柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 一笑 二 / 柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々~電子化注完遂
二
一笑がこの世にとどめたものは『西の雲』所載の百句、これに生前死後の諸集に散見するものを併せると、三百句以上に達する。各句についても特に絶唱と目すべきほどのものは見当らぬようであるが、これは時代を考慮してかからねばならぬ問題であろう。
芭蕉を中心とするいわゆる正風(しょうふう)の作品は、天和(てんな)から貞享(じょうきょう)、貞享から元禄と進むに従って、著しい進歩の迹を示した。『虚栗(みなしぐり)』『続虚栗』『曠野(あらの)』の内容は明(あきらか)にこれを証している。『西の雲』に収められた一笑の句は、その作句年代を詳(つまびらか)にせぬが――「今宵月狐に昼と鼾(いびく)らん」の一句を除けば『加賀染』に現れたような虚栗調からは、已に脱却し得たものと見て差支ない。同時に『曠野』の諸句ほど雅馴になりきらぬところがある。『続虚栗』は一笑の句を一も採録しておらぬから、彼の句を続虚栗調と見ることは、いささか妥当でないかも知れぬが、『虚栗』の後『曠野』の前の句風に属すと見るべきであろう。『続虚栗』の句が中間的であるように、一笑の句も多くは中間的である。
[やぶちゃん注:「正風」ここでのそれは蕉門による「蕉風」の言い換え。蕉門俳人は自分たちの俳風を「正風」と称したが、これは自己の風を天下の正風と誇示する幾分、厭らしい使い方と心得る。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、「蕉風」の語は、堀麦水の「蕉門一夜口授」(安永二(一七七三)年刊)以来、一般的に用いられるようになった(但し、堀自身は蕉門風の句柄ではない)。歴史的にみると、芭蕉の俳風は、延宝以前は貞門・談林と変らず、俳諧七部集の流れを見るなら、貞享元(一六八四)年刊の「冬の日」(荷兮(かけい)編)で確立され、元禄四(一六九一)年刊の「猿蓑」(凡兆・去来編)に於いて「さび」の境地が円熟・深化し、晩年の元禄七年の「炭俵」(志太野坡・小泉孤屋・池田利牛編)で「軽(かる)み」へと変化した。蕉風の理念の中心は「さび」・「しをり」・「ほそみ」である。また、連句については、貞門の物付 (ものづけ) ,談林の心付 (こころづけ) から飛躍的に進歩して「匂ひ」・「響き」・「うつり」という微妙な風韻や気合いの呼応を重んじた。こうした内面的なものを重視する傾向から、発句における切字 (きれじ) 等の形式的制約には比較的、自由寛大である、とある。
「天和」一六八一年~一六八四年。
「貞享」一六八四年~一六八八年。
「元禄」一六八八年から芭蕉が没する元禄七(一六九四)年までとする。既に見てきた通り、芭蕉没後は蕉門内で急速に分解が進んでしまったからである。
「続虚栗」其角編。貞享四(一六八七)年。
「曠野」元禄二年刊。荷兮編。俳諧七部集の第三。
「今宵月狐に昼と鼾(いびく)らん」正直、この句、理解し得るように、解釈は出来ない。識者の御教授を乞うものである。
「加賀染」天和元(一六八一)年刊。杉野長之編。
「虚栗」天和三年刊。其角編。]
唯黒し霞の中の夕煙 一笑
梅が香にもとゆひ捨るあしたかな 同
[やぶちゃん注:「捨る」は「すつる」であろう。誰ぞの出家を詠んだものか。]
つむ物にして芹の花珍しき 同
[やぶちゃん注:「芹」は「せり」。]
花の雨笠あふのけて著て出む 同
[やぶちゃん注:座五「きていでむ」であろう。]
舞下る時聞あはすひばりかな 同
[やぶちゃん注:上五は「まひおりる」、中七は「ときききあはす」。この二つが混然となって「ひばりかな」に繋がるところが、いかにも雲雀の高々と上がったのが、急転直下、素早く下り翔ぶ動を描いて好ましい。]
闇の夜に柄杓重たき蛙かな 同
[やぶちゃん注:「柄杓」は「ひしやく」。]
蚊の声の鼻へ鳴入寝ざめかな 同
朝日まで露もちとほす薄かな 同
[やぶちゃん注:このスカルプティング・イン・タイムも素敵である。]
雪の昏たそや蔀にあたる人 同
[やぶちゃん注:「昏」は「くれ」、「蔀」は「しとみ」。この場合は「蔀戸(しとみど)」で、町屋の商家などの前面に嵌め込む店仕舞いする時の横戸。二枚又は三枚からなり、左右の柱の溝に嵌め込む。一笑は茶葉商いの商人であった。]
これらの句にはどこか醇化(じゅんか)しきれぬものを持っている。これを『続虚栗』の諸句と対比すれば、自ら共通するものを発見し得るであろう。闇の晩に取上げた柄杓が重いので、どうしたのかと思ったら、中に蛙が入っていたというようなことは、必ずしも拵えた趣向ではないかも知れない。しかしこの句を読んで、それだけの解釈を得るまでには、或程度の時間を要する。そこに醇化しきれぬ何者かがあるのである。『曠野』にある
ゆふやみの唐網にいる蛙かな 一笑
[やぶちゃん注:「唐網」は「たうあみ」。「投網(とあみ)」の別称。円錐形の袋状の網の裾に錘(もり)を付けたものを、魚のいる水面に投げ広げ、被せて引き上げる漁法、或いは、その網。この語が選ばれることによって、ロケーションと動きが出、そのベクトルに引かれて「蛙」(かはづ)の鳴き声さえも響いてくると言える。]
の句になると、その価値如何は第二として、作者の現さむとするところは明に句の上に出ている。寝覚の鼻へ蚊が鳴入るという事実も、決して巧んだものではないかも知れない。しかし単に寝覚の鼻へ蚊が寄るといわずに、「蚊の声の鼻へ鳴入」といったのは、表現の上にいささか自然ならぬものがあるような気がする。
雨のくれ傘のぐるりに鳴蚊かな 二水
[やぶちゃん注:「鳴」は「なく」。]
という『曠野』の句は、一笑の句より複雑な事柄であるにかかわらず、現し得たものはかえって単純に見える。これらは個人の伎倆よりも、時代の点から考うべき問題であろうと思う。
[やぶちゃん注:「醇化」不純な部分を捨てて純粋にすること。「純化」に同じい。]
やすらかに風のごとくの柳かな 一笑
さしあたり親の恩みる燕かな 同
[やぶちゃん注:「雀孝行」の説話から餌を欲しがるツバメの子を皮肉ったもの。ウィキの「ツバメ」によれば、『昔、燕と雀は姉妹であった。あるとき親の死に目に際して、雀はなりふり構わず駆けつけたので間に合った。しかし燕は紅をさしたりして着飾っていたので』、『親の死に目に間に合わなかった。以来、神様は親孝行の雀には五穀を食べて暮らせるようにしたが、燕には虫しか食べられないようにした』という話である。餌を咥えてくる親の「恩」をただ「見る」のであって、報いるのではない。餌を求める鳴き声は「ありがたがっている」ように見えなくもない、だから「さしあたり」なのであろう。]
人の欲はしにも居らぬ涼みかな 同
[やぶちゃん注:ロケーションが判らぬが、いかにも肌が接しそうで、むんむんべたべたする感じが面白く出ている。]
謳はぬはさすが親子の碪かな 同
[やぶちゃん注:上五は「うたはぬは」、「碪」は「きぬた」。砧叩きを親子でしているのであるが、唄わずして、その音が正確な拍子で続いて聴こえ、「流石!」と思わせる丁々発止なのであろう。]
すねものよ庵の戸明て冬の月 同
[やぶちゃん注:中七は「いほのとあけて」であろう。]
これらの句には元禄以後の句と共通するような弛緩的傾向が認められる。一方において『曠野』に到達せぬ一笑が、この種の俗情を詠ずる点において、元禄を飛超えている観があるのはどうしたものか。その点一考を要するものがあるにはあるが、句として多く論ずるに足らぬことはいうまでもない。
右に挙げた十数句の如きものは、いずれの方角から見ても、俳人としての一笑の価値を重からしむるに足らぬものであろう。けれども一笑は他の一面において、次のような作品を残している。
なまなまと雪残りけり藪の奥 一笑
[やぶちゃん注:いい句だ。]
よるの藤手燭に蜘の哀なり 同
[やぶちゃん注:「蜘」は「くも」。これも私好み。]
栗の木やわか葉ながらの花盛 同
白雨や屋根の小草の起あがり 同
[やぶちゃん注:「白雨」は「ゆふだち」。これもモーション・フレームがいい。]
旅行
白雨に湯漬乞はゞやうつの山 同
[やぶちゃん注:「湯漬」は「ゆづけ」。]
広庭や踊のあとに蔵立む 同
[やぶちゃん注:座五は「くらたてむ」か。説明的でつまらぬ。]
渋柿の木の間ながらや玉祭 同
[やぶちゃん注:こうしたナメの構図は個人的に好きだ。]
蜻蛉の薄に下る夕日かな 同
[やぶちゃん注:「蜻蛉」は「とんぼう」。]
こがらしの里はかさほすしぐれかな 一笑
門口や夕日さし込(こむ)村しぐれ 同
これらの句の中には後の元禄作家と角逐し得べきものが多少ある。藪の奥に鮮に白く残っている雪を、「なまなまと」の五文字で現したのは、適切な表現であるのみならず、新な官覚[やぶちゃん注:ママ。]でもある。この場合「なまなまと」という俗語以上に、この雪の感じを現す言葉がありそうにも思われない。
「よるの藤」の句は表現よりも趣を採るべきものであろう。夜の藤に対して燭を秉(と)る、その手燭にスーッと蜘蛛の下るのを認めた点は、慥に特色ある観察である。「哀なり」の一語は、この特異な光景に対し、全局を結ぶに足らぬ憾(うらみ)はあるが、時代の上から情状酌量しなければならぬ。
その他「白雨や」の句、「渋柿の木の間ながらや」の句、「こがらしの里はかさほす」の句、 「門口や」の句、いずれも句法緊密であり、自然の趣も得ている。元禄盛時の句中に置いても、遜色あるものではないと思われる。
[やぶちゃん注:「角逐」「かくちく」で「角」は「争そう・競う」、「逐」は「追い払う」の意で、「互いに争うこと・競(せ)り合うこと」を意味する。]
一笑にはまた人事的な軽い興味の句がある。
春雨や女の鏡かりて見る 一笑
恥しや今朝わきふさぐ更衣 同
大つゞみ夢にうちけむ夜の汗 同
「春雨」の句は即興を詠じたまでのものであろう。「更衣」の句は元服した場合の更衣である。明治の半以後に生れたわれわれはこの経験を持合せておらぬけれども、筒袖(つつそで)をやめて袂(たもと)の著物になった時には、多少「恥しや」に似た気持があった。こういう興味は天明期の作家の好んで覘(ねら)うところであるが、一笑は比較的自然にこの趣を捉えている。
「大つゞみ」の句は三句の中で最も複雑である。目が覚めると全身に汗をかいている。そういえば自分は夢の中で、大鼓を打っていたような気がする。力をこめて一心に大鼓を打った、その夢がさめてしとどに汗を覚える、というのは如何にもありそうな事実である。恐らく一笑は平生大鼓を嗜(たしな)んだ結果、こういう夢を見たのであろう。能に因縁のないわれわれは、仮に夢で鼓を打つという趣向を案じ得たとしても、それによって汗になるということに想到し得ない。この句の如きは俳句に詠まれた夢の中でも、やや異色あるものに属する。
笠ぬげて何にてもなきかゝしかな 一笑
一笑にこの句のあることは『西の雲』によってはじめて知り得たのであるが、どういうものかこれと同調同想の句がいくつもある。
笠ぬげておもしろもなきかゝしかな 舎羅
訪河尾主人
笠ぬいで面目もなきかゝしかな 風草
笠とれて面目もなき案山子かな 蕪村
三句の中では舎羅が一番早いが、それも元禄十五年の『初便』に出ているのだから、一笑の句からいえば後塵を拝したことになる。案山子に笠はつきものであるにしても、どうしてこんなに同想同調が繰返されたものか、全くわからない。風草、蕪村の二句に比すると、舎羅の句は擬人的色彩が乏しいように思ったが、一笑の句は更に淡泊である。しかしこの句が出て来た以上、何人も一笑が先鞭を著けた功を認めなければなるまいと思う。
[やぶちゃん注:「舎羅」榎本舎羅(しゃら 生没年不詳)は大坂蕉門重鎮の一人であった槐本之道(えのもとしどう)の紹介で入った蕉門俳人。大坂生まれ。後に剃髪した。撰集「麻の実」や「荒小田」の編でも知られる。ウィキの「舎羅」によれば、『貧困と風雅とに名を得たと言われた』。『芭蕉が、大坂で最期の床に就いた時、看護師代わりになって汚れ物の始末までした。去来は、「人々にかかる汚れを耻給へば、座臥のたすけとなるもの呑舟と舎羅也、これは之道が貧しくして有ながら彼が門人ならば他ならずとて、召して介抱の便とし給ふ」(「枯尾華」)と書いている』とある。
「風草」各務支考が率いた庄内美濃派の最初の重鎮新出風草(生没年未詳。読みは「にいでふうそう」か)「河尾主人」は不詳。]
一笑の句には前書附のものが少い。その中に悼句が二句ある。
楚常追悼
うそらしやまだ頃のたままつり 一笑
[やぶちゃん注:「頃の」は「このごろの」と読む。]
追善に
何茂る屎(しし)の古跡あだし草 同
楚常は鶴来(つるぎ)の人、元禄元年七月二日、二十六歳を以て歿した。これを悼んだ一笑も、同じ年の十一月にあとを追って逝(ゆ)いたのである。一笑の娘は何時亡くなったのかわからぬが、この句意から推して、幼くして世を去ったものと考えられる。この句によって一笑に娘のあったことを知り、それが親に先(さきだ)って死んでいることを思うと、二百年前の話ながら甚だ寂しい感じがする。
[やぶちゃん注:宵曲も述べている通り、この幼くして亡くなったらしい自身の娘への悼亡の句は曰く言い難い悲しみが伝わってくる。]
『西の雲』に収められた一笑の句は、歿後他の撰集に採録されたものが極めて少い。僅に左の数句あるのみである。
春の雪雨がちに見ゆる哀なり 一笑(いつを昔)
わりなくも尻を吹する涼かな 同(己が光)
[やぶちゃん注:「吹する」は「ふかする」、「涼」は「すずみ」。]
曙の薄夕日の野菊かな 同
花蝶に子ども礫の親なしや 同(吐綬雞)
[やぶちゃん注:「礫」は「つぶて」。「吐綬雞」「俳諧吐綬雞」(とじゅけい)は秋風編で元禄三年刊。この一句、私には絢爛な総天然色の映像の中に、礫を擲(なげう)つ淋しい少年の姿がはっきりと浮かんで見える。]
ただ一笑の亡くなる前年(貞享四年)に出た『孤松集』は、一笑の句を採録すること実に二百に近く、空前絶後の盛観を呈している。『西の雲』所収のものも数句算えることが出来るが、句は平板単調に失し、殆ど見るべきものがない。
夜気清し蚓のもろ音卯木垣 一笑
[やぶちゃん注:「蚓」は「みみづ」、「卯木垣」は「うつぎがき」。「もろ音」は「諸音(もろね)」多くの鳴き声であろう。或いはウツギの垣根の向こう側からもこちら側からもの意でもよい。ミミズの鳴き声はケラのそれの誤認であるが(ケラが地中でも鳴くことによる)、ごく近代まで結構、ミミズが鳴くと信じている人がいたものである。]
砂園や石竹ふとる猫の糞 同
夕だちやしらぬ子の泣軒の下 一笑
夕顔の雨溜ふとき軒端かな 同
[やぶちゃん注:「雨溜」は「あまだれ」。]
ゆふ顔に馬の顔出す軒端かな 同
ひとつ屋に諷うたふや秋のくれ 同
[やぶちゃん注:「諷」は「うたひ」。]
遠かたに鼻かむ秋の寝覚かな 同
月四更芭蕉うごかぬ寺井かな 同
の如きものが、やや佳なる部に属する程度であるのは人をして失望せしめる。この種の作品が多量に伝わったことは、一笑に取って幸か不幸かわからず、また伝わったにしても永く人に記憶さるべき性質のものでないと思う。
『孤松集』の撰者は江左尚白(えさしょうはく)である。尚白はこの集に一笑の句を多く取入れたのみならず、後年の『忘梅(わすれうめ)』の中にも
蕣の種とる時のつぼみかな 一笑
[やぶちゃん注:「蕣」は「あさがほ」。]
虫啼て御湯殿帰り静なり 同
[やぶちゃん注:「御湯殿」これは近世に大名などの湯あみに奉仕する女を指す。そうした第三者的な詠吟であろうか。]
の如く、他に所見のない一笑の句を採録しているところを見ると、両者の間には何か特別な交渉があったのかも知れぬ。
歿後の諸集に加えられた句にも、特に佳句を以て目すべきものは少いが、そのうち若干をここに挙げて置こう。
まだ鳴か暁過の江の蛙 一笑(卯辰集)
吹たびに蝶の居なほる柳かな 同(雀の森)
行ぬけて家珍しやさくら麻 同(いつを昔・卯辰集)
[やぶちゃん注:「さくら麻」辞書を見ると、麻の一種で花の色から、或いは種子を蒔く時期からともされるが、いうが実体は不詳。俳諧では夏の季題とされた、とある。句意不明。]
斎に来て菴一日の清水かな 同(曠野)
[やぶちゃん注:「斎」は「とき」。狭義には僧が午前中にとるただ一度の食事を指すが、実際にはそれは不可能で、「非時(ひじ)」と称して午後以降も食事を摂った。ここは広義の法要・仏事に出す食事のことであろう。「菴」は「いほ」で、その遁世者の細やかな賄いとして清水を貰ったことを言うのであろう。]
秋の夜やすることなくてねいられず 同(色杉原)
神無月の比句空庵をとひて
里道や落葉落葉のたまり水 同(柞原集)
[やぶちゃん注:「比」は「ころ」。「句空」は既出既注。これは佳句である。]
火とぼして幾日になりぬ冬椿 同(曠野)
珍しき日よりにとほる枯野かな 同(北の山)
いそがしや野分の空の夜這星 同(曠野・其袋)
[やぶちゃん注:「野分」は「のわき」、座五は「よばひぼし」で流れ星の異名。「いそがそや」は面白いが、雅趣としては劣る。]
『曠野』には加賀の一笑と津嶋の一笑とが交錯して出るので煩(わずら)わしいが、肩書のないのはここに省いた。尾張で成った集だけに、肩書のない方は津嶋の一笑と解し得る理由があるからである。
これらの句がどうして『西の雲』に洩れ、また何によって諸書に採録されたものか、その辺のことはわからぬが、「里道や」の句、「火とぼして」の句、「いそがしや」の句などは、一笑の句として伝うるに足るものと思われる。冬椿の花を「火とぼして幾日になりぬ」といったあたり、技巧的にも侮(あなど)るべからざるものを持っていたことは明(あきらか)である。
一笑は金沢片町の住、通称茶屋新七といった売茶業者だそうである。彼を天下に有名にしたものが『奥の細道』の一節であることは前にもいった。一笑に籍(か)すに更に数年の寿を以てしたならば、『猿蓑』を中心とする元禄の盛時に際会し、多くの名吟を遺したかも知れぬ。親しく芭蕉の風格に接し、その鉗鎚(けんつい)を受けたとすれば、彼の句も固(もと)より如上(にょじょう)の域にとどまらなかったであろう。彼が待ちこがれた芭蕉を一目見ることも出来ず、『西の雲』の一句を形見として館(かん)を捐(す)てたのは一代の不幸であった。けれども芭蕉が一笑を哭(こく)するの涙は、単に彼の墓碣(ぼけつ)に濺(そそ)がれたのみならず、「塚も動け」の一句となって永く天地の間に存しており、追悼集たる『西の雲』にも多くの人の温い情が感ぜられる。一笑は決して不幸な人ではなかった。その点は彼自身も恐らく異存ないことと信ずる。
[やぶちゃん注:私は一笑が――好きである――。
「鉗鎚」「鉗」は「金鋏(かねばさみ)」、「鎚」は「金槌」の意で、本来は、禅宗で師僧が弟子を厳格に鍛えて教え導くことを喩えて言う語。
「館を捐てた」貴人が死去することを言う。「館(かん)を捐つ」「館舎(かんしゃ)を捐つ」「捐館 (えんかん) 」。「戦国策」の「趙策」が原拠。
「墓碣」「碣」は「円形の石」で、墓の標(しる)しに立てる墓石のこと。
以上を以って「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々」は終わっている。]