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« 柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 史邦 三 / 史邦~了 | トップページ | 大和本草卷之十三 魚之下 河豚(ふぐ) »

2020/08/25

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 木導 一

 

[やぶちゃん注:直江木導(寛文六(一六六六)年~享保八(一七二三)年)は近江彦根藩士。上松氏に生まれたが、直江氏の養子となり、光任と名乗った。別号に阿山人。姓は「奈越江」とも書く。芭蕉晩年(元禄五(一六九二)年から七(一六九四)年)頃)に蕉門に入った最晩年の弟子の一人であるが、森川許六が記した「風俗文選」の「作者列傳」には「木導は、江州龜城の武士なり。直江氏。自ら阿山人と號す。師翁、奇異の逸物(いちもつ)と稱す」(原文は漢文)と記されてある。]

 

     木  導

 

        

 

 芭蕉の遺語として伝えられたものを見ると、曲翠が「発句を取りあつめ、集作るといへる、此道の執心なるべきや」と尋ねたに対し「これ卑しき心より我上手なるをしられんと我をわすれたる名聞より出る事也。集とは其風体の句々をえらび我風体と云ことをしらするまで也。我俳諧撰集の心なし」と答えている。ここに集というのは必ずしも撰集と家集とを区別していない。いやしくも「我上手なるをしられん」としての仕業である以上、撰集たると家集たるとを問わず、芭蕉はこれを「名聞より出る卑しき心」の産物として斥(しりぞ)けたのである。

 蕉門の諸弟子はこういう芭蕉の垂戒を奉じたためであろう。一人も生前に自家の集を上梓した者はない。蕉門第一の作者として自他共に許し、多くの門葉を擁していた其角ですら、自ら『五元集』の稿本を完成して置いて、遂に出版を見ずして終った。門下乃至(ないし)後人の手に成った遺稿の類も、歿後直に出版されたものは、あまり見当らぬようである。固より今日とは諸種の事情を異にするとはいえ、彼らが軽々しく自家の集を出さなかったという一事は、道に志す者の態度として慥(たしか)に奥ゆかしいところがあるといわなければならぬ。中には自家の作品が徒(いたずら)に鼠家(そか)とならんことを患(うれ)えて、輯録したものに序文まで書きながら、歿後も刊行の運びに至らず、最近に至ってはじめて日の目を見たような作者もある。直江木導の如きはその一人であった。

[やぶちゃん注:「鼠家」ろくでもないことを企み、成すことの元凶の意。]

 

 木導という俳人については、従来とかくの批評に上ったことを聞かない。彦根の藩士で、芭蕉の晩年にその門に入り、同藩の先輩たる許六(きょりく)と共に句作につとめた。直江というのは養家の姓であること、相当な武士であったらしいことなどはわかっているが、その人について特に記すに足るような逸話も伝わっていない。彼にしてもし句を作らなかったならば、疾(はや)くに世の中から忘却されたであろう。仮令(たとい)句を作ったにしても、自選の句稿一巻を遺さなかったならば、今ここに取上げて見るだけの興味は起らなかったかも知れぬ。

 木導が世に遺した句稿というのは、「蕉門珍書百種」の一として刊行された『水の音』のことである。何故この集に『水の音』と題したかということは、その自序がこれを叙しているから、左に全文を引用する。

[やぶちゃん注:「水の音」は木導の発句三百五十九句と独吟歌仙一巻を収め、句集は彼が亡くなる享保八年六月二十二日の一と月前に送稿されたものであった。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全編を読むことが出来る。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

治国に乱をわすれざるは武士の常なり、其常に干里の雲路はるかの国々の風俗を尋ね味ひ  よく知るをさして是を兵法に因間内間といふ、此一すしを兼て求(もとめ)をかはやと風雅を種となしてはせを庵の松の扉をたゝき翁の流を五老井[やぶちゃん注:「ごらうせゐ」。]と共に汲つくす事三十年、かれこれの便をつたひ蕉門の俳友ところところに数をつくせり、其あらましを五老井雨夜物がたりにおよびぬれば、翁しばらく目をふさぎ奥歯をかみしめ皺の手をはたと打、謀略のたくましきを深かんじ玉ふと也、かの折から予が麦の中行(ゆく)水の音をも聞たまひて翁曰、いにしへ伊勢の守武(もりたけ)が小松生ひなでしこ咲(さけ)るいはほ哉(かな)、我が古池やかはず飛込水の音、今木導が麦の中行水の音、此三句はいづれも万代不易第一景曲(けいきよく)玄妙の三句也、誠に脇をなしあたへんと許子にながれに麦をかゝせて、かげろふいさむ花の糸口と筆をとり給ひしを初となしていひ捨し句どもとりあつめ阿山の鎮守に奉納せり。

[やぶちゃん注:【2020年9月14日追記】現在、私は木導の句集「水の音」を作成中であるが、その過程で、ここに出る「小松生ひなでしこ咲るいはほ哉」の句は、野田別天楼氏の指摘によって、荒木田守武の句ではないことが判明した。これは「新撰菟玖波集」に載る蜷川智薀(?~文安五(一四四八)年:室町時代の武士で連歌作者。新右衛門親当(ちかまさ)と称した。室町幕府に政所代として仕えた。和歌を正徹に、連歌を梵灯庵主に学び、一休に参禅した。「竹林抄」の「連歌七賢」の一人。「新撰菟玖波集」に六十六句が入集する。句集に「親当句集」がある)の句であって、「人文学オープンデータ共同利用センター」の「日本古典籍データセット」「新撰菟玖波集」を最初から何度か全篇を視認する中で「卷第十九」のこちらに(右頁最終行)、「小松おひなてしこさけるいはほかな」と発見出来たので、ここに追記しておく。

「因間」(いんかん)は「孫子」の兵法に出る間諜の一種。「郷間」とも称し、敵国の村里にいる一般人を使って諜報活動をすることを指す。

「内間」は同前で、敵国の官吏などを利用して内通させることを指す。

「五老井」森川許六の別号。

「景曲」和歌・連歌・俳諧などで、景色を写生的に、しかも面白く趣向を凝らして詠むこと。]

 

 許六が芭蕉に逢った時、「春風や麦の中行く水の音」という木導の句の話をしたら、芭蕉がひどくほめて、これは守武の「小松生ひなでしこ咲るいはほ哉」や、自分の「古池や娃飛込む水の音」にも劣らぬ万代不易の名吟であるといった。許六が画をよくするところから、直に句の趣をかかせて、「かげろふいさむ花の糸口」という脇を書いてくれた、というのである。木導は親しくその画を見、許六からその話を聞いて、多大の感激を禁じ得なかったであろう。彼が自らその句を選まむとするに当り、先ずこの事を念頭に浮べ、水の音と名づけて長く記念としようとしたのはさもあるべきことと思われる。

 木導の「春風」の句は芭蕉の脇と共に『笈日記』に出ている。最初は「姉川や」とあったのを、芭蕉が「春風」に改めたのだという説もあるが、本当かどうかはわからない。いずれにしてもこれが木導の出世作――というのが小説家めいておかしければ、芭蕉に認められた第一の作であった。許六、李由の共撰に成る『宇陀法師』にも、景曲の句としてこの句を挙げ、これを賞揚した芭蕉の言葉を録している。子規居士の説に従えば、芭蕉の「景気」といい、「景曲」といい、「見様体」というもの、悉く今日のいわゆる客観趣味であって、守武の撫子、芭蕉の古池も同じ範躊に属するものと見なければならぬ。この句において一歩を蹈出した[やぶちゃん注:「ふみだした」。]木導が、客観的天地に翺翔し、永く客観派の本尊として仰がれるとすれば、便宜この上もない話であるが、世の中の事実は遺憾ながらわれわれの誂(あつら)え通りに出来ていない。但[やぶちゃん注:「ただし」。]木導の句そのものは、「春風」の句に現れた客観趣味以外にもなお多くの語るべき内容を持っている。

[やぶちゃん注:「翺翔」鳥が空高く飛ぶように、思いのままに振る舞うこと。]

 

 『水の音』収むるところすべて三百五十九句のうち、第一に目につくのは嗅覚に属する句である。聴覚や嗅覚は文字に現すことが困難なので、動(やや)もすれば常套に堕し、誇張に傾く嫌がある。子規居士も梅が香を例に取って、歌人の感覚の幼稚なのを揶揄したことがあったが、木導の嗅覚はそんな平凡なものではない。同じ花の香であっても

 にんどうの花のにほひや杜宇     木導

 闇の夜になの花の香や春の風     同

の類になると、よほど常套を脱している。「梅が香」や「菊の香」の句にあっては、必要以上に「香」の字が濫用される結果、「香」はあるもなおなきが如き場合も少くないが、この二句の香は――句の巧拙は別問題として――そういう賛物(ぜいぶつ)ではない。読者は作者と共に、一応忍冬の香を嗅ぎ、菜の花の香を嗅がなければならぬ。平遠な闇夜の中に感ずる菜の花の香は、特異なものでも何でもないが、「暗香浮動月黄昏」を蹈襲する梅香趣味の比でないことは明(あきらか)ある。

[やぶちゃん注:「にんどう」「忍冬」マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica の別名で、生薬名としても知られる。花期は五~七月で、葉腋(ようえき)から花が二つずつ並んで咲き、夕方から甘い香りを漂わせる。

「杜宇」は「ほととぎす」。]

 

 けれども木導集中の嗅覚の句は、如上の程度を彷徨するのみではない。普通の人ならば厭がりそうな臭気の類までも、進んでこれを句中に取入れている。

 ぬり枕うるしくさゝよ夏座敷     木導

 牛臭き風のあつさや小松原      同

 五位鷺の糞のにほひや夏木立     同

 日覆の魚見せ涼し鮨の薫       同

[やぶちゃん注:上五は「ひおほひの」。座五は「すしのかざ」。]

 出がはりやわきがの薬和中散     同

 あせくさき蓑の雫や五月雨      同

 更ルほど汗くさくなるをどりかな   同

[やぶちゃん注:上五は「ふけるほど」。]

 うつり香の椀にのこるやはるの雨   木導

 あたらしき暦のかざや春の雨     同

 くれ合に硫黄の薫や窓の雪      同

[やぶちゃん注:「薫」は「かざ」。ここは上五から夕餉を用意するために、竈の火を点けるために火を起こすのに用いられた硫黄付け木(ぎ)の微かなそれを嗅ぎ分けたものであろう。]

 麦地ほる田土のかざや神無月     同

 藁くさき村の烟や冬のくれ      同

 「更ルほど」の句は『韻塞(いんふたぎ)』には「傾城(けいせい)の」となっている。粉黛を粧(よそお)った傾城が踊によって汗臭くなるというだけでは、単なる説明的事実に過ぎないが、「更ルほど」となると自ら別様の趣味を生じて来る。夜の更けるに従って踊見の人数も影えるのであろう。踊から発散するのと相俟って、そこに汗の香の漂うのを感ずる。作者は遠くから踊の光景を眺めているのでなしに、親しく踊場の群集の中に眺めているのである。

 小松原に漂う牛の臭、夏木立に感ずる五位鷺の糞の臭、木導の鼻は自然の中にこういうものを嗅出すかと思うと、新しい暦の紙のにおいだの、夕方の雪の窓に流れる硫黄のにおいだの、椀に残る何かの移り香だの、座辺のものにもその嗅覚を働かせている。その嗅覚は鋭敏ではあるが、決して病的ではない。また「小便の香も通ひけり萩の花」という一茶の句のように、殊更に現実暴露を試みた遊も見当らない。頗る自然であるのを多としなければならぬ。

 小路よりもろこ焼かやはるの雨    木導

[やぶちゃん注:「焼かや」は「やくかや」。「もろこ」は彼が彦根藩士であったことから、まず、琵琶湖固有種で「本諸子」或いは単に「諸子」と書く、日本産のコイ科 Cyprinidae の中でも特に美味とされ、炭火焼きが美味い条鰭綱コイ目コイ科カマツカ亜科タモロコ属ホンモロコ Gnathopogon caerulescens のことと考えてよい。]

 乗合の舟のいきれや五月雨      同

 すゝ払や囲炉裏にくばる蕃椒     同

[やぶちゃん注:上五は「すすはきや」、座五は「たうがらし」。よく判らぬが、これは煤掃きを終えた後、保存を兼ねて、秋に収穫した唐辛子を火棚(ひだな)に並べるか、吊るすかしたものではないか。その燻ぶりつつ乾燥してゆく匂いが漂っているものか。]

 十種香の客もそろふや春の雨     同

[やぶちゃん注:上五は「じつしゆかう」。香道で、数種の香十包を焚き、その香の名を聴き当てる遊び。]

 これらの句は表面に「香」を現していないけれども、やはり嗅覚の範囲に入るべきものであろう。乗合舟のむっとする人いきれや、囲炉裏に燻(くすぶ)る唐辛子は、必ずしも嗅覚にのみ訴える性質のものではないかも知れぬが、作者の鋭敏な鼻がそれに無感覚でいるはずはないからである。

 同じく元禄期の作者であるが、秀和(しゅうわ)に「鰯やく鄰にくしや窓の梅」という句がある。自分は現在梅が香を愛(め)でているのに、心なき隣人が鰯を焼くので、その臭によって梅が香の没了することを歎じたのである。この主眼が俚耳に入りやすいため、有名な句にはなっているが、鰯焼く臭のみならず、俗臭もまた強いのを遺憾とする。鰯焼く隣人を憎むことによって、逆に梅が香を現そうとしたのも、作為の譏(そしり)を免れぬ。木導の「小路よりもろこ焼かや」の句は、その点になると遥に自然である。小路から流れる香を嗅いで、諸子(もろこ)を焼いているのかなと感ずる。「かや」という言葉に多少の疑問を含めているのも、この場合かえって句中の趣を助けているように思う。『虞美人草』の中に、春雨の京の宿で閑談を逞しゅうしながら、台所から流れるにおいを嗅いで、「また鱧(はも)を食わせるな」というところがある。先ずあれに似た淡い趣であろう。

[やぶちゃん注:「虞美人草」の第三章に出る。但し、淡いというのが、当たるかどうか。そこでは、宗近が『だまつて鼻をぴくつかせて』、『「又鱧を食はせるな。每日鱧ばかり食つて腹の中が小骨だらけだ。京都と云ふ所は實に愚な所だ。もういゝ加減に歸らうぢやないか」』と苛立つと、と甲野欽吾が、『「歸つてもいい。鱧位(ぐらゐ)なら歸らなくつてもいゝ。しかし君の嗅覺は非常に鋭敏だね。鱧の臭(にほひ)がするかい」』と応酬するシーンである。漱石の神経症的な描写の背後の内実それは「淡い」なんてもんじゃなく、病的に深刻である。]

 

 以上嗅覚に属する十数句のうち、大半は撰集などに見えぬ、『水の音』においてはじめて逢著する句である。これを以て直に木導自身の趣味に帰するのは、やや早計の嫌があるかも知れぬが、少くとも考慮に入れる位の価値はありそうである。雨及雪の句が多いのは、空気がこもるとか、香が低く沈むとかいう常識以外に、何らか理由があるのかもわからない。

 

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