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2020/08/16

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 史邦 一

 

[やぶちゃん注:中村史邦(ふみくに 生没年不詳)は大久保荒右衛門・根津宿之助の名も伝わる。尾張犬山の人で。元禄期(一六八八年~一七〇四年)に活躍した蕉門俳人。尾張国犬山藩主の養子(旧姓は成瀬)寺尾土佐守直龍(なおたつ)の侍医で、医名は春庵と名乗った。後に京に出て、上洛して仙洞御所に出仕し、また、京都所司代の与力も勤めた。元禄五(一六九二)年に致仕し、翌年の秋には江戸に移住した。芭蕉からは二見形文台や自画像を贈られ、師没後は、逸早く遺句・遺文(特に「嵯峨日記」の伝来は有名)を集めて追悼集「芭蕉庵小文庫」(元禄九(一六九六)年刊)を刊行しているが、俳人としての全盛期は「猿蓑」の頃で、後は飛躍し得なかった。]

 

     史  邦

 

       

 

 史邦という俳人は従来どの程度に見られているか、委(くわ)しいことは知らぬが、あまり評判になっていないことだけは慥(たしか)である。史邦は「シホウ」と読まず、「フミクニ」と読むのだという。しかし「史邦吟士」と称し、「史子」と呼ぶような場合にも、一々音読を避けていたかどうか。明治の阪本四方太氏は本名をそのまま雅号に用いたので、元来は「ヨモタ」であるのを、雅号の場合は「シホウダ」と発音した。長塚節氏も本名は「タカシ」と読むのだけれども、普通には皆「セツ」と称している。史邦の読み方にもあるいはこれに似た消息がありはせぬかと思う。

[やぶちゃん注:「阪本四方太」(明治六(一八七三)年~大正六(一九一七)年)は俳人。鳥取県出身。正岡子規門下。俳誌『ホトトギス』で活躍した。

「長塚節」(明治一二(一八七九)年~大正四(一九一五)年)は歌人で小説家。子規門。]

 

 史邦の句に多少注意し出したのは、彼の句に動物を扱ったものが多いように感ぜられたからであった。尤もこういう興味は大分筆者の主観が手伝うので、冷静に勘定して見たら、それほど多いわけではないのかも知れない。史邦の句というものも、全部でどの位あるのかわからず、比例を取って見たわけでもないのだから、動物の句が多いということもどの程度までに立証されるか疑問である。ただ漠然たる考を幾分慥めたいため、この文章を草するに当り、蝶夢(ちょうむ)の編んだ去来、丈艸二家の集についていささか調べて見た。急場仕事で不安心ではあるが、去来の句に取入れた動物の種類約三十一、この外に魚とか虫とかいうだけのものが少しある。丈艸は虫及(および)鳥とだけあるものを除いて三十九。史邦の五十種に比べていずれも多少の遜色があるけれども去来、丈艸の句集は比較的句数が少いので、もっと句数の多い芭蕉とか、其角とかいう人たちの集について見たら、動物の種類もあるいは史邦のそれを超えているかも知れない。そういう比較を多くの句集について試みるのも、別個の問題として面白いかと思うが、筆者が史邦についていおうとするところは、必ずしも多数決にのみよろうとするわけでないから姑(しばら)く他に及ばぬことにする。

 去来、丈艸二家の集に現れた動物の句と、史邦の動物の句とを比べて見ると、種類以外によほど異った点がある。例えば去来集においては時鳥の句十一、鶯の句八、鹿の句七、丈艸集においては時鳥の句十五、きりぎりすの句九、というが如く、種類によって非常に句数の多いものが見えるけれども、史邦の句にはそれがない。去来にしろ、丈艸にしろ、句数の多いものは必ず季節によって観賞に値する種類の動物であるが、史邦の句はこれに反し、季題的動物の上に偏愛の迹(あと)が見えず、馬の句八が最も多く、猫の句六がこれに次ぐ位のもので、他はいずれも目につくほどの数ではない。しかも去来集には馬の句六、猫の句四を算え得るのであるから、馬や猫においては敢て異とするに足らぬのである。

 去来は「鴨啼くや弓矢をすてゝ十余年」と詠(よ)んだ人である。従ってこの人の馬を詠じたものには「うちたゝく駒のかしらや天の河」の如き、「乗りながら馬草はませて月見かな」の如き、その面目を想いやるべきものがある。史邦の句にはこれほど気稟(きひん)の高いものは見当らぬけれども、

 どくだみや繁みが上の馬ほこり    史邦

 板壁や馬の寐かぬる小夜しぐれ    同

   旅行

 瘦馬の鞍つぼあつし藁一把      同

[やぶちゃん注:座五は「わらいちは」。]

 煎りつけて砂路あつし原の馬     同

の如く、妙に実感に富んでいる。路傍に繁った十薬(どくだみ)の葉の上に、馬の埃が白くかかっているということも、板壁を隔ててまだ眠らぬ馬が、しきりにコトコト音させているということも、頗るわれわれの身に近く感ぜられる。去来の句にあるような画趣の美しさは認められぬ代りに、今少し違った味がある。「瘦馬」及「煎りつけて」の二句は、炎天下の馬を描いたもので、句は必ずしも妙ではないかも知れぬが、喘(あえ)ぐが如き大暑の実感を伴っていることは、何人も認めざるを得ぬであろう。

 この種の傾向を示す句の中に次のようなものがある。

   猿蓑撰集催しける比発句して
   心見せよと古翁の給ひければ

 はつ雪を誰見に行し馬の糞     史邦

 「古翁」は芭蕉である。史邦は何時頃から蕉門に入ったものか、委しいことはわからぬが、その句の撰集に見えるのは、大体『猿蓑』あたりからかと思われる。この句はいわゆる写生の句ではない。芭蕉の慫慂(しょうよう)に対して、一応の謙辞を述べたものらしくも解せられるが、姑く句の表だげについていえば、正に雪上に馬糞を点じたもので、伝統的な歌よみや詩人などは頭から眉を顰(しか)めそうな材料である。「初雪にこの小便は何奴(なにやつ)ぞ」という其角の句のように、磊落とか奇抜とかいうわけでもない。初雪の上に誰か馬で通ったと見えて、新なる馬糞が落ちているという事実を、そのまま句中のものとしたのである。句の佳否はともかく、史邦の態度が徒(いたずら)に奇を好むものでないことだけは認めてやらなければなるまい。

 毛頭巾をかぶれば貒の冬籠     史邦

 貒は「マミ」と読むのであろう。他に「猫」となっている書もあるが、いずれにしてもこれはその動物の姿ではない。自ら毛頭巾を被(かぶ)っている様を、マミもしくは猫に擬したものらしい。貒の如しとも、貒に似たともいわず「貒の」といい切ったところに特色がある。貒、猫、字形の相類するところから混雑したのかと思うが、句としてはマミの方がよさそうである。

[やぶちゃん注:「貒」食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma の異名。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貒(み) (同じくアナグマ)」及びその前項の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな)(アナグマ)」を参照されたい。また、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍(たぬき)(タヌキ・ホンドダヌキ)」の私の注も参考になると思う。実は良安は今一種(流石に本邦にいるとは記さないが)、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獾(くわん)(同じくアナグマ)」をも挙げている。]

 身の龝や月にも舞はぬ蚊のちから   史邦

 この句には「高光のさいしやうかく斗(ばかり)がたくみゆるとよみたまひけむは九月十三日の夜とかやうけたまはりて」という前書がついている。「かくばかりへがたく見ゆる世の中にうらやましくもすめる月かな」というのは、『拾遺和歌集』にある藤原高光の歌で、「法師にならむと思ひ立ちける頃月を見侍りて」という前書がある。月に対して人世(じんせい)の憂苦多きを歎ずるのは、古今一貫した人間の常情であろう。史邦も月に対してこの歌を思い、我身の秋をしみじみと感じたのである。秋もうら寒くなるにつれて、次第に飛ぶ力を失いつつある蚊にさえ、落莫(らくばく)たる我身の影を認めたに相違ない。

[やぶちゃん注:「龝」は「あき」(秋)。]

 

 油なき雁の羽並や旅支度 史邦

 雁といわず、鴨といわず、あまりに栄養がよ過ぎて脂肪過多に陥った水鳥は、身体が重くなって長途の飛行に適せぬと聞いている。油なき羽並の雁は即ちその北地へ帰る旅支度の已に調ったことを語るものであろう。こういう句を見ると、史邦の動物に臨む態度の如何にも親しいものであることがわかる。それも後に一茶が振廻したような、殊更な人間的俗情でなしに、もっと自然な親しみである。

[やぶちゃん注:「羽並」は「はなみ」。羽振り。鳥の羽が揃って並んでいる状態や有様。また、多くの鳥が羽翼を連ねて並んでいること様子も言う。地や湖水などにいる情景よりも、試し飛びをしている複数の雁の姿を映像する方が良かろうから、後者で私は採る。]

 

 石竹に雀すゞしや砂むぐり      史邦

 初雪に鷹部屋のぞく朝朗       同

 野畠や雁追のけて摘若菜       同

 こういう句に現れた動物との親しみは、「初蛍なぜ引返すおれだぞよ」とか、「やよしらみ這へ這へ春の行く方へ」とかいう句に喝采する人たちの、よく解するところではないのかも知れない。

[やぶちゃん注:「石竹」ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis。初夏に紅・白色などの五弁花を咲かせる。葉が竹に似ていることが名の由来とされる。中国原産。

「砂むぐり」「砂潛(すなむぐ)り」。砂浴び。砂に窪みを作って羽を逆立せるように砂を浴びる行動はスズメに頻繁にみられる。主に皮膚や羽についているダニなどの寄生虫を落とす目的であろうが、羽を逆立せるように動く彼らを見ていると、それ自体を遊びとしても好んでいるかのようにも見える。

「初雪に鷹部屋のぞく朝朗」座五は「あさぼらけ」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈を引く。『初雪が清らかに降り積もった早暁、身の引き締まるような気持で、そうした朝にふさわしい鷹部屋をのぞいてみた、というのである。「初雪」「鷹部屋」「朝朗」と脱俗的な雰囲気のものが並び、長(たけ)高い句風になっている。舞台は大名屋敷か武家屋敷ででもあろう。「鷹部屋のぞく」は、朝狩の心用意があってのことかもしれない』とされ、「初雪に」に注されて『ここは初雪が降り敷いていて、空は晴れ上がっているさまとみる』とある。

「野畠や雁追のけて摘若菜」「のばたけやかりおひのけてつむわかな」。堀切氏は前掲書で、『広い野の畠に出て、畦の若菜を摘もうとすると、辺りにいる雁が、人の気配に驚いて飛び立ってゆく――まるで雁を追いのけて若菜を摘むような気がする、というのである。春の若菜摘みの光景の一点描』(いちてんびょう)『であるが、「雁追のけて」という見方がおもしろい』と評されておられる。「若菜摘み」は正月七日の七草を摘む行事。新年の季題である。

「初蛍なぜ引返すおれだぞよ」小林一茶の句。「八番日記」所収の文政三(一八二〇)年の作。

「やよしらみ這へ這へ春の行く方へ」同じく一茶で「七番日記」所収の文化一一(一八一四)年五十二歳の時の句。]

 

   世上をつくぐおもふに

 蚊の声をはたけば痛し耳のたぶ    史邦

   石火の気と云事を

 追立てすねとらへけり蠅の声     同

   間不ㇾ容ㇾ髪といふ事を

 草むらや蠅取蜘の身づくろひ     同

 これらはいずれも小動物を仮りて何者かを現そうとしたものである。耳辺に唸る蚊の声がうるさいから、殺すつもりで打つと、蚊は打てずに耳朶(みみたぶ)の痛みだけが残る、というような事実は世間にいくらもある。史邦もこの意味において「世上」云々の前書を置いたのであろうが、これはいささか理に堕した嫌(きらい)がある。長塚節氏の歌に「ひそやかに螫(さ)さむと止る蚊を打てば手の痺れ居る暫くは安し」「声掛けて耳のあたりにとまる蚊を血を吸ふ故に打ち殺しけり」などとあるが如く、単にそれだけのことを詠んだ方が、句としてはかえってよかったろうと思う。しかし史邦の主眼が最初から寓意にあるのだとすれば、如何とも仕方がない。

 蠅及(および)蠅取蜘蛛の句は、それとは少し趣が違う。石火の気と間不ㇾ容ㇾ髪とかいうことを如実に現さんがために、蠅なり蠅取蜘蛛なりを用いたのであるが、単に思量の上に成ったというよりも、かつて見たところをこの意に当嵌(あては)めたという方が当っているようである。平生からこういう小動物に興味を持っている者でなければ、直にこの趣を捉えるわけには行かない。蠅取蜘蛛が蠅を捕る状(さま)はしばしば目撃したことがあるが、あの呼吸はなるほど間髪を容れずともいうべきものかと思う。

[やぶちゃん注:「石火」(せつくわ(せっか))で電光石火(稲妻の光や燧石(ひうちいし)を打った際に出る火の意から、動きが非常に素早いことや非常に短い時間の喩え)のそれ。「気」はその瞬時の気迫の意。「機」にも通ずる。ここの「すね」(脛)は蠅のそれである。

「追立て」は「おひたてて」。

「間不ㇾ容ㇾ髪」「間(かん)、髪(はつ)を容(い)れず」或いは「間に髪を容れず」元は「間に髪の毛一本さえも入れる余地がない・物事に少しの隙間もないさま」から転じて、ある一つの事態が起きた際、すかさず、それに応じた行動に出るさまを指す。

「蠅取蜘」「はへとりぐも」。節足動物門蛛形(クモ)綱クモ目ハエトリグモ科 Salticidae に属するハエトリグモ類。ハエトリグモ科は世界的にクモ類中で最大の種数を抱え、かつては五百属五千種が知られ、現在は命名されている種だけで六千種に及ぶが、主に熱帯棲息域を持つ種が多く、実際の種数はおそらくもっと多い。ここで史邦の観察しているそれは、屋外であるから、ハエトリグモ科マミジロハエトリグモ属マミジロハエトリ Evarcha albaria あたりか。しかも、これは蠅を捕らえるためのプレの準備運動という映像である。私が例外的に好きな昆虫である。私は家内に棲む彼らを絶対に殺さない。]

 

 けれども同じ蠅を詠んだ句でも、更に趣の深いのは。

      病中の吟

 蠅打や暮がたき日も打暮し      史邦

である。暮れがたい夏の永い日も、僅に蠅を打つ一事によって暮す、という病牀の徒然(とぜん)な有様で、長病の牀(とこ)の哀れさは「暮がたき日も」の中七字に集っている。「打暮し」の「うち」は、「うち渡り」とか「うち眺め」とかいう接頭語でなしに、蠅打の「打」であるこというまでもない。「たれこめて蠅うつのみぞ五月雨(さつきあめ)」という渭橋の句、「蠅打てあとにはながめられにけり」という千那(せんな)の句、いずれも哀れでないことはないが、暮れがたき日も蠅を打暮す病牀の哀れは遥にこれにまさっている。前の蠅の句、蠅取蜘珠の句の如きは、まだなるほどと合点する分子を含んでいる。この蠅打の句に至って、はじめて作者その人の姿を感ぜしむるものがある。渾然たる出来栄というべきであろう。

[やぶちゃん注:「渭橋」検校(けんぎょう)であった数藤祢一(すどうねいち 生没年不詳)。妙観派の僧で奥村勾当。元禄一三(一七〇〇)年に検校に任官した。俳人としても著名で、渭橋と号し、宝井其角らと連句を作った「たれが家」があり、其角門であった。

「千那」三上千那(慶安四(一六五一)年~享保八(一七二三)年)は近江堅田の本福寺の住職で俳人。江左尚白(こうさしょうはく)とともに近江蕉門の古参であった。田中千梅編の追善集「鎌倉海道」がある。]

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