(うたがい)」ルビはママ。ここは来世の存在の疑義、引いては因果応報を疑うことを指す。死者の亡霊や妖怪或いは水子(現在もその供養で大金を儲けている寺が無数にあるが)といった葬式仏教で幅を利かせているものは、本来的な仏教では方便に過ぎず、その存在自体は正法(しょうぼう)にあっては害こそあれ、益にならず、実は何らその存在を積極的に肯定してはないのである。
「大衣(だいゑ)」三衣(さんえ/さんね:僧が着る袈裟の種類を言い、正装たる僧伽梨(そうぎゃり)=大衣(だいえ)=九条と、普段着に相当する鬱多羅僧(うったらそう)=上衣(じょうえ)=七条、及び、作業服に相当する安陀会(あんだえ)=中衣(ちゅうえ)=五条の三種を指す)の正装である大衣。九条、古くは二十五条を持つ袈裟(この「条」とは襞のことではなく、小さな布を縦に繋いだものを横に何本繋いだかを示す語で、御覧の通り、多い方がより正式・高位を示す)を指す。
「せうすいと」「憔悴と」であろう。
「鐘鼓(せうご)」ルビはママ。歴史的仮名遣は「しようご」でよい。後も同じ。
「けつかふざ」「結跏趺坐」。「跏」は「足の裏」、「趺」は「足の甲」の意で、仏教の坐法の一つ。両足の甲を、それぞれ、反対の腿(もも)の上に載せて押さえる形の座り方。先に右足を曲げて左足を載せる方を「降魔坐(ごうまざ)」、その逆の「吉祥坐」の二種がある。禅定(ぜんじょう:心を統一して三昧(ざんまい)に入って寂静になること)修行の者が行う。蓮華坐とも呼ぶ。]
人々、おどろき、鋤(すき)・くわをすて、迯(にげ)ちりぬ。
然(しか)れども、此道心、すこしもさはがず、
「抑(そもそも)御身は、いか成〔なる〕人ぞ。」
と、とへば、彼〔かの〕ほうし、
「我は、さんぬるころ、此土中へ入定(にうでう)せしものなり。
その節(せつ)、一國の人民(にんみん)、我に結緣(けちゑん)のため、貴賤、ぐん集(じゆ)して、步(あゆみ)をはこぶ中に、よはひ二八ばかりの娘(むすめ)一人(ひとり)、夭桃(えうたう)の露(つゆ)をふくみ、芙蓉(ふよう)の水を出〔いで〕しすがたにて、母親ともに、我前へむかひ、
『一蓮詫生(いちれんたく〔しやう〕)。』
と手を合〔あはせ〕て、さりぬ。
我、三界〔さんがい〕を出離(しゆつり)して愛着(あいぢやく)の念、なし。諸論、既につきて、此〔この〕定へ入〔いり〕ぬ。
しかれども、さいごの砌(みぎり)、
『あゝ、うつくし。』
と、彼〔かの〕娘の、あだなる像(かたち)を、たゞ一念、よそながら、思ひしより、見濁(けんぢよく)の業(ごう)に引〔ひか〕れ、五薀(〔ご〕うん)のかたち、いまだ、破れず。
されば、其娘、つゝがなく、世にありや。」
と、とふ。
道心、いよいよ、不審晴(はれ)ず、
「そもそも、御身の入定、世にしれる者、なし。年號はいづれの歲、時代はいつの時にあたれる。」
彼(かの)ほうし、こたへて謂(いふ)やう、
「かまくらの將ぐん義詮公(よしのりこう)の御代、年號(ごう)は、これに、しるしぬ。」
とて、彼〔かの〕せうごを、さし出〔いだ〕す。
「さては。光陰、遙(はるか)に隔(へだゝ)り、三百七十余年を經たり。其娘は、とく、死せり。今は子孫も世になし。」
と、いへば、入定のほうし、是をきゝ、
「鳴呼(ああ)、嗚呼、」
と、いふて、目をふさぎ、見て居(い)る内に、肉身(にくしん)、くちて、霜のきゆるごとく、四大分散して、たゞ一連の白骨(はくこつ)となる。
衣を取あげて見れば、灰のごとく、
「ばらばら」
と消(きへ)うせぬ。
誠に、「一念五百生〔しやう〕けねん無量劫(むりやうごう)」、おそるべく愼(つゝしむ)べきは、愛着(あいぢやく)なり。
それより、此所に一宇を建(たて)て、彼〔かの〕せうごを什物(じう〔もつ〕)とし、「雨鐘」と號(なづけ)て、今にあり。
金玉ねぢぶくさ一之終
[やぶちゃん注:「くわ」ママ。「鍬(くは)」。
「はうし」ママ。「法師(ほふし)」(通常の「法」の歴史的仮名遣は「はふ」であるが、仏教用語では「ほふ」が使われる)正しい。以下同じ。というより、本書では盛んに出る歴史的仮名遣の誤りの一つで、以降は原則、注さない。悪しからず。
「入定(にうでう)」ルビはママ。「にふじやう」が正しい。断食や生き埋めなどの苦行の果てに絶命し、そのままミイラ化するところの、所謂、「即身仏」を指しているが、これは一般に仏教教義や正規の修行法にでもあるかのように錯覚されているが、全くの出鱈目であって、単なる民間信仰のレベルのおぞましい産物に過ぎない。
「結緣(けちゑん)」本来は仏・菩薩 が世の人を救うために手を差しのべて縁を結ぶことをシンボライズするが、ここは即身仏になられる大徳(だいとこ)ということで、衆生が、ありがたい仏法の体現志願者たるその人に逢って縁を結び、その魂に触れることによって、未来の成仏や得道の可能性を得ることを指す。
「ぐん集」「群集」。
「步(あゆみ)をはこぶ」彼の前に進み出て来拝する者の中に。
「二八」数え十六。梅之助の若き日と重なるように仕組まれてある。
「夭桃」「夭」は「若」で「若い」の意。みずみずしく美しく咲いた桃の花を指す。
「芙蓉(ふよう)の水を出〔いで〕しすがた」「いで」を添えたのはそのままでは躓くと考えて私が添えたもので、原本の記載例から見ると、この読みでない可能性もあろうとは思うが、他によい訓読法がない。この場合の「芙蓉」は「蓮の花」の古い美称別称である。
「一蓮詫生」「詫」はママ。誤りで「一蓮托生」が正しい。死後に極楽の同じ蓮華の上に生まれることを言う。
「三界」仏教の宇宙論に於いて人々がその中にいるとされる「迷い」の世界を三種に分けた謂い。「欲界」・「色界(しきかい)」・「無色界」の三種の世界で、「欲界」は淫欲と食欲がある衆生の住む世界であり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上道の六道を指し、「色界」とは「物質的な世界」の意で、淫欲と食欲の二欲を離れてある衆生(天人)の住んでいる世界とする。ここには清らかで純粋の物質だけがあるとされる。「無色界」はその「色界」の更に上位の時空間で、物質的なものから完全に離脱した衆生(天部の天人の最上位の連中)の住むところで、そこには物質が全く存在しない精神だけの世界、欲望も物質的条件も超越し、まさに、即、禅定の世界を指す。それでも「無色界」でさえも「精神」に捕われた未だ「迷い」の世界なのである。この僧は――それらを超越して仏菩薩の領域に入り、衆生の「迷い」の世界を「出離(しゆつり)して」いかなる対象に対しても「愛着(あいぢやく)の念」を持つことが無くなった――仏教教学に於けるあらゆる考え方や諸派の「諸論」への疑義や賛同といった偏頗な主張・主観も「既につきて此定(でう)へ入」った――と思っていた――のだ――この娘を見る瞬間までは……と言うのである。
「さいご」これは「最期」である。彼は則ち、実際には自身の肉体は本来的にはもう失われている、生命現象としては死を通過していることを認識しているのである。しかし、その死の大事な一瞬間に於いて、図らずも、かの娘を思い出し、「ああ、美しい!」とちら思い浮かべてしまったのである。
「あだなる」「婀娜なる」。艶めかしく美しいさま。色っぽいさま。これをわざわざ教義に惹かれて「徒なる」(儚い・無用だ)の意にハイブリッドで読み解く必要はない。それこそそれは僧が退けた「諸論」の低いレベルの話だからである。
「よそながら」それとなく。はっきりとではなく、間接的に。意識の薄明である。
「見濁(けんぢよく)の業(ごう)」「ごう」はママ。正しくは「ごふ」。仏教用語の五濁(ごじょく:現世の五つの穢(けが)れの相を指す。天災・疫病・戦争の発生たる「劫濁(こうじょく)」、この「見濁」、多くの衆生が長生きできなくなる「命濁(みょうじょく)」、煩悩により邪悪なものが蔓延(はびこ)る「煩悩濁」、衆生の持っている資質や因縁果報が生来的に下劣不善なものとなる「衆生濁」を指す)の一つ。広義には、邪悪な思想や誤った見解が蔓延することを言うが、ここでは極めて具体的に、「娘の美しさを垣間見たことによる穢れ」、そこから生じた「愛着の、時空間を越えたおぞましい悪業(あくごう)」の様態全部を指している。
「五薀(うん)」「蘊」はサンスクリット語の「積み重なり集まったもの」の意の語の漢訳。仏教で現世の人間存在を構成する五つの要素を指す。色蘊(しきうん:肉体)・受蘊(感覚)・想蘊(表象・想像)・行蘊(ぎょううん:意志・欲求)・識蘊(識別・判断)。「五陰(ごおん)」とも呼ぶ。これが、現在、そこに見えているように見える土中から出た僧の、一見、生きた僧に見える状態を仮に形成させているというのである。そこまで認識していながら、遂にしかし「されば」と言い掛け、「其娘、つゝがなく世にありや」? と問うてしまうところが、永劫に哀れなのである。
「かまくらの將ぐん義詮公(よしのりこう)」原本に「義詮(よしのり)」と読みを添えるが、これは誤り。これは「よしあきら」と読むのが正しい。しかし、足利義詮(元徳二(一三三〇)年~正平二二/貞治六(一三六七)年)は室町幕府第二代将軍としては、正平一三/延文三(一三五八)年に征夷大将軍の宣下を受けているものの、「鎌倉の将軍」と呼称するような地位にあったことはない。但し、父足利尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻した際、彼(幼名は千寿王)は人質として鎌倉にあったが、尊氏の家臣らの手引で脱出し、新田義貞に奉じられて、改めて鎌倉攻めに参加している。この時、彼は三歳ながら、父の名代として追討軍の将軍に相当する格付けであったことはある。しかしそれは、戦闘に於ける一時的な通称に過ぎず、それを以ってこの「かまくらの將ぐん」をそのまま受け入れることは不可能なのである。と言うより、この直後に彼の入定を掘り出された作中内時制から遡って「三百七十有余年」前と称している事実に着目しなくてはならない。作中時間である天和年間からほぼ確実な逆算出来る数値が示されており、これがこの叙述とは大きく齟齬し、「不審晴れ」ざるものだからである。即ち、この逆算をすると、足利義詮は生れてもいないのである。「三百七十有余年」という謂いを三百七十一以上三百七十八年と一先ず置くと(本来は私はこれは「三百七十六年前」前後と読む)、天和年間からでは最も遡って一三〇三年となり、最も下って一三一三年なのである。即ち、この乾元二・嘉元元(一三〇三)年から正和二(一三一三)年の期間内にこの法師は入定したということになる。するとこれは鎌倉末期であり、その時に「鎌倉の将軍」と表現可能な人物は第八代鎌倉幕府将軍久明親王(在位:正応二(一二八九)年~延慶元(一三〇八)年)、若しくは、第九代にして最後の鎌倉幕府将軍守邦親王(在位:延慶元 (一三〇八)年~元弘三(一三三三)年五月二十二日)の何れでしかいないことになる。該当期間はどちらも前後六年で悩ましいのであるが、こじつけるなら、前者の久明親王の名は「ひさあきら」とも「ひさあき」とも二様に訓ずるが、前者の方が一般的で、本文の「義詮」の正しい読みが「よしあきら」であるからして、そこで後ろの読みの一致が認められると言える。しかも、江戸時代の人々は足利義詮はよく知っていても、鎌倉幕府の傀儡将軍久明親王なんぞは、あまり知る人もいなかっただろうと思うのである。その辺の意識が働いて、有名人の方をうっかり記しかけて、表記を誤った(或いは彫師が勝手にかく彫ってしまった)のかも知れない。或いは、有り得ない創作怪談だったからして、わざと史実を誤って、作者自身がそれを匂わせるためにこの名にしたのだとも言えなくもない。因みに、私は整合性を考えて、サイト版「雨鐘(あまがね)の事」の現代語訳では、敢えて原文を無視し、「鎌倉の将軍久明公の御代」という訳とした。私は怪談だからこそ、事実に合わない記載、歴史的に在り得ない設定は、極力、避けるべきであるという立ち位置をとっているからである。周辺事実に補強・裏打ちされてこそ、怪異は怪異として〈事実めいたリアルな恐怖〉を与えることが出来るという考え方を良しとするからである。
「四大」仏教用語「四大種(しだいしゅ)」の略。時空間を形成する四つの元素の意。物質的現象を要素の点から四種に分類したもので「地大」 (堅固を本質とし、保持することをその作用とするもの) ・「水大」 (湿気(しっき)を本質とし、収め集めることをその作用とするもの)・「火大」 (熱を本質とし。成熟させることをその作用とするもの) ・「風大」 (動を本質とし、成長させることをその作用とするもの) の四種。ここは「分散して」に続けて、その場で、周囲の空間の中へ、僧の骨を除く肉部分が急激に放散されていったさまを表現したもの。
「ばらばら」「江戸文庫」版では「はらはら」と清音であるが、原本には明らかに濁点が打たれてある(確認したが、もう一本も同じく濁点がある)。「はらはら」ではこのコーダが台無しになる。
「消(きへ)うせぬ」ルビはママ。
「一念五百生けねん無量劫」「一念五百生繫念」(けねん)「無量劫」で一連の仏語。「一念五百生」は僅かにただ一度きりでも、心に妄想を抱いただけで、その人は五百回もの回数にわたって輪廻し、その報いを受けるということを言う。後半は「一念五百生」と称されるものの、もし「繋念」(特にはっきりとある対象に思いを深くかけてとらわれてしまうこと)した時には、量り知れない長い時間に亙ってその罪を受けることになることを指す。特に男女の愛情について教訓して示されることが多い。「徒然草」の「あだしの露」で示された通り、親子の「愛着(あいぢやく)」でさえ、それを愛欲として捉え、おぞましい因果とするのが仏教なのである。
「什物(じう〔もつ〕)」ママ。「じふもつ」が正しい。
『「雨鐘」と號(なづけ)て今にあり』実在するという話や、この話柄に所縁のある寺院というのも聴いたことがない。そもそも「雨鐘 香川県 寺」のフレーズ検索では私のサイトの「雨鐘(あまがね)の事」が掛かってくる始末だ。]
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