大和本草卷之十三 魚之下 鱅(コノシロ)
鱅 長七八寸細鱗ナリコレヲヤケハ油多ク其臭キコト
人尸ヲヤクカコトシ日本ニテ昔ハ此魚ヲツナシト云
昔或人ノ子繼母ノ讒ニアヘリ其父讒ヲ信シテ家僕
ニ命乄其子ヲ殺サシム家其罪ナキヲアハレミテツナシ
ヲヤキテ他所ヘ去ラシムヨリ乄此魚ノ名ヲコノシロト云
子ノ代ニヤケリユヘナリ又別ニ一說アリ本朝食鑑第八
二十張鯯ノ下ニ見エタリ小ナルヲコハダト云、日本紀齋明
天皇時鯯魚ト云臣アリコノシロトヨメリ○病人及服
藥人不可食有金瘡痔疾瘡瘍人及産後最宜禁
○本草綱目曰海上鱅魚其臭如尸海人食之ト
今案ニヤキテ其臭如尸ナルモノ別ニナシ鱅ハコノシロナ
ルヘシ又鰱ハ如鱅ト本草ニイヘリ鰱ハヨクコノシロニ似タル
モノナレハ鱅ヲコノシロトスル證トスヘシ閩書ニ鰶アリ是又
同○別ニ一種長キアリ西州ノ方言マヽカリト云形
狀コノシロト同
○やぶちゃんの書き下し文
鱅(このしろ) 長さ七、八寸、細鱗なり。これをやけば、油多く、其の臭きこと、人の尸〔(しかばね)〕をやくがごとし。日本にて昔は此の魚を「つなし」と云ふ。昔、或る人の子、繼母の讒〔(ざん)〕にあへり。其の父、讒を信じて、家僕に命じて其の子を殺さしむ。家〔僕〕、其の罪なきをあはれみて「つなし」をやきて他所〔(よそ)〕へ去らしむ。よりして此の魚の名を「このしろ」と云ふ。「子の代〔(しろ)〕」にやけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]なり。又、別に一說あり。「本朝食鑑」第八二十張(ちやう)「鯯〔(このしろ)〕」の下に見えたり。『小なるを「こはだ」と云、「日本紀」、齋明天皇の時、鯯魚と云ふ臣あり、「このしろ」とよめり』〔と〕。
○病人及び藥を服する人、食ふべからず。金瘡〔(かなそう)〕・痔疾・瘡瘍有る人及び産後、最も宜〔(よろ)〕しく禁ずべし。
○「本草綱目」に曰はく、『海上の鱅魚、其の臭きこと、尸のごとし。海人、之れを食ふ』と。今、案ずるに、やきて其の臭〔にほひ〕、尸のごとくなるもの、別になし。「鱅」は「このしろ」なるべし。又、『鰱(たなご)は鱅のごとし』と「本草」にいへり。鰱はよく「このしろ」に似たるものなれば、「鱅」を「このしろ」とする證とすべし。「閩書〔(びんしよ)〕」に「鰶」あり、是れ又、同じ。
○別に一種、長きあり。西州の方言〔に〕「まゝかり」と云ふ。形狀、「このしろ」と同じ。
[やぶちゃん注:条鰭綱新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ属コノシロ Konosirus punctatus。一般に関東の寿司屋で新子(しんこ)・小鰭(こはだ)と呼ばれるが、本種も出世魚である(成魚・標準和名の命名について以上のような不吉なマイナス・イメージが付き纏うので、これを出世魚とは呼ばないという説も見かけたが、それは勝手な人間の感覚に過ぎず、現象としては正統な出世魚である)。関西を中心に総合的に見て整理すると、
ツナシ・ナロ・ジャコ(約4㎝~6㎝)=シンコ(寿司屋では新子は4㎝程度を五枚づけ(5尾で一かんとする)・10㎝程度を二枚づけとする)
↓
コハダ(約7~10㎝)
↓
ナカズミ(約12~14㎝前後。関東での呼称と思われ、寿司屋ではこの大きさ程度迄が小鰭に用いられ、12㎝程度を丸づけ(一尾で一かん)、最大の14㎝は片身づけ(半身で一かん)とする)
↓
コノシロ(約15㎝以上)
と変化する。但し、この魚の場合は、ご承知の通り、旬のシンコや、より若いコハダが好まれ、大きくなるに従って市場での値段が格段に安くなってしまうという不思議な海産物である。
「これをやけば、油多く、其の臭きこと、人の尸〔(しかばね)〕をやくがごとし」実は私は寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「このしろ つなし 鰶」の項の注で膨大な考証を行っている。「尸の臭い」伝承の元の一つと思われる原拠も示し、訳も添えてある。注全体が非常に長いものになってしまっているので、そちらを是非、参照されたい。言っておくと、この以下にも鼻を押さえたくなるような奇体な話は出鱈目である。奇伝の濫觴は、どうやら、秦の始皇帝の故事(死去を隠蔽して偽の詔勅を捏造する時間が必要だった宰相李斯や宦官趙高は、始皇帝の遺体の死臭を誤魔化すために大量の魚を積んだ車を龍車に伴走させたというあれである)らしい(無論、本種がそれに使われたのではない)。コノシロを焼くと臭いとはっきり書いてあるものが多いが、そもそも生物を焼く臭いは基本、臭さに変わりはない。また、コノシロは腥(なまぐさ)いとする記載もよく見受けるのだが、それは鮮度の違いよるものであり、まあ、コノシロは鮮度が落ちるが早いと言えば早いから、そのお兄さんになったものを焼けば、それは当然、臭くなるといだけのことである。因みにウィキの「コノシロ」の「コノシロの由来」によれば、教訓書「慈元抄」(作者不詳・永政七(一五一九)年成立)では、『コノシロの名称は戦国期』頃、『「ツナシ」に代わり広まったという。大量に獲れたために下魚扱いされ、「飯の代わりにする魚」の意から「飯代魚(このしろ)」と呼ばれたと伝わる』。また、同書や「物類称呼」(俳諧師越谷吾山(こしがやござん)によって編纂された江戸後期の方言辞典。安永四(一七七五)年)刊)には、『出産児の健康を祈って』、この魚を『地中に埋める風習から「児(こ)の代(しろ)」と云うとある。当て字でコノシロを幼子の代役の意味で「児の代」、娘の代役の意味で「娘の代」と書くことがある』。『コノシロは出産時などに子供の健康を祈って、地中に埋める習慣があった』。また、「塵塚談」(ちりづかばなし:小石川療養所の内科医小川顕道(あきみち)の随筆。文化一一(一八一四)年完成。作者は翌年没した。私の愛読書の一つである)には、『「武士は決して食せざりしものなり、コノシロは『この城』を食うというひびきを忌(いみ)てなり」とあり、また料理する際に腹側から切り開くため、「腹切魚」と呼ばれ、武家には忌み嫌われた』。『そのため、江戸時代には幕府によって武士がコノシロを食べることは禁止されていたが、酢締めにして寿司にすると旨いため、庶民はコハダと称して食した』。『その一方で、日本の正月には膳(おせち)に「コハダの粟漬け」が残っており、縁起の良い魚としても扱われている』とある。但し、この「塵塚談」についての記述はちょっと不全で、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「燕石十種第一」明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊)の同書の当該部。左ページ上段後ろから三行目)を見て戴くと判る通り、以上は筆者が若い頃の話で、今も上流階級は食わないが、熟れずしにしたものを一般の武士も婦人も好んで食い、賞味すると書いてある。並置して河豚(ふぐ)のことも書かれているので是非、読まれたい。
「つなし」古名。「万葉集」巻第十七の大伴家持の一首に出る(四〇一一番)。
放逸せる鷹を思ひて夢に見、
感悅して作る歌一首
大君の 遠(とほ)の朝廷(みかど)ぞ み雪降る 越(こし)と名に負へる 天離(あまざか)る 鄙(ひな)にしあれば 山高み 川雄大(とほしろ)し 野を廣み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛りと 島つ鳥 鵜養が伴は 行く川の 淸き瀨ごとに 篝(かがり)さし なづさひ上(のぼ)る[やぶちゃん注:水に漬かって苦労して鮎を獲るさまか。] 露霜の 秋に至れば 野も多(さは)に 鳥すだけりと 大夫(ますらを)の 友誘(いざな)ひて 鷹はしも あまたあれども 矢形尾(やかたを)の 我(あ)が大黑(おほぐろ)[やぶちゃん注:家持の愛鷹の名。]に【大黒は蒼鷹の名なり。】 白塗の 鈴取り付けて 朝獵(あさがり)に 五百(いほ)つ鳥立て 夕獵(ゆふがり)に 千鳥踏み立て 追ふごとに ゆるすことなく[やぶちゃん注:「大黑」が獲物必殺なのである。] 手放(たばな)れも をちもかやすき[やぶちゃん注:腕から飛び立つのも、戻って来るのも自由自在。] これを除(お)きて またはあり難し さ並べる 鷹は無けむと 情(こころ)には 思ひ誇りて 笑(ゑま)ひつつ 渡る間(あひだ)に 狂(たぶ)れたる 醜(しこ)つ翁(おきな)の 言(こと)だにも われには告げず との曇り 雨の降る日を 鳥獵(とがり)すと 名のみを告(の)りて 三島野を 背向(そがひ)に見つつ 二上(ふたがみ)の 山飛び越えて 雲隱(くもがく)り 翔(かけ)り去(い)にきと 歸り來て 咳(しはふ)れ告ぐれ 招(を)く由の そこに無ければ 言ふすべの たどきを知らに[やぶちゃん注:かくなってしまった上は呼び戻す方途もないので。] 心には 火さへ燃えつつ 思ひ戀ひ 息衝(いきつ)き[やぶちゃん注:溜息をつくこと。]あまり けだしくも[やぶちゃん注:もしかすると。] 逢ふことありやと あしひきの 彼面此面(をてもこのも)に 鳥網張(となみは)り 守部(もりべ)を据(す)ゑて ちはやぶる 神の社(やしろ)に 照る鏡 倭文(しつ)[やぶちゃん注:幣(ぬさ)。]に取り添(そ)へ 祈(こ)ひ禱(の)みて 吾(あ)が待つ時に 少女(をとめ)[やぶちゃん注:巫女。]らが 夢(いめ)に告ぐらく 汝(な)が戀ふる その秀(ほ)つ鷹は 松田江の 濱行き暮し 鯯(つなし)捕る 氷見の江(え)過ぎて 多祜(たこ)の島 飛び徘徊(たもとほ)り 葦鴨の すだく古江に 一昨日(をとつひ)も 昨日(きのふ)もありつ 近くあらば 今二日(ふつか)だみ[やぶちゃん注:ほど。] 遠くあらば[やぶちゃん注:遅くとも。] 七日(なぬか)のをち[やぶちゃん注:後。元は遠いことを指す語。]は 過ぎめやも 來(き)なむ我が背子(せこ)[やぶちゃん注:あなた。主人家持を指す親しみを持った二人称。] 懇(ねもころ)に[やぶちゃん注:ひどくそんなに。] な戀ひそよとそ いまに告げつる
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家持が越中守として赴任した翌年の天平一九(七四七)年中の歌である。出現する地名は孰れも私には親しんだ場所(私は中高時代の六年を高岡市伏木の二上山山麓で過ごした)であるので注を必要としない。判らぬ方は最近、カテゴリ「怪奇談集」で終わった「三州奇談續編」の「卷之七」以降を参照されたい。講談社文庫の中西進氏の注では『今も』コノシロのことを当地』氷見『ではツナシという』とあるが、私の知っている限りでは、当地の方言では「ケットバシ」の方が有名である。恐らくは本種が小骨が多く食べにくいせいで、「漁師さえ蹴っ飛ばしてしまう雑魚」の謂いであろう。
『「本朝食鑑」第八二十張(ちやう)「鯯〔(このしろ)〕」』「本朝食鑑」は医師人見必大(ひとみひつだい)が元禄五(一六九二)年に著した遺稿を子である人見元浩が岸和田藩主岡部侯の出版助成を受けて五年後の元禄一〇(一六九七)年に刊行した食物本草書。「張」は「帳」の誤字であろう。その「鱗之二」の「二十」の「鯯」はここ(国立国会図書館デジタルコレクション原本画像)。その「集解」に、
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集觧源順曰、似鰆而薄細鱗者也。大者五六寸、背蒼腹白而有光肉白多細鱗。炙可食而、煮不可食。或以鮮作鱠。小者江都曰小鰭。京師曰麻宇加利。字作鯯童。惟民間之食而賤士亦不足用獨以小鰭作鮓雖味稍可亦不足賞也。[やぶちゃん注:中略。]凡婦女忌之者多。是因有其尸氣乎。自古稱此魚名者尚矣。孝德帝時有䀋屋鯯魚者本紀訓鯯曰舉能之盧以魚名稱人者不獨鯯魚。[やぶちゃん注:以下、同様の例を引くが、略す。ただ、以降は寺島良安が「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「このしろ つなし 鰶」の項で同様の例を掲げており、それぞれ私が注しているので参考にされたい。]
○やぶちゃんの書き下し文(読みや送り仮名は一部で私が推定で附したので原本を必ず参照のこと)
集觧源順(みなもとのしたがふ)が曰はく、『鰆(さはら)に似て、薄く、細鱗なる者なり。大なる者は五、六寸、背、蒼く、腹、白くして、光、有り。肉、白くして細鱗[やぶちゃん注:ここは小骨のこと。]多し。炙りて食ふべくして、煮て食ふべからず。或いは鮮(あたらし)きを以つて鱠(なます)と作(な)す。小なる者を、江都[やぶちゃん注:江戸。]、「小鰭(こはだ)」と曰(い)ふ。京師、「麻宇加利(まうかり)」と曰ふ。字、「鯯童」に作る。惟だ民間の食にして、賤士も亦、用るに足らず。獨り小鰭を以つて鮓(すし)と作(な)す。味、稍(やや)可なりと雖も、亦、賞するにたらざるなり。[やぶちゃん注:中略。]凡婦女、之れを忌む者、多し。是れ、其の尸氣(しき/しかばねのかざ)有るに因れるか。古へより、此の魚の名を稱する者、尚(ひさ)し。孝德帝の時、有「䀋屋(しほや)の鯯魚」といふ者、有り。「本紀」[やぶちゃん注:「日本書紀」。]に「鯯」を訓じて「舉能之盧(このしろ)」と曰ふ。魚の名を以つて、人、稱する者の、獨り「鯯魚」のみならず。
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おかしい。益軒は『「日本紀」、齋明天皇の時、鯯魚と云ふ臣あり、「このしろ」とよめり』としている。「孝德」天皇は在位は六四五年~白雉五(六五四)年(元号を附さないのは元号がなかったから。以下も同じ)で、「齋明天皇」は元は皇極天皇(在位:六四二年~六四五年)で、彼女は重祚して斉明天皇(在位:六五五年~六六一年)で、孝徳天皇は斉明天皇の間に入る。「日本書紀」を見ると――これ、困ったことに、どちらも違う――のである。その記載は、もっと前の大化二(六四六)年三月辛巳(十九日)の「大化の改新」による一国司改革の条に『別塩屋鯯魚加【鯯魚。此云擧能之盧。】。』と出るのがそれなのである。
「金瘡」刀や包丁などの金属製の刃物による切り傷。
「瘡瘍」軽症から重いものまで広く皮膚に生じた腫瘍・潰瘍を指す。
「宜しく禁ずべし」当然のこととして最も禁忌食とせねばならない。
『「本草綱目」に曰はく、『海上の鱅魚、其の臭きこと、尸のごとし。海人、之れを食ふ』と』「鱗之三」に、
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鱅魚【音「庸」。「拾遺」。】
釋名 鱃魚【音「秋」。出「山海經」。】時珍曰、『此魚、中之下品。蓋魚之庸常以供饈食者、故曰「鱅」、曰「饈」。鄭玄作「溶魚」』。
集解 藏器曰、『陶注鮑魚云、「今以鱅魚長尺許者、完作「淡乾魚」、都無臭氣、其魚目旁有骨名乙。「禮記」云、「食魚去乙是矣。然劉元紹言、『海上鱅魚、其臭如尸、海人食之、當别一種也』。時珍曰、『處處江湖有之、狀如鰱而色黑。其頭最大、有至四、五十斤者。味亞于鰱。鰱之美在腹、鱅之美在頭。或以鰱。、鱅爲一物誤矣。首之大小、色之黑白、大不相侔。「山海經」云、「鱃魚似鯉、大首、食之已疣是也」』。
肉 氣味 甘、溫、無毒。藏器曰、『只可供食、別無功用』。
主治 暖胃益人【汪頴。】、食之已疣。多食、動風熱、發瘡疥【時珍】。
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この「本草綱目」の「鱅魚」の少なくとも執筆当人である時珍のその叙述は、どう見てもコノシロではない。淡水魚としており、第一、デカ過ぎる(「四、五十斤」は実に25~30㎏である)。思うに、時珍の言う「鱅」は条鰭綱コイ目コイ科クセノキプリス亜科 Oxygastrinae ハクレン属コクレン Hypophthalmichthys nobilis 若しくは同科の似た淡水魚を指していると推定する。同様にここで時珍が用いている「鰱」も益軒の似ている魚として出す「鰱(たなご)」(スズキ亜目ウミタナゴ科ウミタナゴDitrema temmincki)ではなく、淡水魚のコイ科タナゴ亜科 Acheilognathinae に属するタナゴ類の孰れかであろうと思われる。但し、前の「礼記」のそれは本種である可能性は総体的には高いと言える。
『やきて其の臭〔にほひ〕、尸のごとくなるもの、別になし。「鱅」は「このしろ」なるべし』「『鰱(たなご)は鱅のごとし』と「本草」にいへり。鰱はよく「このしろ」に似たるものなれば、「鱅」を「このしろ」とする證とすべし」と、都合のいいところだけを切り取って一気に同定してしまう益軒はやはり本草学者として失格である。時珍の記載を無視して平気の平左。そんなことだから、蘭山からコテンパンにやられるんですよ。
「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。
『別に一種、長きあり。西州の方言〔に〕「まゝかり」と云ふ」』「西州」は西日本のこと。確かに見た目が似ているが、「ままかり」は全くの別種(益軒の謂い方はそういう意味では正しい)である条鰭綱ニシン目ニシン亜目ニシン科ニシン亜科サッパ属サッパ Sardinella zunasi の別名である。困ったことに本邦では漢字で「鯯」とコノシロと同じ漢字を当てる。ウィキの「サッパ」によれば、『汽水域に生息する魚で、ママカリ(飯借)という別名でも知られ、ママカリ料理は岡山県の郷土料理として有名である』。『全長は』10~20cm『ほどで、体は木の葉のように左右に平たい。背中よりも腹が下に出ている。体色は背中側は青緑色、体側から腹側までは銀白色をしている。他のニシン目』(Clupeiformes)に属する他の『魚類に比べ』、『鱗が硬く発達していて』、捌く際に『落ちにくい。コノシロとは外見や生息域が似ているが、体の側面に黒い点線がないこと、背びれの最後の軟条が長く伸びないことなどで区別できる。また、ヒラ』(ニシン科ヒラ属 Ilisha elongata)『という魚』の幼魚にも『よく似ているが』ヒラは『成魚の全長が40cm以上で、より大型にな』り、それは大型のニシンのように見え、全く異なる』。『東北地方以南から黄海、東シナ海の沿岸域に分布し、内湾や河口の汽水域に群れを作って生息する。マイワシやニシンのような大規模な回遊は行わず、一生を通して生息域を大きく変えることはない。プランクトン食性で、プランクトンを水ごと吸いこみ、鰓耙(さいは)でプランクトンを濾しとって食べる。繁殖期は初夏で、直径2mmほどの浮遊卵を産卵する。冬はやや深場に移る』。『刺し網や投網などの沿岸漁業で漁獲される。また』、『晩夏から秋にかけて防波堤のさびき釣りの好対象である。釣りあげたサッパには、後頭部あたりの体表にフナムシ』を紡錘形にしたような小さな『虫が寄生していることがある。これは「ウオノエ科」』(Cymothoidae)『の甲殻類で、本種に好んで寄生する「サッパヤドリムシ」』(正確には甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚目ウオノエ亜目オノエ上科ウオノエ科ウオノギンカ属サッパノギンカAnilocra clupei。幼年向きの記述であるが、写真もある『東海大学博物館だより 海のはくぶつかん』(二〇一七年四月発行・第四十七号・PDF)の青木聡史氏の「サッパに寄生するサッパノギンカ」が非常によい)『である。外見は不気味であるが、人間には無害である』。『「サッパ」の名前は淡白でさっぱりしている味に由来する。おもに瀬戸内海沿岸や有明海沿岸を中心とした西日本で食用にされる。小骨が多いが淡白な味で、塩焼きや唐揚げ、酢じめ、刺身などで食べられる。中でも酢じめは小骨も気にならず美味な惣菜や寿司ネタとなるのでよく知られた食べ方である。また』、三『枚におろし』、『皮を剥いだ刺身は身がしまっておりさっぱりとした味である。サッパの酢〆はかつては「光もの」として江戸前寿司でもネタにされたが、戦後になって使われなくなったという』。方言は『ママカリ(瀬戸内海沿岸地方)、ワチ(広島県・香川県)、ハラカタ(関西地方)、ハダラ(佐賀県)など』で、最も知られる『ママカリは「飯借り」と書き、「飯が進み、家で炊いた分を食べ切ってしまってもまだ足らず』、『隣の家から飯を借りてこなければならないほど旨い」』の意に『由来する呼称である。ハラカタは腹部の鱗が硬く発達していることに由来する。ママカリ料理(酢漬、ママカリ寿司など)は、岡山県の郷土料理となっている』とある。]
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