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2020/08/17

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 史邦 二 

 

       

 

 動物に関する史邦の句のうちで、ちょっと変ったものに穴熊がある。

 はち巻や穴熊うちの九寸五分     史邦

 これは穴熊を詠んだというよりも、穴熊を捕る人間の方が主になっている。が、他に季節のものが見えぬから、穴熊もしくは穴熊打を以て冬の季とするのであろう。尤も『小文庫』にはこの句の外に

 あな熊の寝首かいても手柄かな    山店

 丹波路やあなぐまうちも悪右衛門   嵐竹

の如き句を収めているので、さのみ異とするに足らぬようだけれども、その『小文庫』は史邦の編に成るのだから、全然史邦の興味外とするわけには行かない。

[やぶちゃん注:「九寸五分」刃の部分の長さが九寸五分(約二十九センチメートル)の短刀。「鎧通し」のこと。当時でも銃砲での狩りは武家の特殊グループに限られたから、ここは「穴熊擊ち」と言っても、燻ぶり出してそれでとどめを刺したものであろう。「穴熊」は「史邦 一」で既出既注。

「小文庫」既出既注であるが、再掲しておくと、史邦の編になる芭蕉の追悼集「芭蕉庵小文庫」(元禄九(一六九六)年刊)。

「山店」石川山店(さんてん 生没年未詳)伊勢山本の人。蕉門の石川北鯤(ほっこん)の弟。天和年間(一六八一年~一六八八年)に入門し、「虚栗」に初出。

「悪右衛門」戦国から安土桃山にかけての武将赤井直正(享禄二(一五二九)年~天正六(一五七八)年)の通称。赤井氏の実質的な指導者として氷上(ひかみ)郡を中心に丹波国で勢力を誇った豪族。「甲陽軍鑑」には「名高キ武士」として徳川家康・長宗我部元親・松永久秀らとともに、しかも筆頭として名が挙がっている(ウィキの「赤井直正」に拠る)。

「嵐竹」松倉嵐竹(生年未詳)本名は松倉文左衛門。蕉門最古参の門人松倉嵐蘭の弟。]

 

   此魚此川の名物とや

 涼しさや瀬見の小河の談儀坊     史邦

 「談儀坊」というのは魚の異名らしい。『見た京物語』に「目高(めだか)をだんぎぼうといふ」と書いてあるのは、土地の人のものでないだけに、固より不安を免れぬけれども、『人倫訓蒙図彙』に談儀坊売というものがあって、「こまかなるざこを桶に入れになひあるきだんぎぼうと云なり、これを都の幼少なる子供もとめ水鉢又は泉水に放ちなぐさみとするなり」と註してあるのを見れば、甚しく誤ってはおらぬように思う。もし談儀坊なる名の由来が『嬉遊笑覧』にある如く、「凡僧経論もみずに咄(はな)すを水に放すといふ秀句」であるとするならば、子供が水鉢や泉水に放すのを見て、『見た京物語』の著者が直に目高と心得るのも、一概に無理とはいえないからである。

 『和漢三才図会』などは石斑魚(いしぶし)の条において、「又背腹共黒談儀坊主」と記している。「いしぶし」ならば『源氏物語』その他平安朝のものに見えている魚である。京洛においても後には「いしもち」とのみ称(とな)えて、談儀坊とはいわぬという説もあるが、文献にのみよる考証は隔鞾搔痒(かっかそうよう)の感なきを得ない。『蕉門名家句集』には「談儀坊ハサギシラズト読ム」という註がある。サギシラズならば例の「鉄道唱歌」にも「扇(おうぎ)おしろい京都紅(きょうとべに)、また賀茂川の鷺(さぎ)しらず」とあり、京都名物として御馴染のものである。『俳書大系』なども最初は「談儀坊」に「さぎしらず」とルビを振ってあったが、普及版に至ってこれを削ってしまったので、何だかわけがわからなくなった。しかしこの句の場合はともかく、談儀坊というもの何時(いつ)でもサギシラズと読むとは限らぬのであろう。『猫の耳』にある次の句などは、やはり「ダンギボウ」と読んだ方がよさそうに思う。

   辻談議

 胸の月けもなし魚の談儀坊      問景

 談儀坊を句にしたのは勿論、史邦がはじめではない。古くは『あぶらかす』あたりにもこれを取入れたものがあるけれども、多くは談儀坊という名称から来た擬人的な興味を弄しているに過ぎぬ。史邦の句はその点では全く自然である。談儀坊そのものの姿は頗る漠然としているが、ここは涼しさを主にして味うべきであろう。「瀬見の小河」は有名な石川丈山の詠もあり、賀茂川のことであるのは贅するまでもあるまい。

[やぶちゃん注:「瀬見の小河」京都市左京区下鴨の東部を流れる川。賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)の「糺の森(ただすのもり)」の南で賀茂川に入る。「蟬の小川」。この中央(グーグル・マップ・データ)。但し、賀茂川の異名ともされ、宵曲も後のそうとっている。「新古今和歌集」の「巻第十九 神祇歌」にある鴨長明の一首に(一八九四番)、

   鴨社歌合とて人〻よみ侍りけるに、月を

 石川の瀨見の小川の淸ければ月も流れをたづねてぞすむ

とある。「月も」は賀茂の明神もそれでここに坐(ま)しますが、されば「月も」の意。

「談儀坊」(だんぎばう(だんぎぼう))は小学館「日本国語大辞典」では、『魚「めだか(目高)」の異名。だんぎぼうず』とする。これは意の②で、①では、「談義僧」のこととして、そちらには、『仏教の教えなどを、わかりやすくおもしろく説き聞かせる僧。また、教典などを講義する僧』とする。

「見た京物語」全一冊の京の見聞記。二鐘亭半山(木室卯雲:きむろぼうううん 正徳四(一七一四)年~天明三(一七八三)年:戯作者で俳人。幕臣。俳人慶紀逸門。狂歌も嗜み、幕府高官の目にとまった一首が縁で御広敷番頭(おひろしきばんがしら)に昇進したとされる。四方赤良(よものあから)らの天明狂歌に参加、噺本「鹿の子餅」は江戸小咄流行の先駆けとなった)著。天明元(一七八一)年八月序。著者が明和三(一七六六)年三月に小普請方として京都に赴任して、一年半ほど滞在した間に書き留めたものを、帰府後に自家版として知友に贈ったものを改めて公刊したもの。

「人倫訓蒙図彙」風俗事典。著者未詳。画は蒔絵師源三郎。元禄三(一六九〇)年刊。第七巻。各階層に於ける種々の職業・身分に簡潔な説明を加え、合わせて、それらの特徴的所作や使用される器物を描いた図を掲げる。巻一は公家・武家・僧侶に関するものを扱い、巻二以下は能芸部・作業部(主に農工)・商人部・細工人部・職之部という構成で、最終巻は遊郭・演劇・民間芸能などを載せる。京を中心に当時の風俗・生活を知るための貴重な資料である。「談儀坊売」は「商人部」ではなく、「作業部」の最後(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)に挙げられている。拡大すると、天秤棒の向かって右側の荷い桶の中に、小魚(私には金魚か出目金のように見える)が泳いでいるのが判る。

「嬉遊笑覧」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。当該部は、「第十二巻上」の終わりの方にある。所持する岩波文庫版第五巻(長谷川強他校注・二〇〇九年刊・新字)を基礎データとし、国立国会図書館デジタルコレクションの成光館出版部昭和七(一九三二)年刊の同書の下巻(正字)で校訂し、読点・記号等を変更・追加した。但し、孰れにも疑義のある表記個所があったが、取り敢えず、意味が通ずると考えた方を採った。

   *

だんぎぼう、「安布良加須」に、『水の中にも智者は有けり よの魚に敎化をやするや談義坊』。「洛陽集」に、『談義房氷の天井張られけり 春澄』。「人倫訓蒙圖彙」に、『談義坊賣あり。注云、こまかなるざこを桶に入て、になひあるき、「だんぎ坊」と賣也。此を都の幼少なる子供、もとめて、水鉢又は泉水にはなち、なぐさみとする也』。「大倭本草」に、杜父魚の條、『京師の方言に、「だんぎ坊主」といふ魚あり。杜父魚に似て、其形、背高し。是亦、杜父魚の類也』。「本草啓蒙」、『杜父魚、京にて「いしもち」、彥根にて「どぼ」、仙臺にて「かじか」、勢州にて「だんぎぼう」』(「物類稱呼」に諸方言を多く載たれども、「だんぎぼう」は他物をいへり)などあり。江戶にて「土※魚(ダボハゼ)」といふ物也[やぶちゃん注:「※」=「魚」+(「艹」+「甫」)。]。談義坊とは、凡僧、經論も見ずに咄すを、水に放すと云秀句にて、談義坊といふとぞ。小野蘭山晚年の說に、『この「石もち」といふ魚は、尾、圓し。杜父魚は「本草」に、「其尾岐」とあるにかなはず。「寧波府志」に出たる泥魚、是也』といへり。今按るに、處によりて異同有。其名も杜父魚・土※魚・泥魚、みな一名の轉じたると聞ゆ。こゝの名も亦然なり。トウマン(江州)、トチンコ(石州)、チンコ(同)、ドボ(彥根)、トウボウ(備前)、ドンホ(筑前)、トホウズ(作州)など一名の轉じたる也。さればダボハゼ・ダンギボウもおなじ名と聞ゆ。カシイ(駿州)、カコブツ(越前)、トングウ(筑後)、トンコツ(伊勢龜山)などいふも、又、おなじ。但し、カクブツはカハカジカ(仙臺)、カハヲコゼ(伏見)、ゴツポ(防州)などの名を略し、それに物といふことを添しにもあるべし。ダンギボウもタボトボといふを、やがて、談義坊主と拵へたる謔名也。「啓蒙」に此名を勢州方言としたるは、今は京師には「石もち」とのみいふにこそ。「芭蕉七部集」、『かくぶつや腹をならべて降霰 拙侯 杜父魚は河豚のやうなる魚にて、水上に浮ぶ。越の川にのみある魚也』と云り。

   *

少しだけ注しておく。総てやり出すと、博物学的に大脱線になるので、一部に留める。

・「安布良加須」は「油糟(あぶらかす)」で、松永貞徳著になる俳諧論書。寛永二〇(一六四三)年刊。「新増犬筑波集」の上巻に相当し、下巻の「淀川」とあわせて一巻とする。山崎宗鑑の「犬筑波集」所収の付合(つけあい)の前句に、新しく付句を試みて手本を示したものである。多様な方言を例示していて水産動物の博物誌に強い興味がある私には非常に面白い(面白いが、これは同定をさらに混同させはする)。後で宵曲が言っている「あぶらかす」は本書のこと。

・「洛陽集」は江戸前期の俳諧選撰集で自悦編。

・「大倭本草」(貝原益軒の「大和本草」)の「杜父魚」は私が「大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)」で電子化注してあるが、最後に確かにそう出てくるものの、そこに至る益軒の叙述からは「だんぎ坊主」をメダカに当てることは逆立ちしても、到底、不可能である。

・「かくぶつや腹をならべて降霰」座五は「ふるあられ」。この句は「続猿蓑」の「冬之部」に載るが、後書もあって、そこには、「杜夫魚(かくぶつ)は河豚(ふぐ)の大さにて水上に浮ぶ、越の川にのみあるうをなり」とある。しかして、これはスズキ目カジカ科 Rheopresbe属アユカケ Rheopresbe kazika のことを指す。本種は降河回遊型のライフ・サイクルを持つことで知られる(「カマキリ」という異名もよく知られる)。ウィキの「アユカケ」によれば、伝承として、『「冬に腹をみせて浮かび下る」とも言われる。霰(あられ)の降る晩に大きな腹を上にして浮かびながら川を下るため霰が腹を叩くという。地方名「あられがこ」の由来である。実際に冬に降河するアユカケは産卵を控え大きな腹をしている』ものの、『腹を見せて流下する様子は今のところ観察されていない』とある。また同種は、本州の太平洋側では茨城県久慈川以南に、日本海側では青森県深浦町津梅川以南、及び四国・九州に棲息するので、後書の限定とは矛盾する。これは思うに、淡水産カジカ類全般を「ゴリ」と呼ぶが、特に石川県金沢市周辺では、これらの魚(アユカケもその一種に含まれる)を用いた佃煮・唐揚げ・照り焼き・白味噌仕立ての「ゴリ汁」などの「ゴリ料理」が名物となっていることに関係する誤認であろうと思われれる。御当地料理の食材は他の国に同じものがあっても「違う」と喧伝したがるもので、作者も恐らく加越能出身の誰彼からか、或いは現地でそう聴かされて信じていたものであろう。私自身、実は若い頃、金沢のゴリ料理のゴリというのは金沢周辺にのみ棲息する淡水固有種のカジカ類だと勝手に思い込んでいたことを自白しておく。

・「拙侯」は大坂の人。詳細不詳。

   *

「『和漢三才図会』などは石斑魚(いしぶし)の条において、「又背腹共黒談儀坊主」と記している」私の「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」の「いしぶし 石斑魚」を見られたい。さすれば、「いしぶし」の登場する「源氏物語」の「常夏」冒頭のシークエンスの引用や拙訳も読める。因みにそこでは、喧々諤々の同定論争に嫌気がさして、「いしぶし」同定の一番人気は幼魚期を海で過ごす「通し回遊」をするハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae ウキゴリ属ウキゴリChaenogobius urotaenia、二番手は淡水産のカジカ亜目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux であろうかとかわして逃げている。まんず、騙されたと思って上記リンク先のそれを読まれたい。損は、させない自信はある。

「隔鞾搔痒」「鞾」は「靴」に同じい。

「蕉門名家句集」俳人で、蕉門を中心とした俳文学研究家にして兵庫の「なつめや書荘」店主安井小洒(明治一一(一八七八)年~昭和一七(一九四二)年:本名、知之)が昭和一一(一九三六)年に自社から刊行したもの。

「サギシラズ」「鷺不知」小学館「日本国語大辞典」に、『(あまりにも小さいので鷺の目にもとまらないという意)京都の鴨川でとれる雑魚(ざこ)のごくこまかいもの。また、それをつくだ煮にした食品。生きたまま沸騰した湯にとおし、薄口醤油と砂糖とを加えて長時間たきつめたもの。におい消しに生薑(しょうが)を入れることもある。京都の名物であるが、今日ではほとんど産しない』とあり、ネット上には琵琶湖産の「いさざ」(ハゼ科ゴビオネルス亜科ウキゴリ属イサザ Gymnogobius isaza を指すともあった。イサザは同属種の上記のウキゴリに似るが、小型であること、体側の斑点が不明瞭なこと、尾柄が長いことなどで区別され、琵琶湖固有種で、北湖に産する。琵琶湖にはウキゴリも棲息しており、イサザはウキゴリから琵琶湖の閉鎖空間で種分化が進んで生まれたものと考えられている。

「鉄道唱歌」「扇(おうぎ)おしろい京都紅(きょうとべに)、また賀茂川の鷺(さぎ)しらず」ウィキソースの「鉄道唱歌/東海道篇」から、五十三番を節で改行して示す(都は正字化した)。

   *

扇おしろい京都紅

また加茂川の鷺しらず

みやげを提げていざ立たん

あとに名殘は殘れども

   *

「俳書大系」昭和初期に刊行された勝峰晋風編のシリーズ「日本俳書大系」(日本俳書大系刊行会刊)。

「猫の耳」越智越人編の享保一四(一七二九)年十一月の俳諧撰集。

「胸の月けもなし魚の談儀坊」「胸の月」は悟りを開いた心を清く澄む月に喩えて、心が清いさまにも使う。秋の季題。「けもなし」はそんな禅機の「氣も無し」(かけらもない)と「毛も無し」で「坊」主の頭に掛けて「談儀坊」を引き出したのであろう。駄句だが、この場合の「談儀坊」が頭でっかちのゴリ類がイメージとしてはよかろうかい。

「問景」不詳。事蹟がネットでも掛かってこない。

『「瀬見の小河」は有名な石川丈山の詠もあり』「石川丈山」は「丈艸 六」に既出既注。この詠とは、

   鴨河をかぎり、都のかたへいつましきとて
   よみ侍りける

 わたらじな瀨見の小河の淺くとも

    老いの波そふ影もはづかし

である。ウィキの「石川丈山」などには、丈山は老いて後、洛北の一乗寺に詩仙堂を構えて隠棲していたが、ある時、『後水尾上皇からお召しがあった』。しかし、丈山は『「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波たつ影は恥かし」と詠んで断った。上皇はその意を了として丈山の歌を「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波そふ影は恥かし」と手直しして返したという』などという清貧のエピソードとして記しているが、事実はこんな風流な話とは全く違う事実に基づく作歌理由がある。丈山は実は晩年、「出身地の三河に帰りたい」という願いを徳川幕府に願い出たが、京都所司代板倉重宗が許さず、これに憤慨して詠んだのが本歌であるというのである。その詳しい背景や経緯は、伊藤勉氏の論文「鴨河倭歌考」に非常に詳しい。事実を知るほどに、板倉への怒りがいやさかとなる。御一読あれ。]

 

 数珠掛はどの木に啼や栗の花     史邦

 「数珠掛」は「数珠掛鳩」の略である。鷺に「五位」といい、鴨に「羽白(はじろ)」という。俳句にはよくある略語である。どういう場所であるか、はっきりわからないけれども、相当木の茂っているところらしく、栗の花の連想があるせいか、どんより曇っている日のような感じがする。数珠掛鳩がしきりに鳴くが、声ばかりで姿は見えぬのである。子規居士の『病牀六尺』に、松山ではこの鳥が「トシヨリコイ」と鳴く旨が記されてあったと思う。

[やぶちゃん注:「数珠掛」は「じゆずかけ(じゅずかけ)」。ハト目ハト科キジバト属ジュズカケバト Streptopelia risoria。和名は後頸部に半月状の黒輪があることによる。博物誌は「和漢三才圖會第四十三 林禽類 斑鳩(はと)(シラコバト・ジュズカケバト)」の私の注を参照されたい。鳴き声と動画はManyamou氏の「ジュズカケバト(大宮公園小動物園)」がお薦め。]

 

 広沢やひとり時雨るゝ沼太郎     史邦

 広沢は池の名で、古来月の名所になっている。「沼太郎」の語には二説あって、鴻(おおとり)のことだともいい、沼の大きなことだともいう。柳亭種彦(りゅうていたねひこ)がどは「山の太郎は富士なり、川の太郎は利根なり、それ等に対して、こゝは沼太郎なりといひたて、余所には知らぬ時雨に孤(ひとり)ぬるゝと、広沢の広き光景をいひたるなり。池太郎といふべきを沼太郎と転じたるは、俳諧のはたらきなるべし」と断じているが、この説には俄(にわか)に従いにくい。広沢という語が直に池を現しているにかかわらず、下に沼太郎の語を添えるのは、俳句として働きのあるものでないし、かつ池を沼にいい換えるなどは、働きかも知れぬがむしろ窮した方である。これを鴻のこととすれば、蕭条たる広沢の時雨の中に唯一羽鴻が浮んでいる光景になって、画面に中心を生ずると共に、自ら魂が入って来る。「ひとり時雨るゝ」という言葉も、鳥の形が大きいだけに、この場合適切なように思う。これが唐崎の松とか、何もない枯野の中の一つ松とかいうものならば、種彦のいわゆる「時雨に孤ぬるゝ」という感じも受取れるであろうが、広沢の池の広い感じを現すものとしてはどうも工合が悪い。種彦はまた雁を沼太郎というのは近江の方言だから、京師の句に用いるべきいわれはないとか、この「や」は「は」に通う「や」で、もし雁の事とすれば「広沢に」といわなければならぬとかいう説をも述べている。しかしそれらはやや理窟にわたる弁で、太郎という語の考証などに力を入れず、直にこの句の趣を味えば、鴻の句として十分その妙を感じ得べきはずである。同じ元禄時代の「かれ枝やひとり時雨るゝてりましこ 彫棠」などという句を併せ考えても、ひとり時雨るるものが何であるかは、自ら明でなければならぬ。それでもまだ足りなければ、史邦の動物に対する興味ということを持出しても構わない。要するにこの句を以て「広沢はひとり時雨ると沼太郎」の意と解する種彦説では、大した趣を感ずることは出来ないが、鴻を登場させるに及んで、はじめて生趣躍動するのみならず、史邦の面目を発揮し得たものとなる。その意味においてこの句もまた動物を詠じた一に算えたいのである。

[やぶちゃん注:「沼太郎」カモ目カモ亜目カモ科マガン属オオヒシクイ Anser fabalis middendorffii ととってよかろう。全長九〇センチメートルから一メートルと大型で、体型や頸部が長く、嘴は細長い。夏季にシベリア東部で繁殖し、冬季になると、中国や日本へ南下する。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」でも「ひしくい」に同定されておられ、語注に、『和名、ひしくい。『俚言集覽』に「近江・美濃のあたり、雁の大いなるを沼太郎と言ふといへり」とある。全体は暗褐色で腹と尾羽の先が白い。本来は秋の季語』とされる(本句は「時雨」で冬)。そうとうれば、既にして発句を好んで諧謔化する種彦のような説明にならぬ逆立ちした語釈は不要である。そもそも史邦は尾張犬山の出である。地理情報と用語をリンクさせねばならない縛りなど俳諧にはない。だったら、芭蕉は「奥の細道」で東北弁で句を創らなくてはなるまいよ、柳亭はん。

「柳亭種彦」(天明三(一七八三)年~天保一三(一八四二)年)は江戸の合巻作家。名は左門、主税。旗本高屋甚三郎知義の長男として江戸に生まれ、下谷御徒町の御先手組屋敷で育った。寛政八(一七九六)年に家督を相続、若い頃唐衣橘洲に狂歌を学び、文化初年頃(一八〇四年頃)から戯作活動に入った。「源氏物語」に材をとった「偐紫田舎源氏」(にせむらさきいなかげんじ)が大好評を得て、合巻界の第一人者となった(歌川国貞画)。同作は文政一二(一八二九)年から始まり、死去により未完で終わった(本作で彼は幕府の咎めを受けて絶版となり、その直後に病没しているが、自殺であったとも言われる)。一方で考証家としても優れた考証随筆を残している。

「てりましこ」「照猿子」で、スズメ目アトリ科ヒワ亜科ベニマシコ属ベニマシコ Uragus sibiricus の異名。日本では夏鳥として北海道、青森県下北半島で繁殖し、冬鳥として本州以南へ渡り、越冬する。ほぼスズメと同じ大きさで、嘴は丸みを帯びて短く、肌色をしている。♂は全体的に紅赤色を帯び、目先の色は濃い。夏羽は赤みが強くなる。頰から喉、額の上から後頭部にかけては白い。背羽に黒褐色の斑があり、縦縞のように見える。♀は全体的に明るい胡桃色で、頭部・背・喉から胸・脇腹の羽毛に黒褐色の斑があり、全体に縞模様があるように見える。この「照猿子」とその映えから考えて、♂の映像であろう。

「彫棠」青地彫棠(ちょうとう ?~正徳三(一七一三)年)は松山藩の江戸詰めの藩医青地伊織。其角門の代表的俳人として江戸で活躍した。晩年は周東と号した。]

 

 泥亀や苗代水の畦づたひ       史邦

 『猿蓑』にはこうなっているが、これは去来の書誤りで、「畦づたひとうつりとは形容風流格別なり。殊に畦うつりして蛙啼くなりともよめり。肝要のけしきをあやまること筆の罪のみにあらず、句を聞くことのおろそかに侍る故なり」といって、芭蕉が不機嫌だったという話の残っている句である。其角の「此木戸や鎖(じょう)のさゝれて冬の月」と共に、「猿蓑誤字物語」の一に算うべきものであろう。

 「畦づたひ」と「畦うつり」では、芭蕉のいう通り大分感じが違う。この句を冷かしたわけでもあるまいが、其角に「苗代や座頭は得たる畝(あぜ)伝ひ」という句があったはずである。単にのろのろした泥亀が畦づたいに歩いているというよりは、畦から畦へ移るという方が趣としても面白い。

[やぶちゃん注:以上の話は「去来抄」に載るもの。しかし、宵曲のこういう仕儀は戴けない。ちゃんと正しい句を示すべきである。

 泥龜(どろがめ)や苗代水(なはしろみづ)の畦(あぜ)づたひ

である。「去来抄」のそれは、「同門評」の以下。

   *

  泥がめや苗代水の畦うつり    史邦

さるミの撰に、予誤て畦つたひと書。先師曰、畦うつりと傳ひと、形容風流各別也。殊に畦うつりして蛙なく也ともよめり。肝要の氣色をあやまる事、筆の罪のみにあらず。句を聞事のおろそかに侍るゆへ也と*、機嫌あしかりけり。

   *

『其角の「此木戸や鎖(じょう)のさゝれて冬の月」と共に、「猿蓑誤字物語」の一に算うべきもの』同じく「去来抄」に載るトンデモ誤読事件。しかも、読み違えたのは、芭蕉自身であったと考えてよい。投句された際、草書でさらに字が詰まっていたために「此木戶」を「柴ノ戶」と読み違えてしまったのである。「去来抄」の「同門評」の以下。

   *

  此木戶や錠のさゝれて冬の月    其角

猿みの撰の時此句を書おくり、下を冬の月・霜の月置煩ひ侍るよしきこゆ。然るに初は文字つまりて、柴(シバ)ノ戶と讀たり。先師曰、角が冬・霜に煩ふべき句にもあらずとて、冬月ト入集せり。其後大津より先師の文に、柴戶にあらず、此木戶也。かゝる秀逸は一句も大切なれば、たとへ出板に及とも、いそぎ改むべしと也。凡兆曰、柴戶・此木戶させる勝劣なし。去來曰、此月を柴の戶に寄て見侍れば、尋常の氣色也。是を城門にうつして見侍バ、其風情あはれに物すごくいふばかりなし。角が冬・霜に煩ひけるもことはり也。

   *]

 

 史邦の動物に関する句が往々微細な観察にわたっていることは、前にも一、二の例を挙げたが、なお少しくこれを説かなければなるまい。

 由来なき絵や書壁の蝸牛       史邦

[やぶちゃん注:「書」は「かく」。]

の如きは、いずれかといえば特色の乏しいもので、所詮蕪村の「蝸牛や其角文字のにじり書」[やぶちゃん注:「ででむしやそのつのもじのにじりがき」。]に如(し)かぬであろう。が、

 蟷螂のほむらに胸のあかみかな    史邦

の句になると、大分史邦らしい特色がある。『小文庫』には「小見」といふ前書があって、

   大見

 稲妻やうみの面をひらめかす 史邦

[やぶちゃん注:「面」は「おもて」。]

の句に対している。大見、小見の語は別に説明がないけれども、その句から考えると、先ず大見は壮大なる観察、小見は繊細なる観察というようなことになるのではないかと思う。但この時代の観察は後ほど客観に徹せぬため、この「ほむら」と「胸のあかみ」なども、いささか即き[やぶちゃん注:「つき」。]過ぎる憾[やぶちゃん注:「うらみ」。]がないでもない。ここでは蟷螂の胸に眼を著けた史邦の「小見」に或価値を認めるまでである。

 

 あたままで目でかためたる蜻蛉かな  史邦

[やぶちゃん注:「蜻蛉」は「とんぼ」。]

 これなども、蟷螂の句と同じく、「小見」に属すべきものであろう。蜻蛉の眼玉を材料にしたものは、近頃の童謡にもある。ルナアルの『博物誌』などは存外この眼玉を閑却しているようだけれども、あの眼玉は慥(やしか)に特異なものである。俳人の観察は疾(はや)くからここに注がれており、史邦の句の外にも次のような句が残っている。

 蜻蛉のつらうちはみな目玉かな    才角

 蜻蛉の顔は大かた眼玉かな      知足

 句集刊行の順序からいうと、史邦の句の出ている『猿舞師(さるまわし)』が元禄十一年、才角の『俳諧曾我』が十二年、知足の『東華集』が十三年で、殆ど先後を論ずるほどの差は認められない。これらは同工異曲と称すべきもので、蜻蛉の眼玉の感じから期せずして一致したものであろう。それだけに史邦の独擅場というわけには行かないが、「つらうちはみな目玉」とか、「顔は大かた眼玉」とかいうよりも「あたままで目でかためたる」という方が何分か積極的なところがある。やはり動物に関する興味の一片と見るべきものである。

[やぶちゃん注:「ルナアルの『博物誌』などは存外この眼玉を閑却しているようだ」私の『ジュール・ルナール「博物誌」ピエール・ボナール挿絵付 附 Jules Renard “Histoires Naturelles” 原文+やぶちゃん補注』から、訳のみ引く。

   *

 

   蜻蛉(とんぼ)   La Demoiselle

 

 彼女は眼病の養生をしている。

 川べりを、あっちの岸へ行ったり、こっちの岸へ来たり、そして腫(は)れ上がった眼を水で冷やしてばかりいる。

 じいじい音を立てて、まるで電気仕掛けで飛んでいるようだ。

 

   *

「才角」不詳。

「知足」下里知足(寛永一七(一六四〇)年?~宝永元(一七〇四)年)。本名は吉親。尾張国鳴海村(現在の名古屋市緑区鳴海町)の千代倉という屋号の造り酒屋の当主で富豪。庄屋を勤める傍ら、井原西鶴や松尾芭蕉ら、多くの俳人・文人と交流した「鳴海六俳仙」の一人。

「猿舞師」種文編。

「俳諧曾我」白雪編。

「東華集」支考編。]

 

 史邦の馬糞の句のことは前に一言した。あれも前書附であったが、もう一つある馬糞の句にもまた前書が附いている。

   牢人して住所を去る比
   親疎の面々に対して

 似た物や馬糞つかみにあかさしば   史邦

 前書附の場合に二度まで馬糞を用いたのは、果して史邦の興味であるかどうかわからぬが、この「似た物」の句は十分にわからない。

[やぶちゃん注:「史邦の馬糞の句のことは前に一言した」「史邦 一」を見よ。「似た物や」の句意や感懐は私にはよく判らぬ。

「あかさしば」鳥綱タカ目タカ科サシバ属サシバ Butastur indicus の、背の部分の羽の色が褐色を呈している個体を指すようである(但し、この呼称は江戸以降)。「さしば」は「立ち上がる」・「一定方向に直線的に運動する」の意の「さし」に、「鳥」を意味する「羽」がついたものであるらしい。サイト「鳥小屋」のこちらを参照した。私の好きな鷹である。]

 

 霞野や明立春の虎の糞        史邦

[やぶちゃん注:「明立」は「あけたつ」。]

 寒菊や赤土壁の鷹の糞        同

   幻住庵にて

 枯柴やたぬきの糞も庵の門      同

 史邦の句にはなおかくの如き動物の糞の句がある。第一の句は当時としては空想の句に外ならぬが第二、第三の句はいずれも写生句であろう。幻住庵の門前に狸の糞があるなどは、場所が場所だけにスケッチとしても面白い。昔子規居士(しきこじ)が「糞の句」の題下に鳥獣の糞の句を列挙したことがあるが、あの中にも狸の糞は見当らぬようであった。居士は美醜の標準から糞の句を見、俳人の観察区域が遂にこの辺にまで及ぶものとした。それはその通りであるが、われわれは史邦の句に関する限り、これも動物に附随する意味のものとして見たいと思っている。

 史邦の動物に関する句の中には、以上のようなものの外に、

   題鷹山別

 正行がおもひを鷹の山わかれ     史邦

[やぶちゃん注:「正行」は「まさつら」で、楠木正成の嫡男で「小楠公」と呼ばれた正行(?~正平三/貞和四(一三四八)年)のこと。父の戦死の後、南朝軍として活躍、河内守・摂津守となったが。河内の「四条畷(しじょうなわて)の戦い」で高師直・師泰の軍に敗れて自害した。前書は「鷹の山別れに題す」で、父正成との今生の別れは「桜井の別れ」として知られるが、それを「親子鷹の別れ」と捉え、鷹の巣立ちを意味する「山別れ」としたのであろうとは思う。]

の如く、何者かを仮託せんとしたものがあり、

 どかぶりの跡はれ切るや鵙の声    史邦

 帷子は日々にすさまじ鵙の声     同

などの如く、動物そのものの観察よりも季節の感じを主にしたものもある。「どかぶり」の句は今日どしゃ降などいうのと同じく、豪雨のあと一天拭うが如く晴れ渡った中に、鵙の高音を耳にするの意であろう。一読爽(さわやか)な秋晴の空を仰ぐが如き思がある。「帷子」の句は秋に入ってなお帷子を著ている場合、日ごとに凄涼の感を深うするというので、前とは全然異った背景の下に鵙の声を点じ、自ら別様の趣を捉えている。共に好句たるを失わぬ。

[やぶちゃん注:「鵙」私の好きなスズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus。本邦ではほかに、アカモズ Lanius cristatus superciliosus・シマアカモズ Lanius cristatus lucionensis・オオモズ Lanius excubitor・チゴモズ Lanius tigrinus が見られる。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵙(もず)(モズ)」を参照されたい。

「帷子」は「かたびら」。夏の麻の着物。古くは「片枚 (かたひら)」と記し、裏のない衣服を総てこう呼んだが、江戸時代には「単 (ひとえ) 仕立ての絹物」に対し、麻で仕立てられたものを「帷子」と称した。武家のしきたりを書いた故実書によれば、帷子は麻に限らず、生絹 (すずし) ・紋紗 (もんしゃ) が用いられ、江戸時代の七夕や八朔 (はっさく:陰暦八月一日) に着用する白帷子は七夕には糊をつけ、八朔それには糊をつけないのを慣わしとしていた。浴衣も湯帷子が本来の名称であった(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

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