甲子夜話卷之六 17 武州への天子來り玉ふこと有る考
6-17 武州への天子來り玉ふこと有る考
成島邦之助【司直】云。昔より武藏國へ天子の來り給ふ事は無き事なるに、此頃風と見出したり。承應三年九月、嚴廟右府御轉任の時、花町兵部卿宮下向ありて、雲光院を旅館とし、中川修理大夫館伴を勤めしこと、御日記に見ゆ【此雲光院は、淨土宗龍德山雲光院。光嚴敎寺とて、元馬喰町にあり。阿茶の局建立なれば、當時さぞ莊嚴なることにて有けん。今は深川靈巖寺の隣に移されたり】。兵部卿宮は後水尾帝の皇子にて、後光明帝御早世により、兵部卿宮御踐祚あり。後西院と申奉りし也。さあれば武州へ天子來り給ふも同じ事なりと云。此花町宮と申は、古くは櫻町宮とも云。今有栖川宮と云家なり。
■やぶちゃんの呟き
表題の「考」は「かう(こう)」と音読みしておく。
「成島邦之助【司直】」成島司直(なるしまもとなお 安永七(一七七八)年~文久二(一八六二)年)は儒学者・歴史家・政治家・文筆家・歌人にして江戸幕府奥儒者。東岳及び翠麓と号した。極官は従五位下・図書頭。幕府の正史である「御実紀」(通称「徳川実紀」)の編集主幹であった。ウィキの「成島司直」によれば、天保一二(一八四一)年七月十四日(一八四一年八月三十日)には「御実紀」の発起人にして統括であった静山とも懇意で本書にもしばしば登場する『林述斎が死去し、司直が公的にも正史事業の主宰者になる。さらに』、天保十四年四月には第十二代将軍徳川家慶の『日光東照宮参詣にも陪従』、『栄華の極みにあった』が、「御実紀」『完成直前の』天保一四(一八四三)年十月、『突如、御役御免と隠居謹慎を言い渡され、子の筑山まで連座で罰せられてしまう』。『御実紀調所』(「御実紀」編集本部に相当する)は『昌平坂学問所に移され、その正本全』五百十七『巻は、述斎・司直という史学界の両巨頭が不在のまま、同年』十二月(一八四四年初頭)、『家慶に献上されることとなった』。『その後、司直は、死までの』二十『年間近く、幕府に再び用いられることはなかった』。『失脚の理由は一切公表されず、現在でも憶測の対象になっている』。『木村芥舟によれば、家慶に寵用され、たびたび外政にも干渉したので、それを妬んで讒言した者がいたからだという』。『岡本氏足(岡本近江守)によれば、その妬んだ者とは目付の鳥居耀蔵であるという』『(ちなみに耀蔵は司直の元上司・林述斎の二男でもある)』。『山本武夫は、司直失脚は、天保の改革の主導者だった水野忠邦の失脚』(同年閏九月十三日)『の直後であることから、これと関係があるのではないか、と推測している』。後、嘉永二(一八四九)年十一月に、子の筑山が「御実紀」『副本を完成させたことで賞賜され、司直の存命中に成島家は名誉回復されている』とある。
「風と」「ふと」。
「承應三年九月」一六五四年十月相当。しかし、これは「承應二年」の誤りのようである。後注参照。
「嚴廟右府御轉任」「嚴廟」は第四代将軍徳川家綱の諡号「厳有院」の略。「右府御轉任」以下は彼が承応二(一六五三)年七月十日(「幕府祚胤伝」では八月十二日)に右大臣に転任(右近衛大将兼任如元)したことを指す。
「花町兵部卿宮」後の後西(ごせい)天皇(寛永一四(一六三八)年~貞享二(一六八五)年/在位:承応三年十一月二十八日(一六五五年一月五日)~寛文三(一六六三)年三月)。諱は良仁(ながひと)。幼名は秀宮。別名を花町宮(はなまちのみや)・花町殿と称した。ウィキの「後西天皇」によれば、『後水尾天皇の第八皇子。母は典侍の逢春門院・藤原隆子(左中将櫛笥隆致の娘)』。元後水尾天皇の第四皇子であった『後光明天皇が崩御した時、同帝の養子になっていた実弟識仁親王(霊元天皇)はまだ生後間もなく』、『他の兄弟は全て出家の身であったために、識仁親王が成長し』て『即位するまでの繋ぎ』『として』の即位であった。但し、『即位の前年には兄である後光明天皇の名代として江戸に下っている』とある。なお、後西『天皇に譲位を促させた勢力として、後水尾法皇説』『・江戸幕府説』『が挙げられ、更に有力外様大名(仙台藩主・伊達綱宗)の従兄』(綱宗の母が後西天皇の母方の叔母に当たる)『という天皇の血筋が問題視されたとする説がある』一方、『譲位はあくまでも後西天皇の自発的意思であったとする説も出されている』とある。以上、太字や下線部から、本文の「承應三年九月」は「承應二年九月」の誤りと思われる。月遅れの名代到着は問題ない。鎌倉時代からそうである。
「雲光院」現在は東京都江東区にある浄土宗龍徳山雲光院(グーグル・マップ・データ)。慶長一六(一六一一)年に徳川家康の側室阿茶局(戒名:雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉)の開基。元々は、現在の日本橋馬喰町にあったが、火事等で度々、移転を繰り返し、天和三(一六八三)年に現在地に移転した。静山が本項を書いた当時は既に現在位置にあった。但し、花町兵部卿宮が旅所とした際、元の日本橋馬喰町にあったものかどうかは判らぬ。
「中川修理大夫」不詳。時制上からは豊後国岡藩三代藩主中川久清(慶長二〇(一六一五)年~天和元(一六八一)年)が相応しいが、「寛政重脩諸家譜」も見たが、彼は修理大夫になったことはない(彼の祖父久成や第八代藩主久貞は修理大夫であるが、時制が全く合わない)。
「館伴」「くわんばん(かんばん)」接伴役。御馳走役。
「莊嚴」「しやうごん(しょうごん)」。
「靈巖寺」先のグーグル・マップ・データの雲光隂の北西三百メートル弱の位置にある浄土宗道本山東海院霊巌寺。
「後光明帝御早世」享年二十二。
「有栖川宮」後西天皇の第二皇子有栖川宮幸仁親王が寛文七(一六六七)年に高松宮を継承したが、後の寛文十二年に有栖川宮と宮号を変更している。