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2020/08/31

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 一笑 一

 

[やぶちゃん注:小杉一笑(承応二(一六五三)年~元禄元(一六八八)年十二月六日)は蕉門の俳人で加賀金沢の茶葉商人。通称は茶屋新七(清七とも)。高瀬梅盛(ばいせい)の門人であったが、芭蕉に傾倒し、特に貞享四(一六八七)年に蕉門の江左尚白(こうさしょうはく慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年:姓は「えさ」とも。近江の医師。原不卜(ふぼく)らに学び、貞享二(一六八五)年、三上千那とともに松尾芭蕉に入門。近江蕉門の古老として活躍したが、後には離脱した。本姓は塩川)が撰した「孤松(ひとつまつ)」(近江大津で刊行)には実に百九十余句が収録された。彼は芭蕉が最も注目した若手俳人で、恐らく「孤松」刊行前には蕉門に入門しているものと思われる。享年三十六歳。芭蕉に対面するのを心待ちにしていたが、遂に逢うことなく、亡くなった。芭蕉は彼の死を知らぬままに、元禄二年三月二十七日に「奥の細道」の旅に出、彼もまた、金沢で文の遣り取りのみであった愛弟子一笑に逢うことを最も楽しみにしていたのであったが、金沢に着いて、彼が対面したのは、一笑の墓だったのである。彼の句は他に「俳諧時勢粧」(いまようすがた・松江重頼(維舟)編・寛文一二(一六七二)年成立)・「山下水」(梅盛編・寛文一二(一六七二)年刊)・「大井川集」(重頼編・延宝二(一六七四)年)・「俳枕」(高野幽山編・山口素堂序・延宝八(一六八〇)年刊)・「名取河」(重頼編・延宝八(一六八〇)刊)・「阿羅野」(山本荷兮編・元禄二(一六八九)年刊の芭蕉俳諧七部集の一つ。但し、一笑死後の刊行)などに続々と句が採られている。特に先に挙げた「孤松」によって、上方でもその名が広く知られるようになった。追善集は兄丿松(べっしょう)編の「西の雲」で、芭蕉の本句を始めとして諸家の追悼句及び一笑の作百四句を収めている。墓は石川県金沢市野町にある浄土真宗大谷派願念寺境内に一笑塚(グーグル・マップ・データ)としてある。サイド・パネルの画像も見られたい。]

 

     一  笑

 

       

 

 芭蕉が「奥の細道」旅行の帰途、北陸道を辿って金沢に入ったのは七月十五日、あたかも盂蘭盆(うらぼん)の日であった。ここにおいて一笑が墓を弔(とむら)い、有名な秋風の一句をとどめたことは『奥の細道』の本文に次のように出ている。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

一笑と云ものは此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知(しる)人も侍しに去年(こぞ)の冬早世したりとて、其兄追善を催すに

  塚も動け我泣声はあきのかぜ

[やぶちゃん注:芭蕉の金沢到着から七日目の七月二十二日、小杉家菩提寺の金沢市野町(のまち)にある浄土真宗大谷派願念寺に於いて、兄の小杉丿松によって一笑追善供養が催され、本句はその席で詠まれたものである。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風』も是非、参照されたい。]

 

 一笑という俳人は元禄に二人ある。加賀金沢の小杉一笑、尾張津嶋の若山一笑である。芭蕉の悼んだ一笑が前者であることはいうまでもあるまい。

[やぶちゃん注:「若山一笑」(生没年未詳)尾張津島の人。貞門の俳人として寛文時代から活躍。「あら野」に入句している。なお、他に大阪(難波)にいた伊賀時代からの旧友の俳人保川一笑もいるようである(私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ――燕子花かたるも旅のひとつかな 芭蕉』を参照されたい)。]

 

 一笑ははじめ高瀬梅盛門で、後に蕉門に入ったのだといわれている。延宝八年の『白根草(そらねぐさ)』には、名前が載っているだけで句は見えぬが、天和元年の『加賀染(かがぞめ)』には

 餝レり蓬萊既伊勢海老の山近ク    一笑

[やぶちゃん注:「餝レり蓬萊」は「かざれりはうらい」、「既伊勢海老の」は「すでにいせえびの」で孰れも確信犯の字余り。「蓬萊」は中国で東方の海上にあって仙人が住む不老不死の地とされる霊山であるが、この蓬萊山を象った飾りを正月の祝儀物として用いた。その飾台を「蓬萊台」。飾りを「蓬萊飾り」と称する。蓬萊飾りは三方の上に一面に白米を敷きつめ、中央に松・竹・梅を立てて、それを中心に橙(だいだい)・蜜柑・橘(たちばな)・勝ち栗・ほんだわら(海藻のホンダワラ)・柿(干し柿)・昆布・海老を盛り、縁起物に広く使われるユズリハの葉やウラジロ(シダ)を飾る。これに鶴亀や尉(じょう)と姥(うば)などの祝儀物の造り物を添えることもある。京坂では正月の床の間飾として据え置いたが、江戸では蓬萊のことを「喰積(くいつみ)」とも称し、年始の客には、まず、これを出し、客も少しだけこれを受けて、一礼して、また元の場所に据える習慣があった。ミニチュアをクロース・アップして面白い。]

 引息や霧間の稲妻がん首より     同

[やぶちゃん注:上五は「ひくいきや」。この句、句意が摑めぬ。識者の御教授を乞う。ただ、以下の其角の「重労の床にうち臥シ」「息もさだまらず、この願のみちぬべき程には其身いかゞあらんなど気づかひける」という謂い、三十六の若さで亡くなっていることに「引く息」をゼイゼイとする、病的な吸気の様子ととるならば、彼は或いは重度の喘息か、労咳、結核だったのではあるまいか? そうすると、この一句、凄絶なワン・ショットとして私の胸を撲つのであるが。]

   見かよひし人の追善に

 あのやうにかづきを著たか卒都婆の雪 同

の如きものがある。蕉門に入ったのは何時(いつ)頃かわからぬが、混沌たる過渡期を経た一人であることは、ほぼこの句によって察することが出来る。蕉門に入ったといっても、芭蕉に親炙(しんしゃ)する機会もなく、ただ「此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍し」という程度だったのであろう。

 芭蕉が生前相見るの機を得なかった一笑に対し、「塚も動け」というような強い言葉を以て哀悼の情を表したのは、長途の旅次親しくその墓を掃ったためではあるが、芭蕉をしてかく叫ばしめた所以のものは、おおよそ二つあるように思う。其角が『雑談集』に記すところは左の通りである。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

加州金沢の一笑はことに俳諧にふけりし者也。翁行脚の程お宿申さんとて、遠く心ざしをはこびけるに、年有て重労の床にうち臥シければ、命のきはもおもひとりたるに、父の十三回にあたりて歌仙の俳諧を十三巻、孝養にとて思ひ立けるを、人々とゞめて息もさだまらず、この願のみちぬべき程には其身いかゞあらんなど気づかひけるに、死スとも悔なかるべしとて、五歌仙出来ぬれば早筆とるもかなはず成にけるを、呼(かたいき)に成ても[やぶちゃん注:「なりても」。]猶やまず、八巻ことなく満ン足して、これを我肌にかけてこそ、さらに思ひ残せることなしと、悦びの眉重くふさがりて

 心から雪うつくしや西の雲      一笑

  臨終正念と聞えけり。翌年の秋翁も越の白根をはるかにへてノ松が家に其余哀をとぶらひ申されけるよし。

 

 芭蕉が「奥の細道」の長途に上ることは、恐らく前々からの計画で、帰りに北陸に遊ぶこともほぼ予定されていたのであろう。金沢の一笑はこの消息を耳にして、胸の躍るを禁じ得なかったに相違ない。「お宿申さんとて遠く心ざしをはこびけるに」という一事を以ても、如何にその情の切だったかがわかる。しかるに一笑はその後病牀に呻吟(しんぎん)する身となり、芭蕉が江戸を発足する前年、元禄元年十一月六日に、三十六歳を一期(いちご)としてこの世を去ってしまった。もう一年早かったら、親しく語るべかりし未見の弟子の墓を、芭蕉は来り弔ったのである。一たび芭蕉に見(まみ)えむと欲して、その志を果さなかった諸国の門葉(もんよう)は、固より少からぬことと思うが、一笑の場合は当然相見るべき順序であり、両方そのつもりでいたにかかわらず、師の筇(つえ)を曳くのを待ちかねて、年若な弟子の方が先ず歿したのであるから、芭蕉も塚に対して愴然(そうぜん)たらざるを得なかったであろう。「塚も動け」の一句には慥(たしか)に芭蕉のこういう情が籠っている。

 第二は俳諧に対する執著である。これも単なる数寄でなく、亡父十三回忌の孝養という意味も大に考慮しなければならぬが、重苦の病牀に十三巻の俳諧を成就せんとして、片息になってもなお棄てず、漸く八巻だけ満尾(まんび)し、これを肌に掛けて死ねば何の思い残すところもない、といったあたり、百世の下、人を打たずんば已まぬ槪(がい)がある。芭蕉も難波に客死するに当り、「旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」の一句を得、「はた生死の転変を前におきながら発句すべきわざにもあらねど、よのつね此道を心に籠めて年もやゝ半百に過ぎたれば、いねては朝雲烟の間をかけり、さめては山水野鳥の声におどろく。是を仏の妄執といましめ給へる、たゞちに今の身の上に覚え侍るなり」と語ったと『笈日記』は伝えている。自ら「此一筋に繋る」と称した俳諧をさえ、竟に妄執と観ぜざるを得なかった芭蕉は、俳諧に執する一笑の最期をどう見たか。

[やぶちゃん注:各務支考の「笈日記」のそれは、私の抜萃「前後日記」(PDF縦書版)の十月八日の条を読まれたい。

「満尾」連歌や連句等の一巻を完了すること。

「槪」ここは自分の意志を貫いて困難に負けないことの意。]

 

 「心から雪うつくしや西の雲」という一笑の辞世には勿論西方浄土の意を寓しているが、それは真の安心であったか、あるいは妄執の然らしむるところであったか、芭蕉には自ら一箇の見解がなければならぬ。いずれにしても「塚も動け」の一句は、この俳諧の殉教者にとって、何者にもまさる供養であったことと思われる。

 『奥の細道』の文と句とは一笑を天下に伝えることになった。一笑の名は生前においてさのみ人の知るところとならず、その句も多くは歿後の俳書に散見するものの如くであるが、特に注目すべきものは元禄四年刊の『西の雲』である。この書はその題名によって知らるる通り、一笑追善のために編まれたもので、水傍蓮子の序がその由来を悉(つく)しているから、左にこれを引用して置こう。

[やぶちゃん注:「西の雲」は「石川県立図書館」公式サイト内の、こちらで上巻が、こちらで下巻(写本)が総て画像で読める。

「水傍蓮子」不詳。如何にもなペン・ネームではある。

 以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

なき跡の名残は有か中に[やぶちゃん注:「あるがなかに」。]、書捨し筆のまたなくあはれを、見ぬ遠方の人に伝へもて行、句のよしあしは好々に[やぶちゃん注:「よくよくに」。]うなつきあふて、とるもすつるも此道の情ならすや。されは笑子の風吟、四季哀傷のこまやかなるを、都鄙の撰者の梓に刻み、世にひろめらるゝも多し。尚好士の佳句を求めえては、又みつからの折にふれおかし[やぶちゃん注:ママ。]とおもふ、しけきをはふきて百句、身の後のかた見にもならんかしと念シし時[やぶちゃん注:「ねんじしとき」。]、病にふし志を果さす、余生猶頼みかたくやありけん。

 辞世 心から雪うつくしや西の雲

行年三十六、元禄初辰霜月六日かしけたる沙[やぶちゃん注:「かしげたるすな」。]草の塚に身は先立て消ぬ。聞人あはれかりて泣クめる。明ケの秋風羅の翁行脚の次手(ついで)に訪ひ来ます。ぬしは去(い)にし冬世をはやうすと語る。あはれ年月我を待しとなん。生(いき)て世にいまさは、越の月をも共に見はやとは何おもひけんと、なくなく墓にまふて追善の句をなし、廻向の袖しほり給へり。遠近の人つとひ来り、席をならし、各追悼廿余句終りぬ。且巻くをよりよりに寄す。兄(このかみ)ノ松あなかちになけきて此集をつゝり、なき人の本意に手向るならし。

 

 「風羅の翁」は芭蕉である。この文章で見ると、一笑の訃報は芭蕉の許に到らなかったものらしい。金沢に一笑と相見ることを予期して、遥々北陸の旅を続けて来たとすれば、「あはれ年月我を待しとなん。生て世にいまさば越の月をも共に見ばやとは何おもひけん」という歎きも尤もであり、「塚も動け」という叫びも一層切実になるわけである。

 一笑の墓に詣でた時は、随行の曾良も一緒であった。

   供して詣でけるに、やさしき竹の
   墓のしるしとてなびき添たるも
   あはれまさりぬ

 玉よそふ墓のかざしや竹の露     曾良

 この墓の竹については一笑の兄のノ松にも句がある。

   しるしの竹人の折とり侍りしを
   植添て

 折人は去て泣らん竹のつゆ      ノ松

 しるしに植えた竹を誰かが折ったため、あとからまた植添えたというようなことがあったらしい。一笑墓前の句は芭蕉の「塚も動け」に圧倒されて、他は一向聞えておらぬが、この竹の二句は、墓畔の様子を多少伝えている点で面白いと思う。

 追悼の句は芭蕉、曾良のを併せて三十句近くある。すべて秋の句ばかりなのは、芭蕉の来過を機としたというよりも、たまたま孟蘭盆に当っていたためであろう。

 盆なりとむしりける哉塚の草    桑門句空

 槿やはさみ揃て手向ぐさ      秋之坊

[やぶちゃん注:「槿」は「あさがほ」。「揃て」は「そろへて」。「手向ぐさ」は「たむけぐさ」で一語。]

 いたましや木槿あやなす塚の垣   牧 童

[やぶちゃん注:「木槿」は「むくげ」。]

 秋風や掃除御坊を先にたて     遠 里

 夕顔をひとつ残して手向けり    ノ松嫡子松水

等の如く、実際墓参の時の句らしいものも幾つかまじっている。松水の句は肉親の甥の作である点が特に注目に値する。(其角が『雑談集[やぶちゃん注:「ぞうだんしゅう」。]』に引いた一笑追悼の句は、『西の雲』から抜萃したものと思っていたが、必ずしもそうでない。牧童(ぼくどう)、乙州(おとくに)の句は全然異っている上に、「つれ泣に鳴て果すや秋の蟬」という雲口の句も、「つれ啼に我は泣すや蟬のから」となっている。『西の雲』以外に一笑追悼句があったのかも知れぬが、何に拠ったものかわからない)

[やぶちゃん注:「句空」(生没年不詳)は加賀金沢の人。正徳二(一七一二)年刊行の「布ゆかた」の序に、当時六十五、六歳とあるのが、最後でこの年以後、消息は不明。元禄元(一六八八)年(四十一、二歳か)京都の知恩院で剃髪し、金沢卯辰山の麓に隠棲した。同二年、芭蕉が「奥の細道」の旅で金沢を訪れた際に入門、同四年には大津の義仲寺に芭蕉を訪ねている。五部もの選集を刊行しているが、俳壇的野心は全くなかった。芭蕉に対する敬愛の念は深く、宝永元(一七〇四)年に刊行した「ほしあみ」の序文では芭蕉の夢を見たことを記している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「秋之坊」(生没年未詳)金沢蕉門。やはり「奥の細道」での金沢にて、現地で入門した。加賀藩士であったが、後に武士を捨てて、剃髪、「秋之坊」と称して隠棲した。

「牧童」立花牧童(生没年未詳)も金沢蕉門で入門も前に同じい。研屋彦三郎の名乗りで判る通り、刀研ぎを生業(なりわい)として加賀藩御用を勤めた。蕉門十哲の一人立花北枝は牧童の弟である。

「遠里」不詳。

「雑談集」其角著。元禄五(一九九二)年刊。

「乙州」川井乙州(生没年未詳)。姓は「河合」とも。近江蕉門。姉の智月、妻の荷月も、ともに芭蕉の弟子であった。芭蕉の遺稿「笈の小文」を編集・出版した人物でもある。

「雲口」小野雲口。金沢蕉門。町人。「奥の細道曾良随行日記」に登場しており、案内する場所が商業拠点であるところを見ると、商人の可能性が高い。]

 

 『西の雲』は上下二巻に分れており、下巻は普通の撰集と別に変ったところもないが、上巻には前記の追悼句をはじめ、一笑の遺句百句(実際は百四句ある)その他を収めている。彼が最後まで心血を注いだという俳諧八巻はどうなったか、一笑の加わった俳諧は一つも見えず、またそれについて何も記されていない。以下少しく『西の雲』その他の俳書について、一笑の世に遺した句を点検して見ようかと思う。

 

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