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2020/09/29

畔田翠山「水族志」 (二五七) ウヲジラミ (ウオノエ) / 「海蟲類」電子化注~了

 

(二五七)

ウヲノシラミ 魚蝨 白色形狀蟬脫ニ似タリ海味索隱曰靑脊魚過淸明時腦中生蟲名魚蝨其蝨漸大而魚亦漸瘦便不堪食不時不食矣棘鬣魚ニアルハ「タヒ」ノムシ「アヂ」ニアルハ「アヂ」ムシト云

水族志

 

○やぶちゃんの書き下し文

(二五七)

ウヲノジラミ 魚蝨 白色。形狀、蟬の脫〔ぬけがら〕に似たり。「海味索隱」に曰はく、『靑き脊の魚、淸明〔せいめい〕時〔どき〕を過ぐるに、腦の中、蟲、生ず。「魚蝨〔うをのしらみ〕」と名づく。其の蝨、漸〔やうやう〕、大きなるに、魚は亦、漸、瘦せ、便〔すなは〕ち、食ふに堪へず、時ならずして、食はず』と。棘鬣魚(キヨクレフギヨ/たひ)にあるは『「タヒ」ノムシ』、「アヂ」にあるは、『「アヂ」ムシ』と云ふ。

水族志

 

[やぶちゃん注:どん尻に控えしは、

節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚目ウオノエ亜目ウオノエ上科ウオノエ科 Cymothoidae の魚類に寄生するウオノエ類

という奇抜さ! 漢字では「魚の餌」である。本ウオノエ類は多種の魚類の口腔内・鰓・体表面に七節の胸節にある左右七対の胸脚の先端部分の指節(鉤(かぎ)状に鋭く尖っている)を魚体に突き刺してへばりつき、体液を吸引する寄生虫である(一部の淡水魚に寄生する淡水性ウオノエ類の中には、タナゴなどの腹腔内に穴を穿ち、その中に袋状の隙間を形成して寄生する種もいる)。和名は恐らく、マダイなどの口腔内に寄生しているタイノエ(Cymothoa verrucosa)を見た昔の人が、タイが食った餌のエビみたような生き物がそのまま残っていたと思ったのが由来であろう。市場に魚が出回る際には概ね除去されるので、まず、一匹丸買いで捌かない限りは見ることは少ない(但し、実は、結構、見つかって、クレームがつくらしい。後述する)。されば、どんな奴か? さても、まず、タクソンの等脚目 Isopoda で朧げながら、形が見えてくる。等脚目の別名はワラジムシ目だ。日常空間で見かけるワラジムシ(ワラジムシ亜目ワラジムシ科 Porcellio 属ワラジムシ Porcellio scaber など)やダンゴムシ(ワラジムシ亜目オカダンゴムシ科 Armadillidiidae・ハマダンゴムシ科 Tylidae・コシビロダンゴムシ科 Armadillidae に属する種群。刺激によって体を丸めて団子状の体勢になって防禦姿勢がとれる。ワラジムシはそれは出来ない点で識別出来る)、海辺で見かけるフナムシ(勘違いしている方がいるから言っておくと、彼らは海中や海水面を泳ぐことは出来るが、そのまま海水にいると溺れて死んでしまう)の仲間だ。別な言い方をしよう。一頻り水族館の人気者になったので、すっかりメジャーになった巨大なオオグソクムシ Bathynomus doederleini (実際に日本最大のワラジムシ目の種。但し、世界最大種は近縁種でメキシコ湾や西大西洋周辺の深海に棲息するダイオウグソクムシ Bathynomus giganteusである)は分類学上、ウオノエ亜目 Cymothoidaスナホリムシ科 Cirolanidaeオオグソクムシ属オオグソクムシなのである(但し、オオグソクムシは寄生しない。それどころか、飼育しても殆んど何も摂餌せず、食性すら判っていない。鳥羽水族館飼育されたダイオウグソクムシ(体長二十九センチメートル)は五十グラムのアジを食べて以降、死亡するまでの五年一ヶ月間、何も摂餌しなかった。恐らくはスカベンジャー(scavenger)で、深海底に降ってきた魚類や鯨類などの死骸や広く弱った深海性生物等を摂っているものと考えられてはいる)。ウオノエはオオグソクムシを小さく小さくしたものと考えてみてもよい。英文ウィキの「Cymothoidae(ウオノエ科)を見ると、実に四十七属が掲げられてある。Web magazineBuNaの「あなたの知らない○○ワールド」にある、川西亮太氏の「第7 ウオノエの世界  ~カワイイ顔して、魚に寄生する甲殻類」が恐らく、一般人向けのウオノエの解説ページとしてはこれ以上のものは望めないと言ってよいほどに優れているので、是非、見られたい。但し、ダンゴムシ系がダメな人は見ない方がよく、魚類の口腔内寄生のウオノエの写真はかなりショッキングなので、自己責任でクリックされたい。

 また、山内健生氏の「シンポジウム報告 日本産魚類に寄生するウオノエ科等脚類」(『CANCER』第二十五巻・二〇一六年・PDF)によれば、世界では三百三十種が報告されているとある。それによれば、本邦産ウノノエ類は、まず、体表寄生性のウオノエ類が(以下、種名学名まで示されているが、属内の掲げられた種数を数えて、その数だけを附す)、

ウオノギンカ属 Anilocra(三種)

ウオノコバン属 Nerocila(三種)

ウオノドウカ属 Renocila(三種)

カイテイギンカ属 Preopodias(一種)

で、口腔内或いは鰓腔内寄生性のウオノエ類が、

ヒゲブトウオノエ属 Ceratothoa(八種)

エビスエラヌシ属 Cterissa(一種)

ウオノエ属 Cymothoa(三種。ここに恐らくは一番知られているであろう、マダイ・チダイ・アカムツの口腔内に寄生するタイノエ Cymothoa verrucosa がここに入る

エルウオノエ属 Elthusa(五種)

カタウオノエ属 Glossobius(二種)

エラヌシ属 Mothocya(六種)

マンマルウオノエ属 Ryukyua(一種)

が挙げられ、最後に体腔内寄生性のウオノエ類として、

ウオノハラモグリ属 Ichthyoxenus(三種。ここに先に示したタナゴ類やフナ等に体腔内に侵入する淡水性のタナゴヤドリムシ Ichthyoxenus japonensis が含まれている

が示されてある。而して、山内氏は纏めて(種小名不明を除いて数えておられる)体表に寄生するもの四属八種、口腔内或いは鰓腔内に寄生するもの七属二十三種、体腔内に寄生するもの一属三種とされ、合計で本邦産ウオノエ類は全十二属三十四種が『記録されていることが明らかとなった』とある。因みに、日本周辺の海洋生物を主な対象としているデータシステム「BISMaL」(Biological Information System for Marine Life)のここを見ると、ウオノエ上科 Cymothooidea にウオノエ科 Cymothoidae と並んで、ニセウオノエ科 Corallanidae が存在し、そこに Alcirona 属・Argathona 属・キバウオノエ Excorallanaの三属が挙げられていることを言い添えておく。

「ウヲノシラミ 魚蝨」現在のウオノエ類には「シラミ」を有する和名がついた種はいない。

「白色」ウオノエ類は白色の種は多いが、色彩は多様である。

「蟬の脫〔ぬけがら〕」「の」は私が送った。熟語なら、「センダツ」であるが、これはセミの抜け殻を意味する「蟬蛻」(センゼイ)の「蛻」を「脱」に誤った語かとされる。

「海味索隱」本書で盛んに使用された「閩中海錯疏」の著者で、明後期の政治家・学者の屠本畯(とほんしゅん 一五四二年~一六二二年)の撰になる、海産生物の博物書。先行する海産生物書を補訂する内容のようである。「索隱」は索引で補訂対象原本のそれを指すものと思われる。早稲田大学図書館の「古典総合データベース」にある陶宗儀による漢籍叢書「説郛」(せっぷ)の第四十二巻PDF)に載る。畔田の引用は89コマ目から始まる「靑鯽歌」(せいそくか)の一節である。「靑鯽」は本邦ではコノシロ(条鰭綱新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ属コノシロ Konosirus punctatus)を指すが、当時の明で同種を指したかどうかは不詳。90コマ目の「索隱曰」以下の文中に出現する。如何にも確かにウオノエの類を指しているようには見える。先の山内氏の報告に(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『ウオノエ類の宿主特異性の程度は種によって大きく異なり、多くの有用魚種も宿主として記録されている。ウオノエ類の寄生によって、宿主魚類には、貧血、栄養障害、および発育阻害などが生じ、ウオノエ類による漁業対象魚種への経済的な損害には無視できないものがある。ウオノエ類による被害が世界各地で報告されており』、『日本でも、タイノエ Ceratothoa verrucosa (Schioedte & Meinert, 1883),シマアジノエ Ceratothoa trigonocephala (Leach, 1818)、コウオノエ Ceratothoa oxyrrhynchaena (Koelbel, 1879)、サヨリヤドリムシ Mothocya sajori Bruce, 1986、イワシノコバン Nerocila phaiopleura Bleeker, 1857、ウオノコバン Nerocila japonica Schioedte & Meinert, 1881による漁業被害が報告されている』。『被寄生魚類は、ウオノエ類によって直接的・物理的な被害を受けるだけでなく、病原微生物による感染の危険にもさらされる』。『また、食の安全や食品衛生への関心が高まる今日では、一般消費者が食用魚類中にウオノエ類を見出して不安を感じることも多く、ウオノエ類を食品混入異物あるいは有害寄生虫と見なしたクレームが小売店・加工会社・保健所などでは後を絶たない』。『実際に、かつて著者が地方衛生研究所に勤務していた際にも、一般の方や企業からのこうした問い合わせは少なくなかった』とある。されば、そのうち、あなたも見つけて吃驚するかも知れぬ。

「淸明〔せいめい〕時〔どき〕」二十四節気の第五。三月節で、旧暦では二月の後半から三月前半に当たる。太陽黄経が十五度の時で、新暦では四月五日頃に相当する。

「腦の中、蟲、生ず」口腔内の誤りであろう。或いは外部寄生する場合は、頭部の眼の上辺りに附着することがあり、しっかりしがみついているので、それを脳の中から出現したものと見誤ったものかも知れない。

「棘鬣魚(キヨクレフギヨ/たひ)にあるは『「タヒ」ノムシ』「棘鬣魚」(「鬣」は言わずもがな「たてがみ」のこと。魚類の鰭の中でも特に背鰭を指す)現代仮名遣では「キョクリョウギョ」である。先に示したタイノエ。

『「アヂ」にあるは、『「アヂ」ムシ』』タイノエ類で、アジ類に寄生する種は、先の山内氏のリストを見ると、

ヒゲブトウオノエ属ナミオウオノエ Ceratothoa carinata

が、マルアジ(Decapterus maruadsi)・ムロアジ(Decapterus muroadsi)・シマアジ Pseudocaranx dentex)に、

同属シマアジノエ Ceratothoa trigonocephala

がムロアジ(Decapterus muroadsi)・シマアジ(Pseudocaranx dentex)に寄生することが確認されてある。ウィキの「ウオノエ科」によれば、『種類や宿主などについては、いまだ不明な点が多い』とし、『欧米の水産分野では、ウオノエ類を魚類系群識別のための生物標識としても用いている』『が、日本近海におけるウオノエ類の研究は諸外国と比較すると』、『あまり進んでいないと指摘されている』(これらの出典はまさに上記の山内氏の報告が元である)。『ウオノエ類は寄生生活に適応した特殊な形態と生活サイクル(性転換など)を備えているため、進化生物学などの分野では研究対象として注目されて』おり、『愛媛大学や総合地球環境学研究所などのチームが』二〇一七年四月十九日に『明らかにしたところによると、ウオノエは、深海に生息していた共通の祖先から進化した可能性が高い』(典拠は『日本経済新聞』のこの記事。因みにそこではウオノエの世界の全種数約四百とする。種は、ますます増えそうだ)とある。

 これを以って畔田翠山「水族志」の「第十編 海蟲類」は終わっており、「水族志」本文は終わっている。

 さても。これより、本書の冒頭に戻って電子化注を開始する。昨日やってみたが、国立国会図書館デジタルコレクションのものも、「水産研究・教育機構」のものも、孰れも私の所持するOCRによる電子的な読取りが上手く機能しないことが判明した。されば、この「海蟲類」同様、また、「大和本草」水族の部の時のように、総て視認して打ち込むしかない。「大和本草」の方は終わるのに六年弱かかった。恐らく、同じかそれ以上の時間がかかるように思われる。お付き合い戴ける方は、私同様、忍耐と健康が必要となる。御覚悟あれ。

2020/09/28

畔田翠山「水族志」 (二五六) ウミフデ (ケヤリムシ)

 

(二五六)

ウミフデ【海筆ノ義】 海底ニ生ス指ノ如ク尺餘ノ管ヲナシ管ハ泥色也上口ヨリ細キ内條ヲ出シ數ニ分レ筆ニ似タリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

(二五六)

ウミフデ【「海筆」の義。】 海底に生〔しやう〕ず。指のごとく、尺餘りの管〔くだ〕をなし、管は泥色なり。上の口より、細き内の條〔すぢ〕を出だし、數〔かずおほく〕に分かれ、筆に似たり。

 

[やぶちゃん注:原本はここ。江戸時代の大名行列の「毛槍」に喩えたそれである。古くから「海筆」の異名があった。私の好きな海棲生物である。代表種としては、

環形動物門多毛綱ケヤリムシ目ケヤリムシ科ケヤリムシ属ケヤリムシSabellastarte japonica

であるが、西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」(保育社平成四(一九九二)年刊)では、実にケヤリムシ科 Sabellidae として、ケヤリムシを含め、以下の十二種を挙げてある。

Myxicola 属ロウトケヤリ Myxicola infundibulum(世界共通種)

Chone 属クビワケヤリ Chone mollis

Branchiomma 属ムラクモケヤリ Branchiomma cingulata

Sabellastarte 属インドケヤリ Sabellastarte sanctijosephi

Hypsicomus 属ノリクラケヤリ Hypsicomus phaeotaenia

Megalomma 属オオメケヤリMegalomma acrophthalmos

Sabella 属ホンケヤリムシSabella fusca

Pseudopotamilla エラコ Pseudopotamilla occelata(本種は本邦の各地で生食や塩辛などで食用にされてきた歴史がある。但し、本種の棲管には殆んど、刺胞動物門ヒドロ虫綱花水母目エダクダクラゲ科エダクダクラゲ属エダクダクラゲ Proboscidactyla flavicirrata の幼生のポリプ(「ニンギョウヒドラ」という名称で有名)が共生しており、それに刺されると、水泡などの皮膚炎を発症することが知られている。これを漁師らは「エラコにまける」と称する。永く私はこれを食したいと思っているのだが、未だに実現していない)

同属ミナミエラコ Pseudopotamilla miriops

同属クマデケヤリ Pseudopotamilla ehlersi

Parasabella属アヅサケヤリ Parasabella aulaconota(同書ではシノニム Demonax aulaconotaで載る)

何故か、私はこの定在性の種が好きだ。美しいと思うのだ。]

畔田翠山「水族志」 (二五五) イソツビ (イソギンチャク類)

 

(二五五)

イソツビ【紀州若山】一名ケツビ【紀州田邊】ムマノシリノス【筑前福岡】イネツビ【紀州海士郡大川村】[やぶちゃん注:原本はここ。行末で、以下、本文に入るものと採れるから、一字空けた。] 海巖ノ間ニアリ春日潮干テ其袋大ニナリ圓ク桃栗ノ大ノ如シ白色柔軟ニ乄褐色ノ縱條アリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

(二五五)

イソツビ【紀州若山。】・一名「ケツビ」【紀州田邊。】・「ムマノシリノス」【筑前福岡。】・「イネツビ」【紀州海士郡大川村。】 海巖の間にあり。春日〔しゆんじつ〕、潮、干〔ひ〕きて、其の袋、大になり、圓〔まる〕く桃・栗の大〔おおいさ〕のごとし。白色、柔軟にして、褐色の縱の條〔すぢ〕あり。

 

[やぶちゃん注:刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目 Actiniaria のイソギンチャク類であるが、本文末の「褐色の縱の條」を持つ種というのは、本邦では全国的に潮間帯の岩礁や貝殻上に普通に見られる、

イソギンチャク目尋常イソギンチャク亜目ヒダベリイソギンチャク上科タテジマイソギンチャク科タテジマイソギンチャク属タテジマイソギンチャク Haliplanella lineata

であろう(この項での分類は日本動物分類学会誌『タクサ』(二〇一九年第四十六号)の泉貴人・藤井琢磨・柳研介氏の共同論文「最新のイソギンチャク分類体系の紹介とそれに伴う和名の提唱に拠ったので、従来の図鑑類や分類表及びネット上の記載とは異なる)。但し、私はイソギンチャクというと、幼少期の初見参に遡るからか、まず、

尋常イソギンチャク亜目ウメボシイソギンチャク上科ウメボシイソギンチャク科Anthopleura 属ヨロイイソギンチャク Anthopleura uchidai

次に、

同属ミドリイソギンチャク Anthopleura fuscoviridis

その次に、

同上科ウメボシイソギンチャク科ウメボシイソギンチャク属ウメボシイソギンチャク Actinia equina

を想起するのを常としており、タテジマイソギンチャクはその後である。以上の四種で概ね、通常、人々が想起するイソギンチャクをだいたいカバー出来ると私は思う。但し、項の頭に並ぶ異名は、それらのどれでもあるかも知れぬし、或いは、どれでもない可能性もあることを押さえておく必要はある。

「イソツビ」「ウミシカ(アメフラシ)」では、まずはおとなしく「磯螺」か、などと言ったがここはもう百%「磯玉門」「磯𡱖」(孰れも「いそつび」と読む)である。「つび」は女性生殖器の外陰部の古名である。触手を開いたイソギンチャク類を、そのシミュラクラとしたもので間違いない。いや、寧ろ、私は、触手を閉じた瞬間の収縮過程の内腔が覗けている時の方が、その形容に最もマッチすると考えている。完全に閉じてしまった(海水を逃がさないように密閉した状態)のイソギンチャクはどれでも却って似ていない。

「紀州若山」何度も出た和歌山市和歌の浦。

「ケツビ」「ツビ」は同前。「ケ」は「毛」で前者との関係から触手を陰毛に喩えたものかも知れない。

「ムマノシリノス」これは「馬(むま)の尻の巢」で「巢」は「穴」の意であり、「ウマの肛門」の意である。実はこれは「筑前福岡」でこれでも大人しい言い方で、同じ福岡県の柳川などの有明海沿岸では、「ワケノシンノス」(若い衆の尻(けつ)の穴)という、恐らくは江戸時代まで華やかだった若衆道の名残とも感じられる。そして、このイソギンチャクは、当地で食用にされている、

ウメボシイソギンチャク上科ウメボシイソギンチャク科 Gyractis 属イシワケイソギンチャク Gyractis japonica sensu

であろうと思うのである。

「イネツビ」「イネ」は不詳。

「紀州海士郡大川村」旧海部(あま)郡大川浦、恐らくは和歌山県和歌山市大川(グーグル・マップ・データ)ではないか。]

畔田翠山「水族志」 (二五四) ウミケムシ (ウミケムシ・ウミイサゴムシ)

 

(二五四)

ウミケムシ 一名イラカ【紀州田納浦】 漁師云此蟲海中ニテ人肌ニ觸ルレハ疼ムヿ毛蟲ノ如シ大サ三寸許毛蟲ニ似テ扁也口淡肉紅色背淡紅ニ乄横ニ褐色ノ條アリ背一道黑星㸃相並ビ㸃ノ外黃色ニシテ金色ヲ帶背竪ニ六道ノ白ク透明ナル毛相並ヒ聚リ生ズ六道ノ内背ノ二道ハ毛短シ此蟲乾ハ白毛左右ニ分レ聚ル一種吹上濱沙中ニ海砂ヲ聚メテ巢トシ形狀スリコギ介ノ如ク三寸許其尾大ニ乄末細ク形状圓シ蚯蚓ニ似タル紅色ノ蟲アリ長サ指ノ如シ橫理アリ左右ニ短白毛排生シ其尾金色ノ毛平扁ニ乄聚レリ此蟲沙蠶ノ一種也閩中海錯疏ニ沙蠶似土笋而長閩書ニ沙蠶生汐海中如蚯蚓泉人美謚曰龍膓ト云此蟲白毛生乄食用ニ充ベキ者ニ非ズ

 

○やぶちゃんの書き下し文

(二五四)

ウミケムシ 一名「イラカ」【紀州田納浦。】 漁師、云はく、「此の蟲、海中にて人肌に觸るれば、疼〔いた〕むこと、毛蟲のごとし」と。大いさ、三寸許り。毛蟲に似て扁〔へん〕なり。口、淡い肉紅色。背、淡紅にして、横に褐色の條あり。背、一道、黑き星の㸃、相ひ並び、㸃の外は黃色にして、金色を帶ぶ。背、竪に六道の、白く透明なる毛、相ひ並び聚〔あつま〕り生ず。六道の内、背の二道は、毛、短し。此の蟲、乾けば、白毛、左右に分れ、聚る。一種、吹上濱沙中に海砂を聚めて巢とし、形狀、「スリコギ介〔ガイ〕」のごとく、三寸許り。其の尾、大にして、末、細く、形状、圓〔まろ〕し。蚯蚓に似たる紅色の蟲あり。長さ指のごとし。橫の理〔きめ〕あり。左右に短き白毛、排生〔はいしゆつ〕し、其の尾、金色の毛、平扁〔へいぺん〕にして聚れり。此の蟲、沙蠶〔ゴカイ〕の一種なり。「閩中海錯疏」に『沙蠶〔ササン〕、土笋〔ドジユン〕に似て長し』と。「閩書〔びんしよ〕」に『沙蠶、汐海〔しほうみ〕の中に生じ、蚯蚓のごとし、泉人〔せんひと〕、美謚〔びし〕して曰はく、「龍膓」と云ふ』と。此の蟲、白毛生じて、食用に充つべき者に非ず。

 

[やぶちゃん注:原文はここから次のページ(本文最終ページ)。環形動物門多毛綱ウミケムシ目ウミケムシ科 Amphinomidae のウミケムシ類で、本邦では代表和名種として特にウミケムシ Chloeia flava にその名を与えているが、ウミケムシ類は本邦でも複数の種が分布する。私は本草書でウミケムシを立項してここまでちゃんと記した記載は見たことがない。それにまず、感動した。私は残念なことに実際に現認したことはなく、されば幸いなことに刺されたこともないわけだが(ネットの動画や記事写真で見たことしかない)、ウミケムシ類は海産の危険生物として必ず掲げられるものであり、さればこそ、ここでは、しっかりと記載したい。それは危険喚起と同時に、忌み嫌われて、それ故に実体を知られることが少ないウミケムシを少しばかり哀れに思うからでもある。動画で見る遊泳するそれは実は美しくさえあるからである。そこで、まず、西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」(保育社平成四(一九九二)年刊)の解説を引く。筆者は内田紘臣氏(ピリオド・コンマを句読点に代え、図注記はカットした)。まずはウミケムシ目 Amphinomida の記載。

   《引用開始》

 全体にわたって同型の体節を持ち、体は異なった部分に分けられない。前口葉[やぶちゃん注:prostomium 或いはacron。環形動物や節足動物などの一部の体節制を持つ動物の、口よりも前方にある胴体最前方の節で、一般には頭部としての役割を持つ部分を指す。]ははっきりして、前部の体節に囲まれ、3本の感触手と2本の副感触手を備え、後縁中央から後方に伸びる肉冠[やぶちゃん注:caruncle。通常は頭部の後方にある突起(鳥の鶏冠(とさか)もこの語を用いる)。ウミケムシ類では小さな細い錐体状でそれほど目立つものではないようだ。]を持つ。口節もまた前部体節に囲まれる。咽頭は翻出可能(口吻)で、円筒形を呈し、歯はない。疣足は二叉型で、剛毛は種々な形状のものがあるが、すべて単剛毛である。背復両触鬚および鰓を持つ。ウミケムシ科[やぶちゃん注:Amphinomidae。]とケハダウミケムシ科[やぶちゃん注:Euphrosinidae。]の2科を含む。

   《引用終了》

続いて、ウミケムシ科 Amphinomidae の解説。

   《引用開始》

 体は短い紡錘形かまたはやや長く、断面は略円形か略四角形、前口葉は略卵形で、目節に癒合する。前口葉には5本の短い錐状あるいは糸状の突起があり、それらは1本の中央感触手と、その外側の1対の側感触手と、一番側方かつ腹側にある1対の副感触手である。0~2対の眼がある。通常前口葉後端から後方に伸びる種々の形状の肉冠を持つ。口節は2~5体節に囲まれたクッション状の前・後・側唇を持つ。口吻は短く、顎や乳頭様突起を欠く。疣足は二叉型で、背腹両疣足はよく分離する。剛毛はすべて単剛毛で、あるものでは中が中空で、そこに毒液がつまっている。背触鬚は紐状で、各疣足に1本または2本、腹触鬚は各1本で短い錐型。鰓は各背疣足のすぐ後にあり、叢状もしくは羽状分岐する。雌が幼若個体を自分の体につけて保護する種がある。本科の種は一般に岩上や割れ目やサンゴの間をはいまわるが、よく泳ぐものも知られている。17属約120種があり、基本的に熱帯~亜熱帯に分布し、浅海から非常な深海にまで棲息する。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

以下、同書では、本邦の浅海域で見られるものとして、以下の種が掲げられてある。

ウミケムシ科 Amphinomidae

 Amphinome 属ササラウミケムシ Amphinome rostrata

 Chloeia 属ウミケムシChloeia flava

 同属フタスジウミケムシ Chloeia fusca

 Notopygos 属セナジリウミケムシ Notopygos gigas

 Pareurythoe 属ニホンウミケムシ Pareurythoe japonica(日本固有種)

 Pherecardia 属タテジマウミケムシ Pherecardia striata

 Eurythoë 属ハナオレウミケムシ Eurythoë complanata

ケハダウミケムシ科 Euphrosinidae(本邦産の同科の種はEuphrosine 属のみが知られている)

 Euphrosine 属ケハダウミケムシ Euphrosine superba

 同属ミナミケハダウミケムシ Euphrosine myrtosa

以下に示す種ウミケムシ以外の記載には剛毛による刺傷危険性が記されていないが(一般に生物の学術的な記載には特に危険な種以外には記さないことの方が普通である)、上記のウミケムシ科の記載から、これらは程度の差こそあれ、危険であると考えてよい。知られた代表種ウミケムシの記載を引用しておく。

   《引用開始》

ウミケムシ

Chloeia flava(Pallas)

 体長2~13cm。背面正中部に暗紫色の円紋が並ぶのが特徴である。本州中部以南の浅海からかなりの深さの砂っぽい海底に棲息し、インド洋~西太平洋に広く分布する.夜間燈火に向かってよく泳ぎ上がる。剛毛に刺されるとひどく痛む。

   《引用終了》

静止画像では寧ろ「忌まわしい海の毛虫」の印象が強くなってしまうので、毛虫にある程度の耐性のある方には、YouTube の「Japan Marine Club 海想記」の「【危険生物】ウミケムシ(水中映像) " Chloeia flava "(データ表示:山口県長門市北長門海岸国定公園「青海島」・水温12℃・水深18m・ウミケムシ(海毛虫))をお薦めしたい。但し、おどろおどろしいバック・ミュージックは消してご覧あれ。私はとても美しいと思う。ウィキの「ウミケムシ」によれば、『体長は13cmに達し、背面の正中線には暗紫色の円斑が並んでいる。体の側部に毛を持ち、警戒した時に立たせる。この毛は中空で毒液があるため』、『毒針となっており、人でも素手で触れると刺されることがある。刺さると毒が注入される構造なので、毒針を抜いても毒は残る』。『刺された際にはセロハンテープ等で毒針をそっと取り除き、流水で洗い流す』と注意書きがある(ウィキペディアを非アカデミックなものとして見下す者が多いが、私が何冊も持っている危険な海産生物についての専門家の書いたものでも、ここまで処置をちゃんと記して呉れているものは実は少ないのだ。因みに、他のネット記事によると、このウミケムシの有毒成分は蛋白質のコンプラニン(Complanine)というドクガ(鱗翅(チョウ)目ヤガ上科ドクガ科 Artaxa 属ドクガ Artaxa subflava)のそれと同じ成分であるとし、刺されると、痒みを伴う炎症で数日間に亙って苦しめられるとあった)。本種は『本州中部以南、太平洋南西部、インド洋に分布』し、『比較的暖かい海を好み、京都府の宮津湾辺りにも多い。山形県で発見された例もある』。『海底の砂の中に潜っていることが多く、頭部のみを砂上にのぞかせていることもある』。『夜は海中を泳』ぎ、『泳ぐ速度は比較的』、『速い。肉食であり、動物性プランクトンを捕食する。オキアミ程度の大きさであれば』、『丸飲みすることもできる』。『投げ釣りの際に外道としてかかることがある』。『ただし』、『捕食のために積極的に行動することは少なく、餌を時々動かせば掛からないことが多い』ともある。なお、「㋑一種」はどうもウミケムシ類ではないように思われるのであるが(後注参照)、この末尾にある「此の蟲、白毛生じて、食用に充つべき者に非ず」とあるので、これをウミケムシに適用してみると、無論、どこにも食用となるという記載はない。こんな有毒な剛毛を持つものを食材とした習慣は一般には、あるまい。しかし、ネットを見ると、挑戦している御仁がいた! それによれば、剛毛の除去が大変であることを述べつつも、苦労して取り出した僅かな刺身はユムシに近く、甘い、とあった。但し、美味くないとする別人の記事もある。因みに毒成分は熱を加えると消失するらしい。面白いのだが、いろいろな調理過程の画像が如何にも多くの人にはエグいと思われるのでリンクはしない。フレーズ検索「ウミケムシ 食べ」で検索すると出てくる。流石の私でもウミケムシは食おうとは思わないな。

「イラカ」「刺鰕」か。接尾辞や語素としての「か」は「そのような様態を示すもの」の意があるから、単に注意喚起としての「刺すもの・奴」の意かも知れない。

「紀州田納浦」この地名では現認出来ない。思うに和歌山県和歌山市田野(たの)(グーグル・マップ・データ)のことではあるまいか。漁港名は「田ノ浦」であり、畔田が盛んに採取地として挙げる、「雜賀崎浦」と「若浦」(和歌の浦)の丁度、中間に当たる海辺に当たる。

「竪に六道の、白く透明なる毛、相ひ並び聚〔あつま〕り生ず」実際に背部の白い単剛毛の列が六筋かどうかは、種々の画像や動画を見ても、私にははっきりとはしなかった。但し、「六道の内、背の二道は、毛、短し」は確かである。その体側方向に二列の剛毛列がある、と言われば、そう見えなくもない。

一種」難物。刺すと書いていない以上、ウミケムシの仲間ではない。一つ、着目されるのは、浜の「沙中に海砂を聚めて巢とし」ているという記載である。これは直ちに、

環形動物門多毛綱フサゴカイ目ウミイサゴムシ(海砂虫)科(或いはそのまま Pectinariidae 科)Lagis 属ウミイサゴムシ Lagis bocki

を想起させる。砂を一層で綴った特異な角笛型(後方(下方)に向かって細くなる)の棲管(両端ともに開口する)を作って砂底中に住んでいる。本体は体長一~四センチメートルと小さく(本文のサイズよりは小さい)、二対の橙色或いはピンク色の鰓が第三~第四体節の左右にあり、その後に十五節の剛毛節を有する。個人ブログ「生物屋学生の日記」の「ウミイサゴムシ」の写真を見て頂くと、頭は丸くだんだん細くなり、その体側に白い剛毛が針のように(これは拡大写真なので、毛のようにという本文と一致する)生えているのが判る。解説に『顎や側面の毛?が金色』を呈しているというのも本記載との親和性を有するのである。ただ、西村氏の前掲図鑑では、棲息域を『本州中部の水深2030メートルの砂底に棲息する』と書いてある点がネックで、畔田の記載は「吹上濱沙中に」(場所は次注参照)いると書いてあり、これは砂浜海岸の浅い潮下帯に棲息しているということになってしまってダメなのである。ところが、である! リンクさせたブログ主のカニ好きの「生物屋学生」さんの記載をよく見られたいのだ! 彼は、そのウミイサゴムシを『メナシピンノが捕れたところで砂を曳いているとタモに入ってきました』と言っているのだ。甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱十脚目抱卵亜目短尾下目スナガニ上科Xenophthalmidae 科メナシピンノ亜科メナシピンノ属メナシピンノXenophthalmus pinnotheroides というのは、有明海湾奥部に多数棲息することで知られる(他に瀬戸内海西部にも分布するが、準絶滅危惧種である)種である。しかも、その「生物屋学生」さんは、そこで『タモ』網で『砂を曳いていると』『入ってきました』とあるのだ。これはどう見たってドレッジじゃないぞ! 立って浸かって入れる浅瀬でタモ網を海底に曳いていたところが、たまたま獲れた、とおっしゃっているのだ! されば、吹上浜の浅瀬にウミイサゴムシがいても、少しもおかしくないことになるではないか!

「吹上濱」現在の和歌山県和歌山市吹上(グーグル・マップ・データ)は和歌山城の南に接した内陸であるが、公開シンポジウム「和歌山城と城下町の風景」のパンフレットとして和歌山県文化財センター編したこちらPDF)を見ると、『古代には和歌山城下町が立地する吹上の東側を流れていた紀ノ川は、戦国期までに吹上砂州を突き破り、水軒川に沿うように南流し』、『雑賀山の北に河口ができた』。その後、『和歌山城は岡北端の山塊に築かれ、城下町は吹上砂丘上に建設された』とあり、幕末の絵図を見ても、現在の地勢と大きな違いを認めないことから、この「吹上濱」というのは、紀ノ川の河口の左岸一帯を広域に指したものと考えてよいであろう。

「スリコギ介〔ガイ〕」思うに、文字通りに信用して、真正の貝類とするなら、擂粉木に似ているのは、斧足(二枚貝)綱異歯亜綱マルスダレガイ目マテガイ超科マテガイ科マテガイ属マテガイ Solen strictus 以外には私は考えられない。同種は本邦では東北以南の波の穏やかな内海の砂浜の穴を掘り、数十センチメートルから一メートル程の深さに棲息している。

「蚯蚓に似たる紅色の蟲」「ウミイサゴムシは赤くないだろ」とおっしゃる方に。和歌山県立自然博物館の平嶋学芸員さんのブログ「ハゼつれずれ」の「うみいさごむし」を見られたい。下方に棲管から出した本体が強く赤いのが判る。ここにも『先端の部分の毛が金色できれいです!』とある。

「橫の理〔きめ〕あり」ウミイサゴムシにあります。

「沙蠶〔ゴカイ〕の一種なり」ウミイサゴムシは多毛綱フサゴカイ目Terebellida であるから、広義の「ゴカイ」の一種である。江戸時代でも、海産生物を多く観察してきた畔田のような者ならば、初めて見ても、ゴカイの仲間であると認識するはずである。

「閩中海錯疏」以下の引用も含め、「ウミミミズ (ホシムシ・ユムシ・ギボシムシ)」の項で注記済み。

「閩書」明の何喬遠(かきょうえん)撰になる福建省(閩は福建省の旧名)の地誌「閩書南産志」。ネットでは電子化や画像は残念ながら、見当たらない。ちょっと「美謚」が気になるんだけど。

「泉人〔せんひと〕」泉州。漢文で国や広域地方名などに附した「人」は「じん」とは読まず、「ひと」と読むのがお約束。現在の福建省泉州市(グーグル・マップ・データ)。

「美謚〔びし〕」この「謚」は「諡号」(シゴウ/おくりな)と同じで、高貴な人物の死後に与えられる称号で、子孫が死者の生前の功績や事跡などを元につけるが、大まかには「美謚」・「平謚」・「悪謚」の三ランクがあり、「美諡」の最高位が「文」で以下「武」・「安」・「懿」(イ)などが続く。しかし、どうもここでは訳が分からない。「稱」の誤字じゃなかろうかなどと考えてしまうのだ。

「龍膓」腑に落ちる。

「此の蟲、白毛生じて、食用に充つべき者に非ず」既に述べた通り、ウミイサゴムシだとして、体側のそれは剛毛だし、虫体自体も小さいしね。]

2020/09/27

畔田翠山「水族志」 (二五二) ウミビル (イトメ・マダラウロコムシ)

 

[やぶちゃん注:同名異物と思われる「ウミビル」(前者は立項の初めは「ウミヒル」であるが、本文では「ウミビル」と表記している)を二条を纏めて電子化注する。底本ではここ。]

 

(二五二)

ウミヒル【備前岡山】 禾蟲 備前ニ產スル「ウミビル」ハ潮ノ來ル河中ノ泥底ニ生シ九十月ニ至テ泥中ヨリ自然ト出テ流水中ニ混ジ流ル形狀蚯蚓ニ似テ一二寸微紫色左右軟ナル足アリ細クシテ蜈蚣ノ足ノ小ナルガ如ク軟也土人此ヲ採テ麥ノ肥トシ或ハ煑食フテ味甘美也ト云華夷續考曰海田當秋成時禾蟲多隨潮浮上如蚕微紫小民繒以絡布捕之盈艇而歸味甘可食市之獲利爭訟者、至有順德縣志曰禾蟲如蠶微紫長一二寸無種類夏秋間早稻晩稻將熟之時由田中出潮長漫田乘潮下海日浮夜沈浮則水面皆紫采者預爲布網巨口狭尾有竹有囊樹材於海之兩旁名爲埠各蟲有主出則繫網於材逆流迎之張口東嚢二重則瀉於舟多至百盤活者製之可以作醬炮之可以作醬味甚美或醃藏之爲鹹壓而爆之爲乾皆可按ニ「廣東新語」ニ色紅黃ト云フ地產ニヨリ其ノ色ヲ異ニスル者也

 

○やぶちゃんの書き下し文

(二五二)

ウミヒル【備前岡山。】 禾蟲〔カチユウ〕 備前に產する「ウミビル」は、潮の來〔きた〕る河中の泥底〔どろぞこ〕に生じ、九、十月に至〔いたり〕て、泥中より自然〔おのづ〕と出〔いで〕て、流水中に混〔こん〕じ、流〔なが〕る。形狀、蚯蚓に似て、一、二寸。微紫色。左右、軟〔やはらか〕なる足あり、細くして、蜈蚣の足の小なるがごとく、軟〔やはらか〕なり。土人、「此れを採〔とり〕て、麥〔むぎ〕の肥〔こやし〕とし、或〔あるい〕は煑〔に〕食ふて、味、甘美なり」と云〔いふ〕。

「華夷續考」に曰はく、『海田、當〔まさ〕に、秋、成るべき時、禾蟲、多く、潮に隨ひて浮上し、蚕〔かひこ〕のごとくして、微紫なり。小民、繒〔そう〕するに、絡布〔らくふ〕を以つてし、之れを捕る。艇に盈〔み〕つれば、歸る。味、甘く、食ふべし。之を市〔あきな〕ひ、利を獲る。爭ひ訟ふる者、有るに至る』と。

「順德縣志」に曰はく、『禾蟲、蠶〔かひこ〕のごとく、微紫。長さ、一、二寸。種類、無し。夏・秋の間、早稻〔わせ〕・晩稻〔おくて〕、將に熟せんとする時、田中に由〔よ〕り、潮の出づるに、長く、田に漫〔み〕ち、潮に乘り、海に下る。日〔ひる〕は浮き、夜は沈む。浮かめば、則ち、水面、皆、紫たり。采〔と〕る者、預〔あらかじ〕め、布の網を爲〔つく〕り、巨〔おほき〕なる口にて狭〔せば〕き尾となす。竹、有り、囊、有り、材を海の兩の旁〔かたは〕らに樹〔た〕て、名づけて「埠〔ふ〕」と爲〔な〕す。各〔おのおの〕、蟲に主〔あるじ〕有りて、出づれば、則ち、網をして材に繫ぎ、逆流するときは、之れを迎ふる。張り口は、嚢〔ふくろ〕を東〔ひんがし〕し、二重たり。則ち、舟に瀉〔しや〕せば、百盤に至る。活〔い〕ける者は、之れを製するに、以つて醬〔ししびしほ〕に作るべし。之れを炮〔あぶ〕りて、以つて醬に作るべし。味、甚だ美〔よ〕し。或いは醃〔しほづけ〕にして、之れを藏〔ざう〕し、鹹壓〔かんあつ〕爲〔し〕て、之れを爆〔さら〕し、乾〔ひもの〕と爲すも、皆、可なり』と。

按〔あんずる〕に「廣東新語」に『色、紅黃』と云ふ。地產により、其の色を異にする者なり。

 

[やぶちゃん注:これは、ズバリ! 環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ超科ゴカイNereididae

Tylorrhynchus 属イトメ Tylorrhynchus heterochaetus

に同定して間違いない。「糸女」で、中文ではここに出る通り、「禾蟲」(カチュウ)が通称で、中文学名は「疣吻沙蚕」である。他に本邦では、このイトメに代表される多毛綱ゴカイ科の環形動物の中でも生殖のために遊泳する(「生殖群泳」と呼ぶ)生殖型個体のうち、日本にいるものを特に「バチ」と総称し、他に「ウキコ」「ヒル」「エバ」とも称する。特にイトメのバチを「日本パロロ」(英名 Japanese palolo)とも呼ぶ。最高の多色の図で示されてある栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」巻六より)『文化十二年乙亥 冬十月 豊前國小倉中津口村と荻﨑村の際小流に生ぜる奇蟲「豐年蟲」』(リンク先は私のサイトHTML版)がまずはゼッタイにお薦め! また、本家の「パロロ」については、私の『博物学古記録翻刻訳注 10 鈴木経勲「南洋探検実記」に現われたるパロロ Palola siciliensis の記載』を参照されたい。特にここに記されている「生殖群泳」については、そこの私の注を読まれたい。これは説明し出すと、またまた注が長くなってしまうからである。なお、本邦で大正時代にイトメの生殖群泳を研究された「木場の赤ひげ」新田清三郎先生の『「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて――』(カテゴリ「海岸動物」(カテゴリ「博物学」でも)全十回で私が電子化注したもの。先頭のリンクは、そのⅠ)も是非読まれたい。因みに新田先生は昭和二〇(一九四五)年三月十日の東京大空襲によって命を落とされた。

『備前に產する「ウミビル」は、潮の來〔きた〕る河中の泥底〔どろぞこ〕に生じ、九、十月に至〔いたり〕て、泥中より自然〔おのづ〕と出〔いで〕て、流水中に混〔こん〕じ、流〔なが〕る』イトメは河川の河口附近や、その近くの汽水域及びそこに繋がっている淡水域(河川下流域)や田圃等にまで広く分布し、大潮の夜になると、生殖体勢体に変形して淡水域に遡上し、そこで生殖群泳を繰り広げるのである。

「此れを採〔とり〕て、麥〔むぎ〕の肥〔こやし〕とし、或〔あるい〕は煑〔に〕食ふて、味、甘美なり」佐藤正典氏の非常に優れた論文「多毛類の多様性と干潟環境 : カワゴカイ同胞種群の研究」(『化石』第七十六巻・二〇〇四年・PDF)に(コンマを読点に代えた)、『日本の』『生殖群泳を行う「ゴカイ」は』(論文内では違った意味で使っておられるが、ここは広義でとってイトメも含めた意味でとって貰って問題ない)『東京近郊では地方名としてもゴカイと呼ばれ、ほぼ一年中、魚釣りの餌に用いられており、一方、岡山県の児島湾近郊ではウミビール(海ビール)と呼ばれ、成熟個体が井草栽培などのための肥料として広く用いられていた』とあり、私も他の地域でも実際に、古くは「ゴカイ」の類いを、田畑の自然肥料として用いていたという話を複数回、聴いている。以上の引用の最後は、まさに本文に出る岡山である点に注目されたい

「華夷續考」明の李時英の博物学的随筆で一八五一序の「華夷花木鳥獸珍玩續考」の略であろう踏んで、早稲図書館「古典総合データベース」のこちらで、天保保六(一八三五)年の写本で調べたところ、ここに原文「禾虫」を見つけた。

「絡布〔らくふ〕」繋ぎ合わせた布。

「繒〔そう〕」には「矢に糸をつけて鳥を射る道具」の意があるので、それを禾虫(イトメ)を漁(すなど)る「漁具として絡布を投げ打つ」の意でとってみた。

「爭ひ訟ふる者、有るに至る」好んで求める者が多くて、買い手間に喧嘩が起こるということであろう。

「味、甘く、食ふべし」既に『文化十二年乙亥 冬十月 豊前國小倉中津口村と荻﨑村の際小流に生ぜる奇蟲「豐年蟲」』で私は述べているが、イトメは食用になるのである。生牡蠣っぽい味がして、結構、美味いのである。ウィキの「イトメ」にも、『中国語の標準名は「疣吻沙蚕」』『というが、中国広東省の順徳料理や広州料理では「禾虫」(広東語 ウォーチョン)の名で、生殖体を陳皮風味の卵蒸し』や、『炒め物などの料理にして食用にする。シャリシャリした食感があり、タンパク質と脂肪が多く、アミノ酸バランスもよい』『とされる。珠江デルタにある水田には多く生息しており』、五月から六月と、八月から九月の彼らの『繁殖期に水田に水を入れると』、『流れに乗って集める事ができるため、採り集めて出荷する』とある。これはまさに次の「順德縣志」に書かれている通りのことである。さらにイトメのウィキを中文に切り替えて見給え! 流石は中国じゃないか! 記載の三分の二が――イトメの料理だぞ!――そこには、「禾蟲全席」というイトメ・フル・コース料理まであるぜよ! 「之を市〔あきな〕ひ、利を獲る。爭ひ訟ふる者、有るに至る」も尤もじゃあないか! 何? 「お前はどこで食ったのか」って? 釣りの餌だよ、あれを生で食べてみたんだっつーの!

「順德縣志」華南地方の地誌であるが、どうも同名で筆者の異なる複数の違うものがあるか? 「中國哲學書電子化計劃」で検索しところ、かく示されたが、この引用のそれとは全然違う。これが一番知られるものと思われる清の郭汝誠・馮(ふう)奉初らの纂になるものなんだが。ただ、この版本は一八五六年刊のものしか見えず、これは本書「水族志」の書かれたのが文政一〇(一八二七)年というのと合わない(但し、本書はその後も書き加えられたと考えてよく、畔田は安政六(一八五九)年に没しているからぎりぎり読もうと思えば読めたかも知れない)。

「種類、無し」個体の色彩変異が著しく、分裂するにも拘わらず、正しいことを言っているのが凄い!

「夏・秋の間、早稻〔わせ〕・晩稻〔おくて〕、將に熟せんとする時、田中に由〔よ〕り、潮の出づるに、長く、田に漫〔み〕ち、潮に乘り、海に下る。日〔ひる〕は浮き、夜は沈む。浮かめば、則ち、水面、皆、紫たり」スゴ過ぎる! 

「巨〔おほき〕なる口にて狭〔せば〕き尾となす」プランクトン・ネット!

「埠〔ふ〕」埠頭で波止場・船着き場の意があるから腑に落ちる。

「蟲に主〔あるじ〕有りて」漁業権者と場所が厳格に決められていたのである。

「逆流するとき」イトメの生殖群詠は満潮に乗じて河川を遡上する際に行われる。実に正しい漁の観察である。

「東〔ひんがし〕し」東に向けてセットする。河川の下流方向に当たる。

「舟に瀉〔しや〕せば、百盤に至る」かかった獲物を舟にぶちまけると、何重にもなるほど、山ほど獲れるの意か。

「醬〔ししびしほ〕」塩辛。

「之れを製するに、以つて醬〔ししびしほ〕に作るべし。之れを炮〔あぶ〕りて、以つて醬に作るべし」この部分、同一の衍文の可能性があるか。或いは「之れを製するに、以つて醬〔ししびしほ〕に作りて可にして、之れを炮りて、以つて醬に作るも可なり」で、「生を塩辛にしてよく、また、炙っあ上で塩辛にするのもよい」の意かも知れぬ。原文が確認出来ないのが、激しくイタい。

「廣東新語」清初の屈大均(一六三五年~一六九五年)撰になる、広東に於ける天文・地理・経済・物産・人物・風俗などを記す。「広東通志」の不足を補ったもの。全二十八巻。早稲田大学図書館の「古典総合データベース」の原本のここ

「鹹壓〔かんあつ〕爲〔し〕て」重い石で圧して水分を充分に取り除いた上で、であろう。

「地產により、其の色を異にする者なり」その通りです、畔田先生。]

 

 

(二五三)

ウミビル 海底ノ巖ニ附着ス長サ二寸許形狀蠶ニ似タリ大サ母指ノ如シ褐色ニシテ淺深ノ橫斑條ヲナス頭ヨリ尾ニ至リ背上ニ淡茶色ノ硬キ甲アリ甲ハ末尖リ間を隔テリ腹下岩ニ着處淡黃色ニ乄微紅ヲ帶フ

 

○やぶちゃんの書き下し文

(二五三)

ウミビル 海底の巖〔いはほ〕に附着す。長さ二寸許り。形狀、蠶〔かひこ〕に似たり。大〔おほい〕さ、母指〔おやゆび〕のごとし。褐色にして、淺深の橫斑〔わうはん〕、條をなす。頭より尾に至り、背の上に淡茶色の硬き甲あり。甲は、末〔すゑ〕、尖り、間〔あひだ〕を隔てり。腹の下、岩に着〔つく〕處、淡黃色にして微紅を帶ぶ。

 

[やぶちゃん注:サイズが六センチメートルと小さいこと、全体に地が褐色であること、背部が甲羅のようなものがあること、濃淡のくっきりした体側方向への縞模様があるように見えること、体側部が淡い黄色でやや赤みを帯びること、尾部か頭が二本に別れているように見えることという以上を総合しつつ、西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」(保育社平成四(一九九二)年刊)の解説と写真を見てゆくと、私は、

環形動物門多毛綱ウロコムシ亜目コガネウロコムシ科マダラウロコムシ亜科マダラウロコムシ Harmothoe imbricata

が最も適合するように思われてならない。本種の体長は一・五~四センチメートルで、背部はウロコムシ類の特徴である鱗が十五対あって覆い尽くしている。背鱗の色は変異に富む。英語版「Wikimedia Commonsの「Harmothoe imbricataの画像をリンクさせておく(非常に大きい画像なので、吃驚しないように)。大き過ぎて却って判らぬが、本種にはこの背鱗に濃淡が見られ、体側方向に横縞模様が見えるように感じられる。また画面の左手が触手を持った頭部であるが、尾部も背鱗に生えている長い棘条突起が下がると、これがまた、二叉に別れているように見えるのである。体側部分は淡い黄色である。背鱗などが強い赤みを帯びた個体もあるようである。なお、本邦で和名で「海蛭」=「ウミビル」と呼ばれる真正の蛭、ヒル綱 Hirudinoidea に属する種群は実際に存在する。環形動物門ヒル綱ヒル亜綱吻蛭(ふんてつ)目ウオビル(魚蛭)科Piscicolidae に含まれる種群の通称総称で、陸生・淡水生のヒル類と同様に、魚介類・甲殻類・ウミガメやイルカなどに吸着して体液を吸う(同科の大半の種が海産)。例えば、ニホンウミビル属ニホンウミビル Orientobdella japonica がそれである。「ブリタニカ国際大百科事典」などによれば、近海性硬骨魚類や『サメ類などの魚類に外部寄生する』。体長は七~十四センチメートル、体節数は一定で三十四あり、『体は黄褐色の細長い紡錘形で』、『全面にいぼ状の突起があり』、『後半部が太くなる。体の前部に小吸盤』、『後部に大吸盤があり』、『小吸盤は半球形で腹面に口が開き』、『大吸盤は後方に向いている』。『雌雄同体で』、『雄生殖口は第』十一『体節に』、『雌生殖口は第』十二『体節に開く』とある(同事典のこれより以下の種記載は残念ながら、相当、古い)。詳しくは恐らく最新の総合的知見である、長澤和也・山内健生・海野徹也共同になる論文『日本産ウオビル科およびエラビル科ヒル類の目録(1895-2008年)』(PDF)を見られたい。因みにそこには日本産ウオビル科三亜科十四属十七種・未同定種四・同科未確定六他が記載されてある。他にも、エラビル(鰓蛭)科 Ozobranchidae にも多くの海産種がおり、ウオビル科カニビル属カニビル Notostomum cyclostomum(よく見かける、ズワイガニなどの甲羅に附いているブツブツした黒い丸い物はこのカニビルの卵である。但し、彼らは成長してもズワイガニではなく魚類に吸着するので勘違いされぬように)といった「海」の「蛭」は見かけることが少ないだけで、多くいるのである。しかし、私自身、これらの種を海岸で実際に見掛けたことはなく、そもそもが現在でも多くの人は海産のヒルがいるとは思ってもいないだろう。私は実は寄生虫フリークでもあり、ヒトを含むあらゆる動植物への寄生性生物に関心があるから、知ってはいた(私の魚類の寄生虫についての話を聴いたある数学の同僚は「刺身が食えなくなる」とぼやいた)。しかし、畔田の謂う「ウミビル」に、これらの寄生性の強い種が含まれているとするのは、記載からもちょっと無理があるように思う。]

畔田翠山「水族志」 (二五一) ウミミミズ (ホシムシ・ユムシ・ギボシムシ)

 

(二五一)

ウミミヽズ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]【紀州田納浦】 土笋 海底ニ生ス形狀蚯蚓ノ如ク太ク大ニ乄節アリ半ニテ大ナル節ハ𢌞リ三寸許頭尾ノ節次第ニ小也。肉色ニ乄長サ一尺許閩小記曰予在閩常食土笋凍味甚鮮異但聞其生於海濱形類蚯蚓不識何狀五雜組曰又有土笋者全類蚯蚓按嶺南雜記嶺南人喜食蛇易其名茅曰鱔[やぶちゃん注:「鱔」は判読不能であったが、「嶺南雜記」を江戸時代の翻刻本で確認して当てた。後注する。]食草螽易其名曰茅蝦鼠曰家鹿曲蟮曰土笋以此考ルニ土笋ハ蚯蚓ナリ然則海ミヽズハ即海產土笋也土笋海底泥中ニ產ス一種ウミミヽズ海濱砂泥中ニ生ス穴ヲ發乄之ヲ捕フ長サ二三尺ニ至ル閩中海錯疏ニ土鑽似砂蠶而長紀州若浦毛見浦等ニ產者アリ長サ二三尺蚯蚓ノ如シ臭氣アリテ手ニ觸レハ臭氣移リ去リガタシ

 

○やぶちゃんの書き下し文

(二五一)

ウミミヽズ【紀州田納浦。】 土笋〔ドジユン〕 海底に生ず。形狀、蚯蚓〔みみづ〕のごとく、太く、大にして、節あり。半〔なかば〕にて、大なる節は、𢌞〔めぐ〕り、三寸許〔ばか〕り、頭尾の節は、次第に小となる。肉色にして、長さ一尺許り。

「閩小記〔びんしやうき〕」に曰はく、『予、閩に在りて、常に「土笋凍〔どじゆんとう〕」を食ふ。味、甚だ鮮にして異なり。但し、其れ、「海濱に生じ、形、蚯蚓に類す」と聞く。何〔いか〕なる狀〔かたち〕かを識らず』と。

「五雜組」に曰はく、『又、土笋なる有るは、全〔すべ〕て蚯蚓の類なり』と。

按ずるに、「嶺南雜記」に『嶺南人〔れいなんひと〕、喜んで蛇を食ふ。其の名を易〔か〕へ、「茅鱔〔チセン/チタ〕」と曰〔い〕ふ。草螽〔サウシユウ〕を食ふ。其の名を易へて、「茅蝦〔チカ〕」と曰ふ。鼠、「家鹿〔カロク〕」と曰ひ、曲蟮〔キヨクセン/キヨクタ〕、「土笋〔ドイン〕」と曰ふ』と。此れを以つて考〔かんがふ〕るに、「土笋」は蚯蚓なり。然らば、則ち、「海みゝず」は、即ち、海產「土笋」なり。土笋、海底の泥中に產す。

㋑一種、「うみみゝず」あり。海濱の砂泥の中に生ず。穴を發〔おこ〕して之れを捕〔とら〕ふ。長さ、二、三尺に至る。「閩中海錯疏〔びんちゆうかいさくそ〕」に、『土鑽〔どさん〕、砂蠶〔ささん〕に似て、長し』と。紀州若浦・毛見浦等に產する者あり、長さ、二、三尺、蚯蚓の如し。臭氣ありて、手に觸〔ふる〕れば、臭氣移り、去りがたし。

 

[やぶちゃん注:原本はここから次のページにかけて載る。これは既に「大和本草卷之十三 魚之下 むかでくじら (さて……正体は……読んでのお楽しみ!)」で訓読文を電子化しているが、今回、新たに原文を示し、さらにゼロから訓読した。さても、そこで私は、総体に於いて、これを、

環形動物門 Annelida の星口(ほしくち)動物 Sipuncula(嘗ては星口動物門Sipunculaとして独立させていた)の一種

とした。その同定比定に私は今も問題を感じない。対象種は本邦産種や漢籍の中の記載された種を含めると、かなりの複数種を候補としないとだめで、また、この痩せた記載では同定は不可能と言える。実際、ただの海の生き物好きの方では、まず、「ああ、あれね!」と想起出来る方は、恐らく日本では少ないと私は思う。「あの、マジ、ミミズっぽい感じの奴?」と言う方は、多分、当たっている。私自身、金沢八景で妻と友人夫婦とで潮干狩りをした時にたまたま発見した程度で、ユムシ(環形動物門ユムシ目ユムシ科ユムシ属ユムシ Urechis unicinctus。漢字では「螠」。韓国で好んで食用とされ、私も日本でとある店主に韓国から取り寄せて貰って刺身で食べたことがある。貝のようで、まことに美味い。本邦でも北海道などで珍味として食すようではある。なお、同種は嘗ては「ユムシ動物門 Echiura」として独立していたが、現在は環形動物門 Annelida に吸収された)の子どもかと最初は誤認した(恐らくはその形状からスジホシムシ綱フクロホシムシ目スジホシムシ目スジホシムシ科スジホシムシ Sipunculus nudus か、或いは近縁種のスジホシムシモドキ Siphonosoma cumanense だったのではないかと踏んでいる。なお、スジホシムシはミクロネシアフィリピンでは食用にされている)。それでも全世界の潮間帯から超深海まで広く分布し、その数、凡そ十七属二千種以上、本邦では十四属約五十種が報告されている(以上の数値は西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」(保育社平成四(一九九二)年刊)に拠っているので、今はもっと種数が増えている可能性が高い)。相模湾・三重県鳥羽市沖。砂泥中・海藻の根元などに潜んでいるか、岩礁や珊瑚礁の岩盤に穴を掘って生活し、有機物の細片を摂餌している、地味な連中である。のっぺりとした円筒形の、ごく細いソーセージ状の蠕虫で、見た目はミミズ或いはヒルに似ている。大きさは数ミリメートルから五十センチメートルまで多様はであるが、我々が目にする種は三~十センチメートル程度のものが多い。体は体幹部と陥入吻(かんにゅうふん)から成り、陥入吻は胴部に完全に引き込むことができ、その先端に口があって、その周囲又は背側に触手が多数ある。和名の「星口」は、この口の周囲で触手が放射状に広がる種のそれを星に見立てたドイツ語名「Sternwürmer」(シュテルンヴルマァ:「星型の蠕虫」)に由来するようである。その中でも、特に中国などで食用とされているのは、

サメハダホシムシ綱サメハダホシムシ目サメハダホシムシ科サメハダホシムシ属(漢名:「土筍」或いは「可口革囊星蟲」)Phascolosoma esculenta

が代表種である(「閩小記」「五雜組」に出る「土笋」は本種が確実に含まれていると考えてよい。和名はなく、データシステム「BISMaL」(Biological Information System for Marine Life)のツリーでも同種は挙っていないから、本邦には棲息していない可能性が高いので、厳密には畔田の記載はやや混同が見られると考えるべきであろう。なお、「笋」の音「ジユン(ジュン)」は慣用音であって正しくは「シユン(シュン)」が正しい)。ウィキの「土筍凍」を見よう。閩南語(福建省南部で話される方言で福建語とも呼ぶ)で「thô·-sún-tàng」(トースンタン)、北京語で読むと「tǔsǔn dòng」(トゥースエンドン)。他に「塗筍凍」とも書く。中国福建省の泉州市やアモイ市近郊の郷土料理で、『星口動物のサメハダホシムシ類を煮こごりにした料理』とある(「凍」が「煮凝り」で腑に落ちた。なお、種は中文の同ウィキの記載でも確認した)。『浙江省から海南省にかけての近海の砂地に生息する星口動物サメハダホシムシ目サメハダホシムシ科』Phascolosomatidae『の「土筍」』(別名は「塗筍」「塗蚯」「海沙虫」「沙虫」「泥蒜」「可口革嚢星虫」とするが、総てが生物学上の同一種を指すとは思われない)を一日ほど、『泥を吐かせ、さらに押して内臓の中から異物を出した後、繰り返し洗い、水でぐらぐら煮てから、碗やバットに入れ、冷やし固めたもの』。『この「土筍」にはコラーゲンが多く、煮ることによって煮汁に溶け出してゼラチンとなり、冷やすとゼリーのように固まる。貝の出汁と塩などで薄味を付けておき、そのまま、または酢、酢醤油をつけて食べる他、唐辛子味噌、おろしまたは刻みニンニク、辛子などの調味料や、コリアンダー、トマト、酢漬けのダイコン』やニンジンなどの『薬味と合わせて食べることも行われている』。『もともと、晋江市安海鎮周辺の郷土料理であったが、現在は泉州市、アモイ市の多くの海鮮料理のレストランで食べることができる。また、泉州市の中山路、晋江市の陽光路などの繁華街、アモイ市の歩行者天国となっている中山路などでは露天商もこれをよく売っている』。『大きさには』一、二匹が入った直径四センチほどの猪口(ちょく)サイズの小さなものから、数匹が入った直径六センチほどの中型のもの、十数匹が入った直径八センチ以上の茶碗サイズの『大型のものなどがある。大型のものは、切り分けて出されることもある』。『作られ始めた時期は不明であるが、清代には記録があり』、周亮工(一六一二年~一六七二年)は随筆「閩小記」(畔田が引いたそのものである)の中で、『「予は閩でしばしば土筍凍を食すが、味ははなはだうまし。だが海浜にいると聞き、形はミミズに似たナマコである」』『などと記していることから、少なくとも』三百五十『年以上の歴史はある』。『厦門で現在のような丸い碗入りのものが普及したのは』、一九三〇『年代に安渓県出身の廖金鋭』(りょうきんえい)『が厦門の篔簹港』(うんとうこう)『で採れた「土筍」を使って作り、市内を売り歩いたのが大きいとされる』。『味が良いと評判で、中山公園西門付近で売っていた事が多く、「西門土筍凍」と呼んで、他のものと区別された。後に、廖金鋭から仕入れて、自分の店に置いて売る者もいくつか現れた。晩年、中山公園西門付近の斗西路に店を構え』、一九九〇『年代に廖金鋭が亡くなると、息子の廖天河夫妻が跡を継ぎ、現在も人気店として営業をしている』。『廖金鋭が存命の時期でも、厦門の埋め立てや都市化が進んでほとんど「土筍」が採れなくなり、福建省北部から仕入れるようになった。近年は福建省各地の工業化が進んで、「土筍」の漁獲量が減ったため、浙江省などからも運ばれており、浙江省温嶺市などでは人工養殖も行われている』。『素材である浙江省温嶺市産の冷凍「土筍」の営養素を分析した例では、次のような結果であった』。『水分80.97%、タンパク質12.00%、ミネラル2.13%、炭水化物1.58%、脂肪1.26%。また、脂肪分の内訳では、脂肪酸が84.93%、コレステロール15.07%と、比較的低コレステロールであった。総脂肪酸の内、アラキドン酸が20.11%、エイコサペンタエン酸(EPA)が4.14%、ドコサヘキサエン酸(DHA)が2.04%と不飽和脂肪酸が高かった。また、アミノ酸では、必須アミノ酸のすべてを含み、特にグルタミン酸、グリシン、アルギニンを多く含む』とある。中国人の動画が多数あるので現物を見るのは簡単であるが、採取から加工までのものはニョロニョロ系が苦手な人は見ない方がいいかも知れない。大丈夫ならば、それらの過程が総て映っている非常に綺麗な画像の、YouTube の中国江西网络广播电视台 China Jiangxi Radio and Television Networkの「【非遗美食】美食精选: 土笋冻」がお薦めである。せっかく煮凝りとするためにセットしたものを、お孫さんがちょこちょこっと、傍から出て来て、勝手に開けて「ぱくぱく!」っていかにも美味しそうに、そ奴を食べちゃうところが、とっても、いい! さて、では、畔田の言っている本邦の畔田が頭に挙げた「ウミミミズ」は何かということに帰結するが、ここはやはりホシムシであろうと考える。但し、先に示したスジホシムシだと、「一尺」というサイズが、やや大きい(スジホシムシは最大でも二十センチメートル)。ところが、そこに並べたスジホシムシモドキは最大で四十センチメートルに達するので、これを第一候補としてよいように思われる。

「紀州田納浦」この地名では現認出来ない。思うに和歌山県和歌山市田野(たの)(グーグル・マップ・データ)のことではあるまいか。漁港名は「田ノ浦」であり、畔田が盛んに採取地として挙げる、「雜賀崎浦」と「若浦」(和歌の浦)の丁度、中間に当たる海辺に当たる。

「閩小記」筆者周亮工と以下の引用部については、既に「ナマコ」の注で電子化してあるので参照されたい。但し、ここには複雑な勘違いが含まれているので、やや面倒である。周は閩でサメハダホシムシの仲間を製した「土筍凍」を食べたが、後に閲(けみ)した「寧波志」に載っている「沙噀」(これはナマコを意味する)の記載を読んで、「私が食べた『土筍凍』は、この『沙噀』のことだったのだ!」と合点したところが、大間違いだからである。そちらには「塊然一物如牛馬腸髒」とあるわけであって、サメハダホシムシ類とナマコ類を並べたら、凡そ牛や馬の汚れた腸のようには見えるのは、ナマコに決まっていることは誰もが請け合うはずである。いや、私は勘違いした周を責めている訳では、実は、ない。寧ろ、その矛盾が判っていたはずである畔田が、「閩小記」の記事の都合のいいところだけを抜萃・分離して、「ナマコ」とこの「ウミミミズ」の項に分けて出したことを非難しているのである。まあ、次の「五雜組」のような記載を読んでしまうと、みんな、ミミズにしか見えなくなるという気持ちは心情的には判らぬではない。しかし、やはり、「私が一目置く博物学者畔田翠山にして、ここまでやるか?」と言わざるを得ないのである。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。同所の「巻九 物部一」に(「中國哲學書電子化計劃」のものに手を入れた)、

   *

南人口食可謂不擇之甚。嶺南蟻卵・蚺蛇、皆爲珍膳。水雞・蝦蟆、其實一類。閩有龍虱者、飛水田中、與灶蟲分毫無別。又有泥筍者、全類蚯蚓、擴而充之、天下殆無不可食之物。燕齊之人、食蠍及蝗。餘行部至安丘、一門人家取草蟲有子者、炸黃色入饌。餘詫、歸語從吏、云、「此中珍品也、名蚰子。縉紳中尤雅嗜之。」。然餘終不敢食也。則蠻方有食毛蟲蜜唧者。又何足怪。

   *

とある。これはどう見ても、次の「嶺南雜記」の強い傍証となるところを、何故か畔田はカットして引用を貧弱にしている(但し、話がゲテモノ食のエゲツない方へと脱線してしまうと考えたせいかも知れない)。

「嶺南雜記」「嶺南雜記」清の呉震方撰になる嶺南地方の地誌。この原文(江戸時代の原本縮刻版「雜記五種」の内)部分は下巻の物産類に出、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここで視認出来る。

「茅鱔」「茅」は「茅葺の粗末な家」の意があるから、恐らく、「田舎の」或いは「粗末な」・「貧乏人の」の意味するかと思われる。「鱔」魚は中国語で、中国や台湾で広く食用とされる条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目タウナギ目タウナギ科タウナギ属タウナギ Monopterus albus のことを指す。捌いてしまえば、蛇もタウナギに化けよう。

「草螽」は直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科ササキリ亜科ササキリ族ササキリ属 Conocephalus を指す。本邦に棲息するササキリ Conocephalus melaenus も中国に分布するので、それを候補としてもよかろう。「蝦」はエビ類を指すから、「茅蝦」は腑に落ちる。脚の刺がややきついけれど、イナゴを茹でたり、唐揚げにしたものは、エビのような感触になると知人は言っていた。ネットで調べると、イナゴは基本、エビの味で、後にお茶のような香りが残るとあり、オンブバッタの方が茶の香りが濃厚で美味いと書いてあった。昆虫嫌いの私は勘弁だが、敦煌に行く前に北京で北京ダックの飾りに出たサソリの唐揚げ確かに全くエビの味であった。ツアーの二十人の内、食べたのは僕と小学校生の男の子だけで、二人で「美味い! 美味い!」と声を合わせて言って、八匹ほど添えられていたそれを二人で平らげたのを思い出す。ただ、私は尻尾の針がそのまんまであったのに、初めはちょっと戸惑ったのだけれど。

「家鹿」腑に落ちる。

「曲蟮」中国語の現代口語では真正のミミズを指す。

『「海みゝず」は、即ち、海產「土笋」なり。土笋、海底の泥中に產す』これを以って果して畔田が正確にホシムシ類を名指しているいるかどうかは、ちょっと疑問ではあるが、そうでないと否定は出来ない。

『㋑一種、「うみみゝず」あり。海濱の砂泥の中に生ず。穴を發〔おこ〕して之れを捕〔とら〕ふ。長さ、二、三尺に至る』これは長さが半端なくある。これは先に挙げた環形動物門ユムシ目ユムシ科ユムシ属ユムシ Urechis unicinctus とするには、長過ぎる気がする(通常個体は幹体長三十センチメートル。但し、吻を伸ばすのでユムシも候補にはなる)。今一種、希少種となってしまったが、日本固有種で一属一種のサナダユムシ科サナダユムシ属サナダユムシIkeda taenioides なら、体幹長は四十センチメートルだが、吻を十分に伸ばすと一メートル五十センチメートルに達すると、先の「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」にはあるから、まず、これを第一候補とすべきであろう。しかし……

「閩中海錯疏」明の屠本畯(とほんしゅん 一五四二年~一六二二年)が撰した福建省(「閩」(びん)は同省の略称)周辺の水産動物を記した博物書。一五九六年成立。中国の「維基文庫」のこちらで全文が正字で電子化されている。また、本邦の「漢籍リポジトリ」でも分割で全文が電子化されており、当該の「下卷」はこちらである。但し、引用は部分的で、名義標題は『泥笋 沙蠶 土鑽』で、以下のようにある。

   *

泥笋其形如笋而小生江中形醜味甘一名土笋

沙蠶似土笋而長

土鑽似沙蠶而長

   *

しかし、これをユムシのみに同定比定してよいかどうかは、ただ「長い」とあるばかりで、難しい。「沙(砂)蠶」は漢籍ではゴカイ一般を指すからである。考証は次の注に続く。

「臭氣ありて、手に觸〔ふる〕れば、臭氣移り、去りがたし」私は生時のホシムシの臭いを嗅いだことがない。この臭気が残って去らないというのは、釣りをしたことがある方なら、ゴカイ類で腑に落ちるであろう。特有の磯臭さ、腥(なまぐさ)さがあり、海水で洗ったぐらいでは、なかなか臭いは取れない。……しかし……私は考えた。強烈な臭いだ――腥さなら、海産生物を扱ってきた畔田が「手で触れただけで臭気が移り、それが長く続いて、なかなか消えない」と書くのは解(げ)せない。――ゴカイ類は、釣り餌として針につける際に、彼らの体液に触れることで、あの臭みは移る。触っただけでは、移らない――触れるだけで――もの凄い、ある臭気を放つ物質が――その長さが六十~九十センチメートルに及ぶ長いミミズ様の海産生物から移る――そうだ! これはもしかすると、諸図鑑に於いて、虫体が独特の強い「ヨードホルム」のような臭い発すると記されてある、

半索動物門腸鰓(ギボシムシ)網 Enteropneusta 或いは同綱ギボシムシ科 Ptychoderidae のギボシムシ類

ではないか? 私は生憎、彼らの糞の山は見たことがあるものの、虫体は標本しか見たことがなく、臭いも嗅いだことはない。但し、二十五年ほど前、妻と義父とで知多半島の先の方で潮干狩りをした(誰もいなかった。大バケツ二杯分のアサリを獲った)際、潮が引いたところを深く掘り下げた時、得も言われぬ鼻をつく強い薬物的な臭いが辺りに充満したことがあった。その時は、どしどし獲れる貝漁りが面白く、その臭いのもとを探ることはしなかった。沢山の色とりどりのヒモムシ(紐形動物門 Nemertea)がおり、使用していた園芸スコップでそれらが千切れるから、彼らの体液臭かと思ったが、実はギボシムシを掘り当てていたのかも知れない。ギボシムシは、その形態(後述する)や黄色い体色も見た目で「海蚯蚓」と呼びたくなる生物に相応しいと私は思う。本邦産で潮間帯から潮下帯に棲息する種は、

ギボシムシ科ヒメギボシムシ属ヒメギボシムシ Ptychodera flava(通常は十センチメートル以下だが、潮下帯から採集される個体では時に五十センチメートルに達する)

ギボシムシ科オオギボシムシ属ワダツミギボシムシ Balanoglossus carnosus(全長一メートル、太さ一センチメートルを超す大型種)

オオギボシムシ属ミサキギボシムシ Balanoglossus misakiensis(体長は四十センチメートル以下。千葉県南部の館山以南の太平洋や瀬戸内海に分布する日本固有種)

が和名のある代表種である。虫体は細長いミミズ様で、動きは鈍く、砂泥底に潜って自由生活をし、群体は作らない。先端の吻部はその外形がドングリや擬宝珠(ぎぼし)に似ており、後者が和名のもとになった。その吻部に続いて、「襟」(collar)が短い円筒形をしており、前後が多少くびれたようになってはっきりと帯状の部位が現認出来る。これがまた、成体のミミズが体幹の前方に持つ帯状の部分(先端から三分の一付近で幾つかの体節に跨った肥大した帯状を呈したところ。この箇所は外見上では体節が見えず、そこだけが幅広くなった「節」か「腫れた膨らみ」のように見える)があることは御存じだろう。これを「環帯」(clitellum)と呼ぶが、あれに非常によく似ているのである。その点だけでも私は「ウミミミズ」の名を拝領してよいと考えているのである。さて、その強力な臭いであるが、先の「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」によれば(以上の各種データもそれを参照した)、『虫体が発する“ヨドホルム臭”と形容される独特の強いにおいは』、『ハロゲン化フェノール類やハロゲン化インドール類によるものである』とある。ウィキの「腸鰓類」(=ギボシムシ類。ニョロニョロ系の実写画像が苦手な人はこのウィキの博物画を見るとよい)によれば、『食餌による供給によらず』、ギボシムシが生来、『臭素を含むブロモフェノールを生成排出し、粘液や砂泥のモンブラン』・『ケーキ状の糞塊もヨード臭・薬品臭を放つ。ブロモフェノールは抗菌作用があり、傷つきやすい皮膚の感染防御と治癒効果を』持つと考えられているとある。さて、ここで畔田は、この「海ミミズ」の一種を、前のホシムシと同じく、「紀州若浦・毛見浦等に產する者」としている。「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」の「ヒメギボシミムシ」の解説には、通常のギボシムシは棲息している砂泥の穴の口部分に直径五~六センチメートルの糞塊を作るのに、『本種の潮間帯における分布北限である和歌山県串本では』、『おもに転石下に潜み、糞塊を築かない』。『また』、『前後に』二『分された体がそれぞれ失った部分を再生することがここでは頻繁に起きている』とあるのである。この再生も興味深いのだが、ここでは、そのロケーションを見て貰いたいのである。和歌山県串本は紀伊半島の先端のここ(グーグル・マップ・データ)で、その北西九十四キロメートルの位置(「和歌山市」とあるその東直近の海岸線)に「紀州若浦・毛見浦」はあり、南限を厳密に捉えないなら(本州の坂本から南日本の太平洋側及び暖海である瀬戸内海(ミサキギボシムシも候補となる))、この和歌の浦辺りにヒメギボシムシがいた(いる)としてもおかしくないのである。しかも前掲書には『本種のトルナリア』(Tornaria:ギボシムシ類の幼生の名)『幼生は』三ヶ月半から九ヶ月『間浮遊できるので』、『その長距離分散の結果』、『広域分布がたっせされるのであろう』ともあるのである。或いは、この種の一般的な潮間帯個体の長さにやや不足を感ずる向きもあるかも知れぬ。その場合は、横綱級のワダツミギボシムシが控えている。前掲書によれば本種は『館山以南の太平洋岸に生息するが』、『近年』、『個体数が減少した』とある。奇体なギボシムシ類の研究は、実は今まではそうは上手く進んでいなかった。さて、当該書は一九九二年の出版であるが、「東北大学・浅虫海洋生物学教育研究センター」公式サイト内の「半索動物Hemichordata」の千葉県南部の館山以南の太平洋岸に分布が限定されているはずの「ミサキギボシムシ」の解説には『Balanoglossus misakiensis』(斜体でないのはママ)『ギボシムシ網ギボシムシ科オオギボシムシ属』。『海底の砂底に穴を掘って生活している体長』二十センチメートル『くらいの細長い動物』で、『夏』、『浅虫サンセットビーチで海水浴をしていても決して目にすることはないが』、『実はあなたの足下の砂中にはこの奇妙で興味深い動物が密かに生きている。大潮の最干潮の時』、『膝くらいの深さのところで砂底を掘ってみれば、運が良ければ見つけられるかもしれない』。『図鑑には「ヨードホルム」臭を発すると書かれているが』、『確かに強烈なにおいである』。『においも強烈だが』、『その鮮やかな黄色の体色も鮮烈』。『ギボシムシは半索動物というグループに属する』。『半索動物は棘皮動物(ウウニ・ヒトデ・ナマコの仲間)と脊椎動物(ホヤ・ヒトを含む仲間)の両方と近縁であり』、『我々・脊椎動物の進化を考える上でとても重要』な現生生物の一群なのである。『最近は世界中にギボシムシに注目する研究者が増えている』。『長らく』、『能登半島と房総半島より北には生息が確認されていなかったが』二〇一二年、『我々は本種が陸奥湾にも生息することを明らかにした』とある。則ち、ギボシムシ類が本州北部や日本海側にも棲息する可能性が出てきたのである。ミミズみたようなギボシムシとヒトを含む生物進化についてより詳しいものとしては、日本農化学学会の『化学と生物』(第五十五巻・二〇一七年)の田川訓史(くみふみ)氏の「ギボシムシ 海砂泥地に潜む面白い新口動物群」(PDF)がよい。なお「腸鰓類」変わったという呼称は、消化管が開始する部分の咽頭が、数対の鰓孔で貫かれていることに由来する。種によっては、この部分が大きく裂き切られたように広がって見え、異様に感じられることがある。]

2020/09/26

畔田翠山「水族志」 (二五〇) ゴカイ (カワゴカイ属)

 

(二五〇)

ゴカイ【紀州加太】 海石ノ間ニアリ蚯蚓ニ似テ足アルヿ蜈蚣ノ如クニ乄細ク短ク肉色也漁人ハ取テ魚釣ノ餌トス

 

○やぶちゃんの書き下し文

(二五〇)

ゴカイ【紀州加太。】 海石の間にあり。蚯蚓〔みみづ〕に似て、足あること、蜈蚣〔むかで〕のごとくにして、細く短く、肉色なり。漁人は、取りて、魚釣りの餌とす。

 

[やぶちゃん注:底本はここ
狭義の「ゴカイ」はかつては Hediste japonica の和名として当てられていたが、近年、この狭義の「ゴカイ」類は、

環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ超科ゴカイ科カワゴカイ属 Hediste

に属する以下の三種に分類されるようになり(一九九九年から二〇〇〇年にかけての乳酸脱水素酵素などアロザイム及び疣足・剛毛の形態比較分析の結果、形態的に良く似た複数種が混同されている事実が明らかとなったため)、生物学上の単一種としてのゴカイという標準和名は消失した

ヤマトカワゴカイ Hediste diadroma

ヒメヤマトカワゴカイ Hediste atoka

アリアケカワゴカイ Hediste japonica(旧和名「ゴカイ」)

畔田の指すゴカイは以上の三種に限定してもよいが(「カワゴカイ」の「カワ」は「川」で干潟以外に河口付近の汽水域に多く棲息することからの命名かと思われる。なお、「ゴカイ」の漢字表記は「沙蚕」が一般的である )、但し、「ゴカイ」は現在でも、日本での記載種は千種を超えるところの、広義の多毛綱Polychaeta全体の総称、或いは、多毛類の中の一つの科であるゴカイ科 Nereididae に属する多毛類の総称としても、ごく当たり前に使われてはいる。一般には、釣りの餌で知られる、海中を自由遊泳をする遊在性の上記の三種や、同じくゴカイ科の、Tylorrhynchus 属イトメ Tylorrhynchus heterochaetus などを特に「ゴカイ」としてイメージし易く、イトメは盛んに釣り餌として使用するので、これは絶対に加えなくてはならぬと思うのだが、実は後に出る「ウミヒル」がそれらしく思われるので、ここでは敢えて候補としない。但し、実際には、棲管を形成し固着して動かないケヤリムシ目ケヤリムシ科 Sabellidae のケヤリムシ Sabellastarte japonica や、同科のエラコ Pseudopotamilla occelata のような定在性多毛類(かつて一九六〇年代頃まで多毛綱はこの固着性の定在目と自由生活をする遊在目の二目に分類されていたが、これは従来から安易な実体観察に基づく多分に非生物学的な分類であるとする疑義があり、分類の見直しが進んだ現在はあまり用いられない)を、やはり、普通に広く「ゴカイの仲間」と呼んでいる事実は知識として押さえておく必要があることを言い添えておく。

「紀州加太」現在の和歌山県和歌山市加太の加太湾及び加太沿岸(グーグル・マップ・データ)。]

畔田翠山「水族志」 (二四九) イソメ (イワムシ)

 

(二四九)

イソメ【紀州加太】 海濱巖間ニ生ス外綿絮ノ如キ者ニテ包ミテ人指ヲ並フル如ク岩ニ附生ス綿絮ノ如キ者ヲ去ハ内ニ肉色蚯蚓ニ似テ太ク橫理アル蟲アリ漁人魚釣ノ餌トス

 

○やぶちゃんの書き下し文

(二四九)

イソメ【紀州加太。】 海濱の巖の間に生〔しやう〕ず。外は、綿-絮〔わた〕のごとき者にて包みて、人の指を並ぶるごとく、岩に附き、生ず。綿絮のごとき者を去れば、内に、肉色の蚯蚓〔みみづ〕に似て、太く、橫の理〔きめ〕ある蟲あり。漁人、魚釣りの餌とす。

 

[やぶちゃん注:底本はここ。名称と大きさ(優位に太い)からみて、

環形動物門多毛綱イソメ目イソメ上科イソメ科Marphysa 属イワムシ Marphysa iwamushi

ではないかと推測する。「外は、綿-絮〔わた〕のごとき者にて包みて」の部分がやや不審なのであるが、同種は、成体体長で三十~五十センチメートルにもなり、赤褐色を呈し、体節数は実に三百五十内外ある。前部は丸いが、後部に向かうほど、背腹が扁平になり、特に体節の第三十節付近から下の疣足(いぼあし)には、体の両側に腮(えら)が生じ、初めは一本であるが、それに四~五本の糸状の鰓糸(さいし)が増えて、櫛の歯のようになることから、以上の不審部分はその体の後半部分を指して、腮や腮糸のもやもやをあたかも鞘のように誤認して言っているものと私には読める。本種は日本各地に分布し、潮間帯の岩の隙間でよく見かけるところから「岩虫」の名がつけられたものであるが、干潟のような砂泥中に穿孔している個体もいる。本種には「アカムシ」「エムシ」「イソメ」「イソベ」「ドロムシ」「セムシ」「ホンムシ」「イワイソメ」「ヒラムシ」など二十ほどの別名があるが、この特異的な異名の数が、釣り餌として古くから各地で活用されていたことの証しと言え、今も、磯釣りでの本道とも言えるマダイ・クロダイ・スズキ・キス・イサキ・マコガレイ釣りなどに於ける最も効果的な(されば、現在は値の張る)餌とされている。顎も強く、嘗て釣り餌として使用した際に咬まれたが、かなり痛い。近縁種で本州中部以南に棲息する別属のイソメ科Eunice 属オニイソメ Eunice aphroditois に至っては、最大長が一メートルを超える個体も少なくなく、その顎は危険レベルである。

「紀州加太」現在の和歌山県和歌山市加太の加太湾及び加太沿岸(グーグル・マップ・データ)。]

金玉ねぢぶくさ 目録

 

     目錄

㊀水魚(すいぎよ)の玉(たま)の事

 雨鐘(あまがね)の事

㊁蟷螂(たうらう)蝉(せみ)をねらふ事

 霊鬼(れいき)人を喰(くら)ふ事

㊂米良(めらの)上(ぜう)うるし

 城(じやうの)伊織(いをりの)助が事

㊃ふじの影(かげ)の山の事

 若狹(わかさ)ばゞが事

㊄血達磨(ちだるま)の事

 現業(げんごう)の報(むくい)の事

㊅里(さと)見よし廣(ひろ)が事

 箕面瀧(みのをのたき)は天女の浄土(じやうど)

 山本勘介大度(たいと)の事

㊆豊州(ほうしう)專念寺(せんねんじ)の鷰(つばめ)

 蛙(かはづ)の蛇(へび)を取(とり)し事

 伊吹(いぶき)山の水神(すいじん)

 鼡(ねずみ)の鉄火(てつくわ)の事

㊇蓮磬寺(れんけいじ)の舊鼡(きうそ)

 蜘(くも)の智惠(ちゑ)

 蒲生池(かまふち)の狼(おゝかみ)

 今川義元(よしもとの)鎧(よろい)鳴動(めいだう)の事

 

[やぶちゃん注:ここでは底本表記通りとし(字は有意に大きいが、それは再現しなかった)、ルビの読みも総て入れた。歴史的仮名遣の誤りもママである。]

金玉ねぢぶくさ卷之八 今川の鎧、鳴動の事

 

   今川の鎧、鳴動の事

 礼記(らいき)にも、

「國家、正に起らんとするに、貞祥(ていしやう)あり。國家、正にほろびんとするに、夭(よう)げつあり。」

とかや、宣(のべ)たまひしが、誠に、大人〔だいじん〕の滅(ほろぶ)る時は、かならず其きざし、まへにあらはるゝ事也。聖人、なんぞ亡語(もうご)をのべたまはんや。然〔しかれ〕ども、是を知ると知らぬとは、おのれが賢愚に、よれり。其國をほろぼし、その家を破り、其身を失ふに到(いたつ)ては、跡に悔(くやめ)ども、後悔、先にたゝず。夭は德に不ㇾ勝(かたず)といへば、もし、あやしき事を見る時は、

「天より、しめし下さるゝ禍(わざはひ)の前表(ぜんへう)ぞ。」

と、こゝろへ、ずいぶん、身を愼(つゝしむ)に、しくはなし。

 するがの國、今川義元(よしもと)、敗軍の砌(みぎり)、近習(きんじう)の人々、

「此度〔このたび〕の一戰に勝利なき事、昨日より、皆々、しれり。」

と語る。

 其故は、君〔きみ〕の祕藏し給ひし鎧、何事もなきに、櫃(ひつ)の内にて、おのれと鳴(なり)初〔はじむ〕。鳴出〔なりだ〕しは、少しづゝ、

「がらがら」

と、なりしが、後には、おびたゝしく、やうやう、二時〔ふたとき〕ばかりして鳴(なり)やみぬ。

 家老のめんめん、智ある人は、

「是、たゞ事ならず。」

と、君(きみ)を諫(いさ)めて、

「明日(あす)の軍〔いくさ〕、味方、利、あるべからず。今少し、時節の至らんを待給へ。」

と、諫めしかども、佞人(ねいじん)ども、愚蒙(ぐもう)に迷ひ、其理非(りひ)は明〔あき〕らめずして、然〔しか〕も、其詞(ことば)は、たくみに、

「『國家まさにおこらんとする時にも貞祥あり』と、いへり。今、味方、武威(ぶい)さかんに、向ふ所を席(せき)のごとくに卷(まき)せむるに、とらずといふ事なく、戰(たゝか)ふて、かち給はずといふ事、なし。此度〔このたび〕の合戰に勝利を得て、家を起し給ふべき前表ならん。其うへ、鳴(なる)事は吉(きつ)にして、㐫(けう)にあらず。雷(らい)は、天になつて、百里をおどろかす、今、君にも、いきほひ、五畿内にふるふて、天下をおどろかし給はんとの、しるしなるべし。か程の吉瑞(きちずい)を、何の、恐るゝ事あらんや。」

といひしかば、義元、是に順(したが)ひ、終に賢臣の諫(いさめ)を用ひず、家をほろぼし給ひぬとなん。

 それ、「好事(こうじ)もなきにはしかず」と、いへり。たとへ、天から小判がふらふとも、常にあらざる事は、夭怪(ようくわい)と、しるべし。額(ひたい)に一角(かく)ある馬を見よふとも、とかく目なれぬ、あやしひ事ならば、これ、天道より㐫を示し給ふ所と心得て、よくよく、其身を愼むべきものなるをや。

 

寳永七九月吉祥日

 

[やぶちゃん注:思うに、作者は相応に構成を考えて作っていることが判る。本書中の白眉は巻之一の「讃州雨鐘(あまがね)の事」であることに異論を挟む方はあるまいが、その地中から響く即身仏に成り切れなかった快僧の鉦を打ち鳴らす怪しい金属音は、この櫃の中の鎧の立てる不気味な音と遠く通底しているからである。読むに従い、教訓臭が加速してくるのは甚だ残念であったが、相応によく書けている。但し、教訓を引き出すことに熱心な余り、怪奇談としての面白みがやや減衰している嫌いがあるとは言える。

「礼記(らいき)にも……」これは四書の一つである「中庸」の一節。戦国時代の孔子の孫である子思の著と伝えられるが、本書はもと、五経の一つである「礼記」中の一編であったので誤りとは言えない。後に朱熹が「中庸章句」を作ったことから、分離されて儒教の根本書の一冊として掲げられるようになった。原文は以下の第二十四章。

   *

至誠之道、可以前知。國家將興、必有禎祥。國家將亡、必有妖孽。見乎蓍龜、動乎四體。禍福將至、善、必先知之、不善、必先知之。故至誠如神。

(至誠の道、以つて前知すべし。國家、將に興らんとすれば、必ず、禎祥、有り。國家、將に亡びんとすれば、必ず、妖孽(えうげつ)あり、蓍龜(しき)に見(あら)はれ、四體(したい)に動く。禍福、將に至らんとすれば、善も、必ず、先づ之れを知り、不善も、必ず、先づ、之れを知る。故に至誠は神(しん)のごとし。)

   *

「蓍龜」とは、キク亜綱キク目キク科ノコギリソウ属ノコギリソウ Achillea alpina とカメ。直立するその茎から、その枝葉を取って乾燥させたものを、古くは筮竹(ぜいちく)として使用したことから、筮竹や卜筮(筮竹を使って占うこと)のことを「蓍(めどぎ・めとぎ)」とも言う。後者は御存じの通り、亀卜(きぼく)に用いた。されば、ここは「占い」の意である。「四體に動く」は卜筮をするシャーマンの身体のちょっとした動きにも吉凶の詳細が示されることを指す。

「貞祥(ていしやう)」「貞」は「神の真意を正しく聴く」・「正しい」の意であり。「祥」は「目出度いこと」・或いは「その目出度いことの前兆・吉兆・瑞兆」、広義には「吉凶の前兆」の意もある。

「夭(よう)げつ」漢字・ルビはママ。漢字は「妖孽」が、読みは歴史的仮名遣で「えうげつ」が正しい。意味は「あやしい災い」或いは「そうした不吉なことが起こる前触れ」の意。「孽」は「災禍・罪業・悪因・禍根」の意。

「亡語(もうご)」「妄語」が正しく、歴史的仮名遣も「まうご」である。嘘をつくことを指す。

「夭」ママ。「妖」。

「今川義元」(永正一六(一五一九)年~永禄三(一五六〇)年)戦国武将。今川氏親(うじちか)の三男。兄氏輝の死で駿河・遠江を領国とする家督を継ぐ。太原崇孚(たいげんそうふ)に補佐され、織田氏を攻め、三河をも支配して今川家の全盛時代を築いた。北条氏康・武田信玄と三国同盟を結んで東方を安定させた後、永禄三年、西へ向かい、尾張に侵攻したが、織田信長の奇襲を受けて桶狭間で、豪雨(雹交じりだったともされる)の中、同年五月十九日(グレゴリオ暦六月十二日)に討ち死にした。享年四十二歳。なお、ここに出る鎧が鳴ったという奇談は特に知られた話ではないようである。

「近習(きんじう)」ルビはママ。「きんじふ」が正しい。

「二時」四時間。

「佞人(ねいじん)」心が邪(よこしま)で人に諛(へつら)う人。この時、義元は連戦の勝利に気をよくしていた。それにつけ込んで主君の関心を引かんがために、無批判に彼の意志をよいしょしようとした者は、当然、いたであろう。

「愚蒙(ぐもう)」愚かで道理が判らないこと。愚昧に同じい。

「席(せき)のごとくに卷(まき)せむる」「席巻・席捲」(せっけん)の意。この「席」は「蓆」で「むしろ」。莚(むしろ)を巻くように領土を片端から攻め取ること。はげしい勢いで自分の勢力範囲を拡大すること。「戦国策」の「楚策」からの成句。

「㐫(けう)」ルビはママ。「凶(きよう)」の異体字。

「天に、なつて」「天に、鳴つて」。

「夭怪(ようくわい)」ママ。「妖怪(えうくわい)」。

「見よふとも」ママ。「見ようとも」。

「あやしひ」ママ。「怪しき」。

「寳永七庚寅九月」「庚寅」は「かのえとら/カウイン」。同年九月は閏八月があったため、九月一日はグレゴリオ暦で既に一七一〇年十月二十二日である。なお、冒頭注で述べた通り、国書刊行会本は最後の刊記のみを初刷のものに変えてあるので、以下のようになっている(恣意的に概ね正字化した。なお、後の三人の板元は実際にはクレジットの下部(二字上げインデント)に並んでいる)。

   *

   元祿十七年

    申ノ

     正月吉日

             江戶

              万 屋 淸 兵 衞

             

              上 村 平左衞門

             大坂

              雁金屋庄左衞門

   *

 以上を以って「金玉ねぢぶくさ卷之八」は終わって、「金玉ねぢぶくさ」全篇の終わりである。なお、底本には巻終了の記載はないが、「江戸文庫」版には「金玉ねぢぶくさ八之終」とある。]

2020/09/25

金玉ねぢぶくさ卷之八 菖蒲池の狼の事

 

   菖蒲池(かまふち)の狼の事

Ookami_20200925153601

[やぶちゃん注:挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版からトリミングした。]

 

 天地の變、造化(ざうくわ)の巧(たくみ)の、さまざまにあらはすところの、しんら万像(まんざう)、一つとしてふしぎならずといふ事、なし。天に日月〔じつげつ〕のめぐり、地に草木(さうもく)の生(しやう)じ、火のあつくして物を燒(やき)ほろぼし、水の冷(ひやゝ)かにして魚(うを)を生じ、土の萬物(ばんぶつ)をふくみ、鐵石(てつせき)のかたくして火を出し、鳥のそらをとび、うをの水をかける、あるひは雷(かみなり)鳴(なり)、大地ふるひ、雨露霜雪(うろさうせつ)ふり、うしほわき、風ふき、春はかすみ、夏はあつく、秋は霧たち、冬はさむく、人の物謂(ものいひ)、からだの働(はたらく)、惣(さう)じて一さいの事を心を付〔つけ〕てあんじて見れば、世界は、みな、ふしぎにて、かためり。ちかく、人の生(むま)れ、又は死する、是、いづくより來り、いづくへさり、我身は何の緣によつて生じ、何時〔なんどき〕緣、つきて、又、いづくへ歸る。過去は何にて、未來は何に成るといふ事を、わきまへず、三世了達(〔さんぜ〕れうだつ)の佛の智惠は各別、凡夫の料簡にて是をさとる事、あたはず。いわんや、其外のふしぎをや。たゞし、一さいの有情(うじやう)は、躰・卵・濕・化(たいらんしつけ)の四つを不出〔いでず〕、あるひは腹の内より形をそなはりて生(うま)るゝ者もあれば、たまごにて生れ、後(のち)にかたちのそなはるもあり、又は、うるをひの中より陽氣にむされて涌(わく)もあり、物の形を化(け)して、生(しやう)をかへたる類(たぐい)もあり、それぞれの業(ごう)に引〔ひか〕れて、それぞれの像(かたち)を受〔うく〕る。

[やぶちゃん注:「菖蒲池(かまふち)」の読みはママ。正確に言うと、原本でのルビは「菖蒲」に「かまふ」が、均等ではなく、上を詰めて振られ、「池」にのみ「ち」が振られている。ここ。本文でも同じである。地名であるが、それは後で注する。

「しんら万像(まんざう)」ママ。「森羅萬象(しんらばんしやう)」。

「天に日月のめぐり、地に草木の生じ、火のあつくして物を燒ほろぼし、水の冷かにして魚を生じ、土の萬物をふくみ、鐵石のかたくして火を出し」天地乾坤で陰陽説を、重ねて「草木」の「木」から以下、五行説を説く。

「うしほわき」「潮、湧き」。

「あんじて見れば」「按じて見れば」。

「かためり」「固めり」。不思議の塊りという状態であること。

「つきて」「盡きて」。

「三世了達(れうだつ)」仏語。過去・現在・未来に亙って一切を明らかに悟っていること。諸仏の智慧は三世を完全に見通しているとされる。

「料簡」思慮分別。

「躰・卵・濕・化(たいらんしつけ)の四つ」「躰」はママ。「胎」の誤り。所謂、仏語の「四生(ししやう(ししょう))」を指す。生物をその生じ方から四種に分類したもの。胎生 (たいしょう)・卵生・湿生・化生 (けしょう) 。

「むされて」「蒸されて」。

「業(ごう)」ルビはママ。「ごふ」が正しい。]

 

 此外に、變化(へんげ)のものありて、時々、おのれが天に受得(うけゑ)し像(かたち)を變じ、人の眼(まなこ)をまどはす事あり。是、變化の、誠に其像を變ずるにや、迷ふものゝ眼(まなこ)の變ずるにや。むかしより、智德ある人の狐(きつね)狸(たぬき)に化(ばか)されたるためし、なし。大かたは、其〔その〕明德(めいとく)のあきらかならぬより、物に動(どう)じて眼(まなこ)まよひ、かれは化(ばか)さねども、こなたより化さるゝにや。さりながら、禽獸の夭怪(ようくわい)をなす事、一がいになしとも謂(いひ)がたし。

[やぶちゃん注:「受得(うけゑ)し」「ゑ」のルビはママ。

「こなたより化さるゝ」自身が錯覚して変化の物の怪に化かされたのだと一方的に思い込んでしまうことを言っている。

「夭怪(ようくわい)」漢字表記・ルビともにママ。「妖怪(えうくわい)」。「夭」に「妖」の意はない。

「一がいに」「一槪に」。]

 

 越前の國大野郡(ごほり)菖蒲池(かまふち)の邊(あたり)へ、狼、おゝく出〔いで〕てあれ、人の通ひたへたりし刻(きざみ)、ある出家、かまふちの孫右衞門方へ志(こゝろ)して往(ゆき)侍りしに、其日は、狼、殊外〔ことのほか〕はやく出〔いで〕て、見れば、跡・先におびたゝしく、數〔す〕十疋、徘徊す。此僧、往(ゆく)事も還(かへる)事もかなはず、進退きはまつて、ぜひなく、大木のありしに、のぼりて、枝の上に、一夜をあかさんとす。

[やぶちゃん注:「越前の國大野郡菖蒲池」現在の福井県大野市菖蒲池(しょうぶいけ)(グーグル・マップ・データ)。「かまふ」の読みは不明。当初は蒲(ガマ)かと思ったが、ガマを菖蒲(ショウブ或いはアヤメ)とは書かない。また「ふ」があるので「蒲生」で「がまふ」と読んだ可能性が強いが、「菖蒲」を「がもう」と読む例は私は知らない。さればこそ総て清音のままで示した。]

 

 日の暮るにしたがひ、あまたの狼、皆、此木の下(もと)に集(あつま)り、上なるほうしを守りて、一ぴきのおふかみ、人のごとく、物いひ、

「かまふちの孫右衞門が嚊(かゝ)を呼(よん)で、談合〔はなしあは〕せば、よろしき謀(はかりごと)あるべし。」

といふ。

 いづれも、

「尤〔もつとも〕。」

と同心して、一疋、いづともなく、かけ徃(ゆき)しが、しばらく有〔あり〕て、大きなる狼、一ぴき、彼(かの)使(つか)ひとともに來り、木の下(もと)により、上なるほうしを見て、

「別(べち)の子細、なし。我、是をとるべし。肩車(かた〔ぐ〕るま)にのせて、さゝげよ。」

といへば、

「我も我も。」

と、後(うしろ)の股(また)に首さし入〔いれ〕て、次第に捧(さゝげ)しかば、程なく、僧のきわに近づきぬ。

[やぶちゃん注:「ほうし」歴史的仮名遣は一般なら「はふし」、仏教用語なら「ほふし」である。以下同じ。

「守りて」見守って。

「おふかみ」ママ。「狼」は歴史的仮名遣は「おほかみ」である。]

 

 彼〔かの〕僧、せん方なく、折ふし、守り刀を持〔もち〕しかば、是をぬいて拂ひしに、上なるおゝかみの正中(たゞなか)を切〔きつ〕たり。

 夫〔それ〕より崩(くづれ)おちて、狼ども、悉(ことごと)く歸りさりぬ。

 夜あけて是を見れば、果して、牛程なる狼一ぴき、死せり。

 扨、孫衞門方へ徃(ゆき)ぬれば、

「こよひ、女房、『厠(かわや)へゆく』とて、いづくともなく出〔いで〕しが、今に歸らず。」

とて、上を下へと、かへし、たづねぬ。

 ほうし、かくすも便〔びん〕なさに、道にてのありさまを、くはしく語れば、孫衞門、始〔はじめ〕は誠〔まこと〕とせざりしが、あまり、女房の行衞をたづねかねて、彼(かの)木の下(もと)へ人をつかはして見すれば、大きなる狼、死し居たり。又、こなたなる道もなき山の端(は)に衣類を、皆、ぬぎおけり。

「さては。我本さいは、とく、是にとられぬらん。此ほうしの害するにあらずんば、我もこれにとらるべし。」

とて、女房の親里〔おやざと〕へ其〔その〕だんをいへば、しうと、中々、がてんせず。

 此事、せんぎに及びしが、女房、孫衞門へ嫁(か)して八年になり、則〔すなはち〕當年七さいの男子あり。

 はだをぬがせて見れば、背筋に狼の毛、生(おひ)たり。

 是を以て、舅(しうと)も得心(とくしん)し、

「扨は。我家にて誠の娘(むすめ)は、ようせうの時にとられぬるにこそ。」

とて、それより、せんぎを止(やみ)侍りぬ。

 其〔その〕子孫にいたるまで、代、替りても、背中の毛は、たへず。同所大野町大井六兵衞方にて、其狼よりは三代目孫〔まご〕の背中を、はだをぬがせてくわしく見侍りしなり。

[やぶちゃん注:「夜あけて」直後に孫衛門の所に辿り着くが、そこで孫右衛門の語りの初めで「こよひ、女房、……」と述べている。これは僧が孫右衛門の家に辿り着いた時が、未だ曙以前で、暗かったせいである。江戸以前では、太陽が昇って明るくならないと、前日の感覚で語られるのが普通だから「今宵」で何らおかしくないのである。そもそもがここはかなりの山間地であるから、明るくなるのも遅いのである。

「上を下へと、かへし、たづねぬ」使用人の上の者から下賤の者まで全員に繰り返し家内及び戸外を探させたことを言っていよう。

「便なさ」「便無(びんな)し」で「気の毒だ」の意があるから、その名詞形。

「ようせう」ママ。「幼少(えうせう)」。

「せんぎ」「詮議」。

「たへず」ママ。「絕えず」。

「同所大野町」現在の大野市の市街中心部であろう(グーグル・マップ・データ)。

「大井六兵衞方にて、其狼よりは三代目孫〔まご〕の背中を、はだをぬがせてくわしく見侍りしなり」本書の中の特異点である。則ち、語っている筆者が実際に狼の化した女が生んだ狼男の三代目の孫に当たる人物の背中を実際に衣服を脱がせて観察したというのである! やったね! 章花堂! でも……後、一話で終わりやん……]

金玉ねぢぶくさ卷之八 蜘の智惠の事

 

   蜘(くも)の智惠の事

Kumonotie

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版の挿絵をトリミングした。]

 

 人は、五尺のからだに方寸の心法あつて、いろいろの欲をおこし、さまざまの謀(はかりごと)をなせり。尤〔もつとも〕人は万物の霊(れい)なれば、いふにおよばず、五分の虫にも寸の魂(たましい)ある事、あきらけし。

[やぶちゃん注:「心法」広義の心の動きや在り方。

「魂(たましい)」ルビはママ。]

 

 ある人、庭ぜんのさゑんをし、朝毎〔ごと〕に出〔いで〕て、其根に土かひ、靑葉を詠(なが)む。

 或夕暮、蜂一疋、とび來〔きたり〕て、桃の枝なる蜘の巢にかゝれり。くもは、是を見て、とびかゝり、糸をくり出して、まとはんとし、蜂は針をのべ、くもをさして、網をのがれんとす。彼〔かの〕人、杖を以て巢を破り、蜂を放しければ、いづくともなく、とびうせぬ。

[やぶちゃん注:「さゑん」茶園。茶の木を植えた庭園。

「かひ」「飼ひ」であろう。土を盛っては養うの意でとっておく。]

 

 此〔この〕くも、いかゞ思ひけん、枝より、糸を延(のべ)て、下なる蕗(ふき)の葉へ舞(まい)おち、葉の緣〔ふち〕を、一遍、廻(まはつ)て中へ入り、内より、糸をしめければ、彼ふきの葉、しぼんで、袋の口をしめたるがごとし。所々、葉の行〔ゆき〕あはぬ邊りをば、あつく、巢をはつて、おのれは、其内に、こもれり。

「ふしぎの事をする物かな。」

と詠め居(い)ければ、暫く有〔あり〕て、右の蜂、友を、二、三十ひき、卒(ひき)來〔きたつ〕て、彼桃の木を、かぶより、枝まで、さがせども、右のくもを求(もとめ)かねて、糸をつたい、臭(か)をたづね、終に、くものかくれたるふきの葉に群(むらが)り集(あつま)り、十方より、針をのべて、ふきの葉ごしに、さし通し、『もはや仕返しをして、本もう、とげぬ』と、はちは、悉(ことごと)く、とびさりぬ。

[やぶちゃん注:「舞(まい)おち」ルビはママ。

「居(い)ければ」ルビはママ。

「つたい」ママ。「傳ひ」。

「臭(か)」臭い。

「本もう」ママ。「本望(ほんまう)」。]

 

 立〔たち〕よりて見れば、蕗の葉は鹿子(かのこ)のごとく、穴、あきて、あみの目を見るが如し。

「さだめて、中なる蜘は、みぢんにもや成らん。」

と、少し破(やぶつ)て、中をのぞき見れば、上より糸をのべて中にまい下り、四方・上下の葉(はを)離るゝ事、一寸あまりにして、さ程、まはりより、蜂のさしたる針は、一筋も身に不受(うけず)。終に、害をまぬかれたり。

[やぶちゃん注:「上より糸をのべて中にまい下り」これは蕗の葉に降り下った際のこと。ダブりだが、そう気にはならない。

「葉(はを)」送り仮名を含んだルビ。]

 

 此智惠をかへり見れば、五尺の「人」は還(かへつ)て、およばず。もし、しいて是を人に比せば、蜂の、また來らん事をさつしたるは、長良が奇謀(きぼう)に等しく、ふきの葉を城(じやう)くわくとせしは、楠(くすのき)がちはやの城を守りしに不異(ことならず)。

 誠に、「一さい衆生悉有(しつう)佛性(ぶつしやう)如來常住無有(むう)變亦(へんやく)」とは、かやうの事を說(とき)たまひしものか。

[やぶちゃん注:「長良が奇謀」「長良」は張良の誤り。(?~紀元前一六八年)は漢の高祖の功臣。非常な才覚の持ち主で、軍師としては様々な奇略を立案したことで知られる。ウィキの「張良」を読まれたい。私は古今東西で最高の智将として挙げるに躊躇しない。

「楠」楠正成(?~延元元/建武三年五月二十五日(一三三六年七月四日))。彼は幕府滅亡後の僅か三日後に足利尊氏・足利直義兄弟らとの「湊川の戦い」で敗北、自害した。

「ちはやの城」千早城。正成が、凡そ三ヶ月半に及んだ籠城戦に成功した「千早城の戦い」では、多彩な奇策を講じたことはよく知られる。ウィキの「千早城の戦い」を見られたい。そこには書いてないが、私が真っ先に思い浮かべるのは、熱湯・糞尿を振りかけるという奴。「千早城の戦い」が終わった十二日後の五月二十二日に鎌倉幕府は滅亡した。

「一さい衆生悉有佛性如來常住無有變亦」「大般涅槃経」の「獅子吼菩薩品」の一節であるが、「一切衆生悉有佛性 如來常住無有變易」が正しく、最後は「へんにゃく」(現代仮名遣)と読むのが習わしである。後半部は「衆生を済度することを願って如来となった仏の本質は常住であって、決して変わることがない」の意であるが、前半部は曹洞宗の道元のそれと、それ以前の浄土教での解釈は異なる(はずである)。則ち、普通は「一切の衆生は悉(ことごと)く佛性(ぶつしやう)有り」(一切の生きとし生けるものは総て仏性を持っている)と返読するのだが、道元は「正法眼蔵」に於いて、これを「一切の衆生は悉有(しついう)の佛性なり」(総ての衆生の存在と彼らがいる存在世総てが、これ、仏性なのである)と採ったのである。これは謂わば、根本的な思想の転換、一種の止揚(アウフヘーベン)であると言えると私は考えている。]

畔田翠山「水族志」 (二四八) ウミシカ (アメフラシ)

[やぶちゃん注:これ以降は「水族志」にある返り点は省略するので(横書の返り点はどうも気持ちが悪い。教員になった時、漢文を全部、横書きにする女生徒を大声でしかりつけた残念な思い出があるので厭なのだ。ごめんね、あの時は。足代さん)底本と必ず対照されたい(ここ。但し、漢文部分の訓読は必ずしも畔田の返り点に従っていない箇所もある。本文には句読点がなく、畔田自身の平文(カタカナ使用)でも殆んどルビはないので、非常に読み難いことから、現行では不全と思われる箇所は送り仮名や助詞を添え、句読点を適宜打ち、難読と思われる箇所や読みが振れると私が判断した箇所には〔 〕で推定で歴史的仮名遣で読みを添えた(一つの読み以外の可能性がある場合は、「/」で切って別な読みを添えた。読みに疑義のある方は御指摘戴きたい)。各種記号も自由に用いた。生物名やその異名のカタカナは、基本、そのまま用いた。漢籍由来などの一部の漢字の音読みの読みをカタカナで表記した箇所がある。なお、この注は、原則、ここにしか附さない。

 

(二四八)

ウミシカ【大和本草】イソネズミ【紀州若山】一名ベチナベ【同上田邊】ウミ子コ【伊豫西條】ナメクジ【備前岡山】イチツボ【紀州海士郡加太浦】イソツビ【同上】オハグロ【同上雜賀崎浦】子ズミ【同上新宮】チモリ【讚州八島】ヒヨリジケ【備後因島漁人云此者多ク海上ニ浮メハ天色變ス故名】ウミウサギ【土佐浦戶淡州都志】アメフラシ【尾州智多郡小野浦】海蠶 海底ニ居ス大サ六七寸形狀蛞蝓ノ如シ頭ニ二ノ軟角アリ長サ一二寸尾ニハ角ナシ背肉左右ヨリ埀下乄泥漳[やぶちゃん注:ママ。「泥障」が正しい。訓読では訂した。]ノ如シ内ニ腹アリ背色黃褐ニ乄褐斑アリ又黑色多キ者赤色ノ者アリ此ニ觸ルレハ忽チ紫黑血出炮炙論血竭ノ條ニ勿用海母血ト云此也【海母ハ海粉母也】大和本草ニ「ウミジカ」色黑シ切レハ鮮血多クイツ形ヨリ血多シト云リ其子ヲ產スルヿ透明ニ乄絹糸如シキヌイトノリト云卽海粉ナリ紅黃紫綠白ノ數色アリ嶺南雜記曰海粉是海邊虫食海菜之糞虫如蛞蝓大如臂食綠則綠食紅則紅但綠色者多以淸脆而佳若黃色𨆇結[やぶちゃん注:注で示した江戸期の日本で翻刻された原拠に従い、「爛結」に読み換えた。]不貴矣紅者可治赤痢正字通曰海粉母如墨魚形大三四寸冬畜家中春種海濱田内色綠似荷包飮從此入溲從此出今海粉即所溲也故吐海粉者謂之母或曰挿竹枝田中母緣枝吐出成粉【品字箋同之】居易錄曰海蠶大如蠶靑黑色頂有一竅温台人取置塘中挿竹如林蠶食水草久之則緣竹而上自竅吐粉凝於竹末粉盡蠶入水死即海粉也廣東新語曰海珠狀如蛞蝓大如臂所茹海菜於海濱淺水吐絲是爲海粉鮮時或紅或綠隨海菜之色而成曬晾不得法則黃有五色者可治痰或曰此物名海珠[やぶちゃん注:原拠ではここに「母」が入る。訓読では挿入した。]如墨魚大三四寸海人冬養於家春種之瀕海田中遍挿竹枝其母上竹枝吐出是爲海粉乘※[やぶちゃん注:「※」は「溼」の(つくり)の「一」が「亠」となったものであるが、原拠を調べたところ、「濕」の異体字「溼」の誤活字と推定されたので、訓読では「濕」に代えた。]舒展之殆不成結以㸃羹湯佳

 

○やぶちゃんの書き下し文

(二四八)

ウミシカ【「大和本草」。】・「イソネズミ」【紀州若山。】・一名「ベチナベ」【同上田邊。】・「ウミネコ」【伊豫西條。】・「ナメクジ」【備前岡山。】・「イチツボ」【紀州海士〔あま〕郡加太浦〔かだうら〕。】・「イソツビ」【同上。】・「オハグロ」【同上。雜賀崎浦〔さいかざきうら〕。】・「ネズミ」【同上。新宮。】・「チモリ」【讚州八島。】・「ヒヨリジケ」【備後因島〔いんのしま〕。漁人、云はく、「此の者、多く海上に浮〔うか〕めば、天の色、變ず。故に名づく」と。】・「ウミウサギ」【土佐浦戶〔うらど〕。淡州都志〔つし〕。】・アメフラシ【尾州智多郡小野浦。】・海蠶〔カイサン〕

海底に居〔きよ〕す。大いさ、六、七寸。形狀、蛞蝓〔なめくぢ〕のごとし。頭〔あたま〕に二つの軟らかき角〔つの〕あり。長さ、一、二寸。尾には、角、なし。背肉、左右より埀下〔すいか〕して泥障〔あふり〕のごとし。内に腹あり。背の色、黃褐にして、褐〔かつ〕の斑〔まだら〕あり。又、黑色多き者、赤色の者、あり。此れに觸るれば、忽ち、紫黑の血、出づ。「炮炙論〔はうしやろん〕」の「血竭〔けつけつ〕」の條に『海母の血を用ふる勿〔なか〕れ』と云ふは此れなり【海母は海粉母なり。】。

「大和本草」に、『「ウミジカ」。色、黑し切れば、鮮血、多く、いづ。形より、血、多し』と云へり。

其の子を產すること、透明にして、絹糸のごとし。「キヌイトノリ」と云ふは、卽ち、「海粉〔かいふん〕」なり。紅・黃・紫・綠・白の數色あり。

「嶺南雜記」に曰はく、『海粉は、是れ、海邊の虫なり。海の菜を食ふところの糞虫なり。蛞蝓のごとく、大いさ、臂〔ひぢ〕のごとし。綠を食へば、則ち、綠、紅きを食へば、則ち、紅〔くれなゐ〕たり。但し、綠色の者、多く、以つて、淸く、脆くして、佳〔よ〕し。黃色のごときは、爛結〔らんけつ〕にして貴〔たふと〕からず。紅の者は赤痢を治すべし』と。

「正字通」に曰はく、『海粉母〔かいふんぼ/あめふらし〕は、墨魚〔いか〕の形のごとく、大いさ、三、四寸。冬、家の中に畜〔か〕ひ、春、海濱の田の内に種〔ま〕く。色、綠にして、荷包〔かはう〕に似る。飮むに、此れより、入れ、溲〔いばりす〕るに、此れより、出だす。今の海粉、即ち、溲〔いばり〕する所〔ところ〕のものなり。故に海粉を吐く者を、之れの母と謂ふ。或いは曰はく、「竹の枝をして田中に挿せば、母、枝に緣〔よ〕りて吐き出だし、粉と成る』と【「品字箋」、之れに同じ。】。

「居易錄〔きよいろく〕」に曰はく、『海蠶は、大いさ、蠶〔かひこ〕のごとく、靑黑色。頂きに一つの竅〔あな〕有り。温台人、塘〔たう〕の中に取り置き、竹を挿〔さ〕して、林のごとくにす。蠶〔さん〕、水草を食ふこと、之れ、久しくせば、則ち、竹を緣〔たより〕として上〔のぼ〕り、竅より、粉を吐く。竹の末に粉として凝〔こ〕れば、盡くの蠶、水に入りて死す。即ち、これ、海粉なり』と。

「廣東新語」に曰はく、『海珠は、狀、蛞蝓〔なめくぢ〕のごとく、大いさ、臂〔ひぢ〕のごとし。海菜を茹〔くら〕ふ所のものなり。海濱の淺水に於いて、絲を吐く。是れ、「海粉」と爲〔な〕す。鮮なる時は、或いは紅、或いは綠にして、海菜の色に隨ひ、而して、成る。曬〔さら〕し晾〔かげぼし〕するの法を得ざるものは、則ち、黃なり。五色を有する者は、痰を治す。或いは曰はく、「此の物、海珠母と名づく。墨魚〔いか〕のごとし。大いさ、三、四寸。海人、冬、家に養ひて、春、之れを瀕海〔ひんかい〕の田中に種〔ま〕く。遍〔あまね〕く、竹の枝を挿す。其の母、竹の枝に上り、吐き出す。是れを、「海粉」と爲す。濕〔しつ〕に乘じて、之れを舒〔の〕べ展〔ひろ〕ぐ。殆んど結を成さず。以つて羹湯〔あつもの〕に㸃じて佳なり」と』と。

 

[やぶちゃん注:一般に代表種とされるのは、

腹足綱異鰓上目後鰓目無楯亜目アメフラシ上科アメフラシ科アメフラシ属アメフラシ Aplysia kurodai

であるが、本邦でよく見かけるのは、これの他に、同属の、

アマクサアメフラシ Aplysia Juliana

クロヘリアメフラシ Aplysia parvula

ミドリアメフラシ Aplysia oculifera

ジャノメアメフラシ Aplysia argus

の他、一種だけアメフラシと呼ばれないアメフラシの仲間である、

アメフラシ科タツナミガイ亜科タツナミガイ属タツナミガイ Dolabella auricularia

(立浪貝)がエントリーされると思う(他にも数種がいる)。タツナミガイはアメフラシと近縁だが、大型であること、皮が硬く、柔かなアメフラシに比すと遙かに柔軟性がないことなどから、恐らく見かけても、アメフラシの仲間(アメフラシ科 Aplysiidae)とは思わない人が殆んどであろう。私自身、二十代の半ばまで、海産生物フリークとしてはお恥ずかしいことに、何度も磯観察で見つけて、弱った個体を手にとったりしたのだが、それを小さな頃から図鑑で見ていたタツナミガイ(しかし大体が海藻の生えた塊り見たような写真が多かった)だとは思わず、「ある種のウミウシか何かが特殊な病気で硬化して死んだんだろう」(後鰓目 Opisthobranchia ではあるから、全くの的外れではなかったが)ぐらいにしか思わず、結局、真剣に考えなかったほどだからである。後にうっかりタイド・プールにいた彼を踏みつけ、アメフラシ同様の紫の液汁を出るのを見て、遅ればせながら、タツナミガイとして認知したのであった。なお、何故、彼らだけが「カイ」で呼ばれているかについては、ウィキの「タツナミガイ」から引いておく。『アメフラシと同様、殻は退化して薄い板状となり、外からは見えない。ただし』、『アメフラシのそれが膜状に柔らかくなっているのに比べ、タツナミガイのそれは薄いながらも』、『石灰化して硬い。時に砂浜にそれが単体で打ち上げられることもある。そのため』、『貝類図鑑にも載ることがある』。『その先端に巻貝の形の名残があって渦巻きに近い形になっている。タツナミガイとは立浪貝の意味で、この殻の形を波頭の図柄に見立てたもの』なのである。

 なお、今一つ、アメフラシ科でありながら、不当な和名をつけられている種に顕花植物であるアマモの葉状に特化して棲息する、全国的に見られる、

アメフラシ科ウミナメクジ属ウミナメクジ Petalifera punctulata

がいるから、彼もアメフラシの一種だから(アメフラシには見えないけどね)挙げておこう。可哀そうな和名を告発するためにも。

「ウミシカ」「海鹿」。私の栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」巻八の「海鼠 附録 雨虎(海鹿)」の電子化の、彼の挿絵(四葉ある)を、是非、見て戴きたいが、その体型が鹿をシミュラクラさせることは間違いない。丹洲のアメフラシの図は出色の出来と思う。

「大和本草」「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鹿」で既に電子化注済み。そこには大島の「ウミヤウジ」(「海楊枝」で二本の触角を楊枝に喩えたものと思われる)の異名が示されてある。

「イソネズミ」「磯鼠」。しかし、これでは「海鼠(なまこ)」と混同してしまう。

「紀州若山」和歌山。しかし、こうは普通、書かない。

「ベチナベ」漢字表記不詳。現行では生き残っていないか。一つ、畔田は挙げていないが、アメフラシの一方の異名には「海牛」があり、そこから牛のかなりメジャーな方言名(特に東北)の「ベコ」があり、この「ベチ」は「ベコ」の再転訛かも知れないと、ふと思った。なお、「海牛はウミウシだろ!」と突っ込む方に言っておくと、英語ではアメフラシは「sea cow」で「海の牛」だが、一般のウミウシ類を英語では「sea slug」で「海のナメクジ」と呼ぶと答えておこう。個別分類に概して弱い一般英語であるが、これは珍しい。ウミウシはアメフラシと近縁で同じ異鰓上目 Heterobranchia ではあるが、現行では裸鰓目 Nudibranchia に別れている(永く馴染んできた後鰓類(Opisthobranchia)は現在はタクソンとして立てなくなってしまった)。事実、闘牛の盛んな島根県隠岐諸島隠岐の島町ではアメフラシを「ベコ」と呼び、他でも「イソウシ」(磯牛)の異名がある。

「田邊」南方熊楠先生の本拠地。

「ウミネコ」「海猫」。腑に落ちる異名である。

「伊豫西條」現在の愛媛県西条市(グーグル・マップ・データ)。藩制期には西条藩が置かれていた。

「ナメクジ」「蛞蝓」。不当。遙かに可愛い。

「イチツボ」「一壺」か。外見上、口腔のみが目立つからであろう。後に「一竅」と出る。

「紀州海士〔あま〕郡加太浦〔かだうら〕」現在の和歌山県和歌山市加太の加太湾及び加太沿岸(グーグル・マップ・データ)。

「イソツビ」まずは「磯螺」か。腹足類であるから、分類学上は腑に落ちる。体内に殻の痕跡を有するが、殆んどのアメフラシ類のそれは、寧ろ、斧足類(二枚貝)の貝殻の一枚のように見えるものが多い。但し、私は一見した瞬間に、「磯玉門」「磯𡱖」(孰れも「いそつび」と読む)を想起した。「つび」は女性生殖器の外陰部の古名である。襞状のアメフラシの背部は、そのシミュラクラとして非常に相応しいと考えるからである。

「オハグロ」「鉄漿」。体色由来と思われる。

「雜賀崎浦〔さいかざきうら〕」は和歌山県和歌山市雑賀崎(さいかざき)(グーグル・マップ・データ)。和歌山市街の西南端。南東直近に歌枕として知られる「和歌の浦」がある。

「チモリ」「血盛」か。多量に噴出させる紫色の液汁を血に喩えることは以下にも出る。

「讚州八島」源平合戦で知られる屋島壇ノ浦、現在の香川県高松市屋島(グーグル・マップ・データ)。

「ヒヨリジケ」以下の割注から「日和時化」である。なお、注意しなくてはならないのは、しばしば言われるかの紫色の曇り(「アメフラシを脅して紫の液体を噴出させると雨になる」という伝承は全国的にある)からではなく、「此の者、多く海上に浮〔うか〕めば、天の色、變ず。故に名づく」とあることで、これは、空は晴れていても、離れた低気圧によって海が荒れ、それがやや離れた海域の浅海の海底をも攪拌し、アメフラシが水面に浮かび出るという、ある程度、科学的に説明可能な根拠に基づくものである点である。

「備後因島」現在の広島県尾道市に属する島嶼である因島(いんのしま)(グーグル・マップ・データ)。

「ウミウサギ」「海兎」。私はこれが一番好き。彼らの可愛らしさに相応しいからである。しかし、本州南部以南に棲息する殻が白く美しい大型の巻貝に、腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ型下目タカラガイ上科ウミウサギガイ科ウミウサギ属ウミウサギ Ovula ovum がおり、こちらの方が、名にし負う点でしっくりはくる。但し、貝のウミウサギは生時は黒い外套膜で殼部分を全面的に覆っており、外見上は「海の兎」には見えない。

「土佐浦戶〔うらど〕」高知県高知市浦戸(グーグル・マップ・データ)。坂本龍馬像があることで知られる。

「淡州都志〔つし〕」兵庫県洲本市五色町都志(グーグル・マップ・データ)。

「尾州智多郡小野浦」愛知県知多郡美浜町大字小野浦(グーグル・マップ・データ)。

「海蠶」意味は分かるが、これは寧ろナマコに相応しく、実際に「海蚕」は海鼠の異名にもある。また、現代中国ではゴカイ類にもこれを当てる。

「泥障〔はふり〕現代仮名遣「あおり」で、「障泥」とも書く。馬具の付属具の名で、鞍橋(くらぼね)の四緒手(しおで)に結び垂らし、馬の汗や蹴上げる泥を防ぐためのもの。下鞍(したぐら)の小さい「大和鞍」や「水干鞍」に用い、毛皮や皺革(しぼかわ)で円形に作るのを例としたが、武官は方形とし、「尺(さく)の障泥(あおり)」と呼んで用いた。場所と形が頭に浮かばぬ方は、参照した小学館「デジタル大辞泉」の「あおり」の解説の下の画像をクリックされたい。

「紫黑の血」発生器官を紫汁腺と呼ぶ。「アメフラシ」は「雨降らし」で、鮮やかな紫色の液体が海中で放出されると雨雲のように群ら立つことによる。この液体にはフィコエリスロビリン(Phycoerythrobilin:光合成に於ける主要な集光色素の一つである蛋白質の一種。則ち、これは摂餌する藻類由来である)とアプリシオビオリン(aplysioviolin:同前の物質)という二つの成分が含まれており、この二種はアメフラシの天敵である大型甲殻類に対して、強い摂食阻害活性を示し、防禦物質としての役割を持っていることが、近年、判った。毒々しい紫色は単に偶然のもので、目隠しをしたカニ類で実験しても、反応は同じだったという専門家の記載があるから、結構、強烈だわさ!

「炮炙論」南宋の雷斅(らいこう)が漢方に於ける炮製(ほうせい:漢方薬の製剤過程に於いて薬剤から不要な成分を除去して有効成分を抽出する便宜のため、或いは原対象物が持つ毒性の軽減などを目的として一定の加工調整を行うことを言う)を特に扱った専門書「雷公炮炙論」のことであろう。

「血竭」龍血(りゅうけつ)の異名。古来、洋の東西を問わず、貴重品として取り引きされ、薬用やさまざまな用途に用いられてきた、赤みを帯びた固形物質の称。参照したウィキの「竜血」によれば、中国では「麒麟竭(きりんけつ)」などとも呼ばれる「龍血」が『古くから知られ、漢方にも用いられてきた』。一九七二年に中国国内で「竜血樹」(単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科ドラセナ属 Dracaena の一種)が『発見されるまでは、血竭の需要は東南アジアとアフリカからの輸入に頼っていた。アフリカではリュウゼツラン科』(単子葉植物綱ユリ目リュウゼツラン科 Agavaceae)の『植物の幹から血竭をとり』、二千『年以上の歴史がある」とする資料がネット上には見られる』。『現在は、Dracaena cochinchinensis(剣葉竜血樹』『Cochinchinaはベトナム南部を指す旧称)とDracaena cambodiana(海南竜血樹)の』二『種がおもに利用され、東南アジアや中国南部で血竭が生産されている』。明の李時珍の「本草綱目」には、『「騏驎竭」として記載があり、さまざまな資料を引いて』、『おおむね「松脂のような樹脂の流れてかたまったもの」として』おり、これは「龍血樹の龍血」に『ついて解説していると見て間違いがないが』、十一世紀に北宋の宰相で科学者でもあった蘇頌(そしょう)が記した「本草図経」からの『引用として「今南蕃諸国及広州皆出之」とする』。『しかし同書にはまた別資料からの引用として「此物出於西胡」ともある』。『いずれにしても現在の中国で漢方薬、民間薬、その他に利用される』ところの「麒麟竭」は、『ドラセナ属とは全く別種の植物・キリンケツヤシDaemonorops dracoの実から精製したものが最も多い』。『ちなみに、ドラセナ属由来のものとキリンケツヤシ由来のものとを混同しているような様子は全く見られない』が、しかしまた、『両者を区別して用いることはあまり行われていないようである』。「本草綱目」によれば、「騏驎竭」の『主治は』「心腹卒痛、金瘡血出、破積血、止痛生肉、去五臟邪気」とあって、「活血の聖薬」であるとしている。『おもな方剤には七厘散(しちりんさん)などがあ』り、また、『民間薬としては創傷、打撲、皮膚癬などに外用することもある』。『その他、西洋の竜血と同様に塗料や着色の用途にも用いられる。春節や慶時に使う紅紙』『(ホンチー)の着色にも用いるという』とあった。

「其の子を產すること、透明にして、絹糸のごとし」不審。以下に記される通り、色彩変異が多いが(一般には黄色系が多い)、透明ではない。グーグル画像検索「ウミゾウメン アメフラシ 卵」を見られたい。

「キヌイトノリ」検索したが、この呼称は現在、生きていない模様である。私自身、初めて聴いた。

「海粉」はアメフラシ類の卵塊(通称で「海素麺(うみぞうめん)」と呼ぶ。なお、「ウミゾウメン」は紅藻植物門紅藻綱真性紅藻亜綱ウミゾウメン目ベニモヅク科ウミゾウメン属ウミゾウメン Nemalion vermiculars の正式和名であるので、混同しないように(後述する通り、アメフラシ類の卵塊には毒性のあるものがあるからである)注意が必要である。)を乾燥させたもの。本邦では一般的には食用としないが(後述)、中国では漢方生薬の材料として古くから知られている。中文サイトの中医薬のサイトの「海粉」を見られたい。因みに、ここの解説に原材料を産む種として示されているのは、アメフラシ科フウセンウミウシ属フウセンアメフラシ Notarchus punctatus である。所持する現行で最新最大の学術的海岸動物図鑑である西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」(保育社平成四(一九九二)年刊)によれば、相模湾・三重県鳥羽市沖の菅島(すがしま)・紀伊半島・富山附近に分布するとある。但し、同書では本種を「フウセンウミウシ」としており、私は戴けない(同様の記載はネット上にもあるが、アメフラシとして復権させるべきである)。なお、ウィキの「アメフラシ」によれば、まず、アメフラシ本体は一般的には食用にしない。『卵は食糧難の頃などは食用にされたことはあるが、美味しいものではなく、毒性の問題もあり』、『通常は食用とされない』、しかし、『島根県の隠岐島や島根半島、鹿児島県の徳之島、千葉県いすみ市(旧大原町)、鳥取県中西部などでは身を食用にする。隠岐島では「ベコ」と呼ばれる。産卵期の春~初夏に採取して、臭いが強い内臓を除いて湯がき、冷凍しておく。調理は、刻んで柚子味噌あえなどにする。身自体は無味に近く、酒のツマミなどとして食感を楽しむ』。『ただし、アメフラシがシガテラを吸収した毒を持つ海藻類を食べていると』、『その毒がアメフラシに蓄積されている可能性があるため』(卵も同様)、『注意が必要。食用している海域では毒の元となる海藻類が無いとされているため食せるが、気候変動等により海藻の植生が変化している可能性もある。味はほとんどない』とある。私は八年前に、知夫里島に行った際、教育委員会制作のアメフラシの料理法を興味深く読んだが、夏の暑い盛りで、遂に食べる機会を逸してしまった(旬は春である)。悔やまれる。私の「隠岐日記4付録 ♪知夫里島のアメフラシの食べ方♪」で電子化してある。

「海粉母」後で出るが、「海粉」を生む「母」の意でアメフラシ成体を指す。但し、アメフラシは雌雄同体である。頭部の方に♂の生殖器官が、背中に♀の生殖器官を有する。春から夏にかけて、前方の個体の♀の器官に、後方から来た個体が♂の器官を挿入する形で交尾が行われるが、これが一組ではなく、何個体もが後に繋がって交尾することがよく知られている(私も数回、現認した)。これを「連鎖交尾」と称する。

「嶺南雜記」清の呉震方撰になる嶺南地方の地誌。この原文(江戸時代の原本縮刻版「雜記五種」の内)部分は下巻の物産類に出、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここと、ここで視認出来る。「而佳」が「爲佳」、「𨆇結」が「爛結」と、若干の異同がある。「𨆇」は「康煕字典」を見ると「這い足」の意であるから、外套膜の歩足様の部分を指すのかと思ったが、こちらの「爛結」で、見た目が爛れて結節を生じているように見えるものは、品質が落ち、価値が劣る、の謂いで、ずっと腑に落ちる。

「糞虫」「糞」は単なる「下等な」のニュアンスであろう。

「正字通」明の張自烈の著になる字書であるが、後に清の廖(りょう)文英がその原稿を手に入れて自著として刊行した。十二支の符号を付した十二巻を、それぞれ上中下に分け、部首と画数によって文字を配列して解説を加えたもの。形式は、ほぼ、明の梅膺祚 (ようそ) の「字彙」に倣いつつ、その誤りを正して訓詁を増したものであるが、本書自体にも誤りは少くない。「字彙」とともに「康煕字典」の基礎となった。「中國哲學書電子化計劃」で原本画像が視認出来、「卷八」の「粉」部のここと、ここに出る。

「墨魚〔いか〕」烏賊。頭足綱鞘形亜綱十腕形上目 Decapodiformes のイカのこと。しかし、イカに似ているとすれば、形ではなく、色と柔軟さかなぁ。

「冬、家の中に畜〔か〕ひ、春、海濱の田の内に種〔ま〕く」「田」はこの場合、海水を引き込んだ人工のタイド・プールである。しかし、中国で古くからアメフラシを飼育し、ウミゾウメンを産まさせて、それを漢方薬剤として卸していたとは! 正直、魂消た!!!

「荷包」財布にするような入れ口が一つの小袋、巾着のこと。

「飮むに、此れより、入れ、溲〔いばりす〕るに、此れより、出だす。今の海粉、即ち、溲〔いばり〕する所〔ところ〕のものなり。」「溲〔いばりす〕る」は小便をするの意。この部分、読まずんばならざる故に、強引に訓じたもので、全く以って自信がない。謂わば『「ためにする」訓読』であることを自白する。かく読んで、意味が腑に落ちたのかと詰問されれば、黙るしかないのだがが、取り敢えずは「アメフラシは一箇所の小袋の口のような穴から物を飲み込み、排泄する時も同じ穴から出す。今、海粉と呼んでいるものは、則ち、その排泄物由来の物なのである」という謂いを念頭に置いて訓じてはいる(無論、口と排泄腔は別であり、肛門と生殖巣の出産孔は別であるが、ごく近接しており、しかも両者は外套腔の中に開いているから、見かけ上では、排泄と出産の方は同一部分から行っているようには見える)。今一つ、読みにブレがある気が強くしている。どうか、お知恵を拝借したく存ずるものである。

「品字箋」清の虞徳升著で虞嗣集補註になる韻書。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの検索結果で当該部が判る。

「居易錄」清の王士禎の著になる随筆。巻二十四の冒頭にドンと出る。リンク先は維基文庫の縦書電子化。

「温台人」温州と台州(だいしゅう)の人民。現在の浙江省東南沿海に位置する温州市と、その北に接する同省の台州市。ここ(温州市をグーグル・マップ・データで示した)。

「塘〔たう〕」ここはタイド・プールのこと。言っておくが、アメフラシは汽水域では生きて行けないから、しっかり海水を引き込まなくではならず、泥底の潟でもだめである。

「水草」海藻或いはアマモなどの海草。

「竹を緣〔たより〕として上〔のぼ〕り、竅より、粉を吐く。竹の末に粉として凝〔こ〕れば、盡くの蠶、水に入りて死す」この辺りでアメフラシ(厳密にはアメフラシの卵塊)の独特の養殖法が見えてくる。竹の枝の途中にカマキリの卵のように産ませるというのである。そのまま抜き出して、吊るして乾せばいいから、一石二鳥ではある。しかし、都合よくアメフラシが挿した枝を登ってそんな風に産むもんだろうか? 普通は、岩場の潮間帯に産むけどなぁ? 海の傍でないと実験は出来んしなぁ。今一つ考えているのは、残酷だけど、竹の枝で海底にアメフラシの体を貫いて刺すというのはどうか? いやいや、それでは交尾が出来ない。では、ただ刺し貫いて、動けるようにしてはおく、というのはどうか? 孰れにせよ、子孫を皆、薬にされてしまい、「ああ、可愛そうなは、アメフラシでござい……」だなぁ……なお、通常のアメフラシ類の寿命は一年から二年である。

「廣東新語」清初の屈大均(一六三五年~一六九五年)撰になる、広東に於ける天文・地理・経済・物産・人物・風俗などを記す。「広東通志」の不足を補ったもの。全二十八巻。早稲田大学図書館の「古典総合データベース」の原本画像のここで見られる

「海珠」中文サイトの「海兔毒素」のページに「海兔」(うみうさぎ=アメフラシ)の別名として出る(しかし添えてある図は確かであるが、下方の写真のそれはアメフラシではなく、明らかにウミウシの一種である。あかんね)。そこに出る、Stylocheilus longicauda は、アメフラシ科クロスジアメフラシ属  ヒメミドリアメフラシで当該種は本邦にもいる。

「茹〔くら〕ふ」「食らふ」に同じい。

「海菜」やはり、海藻或いは海草。

「曬〔さら〕し晾〔かげぼし〕する」漢字の意義を調べ、訓読み風にした。

「瀕海〔ひんかい〕」臨海に同じい。

「濕〔しつ〕に乘じて」と読んではみたものの、意味不明。湿「気を含んだ活きのいい卵塊を何かに載せて」の謂いか。

「殆んど結を成さず」乾燥すると、殆んど凝固はしない、の意か。そうした性質ならば、ばらばらにはし易いし、粉にもし易かろう。

「羹湯〔あつもの〕に㸃じて佳なり」初めてアメフラシを食用として示したものが最後に出た。「羹湯」は魚や鶏肉などを入れた熱いスープのこと。因みに、私の見た原拠では最後は「佳」ではなく、「作」であった。まあ、「作る」「作(な)す」で問題はない。]

2020/09/24

金玉ねぢぶくさ卷之八 蓮磬寺の舊鼡の事

 

金玉ねぢぶくさ卷之八

   蓮磬寺(れんけいじ)の舊鼡(きうそ)の事

Nekotonedumi

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版の挿絵をトリミング合成し、中央部分のズレを隠すために一部に手を加えた。]

 

 武州川越蓮磬寺といふ寺に大きなる舊鼡有〔あり〕て、近所の猫ども、をかくれば、還(かへつ)て、にげ退(のき)、終(つい)に是を取〔とる〕事あたはず。

 ある人、

「かたのごとくの逸物(いちもつ)なり。」

とて、まつくろ成〔なる〕ねこ一疋、つれ來り、件(くだん)の鼡(ねづみ)に合せければ、如何さま、よの猫にかはりけるにや、鼡、是を見て、急に迯(にげ)けるを、ねこ、頻(しきり)に追(をつ)かけければ、鼡、立歸〔たちかへり〕て、ねこを、にらむ。ねこ、とびしざつて、たがひに、にらみ、牙(きば)をあらはし、眼(まなこ)をいからし、うなりさけんで爭ひしが、ねこも卒尓(そつじ)に得かゝらず。鼡は、元より、しゆびを見て、隙(ひま)あらば、にげんとす。たがひに進むも退(しりぞ)くも不叶(かなはず)、既(すで)にくれに及びけれども、たがひに、せう、ぶつかざれば、見物の人、是をわけんと欲(ほつ)して、ねこを呼(よべ)ども、退(しりぞか)ず。鼡をおへば、棟(むな)木へあがり、ねこにおはれては、取〔とつ〕て返し、あるひは破風(はふ)をくゞつて、屋根へ出〔いで〕、まどより入〔いり〕ては、むな木へおり、夜に至れ共〔ども〕、たがひに、わかれず。終夜(よもすがら)にらみ合ける眼(まなこ)の光(ひかり)は、かゞみのごとく、うなる聲は寺中へひゞいて、物すざまじく、よからぬ事に覚〔おぼえ〕しかば、鼡をおい、猫をおへども、やねにあがり、殿上(てんじやう)をつたひにくれば、おい、おへば、取〔とつ〕て返し、たがひにあらそふ聲に、寺中の人々、終夜〔よもすがら〕、ねぶる事、あたはず。

[やぶちゃん注:「蓮磬寺」埼玉県川越市連雀町にある浄土宗孤峰山宝池院蓮馨寺(グーグル・マップ・データ)。公式サイトのこちらによれば、『当山は徳川幕府の定めた、国家公認の学問所でした』。『当山第一世・感誉上人は、今日の浄土宗の正統な考えを確立した人物で』、後の『源誉存応上人は当山で修業した後、大本山増上寺・第十二世となり、徳川家康を増上寺の檀越としました。徳川家は三河時代から浄土宗の信徒でした』。『徳川家康に改名した時代は当山の資料で知ることができます』。また、『浄土宗総本山・知恩院本堂の阿弥陀三尊は、当山第九世で後知恩院第三十七世となった知鑑上人が寄進したものです』。『当山のご本尊、阿弥陀如来像は、鎌倉時代』の弘安元(一二七八)年)に作られたとある。以下、歴史。『戦国の世も末の頃、川越を平定した小田原の北条氏康は、家老の大道寺駿河守政繁(だいどうじするがのかみまさしげ)を川越城の城主としました。寺の名となった蓮馨大姉(れんけいだいし)は、その母堂で、社会の平安を祈り民衆に心安らぐ場を与えるため、甥にあたる英才の誉れ高い感誉存貞(かんよぞんてい))上人を招いて』、『第一世とし』た、天文一八(一五四九)年が『蓮馨寺の始まりです。存貞上人は後に、現在の浄土宗大本山増上寺の第十世となり、浄土宗伝法を確立』し、『現在でもこの伝書を受けることが、浄土宗の僧侶になる条件となっています。又、当山にいた弟子の存応(ぞんのう)上人は、やはり大本山増上寺の第十二世となり、その人徳によって徳川家康と代々将軍家が檀家となったのです』。『呑龍上人は、当山におられた存応』『(のちの観智国(かんちこくし)、徳川家康の宗教上の最高顧問)の直弟子で、以前より各地をめぐっては』、『旱魃(かんばつ)で作物が取れず窮乏する地域には』、『その威神力によって雨を降らせ、飢饉で農家が困ると』、『その子供たちをあずかり育て、あらゆる困りごとをたちまちのうちに解決し、多くの人々を幸せにした生き仏様です』とある。

「舊鼡(きうそ)」劫を経た古鼠。

「をかくれば」「を」はママ。以下同じ。「追ひ驅くれば」の口語「おつかくれば」の縮約。

「還(かへつ)て」これは「間髪入れず、さっと」の意であろう。

「かたのごとくの」世に言うところの典型的な。

「逸物(いちもつ)」群を抜いて優れているもの。

「とびしざつて」さっと後方に飛び退いて。

「卒尓(そつじ)に」ここは「すぐには」の意。

「得かゝらず」飛びかからない。

「しゆび」「首尾」。様子。

「せう、ぶつかざれば」「せう」は不詳。「正(しやう)」で、何時までも、正面切って襲いかかることがなく、睨み合いを続けるばかりなので、の意か。

「破風(はふ)」切妻造や入母屋造の屋根の端の三角形の部分で、古くは通気・排煙のために桟を組んだ開口部があった。

「むな木」「棟木」。挿絵のそれ。

「おい」ママ。「追ひ」。以下同じ。]

 

 よく日、夜(よ)あけても、いまだ、せうぶを、けつせず。そら高ければ、ねこをとらゆる事もかなはず。其まゝ置(をけ)ば、いつ果(はつ)べき勝負とも見へず。人々、あきれて、よく日も、終日(ひねもす)、聞(きゝ)つたへて、見物の人、集り、くれにおよべども、たがひに、わかれず。

[やぶちゃん注:「せうぶ」ママ。「勝負(しようぶ)」。

「そら高ければ」「そら」は接頭語で「何んとなく」辺りで、「大概は」梁の上や屋根裏などの高いところで対峙しているので、の意であろうかと思ったが、後段で「そらよりおちぬ」の語があるので、ここは単に「上の方」の意である。

「とらゆる」ママ。「捕(とら)ふる」。]

 

 如此〔かくのごとく〕あらそふ事、三日三夜(や)して、四日目の辰(たつ)の刻に、鼡、棟木(むな〔ぎ〕)よりすべり落(おち)て死しければ、ねこも、つゞいて、おりんとす。棟木の上を、七、八尺程はしりしが、中途にとゞまり、下へ、おりず。

「如何(いかゞ)しけるぞ。」

と詠居(ながめい)ければ、時刻うつれども、おりざるゆへ、ねこぬし、よべども、うごかず。

 眼(まなこ)も光らざれば、ふしぎにおもひ、梯(はしご)をかけて上り見れば、棟木に爪を立〔たて〕て、すくみ、死(し)したり。

「もし、鼡にくらはれて、手など負(おい)ぬるか。」

と見れども、ねこも、鼡も、一ケ處の疵(きづ)もなし。

 たがひに身をかこひ、用心(ようじん)して、すゝまず、退(しりぞか)ず。もし、一方に油斷の隙(ひま)あらば、鼡は「にげん」とし、ねこは「くらひ付〔つか〕ん」として、晝夜(ちうや)四日、氣をつめ、性(せい)をつかせしゆへ、鼡はそらよりおちぬ内に、はや、棟木のうへにて、にらみじにゝ死して下へ落(おち)、ねこも、「せうぶには、はや、かちぬ」と、あんどせしゆへ、下(した)へおるゝ事、あたはず、労(つか)れ死せしと見へたり。

[やぶちゃん注:「詠居(ながめい)ければ」ルビはママ。

「ゆへ」ママ。以下同じ。

「ねこぬし」猫主。この猫を持ってきた人物であろう。自体が意想外に展開したので、責任上、或いは、ずっと寺に滞在していたものかも知れぬ。

「くらはれて」齧られて。

「負(おい)ぬるか」ルビはママ。

「性(せい)」まあ、「精」とあるべきところであろう。

「つかせし」「盡かせし」。]

 

 されば、如何なる宵寐(よいね)まどひも、ばくちをうつては、夜(よ)の明(あく)る事をしらず。寒(かん)の内にも、すまふをとれば、はだかにて、あせをながしぬ。物のあらそひ程、おろか成(なる)事はあらじ。あそぶ心より七情(〔しち〕じやう)の気(き)を労(つか)らかし、五臟をそんじ、病ひを生ず。命を失ひ、身を滅(ほろぼ)して、何の益(ゑき)かあるや。

[やぶちゃん注:「宵寐(よいね)」ルビはママ。]

 

 今のねこの、鼡を得(ゑ)とらぬとても、主(しう)にすてらるゝにもあらず、とりたればとて、何をおん賞に預るにもあらねど、たゞ自然(しぜん)とおのが役なれば、取らん事を欲(ほつ)し、既に其ために死すべき身をわすれて、それまで気を詰(つめ)しと見へたり。

 誠に、ちく生(しやう)すら、義の心あり。武士の戰場にて先をかけ、てきの首(くび)を取〔とる〕は、仕(し)おふせぬれば、恩賞に預り、よし、討(うた)れても、君への忠と成り、又は榮花を子孫に殘し、勝ても、まけても、そんのない事なり。それには、命をおしんで、敵(てき)にうしろを見せ、君へは不忠となり、子孫には面(おもて)に垣(かき)させ、其身のはぢを、かへり見ず。是らは、さ程に何のために「おしき命」ぞや。

[やぶちゃん注:「主(しう)」ルビはママ。「しゆう」でよい。以下同じ。

「おん賞」「恩賞」。

「得(ゑ)とらぬ」ルビはママ。筆者の癖で、不可能を表わす呼応の副詞を「得」と漢字で書く。しかもここでは歴史的仮名遣「え」であるべきところを誤っている。

「見へ」ママ。

「仕(し)おふせぬれば」ママ。「爲果(しおほ)せぬれば」。

「そんのない」ママ。「損の無き」。

「おしんで」ママ。「おしき」も同じ。

「面(おもて)に垣(かき)させ」面目なくして、世間に顔向け出来ずさせることとなり。「垣さす」は「垣を作る」と同じで、他者と間に隔てをおくことを指す。]

 

 但し、命をかろんずるのみ、手がらにもあらず。死は一心の義に向ふ所にして、やすく、生(しやう)は百慮の智を盡(つく)す中に、まつたければ、難(かた)し。何程、勇はさかんにても、死をかろんずる人は、誠の武道にあらず。武士の道は、進むべき所にしてはすゝみ、退(しりぞく)べき所は退き、生(いく)べき所にはいき、死すべき所に死して、名譽をあらはし、忠に備(そなふ)る、是、誠の武勇なり。

 諱信(かんしん)、淮陰(わいゐん)にて巴夫(ひつぷ)のまたをくゞりしかども、後には、百萬ぎの大將と成り、魏のさうさうは、敵におはれて步立(かち〔だち〕)になり、士卒にまぎれて迯(にげ)侍りしを、てき、是を知つて、

「步武者(かちむしや)の中に、ひげの長きがさうさうなるぞ。ひげ長き武者(むしや)をくみとめよ。」

と、よばゝりければ、けはしき敗軍の中にて、ひげまでを剃(そり)、にげしかど、終に三國をしたがへて、七廟をかゝやかせり。

 是等は皆、小恥を忍んで大勇をとり、死すまじき所に難をのがれて身をまつとふするなり。良將・名士といふは、力を以て、人とあらそはず。智惠を以て戰ひ、血気を退〔しりぞ〕け、謀(はかりごと)を好む。將は社稷(しやしよく)をおもんじ、士は忠を重(おもん)じ、國家のあやうい所は守り、主(しう)の危(あやう)ひ所にては、命を捨(すて)て戰ひ、高名(かうみやう)して、おん賞を貪らん事をおもはず、それまで下されし碌(ろく)のために、身をほうぜん事を思へば、軍神のめうりにかなふて、天然〔しぜん〕と、ふしぎの働(はたらき)をするものなり。

 又は、身のため子孫のためにするも、誠〔まこと〕、仁義の勇にあらず。たゞおんの爲(ため)、忠のために、命をかろんじ、身をかへり見ぬを以て、仁義の勇士とす。死すべき所をのがれ、迯(のが)るべき所に死し、又は、死をおそれ、命をおしみ、忠をかき、恩をおもはず、仁義を離れ、はぢをわすれ、盛(さかん)なる敵(てき)に、かうさんして、おとろへたる主(しう)をすつるは、彼〔かの〕逸物(いちもつ)の猫よりは、おとらんものか。

[やぶちゃん注:教訓解説が長過ぎて鼻につく。

「まつたければ」「全ければ」。(智を十全に働かせてこそ)完全なものとなるものであるからして。

「諱信(かんしん)、淮陰(わいゐん)にて巴夫(ひつぷ)のまたをくゞりしかども」「諱信」は漢を立国した劉邦の有能な武将韓信の誤りで、「巴夫」も「匹夫」(身分の低い道理を弁えない卑しい男)が正しい。以上は彼の若き日のエピソード。ウィキの「韓信」によれば、彼は淮陰(現在の江蘇省淮安市淮陰区)の生まれで、若い頃は『貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという遊侠無頼の生活に終始していた。こんな有様であったため、淮陰の者はみな韓信を見下していた。とある亭長の家に居候していたが、嫌気がした亭長とその妻は韓信に食事を出さなくなった。いよいよ当てのなくなった韓信は、数日間何も食べないで放浪し、見かねた老女に数十日間』、『食事を恵まれる有様であった。韓信はその老女に「必ず厚く御礼をする」と言ったが、老女は「あんたが可哀想だからしてあげただけ。お礼なんていいわよ」と語ったという』。『ある日のこと、韓信は町の若者に「てめえは背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。できないならば俺の股をくぐれ」と挑発された。韓信は黙って若者の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。その韓信は、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していたのである。この出来事は「韓信の股くぐり」として知られる』とある。

「百萬ぎ」「百萬騎」。

「魏のさうさうは、敵におはれて……」「さうさう」は後漢末期の武将で三国時代の魏の基礎を作った曹操。以下は、後漢末期の二一一年に馬超・韓遂ら関中軍閥の連合軍が曹操と戦った「潼関(どうかん)の戦い」の前半のエピソード。個人サイト「紅魂(新)のHP」の「馬超」に、『父や弟が殺されたと聞』いた『馬超は韓遂と協力し』、『曹操を攻め、ついに潼関をおとした。曹操は馬超の勇猛さに舌を巻いた。馬超は曹操をもう少しのところまで追い詰めるが、槍の先が木に刺さり曹操を逃してしまう』。この時、『曹操が派手な恰好をしていたので』、『兵たちは「赤いひたたれを着けているのが曹操だ!」と言った。曹操がひたたれを脱ぎ捨てると』、今度は『「ひげが長い奴が曹操だ!」と言われ、今度はひげを剣で剃り落した。しかし、今度は「ひげが短いのが曹操だ!!」と言われ、顔を覆い隠し』て曹操は逃げた、とある。

「三國」魏・呉・蜀。

「七廟」天子の御霊屋(みたまや)。太祖の廟と三昭・三穆(ぼく)(当代の天子の父から溯って上六代)とを併せて言う。

「社稷(しやしよく)」本来は古代中国で天子や諸侯が祭った土地神(社)と五穀神(稷)のことであるが、後に転じて朝廷・国家の意となった。ここは後者。

「ほうぜん」「奉ぜん」。

「めうり」「名利」。

「かうさん」「降參」。]

2020/09/23

私は

正直、誰も――信じていない――(だから――安心し給え――)――

畔田翠山「水族志」の「ナマコ」をリロードした

畔田翠山「水族志」 ナマコ 《リロード》

超強力に改稿(再校訂を含む)したので、是非、読まれたい。

2020/09/21

金玉ねぢぶくさ卷之七 鼡の鐵火の事 / 金玉ねぢぶくさ卷之七~了

 

   鼡(ねづみ)の鐵火(てつくわ)の事

 洛陽ぎおんの社僧に、天性(てんせい)、鼡(ねずみ)を愛せし法師あり。つねに米をまき、食(しよく)をあたへて、なつけしかば、人をもおそれず、晝も出〔いで〕て、おゝく集(あつま)る。然〔しかれ〕ども、家内(けない)の下々(したじた)までをせいし、かたく、是を、おはしめず。不斷、米をまきて、餌(ゑ)にとぼしからねば、鼡おゝしといへども、物をあらす事、なし。元より、猫は寺の近所へもよせねば、寺中の鼡ども、いたちにおはれて、皆、此寺へにげ來〔きた〕れり。

[やぶちゃん注:「洛陽ぎおんの社」ママ。歴史的仮名遣は「祇園(ぎをん)」が正しい。現在の京都府京都市東山区祇園町北側(ぎおんまちきたがわ)にある八坂神社の旧称。元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていることから、元来、「祇園神社」「祇園社」、神仏習合期には「祇園感神院(かんしんいん)」(これがここでの住持の寺名と考えてよかろう)などと呼ばれていたが、慶応四・明治元(一八六八)年の神仏判然令(神仏分離令)によって現在の社名に改名された。公式サイトの「歴史」によれば、『創祀については諸説あるが』、斉明天皇二(六五六)年、『高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座したという素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まると』される他、貞観一八(八七六)年に、南都の僧円如』(法相宗興福寺の僧とされる)『が建立し、堂に薬師・千手などの像を奉安して、その年の六月十四日に『天神(祇園神)が東山の麓』の『祇園林に垂跡したことに始まるとも』される。なお、『伊利之来朝のこと』及び『素戔嗚尊が御子の五十猛神とともに新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に降られたことは』、孰れも「日本書紀」に記されており、「新撰姓氏録」の『「山城国諸蕃」の項には渡来人「八坂造(やさかのみやつこ)」について、その祖を「狛国人、之留川麻之意利佐(しるつまのおりさ)」と記してある。この「意利佐」と先に記した「伊利之」は同一人物と考えられている。伊利之の子孫は代々八坂造となるとともに、日置造(へきのみやつこ)・鳥井宿祢(とりいのすくね)・栄井宿祢(さかいのすくね)・吉井宿祢(よしいのすくね)・和造(やまとのみやつこ)・日置倉人(へきのくらびと)などとして近畿地方に繁栄した』とある。

「なつけしかば」「懷(なつ)けしかば」。元来は「馴付けしかば」で「馴れ付く」を他動詞化し縮約したもの。人に馴れるようにさせたので。

「おゝく」ママ。以下同じ。

「下々(したじた)」ルビはママ(後半は原本では踊り字「〲」)。下々(しもじも)の者。下役僧や神人(じにん)、下僕に至るまで総ての者。

「せいし」「制し」。鼠を退治することを禁じ。

「いたち」食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属ニホンイタチ(イタチ) Mustela itatsi (本州・四国・九州・南西諸島・北海道(偶発的移入):日本固有種:チョウセンイタチ Mustela sibirica の亜種とされることもあったが、DNA解析により、別種と決定されている)。彼らの食性は主に動物食の雑食で、ネズミはその主対象で、他に鳥・両生類・魚・カニ・ザリガニ・昆虫類・ミミズや、動物の死体など、何でも御座れである。詳しくは私の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」を参照されたい。]

 

 しかるに、如何(いかゞ)したりけん、ある日、住持の祕藏せられし紋白(もんじろ)のけさ一でう、鼡にくらはれて、以ての外に忿(いか)り、

「悪(にく)き事かな。我、かれを愛し、餌(ゑ)をあたふる事、數年(すねん)、終に今まで何を引(ひか)れし事もなかりしに、如何にちく類なればとて、ずいぶん不便(〔ふ〕びん)をくわへし其おんをしらず、還(かへつ)て、かく、物に害をなす事のうたてさよ。爰(こゝ)を以ておもへば、みな、世上に猫を飼(かい)、『升(ます)おとし』をして、人の嫌ふも斷(ことはり)なり。」

とて、それより、米をも、まかせず、鼡の引べき物を用心して、ふつと、かれを愛する心、やみしかば、寺内(じない)の鼡、餌にかつうへしと見へて、一日、數(す)千疋、むらがり出〔いで〕、大きなるかはらけをくはへ、座しきのまん中へ直(なを)しおき、口々に水をふくみ來り、彼(かの)かわらけへ吐(はき)出せば、初(はじめ)の程は、燒土(やけつち)へ水うつやうに、悉(ことごと)くしみこみしが、後(のち)には次第にしめり合(あい)、水、八分(ぶ)程たまりし時、床(とこ)の上なる紙一束(そく)を、あまた集り、或は、いたゞき、あるひは、捧げ、又はくわへ、又は引〔ひき〕て、彼(かの)かはらけの側(そば)まで終に引付〔ひきつけ〕、大小の鼡、不殘(のこらず)、皆、北向(きたむき)に並び、一疋づゝ、右のかはらけの中へ、はいり、四足(そく)を水にひたして、紙の上へ飛(とび)あがり、左の方(はう)へおりて、みなみむきに並(なら)びぬ。

 都合、八十一疋の鼡、八十疋まで如此(かくのごとく)して、ぬれ足(あし)にて右の紙をふめども、曾て其足跡、つかず。しまひに當りたる一疋の大鼡、ふ笑ぶ笑に立〔たち〕て、「おのれが番なれば、ぜひなし」といふ體(てい)にて、土器(かはらけ)の水に足をひたし、彼(かの)紙の上へ、とびあがれば、おびたゝしく足跡ついて、紙、一、二帖、水にひたせり。是を見て、殘る鼡ども、むらがり寄(よつ)て、終に彼大鼡をくらひ殺しぬ。

 是、俗にいふ、「鐵火の吟味」なるべし。

 終に、おのれが中間(なかま)にて、彼〔かの〕けさをくい破りたる大鼡をせんぎ仕出(しだ)し、住持の目のまへにて、其罪を正し、仕置(しおき)に行ひ、皆、それぞれの住家住家〔すみかすみかへ〕、歸りぬ。

[やぶちゃん注:「紋白(もんじろ)」寺紋などを白く染め抜くか或いは織り出した「五条袈裟」のこと。平安時代には法皇などの貴族や高僧のみに着用が許された。単なる五条袈裟は三衣(さんえ/さんね:僧が着る袈裟の種類を言い、正装たる僧伽梨(そうぎゃり)=大衣(だいえ)=九条と、普段着に相当する鬱多羅僧(うったらそう)=上衣(じょうえ)=七条、及び、作業服に相当する安陀会(あんだえ)=中衣(ちゅうえ)=五条の三種を指す。この「条」とは襞の数ではなく、小さな布を縦に繋いだものを横に何本繋いだかを示す語で、この数が多い方がより正式・高位を示すこととなる)の平服であるが、紋白となると別格であるので注意。

「けさ」「袈裟」。

「一でう」ママ。袈裟の助数詞は「領(りやう)」が正しい。袈裟の部分名である(前注参照)「條(条)」に引かれて誤ったか(「條」は歴史的仮名遣で「でう」である)。

「ちく類」「畜類」。この場合は仏教で言う畜生、一般の獣類のそれ。

「くわへし」ママ。

「うたてさ」嘆かわしいこと。情けないこと。

「飼(かい)」ルビはママ。

「升(ます)おとし」「升落し」。鼠取りの仕掛けの一種。大き目の枡を斜め下向きにして棒で支え、その奥に餌を置いて、鼠が棒に触れると、枡が落ちて捕らえるようにした罠を指す。

「餌にかつうへし」ママ。不詳。但し、一つの可能性として、音読みの「飢(かつ)える」の平仮名書きをし始めながら、当時、既に口語としてあったと思われる「餓(う)える」を「うへる」と誤って(この誤記は筆者に非常に多く見られる)繋げてしまったものかとも思えなくはない。

「かはらけ」釉薬をかけていない素焼きの土器。ここは後のシーンから見て(後注する)中皿ほどのものであろう。

「直(なを)しおき」ルビはママ。「なほし」が正しい。たまたま銜(くわ)えてそこへ漫然と放り出したというのではなしに、何らかの目的があるものと見えて、確かにそれをしっかり銜えて入って来ると、座敷の真ん中へ、きちっと配するように置いたことを言っている。

「しみこみしが」「滲み込みしが」。

「しめり合(あい)」「濕り合ひ」。湿り気を含み始めて。

「八分(ぶ)」実際の単位としての「八分」では、二・四センチメートルとなって、鼠が銜えて持ってくる皿となると、えらく大振りの皿になっておかしいから、これはその中皿の縁一杯になる前の八分目(ぶんめ)の謂いでとっておく。

「床(とこ)の上なる紙一束(そく)」床の間に置かれてあった紙一束。

「不殘(のこらず)、皆、北向(きたむき)に並び、一疋づゝ、右のかはらけの中へ、はいり、四足(そく)を水にひたして、紙の上へ飛(とび)あがり、左の方(はう)へおりて、みなみむきに並(なら)びぬ」南北の意味は判らぬ。単にその踏み絵が終わったものを区別するためと思われる。北面するのは誠実に従属する臣下の君子に対する際の方位であるから、祈誓の姿勢であるとも言えるが、それに拘ってしまうと、南向きの説明が出来なくなる(と私は思う)。

「ふ笑ぶ笑」ママ。原本では後半は踊り字「〲」。国書刊行会「江戸文庫」版では『不笑不笑』(後半は踊り字「〲」)である。まあ、「ふ」は「不」の崩しが最も知られているから、それでもいいが、それではあまりに洒落が狙い過ぎていて、却って厭味があるように感じられるので、私は、かくした。勿論、「不承不承」の当て字である。

『「おのれが番なれば、ぜひなし」といふ體(てい)にて』という描写部こそが、実は直後の顚末の展開よりも、遙かに、本篇の眼目であると私は感ずるのである。怪奇談のキモの部分とは、実際の怪奇現象を引き起こす契機となるリアリズム――その境界的体験――その真犯人の大鼠の怯えた全体の動きやヒゲの震えや、諦めの眼つきが、あたかも現実のそうした人間の仕草のように見えてくる瞬間――異界の現実への侵犯――が起こることにあるのである。これはかの三島由紀夫が評論「小説とは何か」(昭和四三(一九六八)年五月から二年後の一九七〇年十一月まで『波』(新潮社)に連載されたが、著者の自死によって中絶)の中の一節で、「遠野物語」の一節を引いて語っていることと同じである。私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一七~二三 座敷童・幽霊』の「二二」の私の注で引用しているので見られたい。

「鐵火の吟味」これは「盟神探湯(くがたち)」の変形であることが判る。「ブリタニカ国際大百科事典」の同項から引くと、古代において行われた神判法で、「日本書紀」はこれを「盟神探湯」と表記しているが、「くか」は「けが」や「けがれ」と同語で「罪 (つみ)」というに等しく、「たち」は「断」「裁」であって「決定」の意であると考えられる。「隋書」の「倭国伝」には蛇による神判(毒蛇を甕(かめ)の中に入れておき、判ずべき対象者に手で蛇を摑ませ、もし、手を咬まれれば、その者の主張は偽りであるとする神判。古代インドにも毒蛇を用いた同様のそれがあり、貨幣を甕に投じて、その対象人に取り出させるという毒蛇神判があったという)のことが見えているから、「くかたち」なるものは、多種類の神判を総称する語であって、「日本書紀」がこれに「盟神探湯」なる漢字を当てたのは、探湯神判が大和周辺の氏族の間で行われた代表的神判形式であったからであろう。「くかたち」は原則として、裁判に際して、事実の存否が明らかでない場合に両当事者に科せられた。その様式は、第一に「わが言虚なれば,神罰をこうむらん」と誓う宗教的告白過程を行い、第二に正邪を分ける呪術的弁別過程を経て決せられる。その第二の様式はさまざまであり、盟神探湯の場合は、沸騰した湯の中の泥土又は小石を探り取らせ、その火傷の有無によって罪を判定したのであった、とある。私の知っているものでは、熱して真っ赤になった鉄棒を握らせて判ずるというそれを知っており、この言葉はそれによく合致する。

「中間(なかま)」ママ。「仲間」。

「くい破りたる」ママ。

「せんぎ」「詮議」。

「住家住家〔すみかすみかへ〕」助詞の「へ」は私が特に送ったものである。]

 

 住持、是をかんじ、

「誠(まこと)にちくしやうなりといへ共(ども)、物をしる事、人間に、おとらず。物をしるものは、かならず、恩を知れり。」

とて、又、元のごとく、米をまき、餌(ゑ)をあたへて、いよいよ是を愛しぬ。

 誠に、物のせんぎは、人間に取〔とり〕ても、いにしへより、難(かた)き事にして、奉行・頭人(とうにん)の智をつくせり。然〔しか〕るに、今、かれが罪科有〔ある〕をゑらみ出〔いだ〕せし成敗(せいばい)の作法(さほう)、還(かへつ)て、おろか成(なる)人間には增(まさ)るべきものか。

 

金玉ねぢぶくさ七終

[やぶちゃん注:「頭人」ある集団の頭目たる管理責任者のこと。

「かれ」鼠たちを指す。

「作法(さほう)」ルビはママ。正しくは「さはう」。]

2020/09/20

金玉ねぢぶくさ卷之七 伊吹山の水神

 

        伊吹山の水神

Ibukisuijin

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版をトリミングした。]

 江州伊吹山(いぶきやま)には百草あつて、いにしへより、端午(たんご)の朝(あした)、皆人〔みなひと〕、山に分(わけ)入、和藥(わやく)をもとむ。

[やぶちゃん注:「伊吹山」滋賀県米原(まいばら)市(山頂部はここに含まれる)及び岐阜県揖斐(いび)郡揖斐川町(ちょう)・不破郡関ケ原町にまたがる伊吹山地の主峰で最高峰。標高千三百七十七メートルで滋賀県最高峰。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 守山の宿(しゆく)に、玄仲(げんちう)とて醫者あり。ある時、藥草を求むとて、彼〔かの〕山へ入りしに、いづくともなく、猿一ぴき、來り、裾をくはへて引〔ひき〕ければ、玄中、こゝろにおもひけるは、

『さだめて、世につたはらざる名草有〔あり〕て、是を知らしめんため、かくは、するならん。』

と、猿の道引〔みちひく〕かたに行〔ゆけ〕ば、遙(はるか)おく山に至(いたつ)て、一つの洞(ほら)のまへに數(す)十疋のさる、群り集れり。見れば、其中に一ぴき、妻猿(めざる)あつて、たゞ今、さんにのぞめり。しかれども、難產ゆへ、「これをすくへ」とて、我を迎(むか)へし、と見へたり。をりふし、懷中に「さんの藥」并〔ならび〕に「はやめ」を所持しければ、是をあたへしに、事ゆへなく、早速、平さむ、したり。

[やぶちゃん注:「守山」現在の滋賀県守山市(グーグル・マップ・データ)であろう。

「玄仲(げんちう)」ルビはママ。「げんちゆう」でよい。以下の「玄中」などの表記違いもママ。

「さんにのぞめり」「產に臨めり」。

「ゆへ」ママ。

「さんの藥」「產の藥」。漢方系の薬物は多くの症状に対応するものがあり、仕事柄、彼がここで所持していても何らおかしくはない。

「はやめ」「速目」で急性疾患に対応する救急薬か。実は「并」で「ならびに」と読み、「にはやめ」「にわやめ」などの文字列で漢方用語を探ってみたが、見当たらないのでかく処理してみた。誤りとあれば、御教授戴きたい。

「平さむ」ママ。「平產」。]

 

 玄仲それより立歸らんとするに、來りし道をわすれしかば、彼(かの)さるに迎(むか)ひ、

「是より里に出〔いづ〕る道を、しらず。なんぢ、我を迎ふる智惠あり、我を道びいて、始(はじめ)のごとく、里まで、おくり返せ。」

といへば、始迎へに來りし猿、立〔たち〕て、送らんとす。

 既にわかるゝに及んで、中にも古(ふる)きさる、座を立〔たち〕、「難(なん)ざんをすくひし恩を謝する」と見へて、一つの香ばこの口を能(よく)ふうじたるを取出〔とりいだ〕し、玄中にあたへて、「かならず、口をひらきたまふな」といふやうすに見へければ、玄仲、

「此ふたを明(あけ)まじきや。」

と、問ふ。

 彼(かの)さる、うなづいて、さりぬ。それより、道をわけ、ふもとへ下(さが)り、

「もはや、是より先(さき)は、まがひ道もなし。」

とて、彼おくりの猿を、もどしぬ。

[やぶちゃん注:「迎(むか)ひ」ママ。「向かひ」。

「道びいて」「導いて」。

「見へて」ママ。

「香ばこ」「香箱」「香盒」。

「此ふたを明(あけ)まじきや」「この蓋を決して開けてはならぬと言うのじゃな?」。

と、問ふ。

「まがひ道」「紛ひ道」。間違って迷い込むような脇道。]

 

 心ぼそく、獨(ひとり)、道をもとめてたどり出〔いで〕しに、かたはらに大きなる渕(ふち)あり。其まへを通る時は、やうやう暮に及びしが、彼池水、俄(にわか)に動ようして、水中より五斗俵(〔ご〕たうべう)のごとくなる物、あらはれしに、玄中、おどろき、たましひも身にそはず、「觀音普門品(くわんをんふもんぼん)」をとなへ、

『蚖(ぐわん)じや及(ぎう)ぶくかつ。』

と、こゝろに念じて、息をばかりに、はしり、やうやうにして麓の里にいたり、ある人家に入〔いり〕て、家(やど)をもとめければ、あるじ、ふしんを立〔たて〕、其ゆへを、とふ。

 玄中、右のおもむきを、くはしく語りければ、あるじ、聞〔きき〕て、大きにおどろき、

「扨も。せうしなる事どもかな。其池にはぬし有〔あり〕て、神靈(しんれい)、はなはだ、猛(たけ)し。若(もし)、人しらずして、池の邊(ほとり)に至れば、かならず彼(かの)大じやに、とらる。もし、たまたま、希有(けう)にして其場をのがるゝといへども、一度、彼〔かの〕かたちを見たるものは、終にとられずといふ事、なし。御身もこよひ中〔ぢゆう〕には、とられ給ふべし。痛(いた)はしながら、右の仕合〔しあはせ〕なれば、死人に宿(やど)を參らする事、かなひがたし。」

といふ。

 玄中、せん方なく、

「しかれども、最早、夜(や)ゐんに及び、宿を不得(ゑず)ば、いよいよ、其害をのがるゝ事、あたはじ。せめては、家(いへ)の内にて、ともかくも成〔な〕りさふらはゞ、後(のち)の世までの御ほうしなるべし。爰(こゝ)をあはれみ、おぼしめせ。」

と、ひたすらになげゝば、あるじも、あはれの事に思ひ、

「さ程に思召〔おぼしめ〕さば、われわれ一家のものは他所(たしよ)へうつり、御身ばかり、此家〔このや〕に宿〔しゆく〕し參らせ候べし。ずいぶん、佛神へ、きせいをかけ、のがるゝやうに、祈り給へ。」

とて、一家の男女〔なんによ〕、隣家(りんか)へ行(ゆき)、家(いへ)ばかりを借(かし)あたへぬ。

[やぶちゃん注:「動よう」ママ。「動搖(どうえう)」。

「五斗俵(〔ご〕たうべう)」ルビはママ。「ごとへう」が普通の表記。江戸時代の一斗は約二十キログラムであるから、百キログラム相当となる。

「觀音普門品(くわんをんふもんぼん)」ルビはママ。「くわんおんふもんぼん」が正しい。法華経」の「觀世音菩薩普門品第二十五」。観世音菩薩が神通力を以って教えを示し、種々に身を変えて人々を救済することを説き、観音を心に念じ、その名を称えさえすれば、如何なる苦難からも逃れることが出来ることを説く。その中の「蚖(ぐわん)じや及(ぎう)ぶくかつ」は「蚖蛇及蝮蠍」で現代仮名遣で音写を示すと「がんじゃぎゅうふっかつ」で、フレーズとしては以下は「蚖蛇及蝮蠍 氣毒煙火燃 念彼觀音力 尋聲自迴去」(けどくえんかねん/ねんぴかんのんりき/じんしょうじえこ)で、「蚖」(蜥蜴(とかげ)で毒蜥蜴か)や大蛇及び蝮(まむし)・蠍(さそり)のように、毒気(どくき)を煙火が立ち燃えるように吐く邪悪なるものにとりまかれたとしても、ひたすらに観音の力を念ずれば、その声をがあそなたの耳に届いた途端、それらのものは忽ち、走り去る」というのである。

「ふしん」「不審」。

「ゆへ」ママ。

「せうしなる」「笑止なる事」。この場合は深刻な謂いで「大変なこと・奇怪なこと」の意。

「仕合〔しあはせ〕」事情・事態。

「死人」既にして彼がその大蛇に襲われて死ぬことは完全に決まっているものとして主人は対面しながら語っているのである。

「夜(や)ゐん」ルビはママ。「夜陰(やいん)」。

「不得(ゑず)ば」ルビはママ。

「ともかくも成〔な〕りさふらはゞ」「ともかくも泊まらさせて戴けることとなりましたならば」。

「後(のち)の世までの御ほうしなるべし」「それでも、そのように私めが襲われて命を落としたと致しましてても、それはそれ、一宿の恩義は後世(ごぜ)まで貴方さまの恩にご奉仕し致しますことを誓いまする」とでも訳しておく。「御ほうしなるべし」の訳としては我ながら不満があるものの、そもそも喋っている彼自身が激しく動顚しているから、論理的に正しい理屈を尽くして述べているとは私は思っていない。

「きせいをかけ」「祈誓を懸け」。]

 

 玄中、彼家に心ぼそく、たゞ一人、燈(とぼしび)をかゝげ、先(さき)に山中にて猿のあたへし香ばこを取出〔とりいだ〕し、

『「是は、かならず、ふたをひらくな」といひしかど、たとへ如何なるたからにもせよ、今宵(こよひ)かぎりの命なれば、あけて中のやうすを見ばや。』

と、おもひ、ふうを切〔きり〕、ふたをあけぬれば、中より、少(ちいさ)き百足(むかで)一疋、這(はい)出〔いで〕て、壁へ、つたひ、まどへ登り、いづくともなく、はいうせぬ。

[やぶちゃん注:「這(はい)」ルビはママ。後の「はいうせぬ」もママ。]

 

 夫(それ)より、次第に夜ふけ、夜半のころ過〔すぐ〕るまで、別の子細もなかりしが、既にうしみつ過るころに至〔いたり〕て、彼(かの)まどの外にて、おびたゝしく、物のひゞく音し、家も、うごくばかりなれば、

『はや、變化(へんげ)に命をとらるべき刻限になりぬ。』

と、性根(しやうね)も身にそわず、ひとへに普門品を讀誦(どくじゆ)し、命の終るを待居(まちい)けれども、別(べち)の子(し)さいもなく、家鳴(やなり)もしづまり、しのゝめもたな引〔びき〕ければ、邊(あたり)の民家より、人、あまた集り、

「さるにても、こよひのたび人は、水神のために命をとられぬらん。」

と、彼(かの)家に來り、やうすを見れば、つゝがなく、いねぶり居(い)たり。

[やぶちゃん注:『はや、變化(へんげ)に命をとらるべき刻限になりぬ。』心内語とした。こうした最悪の事態を諦観した不吉な内容は言上げしてはならないのが民俗社会の掟であるからである。

「そわず」ママ。「添はず」。

「待居(まちい)」ルビはママ。「居(い)たり」の同じ。]

 

 皆人(みな〔ひと〕)、ふしぎの事に思ひ、彼まどのもとを見れば、宵に、香ばこより出〔いで〕たる百足、一尺ばかり成〔なる〕小へびをくわへて、百足も、へびも、ともに死せり。

 いかなる事とも、其故をしらず。

 それより、彼池に惡神(あくじん)たへて、近隣の村里、永く、わざはひをまぬかれたり。

 

ブログ1,420,000アクセス突破記念 梅崎春生 故郷の客

 

[やぶちゃん注:昭和二五(一九五〇)年一月号『世界』初出。後、作品集「黒い花」(同年十一月月曜書房刊)に収録。

 底本は「梅崎春生全集」第一巻(昭和五九(一九八四)年五月刊)に拠った。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。一部に注を附した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログがつい数分前、1,420,000アクセスを突破した記念として公開する【2020920日 藪野直史】]

 

   故 郷 の 客

 

 こんど僕が帰郷したのも、故郷にある家族をまとめて、上京の手筈をつけるのが、第一の目的だった。こんな時代だから、いっしょに東京で生活する方が都合いいに決っていたし、たとい故郷とはいえ、ばらばらに離れ住むのも意味ないことに思えた。そうだ。実のところ、生れ育ったこの故郷も、僕の胸のなかでは、今かんがえると、ほとんど意味をなくしかけていたんだと思う。自分に故郷があること、それすら、僕にはなにか滑稽なことに思えたし、また幾分小うるさい感じでもあったのだ。家族を引きあげるきっかけも、ひとつはそこにあったんだが。

 とにかく僕らは三四日かかって、家財一切の荷づくりに従事した。家財と称するほどの品物もないのだが、しかし無いように見えても、いざ荷につくって見ると、相当のかさになるものだ。もっとも荷物の大部分は、いろんながらくたで占められていたのだが。生活に直接必要でないものは、人にやるなり売るなりするように、僕はなんども注意したのだが、家人にしてみれば、共に住みついた道具類を手離すことは、わけなく辛いらしいのだね。つまらない軸物や、使い古した噴霧器のたぐいまで、荷づくりしようとするのだ。そのために僕らは、小さないさかいを、幾度か起しかけた。

 やっとのことで、一切を鉄道の小荷物に托すと、同時に家人も上京させた。僕ひとり残った訳だ。久しぶりに見る故郷だし、この度で実際上の縁も切れて、又いつ来れるとも判らないことだから、あちこちゆっくり眺めて置きたかったし、昔の友達にも逢って行こうとも思ったのだ。家人と荷物を東京へ送り出すと、急にその思いが強くなった。

 僕は反対行きの汽車に乗って、すぐ近くの都市の駅で降りた。この都市は、この九州でも、相当大きな街なのだ。この街で僕は生れ、育ち、中学校を卒栗したんだ。僕にとっては、いろいろと思い出もある、なつかしい故郷の街である筈(はず)だった。

 古風な建築の駅に降り立ち、トランクを下げたまま、僕はぶらぶらと街にあゆみ入った。どこを訪ねるというあてもなく、ただ足の向くままに、そこらを歩き廻ったのだ。そう。二三時間も、ぶらぶらと歩き廻ったかしら。

 そしてそこで、僕は自分のなつかしさを満足させただろうか。いや、そういう訳には行かなかった。時間が経つにつれて、へんに物憂(う)い疲労が、しだいに胸にかぶさってくるのを、僕は感じ始めた。それは何とも言えないダルな心の状態だった。どこかぴったりしない。どことなくしっくりしない。何故だろう。何故だろう。胸の中でいらいらと呟(つぶや)きながら、僕は街から街へ、旅人のように歩いていた。そうだ。疲れた旅人のように。

 東京に住んでいる眼から見ても、この街はかなり原色的だった。南国の陽の色のせいもあるだろうな。建物や立看板の色。それが戦争前の、僕が知ってるこの街の感じとは、どこか少し違うのだ。建物のひとつひとつには、これは何銀行、これは何々ビルと、記億ははっきりあるのだが、それらが構成する街のたたずまいは、僕の感じを妙に隔ててくるのだ。歩いている小路の名も、横切った交叉点の名も、渡った橋の名も、思い出すまでもなく知っているのに、どことなくしっくりしない。異郷をあるいてるような感じなんだ。記億と現実が、どこかでずれ合って、二重うつしになっている。それは僕をやわらかに融けこませる代りに、ひややかに突離す気配を含んでいるのだ。僕はなおも歩いた。これが、故郷の街か。このよそよそしい、親しみにくい、原色的な街が。

 やがて僕は神経がいらだち、またひどく疲れ、とぼとぼと駅の方角に戻り始めた。戻りながら始めて、今の自分の疲労が、見知らぬ街を歩いた旅人の疲れと、同質なものであることに気がついたんだ。もうこの街と、僕の感情を、現在にむすびつけるものは何もない。そういう悔恨に似た感情が、にぶく僕の全身を押しつけてきた。

 古旗という男と逢ったのも、そういう状態のときだった。駅の待合室に腰をおろし、僕は疲れた四肢をやすめながら、汽笛の音を聞いたり、出入りする人々の姿をぼんやり眺めていた。荷物を東京に送り出したことなど、ずっと昔のことのように思えた。頽(くず)れた旅情が僕を充たしていた。――そしてふと僕は、僕の前にかけている男の姿に眼を止めたんだ。どこかで見たことのある顔だ、と直ぐ頭に来た。その男はベンチに浅く腰をかけ、両膝をきっちりとそろえて、蜜柑(みかん)をしきりに食べていた。うつむき加減の、その鼻や額のかたちに、僕の記億が突然はっきりよみがえった。

「古旗!」

 男は顔をあげた。僕を見た。そして妙な表情をした。なにか力(りき)んだような表情だった。僕であることが、判らないんじゃないか。そう思って、身体を乗り出そうとしたとたん、彼はかすれたような声を立てた。

「ああ。お前か」

 やはりそれは古旗だった。少し老(ふ)けた感じは加えていたが、広い額の輪郭や、張った耳たぶの形は、五年前とあまり変ってはいなかった。あの海兵団で、一緒にくらした頃の顔かたちと。

 さっきも書いたような気分の状態だったから、僕は特に人なつかしい気持になっていたに違いない。少しばかりいそいそと立ち上って、僕は古旗のそばに席をうつした。そしていろいろと、話しかけ始めたのだ。まるで、逢いたいと思ってた人間に、やっとめぐり会えたような調子で。

 ところが僕のこの状態も、今思えば、物憂い疲れの反動としての、あぶくみたいな心のはずみだったのだな。実を言えば、古旗という男のことを、終戦後僕は、ほとんど想い出していなかったのだから。ここで逢いさえしなければ、或いは一生、僕の脳裡にこの男のことは、よみがえらなかったかも知れない。――そして、僕がその時別の心の状態にあったなら、今思えば、古旗と認めながら、見て見ぬふりをして、そっと立ち去ったかも知れないのだ。

 僕のはずんだ話しかけに、古旗はすこしずつ受け答えた。始めはなんだかはっきりしない、張りのない受け答えだったが、だんだん調子を取りもどしてくるように見えた。そしてむこうからも、僕の近況を訊(たず)ねたりしてきた。五年の歳月をおいて、白けた状態がすこしずつ埋ってくる感じだった。やがて僕らは割と自然に、海兵団当時のように、「おれ」「お前」の呼称で言葉をかわしていた。

 古旗の話によると、彼は今、この都市からちょっと離れた郊外の海岸に住んでいるらしかった。小学生の頃、しばしばそこらに遊びに行ってたから、僕はその辺のことをよく知っていた。海の水のきれいな、景色のいい海岸だった。その部落の名を耳にした時、僕はひどくなつかしい気がした。忘れていた童謡の一節を、思い出したような気がした。

「ああ、あそこは景色のいいところだ。も一度行って見たいよ」

「景色なんか、良かないさ」

 投げ出すような口調で、古旗は答えた。そして、蜜柑の食べかすを、まとめてベンチの下に入れながら、今からどうするつもりだ、と僕に訊ねた。僕もここで疲れを休めてはいるものの、はっきりした予定はなかったのだ。

「雲仙(うんぜん)にでも登ろうかとも考えているんだ。あそこには、まだ行ったことはないのでね」

「雲仙?」

 時間表を見上げて、古旗は一寸首をふった。なにか老成した仕草だった。変にそぐわない感じを、それは僕にあたえた。

「今からじゃ、連絡がわるいよ。一晩ここに泊って、明朝出直したがいい」

「この街に泊るのは、なんだか厭(いや)なんだよ、おれは」

 つい僕は本音(ほんね)を言った。

 古旗はちょっと訝(いぶか)しそうな顔をしたが、別段なにも問い返さなかった。時刻も夕方に近かった。窓から入るよごれた斜陽が、待合室の塵埃(じない)を縞(しま)に浮き上らせていた。それを眺めていた古旗が、ふと顔を上げた。

「おれんとこに泊ってもいいよ、なんだったら」

 そして取ってつけたように、つけ加えた。

「戦友だからな、とにかく」

 古旗はへんな笑いを頰に貼りつけていた。ぎくしゃくしたような笑いだった。こんな笑い方は、昔の古旗は絶対にしなかった。

 こういういきさつで、僕は古旗の家に一晩泊めてもらうことになった。どこへ泊るというあてもなかったし、どこへ泊っても同じことだったから。古旗の誘いを拒む因子も、その時の僕には別段なかったのだから――やがて汽車が来て、僕らはそれに乗った。古旗の家まで、汽車で二駅ほどあるのだ。

 ふしぎなことだが、泊めて貰うと決ってから、僕は古旗にたいして、何にも話題がなくなったことに気が付いた。何も話しかけることがないのだ。満員だったから、汽車のデッキに立って僕は黙って外の景色を眺めてばかりいた。あてはなかったと言うものの、つい古旗の家に泊る気になったのは、すこし、軽はずみではなかったか。そんなことを僕は考えた。古旗が僕を誘ったのも、単に儀礼的なそれで、ほんとは泊めたくはなかったのかも知れない。そう言えば久しぶりに会ったにしては、古旗はあまりはずんで来なかったようだ。どこか白々(しらじら)しいところを残している。それがしだいに僕には気になってきた。

 久しぶりと言ったって、考えて見ると、僕と古旗とは五年半前に、ただの二十日間、海兵団で同じ生活をしただけの間柄なんだ。それ以前も相知らなかったし、その後もめぐり逢うこともなかった。ほとんど忘れてさえいたんだ。長い人生から言えば、道ですれ違った程度の関係と、あまり変らないと言えるのだ。

 しかしまた、別の意味からすれば、あの二十日間は、僕らにとって何年という長さに匹敵したとも言える。なにしろ令状一本で引っぱられ、軍隊のことは西も東もわからない連中が、海兵団にひとまとめにされて、いきなりピシピシいためつけられた二十日間だったのだから。規律も風習もちがう異質の世界に、僕らは裸で入って行ったようなものだった。

 だからこそ、僕らはすぐ緊密に結び合ったんだ。裸の雛(ひな)がよりそうように。生れも育ちもちがう応召者たちが、個人差をこえて結び合えたのも、今思うと、共同防衛という生物本能が強く働いたに違いない。軍隊というところは、明かに不合理な生活の強制なのだから。もちろんその結び合いにも、個々を探れば、微妙な濃淡はあった。奴隷(どれい)には団結はないが、奴隷から食(は)み出した部分で、僕らはつながっていた訳だ。そしてその結び合いを、僕はときどき、古くからの友情と錯覚したりしたものだが。

 古旗との結びつきも、そうなんだ。古旗は僕と同年配だった。その頃三十前後だった。体軀はそう立派でなかった。もっとも皆、丙種国民兵というやつだからな。しかし同輩にくらべても、古旗の身体は弱々しい感じだった。船会社の事務をとっていたと言うのだが、広い額やせまった眉が、この男の感受性のするどさを、どこか見せているようだった。班内でも、割とはきはきした口をきく方だったし、率直(そっちょく)な性格と思われた。この年配になると、人間は大てい生活のよごれを身につけてくるものだが、彼にはその翳(かげ)が少なかった。

 僕の記臆では、あの隊内で、一番先になぐられたのが、古旗だったのだ。入団の翌朝のことだった。

 前の晩に、海軍生活の基本として、僕らは吊床の操作を教えこまれたのだ。それから寝に入り、慣れない寝ぐるしい一夜がすぎた。翌朝、夜のしらじら明けに、甲板下士官が見廻りにきて、大声でどなった。

「誰だ。総員起しの前に、吊床をくくってる奴は」

 僕はその声で眼をさました。のぞいてみると、吊床をくくっていたものは、五六人もいるらしい。あわてて繩を解いて、中にもぐり込もうとしているようだ。そして一番通路側にいた古旗が、不運にも、甲板下士にとっつかまった様子だ。古旗はデッキに立って、きょとんとしていた。そして言った。

「何故、吊床をくくっては、いけないのですか」

 この質間は、間がぬけている。しかしその当時は、僕にも判らなかったんだ。起床ラッパが鳴って、それでも吊床を上げないと言うのなら、叱られる理由にもなるが、これはその反対なのだ。朝早く眼をさまして、寝具を上げることが、なぜ悪いことなのか。眼をさましているのに、寝床にぐずぐずしているのは、今までの生活では怠惰(たいだ)という悪徳だった。なにっ、と下士官は怒った。

「入団早々、ずるけることを考えやがって」

 棒で尻をうたれたのは、だから、古旗だけだった。あとの奴は、要領よく、吊床にもぐりこんでしまった。悲壮な顔をして、古旗は棒をうけた。殴られながらも、ずるける、という意味が、彼にはよく判らなかったに違いない。僕にもその時判らなかったのだから。

 この事件が、不合理な生活の強制の、先駆だったと思う。僕らはあとで、食事休みか何かの時に、古旗の尻に薬をつけてやったりしたものだ。尻は赤黒く棒のあとを印していた。僕らは自分が持っている私物の薬を、全部出してもいい気持になっていた。最大限のなぐさめの言葉すら、僕らは彼に濫発(らんぱつ)した。結局それらの言葉で、僕らは僕ら自身をなぐさめていたに過ぎなかったが。

 僕らの結びつきは、このような感情の過剰な消費にも、多少は支えられていたようだ。だから、一緒に入団した同輩たちが、すこしずつまとめられて、他の配置にうつって行くと、つい先日顔見知りになったばかりなのに、別れの切なさが胸に湧いて、衣囊(いのう)の整理を手伝ってやったり、手帳に住所をせっせと控えておいたりするんだ。もう逢えないと思うのに、なぜ住所を書き取ったりしたのだろう。書き取っておかねば、一大事であるかのように。

 古旗の感情にも過剰な傾きはあったようだった。もともと人なつこい性質で、人の世話をするのは好きなたちらしく、そういう点ではこまめに動いた。同輩の受けもよかっただろうと思う。体力の弱さから来るマイナスを、そういうことでカヴァしているようだった。

 食糧運搬の作業をやらされたことがある。トラックで来た食糧を、烹炊所(ほうすいじょ)までかついで運ぶのだ。僕らのような者にとっては、ひとかたならぬ難事業だった。農村出身の者ならいざ知らず、重い物をかつぐ習慣のない僕らを、そんな使役(しえき)に出すのは、元来無理な話なんだ。かついだまま、一町ほども歩かねばならないのだ。

 米袋をかつがされて、真蒼になってよろめき歩いている古旗を、うしろから助けてやったことがある。その時僕のかついでいたのは茶が入った袋で、さほど重くなかった。だから余力もあったのだ。僕が左手で古旗の袋を助けてやると、古旗は汗にまみれた青い顔をむけて、ちょっと唇をうごかした。言葉も出ないような風だった。頭からぴょこんと飛び出した耳たぶが、黒っぽくよごれているのが、なか印象的だった。汗づく瞼のしたで、瞳だけが強く訴えるように、ぎらぎらと光っていた。

 そのような表情を、その後僕は、いろんな兵隊の顔に、何度も見た。強制された肉体の苦役(くえき)に堪える顔だ。反抗と諦(あきら)めとがない交(まじ)って、むなしく内側に折れこんだような表情だ。ある一定の条件におかれると、人間は皆同じ表情をするものだな。むろん僕自身も、自分で見る訳には行かなかったが、そんな表情を、終戦までに、何十度となく浮べたことだろう。――とにかく、体力が貧しいということは、この世界では、いろんな意味で決定的なことだったから。

 汽車のデッキに立ち、過ぎ行く夕方の景色を眺めながら、僕はいろんなことを、とりとめもなく考えていた。古旗はというと、やはり僕に並んで、背を扉にもたせ、黙りこくっていた。車輪の音が、すぐ足の下で、轟々(ごうごう)とひびいていた。僕はその時ふと、最後に古旗と別れた日のことを、紐をたぐるように思い出した。

(ああ、この襯衣(シャツ)だ!)

 思わず僕はそうつぶやいた。

 その二十日目に、僕は三十名ほどと一緒に、他の海兵団にうつされることになったのだ。出発準備のどさくさで、僕は自分の衣囊の中に、支給された襯衣が一枚足りないのを発見したんだ。大変だ、と僕はあわてた。一枚でも足りないと、どんな事になるか、もうその頃は僕も知っているのだから。僕はすっかりしょげて、青くなった。

 その時、自分の襯衣をもってきて、僕に押しつけたのが、この古旗だったのだ。僕は一応は辞退した。すると古旗は怒ったように、ますます押しつけた。

「馬鹿言え。むこうに行くと、すぐ衣囊点検があるぞ。持って行くんだ」

「だってそれじゃ、お前が困るだろう。いいよ」

「おれは残留だから、どうにでもなる。早くしろ。出発時刻だぞ」

 なにしろ時刻は迫っていた。僕は受取った。衣囊にしまって、あわてて駆け出した。いろんな感情で、身体がほてるような状態だった。米袋を助けてやった礼心にはすこし大きすぎた。――そして兵隊としての古旗との交渉は、これが最後だったのだ。

 その襯衣を終戦まで、僕は持って廻り、復員する時、持って帰ってきた。実はこの度の帰郷にも、下着としてそれを着ていたんだ。今時これを着ていると言うのも、貧乏で新しく買えないためでもあるが、この襯衣が昔出来の純綿で、ごく丈夫なせいでもあったのだ。

 そうだ、この襯衣は古旗から貰ったんだ。それが肌にあたる感触をたしかめながら、僕は古旗の顔を何となくぬすみ見ていた。気持が急速に彼に近づくのを、そしてその瞬間、僕はかんじていた。しかし、その近まりも、なにかしら不安定で、束の間に消えてしまいそうな感じだった。古旗の無表情な横顔が、僕の視野の端にあった。家まで押しかけて泊るという意識、話しかける話題がないという重さ、それらが一緒になり、漠然としたわだかまりとなって。旧知の海岸を見にゆく僕の心のはずみを、やはりにぶく押えつけてくるようだった。軽い悔いに、それは似ていた。

 しかしたかが一夜の宿を借るに、僕になにの悔いることがあったのだろう。僕は旅人というエゴイストなのだから!

 

 駅を降りて、古旗の家につく頃は、もう陽もすっかり落ちていた。そこら一帯を、磯くさい夜風が流れていた。小さな古い家だった。通された部屋の小さい床の間には、釣竿が大小束ねて立てかけられていた。電燈の光は黄色くすすけて、うす暗かった。

「おれは近頃、漁師なんだ」

 卓を対して坐ると、彼はそう言った。

「それで生計を立てているんだよ」

 会社の方は止めたのだ、と彼は口少なに説明した。

「復員してくると、会社も変な具合になっているしさ。皆、ばらばらだ」

 ばらばらという言葉を、彼は力をこめて発音した。嫌悪の念が、その語調に滲(にじ)んでるようだった。

「こうやって坐ってると、何だか変だな」

 と僕は言った。あの古旗が家を一軒もっていて、生活人としているということが、僕には変な感じだったのだ。妙に現実感がなかった。現実感がなくとも、彼は眼の前に坐っているんだからな。しかしあの海軍作業服を着ていた頃よりも、少し肉がついて、弱々しさがなくなったようだった。漁師をやっているというから、そのせいかも知れないと思った。でもやっぱり変だ。

「何が?」

「いや。向い合って見ると、別段話もないものだね」

「そんなものだよ」

 と古旗はかすかに笑った。電燈がうす暗いので、なんだか能面みたいな笑いだった。暫(しばら)くして彼は、ちょっと、と立ち上った。

 話すことは沢山ありそうな気分なんだが、いざ口に出す話題は、ほとんどなかった。でも、それが当然だろう。現在の環境もちがうし、過去の経歴もちがうし、共通したあの二十日間も、お互いの生活の属性をふり捨てたところで、ふれ合っただけなんだから。いわば扮装した俳優として、そこだけの約束で、舞台で出逢ったようなものだったんだ。だからこそあの期間を、僕らはこだわり無く結び合えたとも言えるのだが。

 やがて古旗が小さな壺を下げて、戻ってきた。

「手製だよ」

 それは焼酎(しょうちゅう)だった。濁りをすこしとどめていたが、舌ざわりはきつかった。ここらの部落は、半農半漁なので、こんなものも出来るのだろう。僕らは飲み始めた。

 僕らは少し酔った。酔うと舌もなめらかになり、会話もうまく流れてくるようになった。家族もろとも、東京に引きあげるいきさつを、僕は話していた。焼酎のなまぐさい匂いも、さほど気にならなくなった。古旗はときどきうなずきながら、干魚をつまんでいた。

「先刻、あの街に泊るのは厭(いや)だと言ったのは、どんな気持だね」

 僕はそれを説明しようとした。気持の核を摑めそうで、仲々うまく摑めなかった。僕はあれこれと言葉を重ねたようだ。

「言葉も厭だよ。あの方言は」と僕は言ったりした。「土地の厭らしさが、そっくり出てるよ」

「お前も使ってた訳だろう」

「そりゃそうさ。でも厭だな。今日歩いて見たんだが、街の感じもずいぶん変ったようだな」

「焼けたからね。焼け跡に、映画館がぞろぞろ建ったよ。戦争を境にして、なにか荒(すさ)んだようだ」

 古旗がいた船会社も、その街で焼けたということだった。

「しかしお前も、今度でここと、繫(つなが)りがなくなる訳だな」

「まあそうだね。そのせいかな、しっくりしないのも」

 古旗は咽喉(のど)の奥で笑ったようだった。

「異郷に異客となる、という言葉があるが、お前の場合は、故郷に異客となったようなもんだな」

 僕もわらった。うまく言いあてられたような気もしたからだ。しかし異客となることを、むしろ望んでたのではないかという思いが、その時ちらと僕の頭をかすめて通った。

 それから暫く、僕らはこの土地についての雑談を交した。おおむね悪口が多かった。古旗も時にはそれに和した。他の悪口を言いながら酒を飲むのは、気持を安易にするのに適当な方法だが、この夜もそんな具合に進行したようだった。ようやく酔いが発してきて、気持の抵抗がだんだん無くなってくるのを、僕はかんじた。先程からの、漠然としたわだかまりが、酔いと共に、胸から消えてゆくのが、はっきり判った。いつか僕はゆっくり肩を落して、盃(さかずき)をほしていた。

「しかしあの頃の連中で、あの街に住んでるのもいるんだろうな」

 悪口の果てに、僕はふとそんなことを思った。あの頃の住所や名前を控えた手帳を、僕はまだ保存しているのだが、こっちへは持ってこなかったんだ。古旗の住所もたぶん、それに書き取ってあった筈だ。住所をしらべて訪ねようというほどの気持も、僕にはなかったからだが、いま酔いの感傷も手伝って、借しい忘れ物をした感じにおちていた。

「逢って見たいな。も一度」

「こうしてると、お前ともだんだんぴったりしてくるな」

 と古旗が言った。彼の口調も、すこし舌たるく、早口な感じになってきた。それは妙に、五年前の古旗を感じさせた。酔いが声を若くするらしい。

「いろいろ思い出すよ。あの時のことを」

 そう言いながら、なにか確かめるような眼付に作って、僕の方をしきりに眺めた。広い額があかくなって、艶々しく光を弾(はじ)いていた。

「莨(たばこ)を一箱、分けてくれたことがあったな。あの時は、ほんとにたすかったよ」

「そんなことがあったかな」

「そら、ネッチング寄りの衣嚢棚でさ。お前のはそこだっただろう」[やぶちゃん注:「ネッチング」netting。海軍でハンモックをロープで縛り上げる動作を指すが、ここはそれを括り終えた後に収納する場所を指す。]

 彼に莨をやったことは、僕の記億に残っていなかった。しかしその言葉で、海兵団の甲板の風景が髣髴(ほうふつ)とうかんできた。[やぶちゃん注:「甲板」兵舎の廊下を言う海軍用語。]

 ふしぎなようだが、僕らはそれまで、ほとんど軍隊のことを話に上せていなかったんだ。海兵団で別れたあとのお互いの状況を、かんたんに訊ね合っただけで、詳(くわ)しいことは触れ合わないでいた。久し振りに逢った軍隊の仲間とは、時として、それに触れ合うのが大儀な気持になることはあるものだ。大儀? いや、それよりもっと深い、折れ曲った気分なのだが。古旗もその時は、強いて話したがらぬ様子だったんだ。駅の待合室で軍艦に乗っていたことを、彼は浮かぬ口調でもらしただけだった。

 しかし今は自然に、古旗が始めて殴(なぐ)られた話を、僕は持ち出していた。幾分ひやかす調子もあった。その後もぶたれたかい、と僕が訊(たず)ねたとき、古旗はうつむいたまま、掌をかるく盃にふれていた。何か考えてる風だった。

「そんなもんじゃなかったよ」

 暫くして彼は低声で言った。そして顔を上げると、早口で怒ったように話をついだ。

「島田というのがいただろう。四国から来た。艦がやられて総員退去のとき、あいつは鉄板にはさまれて動けなくなったんだ。両掌で鉄板を、しきりにたたいていたよ。血だらけになった掌で、いつまでも。いつまでもわめきながら」

 急に話し止めた。そして盃を一息にあおった。少し経って、また静かな声になって、思い直したように間いかけた。

「お前は内地勤務だったな」僕は侮辱されたような気がした。

「ずいぶん死んだのもいるわけだな」

 しかし僕は自分に言い聞かせるように答えていた。

「生きて帰ったやつも、ずいぶんいるよ。ここにも、二人」

 と言いながら、古旗はひきつったような笑い声をたてた。

「あの街にも、三人ほどいるよ。逢いたいかい」

「ああ、今なら逢いたい気もするな。そろそろ酔ってきたせいかな」

「雲仙に登るって言ってたな、お前」

 と古旗はつっぱなすように、

「あそこには、箱崎がいるよ。覚えてるだろう。箱崎屋という旅館をやっているんだ。寄って見るといい」

「昔の連中とも、時々は逢うのかね」と僕は訊ねた。

「いや」と古旗は笑いを浮べた。妙に惨めな感じのする笑いだった。「街で時々すれ違う程度だよ。わざわざ訪ねては行かん。すれ違っても、知らん振りをしたりする」

 白日の街を、旧友がそっぽ向きながらすれ違う状況が、僕の想像にやすやすと浮んできた。それは僕の気持に、なまぐさい程近接してきた。

「そういうこともあるだろうな。お互いにあれから、少し皮下脂肪をたくわえ過ぎたんだよ」

「いろんな事を思い出すのが、俺には厭なんだ。ほんとに厭なんだ」

 強い語気だった。古旗は光から顔をくらくそむけて、壺をかるく揺っていた。二人で相当飲んだから、もう残り少なになっていた。それを二人のに注ぎ分けながら、ちょっと間を置いて、彼は声を落してつぶやいた。

「――しかし、その癖、おれは時々、郷愁みたいなものを感じるんだよ、あの頃に」

「あの頃?」

 しかし古旗は、卓に掌を支えて、立ち上った。影が壁にゆらゆらと揺れた。

「も少し飲むか」

 もう充分だと思ったけれども、古旗は裏に降りて、また壺に満たしてきたらしい。あたりは静かになって、遠くからしずかな浪の音がきこえてきた。

 それから暫く、僕らはこの海岸のことなどを話し合いながら、新しい焼酎を飲んだ。そして僕らはすっかり酔った。何の話をしていたかも、うまく思い出せない。秋にしては、へんに生暖い夜だった。雨が来るんじゃないか、などと話したりしたようだ。雨が降ると雲仙もだめだろう、などと。僕は上衣を脱いで、しきりに何かしゃべっていた。どこで引っかけたのか、ワイシャツの釦(ボタン)がぶらぶらとれそうになっていて、無意識に指で千切ろうとした時、酔った意識にもふと、下に着た海軍襯衣のことがひらめいた。

「これはお前から貰ったやつだよ」

 釦を外して、胸をはだけながら、僕はたたいて見せた。襟(えり)が黒い筋になっていて、背中で釦をとめる。あの型の襯衣だ。洗いざらしになってはいるが、裏には、佐召水何号という兵籍番号と、古旗なにがしの名前が、墨色うすく残っている筈だ。古旗は眼を据えて、僕の胸を見た。僕はなにか、意地悪な気持になっていた。[やぶちゃん注:「襟(えり)が黒い筋になっていて、背中で釦をとめる」ネットでかなり探して見たが、画像がなく、どのような型式のシャツなのかは判らなかった。「佐召水何号」の「佐」は佐世保海兵団のことで、「召水」は召集水兵の略であろう。]

「いやなものを着ているな、今どき」

「お前が呉れたんだよ。覚えているだろう」

「じや戻して呉れ、おれに」

 酔いのため彼の眼は、糸みみずみたいな血管を浮かしていた。

「しかし内地勤務とは、楽をしたものだな。官給品もそっくり持って帰ったという訳だな」

「でもほとんど売りつくしたよ。残ってるのは、これだけさ」

 

「釦をかけろよ」と彼は掌をくねくねと振った。「その襯衣は、お前の顔に似合わんよ」

「そーでもないさ。昔は着てたんだから」

「昔は、そうだろう。でも、あまりいい恰好(かっこう)じゃなかったぜ、お互いに。――ちよっと脱いで、こちらによこせよ」

 僕はしかし釦をかけようとした。すると古旗は急に、こちらによこせと言って聞かなかった。へんにしつこい口調だった。

「これを脱ぐと、おれは寒い」

「代りのを出してやるよ。けちけちするな」

「じゃ、東京に着いたら、小包みにして送るよ。洗濯してな」

「それならもういいよ。小包みにしてまで、やりとりする代物(しろもの)じゃない」

 はき出すような口調だった。しかしこの襯衣を見て、彼はいろんなことを思い出したらしかった。

「その襯衣をうしろ前に着て、叱られた奴がいたな。何と言ったっけな。名前は忘れた。引率外出のときの演芸会で、そら、炭坑節をうたったやつ」

「そんなことがあったなあ。思い出すよ。まだ生きているかなあ。あんなのも」

「どこかに生きてるだろう。でも当人は、襯衣をうしろ前に着たことも、炭坑節をうたったことも、すっかり忘れてるかも知れん。みんな忘れてしまって、今どこかで、平凡に暮しているさ」

「何と言ったけな、あいつ」

 風貌はうかんでくるが、名前がうまく出てこなかった。酔うとよくある気持だが、それがひどく重大なことに思われて、思い出そうと僕は無意味な努力をしていた。

「当人が忘れているのに、おれたちが覚えてるとすれば、これも変なものだな」

「そういう事になるかな。順ぐりの指名だったから、お前もおれも歌った筈だな」

「忘れた。うたうような歌が、あの時あったかなあ」

 古旗はうしろに手をついて、眼を閉じていた。耳まであかくなっていた。そのままの姿勢で唐突に言った。

「おれが歌おうか」

「ああ、歌えよ」僕は反射的にこたえた。

 彼は身体を起した。眼を閉じたまま、調子をとりながら、いきなりうたい出した。

 それは「艦船勤務」という歌だった。僕は酔った頰を、平手で打たれるような気がした。

  四面海なる帝国を

  守る海軍軍人は……

 抑揚も怪しい、乱れた呂律(ろれつ)だった。歌というより、意味なく叫んでいるような声だった。僕は卓に掌をおいたまま、だまって聞いていた。なにか過剰な状態に、自分が今いるのを、僕はぼんやりと自覚した。嘔きたいような厭な気分が、そこにあった。漠然と古旗を嫌悪する自分と、古旗から嫌悪されている自分とを、僕はその瞬間二重に意識していた。

 一節だけうたうと、古旗は断ち切るように歌い止めた。濁った声で、低くわらい始めた。[やぶちゃん注:「艦船勤務」作詞は大和田建樹・佐々木信綱、作曲は瀬戸口藤吉。YouTube carl lin 林氏のこちらで歌詞全部と実際の歌唱を視聴出来る。]

 それからへんに惨めな沈黙がきて、僕らはそれぞれ暫く、盃を唇にはこんでいた。

 そして僕は急に、なにかやり切れないような気持になって、壁につきあたるように、どもりながら口をひらいた。

「今日、駅で会った時ね、す、すぐ、おれだと判ったかい。判っただろう」

「判ったよ。顔さえ見れば、すぐ判るさ」

「じゃ何故、あんな顔をしたんだい。あのとき」

「どんな顔したと言うんだい」

 しかしそう言いながら、古旗は眉をしかめて、ひどく嫌悪の表情をたたえた。掌をくねくねと眼の前でふった。

「そんな話はやめて、お前もなにか歌えよ、酒飲んだら、たのしく歌うもんだ」

「お、おれは芸なし猿だよ。昔から」

「こら。歌え。余人ならず、このおれが頼むんだ」

「よし」

 僕はなにか突然、ひどく意地悪な気持になって、坐りなおした。一言一言を、押しつけるようなつもりで発音した。

「戦友の、頼みというなら、うたってやる」

 その前後、古旗がどんな表情をしていたか、はっきり思い出せない。いや。思い出せないことはない。でも僕は同じ歌を、くりかえしくりかえし、歌っていたようだ。うたっている中に、ひとりで歌の世界に入りこんで、僕は身体をかたむけ、眼をつぶって、歌いつづけていた。異郷にある切なさが、僕の気分をかり立てていた。

 夜も相当ふけていたと思う。外出していた古旗の母親が戻ってきたのは、それから程なくだっただろう。

 次の間に母親がしいて呉れた、ごわごわした木綿(もめん)布団に、顔をそっくり埋めて、僕はいつか溺れるように眠っていた。

 翌朝、眼がさめたときは、まだ頭に重い芯(しん)が残っていた。今朝獲(と)れたという小魚をおかずにして、僕は遅目の朝飯を御馳走になった。僕らは口数少なく、食事をすませた。

 古旗が教えた汽車の時刻に、間に合うためには、すこし急ぐ必要があった。玄関で、一夜の宿の礼を述べる時、僕はへんに言葉の抵抗を感じた。感謝の気持にいつわりはなかったが、言葉にすれば白々しくなるのが感じられたのだ。

 だから駅までの村道をいそぎながら、僕は道ばたに、しきりに唾をはきちらした。昨夜の酒のせいか、唾は白くねばって、顎にくっついたりした。

 

 しかしこの雲仙行は、完全に失敗だった。

 旅の愉(たの)しさが、そこにはほとんど無かったんだ。強いて挙げれば、大牟田(おおむた)から島原への汽船の甲板から、夕陽を浴びた雲仙岳、右手に多良岳(たらだけ)経(きょう)ヶ岳(たけ)の遠望が、僅かに心をなぐさめた位なものかしら。

 雲仙に着いたのは、日もとっぷり暮れていた。島原から出たバスは、満員だった。島原の船着場の女事務員が、ひどく不親切で、ろくに教えても呉れなかったから、僕はまんまとバスに乗り遅れたのだ。次の満員バスのすみっこに、僕は顔をしかめて、押しつけられていた。

 箱崎屋は、すぐに判った。バスの停留場から、二丁ほどもあった。硫黄の匂いのする道をあるきながら、よっぽど他の旅館に泊ろうかとも考えた。しかしとうとう僕は箱崎屋の玄関に立っていた。

 宿帳をつけるとき、僕は偽名を書いてしまった。いざ泊るとなると、箱崎に逢うのが、変におっくうになったんだ。疲れていらいらしていたせいもあるが、それだけでは無かった。

 丁度時季でもあったが、団体客が多いようだった。箱崎屋にも、そんな一組が泊っていた。レコードを鳴らして廊下でダンスをやったり、各部屋で酒を飲んで騒いだりしていた。そのやり方は、ひどく傍若無人だった。二十歳前後の若者たちだった。女中に訊ねると、K県の税務講習生だと言う。つまり税務官吏の卵なんだ。しかし廊下ですれ違って見ても、野卑な感じの若者が多かった。

 僕はおそくまで、眠れなかった。そいつ等が、いつまでも騒ぐからだ。すこし静かになったと思うと、いきなり蛮声(ばんせい)をはり上げたりする。自ら楽しんでいるというより、厭がらせにやっているとしか思えなかった。しかし疲れていたので、やがて僕もうとうととした。そしてそいつ等の、最後の大合唱で僕はぎょっと眼がさめた。

 その歌が「海行かば」だった。酔っただみ声が、不揃いで乱れているので、かえってファナティクな感じを強く伝えてきた。

 僕は寝床に起き直って、湯ざめした体が慄(ふる)えだすのを感じながら、その合唱を聞いた。昨夜古旗の軍歌を聞いた時とは、別の衝動が僕にあった。

 僕は翌朝、逃げるように宿を出た。そろって写真をとるために、若者たちが宿の前に群れていたが、その中の一人が僕の靴をはいていて、僕は玄関でしばらく待たねばならなかった。僕はいらいらしながら、帳場に背をむけて立っていた。帳場から箱崎が出てくるかも知れなかったのだ。僕は寝不足で、険(けわ)しい顔をしていた。

 靴が戻ってくると、僕は顔をそむけたまま、表に飛び出した。僕の靴をはいていたのは、にきびを沢山つけた、顎の張った若者だった。

 長崎行きのバスは、割に空いていた。僕はその最後尾の席にかげていた。バスはかなり揺れた。窓框(まどがまち)をしっかり摑みながら、あの若者たちは戦争中は十五六歳だったんだな、などと考えたりした。十五六歳の年齢と、「海行かば」のつながりを。

 バスの乗客の四分の三は、女学生だった。話を聞いていると、岡山の女学生らしい。皆疲れた顔をしていた。引率者の教師らしいのは、チョビ鬚をつけて、唇が赤黒くむくれた中年の男だった。僕のすぐ前の座席にかけていた。この男が、皆の気を引きたてる為か、地理教育のつもりか、色んなことをよくしやべるのだ。海岸がバスの窓から見えると、この浜の砂は黒いが成分はどうだとか、こちらが千々石湾(ちぢわわん)で向うが有明海だとか、そんなことをひっきりなしにしゃべるのだ。時々泥くさい冗談をはさんだりするんだが、女の子たちは皆疲れていて、あまり笑わない。バスに酔って、青い顔をした子もいた。

 諌早(いさはや)のすこし手前だったと思う。しゃべり疲れたのか、しばらく黙っていたその教師が、窓の外を指さしながら、

「近頃は、あまりはやらなくなったが――」

 と皆を見廻した。得意そうな表情だった。

「あそこあたりが、橘(たちばな)中佐がお生れになった処じやよ。琵琶歌(びわうた)などで、皆も聞いたことがあるじゃろ」

 琵琶歌など聞いたことがないと見えて、女学生たちはあまり興味を示さぬ風だった。お義理のように、指さす方向に眼をむけるだけのようだった。すると乗客の一人で、土地者らしい三十歳位の男が、その辺にくわしいらしく、またくわしいということを誇示したいらしく、教師の言莱を受けて、色々説明を始めたのだ。橘中佐の生家には、松の木が三本生えてるとか、白壁に囲まれているとか、そんな愚にもつかない事ばかりなんだ。その橘中佐談義が、三十分ほどもつづいたと思う。僕はこんなバスに乗りこんだ自分を、ようやく呪(のろ)う気持になった。僕のそばに掛けているのは、肥った女学生で、旅の疲れで居眠りを始めていて、僕に上半身をよりかけてくるのだ。僕の肩に、その女の子の顔がある。唇をわずか開いて、白い歯と、赤く濡れた唇の内側が見えるのだ。僕はへんに残酷な気持になったり、また持て余すような気持になったりしながら、その談義から心を外らそうと努めていた。[やぶちゃん注:「橘中佐」橘周太(慶応元(一八六五)年~明治三七(一九〇四)年)は陸軍軍人。長崎生まれ。日露戦争の激戦の一つである「遼陽の戦い」に歩兵大隊長として臨み、戦死。帝国陸軍の「軍神第一号」とされ、中佐に進級、新聞報道などを通じて戦意高揚に利用された。日露戦争後は小学校教科書に「橘中佐」が掲載され、「軍人の鑑」として流布した。「琵琶歌(びわうた)」はよく判らぬ。橘は漢詩をよくしたというから、その一篇かとも思ったが、見当たらない。小説家大倉桃郎(とうろう 明治一二(一八七九)年~昭和一九(一九四四)年:本名は国松)が日露戦争従軍中に投稿していた「琵琶歌」が『大阪朝日新聞』第一回懸賞小説に入賞しており、国立国会図書館デジタルコレクションで読めるが、ざっと見では橘の名は出ない。柳田伍長というのが、それらしくも読めるが、判らぬ。識者の御教授を乞う。]

 そしてやっとの事で、長崎についた。

 僕はゆっくり眠りたかった。判ってくれるだろうな。だから名所の見物も断念して、街をちょっと歩いて見ただけだ。街の電柱には、ユネスコのことが貼られていた。ユネスコ大会が、ここで開かれるらしい、と知った。街角の店で、僕はチャンポンを食べ、そして駅近くの小さな宿屋に泊った。その夜はぐっすり眠った。[やぶちゃん注:この昭和二五(一九五〇)年に第六回「日本ユネスコ大会」が雲仙で開催されている。]

 こんな具合で、この旅行は、すっかり失敗だったんだ。

 翌朝の汽車に乗った。日曜日のせいか、ひどく混んでいた。すこし遅く行ったから、坐れるどころの騒ぎじゃない。デッキに立つ覚悟して、発車までの数分を、僕はプラットホームを歩き廻った。見ると二等車の方は、がらがらに空いていた。ふわふわした緑色のクッションが、ひどく羨しかった。あれなら旅行も楽だろうなあ。二等車の入口で、三四人のいい服装の男が、外国語混りの会話をとり交しているのを見た。悠々と談笑している感じだった。今朝宿屋の新聞でも見たし、それらがユネスコ関係の人たちらしい、と想像がついた。やがて発車ベルが鳴りわたると、彼等は二等車の方に入って行った。窓からのぞくと、二等車では、二人分の席を、一人で占めているのが多かった。悠々と寝ころんで、エロ雑誌をめくっている重役風の男もいた。

 僕は三等車のデッキにしゃがみこんで、この二三日来のことを、考えるともなく考えていた。いろんな印象が錯綜して、うまく統一がとれない感じだった。身体の疲れはなおっても、心はまだ疲れが脱けていないらしかった。軍歌をうたう若者たちや、また駅で逢った時の古旗のへんにぎくしゃくした笑い。橘(たちばな)中佐の家の松の木。二等車で談笑しているユネスコの人達。そんなばらばらな印象が、うまく重なりそうで、どこかで食い違ってしまうようだった。するどい裂け目が、僕には感じられた。それは僕自身が裂けているのか、僕以外のものが裂けているのか、僕には摑めなかった。煤煙をふくんだ風に吹かれているせいか、僕はやがてしんしんと頭が痛み始めた。駅々が過ぎても、乗客は滅らなかった。ますます増(ふ)えてゆく傾向があった。このままで東京までは、とても辛抱できない、と思った。足がしびれて、一部分感覚を失い始めていた。

 車掌をつかまえて、様子を聞くと、この列車はいつも混む車で、何なら途中で降りて、次のを待ったがいい、と忠告して呉れた。そして接続の具合までも、くわしく説明して呉れた。年取った、非常に親切な車掌だった。その親切さだけで、僕は感動していた。いら立った気分が、それで和むような気がした。自分でも可笑しいほど、まるで少女のそれのように、一寸した刺戟で情緒がかんたんに、移り気に変化するのが判った。旅に出ると、人は感じ易くなるというのも、あるいはこんな状態を指すのだろう。

 こういういきさつで、ふと僕は、も一度古旗に逢う気持になったのだ。次の汽車までの二時間余りを、あの駅で下車して、古旗を訪ねて見ようと考えたんだ。

 しかし何のために、古旗に逢うのか。逢ってどうしようと言うのか。そんな気持のきっかけも、揺れ動きも、僕はほとんど忘れてしまった。情緒の気まぐれに過ぎないとも言えるし、この二日間、ほとんど口を利かなかったから、誰でもいい、しゃべる相手が欲しかったかも知れない。また、もう見る機会もないあの海岸を、も一度眼に収めたい気持もあっただろうし、あるいは古旗と再会することで、何かを確かめたい気持も、どこかに動いていたのだろう。何かを。しかし僕は、何を確かめるつもりでいたのだろう。

 そしてとにかく僕は、あの駅で降りたんだ。

 駅の近くで果物籠を買い、それをぶらぶらさせながら、古旗の家に行ったんだ。すると古旗は留守だった。母親が出てきて、彼は浜に仕事に行っているという。僕らは玄関で、ちょっと立ち話をした。母親は、古旗に似て額の広い、眼尻にほくろのあるお婆さんだった。こんなことも言った。

「あの子も、兵隊から帰ってくると、何だかすこし偏窟(へんくつ)になりましてねえ」

 軍隊で一緒だったことを、僕らは話していたのだ。お婆さんは嘆くように言った。

「嫁の話があっても、まだまだ早いと言って、受けつけませんしねえ」

 僕は果物籠を渡し、お婆さんが教えた道を、ぶらぶらと海岸の方に歩いて行った。

 砂丘を越えると、白い砂浜だ。砂浜は大きく鸞曲(わんきょく)して、両側に岬を突き出している。海は一面に澄みわたり、沖ヘ行くほど深い青をたたえてくる。島影がそこらに二つ三つ。とりたてて言うほどの特別な景色ではないが、平凡な構図が持つ、なまの美しさが、やはり鮮かに眼に沁み入ってくる。僕は大きく呼吸しながら、砂浜を見渡した。

 古旗のいるところは、すぐに判った。百米ほど左手に、地引網を引いている一群があるのだ。その中に、特徴のある古旗の姿を、僕はすぐ見つけた。

 網の曳(ひ)き手は、両方に分れて、六人ずつである。緩慢な速度で、網は曳かれていた。曳き上げて、上の方になると、綱をはなして波打際に下り、また綱をにぎる。順々に曳き手が回転してゆくのだ。それらの動作は、ごく緩慢だったけれど、しばらく眺めているうちに、たとえば季節の推移にも似た、快い律動感がかんじられた。周囲の風光との、狂いない調和が、そこにはあった。

 網の近くの砂丘まで歩き、僕は腰をおろした。網につけられた浮標が、二町ほどの沖合いに隠見するところを見れば、もうほとんど最後の追いこみなのだろう。しかし曳き手の動作は、悠々として変らない。同じ姿勢で曳き、一歩一歩曳き上げ、また同じ恰好で波打際に下りてゆくのだ。手繰(たぐ)り上げた綱が、白い砂の上で、端から輪に巻かれ、その輪の堆積(たいせき)がすこしずつ高まってくる。微妙な気息の合致が、十二人の男女をおおっているようだった。なぜかその時、僕は羨望に似た気分に、強くとらわれていた。

 この構図のなかに古旗を見たことで、満足して俺は帰ろうか、ふと僕はそんなことを思ったりした。気分としては、このまま未練なく帰れそうでもあった。しかしうつらうつらと秋陽に照らされて、僕は砂丘に坐ったままでいた。そして小学生の頃、この海岸に遊びにきて、網曳きを手伝って、鞄いっぱいに雑魚(ざこ)を貰ったことなどを、思い出したりしていたんだ。

 網が完全に曳き上げられたのは、三十分も経ってからだった。浜へ降りて行く僕を、その時古旗は見つけたらしい。いぶかしそうな視線を僕にむけた。網を手に持ったままだった。

 その彼に近づいて、僕は手短かに、ここに寄ったわけを説明した。僕がしゃべってる間も、古旗は網を次々振るって、獲物を砂にほうり上げていた。刺子(さしこ)を着た古旗の姿は、この前よりも逞しく、生き生きと見えた。

 獲物は、存外少なかった。小さな鰹(かつお)が五六匹、コハダが二十匹位で、あとは鰯(いわし)みたいな雑魚や小魚が、木桶に二杯あったぎりだった。大きな海月(くらげ)が三つかかっていたんだが、これは食えない奴と見えて、古旗が摑んでほうり投げた。草色に透き通った海月の体は、波打際で波にたたかれて、何時までもだらしなく、ごろごろと転がっていた。

 網の始末をあとにまかせ、彼は僕をうながして砂丘へのぼった。

「もうこの海にも、魚はいないんだ」

 海一面にむかって、手で指し示しながら、古旗は言った。

「むちゃくちゃな濫獲をやったんだ。戦争中にね」

「そう言えば昔は、もっと獲れていたようだったね。一網で、この十倍くらい」

 古旗はなおしきりに、戦争中の濫獲を慨嘆した。ここに駐屯(ちゅうとん)していた部隊が、爆薬をつかって海を荒した、という話だった。海への愛情という言葉を、彼は使った。それを喪った人間のやり口を、古旗は専(もっぱ)らなげいているようだった。

「それですっかり収獲が減ったんだよ。あれを見ただろう」

 魚をいれた木桶を引きずって、女たちが持ち去るところだった。

「たったあれだけだよ。十何人が三時間もかかってさ。あれを市場に運んで、さんざん値をたたかれてさ。一人当りいくらになると思う。網の損料を別にしてもよ」

「大変だろうな」

「だからこの部落も、だんだん漁師が減る一方なんだ。ひと頃の三分の一だよ。それも副業の方が多いんだ。組合すら出来ていないんだ」

「よく我慢しているんだね、みんな」

「我慢している。そうでもない。諦(あきら)めたような感じかな。魚が寄りつかないと、こぼしてはいるんだが、何故減ったのか、そんなこと考えても仕様がない、といった調子なんだな。そして二三人寄り合うと、昔は良かった昔は良かったと、そればかり愚痴をこぼし合っているんだ」

「――若い者もそうかね?」

「いや、若いのはあまり愚痴はこぼさないようだな。この村にも帰還兵もいくらかいるんだが、地道なのは少ないようだな。ことに現役兵だったのはね。闇屋になったり、街に一旗上げに行ったりしてさ。また、なんとか同志会という妙な会に入ったりして、大きな顔をしてごろごろしてる奴もいるしさ。――俺は時々かんがえるんだが、あんな苦しさを舐(な)めてきて、今こんな状態になって、皆はどうしてお互いの連帯感を失ったんだろうな」

 古旗は膝をだき、そう言いながら、上目で僕を見た。なにか燃えているような眼付だった。

「そうだなあ」と僕は疲労を肩にかんじながら、言葉をそらした。

「そんなもんだろうなあ」

 暫く沈黙がきた。彼は無意識のように、そこに生えたはますがなの葉を千切っては、砂の上におとしていた。指が青臭く染っていた。[やぶちゃん注:「はますがな」底本では頭の「は」には傍点がないが、後の部分から見て誤植と断じて、かくした。これは「波末須加奈」「浜菅菜」でロケーションから浜防風、セリ目セリ科ハマボウフウ属ハマボウフウ Glehnia littoralis の古名(中古以来)である。]

「箱崎に逢ったかい」と古旗は気を変えたように、僕に訊ねた。

「いや。逢わなかった。別の宿屋に泊ったから」と僕は嘘をついた。

 古旗はうなずいた。そしてしんみりと、自分に聞かせるように言った。

「逢わない方が、いいんだよ。逢ったら、かえって厭な気持になるよ」

「そう逢いたくもなかったんだ」

「そういうことだろうな。もし懐しいという気分があるとしても、それはあの頃の箱崎が懐しいんで、今の箱崎のことじゃない。だから白(しら)けてしまう。その白けた空隙を埋めようとして、お互いにいろいろ無理をするんだ。その無理は、ひどく後味がわるいものだよ」

「そうだね。みんな錯覚の上に立っているんだな」

「錯覚じゃない」と古旗ははっきりさえぎった。「おれが困っていた時、莨(たばこ)を分けてくれたお前のことを、おれは時には思い出したりするよ。錯覚というものじゃないだろう」

「そうだな。しかしお互いが、そこまで立ち帰るのも、大変なことだな」

「立ち帰れる訳はないよ。あの結びつきは時々懐しくなるんだが、あんな風に結び合う状態には、おれはどうしても戻りたくないんだ。おれにはよく判らないんだが、あの頃おれたちは、心が荒廃してたから、あんなに結び合えたのか、今荒廃しているから、こんなにバラバラになってるのか、いや、荒廃という言葉はまずいな、どう言ったらいいだろう」

 もうそろそろ行かねばならないな、などと思いながら、僕らはしばらく、いろんな雑談を交していた。日の光のせいか、古旗の顔色や動作は、あの日よりもずっと明るく、健康そうに見えた。気持の隔たりも、いつか僕から消えていたようだ。

「網を引くのも、楽なように見えて、力が要るものだろうな」

 はますがなを千切る古旗の掌に、堅そうな脈が、釦(ボタン)のように出ているのを見たとき、僕はふと訊ねてみた。

「力は要るさ。しかしおれは、網引きは楽しいんだよ。色んなことが、じかに手ごたえとして来るからな。おれはやっぱり、こういう感じから始めて行きたいと、近頃思うんだ」

 古旗は眼を上げて、岬(みさき)の方を眺めた。

「あの岬から、この岬までの、浮遊漁師をあつめて、組合をつくってやろうとおれは考えているんだよ。あの日、街に行ったのも、その用事だったんだ。お前と逢った日さ」

 岬の山の上には、見慣れない白い円柱が立っていた。しきりにそれを眺めていると、古旗があれは忠霊塔だと僕に教えてくれた。

「街の連中が建てたんだよ。景色がいいという訳でね。この村とは全く縁がないのだ。もっとも戦後は、荒れ放題らしいんだ。バカな話さ。コンクリだから、切り倒しても一文にもなりはしない」

「しかしもう十年も経てば、あれが何の塔だということも、皆忘れてしまうんだろうな」

 古旗は咽喉(のど)でわらった。そしてこの海岸から、日本海海戦の砲声が聞けたという話をした。もちろん彼が生れるずっと前の話だ。母親が娘時代のことだったと言う。そう言えばその話は、僕も昔聞いた事があるようだった。[やぶちゃん注:日露戦争の「日本海海戦」は明治三八(一九〇五)年五月二十七日から翌日にかけて対馬沖で行われた。本篇発表の四十五年前に当たる。]

「この村にも、あの戦争の傷痍(しょうい)兵士がいたよ。あの頃は廢兵と言ったんだな。両脚がなくて、下駄作りなどやってたんだが、この戦争中に死んだそうだ。栄養失調のためなんだ」

 もう時間も迫っていた。僕は立ち上って砂をはらい、別れを告げた。別れ際に古旗は片頰に笑いを刻みながら、こう言った。

「お前もやはり変ったな。それも当然だけれども」

 お前こそ変ったよ、と言おうとして思い直した。冗談めかして僕は答えた。

「そうかねえ。じゃ逢わない方がよかったかな。でもやはり、お前に逢えてよかったと思うよ」

 白日の下で、この瞬間、僕の気持に嘘はなかったようだ。たとい疲労がもたらす、気まぐれな情緒の変化だったとしても。古旗は白い歯をわずか見せて、翳(かげ)をふくんだ笑いを浮べながら、砂丘を下りて行った。砂浜にはさっきの人々が、濡れた網を長くひろげて、日に乾そうとしているところだったんだ。その列に彼が加わるのを見届けて、僕も砂丘を反対側にゆるゆると降り始めた。この風光やこの人々の姿も、再びは見ることもないだろう、などと思いふけりながら。故郷を去る哀感は、始めてその時僕にきた。

 その足で、僕はやっと東京に戻ってきたんだ。僕の帰京が早かったので、家人はびっくりしたようだった。一週間ぐらいは旅行してくると、僕は言っておいたのだから。

 そして僕の旅のことを、家人はしきりに聞きたがった。僕は古旗のことを話そうとしたが、上手に話せなかった。つかみ所はあるのだけれども、いろいろ折れ曲っていて、うまく表現し難かったのだ。そして僕はあの時砂丘でぼんやり見ていたが、或いは小学生の頃のように、砂浜に降りて、網引きの手伝いをすればよかったんだな、とも思った。

 そこで僕は、海から見た雲仙岳の景色の話などをした。僕の話には全然熱がこもっていなかったのだろう。家人は笑って、抗議した。

「まるでよその国の景色を話しでもしてるようね」

 その抗議の出し方は、半分くらいは、僕の気に入った。

 

金玉ねぢぶくさ卷之七 蛙も虵を取事

 

    蛙(かへる)も虵(へび)を取〔とる〕事

Ssansukumi

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版をトリミングした。]

 もろこしには、ちんといふ鳥(とり)有〔あり〕て、一さい有情〔うじやう〕の大毒なれば、一日に千里をはしる猛虎も、僅(わづか)雀ほどなるちんを恐れて、竹の林を城くはくとせり。竹は、また、ちんのため、大毒にて、藪ある上をとびぬれば、おのれと落(おち)て死するとかや。此鳥、江〔え〕におりて、水を飮(のめ)ば、一切諸鳥、毒あらん事をおそれて、其水を、のまず。山より犀(さい)といふけだもの出〔いで〕て、又、其水を飮(のみ)ぬれば、毒を消(せう)せん事をはかつて、それより諸鳥も、のむとかやいひ傳へ侍り。

[やぶちゃん注:「ちん」鴆。中国で古代から猛毒を持つとされる想像上の化鳥(けちょう)とされるもの。但し、寺島良安の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴆(ちん) (本当にいないと思いますか? フフフ……)」の私の注を読まれたいが、「鴆」の実在を否定は出来ないし、羽一枚でヒトが死ぬ毒を有する毒鳥は《実在する》のである。但し、その鳥がイコール「鴆」であるかどうかは判らないし、或いは、嘗ての中国に毒鳥「鴆」は実際に棲息していたのだが、今は絶滅してしまった種である可能性もないとは言えない。逆に一九九〇年に発見された毒鳥の存在は、ただ偶然の一致に過ぎず、実在する毒物(或いは複数の毒物の混合体)を「鴆」という架空の鳥由来としたのかも知れない、と枕に書いた。但し、私の注は物理的に相応の時間がないと読めない分量であるので、御覚悟を。なお、「鴆」の(へん)は「沈める」の意で、水中に人を「沈」めるように息の根を止めてしまう「鳥」の意である。

「城くはく」ママ。「城郭(じやうくわく)」が正しい。

「竹は、また、ちんのため、大毒にて」筆者はどこからこの鴆の弱みが藪あるという属性を見出したのだろう? 私はちょっと興味がある。典拠をご存知の方はお教え願いたい。

「犀」が出てきたのは判る。良安も「惟(ただ)犀の角を得て、卽ち、其の毒を解すなり」と言っている通り、犀角だけが鴆毒の解毒剤とされてきたからである。ここでは犀が水を飲もうとして角が水に触れた結果、鴆毒が中和されたという謂いである。]

 

 しかれども、それは見ぬ、もろこしのさた。近くは虵・蛙(かわづ)・蝸牛(くわぎう)の三敵(〔さん〕かたき)とて、かへるは蝸牛をとり、蝸牛はへびを害し、虵は蛙を取る事、草(くさ)うつ童子(わらんべ)まで、皆人〔みなひと〕のしれる所なり。

[やぶちゃん注:「もろこしのさた」「唐土の沙汰」。

「蛙(かわづ)」ルビはママ。以下同じ。「かへる」との混在もママ。

「三敵(〔さん〕かたき)」三竦(さんすく)み。一般には蝸牛より蛞蝓(なめくじ)の方が知られるか(私はずっと蛞蝓で覚えてきた)。蛇は蛙を一呑みにする。蛇に食われる蛙は蛞蝓なら舌でぺろりと一呑みにする。蛙に食われる蛞蝓には何故か蛇の毒が効かず、それどころか蛞蝓の体液は蛇を溶かす(古く近から近世に至るまで本邦ではそう信じられていた)。従って三者が揃って頭を突き合わせた時、彼らは微動だに出来なくなるという俗説である。これは伏線である。

「草(くさ)うつ」「草打つ」無暗に叢をどやすこと。「草を打って蛇に驚く」「草を打って蛇を驚かす」という成句(何気なくしたことから、意外な結果を招いてしまう喩え)に三竦みを掛けたのである。]

 

 ある人の庭ぜんに、あれたる泉水あり。水の汀(みぎは)に、あやめ・まこも、生茂(おいしげり)たる中に、へび、あまた集(あつま)り、彼(かの)泉水にのぞんで、每日、蛙(かへる)を、二つ、三つ、とらぬ日もなく、見るに氣の毒なれども、何(なに)とせいすべきやうなく、一切有情(いつさいうじやう)のそれぞれの業(ごう)を、はたはた、事をかんじて暮しぬ。

[やぶちゃん注:「まこも」「眞菰」単子葉類植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae Oryzeae族マコモ属マコモ Zizania latifolia。水辺に群生し、成長すると、大型になり、人の背丈程まで高くなる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色を、雄花は紫色を呈する。

「せいすべきやうなく」「制すべき樣無く」。

「業(ごう)」ルビはママ。「ごふ」が正しい。

「はたはた」ママ。後半は踊り字「〱」であるが、これは「はなはだ」の誤記ではないかと思われる。]

 

 然るにいつぞのころより、虵、おゝく死して、池の邊(ほとり)に、から、あまた、わだかまれり。何にとらるゝ躰(てい)も見へねば、ふしぎの事に思ひしに、ある夕ぐれ、いづくともなく、三足〔さんぞく〕なる蛙(かわづ)一疋、とび來〔きたり〕て、水の汀なる薄の影にて、しきりに鳴(なく)。其聲をきいて、筑山(つき〔やま〕)の岩のはざまより、大きなるへび一疋、はい出〔いで〕て、此蛙を、とらんとす。蛙(かへる)は鳴(なく)に正根(しやうね)を入れて、後(うしろ)へ虵の臨(のぞむ)事を、しらず。上なるちんより是を見て、氣の毒さに、へびをおいのけ、蛙(かわづ)を助〔たすけ〕んと下へおりける其間に、虵、とびかゝつて、蛙に喰付(くい〔つき〕)ぬ。

[やぶちゃん注:「から、あまた、わだかまれり」「殼、數多、蟠れり」。この「から」は脱皮した空皮のそれではなく、死んだ骸(から)の意。

「とらるゝ」「捕らるる」。

「三足〔さんぞく〕なる蛙(かわづ)」怪奇談に於いて、極めて強い呪力を持つ蟇(ひきがえる)などの特徴としてよく見られる。「みつあし」と読みたいが、あとで「三足(そく)」(底本通り。後出の部分では「ぞく」と濁音化した)とルビが出るので、仕方なく、そうした。

「きいて」ママ。

「筑山(つき〔やま〕)」「築山」。

「はい出〔いで〕て」「はい」はママ。「這ひ」。

「ちん」「亭(ちん)」。庭に設けた四阿(あずまや)のこと。

「おいのけ」ママ。

「喰付(くい〔つき〕)ぬ」ルビはママ。]

 

 『さては、もはやとられぬ』とおもひ、其まゝにして上より詠居(ながめい)ければ、しばらく有〔あり〕て、彼(かの)へびは死し、蛙(かへる)は還(かへつ)て、つゝがなく外(ほか)の所へ飛(とび)ゆきて、又、元のごとくに鳴(なく)。

 しかる所に、此聲をきいて、いづくともなく、又少(ちいさ)きへび、はひ出て、

「そろりそろり」

と、ねらいより、あいちかく成〔なり〕て、彼かへるに、とびかゝり、既に喰(くら)ひ付〔つく〕所を、かはづ、居直(いなをつ)て、まへ足をあげ、へびのあぎとを討(うち)けるが、此虵、したゝか、ておいたる躰(てい)に見へて、のび、ちゞみ、くるしげに、のたれ𢌞(まはつ)て、終に死せり。かへるは、別の子細なく、又、外(ほか)へのきて、まへのごとくに鳴(なく)。

[やぶちゃん注:「詠居(ながめい)ければ」ルビはママ。

「少(ちいさ)き」ルビはママ。以下同じ。

「ねらいより」ママ。「狙ひ寄り」。

「あいちかく」ママ。「相ひ近く」。

「居直(いなをつ)て」ルビはママ。「居直る」の歴史的仮名遣は「ゐなほる」である。

「あぎと」「顎(あぎと)」。

「ておいたる」ママ。「手負ひたる」。]

 

 あるじ、何とも、ふしん、はれず。

「大きなる蛙(かへる)の少(ちいさ)きへびにとらるゝは、つねの事なり。然るに、此蛙はちいさくして、大きなるへびを、とれり。但し三足(〔さん〕ぞく)の蛙(かへる)は、足(あし)に、子細がな、有〔ある〕か。」

と、立よりて見れば、三足にはあらず、常の四足(〔し〕そく)の蛙(かわづ)成りしが、足に少(ちひさ)き蝸牛(なめくじり)をはさみて、三足(ぞく)にて、とびあるき、へびのとびかゝつてくい付〔つか〕んとする時は、彼(かの)なめくじりをまとひたる手をのべて、へびのあぎとへ、さしこむ。へびは貪りの心、深く、とび付〔つく〕やいなや、跡先(あとさき)をかへり見ず、いづくにもあれ、細(ほそ)ひ所へ、早速、くらい付〔つき〕、此毒にあたり、死すると見へたり。

[やぶちゃん注:「子細がな」この「がな」は副助詞で、不定の対象の例示を意味する。「よく判らぬが、何か仔細か何かでも」の意を添える。

「蝸牛(なめくじり)」歴史的仮名遣は「なめくぢり」が正しい。古くは「かたつむり」も「なめくじ」と呼ばれていたので問題ない。私の「柳田國男 蝸牛考 初版(10) 蛞蝓と蝸牛」を参照されたいが、そこに当時であってさえ、『肥後でも熊本以南、宇土八代球磨の諸郡では、蝸牛のナメクジは其儘にして置いて、却つて蛞蝓の方をばハダカナメタジと謂ふことになつて居る』とある。「なめ」というのは、擬態語で、「滑らかに移動する」ことから「滑め」の字を当てたというのが有力とされる。「舐めるように這う」ということから「舐め」としたという説もある。「くぢ」は、蝸牛や蛞蝓が植物などの上を這った後が、抉(えぐ)られたように削られてあることから、物を突いて搔き回し、中を刳り抜いて取り出す動作を意味する「くじる」とする説があるが、「抉る」は歴史的仮名遣が「くじる」であり、妙にまことしやかで、却って後付けした説のように感じられる。なお、シチュエーションを考えると、この場合、殻付きの蝸牛では片手に挟み難いようにも思われるが、寧ろ、殻に入ってしまった小型の蝸牛ならば、却って挟み易いかも知れない。

「くい付〔つか〕ん」「くい」はママ。

「まとひたる」「纏ひたる」。

「細(ほそ)ひ」ママ。

「くらい付〔つき〕」「くらい」はママ。]

 

 「窮鼠、還(かへつ)て猫をかむ」と世話(〔せ〕わ)にいひ傳へしが、されば、今のかわづも、あまり、へびにとられ、せん方なさに、中間〔なかま〕にて、大ぜい、評義(へうぎ)し、一疋、智勇備(そなは)りたる蛙(かわづ)、此謀(はかりごと)を用ひ、あまたのかへるの死をすくふ、と見へたり。

 國は國主のまゝ、天下は天子のまゝなれども、上(かみ)、道(みち)を失ひ、餓(うへ)たる民をあはれまず、しいせたぐる事、つよければ、「ひ馬(ば)、鞭(べん)すいをおそれず」とて、やせたる馬(むま)に重荷をおふせて、おへども、ゆかぬごとく、民も國の仕置(しおき)を用ひず、かへつて、法度(はつと)を背(そむ)き、右の馬(むま)の鞭(むち)をおそれざるやうに、きびしき成敗(せいばい)をもかへり見ず、不義をおこなひ、盗賊をなして、國・天下を亂せし事ども、和漢兩朝に其ためしおゝし。かやうの事を鑑(かんが)み、一人の榮花の爲に衆を害せぬやうに、下(しも)をあはれみ、仁政を施したまはゞ、國家は万々世に至(いた〔る〕)まで長久ならざらん物か。

[やぶちゃん注:「中間〔なかま〕」「仲間」。

「評義(へうぎ)」ルビはママ。「評議(ひやうぎ)」。

「まゝ」「儘」。思いのまま。藩主や将軍・天皇の望む通り。

「しひせたぐる」ママ。「强(し)ひ虐(せた)ぐる」或いは「虐(しひせた)ぐる」で、甚だ酷い扱いをする、しいたげるの意。

「ひ馬(ば)、鞭(べん)すいをおそれず」「疲馬、鞭箠(べんすい)を畏れず」疲れ切った馬は、どんなに鞭うたれても言うことをきかない(「鞭箠」は馬用の鞭)ことから、貧苦に喘ぐ人々は、どんな厳罰をも恐れなくなるということの喩え。

「おゝし」ママ。]

2020/09/19

『カテゴリ 畔田翠山「水族志」 創始 / クラゲ』をリロードした

『カテゴリ 畔田翠山「水族志」 創始 / クラゲ』を「《リロード》」として、徹底的に改稿補正した。全く新しい電子テクストと考えて戴き、再読されたい。

――孤独なる一歩を又も始めたり――

2020/09/17

金玉ねぢぶくさ卷之七 豐州專念寺の燕の事

 

金玉ねぢぶくさ 卷之七

   豐州專念寺の燕の事

Tubame

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版の挿絵をトリミング合成し、上下左右の枠を除去し、全体に清拭した。中央上部は合成が上手く行かなかったのは、お許しあれ。]

 烏啼(からすなき)が惡(わる)ければ、不祝義の前表(ぜんへう)といみ、いたちが鳴(なけ)ば火にたゝると嫌ふ。其外、鷄(にはとり)の宵なき、犬の永吠(ながぼへ)、いづれも人のいみ來りし事なれば、さだめて、是も子細あるべし。かた田舍にては、

「燕(つばめ)の巢かくる家は、其年、火難にあはず。」

とて、もし、例年巢くふ家へ、つばめの來ぬ年は、いとふ氣〔き〕にかくる事なり。人さへ明日(あす)の身の上の災難はしらぬ事なれど、かれは、未前に是をしつて、用心深く、火事にあふべき家へは、一年まへより、巢をせぬとかや、謂(いひ)つたへしが、げに、さる事もあるべし。

[やぶちゃん注:「前表」前兆。

「いみ」「忌み」。

「永吠(ながぼへ)」ルビはママ。「ながぼえ」でよい。

「いとふ氣〔き〕にかくる事なり」この「いとふ」は「いたく」であろう。]

 

 豐前の國小倉の專念寺といふ禪寺に、每年、きたつて、巢をかけ侍(はべり)しが、ある時。住持、つばめを見て、

「なんぢら、鳥類なれども、我寺に來つて巢をかくる事、他年、然〔しかれ〕ども、其恩をおもはず、子ども、成長して、一たび、とびさつて後、又、來たる事なし。但し、世話に、なんぢらを、とこ世の國より來り、又、とこよの國へ歸る、と、いへり。されども、是も信じ難し。若(もし)、なんぢ、物しる事あらば、重ねて其國の印〔しるし〕を取〔とり〕きたり、我〔わが〕うたがひを、いせしめよ。」

と、たはぶれて謂(いは)れしに、誠〔まつこと〕、是を聞(きゝ)入れぬと見へて、翌年、又、來りし時、直(すぐ)に持佛堂へとび行(ゆき)、佛だんに於て羽(は)たゝきし、何やらん、物をおとせしを、取あげて見れば、豆粒ほど有〔あり〕て、物種(〔もの〕だね)と見へたり。

[やぶちゃん注:「專念寺」不詳。現在、小倉地区内に同名の寺は見当たらない。福岡県内に現行では四つの専念寺を見出せるが、孰れも小倉とは離れており、孰れも浄土宗か浄土真宗である(浄土系への改宗は江戸時代にはしばしば認められることではある)。移転したものかも知れぬが、判らぬ。

「他年」多年の意。

「世話に」世俗の伝えに。

「とこ世」「常世」。燕は雁と入れ替わりに渡って来るところから、万葉の時代から常世からやって来ると信じられた。稲の害虫を食い、春の神の使者とも擬えたから、長寿と冨貴と恋愛とを齎すものとも考えられ、大切にされた経緯がある。

「物しる事あらば」人の言葉が判る知恵を持っているのであれば。

「いせしめよ」「癒せしめよ」。

「物種(〔もの〕だね)」ここは何らかの植物様(よう)の種の意。]

 

 人々、集りて評義すれども、終(つい)に日本の地にて見なれぬものなれば、何といふ事をしらず。土地をゑらんで、試(こゝろみ)に、うへ置〔おき〕ければ、目を出して、每日、

「づかづか」

と、のび、枝葉、ほこへ、はびこりて、瓜のごとくなる菓(このみ)を結べり。日を經て、見事に能(よく)じゆくしければ、

「いにしへ、橘(たちばな)の種(たね)も、とこよの國より、來れり。是も、さだめて、仙家(せんか)の菓のたぐひなるべし。いざ、破(わつ)て賞翫すべし。」

とて、人々あまた集(あつま)り、一つ二つ破て、中を見れば、中は柘榴(ざくろ)のごとくして、こまかき袋、數千(すせん)に、わかれたり。

[やぶちゃん注:「終(つい)に」ルビはママ。

「ゑらんで」ママ。

「うへ置ければ」「うへ」はママ。「植う」はワ行下二段活用であるから、「うえ」でなくてはならない。同活用をする動詞はこれと「飢(う)う」「据(す)う」の三語のみしかない。

「目」「芽」。

を出して、每日、

「づかづか」「ずかずか」の古表記。無暗やたらに枝葉を伸ばすさまを言っている。

「ほこへ」ママ。「ほこゆ」ヤ行下二段活用であるから、「ほこえ」が正しい。「誇る」と同語源の語とされ、「よく生育する・繁茂する・肥え太る・大きくなる」の意。

「じゆくしければ」「熟しければ」。

「橘の種も、とこよの國より、來れり」「時じくの香(かく)の木(こ)の實(み)」のこと。「國學院大學」公式サイト内の「万葉神事語辞典」の「かくのこのみ 香の木の実」に拠れば、『①常世の国の香り高い果物。②橘の実。必ず「時じくの」という修飾語を前にともなって用いられる。「時じく」は、紀に「非時」と表記されるように、定まった時がなく、いつでもという意で、「時じくのかくの木の実」とは、時季ならぬ時に実る香りのよい果物を意味する。「かく」は、香り高いという意とされるが、輝くという意であるとする解釈もある。記紀の伝承では、垂仁天皇がタヂマモリを常世の国に派遣してこれを探すように命じたが、海の彼方の常世の国との往来に十年の歳月が経過し、入手して帰国した時には天皇は崩御されていた。タヂマモリは天皇の御陵にかくの木の実を供え、その場で号泣して息絶えたという。かくの木の実は、常世の国の不老不死の霊果であったが、天皇はこれを口にすることなく亡くなったという筋立てには、常世ならぬ現世の人間の生の制約も暗示されていよう。記紀ともに、この木の実は「橘」であると伝える。橘は、常世に強く結び付けられている果樹とされ、紀(皇極天皇)には橘が常世神という虫を生ずる樹木であるという伝承もある。常世は、海の彼方の豊饒の源であり、不老不死の国であった。橘は、常世から将来された、豊饒を導く果樹と伝えられたのであろう。この風潮は、橘家の隆盛と相俟っていたと考えられる』。「万葉集」の「巻第十八」の大伴家持の「橘の歌」(四一一一番歌)では、『タヂマモリがこれを常世からもち来たったことを歌った後、この植物橘の、花の芳しさ、実の美しさ、冬にも緑に繁る葉のようすを歌いあげている』。『家持はこの歌で橘家、特に橘諸兄の繁栄を歌っているとされる。なお、タヂマモリが海彼』(かいひ)『の常世の国への遣使として選任されたのは、彼が来朝した新羅の王子、天之日矛の末裔と伝えられることと関連していよう。この橘かくの木の実は、日本原産のヤマトタチバナ』(これは和名異名。バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナ Citrus tachibana)『ではなく、温州蜜柑』(ミカン科ミカン属ウンシュウミカン Citrus unshiu)『の原種であったかとされている』とある。]

 

 皆、ふしぎに思ひ見て居(い)る内に、

「はらはら」

と離れ、ちいさき小蛇(せうじや)と化(け)して、おのれと、うごき出(いで)、盆にみち、ざしきへ這(はい)出〔いで〕て、せいすべきやうなし。

 庭に大きなる穴をほり、彼(かの)木を、根より引ぬいて、彼(かの)穴へうづみ、其外のへびどもを、やうやう集め、取〔とり〕つくして、一處(しよ)にうづみ、其上へ火をたき、あくをかけ、重ねてはへ出〔いで〕ぬやうに葬(ほうふり)ぬ。

[やぶちゃん注:「居(い)る」ルビはママ。

「這(はい)出て」ルビはママ。

「せいすべきやうなし」「制すべき樣無し」。

「あく」「灰汁」。

「はへ」ママ。「はえ」が正しい。

「葬(ほうふり)ぬ」ルビはママ。「はふふりぬ」が正しい。]

 

 誠に、「燕のすむ常世の國といふは、仁義をしらぬ夷國(ゑびすぐに)にて、蛇(へび)を作りて、食物とし、國中に小蛇(せうじや)おゝければ、つばめは、是をおそれて、日本の地に來り、子を健立(すくだて)て、本國に歸る」と、俗說にいひ傳へしも、かやうのためしをおもへば、うたがはしからず。されば、今の燕の此種を取り來たる事、彼住持の、たはぶれに、

「迚(とて)も、成長して其國へ歸る物を、子ばかり此國にて產(うむ)といふは信じ難し。かさねて、常世の國より來たるといふ、せうこを取きたれ。」

と、いわれし詞(ことば)を聞入れて、

「我國にては、蛇(へび)に子を取られ、成長しがたきに依(よつ)て、はるばる、此國へ來り、御やつかいながら、御寺内(ごじない)を借り、子をそだてゝ歸〔かへり〕候。其子細は、是を見て、知りたまへ。」

といふ事なるべし。

 誠に、人間鳥獸、境界(けう〔がい〕)かはり、其詞(ことば)は通ぜざれども、物をかんずる心法(しんぽう)は、かれと是と、かはる事、なし。爰を以ておもへば、獵師の𪈏(つばめ)をとる心は、彼國の蛇心(じやしん)なるべし。一切有情(〔いつ〕さい〔うじやう〕)に佛性(ぶつしやう)有〔ある〕事を知〔しり〕て、皆人〔みなひと〕、せつしやうを愼(つゝしみ)たまへ。

[やぶちゃん注:「せうこ」ママ。「證據(しようこ)」でよい。

「いわれし」ママ。

「御やつかい」「御厄介」。

「境界(けう〔がい〕)」ルビはママ。「きやうがい」が正しい。

「心法(しんぽう)」ルビはママ。仏教用語と考えてよいから「しんぱふ」である。「心法」は心や精神を修練する法。

「獵師の𪈏をとる」「𪈏」は合字のように見えるが、実際に漢語としてある「燕」の異体字。但し、既に注した通り、本邦では燕を吉鳥とし、豊饒のシンボルでもあったので、燕を殺したり悪戯することは厳に戒められてきたし、燕を食うという話も私は聴いたことがないので、この猟師が何故、燕を獲るのか、良く判らぬ。或いは身近にいることから、手短に鷹の餌としたものか。]

金玉ねぢぶくさ卷之六 山本勘助入道、大度の事 / 金玉ねぢぶくさ卷之六~了

 

        山本勘助入道、大度(たいど)の事 

Yamamotokansuke

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版をトリミングした。] 

 人の賢愚は、其氣質の淸濁にわかれたる所、既にそれぞれの天命を受ぬるうへは、ぜひもなし。其中に智ある人は、いふに不及(およばず)。たとへ、おろかなりとても、日ごろ、能(よく)たしなみて、事に當(あたつ)て物に動じぬは、其身の一德なり。

[やぶちゃん注:山本勘助(明応二(一四九三)年~永禄四(一五六一)年)戦国武将。「甲陽軍鑑には、武田信玄に仕えた、独眼で片足が不自由な名軍師として記されている。同書によれば、幼名は貞幸。後に勘助、晴幸とする。しかし、武田信玄の本名晴信の「晴」は将軍足利義晴の諱の一字を与えられたもので、それを家臣に与えることは、通常、考えられない。三河牛窪(現在の愛知県豊川市)の出身で、天文一二(一五四三)年、板垣信方の推挙によって信玄に仕えるようになり、次第に認められて「足軽大将五人衆」と称されるに至った。信玄と上杉謙信が一騎打ちをしたとして有名な永禄四(一五六一)年の「川中島の戦い」(第四次)に於いて、作戦を指揮するも失敗、その責任をとって討ち死にしたとされる。「甲陽軍鑑」が広く読まれた上、近松門左衛門の浄瑠璃やそれを歌舞伎化した「信州川中島合戦」などで取り上げられることで、軍師としての勘助の名は広く世に知られるようになったが、実在は、長い間、疑問視されてきた。しかし、弘治三(一五五七)年と推定される六月二十三日附「市河文書」の中に、信玄が奥信濃の土豪市河藤若に宛てた書状があり、そこに「山本菅助」という名前が見られることから、実在説が有力になってきた。しかし、この人物が「甲陽軍鑑」の山本勘助と同一人であるという証拠はなく、実在の人物とするには未だ疑問が多い(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「大度」度量の大きいこと。]

 武田信玄の家老山本勘介入道道喜(どうき)、登城(とうじやう)せしるすに、上(かみ)、だい所のいろりに居(す)へたる五とく、おのれと、うごき出〔いで〕て、一家の男女〔なんによ〕、おどろき、城へ、人をはしらせて、道喜(だうき)に其通〔そのとほり〕を告(つげ)ければ、道喜、使(つかい)に、とくと、やうすを聞(きゝ)、

「歸るまでも、なし。さやうの事は、まゝ有〔ある〕事にて、先〔まづ〕は、よからぬ事なり。かならず、さたなしにして、下々にも、しらす事、なかれ。」

と謂(いゝ)て返しぬ。

 其身は、しん玄のまへにて、させる用事もなかりしかど、終日(ひねもす)、もの語(がたり)して、やうやう暮に及んで、やしきへ下り、彼〔かの〕五德の事は、たづねもせず、段々、家賴(けらい)の出〔いで〕て語るを聞(きゝ)、かの、うごきし五とくの方〔かた〕へは、目もやらず、さあらぬ體(てい)にて、其夜は、あかしぬ。

[やぶちゃん注:「道喜(どうき)」「道喜(だうき)」のルビの違いはママ。無論、後者が正しい。

「上」妻。

「使(つかい)」ルビはママ。

「さたなし」「沙汰無し」。何も対処しないこと。

「謂(いゝ)て」ルビはママ。

「終日(ひねもす)」国書刊行会「江戸文庫」版は『ひねもそ』と判読しているが、「そ」と「す」の崩しはよく似ているので、私は「す」で読んだ。

「家賴(けらい)」「賴」はママ。]

 

 翌日、非番なれば、いづかたへも出ざりしに、又、五とく、動(うごき)出〔いで〕、けふはきのふに增(まさ)り、二つ並びし五德、二つ共にうごきて、後には、いろりより、おどり出、其邊(あたり)へ灰をちらし、不思議なるありさま、いふばかりなし。

 道喜、此體(てい)をつくづくと見て、暫く思案をめぐらし、奧より、からかねの五德を取出〔とりいだ〕し、其おどる五德と、ならべおきけれども、是は、曾て、うごきも、せず。家らいに謂付て、外より、又、鐵五とくを取よせて、右の五德とならべければ、是も同ぜんにうごいて、三つ共に、暮に至るまで、おどりやまず。

 入道、とくと思案して打うなづき、右の五とくを板に並べて、奧の座しきへ直(なを)させければ、三つともに、たちまち、しづまりて、うごき、やみぬ。

[やぶちゃん注:「からかね」青銅。

「おどる」ママ。「をどる」が正しい。以下同じ。

「直(なを)させければ」ルビはママ。「なほ」が正しい。置きしまわせたところ。]

 

 扨、それより、國中の山伏どもをよび集め、

「若〔もし〕いづれもが行力〔ぎやうりき〕にて、是を祈りとめ候事、なるまじきや。」

と尋(たづぬ)れば、いづれも、おのれをかへり見て、請〔うけ〕あふもの、なかりし所に、はるか末座(ばつざ)なる山ぶし一人、すゝみ出、

「我ら、師匠より傳受の密法(みつほう)にて、只今まで、かやうの事をいのり、たびたび、きどくをあらはしたる事、御座候。」

と申す。

「然らば、其方、祈り申やうに。」

とて、屋舖にとめられ、則(すなはち)、かのいろりの間〔ま〕に、だんをかまへ、かんたんくだきて、祈りければ、實(げに)、行力の奇特(〔き〕どく)と見へて、それより、五とく、忽(たちまち)に、おどりやみぬ。

[やぶちゃん注:「密法(みつほう)」ルビはママ。「法」は「はふ」或いは仏教用語では「ほふ」であるから、孰れでも誤りである。]

 

 道喜、やがて、彼〔かの〕山ぶしを、しばらせ、

「なんぢ、何とて、我屋しきの五德をおどらせしぞ。ありやうに、はく狀すべし。若〔もし〕僞りをいふにおいては、たち所に殺害(せつがい)すべし。」

と、痛く責(せめ)られて、山伏、申けるは、

「まつたく、外の子細、さふらはず。如此〔かくのごとく〕に五とくをおどらせ置(をい)て、わたくし祈り、やめ候〔さふらへ〕ば、誠に奇代の驗者〔げんざ〕とおぼし召〔めし〕、向後(けう〔こう〕)、御歸依に預り、御領分の山ぶしの棟梁となり、一國を祈(き)たう、旦那に引請〔ひきうけ〕、ふう貴、心のまゝ成〔な〕らん事を欲(ほつ)し、かくのごとく、巧(たくみ)しかども、信玄公の御城内へは、たよるべき緣、ござなく、さいはひ、君〔きみ〕には御家老の御事〔おんこと〕なれば、御城内も同ぜんにぞんじ、料理人さい藤五兵衞を語らい、能(よく)肥〔こえ〕たる磁石の破(われ)を、てん上へ、はさみ、石の性(せい)にて、五德をはたらかせ、我ら、きたう致候内〔いたしさふらふうち〕に、彼〔かの〕磁石を、取すてさせ申やうに相圖を極め、我ら、運のつたなさは、事ならざる内に、方便(てだて)あらはれ、還(かへつ)て、ぞんじよらぬ御せんぎにあひ、たくみし事も、いたづらになり、しん玄公に崇敬(そうけう)せられん事も、かなはず、あまつさへ、身のわざはひを引出〔ひきいだし〕し侍りぬ。」

と、ありのまゝに白狀せしかば、道喜、懷中より、彼(かの)磁石のかけを取出し、

「其石は是にては、なきか。なんぢが祈禱せし内、五兵衞がとらざる先に、我、是を取れり。さるにても、ふしぎの石かな。」

とて、彼〔かの〕おどりし五德をとり出し、二尺、三尺、間(あい)を置〔おき〕て、此石を以て釣上(つりあぐ)れば、漸(やゝ)もすれば、とび上〔あがり〕て、彼石へ吸(すい)つき、力を入〔いれ〕て、はなたざれば、たやすふは、はなれがたし。

 殿上(てんじやう)へあげて、疊の上なる五德を吸(すわ)すれば、石の性は、つよし、五とくは、おもし、

「むくむく」

とおどり揚(あがつ)て、あやしき事、いふばかりなし。

 道喜、彼山伏にむかひ、

「定めて、まだ、外に深き子細あるべし。今、兵乱(へうらん)の節〔せつ〕なれば、りん國より當城(たうじやう)の虚実(きよじつ)をしらん為〔ため〕、なんぢを以て、忍びに入れ、味方(みかた)の備へを窺ふなるべし。眞直(まつすぐ)に、白狀すべし。」

と、再三、がうもんに及びしかども、別の子細もあらざるゆへ、

「誠に、か程、つたなき謀(はかり〔ご〕と)にて、我を欺かんとせし事、蜘蛛(ちちう)のあみに大鳳(〔たい〕ほう)を待〔まち〕、せうめいが海を埋(うめ)んとするに等し。然れども、千丈の堤(つゝみ)も蟻穴(ぎけつ)よりくづるゝといへば、常に小事にも油斷すべきにあらず。」

と、それより、用心、猶、以て、きびしくし、山伏は死罪をなだめ、されども、

「國中〔くにうち〕には置〔おき〕がたし。」

迚(とて)、一國を追放しぬ。

 是より、

「道喜、智謀ふかき人。」

と、さたせられて、いよいよ軍〔いくさ〕も名高く、隣國の人も、おそれ侍りぬ。

 

 

金玉ねぢぶくさ六終

[やぶちゃん注:「置(をい)て」ルビはママ。

「向後(けう〔こう〕)」ルビはママ。「きやうこう」(或いは「きやうご」)が正しい。

「料理人さい藤五兵衞」の処分が言及されていないのが甚だ不満である。

「崇敬(そうけう)」ルビはママ。「すうけい」。

「吸(すい)つき」ルビはママ。

「力を入〔いれ〕て」強い力を以ってかくして。

「殿上(てんじやう)」天井。

「吸(すわ)すれば」ルビはママ。

「兵乱(へうらん)」漢字表記とルビはママ。「ひやうらん」が正しい。「へいらん」ならば、そのまま同じであるから、孰れでも誤りである。

「虚実」漢字表記はママ。

「がうもん」「拷問」。

「ゆへ」ママ。

「蜘蛛(ちちう)のあみに大鳳(〔たい〕ほう)を待〔まち〕」蜘蛛がちっぽけな網でもって大鳳が掛かるのを待ち。

「せうめいが海を埋(うめ)んとする」「せいめい」は致命的な誤り。言うなら、「精衞(せいゑい)が海を埋めんとする」でなくてはおかしい。「精衞顚海」(せいえいてんかい)の成句で知られる。「山海経」の「北山経」が出典で、「精衛」とは伝説上の小鳥の名で、「填海」は海を埋(うず)めることを謂う。伝説上の皇帝炎帝の娘であっや女娃(じょあ)は東海で溺れ死んだが、女娃は小さな鳥精衛へと化身し、自身を殺した東海を、小石や小枝などで埋め尽くそうしたが、失敗に終わったという故事に基づき、「実現不可能な計画を立て、結局は失敗して全くの無駄に終わること」の譬えである(他に「何時まで経っても悔やんでいること」のそれにも用いる)。

「千丈の堤も蟻穴よりくづるゝ」ほんの僅かな不注意や油断から、大事が起こることの譬え。「韓非子」の「喩老篇」にある「天下之難事必作於易、天下之大事必作於細」、「千丈之堤以螻蟻之穴潰、百尺之室以突隙之烟焚」(天下の難事は必ず易きより作(な)り、天下の大事は必ず細なるより作る)、「千丈の堤も螻蟻 (らうぎ) の穴を以て潰 (つひ) ゆ」に基づく。「螻蟻」はケラとアリ。]

2020/09/16

直江木導句集 水の音 PDF縦書版公開

芭蕉最晩年の愛弟子直江木導の死後の句集「水の音」をオリジナル電子化注でPDF縦書版としてサイト版として公開した。私の2020年の電子化注の特異点と言える。

少し疲れた。

2020/09/14

停滞ではない

直江木導句集「水の音」に本未明よりとりかかった。やはり、一筋繩ではいかないことが分かった。注をストイックにしても、結局、注を附さないと無理がある。今日、丸一日で半分も行かぬ。総ての作業を中止して、これに向かっている。明日一日でも出来ぬかも知れぬ。今暫く、待たれよ――

2020/09/13

大和本草卷之十三 魚之下 ビリリ (神聖苦味薬) / 「大和本草」の水族の部~本巻分終了

 

【蠻種】[やぶちゃん注:初めて目にする頭書である。]

ビリヽ 紅夷國ヨリ來魚ノ膽ナリ不詳其魚之形狀主

治赤白痢疾腹痛心痛又解諸獨毒魚菌毒水ニテ

送下ス瘧發日朝水ニテ用ユ虫クヒ齒ニハ其穴ヲ可塞○

諸虫獸傷水ニテ付○頭面瘡に付○諸腫痔瘡水ニ

和シ付ル○打撲杖瘡ニ貼ル○天虵毒ニ水ニテ付○鷹ノ

羽虫ニ水ニテ付ル驚風產後積塊氣付ニ用右症何レモ

一時二三分充水ニスリ立可用服後半日生菜ヲ

食ヘカラス右ノ功能未知可否姑記所聞見尓

○やぶちゃんの書き下し文

【蠻種】

ビリヽ 紅夷國〔(こういこく)〕より來〔(きた)る〕魚の膽〔(きも)〕なり。其の魚の形狀、詳らかならず。主治、赤白〔(せきびやく)の〕痢疾・腹痛・心痛。又、諸毒、毒魚と菌毒を解す。水にて送〔り〕下す。瘧〔(おこり)は〕、發〔(はつ)せる〕日の朝、水にて用ゆ。「虫くひ齒」には、其の穴を塞ぐべし。

○諸虫獸〔による〕傷、水にて付く。

○頭面瘡〔(とうめんさう)〕に付く。

○諸〔(もろもろの)〕腫〔(はれもの)〕・痔瘡〔(じさう)〕、水に和し、付くる。

○打撲・杖瘡〔(ぢやうさう)〕に貼る。

○天虵毒に水にて付く。

○鷹の羽虫に水にて付くる。驚風・產後・積塊〔(しやくくわい)〕・氣付に用ふ。右症、何れも、一時、二、三分〔(ぶ)〕充〔(あて)〕、水に、すり立〔て〕、用ふべし。服して後、半日、生菜〔(なまな)〕を食ふべからず。右の功能、未だ可否を知らず、姑〔(しばら)〕く聞見〔(ぶんけん)〕するの所を記すのみ。

[やぶちゃん注:最後「尓」の右下に「ニ」が奥ってあるが、衍字であろう。

 さても。最後の最後に困らされる。全く何だか分からない。一つだけ、赤松金芳氏の論文「中井厚沢とその著書「粥離力考」(『日本醫史學雜誌』第十巻第二・三号。昭和三九(一九六四)年発行。PDF)で、是非、読まれたいが、そこではその正式名をヘイラ・ピクラ(Hiera Picra)とし、所謂、万能薬「神聖苦味薬」の一種であるようだ(魚の肝(きも)由来というのはガセネタのようである)。而して、これは所謂、錬金術の中で創造された下らぬものであるような気がした。

「紅夷國」「紅い毛の夷人」で、江戸時代に欧米人を卑しんで言った語。

「赤白〔の〕痢疾」赤痢(下痢・発熱・血便・腹痛などを伴う大腸感染症)と、出血を伴わない下痢の内、特に小児に多いコレラに似た感染症を指す。

「瘧」マラリア。

「虫くひ齒」虫歯。

「頭面瘡」広く頭部から顔面に発症する蕁麻疹様の皮膚疾患を指す。

「杖瘡」杖を必要とする打撲或いは関節炎やリュウマチを指すか。

「天虵毒」全身性に多発増殖する悪性の腫瘍疾患を指すようである。

「鷹の羽虫」鳥に有意に寄生するダニ類を指すのであろう。

「驚風」漢方で、小児のひきつけを起こす病気の旧称。癲癇の一型や髄膜炎の類いとされる。

「積塊」現代仮名遣「しゃくかい」。昔、体内の毒素が長い間に積もって出来ると考えられていた硬質の腫瘍。癌以外の良性のシコリも含まれる。

「二、三分」一分は三十七・五ミリグラム。

 【2021年3月6日標題と以下を改稿】これを以って二〇一四年一月二日に始めた「大和本草」の水族の部の本巻分の電子化注を終わる。この時、実は私は忘れていた。何を? 「大和本草」には別に――「大和本草附録」二巻と「大和本草諸品図」三冊(上・中・下)があることを――である。付図の方は理解していたのだが、正直、恐らくは画才の足りない弟子の描いたものが多く、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 鱟」で示した如く、マスコット・キャラクターのようなトンデモないものがあることから、無視しようと思って黙っていた。しかし、今朝、総てを確認したところ、追加の「附録」二巻の内には確かな海産生物が有意に含まれていることから、『「大和本草」の水族の部』の完遂とは逆立ちしても言えないことが、判ってきた。されば、カテゴリの最後の【完】を除去し、続行することに決した。お詫び申し上げる。因みに、これは誰彼から指摘を受けた訳ではない。あくまで自分の良心が「大和本草諸品図」の方に働いていたことからの自発的な確認に由ったものである。――というより――正直――『ああ! また「大和本草」とつき逢えるんだな!』という喜びの方が遙かに大きいことを告白しておく。]

大和本草卷之十三 魚之下 䱒(しほうを) (塩漬け)

 

䱒 塩漬魚ナリ鯛鱖鱒大口魚鰷鯔等皆佳ナリ久ニ

堪フ塩引ニ乄乾シ薄聶テ乾堅魚ノ小片ト同シク酒

ニ浸シ食フ酒ビテト云鱖最ヨシ油多キハ病人ニイム痰ヲ

聚ム大口魚性尤カロシ

○やぶちゃんの書き下し文

䱒(しほうを) 塩に漬〔(ひた)〕す魚なり。鯛・鱖〔(さけ)〕・鱒・大口魚・(たら)・鰷〔(はや)〕・鯔〔(ぼら)〕等、皆、佳なり。久〔(ひさしき)〕に堪ふ。塩引〔(しほびき)〕にして乾し、薄く聶(へ)ぎて乾す。堅魚(かつを)の小片と同じく、酒に浸し、食ふ。「酒びて」と云ふ。鱖、最もよし。油多きは、病人に、いむ。痰を聚〔(あつ)〕む。大口魚、性、尤も、かろし。

[やぶちゃん注:広義のガッツり仕込んだ塩漬けである。

『「酒びて」と云ふ。鱖、最もよし』「鮭の酒びたし」として良く知られ、私も大好物である。]

大和本草卷之十三 魚之下 糟魚麹魚 (粕漬け・麹漬け)

 

糟魚麹魚 鰷鱖蚫鱸鰡皆佳シ糟魚ハ早ク熟乄不

堪久麯魚ハヲソク熟乄久ニ堪フ一年ヲ歷テモ不敗又

アフリテモ煮テモヨシ糟魚ハ酒ト同時不可食滯塞

○やぶちゃんの書き下し文

糟魚麹魚〔(かすうを かうぢうを)〕 鰷〔(はや)〕・鱖〔(さけ)〕・蚫〔(あはび)〕・鱸・鰡〔(ぼら)〕、皆、佳し。糟魚は早く熟して、久〔しき〕に堪へず。麯魚は、をそく[やぶちゃん注:ママ。]、熟して久〔しき〕に堪ふ。一年を歷〔(へ)〕ても、敗〔(くさ)〕れず。又、あぶりても、煮ても、よし。糟魚は酒と同時に食ふべからず。滯塞〔(たいさい)〕す。

[やぶちゃん注:現行も行われている粕漬けや麹漬け。ここを見ると、案に相違して、益軒先生、鮒鮓はOKらしい。でもどうかな? 発酵系は九州の人はダメな人が多いからなぁ。]

大和本草卷之十三 魚之下 肉糕(かまぼこ)

 

【和品】

肉糕 鯛鱸ハモキスコイカナマヅエソカマス皆カマホ

コトスヘシ或二三種マシユルモヨシスリタタキテ蒸炙ユヘニ

性和ナリ病人食フヘシ最益人補虚新鮮ナル魚肉ヲコソ

ケ取テ筋骨ヲ去石臼ニテ初ヨリ塩ヲ加ヘ能スリタタキ

テ後米泔ト酒トヲ加フ鹽ヲ早ク加レハスリカタケレ𪜈早ク加

ヘテヨクスルヘシ泔と酒トニ和スレハ柔ナリ板ニツケテウ

ラヨリヤクヲモテヨリ直ニヤケハ皮コハシ不燒シテセイロウ

ニテムシテ後少ヤク尤好ヤハラカナリ夏ハ塩少過セハ堪

久又スリタル肉ヲ短板ニツケ鍋ニ熱湯ヲ沸シテ入ヨク

煮テ取アケ炭火ニテ少しコケ色ニナルホト炙ル炙タルヨリ

蒸タルモ煮タルモヤハラカニテ老人虚人ニ益アリ肉糕ハ中

華ノ書ニ不見本邦ニモ古ハ無之近世始製ス又ウケ

ト云ハ肉糕ヲヤカスシテ團ニ乄羹ニ入レテ煮食スルヲ云魚

肉ヲスリタタキ酒ト塩泔ヲ加フ油多キ魚ハ水ニテ煮テ

取アケ羹ニ加フヘシ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

肉糕(かまぼこ) 鯛・鱸・はも・きすご・蚫〔(あはび)〕・いか・なまづ・えそ・かます、皆、「かまぼこ」とすべし。或いは、二、三種、まじゆるも、よし。すりたたきて、蒸〔し〕炙〔る〕ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、性〔(しやう)〕、和なり。病人、食ふべし。最、も人を益し、虚を補す。新鮮なる魚肉をこそげ取りて、筋骨を去り、石臼にて、初めより塩を加へ、能く、すりたたきて後、米泔〔(ゆする)〕と酒とを加ふ。鹽を早く加へれば、するがたけれども、早く加へて、よくするべし。泔〔(ゆする)〕と酒とに和ずれば、柔〔か〕なり。板につけて、うらより、やく。をもてより直〔(じき)〕にやけば、皮、こはし。燒かずして、「せいろう」にて、むして、後、少し、やく〔は〕尤も好し。やはらかなり。夏は、塩、少し過ぐせば、久しく堪〔(た)〕ふ。又、すりたる肉を短〔き〕板につけ、鍋に熱湯を沸〔(わか)〕して入〔れ〕、よく煮て取あげ、炭火にて、少し、こげ色になるほど、炙〔(あぶ)〕る。炙りたるより、蒸したるも、煮たるも、やはらかにて、老人・虚人に益あり。肉糕〔(かまぼこ)〕は中華の書に見えず。本邦にも古くは、之れ、無く、近世、始めて製す。又、「うけ」と云ふは、肉糕をやかずして、團〔子(だんご)〕にして羹〔(あつもの)〕に入れて、煮〔て〕食するを云ふ。魚肉を、すりたたき、酒と塩・泔〔(ゆする)〕を加ふ。油多き魚は水にて煮て、取りあげ、羹〔(あつもの)〕に加ふべし。

[やぶちゃん注:「肉糕」は「肉餻」とも書くが、今は「蒲鉾」が一般的である。これも古い歴史のある加工食材で、岡田稔氏の論文「かまぼこのピンからキリまで」(『調理科学』第十六巻第三号一九八三年発行・ここからPDFでダウン出来る)によれば、平安時代の「類聚雑要抄」(るいじゅうぞうようしょう:寝殿造の室礼と調度を記した古文献。摂関家家司であった藤原親隆が久安二(一一四六)年頃に作成したと推定されている)には、関白藤原忠実が永久三(一一一五)年に転居祝いに宴会を開いた際に、串を刺した蒲鉾の図が載っているとある。現在のような板に載った形になるのは室町中期(一五〇〇年頃)であるらしい。なお、歴史については、恐らく「手づくり アイスの店 マルコポーロ 料理の歴史雑学 かまぼこ・天ぷら歴史」のページが異様に詳しい。忠実の宴会に出た竹輪型の蒲鉾の再現画像も見られる。

「なまづ」新鰭亜綱骨鰾上目ナマズ目ナマズ科ナマズ属ナマズ Silurus asotus である。以外かも知れぬが、所持する小学館「食材図典Ⅱ 加工食材編」の「練り物①」によれば、室町後期の享禄元(一五二八)年に伊勢宗五(吾)なる武士が記した武家故実書「宗五大双紙」に『「かもぼこはなまづ本也」として、本来のかまぼこ原料はナマズであったと記し、続いてハモ、イカ、タイ、スズキ、キス、アワビ、カマスなどを載せている』とし、元禄六(一六九三)年に書かれた人見必大の「本朝食鑑」には『アマダイ、ヒラメ、ハゼ、ボラ、サケ、エビ、フカなどが載る。いずれも地元沿岸の鮮魚が原料であった』とあることから(同書は本書刊行(宝永七(一七〇九)年)に先立つこと十二年前で、しかも蒲鉾が市井にある程度の販路が拡大されない限りは、こうした記載をしなかったであろうと私は思う)、江戸中期には蒲鉾は広く販売されていたものと考えてよいであろう。

「米泔〔(ゆする)〕」二字でかく読んでおいた。米の研ぎ汁のこと。かつては洗髪に用いられ、この語も元は専ら「頭髪を洗い、梳(くしけず)ること」或いは「それに用いる暖めた米の研ぎ汁」などを指した。

「せいろう」「蒸籠」。せいろ。

「少し、やく」「少し、燒く」。

「少し過ぐせば」少しばかり大目に入れれば。

「久しく堪〔(た)〕ふ」長く保存に耐える。

「虚人」漢方で明白に「虚証」を示している人或いは病人。慢性的に虚弱で体力がない体質の人や、疾患によって機能が低下したり、生理的物質が有意に不足した、ある種、病的状態にある人を指す。

「肉糕〔(かまぼこ)〕は中華の書に見えず」似たような加工食材を知らない。恐らくは本邦でオリジナルに発展してきた加工食品である。ウィキの「蒲鉾」にも中文のそれはない。

「うけ」小学館「日本国語大辞典」にも載らないが、漁師の網につける丸い木製の「うき」を意味する「浮子(うけ)」、或いは河川底に定置して魚を漁る筒状の仕掛けである「筌(うけ)」(但し、この語自体が「うき」由来の可能性もある)か。前者か。

「羹〔(あつもの)〕」「熱物(あつもの)」で、魚鳥の肉や野菜を入れた熱い吸い物。本来のこの漢字は「丸煮にした子羊」と「美味い」の意である。]

大和本草卷之十三 魚之下 鮑魚(ほしうを) (魚の干物) 

 

鮑魚 時珍云乾魚也又乾鮝ト云淡鮝ハ塩ニ漬サズ

シテ乾スヲ云漢書師古注鯫【質渉切シラホシ】不

[やぶちゃん注:【 】は枠入。所謂「反切」の割注で、「鯫」をそれで示して、以下に和訓を附したもの。ブログでは再現出来ないので、かくした。]

著塩而乾者

○やぶちゃんの書き下し文

鮑魚(ほしうを) 時珍云はく、『乾魚〔(ほしうを)〕なり』〔と〕。又、『乾鮝〔(けんしやう)〕」と云ふ』〔と〕。淡鮝(しらほし)は塩に漬(ひた)さずして乾すを云ふ。「漢書」師古注〔に〕『鯫【「質」「渉」〔の〕切。「しらほし」。】、塩に著〔(つ)〕けずして乾す者』〔と〕。

[やぶちゃん注:「鮑魚」は一度塩漬けにしたものを乾したものを指す。「鮑」は現行では「あわび」を専ら指すが、それ以外に「塩漬けにした魚」の意がある。

「乾鮝」(現代仮名遣「けんしょう」)の「鮝」は「鯗」=「鱶」の異体字で、この字には鮫の「ふか」の意以外に「干物」の意がある。「本草綱目」の「鮑魚」の「集解」の中に『鮝、亦、乾魚之總稱也』と記されてある。

『「漢書」師古注』初唐の学者顔 師古(がん しこ 五八一年~六四五年)が皇太子承乾の命により、「漢書」(後漢の章帝の時、班固・班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書)全百巻の注釈を作成したもの。六四一年完成。

「鯫」この字には現在は一つに「雑魚」の意がある。この記事は、早稲田大学図書館の「古典総合データベース」の「漢書」師古注の清の一六五六年刊の版本で発見した。ここの左頁の主行三行目の「鮿鮑千鈞」の割注の冒頭の部分である。「鮿」(音「チョウ」(現代仮名遣))の字も「ひもの」を指す。

 

 なお、国立国会図書館デジタルコレクションの底本と同じ版本のこちらには、後人(恐らくは幕末か明治以降)によるものと思われる補注的な貴重な書き込みがあるので、それを電子化しておく。まず、

・冒頭の「鮑魚」の左にルビで『クサヤノヒモノ』

とある。私は「クサヤ」の名を本草書で見ることは、そうそうなかった。

・「鮑魚」の右下に『師古曰今之䱒魚也』

とある。先に示した師古注に続いて出ているので、今一度、見られたい。なお、「䱒」は「𩸆」と同字で、音は「ヨウ」、やはり塩漬けの魚を示す漢語である。

・「漢書」の左下に『貨殖傳』

と記す。私が膨大な「漢書」から容易に探し得たのは、この記載のお蔭である。

・「鯫」の反切の頭の左上に『今漢書作音輙』

とある。先の「漢書」を見ると、「輒」であるが、この字は「輙」(音「テフ(チョウ)」)の異体字であるから問題ない。

・本文の最後に『張良傳鯫音才垢反索隱曰―小魚也因按今ノゴマメノ類カ又云煏室乾之者鯫据之乃鳥ノ下ヱニスルヤキバヤノ類』

とある。流石に読みにくいので、試みに無理矢理、訓読してみる。

 「張良傳」に『鯫、音「才」・「垢」の反』〔と〕。「索隱」に曰はく、『小魚なり』と。因りて按ずるに、今の「ごまめ」の類〔(たぐひ)〕か。又、云はく、『室に煏(ふく(?))して之れを乾かす者は、鯫、之れに据〔(す)〕ふ』〔と〕。乃〔(すなは)ち〕、鳥の「下〔した〕ゑ」にする「やきばや」の類〔(たぐひ)〕〔か〕。

そうして、もしや、と思って、先に「漢書」の「張良傳」を調べたところ、頭の反切は、ここにあった(右頁九行目にある二行割注)。『服虔曰鯫音七垢反鯫小人也臣瓚口楚漢春秋鯫姓師古曰服說是也音才垢反』の最後の部分を引いたものであることが判る。次の「索隱」とは「史記索隱(しきさくいん)」で、唐の司馬貞による「史記」の注釈書である。その「劉侯世家」の注の中に『鯫生【吕静云鯫魚也謂小魚也音比垢反臣瓚按楚漢春秋鯫生姓解】』とあるのを中文サイトで発見した。「煏」は音が判らぬが、現代中国語では「火で乾かす」の意である。「ごまめ」は「田作り」のことで、あの原材料はニシン目ニシン亜目カタクチイワシ科カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシ Engraulis japonicus の幼魚の乾燥品である。「下餌」は鳥の餌の中で昆虫類や魚を粉末にしたものを指す(「上餌」は穀類(大豆や小麦など)の粉末を混ぜたものを指す)。但し、後の「ヤキバヤ」という呼称は不詳。ネット検索でも掛かってこない。]

2020/09/12

大和本草卷之十三 魚之下 鱁鮧(ちくい なしもの しほから) (塩辛)

 

鱁鮧【ナシモノ シホカラ】孫愐唐韻曰鹽藏魚腸也○諸魚介ノ中

[やぶちゃん注:【 】は二行割注部。前が右に、後が左に記されてある。]

海膽海參腸ヲ上品トス鰷腸肉ト子ヲ加ルモ亦

好鯛腸及子鯖肉及背腸蚫肉メハルノ子鱖ノ子鰹

魚肉海鰮寄居蟲皆可作鱁鮧味好然トモ皆腥

穢ノ物能聚痰病人勿食服藥人最不可食損藥

力○鰾亦鱁鮧ト云同名異物也○魚鳥ノ醢性味

共ニ鱁鮧ニマサレリ魚鳥ノ生肉ニ鹽麯ト醇酒ヲ加

ヘテ作之四時共ニ時時可作之老人虛人朝夕食

之而可也製法ハ獸類兔ノ下ニ詳之可考鳥ハ雁鳬

小鳬鳩ケリツグミ雀シトヽヒバリウツラ等魚ハ鰷鱖

鯛鱸鯔鯖キスゴ肥テ味ヨキ時可用皆皮ト筋ヲ

ヨク去ヘシ小鳥ハ皮トモニクダク右ノ肉醢の法中夏

ノ書ニ出タリ

○やぶちゃんの書き下し文

鱁鮧(ちくい)【なしもの しほから】孫愐〔(そんめん)〕が「唐韻」に曰はく、『鹽藏の魚腸なり』〔と〕。

○諸魚介の中、海膽(うに)・海參腸(このわた)を上品とす。鰷腸(うるか)に肉と子を加ふるも亦、好し。鯛の腸及び子、鯖の肉及び背腸(せわた)、蚫〔(あはび)〕の肉、「めばる」の子、鱖(さけ)の子、鰹魚(かつを)の肉、海鰮(いはし)・寄居蟲(がうな)、皆、鱁鮧と作〔(な)〕すべし。味、好し。然〔(しか)れ〕ども、皆、腥穢〔(せいゑ/せいわい)〕の物〔にして〕、能く痰を聚〔(あつ)〕む。病人、食ふ勿〔(なか)〕れ。藥を服〔する〕人、最も食ふべからず。藥〔の〕力を損ず。

○鰾(にべ)も亦、「鱁鮧」と云ふ。同名異物なり。

○魚鳥の醢(しゝびしほ)、性〔しやう〕・味、共に鱁鮧にまされり。魚鳥の生肉に鹽麯〔(しほかうじ)〕と醇酒〔(じゆんしゆ)〕を加へて、之れを作る。四時共に、時時、之を作るべし。老人・虛人、朝夕、之れを食ひて可なり。製法は獸類「兔〔(うさぎ)〕」の下に之れを詳かにす〔れば〕、考ふべし。鳥は雁〔(かり)〕・鳬〔(かも)〕・小鳬・鳩・けり・つぐみ・雀・しとゝ・ひばり・うづら等、魚は鰷〔(はや)〕・鱖〔(さけ)〕・鯛・鱸〔(すずき)〕・鯔・鯖・きすご、肥えて味よき時、用ふるべし。皆、皮と筋〔(すぢ)〕を、よく去るべし。小鳥は、皮ともに、くだく。右の肉醢〔(ししびしほ)〕の法、中夏[やぶちゃん注:ママ。「中華」の誤記であろう。]の書に出でたり。

[やぶちゃん注:「鱁鮧(ちくい)【なしもの しほから】」塩辛或いは塩麴漬け。「なしもの」はこの漢字に当て訓される。「なしもの」は広く塩辛だけでなく魚醤 (うおひしお:ぎょしょう)にも用いられる。但し、現行では、後に出る、アユの塩辛である「うるか」にこの漢字を当てている。ウィキの「うるか」によれば、『鮎の内臓のみで作る苦うるか(渋うるか、土うるか)、内臓にほぐした身を混ぜる身うるか(親うるか)、内臓に細切りした身を混ぜる切りうるか、卵巣(卵)のみを用いる子うるか(真子うるか)、精巣(白子)のみを用いる白うるか(白子うるか)等がある』。『また、現在では保護野鳥として捕獲が禁止されているが、かつては岐阜県中津川市などの山岳地帯では、鳥の鶫』(スズメ目ヒタキ科ツグミ属ツグミ Turdus eunomus)『の心臓や腸を細かく切って塩蔵して発酵させた「つぐみうるか」という塩辛もあった』とある。実はこれは私の特異点で、苦手である。

『孫愐が「唐韻」』唐代の孫愐(生没年未詳)編した七五一年に成立した韻書。中国語を韻によって配列し、反切 (はんせつ) によってその発音を示したもので、隋の陸法言の「切韻」を増訂した書の一つ。後に北宋の徐鉉(じょかい)によって「説文解字」大徐本の反切に用いられたが、現在では完本は残っていない。

「海膽(うに)」卵の塩辛であるから、「雲丹」が正しい。

「海參腸(このわた)」ナマコの腸の塩辛。「海鼠腸」とも書く。塩辛としては珍しくビタミンAが豊富である。私がクチコ(口子:ナマコの生殖巣のみを抽出して軽く塩をし、塩辛にしたものが「生クチコ」、干して乾物にした「干しクチコ」は形から「バチコ」(撥子)とも呼ぶ。他に「コノコ」(海鼠子)とも呼ばれる)に次いで好物とするものである。

「鯛の腸及び子」「子」は卵巣のこと(以下同じ)。伊豆の温泉宿で食したことがある。美味い。歴史が古く、室町初期の京都山科に住んでいた公家の日記にこの塩辛の記載が出る。

「鯖の肉及び背腸(せわた)」食べたことがない。ここに島根県美保関の「松田十郎商店」の広告がある。これはもう、小泉八雲所縁の地なれば! 行って食べたい!!! この製法では『骨と内臓を除去し』とあるものの、漬け込む秘伝の長年継ぎ足されたタレが『鯖の身や皮、わたから出る旨みがたっぷり染み込んだ』とある。

「蚫〔(あはび)〕の肉」現在も三陸に於いて「としろ」「うろ漬け」「福多女(ふくため)」の名でアワビの内臓の塩辛として製造されている。かなり塩辛いが、酒肴の珍味で、私も大好物である。四十三年以上も前になるが、ある雑誌で、古くから東北地方において、猫にアワビの胆を食わせると耳が落ちる、と言う言い伝えがあったが、ある時、東北の某大学の生物教授が実際にアワビの胆をネコに与えて実験をしてみたところが、猫の耳が炎症を起し、ネコが激しく耳を掻くために、傷が化膿して耳が脱落するという結果を得た、という記事を読んだ。現在、これは、内臓に含まれているクロロフィルa(葉緑素)の部分分解物ピロフェオフォーバイドa (pyropheophorbide a)やフェオフォーバイドa(Pheophorbide a)が原因物質となって発症する光アレルギー(光過敏症)の結果であることが分かっている。サザエやアワビの摂餌した海藻類の葉緑素は分解され、これらの物質が特に中腸腺(軟体動物や節足動消化器の一部。脊椎動物の肝臓と膵臓の機能を統合したような消化酵素分泌器官)に蓄積する。特にその中腸線が黒みがかった濃緑色になる春先頃(二月から五月にかけて)、毒性が最も高まるとされる(ラットの場合、五ミリグラムの投与で、耳が炎症を越して腐り落ち、更に光を強くしたところ死亡したという)。なお、なぜ、耳なのかと言えば、毛が薄いために太陽光に皮膚が曝されやすく、その結果、当該物質が活性化し、強烈な炎症作用を引き起すからと考えられている。人間は? まあ、アワビの生の胆だけを丼一杯分ぐらい一気に食べて、灼熱の下で日光浴をすれば、炎症を起こすとは思われる。

『「めばる」の子』メバル(一種ではないので、「大和本草卷之十三 魚之下 目バル (メバル・シロメバル・クロメバル・ウスメバル)」を参照されたい」の卵巣の塩辛は食べたことがないが、多分、美味いだろう。

「鱖(さけ)の子」ご存知、「イクラ」(ロシア語:икра/ラテン文字転写:ikra/発音:イクラー)もそうだが、腎臓(「背わた」「血わた」と呼ぶ)を長期熟成(半年から一年)させた塩辛「めふん」がある。「鮎うるか」同様にかなり癖があるが、こちらは私は平気だ。

「鰹魚(かつを)の肉」「酒盗」で知られる。偶然だが、昨日、無性に食べたくなって、今、冷蔵庫鎮座している。

「海鰮(いはし)」塩辛いものが好きな私が、国外の食材で一つだけ、「どう考えても、しょっぱ過ぎる!」と唸ることが多いのはアンチョビ(anchovy::    条鰭綱ニシン目ニシン亜目カタクチイワシ科 Engraulidaeの小さい海水魚の複数種)を原材料とするあれだ。まあ、単独で食べるのではなく、調味具だと言われれば、それまでなんだけどね。

「寄居蟲(がうな)」ああ! 多分、美味いだろうなぁ! 私の好物の一つに、佐賀の郷土料理の一つである「がんづけ」(「蟹漬け」の音変化)があった。本来は、真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目スナガニ上科スナガニ科スナガニ亜科シオマネキ属シオマネキUca arcuata の「ふんどし」部分を除去して殻のままに擂り潰し、塩と唐辛子を加えて三~四ヶ月発酵させたものだが、今や、絶滅危惧Ⅱ類(VU)となった以上、食べる訳にはゆかぬのであるが、関東で売られているものを見ると、蟹の原産地は中国になっているのに気づいた。それ以来、私は「がんずけ」は食わないことにした。もう、十年以上、食べてないな。

「腥穢〔(せいゑ/せいわい)〕」(「ヱ」なら呉音、「ワイ」なら漢音) 生臭くて、汚(けが)れていること。

「能く痰を聚〔(あつ)〕む」痰を盛んに発生させるの意。

『鰾(にべ)も亦、「鱁鮧」と云ふ』ニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii。但し、「大和本草卷之十三 魚之下 石首魚(ぐち) (シログチ・ニベ)」を参照されたい。これは「本草綱目」に拠ったもの。今時、こんな画数の多い漢字では書くことはない。ニベは専ら「鮸」である。

「魚鳥の醢(しゝびしほ)」思うに、以下で「性・味、共に鱁鮧にまされり」と言っているところ、「兔」を例として出しているところから(兎の数助詞は「羽」だけれども、である)、「魚鳥」は「獸鳥」の誤りではあるまいか? なお、「鳥醢」(とりびしほ(とりびしお))という語が存在し、塩漬けにした鳥肉を、さらに麹(こうじ)・味醂(みりん)・醤油などに漬けた鳥肉の塩辛のことを指す。残念ながら、私はたたきはいくらも食べたことがあるが、完全に塩辛にしたものは食べたことがない。

「鹽麯〔(しほかうじ)〕」「塩麴」に同じい。

「醇酒〔(じゆんしゆ)〕」香りの高く、コクのある日本酒。

「四時」四季。一年中。

「虛人」漢方で言う「虛証」。体力が低下して全身的に生理的機能が衰えた状態を指す。

『獸類「兔〔(うさぎ)〕」の下に之れを詳かにす』無論、哺乳綱ウサギ目ウサギ科ウサギ亜科 Leporinae の「兎」のことである。残酷だなどと思わないで下さい。ならば、貴方はハム・ソーセージ・生ハム・燻製肉を食わぬか? 「大和本草卷之十六」の「獸類」の「兎」の項。部分だけというのも厭なので、全部を電子化する。底本と同じところのもの(八コマ目)を用い、初めから書き下しのみで示す。

   *

兎(うさぎ) 尾、短く、耳、大に、上唇、缺〔(か)〕け、目、瞬〔(まじ)〕ろかず。前足は、短く、後ろ足は長大、尻に小さき孔(あな)多し。子を生〔む〕に、口より吐く。妊婦、食ふべからず。八月以後、冬月、味、美〔(うま)〕し。春〔の〕後、草を食へば、味、美からず。小兒の疱瘡と消渴〔(せうかち)〕に用〔ひ〕て、古書に『尻に九孔あり』と、いへり。『老兎は尻の孔、多し』と云ふ。『他獸に異〔な〕り、臘月、醤〔(ししびしほ)〕と作〔(な)〕し、食ふ』と「本艸」に見ゑ[やぶちゃん注:ママ。]たり。又、曰はく、『死して、目、合はざる者は、人を殺す』〔と〕。

○兎醬〔(としやう/うさぎのししびしほ)〕を作る法、臘月、新しき兎の皮を、はぎ、筋〔(すぢ)〕と骨とを𠫥〔(さ)〕り、肉を細〔か〕に、たゝきくだき、生肉百匁〔(もんめ)〕に炒鹽〔(いりじほ)〕十五匁、かうじ[やぶちゃん注:ママ。「麹」で「かうぢ」が正しい。]末〔(まぶ)〕して、三十匁、加ふ。又、茴香〔(ういきやう)〕・陳皮・丁香〔(ちやうじ)〕・乾薑〔(ほししやうが)〕・肉桂・山椒・胡椒等、好みに、隨ひて、三、四種、各二、三匁加ふ。又、生葱白〔(なまのしろねぎ)〕を、二、三日、鹽につけ、針のごとく切りて、四匁許り、加ふるも、よし。醇酒を加へ、まぜ合はせ、十日過ぎて、鹽の濃淡と、肉の燥濕〔(さうしつ)〕の宜〔(よろし)く〕を試み、鹽、淡(うす)くば、加へ、肉、燥(かは)かば、醇酒を加へ、重〔ね〕て、すりまぜ、相〔(あひ)〕和し、瓶に納め、口を、紙にて、はり、或いは、泥土にて、ぬり、六、七、十日を過ぎて、食す。久しく熟して、彌〔(いよいよ)〕よし。一切、鳥獸の醢(ひしほ)を製する法、皆、同じ。諸肉の皮・筋〔(すぢ)を〕して、厺〔(さ)る〕べし。小鳥は皮を厺らず、雁・鳬〔(かも)〕・雉・鳩・小鳥、味、佳〔よ〕き物、皆、醢とすべし。又、鰷〔(はや)〕・鱒・鯛・鱸・鯔等、魚〔の〕醢、亦、良し。寒月は鹽を減じ、暑月には鹽を加ふ。老人・脾虛〔の〕人、食ふべし。鱁鮧〔(ちくい)〕に、まされり。此法、中華の書「居家必用〔(きよかひつよう)〕」等に出〔で〕たり。

   *

いちいち細かな注は附さないが、必要と思われる部分を指摘しておくと、

・「尻に小さき孔(あな)多し」「尻に九孔あり」「老兎は尻の孔、多し」「子を生〔む〕に、口より吐く。妊婦、食ふべからず」実際に、中国には「ウサギの尻には九つの孔があり、そこから子を産む」という俗信があった。この発生原はよく判らないが、まず、「九」という数値で、これはウサギが一回に出産する最大個体数であることと関連しそうである。さらに画像を見ると、の場合、生殖器と肛門の間に左右に鼠径腺一対があり、これだけで四つの孔を現認できること、肛門部粘膜に乳頭腫と呼ばれる腫瘍が生ずることがあること等と関係するのかも知れないと想像した。また、ウサギには特有の食糞行動(夜間に肛門から直接に食べる)があることから、「口」「排泄」「出産」の連関性が強くあると言え、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑5 哺乳類」(平凡社一九八九年刊)の「ウサギ」の記載には、ここにある通り、中国では嘗て「雌兎は雄兎の毛を嘗めるだけで孕み、五ヶ月で子を口から吐き出す」という俗信があったとあり、さらに「妊婦、食ふべからず」について荒俣氏は『妊婦がウサギを食べたり見たりすると』、奇形の口蓋裂=『兎唇の子が生まれるとしてこれを忌みきらった』とあり、加えて、この禁忌は『子が』ウサギのように『肛門から』(ウサギの肛門と♀の生殖器は極めて近くに開口している)『生まれるようになるからともいう』とあった。

・「疱瘡」天然痘。

・「消渴〔(せうかち)〕」咽喉が渇き、尿が出ない症状を指す。

・「臘月」旧暦十二月の異名。

・「『他獸に異〔な〕り、臘月、醤〔(ししびしほ)〕と作〔(な)〕し、食ふ』と「本艸」に見ゑたり」「本草綱目」巻五十一下の「獸之二」の「兎」の「主治」の中に『臘月作醬食去小兒豌豆瘡』と「藥性」という書からの引用として載る。

・『死して、目、合はざる者は、人を殺す』同前の、「集解」の一番最後に、恐らくは陳藏器の言として、『兎死而眼合者殺人』とある。

・「𠫥〔(さ)〕り」「𠫥」は「去」の異体字。

・「匁」一匁は三・七五ミリグラム。

・「居家必用」正しくは「居家必要事類全集」で、元代の日用類書(百科事典)。撰者不詳。全十集。なお、その内容は当たり前のことだが、モンゴル式である。遊牧民であるから、獣類の塩蔵品は普通であったわけである。

   *

 以下、本文注に戻す。

「雁〔(かり)〕」広義のガン或いはカリ(「雁」)は以下の広義のカモよりも大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae亜科Cygnus属の六種及びCoscoroba 属の一種の全七種。全長百四十~百六十五センチメートルで、翼開長は二百十八~二百四十三センチメートルあるだけでなく、飛翔する現生鳥類の中では最大級の重量を有する種群で、平均七・四~十四、最大で十五・五キログラムにも達する)より小さい種群の総称。私の和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」を参照されたい。鳥の塩辛というのは、フランスの鳥レバー・ペーストぐらいしか食べたことはない。

「鳬〔(かも)〕」カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはマガモ属 Anas を総称するもの。同じく和漢三才圖會第四十一 水禽類 鳧(かも)〔カモ類〕」をどうぞ。

「小鳬」前注の幼体か小型種というわけではない。狭義にこの名の別種がおり、カモ科カモ亜科マガモ属コガモ亜種コガモ(小鴨)Anas crecca crecca である。同じく「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸍(こがも/たかべ)〔コガモ〕」を見られたい。

「けり」チドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ属ケリ Vanellus cinereus。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 計里 (ケリ)」を参照されたい。

「しとゝ」小学館「日本大百科全書」その他によれば、スズメ目ホオジロ科ホオジロ属 Emberiza のうちの幾種かに対して、古くから一般につけられた地方名であり、日本で普通にみられる種に限られる。「シトド」或いは「シトト」と称する鳥は、「日本鳥(ちょう)学会」が定めた和名に当て嵌めてみると、ホオジロ(ホオジロ属ホオジロ亜種ホオジロ Emberiza cioides ciopsis)・アオジ(Emberiza spodocephala)・クロジ(亜種クロジ Emberiza variabilis variabilis)・カシラダカ(カシラダカ Emberiza rustica)が該当する。「シトド」と発音するのは東北地方に多く、そのほかの地方では「シトト」が多い。ついで、アオジ・クロジ・ノジコ(Emberiza sulphurata)など、肉眼での野外識別が困難な個体を総称して「アオシトド」あるいは「アオシトト」とよぶ地方があり、ホオジロを「アカシトト」、クロジを「クロシトト」、ミヤマホオジロ(Emberiza elegans)を「ヤマシトト」とよぶ地方もある。

「鰷〔(はや)〕」ハヤという種はいない。複数種の総称。縁が近い訳でもない。「大和本草卷之十三 魚之上 ※(「※」=「魚」+「夏」)(ハエ) (ハヤ)」の私の注を参照されたい。

「きすご」鱚(きす)。スズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae のキス(鱚)類、或いは同科キス属シロギス Sillago japonica の別名である。

「肉醢〔(ししびしほ)〕」二字の読みとして附した。]

大和本草卷之十三 魚之下 魚鮓

 

魚鮓 脾胃ニ益ナシ消化シカタシ病人不可食未熟

ト熟シ過テ肉モ飯モ餒タルハ不可食久ヲ歴タル不可

食皆害人早鮓ノ㳒制アリ常ノ鮓ヨリカロシ無病人

少食乄不損脾胃味亦佳シ久ヲ不歷シテ新鮮ナル

故ナリ鰻鱺鰕烏賊等鮓不可食陳藏噐曰鮓内有

髮害人時珍曰凡諸無鱗魚鮓食之尤不益人

○やぶちゃんの書き下し文

魚鮓〔(うをのすし)〕 脾胃に益なし。消化しがたし。病人、食ふべからず。未だ熟さざると、熟し過ぎて、肉も飯も餒(くさ)れたるは、食ふべからず。久〔(ひさしき)〕を歴〔(へ)〕たる〔は〕、食ふべからず。皆、人を害す。早鮓〔(はやずし)〕、㳒制〔(はふせい)〕あり。常の鮓より、かろし。無病の人、少〔し〕食〔(しよく)〕して、脾胃を損せず、味も亦、佳〔(よ)〕し。久〔(ひさしき)〕歷〔へ〕〕ずして、新鮮なる故なり。鰻鱺〔(うなぎ)〕・鰕・〔(えび)〕・烏賊〔(いか)〕等〔の〕鮓、食ふべからず。陳藏噐が曰はく、『鮓の内に髮有れば、人を害す』、時珍が曰はく、『凡そ諸〔(もろもろ)〕の無鱗魚の鮓、之れを食へば、尤も、人に益あらず』〔と〕。

[やぶちゃん注:ここでは所謂、「熟(な)れずし」及び「押し寿司」の二種が記載されている。現行一般の「握り鮨」(江戸時代はシャリが大きかった)は「未だ熟さざる」「は、食ふべからず」に相当するので、益軒は禁忌としていることが判る。但し、「熟し過ぎて肉も飯も餒(くさ)れたる」「は、食ふべからず。久を歴たる、食ふべからず」と言っているからには、益軒は所謂、鮒鮓(ふなずし)のような発酵を促進させた「熟(な)れ鮓」系統(こちらの歴史は遙かに古い。「今昔物語集」巻第三十一の「人見醉酒販婦所行語第三十二」(「人、酒に醉(ゑ)ひたる販婦(ひさぎめ)の所行(しよぎやう)を見たる語(こと)第三十二」)に既に「鮎の熟れ鮓」が出る。「やたがらすナビ」のこちらで原文が読めるが、かなり穢(きたな)い話なので自己責任で読まれたい)は、皆、腐ったものとして禁忌としているもののように読める。益軒のほどよい「熟」というのは、恐らくは、数時間から一夜ほどを醬油・醋・煎り酒(前項参照)などにヅケ(漬け)にしたものを指しているように読める。但し、書き振りから、「早鮓」が先生の大のお好みらしい。因みに、私は鮒鮓が大好物である。先日も七千円弱の二十センチメートル強の一匹を食したばかりだ。まっこと、美味い。私の秘訣を教えておくと、残った頭の部分は、周りの発酵した米飯と一緒に、形がなくなるぐらいまでテッテ的に叩き込むのである。普通の白いそれと、墨色のそれを盛って、鮓と一緒に供する。この発酵した米飯が、これまた、強力な酒のアテとなる絶品なのである。「鮒鮓」は文字通り、捨てるところがないのである。このやり方は、嘗て訪ねた京都の割烹「ゆ」の若い主人から教えて貰ったもので、奥さんは美しい元舞妓さんであった。懐かしい。

「脾胃」前項参照

「餒」は音「ダイ」。魚肉が腐る、饐(す)えるの意。

「早鮓」は所謂、関西系の押し寿司であろう。塩或いは酢で締めた魚と、酢を加えて調味した飯とを重ねて、強く押しをして一夜又は数時間で味を熟(なら)して食べる鮨。「一夜鮨」とも言い、夏の季語である。

「㳒制〔(はふせい)〕」「㳒」は「法」の異体字。製法。

「鰻鱺〔(うなぎ)〕・鰕・〔(えび)〕・烏賊〔(いか)〕等〔の〕鮓、食ふべからず」益軒先生、けったいなこと言いはりますなぁ。江戸前では鰻を鮨にするところは殆んどないが、私は一九六九年、富山県高岡市伏木に転居したが、その夜、入った寿司屋で、初めて鰻(無論、蒲焼である)の鮨を食った。

「陳藏噐が曰はく、『鮓の内に髮有れば、人を害す』、時珍が曰はく、『凡そ諸〔(もろもろ)〕の無鱗魚の鮓、之れを食へば、尤も、人に益あらず』〔と〕」「本草綱目」「鱗之四」に「魚鮓」があり、その「氣味」に、

   *

甘、鹹、平。無毒。藏器曰、『凡鮓皆發瘡疥。鮓内有髮害人』。瑞曰、『鮓不熟者、損人脾胃反致疾也』。時珍曰、『諸鮓、皆、不可合生胡荽・葵菜・豆藿・麥醬・蜂蜜。食令人消渴及霍亂。凡諸無鱗魚、鮓食之尤不益人』。

   *

とある。時珍の謂いは、これまた、食い合わせの類いと思われるので、語注しない。]

大和本草卷之十三 魚之下 魚膾

 

魚膾 細者爲膾大者為軒本草綱目本草約言等

ニ治病之功多シト云壯盛ノ人ハ食之可無害虚冷病

人老衰之人所不宐也凡生肉ハ脾胃ノ發生ノ氣ヲ

ヤフル醋ハ脾虚ニ不宐生肉生菜ニ醋ヲ加ヘ和乄生ニ

テ食ス最害アリ魚肉ヲ細ニ切塩酒菜蔬ニ和乄後

少煑アタヽメ醋ヲ少加ヘ食ス不傷胃本草ニ魚膾ハ

𤓰ト同食スヘカラス然レハ魚ト菜𤓰トヲ和乄膾ニシテ

食フヘカラス又生肉ヲ大ニ聶テ醋或煎酒ニ浸シ食フヲ

指身ト云病人不可食肉ヲ切テ沸湯ニテ微煮テ

ワサヒ芥薑醋或煎酒ヲアタヽメ肉ヲ入テ食フ無害人

ヨリ生肉ハ不滯消化易シ煮乾塩藏シタル魚滯ヤスシ

ト云人ノ性ニヨルヘシ無病人ハ生肉早ク消乄不滞

○やぶちゃんの書き下し文

魚膾〔(うをなます)〕 細き者を膾と爲〔(な)〕し、大なる者を軒(さしみ)と為す。「本草綱目」・「本草約言」等に『治病の功、多し』ト云ふ。壯盛〔(さうせい)〕の人は之れを食ひて、害、無かるべし。虚冷の病人・老衰の人、宐〔(よろ)し〕からざる所なり。凡そ、生肉は脾胃の發生の氣を、やぶる。醋〔(す)〕は脾虚に宐〔し〕からず。生肉、生菜に醋を加へ、和して、生にて食す〔は〕最も害あり。魚肉を細〔(こまか)〕に切り、塩・酒・菜に和して後、少し煑〔に〕あたゝめ、醋を少し加へ、食す〔は〕胃を傷めず。「本草」に『魚膾は𤓰〔(うり)〕と同食すべからず』〔と〕。然〔(しか)〕れば、魚と菜・𤓰〔(うり)〕とを和して膾にして食ふべからず。又、生肉を大〔(だい)〕に聶(へ)ぎて、醋或いは煎酒〔(いりざけ)〕に浸し、食ふを、「指身〔(さしみ)〕」と云ふ。病人、食ふべからず。肉を切りて沸湯にて、微〔(わづか)に〕煮て、わさび・芥〔(からし)〕・薑〔(しやうが)〕醋、或いは煎酒をあたゝめ、肉を入れて食ふ〔は〕、害、無し。人により、生肉は滯〔(とどこほ)〕らず、消化し易し。煮(に)、乾(ほ)し、塩藏したる魚〔は〕、滯りやすし、と云ふ。人の性〔(しやう)〕によるべし。病ひ無き人は、生肉、早く消〔(せう)〕して滞らず。

[やぶちゃん注:「軒(さしみ)」刺身に同じい。小学館「日本国語大辞典」の語源説に「大言海」から、江戸時代、「切る」を忌詞(いみことば)としたためかとあって、「み」な肉の意とする。江戸末期から明治にかけて編纂された国語辞書「和訓栞」(わくんのしおり:谷川士清(ことすが 安永六(一七七七)年~明治二〇(一八八七)年) 編)に「魚軒(さしみ)」と出るが、幾ら調べてみても、「軒」の漢字がどうして「刺身」の意になるのかが腑に落ちる記載には巡り逢わなかった。識者の御教授を乞うものである。

「本草約言」「藥性本草約言」。明の薛己(せつき)編の本草書。和刻本は万治三(一六六〇)年刊。

「壯盛」若くて元気がよいさま。又は、若い盛り。

「虚冷」虚弱体質、或いは、体温が有意に低下するような疾患に罹っている人、或いは、消化器系疾患等によって衰弱している人を指す。

「宐」「宜」の異体字。

「脾胃」漢方では広く胃腸、消化器系を指す語である。

「發生の氣」正常な陽気の発生。

「脾虚」消化器系機能全体の低下。

「生肉、生菜に醋を加へ、和して、生にて食す」以下の叙述から、魚の生肉を大きな切り身の状態で、しかもそれに生の野菜を添えて和(あ)えて、そのまんま、食べることを禁忌としていることが判る。

『「本草」に『魚膾は𤓰〔(うり)〕と同食すべからず』〔と〕』「𤓰」は「瓜」の異体字。「本草綱目」「鱗之四」に「魚鱠」があり、その「氣味」の中に、陳蔵器の引用として、『不可同𤓰食』と出る。根拠は記されていない。食べ合わせの類いに過ぎない。

「聶(へ)ぎて」角川書店「新版 古語辞典」に「ひう」で、他動詞ワ行下二段とし、「肉などを薄く小さく切る。はぐ」とある。「剝ぐ」の古形か。「古事記」の歌謡に既に出る。

「煎酒〔(いりざけ)〕」二種あり、①酒を煮立ててアルコール分を飛ばしたもので調味用に用いるもの。②酒に醤油・鰹節・梅干しなどを入れて煮詰めたもので、刺身・酢の物などの調味料として用いる。ここは②の意であろう。

「指身〔(さしみ)〕」これ以外にも「差身」「差味」などとも漢字を当てた。]

大和本草卷之十三 魚之下 たがへ (タカベ)

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は前に合わせて「同」。]

タガヘ 長五六寸許色靑黒色形アヂニ似又コノシロニ似

タリ關東ニアリ味淡シ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

たがへ 長さ、五、六寸許り。色、靑黒色。形、「あぢ」に似、又、「このしろ」に似たり。關東にあり。味、淡し。

[やぶちゃん注:最後に困った。「タガヘ」「タガエ」何て名の魚は知らぬからだ(念のため、国立国会図書館デジタルコレクションの画像も確認したが、「タガヘ」である。しかし、だぞ? 鰺(条鰭綱新鰭亜綱スズキ目スズキ亜目アジ科アジ亜科マアジ属マアジ Trachurus japonicus)に似て、鰶(新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ属コノシロ Konosirus punctatus)にも似ているといういうと……ああっ! 判った!

スズキ目イスズミ科タカベ亜科タカベ属タカベ Labracoglossa argentiventris

だわ! 但し、益軒先生、関東にしかいないわけではありませんよ。ウィキの「タカベ」によれば、『本州から九州の太平洋沿岸に分布する海水魚で、日本固有種である。夏の季語』とありますから。以下、同所から引用する。『和名の由来は漁師用語で「岩礁」を意味する「たか」に「魚」を意味する接尾辞である「べ」を付けたものと考えられている。その名の通り、主に沿岸域の岩礁地帯に生息する。その他に伊豆半島で「しゃか」、高知県柏島で「べんと」、鹿児島県で「ほた」などの呼び名がある』。『成魚は全長20-30cmになる。体型は紡錘形で体色は背部が青色、腹部は銀色であり、背部の中心から尾鰭全体にかけて特徴的な黄色または黄金色を呈している。顎は小さく頭部は若干丸みを帯びている。岩礁近くに群棲し、動物性プランクトンなどを捕食する。マアジやマサバ等と比較すると顎が非常に小さいことから釣りにくく、タカベは「餌取り名人」といえる』。『外見が似ていることから』、『しばしばウメイロと混同されるが、ウメイロParacaesio xanthuraはスズキ目フエダイ科に属する別種の魚である。タカベにおいては後背部の黄色が背鰭や尻鰭にも見られるのに対し、ウメイロの背鰭・尻鰭は黄色くない。またウメイロは全長40cm程度とタカベに比較して倍近く大きい』。『主に定置網漁で漁獲されるほか、オキアミ類を餌として釣りの対象ともなる。産卵期にあたり』、『脂ののってくる夏が旬とされる。市場では高値で取引され、高級魚の扱いを受けている。関東圏で流通するタカベは伊豆諸島で漁獲されたものが多い』。『塩焼きが最上とされるが、刺身や煮付けにしてもよい。また一夜干しにしても格別である』とある。私は伊豆下田で食べた塩焼きの美味さを今も忘れない。あの時は、亡き知子ちゃんも一緒だったな……

 さても。以上を以って「大和本草卷之十三 魚之下」の魚類の立項は終わって、以下は、所謂、魚の食用処理法で、「魚鱠」・「魚鮓」・「鱁鮧(チクイ・ナシモノ・シホカラ)」・「鮑魚(ホシウヲ)」・「肉糕(カマホコ)」〔蒲鉾〕・「糟魚麹魚」〔粕漬け・麹漬け〕・「(シホウヲ)」・「ビリリ」〔南蛮渡来の魚の肝で製した薬物と記す〕の八項で「大和本草卷之十三 魚之下」は終わっている。而してそれを以って二〇一四年一月に開始した『「貝原益軒「大和本草」より水族の部」』の電子化注を終わることとなる。

2020/09/11

見逃したのは……

見逃したのは、君ではなく、僕に他ならなかったのだ――

大和本草卷之十三 魚之下 きこり魚 (タカノハダイ)

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は前に合わせて「同」。]

キコリ魚 長七八寸或一尺五六寸許淡黑色スコシ

赤色ヲ帶ブ橫スヂカヒニ筋三四或五六條アリ首ハ

ソゲルカ如シ其形狀鯛ニモ目張ニモ似タリ目ハ端ニヨレリ

目少赤シ味ハメハルニ似タリ脂ナク乄淡美ナリ無毒

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

きこり魚 長さ、七、八寸、或いは、一尺五、六寸許り。淡黑色、すこし、赤色を帶ぶ。橫、すぢかひに、筋、三、四、或いは、五、六條あり。首は、そげるが、ごとし。其の形狀、鯛にも目張〔(めばる)〕にも似たり。目は、端に、よれり。目、少し赤し。味は「めばる」に似たり。脂〔(あぶら)〕なくして、淡美なり。毒、無し。

[やぶちゃん注:これは、

スズキ目スズキ亜目タカノハダイ科タカノハダイ属タカノハダイ Goniistius zonatus

の異名。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のタカノハダイのページの「地方名・市場名」の項に、「キコイ」「キコウリ」「キッキリ」「キッコ」「キッコリ」と並び、特に「キコリ」を立項して、『これは背が張っていて、たくましい男性を感じされるためだと思われる』とされ、採取地を『山口県萩市、福岡県中央市場』と載せる。益軒は福岡である。なお、後の医師で本草学者であった栗本丹洲(江戸幕府奥医師四代目栗本瑞見)は多数の魚譜・魚図を残しているが、中でもタカノハダイの絵が有意に多い。例えば、『栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 タカノハ羽・タカノハタイ(二図)・カタバタイ (タカノハダイ)』『栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 嶋タカノハ魚 (タカノハダイ)』『栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 鷹ノ羽タイ (タカノハダイ)』で(総て私の電子化注。画像有り)、体長四十センチメートル前後と中型で、側扁し、他の魚類に比して、有意に頭部にかけて背が盛り上がる(益軒の「首」が「そげる」という表現は言い得て妙である)独特のラインを作ること、尾鰭には明瞭は白い斑文があること、体側に斜めに走るくっきりとした茶褐色の横縞が九本入り、鰭が黄褐色で、縞模様を有すること、全体の体色が結構、鮮やかに変異することなどから、無論、持ち込む業者が丹洲を喜ばせる風変わりな魚(磯臭さが強いため、現在でも市場には出回らないから、当時の魚問屋にとっても雑魚扱いであったと思われる)として持ち込むことが多かったのではあろうが、丹洲自身もこの魚体が好きだったのではないかと思わせる量なのである。]

大和本草卷之十三 魚之下 ナキリ (ギンポ)

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は前に合わせて「同」。]

ナキリ 長七八寸身甚薄シ橫一寸許首小ナリウナキニ

似テ扁シ尾ハ如鯰又似鰌紫斑アリ素質也腹赤シ

子ハリ多シ不可食藻ノ中ニスム○クサヒト云魚アリナ

キリノ類ナリナキリヨリ廣シ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

なきり 長さ、七、八寸。身、甚だ薄し。橫一寸許り。首、小なり。「うなぎ」に似て、扁〔(ひらた)〕し。尾は鯰〔(なまづ)〕のごとく、又、鰌〔(どぢやう)〕に〔も〕似る。紫〔の〕斑〔(まだら)〕あり素質なり。腹、赤し。子、はり、多し。食ふべからず。藻の中に、すむ。

○「くさひ」と云ふ魚あり。「なきり」の類〔(るゐ)〕。「なきり」より廣し。

[やぶちゃん注:この異名は多くの種のそれとしてあるが、益軒の叙述からは、まず、

棘鰭上目スズキ目ゲンゲ亜目ニシキギンポ科ニシキギンポ属ギンポ Pholis nebulosa

としてよかろう。「なきり」は「菜切」で魚体が菜切り包丁に似ているからと思われる。異名は他にも「ウミドジョウ」(海泥鰌)や「カミソリ」(剃刀)などもある。ウィキの「ギンポ」によれば、『ギンポの語源ははっきりしないが、江戸時代の銀貨である丁銀に似ているからとも言われる』とある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のギンポのページには、全長は二十から三十センチメートル『前後になる。細長くドジョウに似た体型で、側扁(左右に平たい)する。背鰭は長く背部から尾鰭にまで達する。腹鰭は非常に小さい。背鰭は意外に硬く、持つと痛い』とある。タイド・プールでもよく見かける。小さな頃、うっかり握って、背鰭がしたたかに手に刺さって痛い思いをしたのを思い出す。益軒は「食ってはならぬ」というが、私はとある温泉の天ぷら屋で、水槽で元気に泳ぐギンポを見つめていたら、店主がそれを活魚で天ぷらにして呉れた。そのギンポの天ぷらはえも言われぬ極上のものであった。ぼうずコンニャク氏も上記の「基本情報」で、『天ぷら職人』『露木米太郎は著書で「この魚こそ天ぷらのために、この世に生を享けた魚だといえましょう」と書いているほど』で、『その他の使い道はほとんどない、と言っても過言ではないとされている』。『天ぷら専門店の多い東京都では常に高値がつく。本来は江戸前東京湾で揚がったものであ』っ『たが、今では日本全国から都内に入荷してくる』とある。

「くさひ」不詳。ギンポの仲間というのを「似ている」の意とし、ギンポ「より廣し」というのを真に受けるならば、水族館の異形の人気者(と私は勝手に思っている)である、

ゲンゲ亜目タウエガジ科フサギンポ属フサギンポ Chirolophis japonicus

は如何か? 魚体はグーグル画像検索「フサギンポ」を見られたい。]

大和本草卷之十三 魚之下 ゑそ (エソ或いはエソ類)

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は前に合わせて「同」。]

ヱソ 頭扁ク形圓ニシテ虵ニ似タリ長七八寸或尺餘色

ハキスゴニ似テ少黑シ腥ク乄佳品ニアラス病人不可食只

肉餻トシテ美シ背ヨリワリ腸ト皮ヲ去背ノ方ヨリ肉

ヲコソゲトレハ骨ハ腹ノ方ニツキテ肉ニマジラス腹ヨリワリ

テ肉ヨリコソケハ多シ漢名シレス或曰ヱソハ鰣魚ナルヘシ

ト云鰣魚ハ骨多シヱソモ細骨多キ故ニカク云ナルヘシ

本草ヲ考ルニ鰣魚ニハアラス

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

ゑそ 頭、扁く、形、圓〔(まどか)〕にして、虵〔(へび)〕に似たり。長さ、七、八寸、或いは尺餘。色は「きすご」に似て、少し黑し。腥〔(なまぐさ)〕くして佳品にあらず。病人、食ふべからず。只だ、肉餻〔(かまぼこ)〕として美〔(よ)〕し。背より、わり、腸〔(わた)〕と皮を去り、背の方より、肉を、こそげとれば、骨は腹の方につきて、肉に、まじらず。腹より、わりて、肉より、こそげば、〔骨、〕多し。漢名、しれず。或いは曰はく、「ゑそは鰣魚〔(じぎよ)〕なるべし」と云ふ。鰣魚は、骨、多し。「ゑそ」も細骨多き故に、かく云ふなるべし。〔然れども、〕「本草」を考ふるに、鰣魚にはあらず。

[やぶちゃん注:「ゑそ」(原文は「ヱソ」)はママであるが、「広辞苑」を見るに、「えそ」「エソ」でよい。漢字表記は「狗母魚」(中文エソ科漢名もこれ)「狗尾魚」「九母魚」「鱛」など。益軒が調理法をこのように細かく書くのは非常に珍しく、特異点と言える。彼の近くか、親しい人間に蒲鉾屋がいたものか。さて、狭義には、以下の、同魚体型で、特に区別されずに、ここにある通り、蒲鉾など練り物の加工原料とされる、孰れも小骨の多い、

条鰭綱ヒメ目エソ亜目エソ科マエソ属マエソ Saurida macrolepis

マエソ属ワニエソ Saurida wanieso

マエソ属トカゲエソ Saurida elongata

を指すと考えてよいが、広義には、エソ科 Synodontidae の全四属、

アカエソ属 Synodus

オキエソ属 Trachinocephalus

マエソ属 Saurida

ミズテング属 Harpadon

の内、ウィキの「エソ」によれば、本邦近海産では、現在までに二十四種が記録されており、概ね、魚体や小骨の多さ、練り物加工といった扱いの中で、十把一絡げ的に広く「エソ」或いは「エソ」を接尾辞とする通称で呼称されているようである。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のマエソのページによれば、そもそもが、その和名由来からして、『大和朝廷のころ、同朝廷に和しない種族を「ヒナ」と呼び、また「エミシ、エミジ、エソ、エゾ」と呼んでいた。「エミシ」、「エミジ」とは「見るに堪えない、見ると嫌悪感のするもの」という意味。「エミジ」と「エソ」は同じ意味なので、「醜悪な感じのする魚」の意味。漢字「狗」も同様に「つまらない、取るに足りない」の意味がある。(『新釈魚名考』、大言海、大漢和などを参考にする)』とあり、多分に差別和名の臭いが濃厚であって、その証拠に深海性の全く縁の遠い見た目に奇体で獰悪な感じに見える魚類に「~エソ」と附ける傾向さえある(上記の広義のエソではミズテング属ミズテング Harpadon microchirの見た目の印象は深海魚のそれらに近いかと思う。グーグル画像検索「Harpadon microchirをリンクさせておく)。ウィキの「エソ」から、広義のそれを引用しておく。『成魚の全長は10cmほどのものから70cmに達するものまで種類によって異なる。吻が短く、頭の前方に大きな目がつく。目の後ろまで大きく開く口には小さな歯が並び、獲物を逃がさない。体は細長く、断面は丸く、円筒形の体型をしている。鱗は大きく硬い。鰭は体に対して比較的小さい。背鰭と尾鰭の間に小さく丸い脂鰭(あぶらびれ)を持ち、これはサケ、アユ、ハダカイワシ等と同じ特徴である』。『体つきが爬虫類を連想させるためか、和名に「ワニエソ」や「トカゲエソ」とついた種類がおり、英名でも"Lizardfish"(トカゲ魚)や"Snakefish"(ヘビ魚)などと呼ばれる』。『全世界の熱帯、亜熱帯海域に広く分布する。全種が海産だが、河口などの汽水域に入ってくることもある。多くは水深200mまでの浅い海に生息する』。『昼間は海底に伏せるか砂底に潜るものが多く、夜に泳ぎ出て獲物を探す。食性は肉食性で、貝類、多毛類、頭足類、甲殻類、他の魚類など小動物を幅広く捕食する』。『主に底引き網などの沿岸漁業・沖合漁業で漁獲される。釣りでも漁獲されるが、エソを主目的に釣る人は少なく、多くは外道として揚がる。スズキ、マダイなど大型肉食魚の釣り餌やルアーにかかる場合や、あるいはキス釣りなどで釣れた魚に喰らいつく場合がある』。『肉は白身で質も良く美味だが、硬い小骨が多いため、三枚におろしてもそのままでは小骨だらけで食べられず、また骨切りしても小骨自体が太くて硬いためハモのように美味しく頂くこともできない。調理方法としては、骨切りした上ですり身にして揚げ物にするか、手間が掛かっても根気よく骨抜きをして調理するかであるが、いずれにしても一般的な調理をして食卓に並ぶような魚ではない。一方、魚肉練り製品の原料としては、癖の無い淡泊な味で歯ごたえも良いため、最高級品として重宝され、市場では関連業者が殆どを買い占める』。『大分県佐伯市の郷土料理である『ごまだし』や、愛媛県宇和島の郷土料理『ふくめん』の主材料として使われる』。『シラス漁で稚魚がしばしば混入することがある』とある。

『色は「きすご」に似て』「きすご」はスズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae のキス(鱚)類、或いは同科キス属シロギス Sillago japonica の別名である。体色のそれから言うと、益軒はここではマエソをエソとして書いている気がする。

「鰣魚」「本草綱目」検証するまでもなく、「鰣魚」はエソ類ではない。現代中文名「鰣魚」である、中国の食用魚としては知られた種がいるからである(中国大陸周辺の固有種。相当する標準和名はない)。条鰭綱ニシン目ニシン亜目ニシン科シャッド亜科 Alosinae テヌアロサ属鰣魚(shíyú:音写:シーユー)Tenualosa reevesii である。ウィキの「鰣魚」によれば、『通常』は『海水の上層で回遊している魚であるが、4月から6月になると、長江、銭塘江、閩江、珠江など、中国の川の下流域に産卵のために遡上し、かつ脂が乗っているため、季節的に現れる魚との意味から「時魚」と称し、古来珍重されてきたが、標準和名は付けられていない。明治時代の』「漢和大字典」『には「鰣」に「ひらこのしろ」の注が見られるなど、ヒラコノシロやオナガコノシロ』(以上二つの和名は標準和名として現在も存在しない)『と記した字書、辞書、料理書もあるが、根拠は不明。ヒラ』(ヒラ属ヒラ Ilisha elongata)『はニシン目ヒラ科ヒラ亜科』Pelloninae『に分類され、コノシロ』(ニシン目ニシン亜目ニシン科コノシロ(ドロクイ)亜科コノシロ属コノシロ Konosirus punctatus)『はコノシロ亜科』Dorosomatinae『で近縁種とはいえず、魚類学、水産学の書籍で使っている例は見いだせない。なお、国字の「鰣」は「ハス」と読むが、これは全く異なるコイ科の魚である』(条鰭綱コイ目コイ科クセノキプリス亜科ハス属ハス Opsariichthys uncirostris。調べた限りでは、同種の中文名は「真馬口鱲」)である)。『一般的に成魚は、雄が体長40cm前後、体重1.3kg程度、雌が体長50cm前後、体重2kg程度。最大60cm以上になるものもある。体色は銀灰色で、背側が黒っぽく、腹側が白っぽい。体は長いひし形に近く、V字型の長い尾鰭を持つ』。『中国周辺の黄海南部から、台湾、フィリピン西部にかけての海域に生息する。春に淡水域まで遡上した成魚は、5月ごろ産卵した後、海に戻る。一尾で200万粒程度の卵を産む。産卵後1日程度で孵化し、稚魚は淡水域で数ヶ月育ち、秋の9月-10月に海に移動する。3年で成魚となるといわれる』。『江流域を中心に、かつて、年間数百トン獲れ、1974年には1500トンを超えたともいわれる。当時は湖南省の洞庭湖や、さらに上流でも捕獲できたが、乱獲によって1980年代には年間1トン未満となり、幻の魚と呼ばれるようになった。このため、資源が枯渇するのを防止すべく、中国政府は1988年に国家一級野生保護動物に指定し、現在は捕獲を禁じている』。『後漢の『説文解字』「鯦、當互也」の記載がある。『爾雅』「釈魚」にも「鯦、當魱」の記載がある』。『明以降には皇帝への献上品として用いられた。南京は産地であって新鮮なものが食べられたが、北京に都が移ると』、『輸送が難しくなり、腐敗が始まって臭くなったため、「臭魚」とも呼ばれた』(以下、調理法が載るが、略す)とある。]

2020/09/10

「丈草發句集」(正字正仮名・縦書・PDF版) 公開

本日早朝より、丸一日かけて、「丈草發句集」を正字正仮名の縦書PDFで、先程、公開した。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一〇(一九三五)年有朋堂刊の藤井紫影校訂「名家俳句集」の「丈草發句集」パートを使用した。恐らく、完全に電子化され、ストイック乍ら、注を附した内藤丈草の発句集としては、ネット上で最初のものとなったはずである。孤独な境涯の丈草は、今こそ、復権せねばならない、と私は切に願っている。


2020/09/09

記憶して下さい

記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。

金玉ねぢぶくさ卷之六 箕面の瀧は弁才天の淨土

 

   箕面(みのを)の瀧は弁才天の淨土

 攝州箕面山(みのをさん)は、ゑんの行者の開基、本尊は弁才天女、山は峨々として、卷石(けんせき)、峙(そばだ)ち、瀧はたうたうとして、布をさらせり。行者、びん究(ぐう)無福(ふく)の衆生〔しゆじやう〕のために、弁才天を祈(いのり)たまへば、八臂(ぴ)の天女、出現ましまし、江州竹生(ちくぶ)嶋、かまくらの榎(ゑ)の嶋、あきのいつくしま、紀州の天の川、ともに日本に五ヶ處の天女、ちん座の㚑地〔れいち〕なり。

[やぶちゃん注:「箕面山(みのをさん)」ルビはママ(以下同じ)。現行では「みのおやま」と読み、歴史的仮名遣でも「みのお」である。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。標高三百五十二・三メートル。ここにある現在は天台寺門宗の独立寺院である箕面山(みのさん)吉祥院瀧安寺(りゅうあんじ:以上は公式サイト表記)の原型は、白雉年間 (六五〇年~六五四年) に役小角 (えんのおづぬ(おづの):生没年未詳。七世紀末に大和葛木(かつらぎ)山にいたという呪術者。「続(しょく)日本紀」によれば、役君小角(えのきみおづぬ)と称し、秩序を乱したことから、文武天皇三(六九九)年に伊豆に流されたが、鬼神を使役し、空を飛び、自由に往来したとされる。修験道の祖とされる) が開基した(公式サイトは斉明天皇四(六五八)年とする)と伝えられる修験道の霊場で、本邦の修験道では最も古い修行地の一つである。後醍醐天皇の時、付近の瀑布の勝景に因み、瀧安寺と号した。本尊の弁財天はここに出る通り、琵琶湖の竹生島・鎌倉近郊の藤沢片瀬にある江ノ島安芸の宮島の厳島の弁財天とともに四所弁財天と称され、古来民間の信仰が厚い。この弁財天像は役の行者自身が報恩感謝のもとに、自らを作製し、箕面大滝の側に祭祀して箕面寺と称したのが、現在の瀧安寺の始めと伝えられている。

「弁財天」「弁才天」とも書く。インド神話のサラスバティーを漢訳し,女神の姿に造形化したもので、もとはインドのサラスバティー川の河神であり、後にのブラフマー(仏教で梵天となる)の妃となったが、広く信仰され、これが仏教に取入れられ、音楽・弁舌・財富・知恵・延寿を司る女神となった。「金光明最勝王経」の「大弁財天女品(ぼん)」によると、頭上に白蛇をのせ、鳥居をつけた宝冠を被った八つの腕を持つ女神で、多様な武器をそこに持った戦闘神である(後注する)。密教に入ってからは、琵琶を持った姿で胎蔵界曼荼羅外金剛部院にいる。眷属 には善財童子を加えた十六童子がある。日本では七福神の一つに数えられ,敵を滅ぼし、福徳や財宝を授ける女神として信仰される(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「卷石」本来は浄土と俗世界の区別をする境界石を指し、墓地の境域や区画を示すのに用いる人工的な境界石の石組みを指すが、ここはそれに喩えて、俗界と聖地を隔てる「如くに」巻き上がったように聳える岩石の謂いととる。

「びん究(ぐう)無福(ふく)」よく判らぬが、或いは「貧窮無福」のことではないか? 「究」は「きはめる」で「窮」に通じ、実際に「貧窮」は、これで「びんぐう」とも読むからである。凡夫にして心身ともに貧しさの限りを尽くしている真の福を手にしたことがない衆生の謂いととる。

「八臂(ぴ)」八臂弁天(はっぴんべんてん)のこと。琵琶を持った天人風のそれではない、今一つの弁天の像形。顔は女形に作るが、八本の手を持ち、それぞれに弓・箭(や)・刀・矛・斧・長杵(ちょうきょ:金剛棒)・鉄輪(輪状外側に角を持った投擲武器)・羂索(けんさく:捕繩(ほじょう))といった武器を保持する戦闘神の示現型である。これは「金光明最勝王経」の記述を元にしたものである。

「紀州の天の川」現在の奈良県吉野郡天川村(てんかわむら)坪内(つぼのうち)にある天河(てんかわ)大弁財天社のこと。ご存知ない方はウィキの「天河大弁財天社」を見られたい。私は行ったことはないが、大好きな円空の傑作とされる「大黒天」が奉納されていることで知っている。

「㚑地」「㚑」は「靈」の簡略の異体字。]

 

  抑(そもそも)、弁才てんの利益(やく)をたづねたてまつるに、本地は十一面觀音、垂迹(すいじやく)を宇賀神將王(うがじん〔しやう〕わう)とあらはれ、ふく德・壽命・弁才・あいきやうを、つかさどり、二世〔にせ〕の悉地(しつぢ)を得せしめ給ふ。

 十五童子、三萬六千のけんぞく有〔あり〕て、この尊(そん)、しんじんの衆生〔しゆじやう〕を守り、どん欲・きかつ・障碍(せうげ)の三惡神(あくじん)を降伏(がうぶく)ましまし、惡事・さい難を拂ひたまふ。

 爰(こゝ)を以て、此天(てん)、信迎(しんがう)の輩(ともがら)は、軍(いくさ)は宝鉾(ほうむ)の御〔おん〕てを借り、

冨貴(ふうき)は金財童子(こんざいどうじ)の御請取〔おうけとり〕、

けんぞくは従者(じゆしや)童子のうけ取、

酒〔さか〕やは酒泉(しゆせん)どうじ、

百姓は、たうちう童子、

智惠は印鑰(いんやく)童子、

舟持(〔ふね〕もち)はせん車(しや)どうじ、

問(とい)やは牛馬(ぎうば)どうじ、

遊女(ゆうぢよ)・申楽(さるがく)はあい敬(けう)どうじ、

學問・手跡(しゆせき)の望(のぞみ)は、筆硯(ひんけん)だうじ、

守りたまふ。

 されば、士農工商の輩(ともがら)、いづれか此〔この〕天の利益(やく)を蒙らざらん。爰を以て、一度〔ひとたび〕、此尊に歸するともがらは、定業(でうごう)の貧(ひん)をてんじ、當來(たうらい)にては無三惡しゆの御願〔ぎよがん〕を蒙る。

 およそ諸佛悲願(しよぶつのひぐわん)、まちまちなれども、さいど利生〔りしやう〕の方便〔はうべん〕、わけていちじるきは、大梵光明如意滿誦福德てん地無上こくう天滿じざい王てん女、十五童子の御本ぜいに極(きはま)れり。

 されば、弘法大師のさいもんにも、諸佛の大事は與樂(よらく)を本〔もと〕とし、衆生の期(ご)する所は、福德を極(ごく)とする。さつたの六度も宇賀(うが)の福田におこり、菩薩の万行も神王(じんわう)の祕藏より出〔いで〕たりと、とかせたまふ。たれか、是を仰ぎ、いづれか、是に歸せざらん。

[やぶちゃん注:読み易さを考え、担う種別の童子を改行して示した。

「宇賀神將王」神仏習合期の本邦で、中世以降に信仰され始めた神で、概ね蛇形を採ることが多い、専ら現生応神で財を齎す福神である。単独ではなく、弁財天とセットされることが多い。ウィキの「宇賀神」によれば、『神名の「宇賀」は、日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)』(これは「古事記」の記名で、「日本書紀」では「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」とある。「宇迦」は「穀物・食物」の意で、穀物神で、「宇迦」は「うけ」(食物)の古形で、特に本邦の稲作文化を支える「稲霊(いなだま)」を表わし、古くから女神とされてきた経緯があり、女天の弁財天絡みの豊饒=財福で宇賀神と結び易かったのであろう。伏見稲荷大社の主祭神としても広く信仰されている。但し、稲荷の主神として「うかのみたま」の名が文献に登場するのは室町以降のことである。但し、伊勢神宮ではそれよりも早くから「御倉神(みくらのかみ)」として祀られていた経緯はある。以上はウィキの「ウカノミタマ」に拠った)『に由来するものと一般的には考えられている(仏教語で「財施」を意味する「宇迦耶(うがや)」に由来するという説もある)』。『その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと』、『諸説あ』って、『一様ではない』。『元々は宇迦之御魂神などと同様に、穀霊神・福徳神として民間で信仰されていた神ではないかと推測されているが、両者には名前以外の共通性は乏しく、その出自は不明である。また、蛇神・龍神の化身とされることもあった』。『この蛇神は比叡山・延暦寺(天台宗)の教学に取り入れられ、仏教の神(天)である弁才天と習合あるいは合体したとされ、この合一神は、宇賀弁才天とも呼ばれる』。『竹生島宝厳寺に坐する弁天像のように、宇賀神はしばしば弁才天の頭頂部に小さく乗る。その際、鳥居が添えられることも多い』。『出自が不明で、経典では穀霊神としての性格が見られないことなどから、宇賀神は、弁才天との神仏習合の中で造作され』、『案出された』神とする説もある』。「塵添壒嚢鈔」(じんてんあいのうしょう:単に「壒囊抄」とも。十五世紀室町時代に行誉らによって撰せられた百科辞書・古辞書)の『巻第四「宇賀神事」には、宇賀神は伊弊冊尊(イザナミ)から生まれた稲作をはじめ五穀や樹木の成育を司る保食神(ウケモチノカミ)と音通であるため福神となったとあり』、八『世紀の『丹後国風土記』のトヨウケビメの羽衣伝説と同様の、「水浴びをしていた天女の一人が老夫婦に衣を隠され天に帰れなくなり、万病に効く酒を造って老夫婦に財をもたらしたが、翁に追い出され、辿り着いた丹後の奈具村で宇賀女神として祀られた」という伝承が紹介され、宇賀能売命が富をもたらしたことから福徳神とみなされ、さらに蛇に変体すると記されている』。江戸中期の国学者で尾張藩士天野信景(さだかげ)による十八世紀初頭に成立した大冊(一千冊とも言われる)膨大な考証随筆「塩尻」の巻四十九には、『神社に祀られている宇賀神像は、老人の顔をした頭部をもつ蛇が蛙をおさえる形をしていて、水を張った器に入れられており』「天の真名井の水」『などという文を唱えて像に水をかけるとあり、熱田神宮の貞享』(一六八四年~一六八八年)『の修理の際にその像が出てきたと記されている。信景は、宇加耶は梵語で白蛇のことだが、密教では人首蛇身ではなく』、『ただ蛇の像を宇賀神としている、人首蛇身は熱田神宮だけでなく』、『山城国の稲荷神社にもあり、蛇首人身の像もある、なども述べている』とある

「弁才」能弁の才能。巧みに話す能力。

「あいきやう」「愛敬」(これだと、歴史的仮名遣は「あいきやう」(現代仮名遣「あいきょう」。以下同じ)であるが、古くは「あいぎやう」(あいぎょう)と濁った。ところが、中世後期以降に清音化が生じ、さらに「敬」の意味が薄れるとともに「嬌」の字も当てられるようになって、「愛嬌」という表記が生まれたのだがが、この場合の歴史的仮名遣は「あいけう」(あいきょう)となるため、表記には混乱が生じている。表情や言動が愛らしく、人好きのされる様子であること。

「二世〔にせ〕の悉地(しつぢ)」現世と後世(ごぜ)に及ぶ悟り。サンスクリット語の「成就」の意の漢音写。「しっち」と清音でも示す。原本は「しつち」であるが、濁音化した。本来は真言の秘法を修めて成就したそれで、しかも最高の悟達が完成する無上悉地に至るまでに、五種の悉地が前段階として立てられるなど、様々な区別や達成別の階層がある。

「けんぞく」「眷屬」。部下。「十五童子」はその上の側近の使者神。

「この尊(そん)」弁財天を指す。

「しんじん」「信心」。

「どん欲」「貪欲」。

「きかつ」「飢渇」。

「障碍(せうげ)」あらゆる障害。

「宝鉾(ほうむ)」邪悪を斥ける神聖なる鉾(ほこ)=武器。先の八臂弁天の注を参照。

◎「金財童子(こんざいどうじ)」「召請(しょうせい)童子」とも呼ぶ。金銀財宝・商売繁盛を司る神とされ、神仏習合では本地を薬師如来とされる。

「御請取〔おうけとり〕」受け持ち。分担。後の「うけ取」も「請取」で同義。

「けんぞく」「眷族」で信仰者の一家眷族の謂いか。次注参照。

◎「従者童子」「從者童子」。別称「施無畏(せむゐ)童子」。一部の記載には経営を司るとあるから、これは一族郎党を束ねて、家や農耕や商売を盛り立ててゆくことと考えれば、前の「けんぞく」が腑に落ちる。本地は龍寿菩薩。「施無畏」は仏・菩薩が衆生の無知ゆえの恐れる心を取り去って救うことを言う(なお、この語は観世音菩薩の異称でもある)。

「酒〔さか〕や」「酒屋」。

◎「酒泉(しゆせん)どうじ」別称「密跡(みっしゃく)童子」酒の神。本地は無量寿仏。

◎「たうちう童子」漢字で表記すると、何故、「百姓」の守護神かが判る。「稻籾(とうちゅう)童子」。別名「大神(だいしん)童子」。五穀豊穣神である。本地は文殊菩薩。

◎「印鑰(いんやく)童子」「鑰」は「鍵」の意。別名「麝香(じゃこう)童子」。悟りと解脱へ導く神。正法(しょうぼう)の確かな験(しるし:手指で示すところの法「印」)と秘蹟を開く「鑰(かぎ)」である。本地は釈迦如来。

「舟持(〔ふね〕もち)」水主(かこ)。

◎「せん車(しや)どうじ」船車童子。別名「光明(こうみょう)童子」。交通安全の神(船旅は最も危険と隣り合わせであるから代表するし、多くの漁民の信仰は弁財天でもある)。本地は薬上菩薩。

「問(とい)や」「問屋(とんや)」。

◎「牛馬(ぎうば)どうじ」別名「膸令(ずいれい)童子」。家畜の愛護神。本地は薬王菩薩。

「申楽(さるがく)」「申樂」。軽業(かるわざ)・奇術や滑稽な物真似などの演芸を行う芸能者。奈良時代に唐から伝来した散楽(さんがく)を母胎に創り出されたもので、鎌倉時代頃から、これを専業とする者が各地の神社に隷属して祭礼などに興行し、座を結んで一般庶民にも愛好された。室町時代になると、「田楽」や「曲舞(くせまい)」などの要素も摂り入れられ、これが観阿弥・世阿弥父子によって「能楽」に大成された。大道芸人は「ほかいびと」の一類であり、激しく差別された。遊女らと同じ、社会の底辺にいた被差別者であった。

◎「あい敬(けう)どうじ」「愛敬童子」。「愛慶(あいきやう)童子」とも書き、別名「施願童子」。愛情・恋愛成就の神とされる。本地は観世音菩薩。

「手跡(しゆせき)の望(のぞみ)」書道上達。

◎「筆硯(ひんけん)だうじ」「ひん」のルビはママ。「筆硯(ひつけん(ひっけん))童子」。別名「香精(こうせい)童子」。学問成就の神。本地は金剛手菩薩。なお、以上で「十五童子」の内、九童子しか挙っていないが、残り六童子を示すと(漢字は正字で示したが、読みは現代仮名遣で附した)、

◎計升(けいしょう)童子。別名、悪女(あくにょ)童子。経理・経済の神で、本地は地蔵菩薩。

◎衣裳童子。別名、除哂(じょき)童子。着衣に不自由させぬ神で、本地は摩利支天。

◎蠶養(さんよう)童子。別名、悲満(ひまん)童子。蚕・繭の神で衣類の神。本地は勢至菩薩。

◎飯櫃(はんき)童子。別名、質月(しつげつ)童子。食物を授与する神。本地は栴檀香(せんだんこう)仏。

◎官帶(かんたい)童子。別名、赤音(せきおん)童子。法を守る神。本地は仏教のカルマ(法)の体現者である普賢菩薩。

◎生命(しょうみょう)童子。別名、臍虚空(せいこくう)童子。長寿の神。本地は弥勒菩薩。

となる。なお、「十六童子」と呼んで、これらの童子の筆頭として十五童子を束ね司る神としての、

●「善財(ぜんざい)童子」が別格で、いる。彼は「乙護(おとご)童子」とも呼ばれ、本地は大黒天である。

「てんじ」「轉じ」。

「三惡しゆ」「三惡趣」。生命あるものが、生前の悪い行為の結果として死後余儀なく赴かなければならない地獄・餓鬼・畜生という三悪道の世界。連声(れんじょう)して「さんなくしゅ」「さんまくしゅ」「三悪道 (さんまくどう)」とも読む。

「御願」そこに堕ちない願いを叶えてくれる仏菩薩の絶対の悲願。

「さいど」「濟度」。「濟」は「救う」、「度」は「渡す」の意で、仏・菩薩が迷い苦しんでいる人々を救って悟りの境地に導くこと。

「利生〔りしやう〕」「利益(りやく)衆生」の意で、仏・菩薩が衆生に利益を与えること。

「方便〔はうべん〕」。原義は「近づく・到達する」の意で、仏・菩薩が衆生を導くために用いる方法・手段、或いは真実に近づくための準備的な加行 (けぎょう) などを言う。

「わけていちじるきは」「別けて著じるき」。別して、特に強力なその法力は。

「大梵光明如意滿誦福德てん地無上こくう天滿じざい王てん女」「大梵光明如意滿誦福德天地無上虛空天滿自在王天女」か。それぞれに意味はあるが(例えば既に述べた通り、弁天は弁才天は梵天神の妃であり、ここは、「天女」=弁財天のもつ広大無辺な法力を讃え飾る修飾辞である。

「本ぜい」「本誓」。仏・菩薩が立てた衆生済度の誓願。本願。

「さいもん」「祭文」。広義の仏神を祀る章句。

「與樂(よらく)」衆生に真の永遠の安楽を付与すること。

「期(ご)する所」期待するところ。

「極(ごく)」究極の対象。

「さつた」「薩埵」。サンスクリット語の「有情」の意の漢音写。ここは「衆生」の意。別に「菩提薩埵」の略で「衆生を救う菩薩」のことも指すが、以下の「六度も宇賀(うが)の福田におこり」というのは、衆生の輪廻する六道に、宇賀神が下り来たって示現し(「おこり」)、「福田」(ふくでん:田が豊饒の実りを生じるように、福徳を生じるもとになるもの)を与え、の謂いと読めるから後者ではない。

「神王(じんわう)」仏教を守護する神。四天王のように甲を着けた忿怒像で描かれ、仏像の天部(毘沙門天・大黒天などの類)の中でも、この形の像形を神王形と呼ぶ。「しんわう(しんのう)」とも読む。

「祕藏」人知を超越した仏・菩薩の有難い奥義(おうぎ)。]

 

 爰に、津國〔つのくに〕、神崎(かん〔ざき〕)の住人、矢野四郞右衞門と謂(いひ)し人、親代〔おやのだい〕まで、商〔あきなひ〕もはんじやうし、萬〔よろづ〕こゝろの侭(まゝ)なりしが、次第に仕合〔しあはせ〕、世に、おちぶれ、

「何とぞ、も一度、ふうきを。」

ねがひ、「定業亦能轉(でうごうやくのうてん)」の御〔ぎよ〕ぐわんに歸依し、每年正月七日の冨〔とみ〕に、あゆみをはこび、終(つい)に一〔いち〕の冨〔とみ〕に突〔つき〕あたりぬ。

[やぶちゃん注:「津國、神崎」近江国にあった旧神崎郡。鈴鹿山脈から琵琶湖に至る愛知川に沿って東西に細長い地域を占めていたが、特にその中心は滋賀県東近江市八日市町(ようかいちちょう)附近(グーグル・マップ・データ)であった。

「矢野四郞右衞門」不詳。

「仕合〔しあはせ〕」世間での巡りあわせ。運命。良い事態、悪い事態ともに用いる。ここは商売が上手く行かなくなること。

「定業亦能轉(でうごうやくのうてん)」ルビはママ。「ぢやうごふやくのうてん」が正しい。「定まった報いを受ける時期が決まっている悪しき行為でさえも、仏の教えを十分に受ける力があったならば、良い方へ転じて、悪しき報いを免れることが出来る」ということを指す偈。菩薩の願いとされる。

「冨〔とみ〕」富籤(とみくじ)のこと。江戸時代に流行をみた、抽選によって当り籤を決める賭博に類似した催し。ここにも出るように、「富突(とみつき)」ともいうが、この呼び名は、抽選の際、籤を入れた箱、櫃(ひつ)の中の木札を錐(きり)を付けた棒で突き刺し、当り番号を決めたことによる呼称である。売り出される札(ふだ)の方は「富札」と称する。富籤の起源は明らかではないが、京・大坂の方が早く、江戸では元禄五(一六九二)年に出された「富突講」に対する禁令からも、元禄(一六八八年~一七〇四年)頃には既に盛ん行われていたと考えられる。その後、幕府は、寺社が自前で出す修復費捻出の手段として、特別に許可するようになった。つまり、第八代将軍吉宗の享保一五(一七三〇)年、江戸護国寺の修復費用に当てるための富突興行を許可したのがそれで、それ以前から、寺社の富突はたびたびの御触れにもかかわらず、存続してはいたが、幕府により公認されてからは急激に盛んになり、文化・文政年間(一八〇四年~一八三〇年)には、三日に一度は、どこかで富籤が催されていたほどであった。ここは近江の津だが、中でも有名なものは目黒不動尊・湯島天神・谷中天王寺(感応寺)のもので、これを「江戸の三富」と称した。抽選の当日は境内に桟敷を設け、興行者側の世話人、寺社奉行の検使らが立ち会い、目隠しをした僧が錐で櫃の中の木札を突き刺した。木札は桐製で、大きさは縦横一寸半(約四・五センチメートル)、厚さ四分(約一・二センチメートル)で、表に番号が記されてあった。これに対応する富札は、長さ五寸(約十五センチメートル)ほどの短冊形の紙製で、表に番号が記され、割印を押した上、札を発行した寺社の管轄名称を記してある。最初に突き上げたのをここに出る通り、「一の富」といい、例えば、これが百両とすれば、二番目が半額の五十両となり、都合、百番まで突いた。一般に賞金額は最初と突き止めの番号が多額であった(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「あゆみをはこび」場所は次段によって、冒頭に出た箕面の瀧安寺と判る。

「終(つい)に」ルビはママ。「つひ」が正しい。以下同じ。

 

 これより、いよいよ、しんがうの首(かうべ)をかたぶけ、同年二月下旬に、禮參りの爲(ため)、一家の男女、のこらず、さんけいし、神前において法施(ほつせ)たてまつり、それより、奧の瀧へのぼれば、草木のけしきまでも、實(げに)外(ほか)とは事かはりて、山は、箕(み)を學(まな)んで、風、木〔こ〕の葉(は)を簸(ひ)、瀧は、ぬのに似て、水聲(すいせい)、碪(きぬた)を、うつ。誠に奇なる風景なり。

[やぶちゃん注:「しんがう」「信仰」。

「法施(ほつせ)」仏に向かって経を読み、法文を唱えること。「ほふせ」の転訛。

「箕(み)を學(まな)んで」よく判らぬが、ここが箕面山であることに引っ掛けて、「箕裘(ききう(ききゅう))」を引き出し、「箕裘を継ぐ」で、矢野が、父祖伝来の商いをそれなりに継いで(以下に見る通り、扱う商品が変わったことを意識しているのかも知れない)、上手くやっていること、を謂ったものであろう。「箕裘を継ぐ」は、「よい弓職人の子は、父の仕事から、柳の枝を曲げて箕 () を作ることを学び、よい鍛冶屋 (かじや) の子は、金鉄を溶かして器物を修繕する父の仕事から、獣皮をつぎ合わせて裘 (かわごろも:革衣) を作ることを学ぶ」という「礼記」の「学記」を出典とする故事成句である。

「簸(ひ)」「簸(ひ)る」は「箕で穀物を篩(ふる)い、塵などを取り除く」の意のハ行上一段活用の動詞。ここは比喩。

「碪(きぬた)」「砧」に同じい。]

 

 しばらく、上の瀧つぼのあたりを、あなたこなたへ徘徊して、草を分〔わけ〕、わらびを折〔をる〕とて、いかゞは、しけん、當年九歲の女子一人、瀧つぼへ轉(ころ)びこみ、

「やれ、やれ。」

といふ内に、さかまく水に舞入(まいいれ)られて、姿(すがた)も見へずなりにけり。

[やぶちゃん注:「舞入(まいいれ)られて」ルビはママ。]

 

 夫婦、大きにかなしみ、里、遠ければ、人をたのみて、死がいを上〔あぐ〕べきやうもなく、其内には、ちひろの底へしづみつゝ、再び、影だに見へざれば、夫婦・上下〔うへした〕、せん方なく、泣々(なく〔なく〕)下向〔げかう〕し、

「扨も。大きなる冨〔とみ〕だゝり。たとへ、御利生にて、如何程〔いかほど〕ふうきになるとても、子を失ひて、何かせん。」

と、明〔あけ〕くれ、歎き、それより、むじやうの心をおこし、

「誠に老少不定のしやばなれば、『さいし珍宝及(ぎ〔ふ〕)王位(わうい)りん命(めう)、終時(じうじ)不隋(ずい)』しや。」

と心得、冨貴の望〔のぞみ〕もやみぬれば、おのづから、家〔か〕げうも、おこたり、次第に身體おとろへ、家もうり、田地にもはなれ、たゝりし冨の入れがへもなく、する程の事は、仕合〔しあはせ〕あしく、歎(なげ)きの内にも、光陰(くわういん)はうつり、はや、七年の星霜(せいざう)を經(へ)たり。

[やぶちゃん注:「ちひろ」「千尋」。滝壺の深さの誇張表現。

「上下〔うへした〕」店の雇い人たち総て。

「下向」寺より帰ったので、かく言った。

「冨〔とみ〕だゝり」「冨祟り」。彼は「一の富」というハレの現象を受けた。ハレは非日常であり、そこにはそれゆえに、真逆の際たるケガレとしての魑魅魍魎が侵入し易くなる。そうした反動的な共感呪術認識が、ここにはある。

「むじやう」「無常」。

「老少不定」「らうせうふぢやう」。人の寿命に老若の定め、老いた人間が若い者より先に死ぬというような物理的法則はないことを指す。

「しやば」「娑婆」。

「さいし珍宝及(ぎ〔ふ〕)王位(わうい)りん命(めう)終時(じうじ)不隋(ずい)」ルビはママ。正しくは「妻子珍寶及王位(さいしちんぽうぎゆうわうゐ)、臨命終時不隨者(りんみやうしゆうじふずいしや)で「大集経」の一節。「妻子・財宝や王位などは、臨終の後にはついては来ない」の意。但し、同句には以下、「唯戒及施不放逸(ゆいかいぎゆうせふはういつ)、今世後世為伴侶(こんぜごせいはんりよ)」(ただ、戒と施と不放逸の三種は、現世の後も伴侶となる)と続く。

「家〔か〕げう」ママ。「家業(かげふ)」。

「入れがへ」「入れが替へ」ではおかしい。「入れ甲斐(がひ)」の誤りではないか? 祟られた結果、富籤への執心も全く無くなり、の意でとっておく。

「星霜(せいざう)」濁音でも読む。]

 

Benzaiten

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版の挿絵。一幅のみ。トリミングしただけ。]

 

 しかれども、

「貧(ひん)は我(わが)宿習(しゆくじう)のあしさ。」

とあきらめ、「佛神」と恨(うらむ)るこゝろもおこらず、天女しんじんの誠も、さめず、明くれ、しゆ行の功(こう)をつみしが、

「けふは七囘忌の命日なれば。」

とて、鄰家(りんか)の婦女をよび集(あつめ)、こゝろばかりのついぜんをなせしが、ふしぎや、庭のまん中、三尺四方程、うごき出〔いで〕、土竜(どりう)の土を上(あぐ)るごとくに、下より、

「むくむく」

と、つち起(おき)て、其中より、年の程、十四、五さいの娘一人、あらはれ出〔いで〕、身につきたる土をふるへば、人々おどろき、肝(きも)を消し、

「是は。如何成〔いかなる〕わざならん。」

と、十方(〔じつ〕ぽう)へにげちりしが、暫くあつて、あるじ夫婦、近所の人々、また、ともなひ、恐しながら、内をのぞけば、彼(かの)おんな、竃(かまど)のまへに手便(てづから)、ちやをくみ、あたりを見みまはし、

「何とて、おのおのには、俄(にはか)に爰〔ここ〕を立〔たち〕さり給ひし。今、暫く、語りたまへ。」

と、詞(ことば)をかくる物越(〔もの〕ごし)をきけば、まさしく、箕面(みのを)のたきへ、しづみて相果(あいはて)たる娘なれば、

「さては、幽靈のあらはれしや。」

と、他人は、いよいよ恐れぬれ共(ども)、父母は、なつかしく、能々(よく〔よく〕)見れば、其〔その〕面(おも)ざし、着物(きるもの)のもやう、替りなく、月日を經し程〔ほどの〕成人(せいじん)して、形におとろへたる體(てい)も見へず。たとへ、ゆうれいにもせよ、變化(へんげ)にもあれ、我子の姿に似し人は、恐しながら、嬉しさのあまり、側(そば)へ立〔たち〕より、

「さても、御身は、今、此土中よりは、何として出〔いで〕られしぞ。又、歸るべき中有(ちうう)の魂(たま)か。そなたを失ひ、此年月、泪のかはく隙(ひま)もなく、明くれ、なげき通せしに、たとへ迷途(めいど)の人なりとも、しばらく、此世にとゞまりて、親のおもひを、はらされよ。」

と、なみだと共にかきくどけば、娘はけうざめ㒵(がほ)にて、

「何、おや達には、みづからが、死せしとや。きのふ、箕面(みのを)の御山にて、乳母や母うへにはぐれまいらせさふらひしより、さても、けつかうなる所へ行(ゆき)、そらには羅(うすもの)の網(あみ)をはり、地には七寶の砂(いさご)をしき、銀(しろがね)の山、金の堂塔、こん靑(じやう)の川の表に、玉をゑりたる龍頭(れうとう)の舟(ふね)數(す)百さう、鼻を並べ、錦綉(きんしう)の帆をまきかけ、さんご珠(じゆ)の車(くるま)に、めなふの櫃(ひつ)をつみ、るりや、こはくの牛馬(ぎうば)にかけ、莊(せう)ごん美々敷(びゝ〔しく〕)、あまたの宰料(さいれう)つきたまひ、

『是は、なんぢが親の本へおくり屆(とゞく)る、たからなり。然〔しか〕れども、なんぢが親の過(くわ)、この貧業(ひんごう)つよきゆへ、今、すこし、信心の功をつみ、宿(しゆく)ごうを、はたきつくさせ、おつつけ、さづけあたゆるなり。はやく歸りて、此通りを親に告(つげ)よ。』

と、のたまいしが、あゆむともなく、とぶともなく、此庭へ歸りたり。みづから、親の家(いへ)を離れ、いづくへ歸り可申〔まうすべき〕。」

と、いへば、聞(きく)人、ふしぎの思ひをなし、彼〔かの〕土中を掘(ほつ)て見れば、上〔うへ〕三、四尺程は、土、くづれ、それより下(した)は土(つち)かたく、いづくへ通ぜし道も、見へず。

 扨、だんだんに、仕合、直(なを)り、あきなひをして、買(かへ)ば、あがり、賣(うり)たる物は、その跡(あと)に下り、耕作をすれば、年に水旱(すいかん)のうれへなく、一莖(けう)九穗の五穀、実(み)のり、彼(かの)娘も長命にて、次第にふうきの門(かど)、弘(ひろ)がり、病(べう)げん・惡事・さいなん、なく、子孫はんじやうの家となれり。

 誠に信心けんごなれば、宇賀のせい約、空しからず。

 皆人〔みなひと〕、我〔わが〕宿(しゆく)ごうのあしき事を、しらず。そのまゝ、願ひ、かなはざれば、還(かへつ)てうたがひをおこし、信心をさますゆへ、御内證(〔ご〕ないしやう)に叶ひ難し。冨だゝりといふ事は、自業(じごう)をはたかせ、あるひは、火難、または大〔おほ〕ぞん、一度(ど)に過去の余習(〔よ〕じう)をつくさせ、それより、冨貴をあたへたまふ。難有(ありがた)かりける結(けち)ゑんなり。

[やぶちゃん注:「宿習(しゆくじう)」ルビはママ。「しゆくじふ」が正しい。前世の因果に拠って生じた報いとしての習慣や習性。

『「佛神」と』「何が! 仏だ! 神だ!」と。

「土竜(どりう)」モグラ。

「十方(〔じつ〕ぽう)」ルビはママ。「じつぱう」が正しい。

「手便(てづから)」言わずもがなであるが、二字へのルビ。

「ちやをくみ」「茶を汲み」。

「程〔ほどの〕」躓くのが厭なので、かく読みを振った。

「中有(ちうう)」ルビはママ。「ちゆうう」でよい。「中陰」に同じ。仏教で、死んでから、次の生を受けるまでの中間期に於ける存在及びその漂っている時空間を指す。サンスクリット語の「アンタラー・ババ」の漢訳。「陰(いん)」・「有(う)」ともに「存在」の意。仏教では輪廻の思想に関連して、生物の存在様式の一サイクルを四段階の「四有(しう)」、「中有」・「生有(しょうう)」・「本有(ほんぬ)」・「死有(しう)」に分け、この内、「生有」は謂わば「受精の瞬間」、「死有」は「死の瞬間」であり、「本有」はいわゆる当該道での「仮の存在としての一生」を、「中有」は「死有」と「生有」の中間の存在時空を指す。中有は七日刻みで七段階に分かれ、各段階の最終時に「生有」に至る機会があり、遅くとも、七七日(なななぬか)=四十九日までには、総ての生物が「生有」に至るとされている。遺族はこの間、七日目ごとに供養を行い、四十九日目には「満中陰」の法事を行うことを義務付けられている。なお、四十九日という時間は、死体の腐敗しきる期間に関連するものとみられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「迷途(めいど)」「冥途」に同じい。

「けつかうなる所」「結構なる所」。とても素敵な所。弁財天の住まう御殿であろう。

「こん靑(じやう)」「紺靑」。

「ゑりたる」「彫(ゑ)りたる」。

「龍頭(れうとう)の舟(ふね)」龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)である。貴人の乗る立派な船。竜の彫り物や鷁の頭を船首・船側に彫り付けた船。「鷁」は想像上の水鳥で鷺に似て大きく、風波に耐えてよく飛ぶところから、水難除けとされる。「龍」は「りょう」、「首」は「す」とも読む。

「錦綉(きんしう)」「錦繡」に同じい。錦 (にしき) と刺繍 (ししゅう) を施した織物。

「さんご珠(じゆ)」「珊瑚珠」。珊瑚のこと。

「めなふ」表記はママ。「瑪瑙(めなう)」。

「つみ」「積み」。

「るり」「瑠璃」。

「こはくの」「琥珀の」。ここ、「牛馬(ぎうば)にかけ」と続くのだが、瑠璃や琥珀で出来た牛馬ではあるまい。牛馬にそれらをふんだんに担い掛けたということであろう。

「宰料(さいれう)」「宰領」金、或いは「采配料」の縮約であろう。送り返すに際しての彼女への餞別及び以下に語られる父母への条件附きの土産としてである。

「過(くわ)」「因果としての過失」或いは「過去の悪因縁」のこと。孰れかであったとしても、結果は仏教の因果律から言えば、同じことである。今までの用法からは前者のように思えるが、最後にしっかり「過去」という単語を用いているから、満更、違うとも言えぬように思われる。筆者は「未來」という熟語もよく用いるしね(江戸期の怪奇談で「過去」や「未來」という熟語は、そうそう出てはこないのである)。

「貧業(ひんごう)」ルビはママ。「ひんごふ」が正しい。貧しくならざるを得ない因業(いんごう)。但し、仏教に於いてそれは、矢野四郎右衛門自身が理解出来るような現在の彼のこれまでの人生の過去に於ける過誤・過失の悪しき行為による結果ではなく、彼には判らない彼の前世(ぜんせ)の悪因縁による結果であることは言うまでもない。現世利益を肯定する場合、つい、そうした解釈をしてしまう傾向が、当時の凡夫もさることながら、寧ろ、現代人に多い勘違いであるので、敢えて蛇足しておく。

「ゆへ」ママ。「故(ゆゑ)」。以下同じ。

「宿(しゆく)ごう」ママ。「宿業(しゆくごふ)」。以下同じ。

「はたきつくさせ」「叩(はた)き盡くさせ」。前世の宿業を現世に於ける信心堅固を続けるて功を積むことで、完全に払い落させて。

「おつつけ」「追つ付け」。副詞。そのうち。間もなく。

「さづけあたゆるなり」「授け與ふるなり」。これも言わずもがなだが、読者の中には、大呆けをかまして、「土から出てきた娘は、どこにそれを持ってるの? 袂にでも入っているの?」などと、考える輩がいないとも限らないから、老婆心乍ら、言い添えると、この娘が見ている珍宝の数々は、その業を叩き尽くした際に、初めて彼に与えられるところの真の富貴のシンボライズされたものであるということなのである。

「のたまいしが」ママ。「宣ひしが」。

「みづから、親の家(いへ)を離れ、いづくへ、歸り可申〔まうすべき〕」「みづから」は自発の意。以下は反語だが、重箱の隅をほじくるようだが、瀧へ落ちた経緯から見ると、「親の家を離れ」という前振りは、状況を論理的につらまえているとは言い難い表現で、私はちょっと躓(つまず)く。

「直(なを)り」ルビはママ。「なほり」が正しい。

「その跡(あと)」「その後」に同じい。

「水旱(すいかん)」旱魃(かんばつ)。

「一莖(けう)九穗(ほ)の五穀、実(み)のり」ルビはママ。「一莖九穗」の歴史的仮名遣というか、読みは「いつけいきうすゐ」が正しい。穀物の一つの茎に沢山の穂がつくほどの驚くべき目出度い豊穣のこと。流れでは、事実の豊作のように語っているが、まんず、万事に於いて、僅かの努力で多くの利益を得たことの喩えである。これは見るからに漢籍由来と見えたので、調べてみたところ、「東觀漢記」(後漢(二五年~二二〇年)の歴史を記した歴史書。元は百四十三巻であったが、後に散佚し、現在は清代以降に集められた佚文のみである)の巻一の「世祖光武皇帝紀」に、後漢の初代皇帝光武帝(紀元前六年~紀元後五七年:姓は劉、諱(いみな:本名)は秀)の誕生の箇所に、「是歲有嘉禾生一莖九穗、長大于凡禾、縣界大豐熟、因名帝曰秀」(彼が生まれたその年、とある県の稲(「禾」)にこれが生じ、大豊作となった、そこで諱を「秀」とした)という貴種誕生奇瑞譚が記されてあった。

「門(かど)、弘(ひろ)がり」門が広くなったというのではなく、一門一族へと富貴が広がり、の意。

「病(べう)げん」「病原」しか浮かばない。根の深い悪い病いの謂いか。

「宇賀のせい約」娘を送り出すに際して宇賀神(=弁天)が告げた内容を指す。

「さます」ここは「冷ます」。

「御内證」仏の真理、或いはそのもとに行われる秘蹟。

「冨だゝりといふ事は、自業(じごう)をはたかせ、あるひは、火難、または大〔おほ〕ぞん、一度(ど)に過去の余習(〔よ〕じう)をつくさせ、それより、冨貴をあたへたまふ」纏めをやらかしたのはいいが、どうも言葉が足りていない感じがする。『「富籖祟(とみくじだたり)り」という一件は、それによって自身の前世からの業(ごう)を起動させる方便であったのであり、それによって、一時は、或いは火難に遭い、又は商売その他で大損をした。しかしそれは弁天様の深い配慮に拠ったものであったのであり、ともかく、積もっている過去の因果の応報たる「貧(ひん)」の習(なら)い(宿命)の残っている部分を、完全に尽きさせてから、やおら、彼にまことの富貴をお与えになられたのである』という謂いである。でもさ! 言っとくけどね、「火難に遭った」なんてこと、書いてないだろ! 悪しき「仕合」の一つだったとここで弁解するなら、一言でいいから、ちゃんと書いとけよ! 作者!!!

「結(けち)ゑん」ママ。「結緣(けちえん)」。

 

 時間が、本文校訂の十倍も、注にかかった。でも、娘が「むくむく」と地面から立ち上がってくるシークエンスは、なかなかいいじゃん! 僕は思わず、小さな頃に観て、今も忘れられない、特撮を巨匠レイ・ハリーハウゼン(Ray Harryhausen 一九二〇年~二〇一三)が撮った、ドン(ドナルド)・チャフィ(Donald Chaffey 一九一七年~一九九〇年)監督の特撮映画「アルゴ探検隊の大冒険」(Jason and the Argonauts:一九六三年公開(本邦公開は翌年)。イギリスとアメリカの合作)で、ヒュドラの歯からアイエテス王が七人の骸骨剣士 (Skeleton army)を生み出すところを、思い出したんだ!! YouTube のAll Boom 氏の「" JASON AND THE ARGONAUTS" (Against the Skeletons)」を、みんなで、見ようよ!! これを見てこそ! イケるだぞ、って!

2020/09/08

大和本草卷之十三 魚之下 海𫙬𮈔魚 (ゴンズイ)

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は前に合わせて「同」。]

海𫙬𮈔魚 海ノギヽ也長サ五六寸ニ不過白黑ノタテ

筋アリ其餘ハ如河𫙬絲魚

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

海𫙬𮈔魚 海の「ぎゞ」なり。長さ、五、六寸に過ぎず。白黑のたて筋〔(すぢ)〕あり。其の餘は河の𫙬𮈔魚のごとし。

[やぶちゃん注:これは直感的に海産のナマズ類である、

硬骨魚綱ナマズ目ゴンズイ科ゴンズイ属ゴンズイ Plotosus japonicus

であろうと踏んだ。条件は、

①海産魚。

②淡水産にギギ(「大和本草卷之十三 魚之上 𫙬※魚 (ギギ類)」を参照されたいが、「ギギ」と呼び得るものは複数種いる)と非常によく似た形態の魚。

③刺されると痛い淡水産のギギと同じく、刺されると痛い魚。

④体長は約十五~十八センチメートルと小振りの魚。

➄白と黒のツートン・カラーの縦筋(益軒は博物学者であるから正しく体幹に対して平行な筋をかく呼んでいると考える)を有する魚。

である。では、順に検証していこう。ギギ類はナマズ目 Siluriformes ギギ科 Bagridae であるが、淡水魚である。

①海産のナマズ類(と無批判に限定してよいわけではないが、事実資料として示すと)というのは、ゴンズイ科 Plotosidae とハマギギ科 Ariidae にいるが、日本本土に限ると、三種程度しか上がって来ず、後者のハマギギ Arius maculatus を代表とする種は現在ごく稀にしか確認されていない熱帯・亜熱帯の魚で、前者のミナミゴンズイ Plotosus lineatus も九州が北限である(益軒は福岡藩だから、除外は出来ない)。さすれば、大きな括りでその海水魚が真正のナマズ類であるとするなら、それだけで、ゴンズイ類しかあり得ないと限定は出来ることになるのである。而して適合度は①=「◎」である。

次に、

②形態だが、ギギの代表種の条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps(新潟県阿賀野川より以南、四国の吉野川、九州東部まで分布する日本固有種)の学名によるグーグル画像検索はこちらで、ゴンズイのそれはこちらだ。そんなに似ているかと言われると、私はそれほど似てるとは思わないが、しかし、全く違うとも言えない。しかも、ナマズ特有の触覚器である「ヒゲ」が孰れも四対八本現認出来るところが、ナマズらしさという共通性が激しく臭ってくると言える。特に私は、ギギよりも、ゴンズイの方が、ナマズらしいとさえ感ずるのである。されば、②=「○」

而して、

ゴンズイにはズバり、「ギギ」「ウミギギ」「ハゲギギ」といった地方名があるのである(「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のゴンズイのページを見られたい)。そうして、ゴンズイが毒針を持つことは、非常によく知られている。ウィキの「ゴンズイ」によれば、背鰭と胸鰭の『第一棘条(毒棘)には毒があり、これに刺されると』、『激痛に襲われる。特に夜釣りでは、釣れたものを手元にたぐり寄せたときに、暗くて毒棘が見えずに触ってしまうことがある。なお、この毒は死んでも失われず、死んだゴンズイを知らずに踏んで激痛を招いてしまうことが多いため、十分な注意が必要である。毒の成分はタンパク毒であるため、加熱により失活する』とある。私はギギはもとよりゴンズイにも刺されたことがないが、ゴンズイのそれは相当にひどい症状を呈するようで、救急搬送された事例もある。されば、恐らくはギギより症状は酷いから、③=「◎」

④日本本土のゴンズイの体長は十~二十センチメートル(沖縄では三十センチメートルに達する個体もあるという)であるから、④=「◎」

➄先の画像のゴンズイを見れば、一目瞭然、茶褐色の体側に頭部から尾部にかけて二本の黄色い線があり(幼魚ほど鮮明)、体側にも二本の明瞭な黄白色の縦縞があることが判る。➄=「◎」

何時も同定比定に悩まされることが多いが、これは百%、間違いない。なお、ゴンズイは漢字では「権瑞」と書くが、由来は不詳である。サイト「ダイバーのための海水魚図鑑」のゴンズイのページには、『和名の由来は「牛頭魚」(ゴズイオ)から来ていると言う説がある。「牛頭」とは牛頭人身の地獄の鬼神のことで、ゴンズイは頭部が牛に似ていて、背中や胸に毒腺があるので悪魚の意味でそう呼ばれた。もう一つは、中部地方で屑物の事をゴズ、またはゴンズリというが、ゴンズイとは「屑魚」から来ていると言う説がある』とあった。この「牛頭」説、私は一票入れたい気がする。彼らの顔は確かに「牛頭(ごず)」に似てるもの!

「𫙬𮈔魚」は「大和本草卷之十三 魚之上 𫙬※魚 (ギギ類)」の私の注を参照されたい。そこで書いた内容を繰り返すのは、あまり意味がないので、ここでは問題にしない。ただ、中文サイトを見ても、発音を不詳としており、漢語として古くからあったものではないと思われ、現在、日本では「ギギ」を指す漢字(国字か)とされている。因みに、「絲」は「絲」の異体字。なお、私は実は二〇〇八年の段階で、寺島良安の和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の中の「𫙬𮈔魚」を「𫙬魚」と読み換え(但し、当時は「𫙬」の字がパソコンで使用出来なかったため、「※」としていた)、ギギに同定しているのである。項目として最初から三番目であるが、二番目「黄顙魚(ごり) かじか」にも出現する(そこでは私はウツセミカジカ・アユカケ・ギギ)に同定比定した)ので、是非、見られたい。

大和本草卷之十三 魚之下 がうざ (不詳・ウスメバル?)

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は前に合わせて「同」。]

ガウザ 色ハメハルニ似タリ黑シメハルヨリ口小ニ長七八寸

ニ不過味メバルニヲトレリ然頗ヨシ又淡赤色ナルアリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】[やぶちゃん注:底本は前に合わせて「同」。]

がうざ 色は「めばる」に似たり。黑し。「めばる」より、口、小に、長さ七、八寸に過ぎず。味、「めばる」に、をとれり。然〔れども〕頗〔(すこぶ)る〕よし。又、淡赤色なるあり。

[やぶちゃん注:こりゃ、判らん! 「ガウザ」「ゴウザ」で検索しても異名が出てこない。敢えて言うと、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のオニカサゴのページに、同種を「ゴウザカブ」と福岡県福岡市中央区長浜の長浜鮮魚市場で呼ばれているという記載があった。しかし、オニカサゴの類縁とはとても思われない記載である。寧ろ、「めばる」に似て、一部個体に「淡赤色なるあり」という謂いからは、前項で挙げた

メバル属ウスメバル Sebastes thompsoni

を同定候補の一つに挙げていいかもしれない。背鰭の棘条はオニカサゴにやや通じるとも思われる。]

大和本草卷之十三 魚之下 奥目張(をきめばる) (アカメバル)

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は前に合わせて「同」。]

奥目張 メハルノ類ニ非色ハ淡黑ニ乄メハルニ似タリ目大ナリ

メハルヨリ形セハシ味メハルニ異ナリ味ヨシ石首魚ノ形ニ

ヨク似タリ口ハメバルヨリセバシ長六七寸八寸ニ不過

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

奥目張(をきめばる) 「めばる」の類に非〔(あら)〕ず。色は淡黑にして「めばる」に似たり。目、大なり。「めばる」より、形、せばし。味、「めばる」に異〔(こと)〕なり、味、よし。石首魚(ぐち)の形に、よく似たり。口は「めばる」より、せばし。長さ、六、七寸、八寸に過ぎず。

[やぶちゃん注:「をきめばる」のルビ(元は「ヲキメバル」とカタカナ)はママ。「沖(澳)眼(目)張」で「おきめばる」が正しい。詳しい同定過程は「大和本草卷之十三 魚之下 緋魚 (最終同定比定判断はカサゴ・アコウダイ・アカメバル)」で注したので、見られたいが、これは、益軒先生の謂いは「ブー!」(×)で、メバルの代表種である、

条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目メバル科メバル属メバル(アカメバル)Sebastes inermis

の釣魚としての俗称である。彼らは他に「赤(あか)」「金(きん)」とも呼ばれる。但し、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアカメバルのページの記載に、『クロメバル、シロメバル、アカメバルは流通上、日常的には区別しない』とされた上で、『沖合にいるウスメバルが「沖めばる」、本種など3種類が「めばる」と呼ばれていた』とあった。そこで、そちらのウスメバルのページを見ると、上記種以外に、この、

メバル属ウスメバル Sebastes thompsoni

が、『浅い岩礁域にいるメバル(クロメバル、シロメバル、アカメバル)と比べると』、『沖合の深場にいるために沖メバル、もしくは色合いから赤メバルと呼ばれる事が多い』とあったので、これも挙げておかなくてはならないかとも思った。しかし、益軒は体色を「淡黑」と述べており、『全体に黒味が強くやや赤味がか』っているアカメバルに比して、ウスメバルには『体側に不規則な褐色斑がある』(引用は「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」から)とあり、写真で見ても、はっきり違って見えるので、やはりアカメバルでよかろう。

「石首魚(ぐち)」「大和本草卷之十三 魚之下 石首魚(ぐち)(シログチ・ニベ)」を参照されたい。]

大和本草卷之十三 魚之下 とくびれ

 

【和品】

トクヒレ 奥州ノ海ニアリ長一尺三四寸魚ニヨリテ大

小アリ橫ハセハシ其身鱗皮段〻アリテ橫ニ連レリ背

與腹ノカドニ短刺多ク連レリ尾ノ方ハカド五アリヒレ背腹

両方ニ長ク連レリ各三寸半許肉ニ筋多ク乄傘ノ骨アル

カ如シ觜ハ下腮短シ首ハ不大性味漢名不知甚他魚

ニ異レリ奇品ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

とくびれ 奥州の海にあり。長さ一尺三、四寸。魚によりて、大・小あり。橫は、せばし。其の身・鱗・皮、段々ありて、橫に連〔(つら)〕なれり。背と腹との、かどに、短き刺(はり)多く連なれり。尾の方は、かど、五つあり。ひれ、背・腹両方に、長く連なれり。各々〔(おのおの)〕三寸半許り。肉に筋〔(すぢ)〕多くして、傘の骨、あるがごとし。觜〔(くちばし)〕は下腮〔(あご)〕短し。首は大ならず。性・味、漢名、知らず。甚だ他魚に異れり。奇品なり。

[やぶちゃん注:新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カジカ亜目トクビレ科トクビレ亜科トクビレ属トクビレ Podothecus sachi (Jordan and Snyder, 1901)。ハッカク(八角)の異名が却って通用しており、その方が相手には通り易い。ウィキの「トクビレ」によれば、『和名のトクビレ(特鰭)は、雄にみられる大きな背鰭と臀鰭から付けられた。北海道と関東ではハッカクといい、これは角張った体の断面を八角とみた。青森ではサチといい』、種小名の Sachi は『これによる。他にヒグラン、フナカヘシ、ワカマツなどがある。北海道では雄をワカマツ、雌をマツヨ、あるいは雄をカクヨ、雌をソビヨと呼び分ける地域もある』。『トクビレは北日本・ピョートル大帝湾・朝鮮半島の東岸など、太平洋北西部を中心に分布する海水魚である。沿岸の浅い海で暮らす底生魚で、岩礁や砂泥に体を横たえ、甲殻類や多毛類を主に捕食する』。『体は細長く角張っていて、頭が鼻先に向けて尖る。ホウボウの仲間と類似し、体長40-50cmほどにまで成長する。背鰭は8-10本の棘条と12-14本の軟条で構成される。鰭の形態に性的二形があり、雄の第2背鰭と臀鰭の軟条が異様に長く発達する。吻(口先)が長く突き出ており、腹側に10本以上の短い口ヒゲを有することが、近縁種との明瞭な鑑別点となる』。『本種は味の良い白身魚で、日本では底引き網・定置網・刺網などで漁獲される。刺身・塩焼き・干物・軍艦焼き(腹に味噌を詰めて焼く郷土料理)など、さまざまな調理法が知られている』。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のトクビレのページによれば、本種の『タイプ標本(ホロタイプ)』(Holotype:担名タイプ。ある生物を新種として記載する際に必要な模式標本の内で、記載論文で、ただ一つ、明示的に指定される最も重要な標本。「正基準標本」「正模式標本」とも呼ぶ。「holo-」は英語の接頭辞で「完全の」の意)『は青森県陸奥湾。来日したアメリカの魚類学者で米国スタンフォード大学総長でもあったデイビッド・スター・ジョーダン(ジョルダン)(David Starr Jordan 一八五一年~一九三一年)と彼の学徒であったジョン・オターバイン・シュナイダー(John Otterbein Snyder  一八六七年~一九四三年)が青森県で採取・記載した、とあった(以上の二人の学者のデータは独自に英文ウィキから見出した。なお、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同ページには「コアクヨ」「マツヨ(松魚)」「バイギウオ」「キウガナ」「ヒゲラン」「フナカエシ」「セワカマツ」「トビオ」(アトムだ!)「トンビ」「ガガラミ」「カクヨ」「ソビヨ」「トビヨ」などの多彩な異名が載り、面白い!)。記載は一九〇一年であるが、採取は明治三三(一九〇〇)年八月八日から翌九日であったことが、「青森県産業技術センター」公式サイト内の塩垣優氏の「青森県の海産魚類」の解説で判明した。非常に奇体な魚体であるが(グーグル画像検索「Podothecus sachiをリンクさせておく)、遊泳するその姿は私は甚だ美しいと感ずる。これは「浦島太郎」譚の「舞い踊り」に最も相応しいとさえ思っているくらいだ。例えば、「アクアワールド大洗水族館」で撮影された、Sasuke Tsujita氏のYouTube の「トクビレ(Tokubire) Sailfin poacher Podothecus sachiをご覧あれ! なお、私は本種の干物を函館で食したが、これ、非常に美味い!

「漢名、知らず」現行の中名は「帆鰭足溝魚」である。]

金玉ねぢぶくさ卷之六 里見義弘武を悟し因緣の事

 

金玉ねぢぶくさ卷之六

    里見義弘、武(ぶ)を悟(さとり)し因緣の事

 人は、おのれを知(しつ)て、不出不入(でずいらず)に身をおこなへば、萬事について、過(あやまち)なし。出過(ですぎ)たるを奢(おごり)とし、たらざるを無礼(ぶれい)とし、分〔ぶん〕ざいに相應せねば、過てもよからず、たらぬも惡(あし)し。

「先王の法服(ほうぶく[やぶちゃん注:「ほう」はママ。以下同じ。])にあらざれば、あへて不服(ふくせず)、せんわうの德行(〔とく〕かう)にあらざれば、敢ておこなはず。先王の法言(ほうげん)に不在(あらざれ)ば、あへて不言(いはず)。」

と、孔子も誡(いま)しめ給ひしなり。

[やぶちゃん注:年:里見義弘(大永五(一五二五)年~天正六(一五七八)年)は戦国・織豊時代の武将。義尭(よしたか)の嫡子。通称は太郎。父とともに房総に於ける里見氏の大名領国制の全盛期を築き上げた。対外的には、当初は親上杉氏の姿勢をとり、古河公方の継承問題に介入して、北条氏及びその擁立する足利義氏と対立した。永禄七(一五六四)年の「第二次国府台(こうのだい)の戦い」(現在の千葉県市川市)では敗戦を喫したものの(因みに、この時の相手は相模国鎌倉郡玉縄城主であった北条綱成で、今、私はそこ難攻不落の玉縄城の北を守る郭(くるわ)から同城跡を正面に眺めている)、同十年の「三船山の戦い」での勝利を機に、北条氏勢力を房総の地より駆逐、「越相同盟」(越後と相模)が結ばれるや、上杉氏と決別して政治的自立を果たした。元亀三(一五七二)年には、「副将軍」として鶴ケ谷八幡宮修造を主催している。またこの頃、理想の為政者たらんとの意志を表明する「鳳凰の印判」を作成し使用している。しかし、天正二(一五七四)年に父義尭が病死するや、内外に問題が噴出し、後継者問題も解決出来ぬままに病死した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「不出不入に身をおこなへば」万事に於いて出入・増減のないこと(過不足のない状態・ほどよい様態)をモットーとすれば。

「分〔ぶん〕ざい」「分際」。身のほど。その人に応じた許容される存在としての限度内。

「先王の法服にあらざれば……」以下は儒教経典の一つである「孝経」(こうきょう:全一巻。孔子と弟子の曾子(そうし)との問答形式で「孝」に就いて述べたもので、「十三経(けい)」の一つ)の「卿大夫(けいたいふ)章第四」(「卿」は大臣で、諸侯に次ぐ高位。「大夫」は「卿」に次ぐ重職位)の冒頭一節の引用であるが、お尻が切れている。

   *

非先王之法服、不敢服。非先王之法言、不敢道。非先王之德行、不敢行。是故非法不言、非道不行。

   *

 先王(せんわう)の法服(はうふく)に非ざれば、敢へて服(ふく)せず。先王の法言(はうげん)に非ざれば、敢へて道(い)はず。先王の德行(とくかう)に非ざれば、敢へて行はず。是(この)故(ゆゑ)に、法(はう)に非ざれば言はず、道(みち)に非あらざれば、行はず。

   *

 先の聖王がお定めになられた礼法に適(かな)った衣服でなければ、決して身に纏(まと)わない。その王がお定めになられた礼法に適った言葉でなければ、決して言わない。その王がお定めになられた道徳に適った正しい行いでなければ、決して行わない。この理(ことわり)故に、その王のお定めになられた礼法に適っていなければ、何も言わず、その尊い道徳に適っていなければ、何も行わないのである。

   *]

 

 一年(〔ひと〕とせ)、阿房(〔あ〕わ)の國、里見義弘、りん國の敵とたゝかひ、後に和睦して、異國の會盟(くわいめい)をまなび、たがひに國ざかいへ出會(であい)、向後(けうこう)、意(い)しゆ、あらざる旨を、ちかはんとす。

[やぶちゃん注:「國ざかい」ママ。

「出會(であい)」ルビはママ。

「向後(けうこう)」ルビはママ。「きやうこう」が正しい。現代仮名遣は「きょうこう」。今後。]

 

 我〔われ〕におとらぬ郞等〔らうだう〕、四、五人、從へ、既に城下を離るゝ事、三里にして、山あり。谷を隔(へだて)て、こなたなるそば道を通るに、いづくともなく、臥長(ふしたけ)十丈斗〔ばかり〕の大虵(〔だい〕じや)一疋、あらはれ、大きなる牛を見付〔みつけ〕て、終(つい)に追(ぼつ)つめ、引〔ひき〕まとひ、たゞ一口に飮(のみ)ぬ。

 人々、おどろき、

「あら、すざまじのありさまや。」

と、暫く、馬をひかへて、詠居(ながめい)ければ、彼(かの)大じや、牛をのみしまいて、下なる谷へ下〔さが〕る。さがるにしたがひ、大蛇の形、次第に、ちいさふなり、

「とん」

と、谷底(〔たに〕ぞこ)へ落(おり)ては、やうやう一尺ばかりの小虵(〔こ〕へび)となり、草むらへ、かくれんとす。しかるに、空にて、鳶(とび)一疋、まいしが、此へびを見て、

「つつ」

と下り、蛇を引〔ひつ〕かけ、二町ばかりあなたなる辻堂のやねにて、たちまちに引〔ひつ〕さき、喰(くら)ひぬ。

[やぶちゃん注:文中の「へび」の漢字に「虵」「蛇」の二様の表記のあるのはママ。使い分けているわけでもない。

「そば道」「岨道」。崖道。ここは崖の途中を拓いた道であろう。

「臥長(ふしたけ)十丈」全長約三十メートル三十センチ。

「終(つい)に」ルビはママ。以下同じ。

「追(ぼつ)つめ」小学館「日本国語大辞典」に、「ぼっつける」を立項し、『追付・追着』の漢字を当てた上、文語『ぼっつく』で他動詞カ行下二段とし、『追っていく。追いつめていく。また、たどり着く』とある。引用例はまさしく西鶴の武家物の第一作である浮世草子「武芸伝来記」(貞享四(一六八七)年板行)と、歌舞伎「曾我梅菊念力弦」(そがきょうだいおもいのはりゆみ:四代鶴屋南北ほかの合作で初演は文政元(一八一八)年)であった(本作浮世草子怪談集「金玉ねぢぶくさ」は元禄一七(一七〇四)年板行)。まさに出来立てほやほやの口語表現だったことが判る。

「引〔ひき〕まとひ」牛に幾重にも巻き纏いついて。

「詠居(ながめい)ければ」ルビはママ。「い」は「ゐ」が正しい。

「のみしまいて」ママ。「吞み仕舞(しま)ひて」。

「下なる」「したなる」「しもなる」二様に読めるが、「した」でよかろう。

「ちいさふなり」ママ。

「とん」蛇の落下着地時のオノマトペイア。

「まいしが」ママ。「舞ひしが」。

「つつ」鳶の直下への急降下のオノマトペイア。

「下り」「くだり」「さがり」二様に読めるが、力動感からは前者であろう。

「二町」約二百十八メートル。]

 

Satomiyosihiro

[やぶちゃん注:国書刊行「江戸文庫」版をトリミング合成し、中央の合成部分が判らぬように修正を加え、上下左右の額罫を除去して、全体に清拭を施した。]

 

 人々、おどろき、

「是、たゞ事ならず。」

と、不思議のおもひをなしければ、よしひろ、申されけるは、

「されば、此大じやの、始(はじめ)十丈の形の時は、大きなる牛をだに吞(のみ)しが、變成諸形(へんぜうしよげう)の通力(つうりき)は得ながら、今一尺の小蛇となりては、とびをだに、制する力、なし。されば、虵(じや)のみにかぎるべからず。人も大身・小身の品〔ひん〕あつて、身躰さう應の威(い)をかゝやかし、大身〔たいしん〕なれば、大身の力を用ひ、小身なれば、小身の力を尽(つく)す。爰〔ここ〕を以て、『大象(〔だい〕ざう)、兎徑(とけい)にあそばず、らん鳳(ほう)、けい雀(じやく)と群(ぐん)を同(おなじ)ふせず』と、いへり。然〔しか〕るに、我〔われ〕、今日、會めいなればとて、小〔こ〕ぜいにて、敵に、おもむく。是、大じやの小蛇(〔こ〕へび)と成〔なり〕て叢(くさむら)に遊ぶがごとし。さだめて、氏神八幡大ぼさつの、武運を守り給ふ御示現(ごじげん)なるべし。若(もし)敵と參會(さんくわい)して、一旦、事の變あらば、小ぜいにて如何〔いかが〕すべき。」

と、それより、いづれも取〔とつ〕て歸し、二度〔ふたたび〕、會めいに出〔いで〕ざりしとかや。

[やぶちゃん注:「變成諸形(へんぜうしよげう)」ルビはママ。正しくは「へんじやうしよぎやう」が正しい(現代仮名遣は「へんじょうしょぎょう」)。別なものに生れ変り、諸々の形態を、見かけ上、現わすこと。

「身躰さう應」「身體相應(しんたいさうわう)」。

「大象(〔だい〕ざう)、兎徑(とけい)にあそばず、らん鳳(ほう)、けい雀(じやく)と群(ぐん)を同(おなじ)ふせず」「兎徑」はウサギの通る道。前者は「大きな象は兎の通う獣道は通らない。大人物は自分に相応しくないつまらぬ地位には満足しない。或いは、大人物はつまらぬ人物を相手としない」という喩えで、後の「らん鳳」は「鸞鳳」で、鸞鳥と鳳凰を指し、ともにめでたい伝承上の鳥。ここは君子など仁の高い人物を喩えたもの。対する「けい雀」は「鶏(雞)・雀」で、とるに足らぬどこにでもいるニワトリやスズメのような凡夫を指す。これは恐らく「三国伝記」(室町時代の説話集で玄棟著。応永一四(一四〇七)年成立)の「四」に出る「鸞鳳、爭(あらそひ)てか、鷄雀と群せん、と念(ねんじ)て」が出典か(以上は小学館「日本国語大辞典」その他を参考にした)。

「八幡大ぼさつの、武運を守り給ふ」源氏が信仰して以来、八幡信仰は武家に最も人気が高かった。]

 

 誠に大名は大名の行義(げうぎ)をくづさず、居(を)る時は邦境(ほうけう)を守り、行時(ゆくとき)は行列を備へ、軍(ぐん)には紀律(きりつ)を示し、陣には隊伍(たいご)を調へ、武をはり、威をかゝやかして、盗賊をおさへ、亂をしづめ、其國を安泰にしてこそ、其家〔そのいへ〕は久しかるべし。若(もし)おのれをしらずして、武家は公家のまねをし、百姓が侍のまねをすれば、兩方ともに禮にかなはず、終(つい)には家を失ひ、身をほろぼすに遠からず。

 とかく、出家は出家、町人は町人、山伏は山伏、いしやはいしやと、それぞれ、風俗を守り、聖人のおきてに背き給ふべからざるものか。

[やぶちゃん注:「行義(げうぎ)」ルビはママ。「行儀(ぎやうぎ)」。ここは広義の大名の示すべき大義・礼節を指す。

「邦境(ほうけう)」ルビはママ。「はうきやう」が正しい。領地区画を明らかに示す国境(くにざかい)。]

2020/09/07

金玉ねぢぶくさ卷之五 現業の報 / 金玉ねぢぶくさ卷之五~了

 

   現業(げんごう)の報(ほう)

  佛(ほとけ)、善巧方便(ぜんけうはうべん)して、六種の群類を度(ど)し、衆生、三世〔さんぜ〕の因果を信じて、捨悪修善(しやあくしゆぜん)のこゝろざしをなす。誠に佛法流布の御代とて、老たるも、病者(べうじや)も、いとけなきも、かた輪(わ)も、疊の上にて定業(でうごう)の壽命をつくすは、あり難かりける事どもなり。世に生死(しやうじ)のおきてなく、人にゐんぐわのおしへなくんば、つよき盤(は)、よはきをしのぎ、長きは、みじかきをまき、さかんなるは、おとろへたるをあなどり、智あるは、おろかなるを欺(あざむ)き、たがひにあらそひ、互にうばい、世は皆、盗(ぬすびと)のよりあひにして、すなをに商(あきない)をし、職をいとなみ、耕作をなすものは、あらじ。農・工・商のそれぞれの家業をいとなみ、さいしを養ひ、親へ孝行をつくし、他人をうやまひ、おのれを愼み、ほしけれども、ぬすまず、おしけれども、てばなして、道に背ける欲をおもはず、あるひは、ひきやくに渡して、江戶へ遣〔つかは〕す金銀(きんぎん)も、とゞき、大𢌞(〔おほ〕まは)りにつんで、長崎まで下〔くだ〕す荷物も、おくり狀一枚にて、慥(たしか)にとゞくは、みな人、ゐんぐわを知り、欲をおさへ、我まゝをせぬに、よれり。儒佛(じゆぶつ)のおしへ、立(た)ち、天下泰平にして、然(しか)も天道(てんだう)も立〔たち〕、因果も立〔たて〕り。されば、ゐんぐわの理(り)は、人(ひと)・物(もつ)、いひて、たがひに應對するがごとし。

[やぶちゃん注:冒頭から教訓が長々と続いて怪奇談としては失敗である。言っていることも如何にも一般的で凡庸であり、読んで飽きてくる。私には、だ。標題も「現業」は「げんごふ」でないとおかしい。

「善巧方便(ぜんけうはうべん)」通常は「ぜんげうはうべん(ぜんぎょうほうべん)」と読む。仏教用語で、臨機応変に巧みに手だてを講じて、人を導くことを指す。

「六種の群類」輪廻転生の因果に囚われた六道(天上道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)の六種の時空間(境涯))にいる六つのグールプの衆生群。

「三世」前世(ぜんせ)・現世・後世(ごぜ)。

「定業(でうごう)」ルビはママ。歴史的仮名遣は「ぢやうごふ」が正しい。前世から定まっている善悪の業報 (ごうほう) 。

「生死(しやうじ)のおきて」生・死という二種の生命体の持つ絶対様態。

「ゐんぐわ」「因果」。

「おしへ」ママ。「敎(をし)へ」。以下同じ。

「盤(は)」は「は」の草書の崩しであるが、わざわざそれにルビが振られているだけのことである。だったら、難しい草書を使うな! と言いたくなる。それでなくても退屈な冒頭なのに!

「うばい」ママ。

「すなを」ママ。

「商(あきない)」ルビはママ。

「ひきやく」「飛脚」。

「大𢌞(〔おほ〕まは)り」ここは広島で、前に江戸を出しているから、まずは大坂から長崎への西回り廻船、或いは、それに接続させてあるさらに東の江戸と大坂間の菱垣廻船(樽廻船)を加えて考えてもよかろう。それでこそ「大𢌞り」と言える。

「天道(てんだう)」ここは仏教と異なる、それ以前の中国からあった、自然に定まっている天然自然の道理。

「人(ひと)・物(もつ)」ルビは確かに「ひともつ」とあるので、かく分解した。人間間に於いても、それ以外の生物や物質間に於いても、の意でとる。

「たがひに應對する」人間だけでなく、万物は中国の陰陽五行説に依れば、互いに関連を持っており、相生相克することは、御承知の通りである。それを指して言っているととる。にしても、全く以って、くどいが、退屈な前振りだ。]

 

 さんぬる貞享年中、藝州廣嶋(ひろしま)に、「大坂や休圓(きうゑん)」とて、うとくなる禅門、実子一人有〔あり〕て、然(しか)も男子なりしが、いさゝか、心にいらざりけるにや、十三の年、かんだうしけるを、

「いまだ、よう少なれば、たとへ、いかやうの不孝あればとて、かん當(だう)とは、がてんゆかず。ずいぶん、きびしく仕付(しつけ)をして、行義(ぎやうぎ)を直(なを)させ給へ。我々もともに、いけんをくはへ、けう後(こう)は放逸(ほういつ)なる心も止(やめ)させ、てならい・學問をも情(せい)出して、とかく何やうの事成〔なり〕とも、おや達の御意〔ぎよい〕を背かせ申まじき。」

よし、一もん中、いろいろ、わび事すれども、彼(かの)禅門、曾て、せうゐんの色なく、終(つい)に他人を養子にして、それに嫁を迎へ、一せきをゆづり、夫婦ともに法體(ほつたい)をして、うき世のせ話(わ)をのがれ、殊にぼだい心ふかく、不斷、參り、下向を所作とし、

「尤〔もつとも〕實子に緣はうすけれども、誠に入まいのよき老の果報。」

と、人、是を、うらやみぬ。

[やぶちゃん注:「大坂や休圓(きうゑん)」「大坂屋休圓」。あんまり、こんなけったいな屋号付きの禅僧の法号称というのは聴かない。

「うとく」「有德」。

「実子一人有〔あり〕て」出家得度する以前に出来た子であれば、江戸時代でも問題はない。

「心にいらざりけるにや」何か、余程、気に入らぬ許し難い所業があったものか。

「かんだう」「勘當」。

「よう少」「幼少」。

「がてんゆかず」「合點行かず」。承服出来ないことである。

「ずいぶん」「隨分」。みっちりと。きっちりと。

「行義(ぎやうぎ)」「行儀」。

「直(なを)させ給へ」ルビはママ。「直(なほ)」が正しい。以下同じ。

「いけんをくはへ」「意見を加へ」。訓戒を与え。

「けう後(こう)」ママ。「向後」で歴史的仮名遣は「きやうこう」(現代仮名遣「きょうこう」)が正しい。今後。

「放逸(ほういつ)」ルビはママ。歴史的仮名遣は「はういつ」が正しい。

「情(せい)」漢字表記はママ。「精」。以下同じ。

「一もん」「一門」。ここは親族一族の意。

「せうゐん」「承引」(承諾すること)だが、歴史的仮名遣は「しよういん」でよい。

「終(つい)に」ママ。以下同じ。

「一せき」「一籍」。僧籍のことであろう。

「せ話」「世話」。世間一般の日常的瑣事。

「不斷、參り」日々、欠かすことなく、僧としての勤行を怠らず。大坂屋休円が主語。

「下向を所作とし」「下向」は「げかう(げこう)」であるが、ここは「還向」(くわんかう(かんこう))の意で、寺社仏閣に参拝して帰ることを指す。「所作」は日々の決まった成すべきこと、ルーティン・ワークのこと。

「入まいのよき」表記の「入まい」からは「入米」で「実入り・儲け」の意のように見えるが、これはそれと同時に「老いの入舞(いりまひ)」の意がもとで、年老いてから最後の一花を咲かせること、ここは日常の煩瑣な出来事に一切、悩まされることなく、好きな信仰への傾注のみに過ごせることを羨んで述べたのであろう。。]

 

 然るに、彼(かの)かんだうを受(うけ)し実子を、暫くは親類中にかくまい置(おき)しが、ぜんもん、ことの外、腹立(ふくりふ)せらるゝにつき、蜜(ひそか)に江戶へ下〔くだ〕し、かさねて、

「きげんの直(なを)るまで、時節(じせつ)を相〔あひ〕まち、勘氣(かんき)をゆるさせ申〔まうす〕やうに。」

と、だんがう、極〔きは〕め、慥成〔たしかなる〕便(たより)を求(もと)めて、江戶へ下しおきぬ。

[やぶちゃん注:「蜜(ひそか)に」漢字表記はママ。

「きげん」「機嫌」。

「ゆるさせ申〔まうす〕やうに」の「申す」の用法は近世以後の単なる丁寧語としての用法。「勘当をやめて許すようにさせますからね」。]

 

 しかるに、此もの、成人するにしたがひ、親のこゝろに背き、かく、一生、かんだうを請〔うけ〕て、不孝の罪を得し事を、ざんぎし、終(つい)に江戶にて出家をとげ、學もん、情(せい)を出(いだ)し、よき法師となりて、おりおり、國への便〔たより〕に、さまざま、わび事のふみをのぼせ、

「佛は『父母恩重經(〔ぶも〕おんぢうけう)』をときたまひ、聖人は、『刑のたぐひ、三千、罪(つみ)ふかうより、大(おゝ)ひ成(なる)はなし』と、いましめ給ふ。わたくし、幼少にて御きげんを背き、不孝の身となりし事を後悔し、せめては、『一子、出家すれば、九族、天に生ず』とかや承(うけたまは)り、棄恩入無爲(きおんにうむい)、しんじつほうおんしやの身と罷成〔まかりなり〕、二親のぼだいをとひ參らせ、御おんをおくりまいらせ候。あはれ、御〔ご〕かんきを御〔おん〕ゆるし、老少不定(らうせう〔ふ〕でう)のしやばにて候へば、御存命の内、今一度、たいめん仕〔し〕たき。」

よし、經文(けうもん)を引〔ひき〕、神妙成(しんべう〔なる〕)ふみども、たびたび、のぼせ、おりおりは、

「御明(〔お〕みあか)しにしたまへかし。」

とて、文にすこしづゝ實(み)を入〔いれ〕ても、おくりしが、いかゞしたりけん、此法師、江戸にて仕(しあわせ)よく金銀をため、

「京都へ、りん旨(じ)を、てうだいに上〔のぼ〕る。」

よしにて、廣嶋(ひろしま)へ來り、おぢ・伯母・從弟(いとこ)・諸(しよ)親類にたいめんすれば、いづれもよろこび、

「兩親も、もはや、老年、二人共につゝがなき内に、片時(へんじ)もはやく、たいめんさせ度〔たく〕おもひしに、よき折ふしの御〔おん〕のぼり、定(さだめ)て親達にも、久々にてのたいめんなれば、さぞ、滿足に、おもはるべし。」

とて、禅門へ其通(〔と〕をり)をいへば、禅門、にがにが敷(しく)、

「ぞんじとも、よらぬ事。たとへ、出家となり、いか程(ほど)出せいたし候とも、昔、かれを、かんだうせし時、今生(こんじやう)にて再び對めん仕〔つかまつ〕るまじき旨、かたく、佛神(ぶつしん)へちかひを立〔たて〕おき候へば、おもひとも、よらず。」

と申せしを、一もんは、いふにおよばず、隣家(りんか)の町人まで、あいさつに入〔いり〕、

「それは、あまり、かた過(すぎ)たる御分別。その時は、やうやう十三歲の時(こと)なれば、よいが、よいにも、惡〔あし〕ひ、あしひにもたゝぬ、東西不知〔しらず〕のおさなごなり。今、不孝の心をあらため、殊(こと)に出家して、あまつさへ、正しければこそ、自身、出世して、長老にまで成〔なり〕たまふ。況(いはんや)、出家は佛(ほとけ)のかたちなれば、佛を子に持(もち)給ふ事、此うへの悦び、あるべからず。ぜひとも、不敎(ふけう)をゆるされ候へ。」

とて、理(り)をつくして親父をいけんし、しかと得心(とくしん)せざれども、無理におさへて、彼(かの)僧をよびよせ、親子たいめんの盃(さかづき)をさせければ、禅門、ぜひなく、又、おや子の緣を結んで、さすが、おんあいの因果なれば、貌(かほ)を見てから、忿(いかり)の心も、やみ、四、五十日、とゞめて、さまざま、もてなし、其のち、彼(かの)ほうしは、また、別れて、江戸へ下りぬ。

[やぶちゃん注:「ざんぎ」「慚愧」。現行では「ざんき」と清音だが、古くはこの通り、「ざんぎ」とも読んだ。「自分の見苦しさや過ちを反省して心に深く恥じること」を言う。

「おりおり」ママ。

「父母恩重經(〔ぶも〕おんぢうけう)」ルビはママ。正しくは「ぶもおんぢゆうきやう」でなくてはならない。正しくは「仏說父母恩重難報經」で「父母恩重經」「父母恩重難報經」とも呼ぶ、ただひたすらに父母の恩に報いるべきを説いたかなり儒教臭の強い教えを説いた中国で出来たと思われる偽経。

「刑のたぐひ、三千、罪(つみ)ふかうより、大(おゝ)ひ成(なる)はなし」親不孝の罪は、あらゆる処刑に値する三千(多数の・総ての意の比喩表現であろう)の罪科の深さよりも重く大きな罪悪であり、これ以上、最大最悪の罪はない、の謂いであろう。

「せめては」せめてものことに。

「一子、出家すれば、九族、天に生ず」一人の者が正しく道に達して、出家したとなら、その者を含む一族は総て天上道の転生することが出来ると言った意味であろう。「一子出家すれば、七世の父母(ぶも)、皆、得脫す」など、まことしやかに僧や研究家が「仏教で言っている」などと記しているが、出典は経典ではなく、唐代の禅僧黄檗希運(彼は本邦の禅宗の一派黄檗宗とは関係がないので注意が必要)が母の死に当たって炬(きょ:松明(たうまつ))を持って、「一子出家すれば、九族、天に生ず。もし天に生ぜずんば、諸佛の妄言なり。」と称えて引導し、母が夜魔天宮に上生(じょうしょう)したという故事に基づいたものである(「浄土宗大辞典」の「引導」に拠る)。

「棄恩入無爲(きおんにうむい)、しんじつほうおんしや」「棄恩入無爲 眞實報恩者」。「恩を棄(す)て無爲に入るは、眞實報恩の者」の意。「恩愛の情(愛執)を捨てて世俗の執着を断ち切ることで無為たる悟りの道に入ることは、まっこと、真正にあらゆる対象に対する恩に報いる存在となる」の意であろう。上記の音読みで用いられ、特に出家受戒の際に唱えられることで知られる。「淸信士度人經」なる経文にある言葉などと言われるが、当該経典は現存せず、怪しい。

「老少不定(らうせう〔ふ〕でう)」ルビはママ。正しい歴史的仮名遣は「らうせうふぢやう」である。人の寿命に老若の定め、老いた人間が若い者より先に死ぬというような物理的法則はないことを指す。

「おりおり」ママ。

「御明(〔お〕みあか)し」神仏に供える灯火であるが、ここは、それにとして献ずる金品(後に出る「實(み)」がそれ)のことを指す。

「りん旨(じ)」「綸旨」。

「てうだい」ママ。「頂戴」。歴史的仮名遣は「ちやうだい」。

「其通(〔と〕をり)」ルビママ。「と」は脱字であろうが、「とほり」が正しい。

「ぞんじとも、よらぬ事」「そんなことは知ったことではない!」。

「出せいたし候とも」「出世致し候ふとも」。

「あいさつ」「挨拶」であるが、ここは説得の意。

「よいが、よいにも、惡〔あし〕ひ、あしひにもたゝぬ、東西不知〔しらず〕のおさなごなり」何だか表記も気になるが、まあ、「何でも倫理的に良いことが正しく良いことであり、悪いことは、どうころんでも、悪いことだという認識も持ち得ぬ、東も西も判らぬ幼子であったのですぞ、の意。それにしても、なかなか出さないねぇ、不孝の理由を!

「長老」ここは高僧の意。天皇の綸旨を拝領する役であるから、腑に落ちる。

「出家は佛(ほとけ)のかたち」僧は三宝の一つであるから、正しい謂いである。

「不敎(ふけう)」ここは「不興(ふきやう)」の意であろう。「不敎」でも「ふきやう」だが、「敎へざること」では意味が通らぬし、誤字であろう。後に出る真実の伏線とも言えない。

「しかと」は「得心(とくしん)せざれども」の意。

「おさへて」我慢させて。辛抱させて。]

 

 しかるに、それより百日あまりを經て、彼(かの)禅門久圓を、「大事のめし人(うど)」のよし、江戸より、御たづねあそばされ、夫婦共に江戶へ御めし被成(なされ)候ゆへ、何(なに)とも、がてんゆかざれば、

「さだめて、人たがへにてあるべし。」

と、近所の者も、さたし、勿論、一もん・けんぞくは、なを、以て科(とが)の品(しな)を、しらず。

 國においても、ふしんながら、御せんぎを遂(とげ)られ、

「身に覺へなくば、江戶にて首尾よく申分(〔まうし〕わけ)仕〔つかまつり〕、罷歸(〔まかり〕かへり)候やうに。」

とて、夫婦(ふうふ)ともに、きびしき籠輿(らうごし)に入れ、

「大事の科人(とが〔にん〕)なれば。」

とて、宰料(さいれう)もあまた付〔つけ〕られ、

「自然(しぜん)、道にて、わづらふ事もや。」

と、醫(い)しやまでをそへ、道中は宿次(しゆくつぎ)に人足五十人づゝかゝり、所々(ところ〔どころ〕)の地頭より、與力・同心數(す)十人にて、其領分を通る間、彼(かの)召人(めしうど)をけいごし、其きびしき事、いふばかりなし。

[やぶちゃん注:「久圓」ママ。こういう人名表現の異同が甚だ多いのは本書の特徴。作者はそういう点で気配りの働かない不思議な人物である。

「大事のめし人(うど)」大層な重罪の捕らえられるべき咎人(とがにん)の謂いであろう。但し、本来は「囚人(めしうど)」は「既に囚えられた人」を指す。

「ゆへ」ママ。以下同じ。

「何(なに)とも、がてんゆかざれば」「何とも、合點行かざれば」。何としても、どうして彼が捕われなくてはならぬのか、さっぱり合点がゆかなかったので。但し、休(久)円を除いて、である。

「人たがへ」人違い。

「科(とが)の品(しな)」罪科の中身。

「國」安芸国広島藩。

「ふしん」「不審」。

「御せんぎ」「御詮議」。彼を藩として訊問したのである。但し、その時の扱いは決して厳しいお調べではなく、丁重なものであったのであろう。でなくては、「身に覺へなくば、江戶にて首尾よく申分仕、罷歸候やうに」という声掛けはあり得ようがない。無論、幕府直々の、しかも重罪の容疑者であるからして、護送が厳しいのは当然である。というより、江戸に送る前に藩の取り調べ中に拷問死したり、護送中に病死したりすれば、それは藩の責任になり、とんでもない字体が出来(しゅったい)するからの配慮でしかないものではある。

「籠輿(らうごし)」通常はこれで「かごこし」と読む。竹製の粗末な駕籠 (かご)で、特に粗い折りの伏せ籃状になったもの。古くから罪人の護送に用いられた。

「宰料(さいれう)」「宰領」金、或いは「采配料」の縮約であろう。江戸までの護送送致完了に至るまでの実務費用の全額である。

「宿次(しゆくつぎ)に人足五十人づゝかゝり」山陽道から東海道までの宿場を継いで罪人の駕籠を運ばねばならないので、それぞれの宿駅で新たな人足を新たに雇う必要があり、それだけでも毎宿場で五十人が必要であったのである。

「地頭」江戸時代は領主や一部の代官の別称。

「與力・同心數(す)十人」これも相当な費用と事前の依頼が必要となる。この護送だけで恐らくは想像も出来ない莫大な藩費が使用されたことが判る。

「けいご」「警護」。]

 

 一もん・親族(しんぞく)、此體(てい)を見て、

「これは不慮成〔なる〕さい難(なん)、さりながら、天道、誠をてらしたまへば、すこしもきづかいし給ふな。科(とが)なき段を申〔まうし〕ひらき、やがてめで度(たく)歸りたまへ。」

[やぶちゃん注:「きづかい」ママ。

 以下、休(久)円の長い告白となる。]

 

Gengounohou1

ぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版の一枚目をトリミングした。]

Gengounohou2

[やぶちゃん注:これは二枚目で同前。配置は以下の告白の江戸を出るところに配されてあるが、訳の分からない挿絵である。これは、寧ろ、前の実子を勘当したシーンのそれとしか私には思われず、絵師が基本的に本文をよく読まずに勝手に描いたものとしか私には思えない。適合する箇所がない、場違いな挿絵である。]

 

 禅門、

「いや。左(さ)にはあらず。江戶より遙々(はる〔ばる〕)めさるゝ事に、何か卒尓(そつじ)のあるべきぞ。思ふに、彼(かの)いつぞや、のぼりしほうしが勘氣(かんき)をゆるし、おやこのちなみをなしけるゆへ、さだめて、天下に並(ならび)なき程の大惡事を仕出(しいだ)し、其わざはひが、三族に及び、親なれば、かく、御たづねなさるゝと覺へたり。江戶へ下(くだ)つて、万に一つも助りは、せじ。これが、おのおのへの今生(こんじやう)のいとまごひ、かならず悔(くやみ)給ふべからず。とても、我身(わがみ)はころさるゝ命(いのち)、いづれもへ、さんげの爲(ため)、因果の道理の、のがれ難き、慥(たしか)成〔なる〕せうこを語りきかすべし。是(これ)にて我(が)をおり、おのおのにも惡心(あくしん)あらば、やめたまへ。

 我(われ)、わかき時、惡性(あくしやう)の數(かず)をつくし、大坂にて、おやより讓(ゆづ)りの金銀(〔きん〕ぎん)・家財(やざい)を殘りなく、つくしあげ、諸(しよ)しん類にも、うとみ果(はて)られ、身のおき所のなきまゝに、友達(ともだち)どものあわれみをもつて、僅(わづか)の路錢(ろ〔せん〕)を用意し、一まづ、身上(しんしやう)かせぎの爲(ため)、江戶へ下(くだ)つて、十年あまりの光陰をおくりしが、其内(うち)に、仕合(しあわせ)わろく、一錢のたくはへも不出來(できず)。

 あまり、故鄕(こきやう)のなつかしさに、今一度大坂へ歸り度〔たく〕、路錢(ろせん)なければ、中仙道より、袖〔そで〕ごひをして、のぼりしが、信州の山中において、今、俗(ぞく)にいふ『高野ひじり』の商人法師(あきんどほうし)、東國へ下り、荷物、のこらず、賣〔うり〕しまひ、たゞ今、都へ歸ると見へて、明(あき)たるおいを、道のかたはらにおろし、前後もしらず、ふし居〔ゐ〕ければ、我〔わが〕心に惡心(あくしん)おこり、

『誠〔まこと〕や。此商人聖(〔あきんど〕ひじり)は、大ぶんの荷物を仕入(し〔い〕)れ、國々をめぐつて、みやこへ戾る時には、其銀(かね)を、はだにつけて居(を)るよし。我、此まゝにて大坂へ歸り、元手(もと〔で〕)なければ、何を商(あきな)ふべき志學(しがく)も、なし。いざや、此ほうしをころし、彼(かの)銀(かね)をうばひとらん。』

と、前後を見れば、おりふし、二里・三里の内には徃來(わうらい)の人かげも、見へず。

『よき首尾なり。』

と、かたなを拔(ぬい)て、まくら元により、既にころさんとせしが、よくよくおもへば、

『ぬすみは不義の第一。其うへに人をころし、あまつさへ、出家といひ、科(とが)に、とがを重ね、重罪に五逆(ぎやく)をつんで、たとへ、長者になればとて、未來の程(ほど)も、おそろしし。よしや、大坂へ歸り、たとへ、袖(そで)ごひをせうとも、今生(こんじやう)は僅(わづか)の間、それから、それまでのしやば。』

と明(あき)らめ、ぬいたる刀を、さやへおさめ、まくら元を立〔たち〕のきしが、能(よく〔よく〕)思へば、

『江戸に十年餘(よ)の星霜をおくり、大坂にて、いにしへの親しき友も、うとふなり、諸親るいとは、久しく、ちなみを斷(たち)ぬれば、せつかく、此たび、のぼりても、立〔たち〕よるべき心あての宿(やど)もなし。いやいや。是〔これ〕は、天のあたへ。切〔きり〕ころして銀〔かね〕を取〔とら〕ん。』

と、又、立歸り、寢貌(ねがほ)を見れば、いかにしても、後生(ごしやう)の程(ほど)のおそろしさに、念佛申〔まうし〕、あく心〔しん〕をやめ、それより、十町ばかりあゆみて、道(みち)すがら、おもへば、

『どうでも此銀(かね)をぬすまいでは、故(こ)きやうへも歸られず。』

と、又、引戾(〔ひき〕もど)すうしろ神に、

『よしや。未來は無間(むけん)ならくへも、落(をち)ば、おち、不便(〔ふ〕びん)ながらも、かれを殺し、これを元手に、かせぎ、ふやし、追善にて、此おんを、おくり、未來のつみをも、かろくせん。』

と、また立歸り、やうすを見れば、いまだ、ほうし、目をもさまさず、よねんなく臥(ふし)居(い)ければ、はるか、脇より、目をふさぎ、はしりかゝつて、切付〔きりつけ〕しに、あやまたず、大けさにかゝり、乳(ち)の下まで、切下(〔きり〕さげ)たり。

 其時、ほう師、

『むくむく』

と、おき、眼(まなこ)を見ひらき、一目〔ひとめ〕、にらみし、其ありさま、身の毛もよだち、五體もすくみて、絕入(たへ〔いる〕)程におそろしかりしが、終(つい)に、深手(ふか〔で〕)なれば、うごきもやらず、見て居(い)る内に、いきたへしかば、立〔たち〕よりて、はだを、さぐり、三十五兩の金子をとり、大坂へ上〔のぼ〕り、安堵をすへて、商ひも仕合(しあはせ)よく、だんだんに、かせぎ、ふやして、今の女房と夫婦の語らいをなし、一人の子を設(もうけ)しに、彼(かの)昔、道中にて、ころせし、ほうしの形(かたち)に、すこしも、違(ちが)はず。成人する程、よくよく、似ければ、我〔わが〕因果にて彼(かの)ほうしの、子と生れ來たる事を知り、恐しく思ひし所に、十三の歲、惡(わる)させしを呵(しか)りければ、少(ちいさ)き眼(まなこ)を見ひらき、我を、にらみ付〔つけ〕たるありさま、彼(かの)聖(ひじり)の、さいごに、にらみたるに、少しも、かはらず。其おそろしさ、いふ計(ばかり)なく、追付(おつつけ)、我〔わが〕命をとらん事をおそれ、何とぞ、親子の緣を切度〔きりたく〕、かんだうを致せしかども、因果なれば、のがれなく、勘當をゆるすやいなや、今、かやうのあだを、なせり。

 先日、たいめんの時、成人の像(かたち)をみれば、法しとなりて、みぢんも違(ちがひ)ひし所なく、いにしへ殺(ころ)せし聖(ひじり)なれば、我、二目〔ふため〕と得〔え〕見ず、眼(まなこ)をふさいで、あひしなり。此度〔このたび〕、江戶へめさるゝは、待(まち)もうけぬる因果のむくひ。」

と、覺語を極め下〔くだ〕りしが、あんのごとく、謂(いひ)しに不違(たがはず)、彼(かの)ほうしが重罪をおかし、三族を御成敗にて、しらが首(くび)を、討(うた)れしと也。

 

 

金玉ねぢぶくさ五終

[やぶちゃん注:ちょっと浄瑠璃っぽく最後の逡巡部分がくだくだしくてリアルでない感じがする。滑稽感が高まってしまって、スプラッターの残忍さ、怪奇性が萎んでしまった嫌いがある。どうも好きになれない話である。

「卒尓(そつじ)」「卒爾」。「尓」は「爾」の略字。突然で失礼な異常なこと。

「三族」身近な三つの親族。広義には父方・母方・妻の一族を、或いは、父・子・孫、父母・兄弟・妻子などを指す。

「さんげ」「懺悔」。江戸以前の日本では清音が正しい。

「せうこ」ママ。「證據」。「しようこ」でよい。

「家財(やざい)」ルビはママ。

「つくしあげ」「盡し上げ」。使い尽くしてしまい。

「諸(しよ)しん類にも、うとみ果(はて)られ」とあるからには、この当時の彼の放蕩ぶりを知る親族はここには既に一人も生きていないということが判る。されば、この男、かなりの年嵩でないとおかしいことにはなるという気がする。というより、彼の親類はこの広島には妻の縁者以外にはいないのではなかろうか? 彼は以下、若い時にいたのは大坂とし、実家もそこにあったと考えられるからである。であれば、異様に年嵩にとる必要もなくなる。

「あわれみ」ママ。

「仕合(しあわせ)わろく」ルビはママ(以下同じ)。どうにもやることなすこと、皆、裏目に出て。

「袖〔そで〕ごひ」乞食をすること。

「『高野ひじり』の商人法師(あきんどほうし)」ママ(先より言っている通り、「はふし」が正しい)。平安末期から増えた聖(ひじり)の中で、高野山を本拠とする集団。厳しい念仏修行をする一方、妻帯したり、生業を他に持つなど、半僧半俗の生活を営み。特に鎌倉以後は諸国を回国し、弘法大師信仰と高野山への納骨を勧め、霊験譚を広めた。また、橋や道路を造ったり、造塔造仏の勧進にも勤め、各地の「別所」と呼ばれる所に住んだ。高野山中では小田原聖、萱堂(かやどう)聖、千手院聖(時宗聖)などが南北朝時代には時宗の宗徒化した。しかし、中世末から高野聖の勧進活動は行き詰まり、中には商僧(まいす)化する者も多く、笈(おい)に呉服を入れて売り歩く呉服聖、信仰にかこつけて各種の物品を売ることを主とした行商聖、全く行乞(ぎやうこつ)を業(わざ)とする名目ばかりの乞食僧など、俗悪化が進み、本来の姿を失ったまま、江戸末期まで続いた。墨染の衣を裾短(すそみじ)かに着、檜笠を被って笈を背負う特徴的な姿は、各地の参詣曼荼羅などに頻出する(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。ここに出たのも、そうした零落した売僧である。

「明(あき)たるおい」ママ。「空きたる笈(おひ)」。

「志學(しがく)」辞書的意味ではなく、巷間の生き延びる「才覚」の意。

「二里・三里の内には徃來(わうらい)の人かげも、見へず」そんな距離は見えませんて! 阿呆か!!

「五逆」仏教用語。一般には、「父を殺すこと」・「母を殺すこと」「阿羅漢(僧の中で悟達した者)を殺すこと」・「僧の和合を破ること」・「造詣された仏身を傷つけること」を指す。一つでも犯せば。無間(むけん)地獄に落ちると説かれる。

「おそろしし」最後の「し」は副助詞で強調。

「よしや」副詞。たとえ。仮に。

「うとふなり」ママ。「疎(うと)うなり」。すっかり縁遠くなり。

「親るい」ママ。「るゐ」が正しい。

「ちなみ」「因み」。関係。

「せつかく」「折角」。

「十町」凡そ一キロメートル。

「ぬすまいでは」「盜まずては」。盗まなかったなら。

「うしろ神」「後ろ神」。後戻りして殺生を誘惑する鬼神。

「よしや」「縱(よ)しや」。副詞。「仕方ない!」「ままよ!」の感動詞的な用法。

「無間(むけん)ならく」「無間奈落」。八熱地獄の第八番目で最下底の究極の地獄。閻浮提(えんぶだい)の地下二万由旬(十六万キロメートル)にあるとされ、五逆の大罪を犯した者がここに落ち、一劫(いっこう:ある換算では四十三億二千万年)の間、間断なく責苦を受ける地獄の底にあるとされる地獄の最下辺。

「すへて」ママ。「据えて」。

「語らい」ママ。

「設(もうけ)し」ママ。

「呵(しか)り」「叱り」に同じい。

「得〔え〕見ず」本書に頻繁に出る不可能の呼応の副詞「え」に漢字を当ててしまったもの。

「眼(まなこ)をふさいで、あひしなり」嘘つくな! 「四五十日」も一緒だったじゃねんかッツ!

「三族」この場合は、父母と養子の男子と妻までであろう。にしても、養子夫婦は、とんだ、哀れだ。それにさ!――しかも、実子の犯した罪が示されていない! これって、ダメでしょウ! この怪談は、ゼンゼン!]

梅崎春生 無名颱風 一括PDF縦書サイト版 公開

梅崎春生「無名颱風」の一括PDF縦書版をサイトで公開した。ルビや傍点も底本通りにしてある。

2020/09/06

梅崎春生 無名颱風 (後) / 無名颱風~了

 

      一一

 

 私の直覚は正しかった。

 大体その頃からの数十分が、高鍋の町における、この無名の颱風の最盛期にあたっていたようである。

 不気味な、真空状態に似た静寂が、二分間ほどつづいた。と思うと、地鳴りのような音を立てて、ふたたび烈風が飛びかかってきたのだ。猛烈に飛びかかってきた。文字通りその感じであった。それはひと休みして、最後の打撃を加えてくる猛獣に似ていた。

 私がころがりこんだのは、土間がだだっぴろい、農家造りみたいな家屋であった。分厚い閤を手探りながら、やっと私は上(あが)り框(がまち)にとりついた。框には土や砂がかぶさっているらしく、脛(すね)にザラザラと触れた。人が住んでいる気配はさらにない。だから挨拶も略して、そこにある柱にすがって、土足のまま畳へ這いのぼった。手ざわりの感じでは、その柱は丸く太く、直径も一尺ぐらいはあるようである。暗くて家の内部は見えないが、柱のたくましい感触は、いくぶんの安心感を私に与えた。その柱に身をすりよせて、私は大きく呼吸をした。

「――困ったな。困ったことになったな」

 皆とはぐれてしまったことが悔(くや)まれてならなかった。皆といっしょならば、気も紛(まぎ)れるだろうし、危機を避けるすべもあるだろう。こう独りとなっては、すべて自分の判断と直覚でうごく外(ほか)はない。しかし私は自分のそれに、ほとんど自信をなくしていたのである。体が冷えてぞくぞくと寒かった。気温も急に低下してくるようだ。その悪寒(おかん)と疲労の底で、足を縮めて丸まった昆虫の姿勢を自分に感じながらも、吹きつける風の方向や強度に私は全神経をあつめていた。

 風の間隔がしだいに近まってくるらしい。それと一緒に風速も加わってくることが、家の揺れ方ではっきり感じられる。古い造りだと見えて、家の各部分が風圧に応じて、猛烈なきしりを立てる。四五秒置きの突風は、今までの音とちがって、へんに乾いた狂噪的な響きを帯びている。家の内部は暗い。音だけが私を取り巻いている。滑車に似た梁(はり)の軋(きし)りが、一風ごとに増大してきて、私が倚(よ)る太柱もぐぐっと揺れて、私の身体を衝き上げてくる。おそろしい手答えをその度に私に伝えてくるのだ。

 ――ここは危険だ?

 そんな考えがちらっと頭をかすめる。と、居ても立ってもいられない気持にかられ、闇のなかに片手を伸ばし、私は柱の下をはなれて、徐々に奥の方に移動し始めた。じっとしていることに耐えられなかった。

 伸ばした手が、なにか横木にふれた。なお手探ると、それは階段の登り口のようである。この家には、二階がある。

 ――階下はあぶない!

 そのことが矢のように、私の頭にひらめいた。昭和六年の颱風のとき、風で倒壊したある二階家の有様が、その瞬間、まざまざとよみがえっていたのだ。その家は二階は原形のまま、階下だけがぐしゃりと潰(つぶ)れていたのである。私は反射的に足をかけ、濡れた衣囊を引きずりながら、盲虫のように階段を這いのぼり始めた。

 こういう危急の状況に、なぜ重い衣囊を遺棄して、身軽にならないのか。私はほぼ無意識に、衣囊を引きずっていたのだろうが、その時側から、それを捨てろと忠告されたとしても、おそらくは捨て切れなかったに違いない。身軽になるということは、ただひとりの自分になることだ。それは言うまでもなく、余りに辛すぎる。その気持が、この重量ある伴侶(はんりょ)に、多分の頼もしさを、私に感じさせていたのだろう。ことに、どこに通じるのかも判らない階段を、盲めっぽうに登っている今の状況としては!

 まったく、此の家の構造や間取りを、私は何も知らないのだ。そしてこの家が、高鍋の町のどの地点にあるかということも。――だいいち高鍋の町からして、地図の上で、九州のどの辺に位置するかも、私には見当がつかないのである。「たかなべ」などという駅名を、今日下車してみて、始めて見知った程だから。その私にとって無名にひとしいこの町の、無名の地点の、無名の家の階段を、しゃにむに登ってゆく。その階段の恰好も、それを登る自分の姿勢さえも、まっくらだから、私には全然見えないのである。ただ判るのは、その階段がひどく揺れているということだけだ。

(何ということだろう!)

 今朝炎天の下で部隊を離れる時には、予測もできなかった運命が、私におちようとしている。一寸先は闇。文字通り今の状況は、一寸先は闇であった。その闇を手探る私の指が、階段の最上段に触れたらしい。そして私はぎくりとして、ほとんど衣囊を取り落そうとした。

「誰だ。そこにくるのは」

 闇の中から、そんなしゃがれた声が、いきなり飛んできたからである。空家だと思っていたのに、誰かがこの二階にいる。それが私をおどろかせた。私は身構えた。その押しつぶされたような声は、隔意と警戒だけでなく、はっきりと敵意を含んでいたからである。[やぶちゃん注:「隔意」(かくい/きゃくい)は「心に隔たりのある思い・打ち解けない感じ」の意。]

「怪しい者じゃない」

私の返事もすこしかすれた。舌がもつれて、長いこと声帯を使用しなかったような気がした。

「しばらく、雨宿り、させて呉れ。たのむ」

 その時、白い稲妻の光が、そこらを瞬間的に、仄明るくした。中二階みたいな、狭い板じきの部屋である。その部屋の真中を、太い柱が立ち貫いていて、その柱のかげにうずくまっている一人の男の形を、私はちらと眼に収めた。上半身が裸だったようである。その裸の胸や手が、私にむかって構えていた。距離は一間[やぶちゃん注:一メートル八十二センチほど。]ほどであった。むこうも私の姿を認めたようだ。

「雨宿りだあ?」

 ふたたび闇に沈んだ部屋の中から、男のたかぶった声が戻ってきた。私はそれに短く応じながら、衣囊を引っぱり上げ、柱の方ににじり寄って行った。階下よりもやはりここの方が、安全なような気がしたし、身近に人間が一人でもいるということが、私には力強く思われたから。

「やけに吹きまくるじゃないか」

 私は柱のそばにいた。柱は先刻のより、一廻り大きかった。この家の大黒柱みたいなもののようであった。

[やぶちゃん注:「昭和六年の颱風」この当時、梅崎春生は福岡修猷館中学を卒業した十七歳の時で(一浪して翌年に五高に入学)、福岡にいた。この年の台風については、前に見たサイト「四国災害アーカイブス」の中に「昭和6年10月の台風」があり、一九三一年十月十三日に『台風が九州、四国をかすめ、和歌山南方に上陸した。非常に速かったので、短時間強雨の被害になった』(下線太字は私が附した。後も同じ)旨の記事があるとある。当該ページには原資料へのリンクがあるので、それで見ると、「中村市史 続編」の「災害編」の中の「明治二十七年より昭和二年に至る風水害」の年表に(実際の年表には昭和九年までのデータが載る)、昭和六(一九三一)年の条に『十月十三日 台風』とあって、『九州四国を掠め、和歌山南方で上陸した七三五㎜の台風。非常に速かったので短時間強風の被害となる』とあって、後者の原資料を信ずるなら、ここでの描写と親和性があると言える

「盲虫」「ざとうむし」と当て訓して読んでいるものと思う。節足動物門鋏角亜門蛛形(クモガタ)綱ザトウムシ目 Opiliones に属するグループの総称和名で、異名総称としては「メクラグモ」とも呼ばれるが、その呼称は地方によっては、全く別種の真正のクモ類である足の長い鋏角亜門クモ綱クモ目ユウレイグモ科 Pholcidae の類をも指すので注意が必要。節足動本邦産は約百種ほどおり、通常は体は七〜八ミリメートルの豆粒状を呈し、五〜六センチメートル、時には十数センチメートルにも及ぶの糸のような長い四対の脚を、盲人が杖で探り歩くように、全身を震わせながら歩行することからの和名である(差別和名として検討が必要だろう。「座頭」自体がその内、若者には漢字も当てられなくなるであろうし)。腹部に明らかな体節構造を持つ点、しかも頭胸部と腹部が密着して見た目が概ね楕円体に纏まって見える点(クモ類は両部の間に明確なくびれが認められる)、出糸突起を有さない(糸を生成しない)ことでクモ類と区別される。夜行性。山地に多いが、平地や海岸にも棲み、岩の割れ目や壁面の角などに多数で固まっていることがある。クモ類には生理的嫌悪感の免疫がある私だが、彼らはダメ。]

 

      一二

 

 その部屋から、今登ってきた階段を通して、表の道路が見えた。

 雲はあちこち断(き)れて、雨はすでに止んでいるらしい。道路はぼうと明るく、その向うに家が並んでいるのが見える。月が出ているのかも知れない。突風が乾いた音をますます強めてくる。揺れの点では階下よりもここが烈しいようだ。大浪に揺られる船の底みたいに、ぎぎっと軋み、かたむき揺れる。ロウリングのみならず、不気味なピッチングも加わる。[やぶちゃん注:「ロウリング」(rolling)「ピッチング」(pitching)梅崎春生も主人公も元海軍兵(既に解員されている)であるから、自然にこうした表現が出る。船舶が海上を航行する場合、強風や波浪により、横揺れ(ローリング)や縦揺れ(ピッチング)、及びその他それらが複雑した動揺が発生する。ピッチングは前や後ろからの波風によって船首と船尾が恰もシーソーのように上下に揺れることで、ローリングは船体が横からの波風によって左右に揺れることを指す。]

 突風のたびに無意識に身体が凝縮して、どうしても、柱にすがりつく姿勢になってしまう。闇の中でその都度(つど)、私の手が男の腕に触れ合ったりする。男の肌は濡れてつめたかった。

 さっき板片をぶっつけた私の二の腕が、じんじんと熱い。ぬるぬるする。皮膚が裂けて、出血しているらしい。また眼鏡を飛ばされたとき、右耳のうしろを傷つけたと見えて、そこもじんじんと疼(うず)く。脈搏がそこに打っているのが判る。不整調で、早い。

 部屋が悲鳴をあげてざわめき揺れる度に、男もはげしく柱にしがみついて来るようだ。掌や腕がぶつかり合う具合で、それは判る。嵐に恐怖をかんじてしることが、その動きで私に伝わってくる。触れた感じでは男の体軀は、私よりも細く小さいようだ。男の呼吸は鞴(ふいご)のように荒い。

 突風のあい間に、私たちは短い言葉を交し合っていた。私からの発言や質問の方が多い。しゃべることで、相手や自分を確かめていないと、不安と恐怖で押しつぶされるような気がするのだ。顔かたちもまだ見知らぬのに、私はその男に、生物的な親近感をつよく保ち始めている。しかしそれは私の一方的な感じかも知れない。男の返事や話しかけには、もはや敵意はほとんど消えていても、まだ隔意の風情(ふぜい)が頑強にのこっているのだ。そこに異質のものが、こつんと感じられてくる。

「あんたも、兵隊かね?」

 切迫しているので、言葉が長いセンテンスでは出てこない。そう訊ねながら、私はできるだけ衣囊を身近に引きよせる。万一の場合の衝撃を、それで避けようとする下心からだ。こんなものが役立つかどうか。しかしその計算を離れて、ほとんど無自覚に私は動作している。

 男はあらく息づくだけで、それには答えない。

 次の風のあい間に、異様に緊張した声で、男は口をひらく。私に問いかけるともなく、独白ともつかぬ、中途半端なうわずった調子で。

「こ、ここは危いかな。外に出た方が、いいかなあ」

「外は駄目だよ」

 私は次のあい間に、頼むように言う。

「ここよりは、もっと危いよ」

 この男にいま駈け出されては、私もはなはだ困るのだ。そして実際、ここから見える仄白い道路に、いろんな形のものが、すばらしい速度で走り廻っているのである。板片や瓦のようなものだけでなく、相当な大きさをもっものまでが。

 戸板や唐紙が立ったまま、何枚も何枚も、道路の上をトコトコと走って行く。ふしぎに倒れない。妖怪じみたおそろしさがある。そして急に速度を増して、宙天(ちゅうてん)に捲き上る。

 

      一三

 

 とにかくその男は、すこしずつ変であった。

 変ではあるけれども、確かに変であると感じるだけのゆとりが、私にはなかった。

 包囲する轟音がたちゆるむとき、好奇心や相手をたしかめたい欲望が、ふと皮膚や唇の上に戻ってくるのだが、次の瞬間に、それはばらばらにかき消されてしまう。

「どうぞ。――どうぞ」

 音響と振動が通りすぎるのを、祈るような気持で待っている。そして短い小康がくる。電光が時々白っぽく流れる。

 この家には、雨戸は立ててあるようだが、唐紙や障子などの建具は何もないようであった。手探りでも触れなかったし、稲光もそれらを照らし出さない。家具らしいものの形もない。しめっぽい臭いからしても、空家のように思われるが、そうすればこの男は何だろう。私と同じ境遇だろうと、漠然と私はきめているのだが(そう思うのが一番カンタンだからだ)、どこかしっくりしない。食い違ってくるものがある。しかしむこうでも、私をそんなに感じているかも知れない。なにぶん動顚(どうてん)の状態だから、感情や挙動が平常通りにゆく訳もないのだ。

(とにかく、とにかく、これが済んでから。――)

 なにもかも後廻し、ひたすらその気持であった。戦争中やっと命を全うしてきたのに、やっと解放された当日に、はからざることになっては大変だ。是が非でも。是が非でも。私は衣囊に肩を埋めてみたり、柱の方に身じろいでみたり、架空の圧力にたいして、絶えず防禦(ぼうぎょ)の姿勢をととのえながら、神経だけで力んでいた。この家の屋根瓦(がわら)をばりばりと持ち去る、すさまじい音がする。壁の外側にも、重いものやするどいものが、ひっきりなしにぶつかってくるのである。

「――もう、駄目かも知れないぜ」

 やがて闇の底で、男の投げ出すような声がした。

「もうそろそろ、今度は駄目らしい」

「駄目なもんか」

 即座に私は答える。その言葉に引きずりこまれることから、懸命に抵抗しながら。――しかしそろそろ、この男が気持の隔てをなくしかけていることが、その語調から感じられた。

「そら、少し収まったようじゃないか」

「風向きが変る前に、ちょっと収まるんだ」と男が答える。「さっきから聞いているから、おれにはよく判るんだ」

 突風がすこしとぎれて、余波みたいな雑然たる音響がごうごうと鳴っている。

「何か食うもの、ないか」

「あるよ、何かあるだろう」

 私はあわただしく衣囊を引きよせて、紐(ひも)をまさぐる。紐が濡れてからみつき、なかなか解けない。中には今朝支給された弁当がある筈だ。少しして、男が言う。

「お前は、テンゾクか」

「え。テンゾクって何だい」

 なにか賊(ぞく)みたいな意味かと、私は理解しかねていた。紐がやっと解ける。

「テンゾクさ。ほら」

 男の説明で、やっと、転属だということが判る。この言葉は海軍では使わないから、耳慣れない。部隊から別の部隊へ変ることを意味するようだ。この男は陸軍の兵隊だ、と私は推知する。しかしそれにしても、少しずつ妙だ。何を考えているのか、と私はちょっと訝(いぶか)り思う。思うだけで、考えがそこから進まないのだが。男が探るような声を出してくる。[やぶちゃん注:諸記載を見るに、海軍では「転出」と言ったようである。]

「荷物持ってるんだろう、なあ、お前」

 男の掌が暗がりの中で、私の衣囊を手さぐっているのが感じられる。私の手がやっと衣囊の中で、食物を入れた包みに触れた。胃のへんがぎゅっと収縮してくる。空腹感というよりは、空虚感にちかい。

 指に濡れてべとべとしたものがくっついてきた。私はそれをいきなり口に持って行く。甘い。口腔の粘膜に、とつぜんその甘さは沁み入ってゆく。饀(あん)の甘さだ。航空糧食のお萩の粉末が、雨でどろどろに溶けて、饀粉と御飯にそっくり出来上っているのだ。外包がやぶれて、チューブからしぼり出るように、それがはみ出していたのである。

 ふたたびひとかたまりの突風が、破裂するような音をたてて、斜めに空から舞い降りてきた。浪のように揺れる闇の中を、私は男の掌をあわててまさぐって、どろどろのお萩をおしつけてやる。そして私も忙がしく、自分の掌を唇に押し当てる。それだけが仕事のように。

(あいつはどうしているだろうな。あのミミズクの旦那は!)

 航空糧食からの聯想(れんそう)が、ちらとそこに走る。子供に食べさせてやりたい、と言った老兵のぶよぶよした表情。

 ――その時、階段を通して見える道の向うに、白っぽい光芒がひらめして、小さな藁(わら)屋根の家の形が、くっきりと浮き上った。それはゼラチンのように、抵抗にはげしく慄えていた。と思うと、ぐにゃぐにゃと折れ曲って、無雑作に平たくなった。無声映画でも見るように、崩壊音もひびいて来ない。しかしおそろしい実感が、私を打ってきて、思わず全身が硬直した。

 私は何か叫び声を立てたかも知れない。

 

 おそらく、この突風だったのだろう。(と後で私は思うのだが)

 この家から数町ほど離れた、あの新装の高鍋駅が、ほぼこの時刻に、轟然と倒壊していたのである。駅舎に残っていた少数の人々は、ほとんどその前に危険をかんじて、すべて身をもって退避していたのだが、その突風の寸前の小康時にふと気を許したとみえて、その中の二人ほどが、駅舎に遺棄した衣囊を取りに、ふたたび駅に駈け入ったのである。崩壊は、それと同時であった、と言う。――そしてその不運な一人が、あのミミズクに似た老兵であった。(翌朝、私はそれを知った)おそらくは子供に土産の衣囊を見捨てるに忍びなかったのであろう。

 ――しかし私はそのときは、そういうことも知らずに、大浪のように揺れる柱に片手でしがみつき、片手でしきりにお萩を摑みながら、瞼をかたく閉じていたのである。生きているという実感が、まもなく奪いさられるかも知れない。その瞬間を全身をもって恐怖しながら、その実感を保って行こうと努力するかのように、しきりにお萩の甘さを口いっぱいに押し込んでいたのである。

 まだ甘い。まだ甘い。と口腔内にひろがる甘さを、舌と粘膜でドンランに確かめつづけながら。――

[やぶちゃん注:「数町」一町は百九メートル。

 なお、私は非常に残念に思う。「おそらく、この突風だったのだろう。(と後で私は思うのだが)」(この前の一行空けは本篇で唯一の特異点である)と次の二段落は(厳密には、まず行空けはせず、さらに「――しかし私はそのときは、そういうことも知らずに、」の部分だけを変えて、「――私はそのとき、大浪のように揺れる柱に片手でしがみつき、片手でしきりにお萩を摑みながら、瞼をかたく閉じていたのである。生きているという実感が、まもなく奪いさられるかも知れない。その瞬間を全身をもって恐怖しながら、その実感を保って行こうと努力するかのように、しきりにお萩の甘さを口いっぱいに押し込んでいたのである。」とすべきであったと思うのである。これがあることで本作のコーダのリアルな映像としての衝撃が甚だ薄まってしまうことになるからである。]

 

       一四

 

 いつの間にか雲が断(き)れ、月が出ていた。

 あたりがぼうっと明るくなっている。

 風威はまだ衰えない。ますます強い。難破船の船艙(せんそう)のように、ぎぎっと撓(たわ)み揺れるこの部屋の、その内部の模様が、おぼろに見分けがついてくる。眼が慣れてきたのだと思ったら、ふと眼を上にやると、明り取りのちいさな天窓の彼方に、ぽっかりと月が出ている。血を塗ったような赤さだ。

「月が!」

 十一二夜の月齢だ。ちぎれた海藻(かいそう)みたいな断雲がしきりに月面をかすめ飛ぶので、月そのものがぐんぐん走っているように見える。そしてこの部屋も月に引張られて、いっしょに走って行くようだ。と思うと、またひとしきり、風のかたまりがぐゎんとぶつかってくる。たちまち部屋全体が、めりめりと慄えあがる。

 私たちはいつか身体を寄せ合って、お互いを楯(たて)とするような形になっていた。そして風の合い間に、衣囊に手をつっこんで、にちゃにちゃになったお萩を摑み出して、しきりに口に押しこんでいた。

「もう、ないのか、もう――」

 男の声が、私をうながす。衣囊の内側にべたべた付着した分をのこして、航空糧食のお萩もあらかた食べ終ったのだ。男の声はなにか切迫していて、私はぎょっとする。

「まだ、何か、あるだろう。食わせろや」

 天窓からおちる月の明りで、私はその時初めて、このふしぎな相客の顔を眺めていた。男は裸の上半身をねじむけて、衣囊をのぞきこむようにしている。その輪郭がはっきり判るほどは明るくない。ぼんやりと目鼻立ちがうかがわれる程度だ。うつむいたその顔の下辺が、へんに黒っぽく隈どられていると思ったら、眼を近づけてみると、それはおびただしく密生した無精髭(ぶしょうひげ)である。私が黙っているので、男は急に顔をあげて、しかし言葉は哀願するような調子になった。

「なあ。おれは、腹へってんだぞ」

「腹がへっているって――」

 当感したような語調になるのが、自分でもわかる。男の異常な食慾もへんに思われるし、受けとめかねるような気持である。

「あと、何かあったかなあ。あとは、生米と、カンヅメと――」

「あ、カンヅメがいいや」

 男の声はとたんに生き生きとなる。若い響きを帯びてくる。うすぐらいので、年配もよく判別できないが、この男は私より若いのかも知れない。そして上半身をななめに曲げて、壁ぎわに腕を伸ばす。そこらにこまごましたものが、重ねて置かれてあるようだ。押えたような声で、

「早く、カンヅメを出せや。おれが、切ってやる」

 姿勢をおこした男の右手に、細長いものが握られている。ゴボウ剣だ、と判るまでに、時間を要しない。彼は腕を曲げて、私に向ってそれをかざしている。催促するというより、威嚇(いかく)するような姿勢だ。表情も定かでないが、何かすてばちな圧力を、私に加えてくるふうである。私はいささかむっとする。と同時に、不安にもなる。この男は、何者だろう。一体なにごとか。男の顔の角度がすこしずつ動いて、私の全身を睨(ね)め廻すらしい。私は身体を固くして、男を見返していた。

 やがて男の手が、ふと下に下りる。そして気を許したような、とんきょうな声で、

 「なんだ。怪我してるじゃないかよ。おまえ」

 男の視線が、私の左腕におちているらしい。さっき防火水槽のそばで、何かに打ちつけたところだ。と気付いた時、とつぜんその部分がじんじんと熱くなり、するどい痛みがよみがえってきた。私は思わず、そこへ掌をやる。

 濡れた服地が、そこだけベロリと破れている。指がいきなり、ぬるぬるした皮膚にふれる。血だ。血が乾かないまま、そこらを黒く濡らしている。指を触れた部分にヒリリと痛みが走る。

「待てよ。おれが直ぐ、緊縛(きんばく)してやっからな」

 男の声は急になごやかになる。ふたたび壁ぎわに于を伸ばす気配で、

「どこで、ころんだんだ。え」

「何かにぶつかったんだよ、表で」

 私は用心しながら、上衣をそろそろと脱いで、襯衣(シャツ)だけとなる。脱いだ服地はぞんぶんに水を吸って、じっとりと重い。襯衣も雨水と汗に濡れて、気味悪く肌にべたべたと貼(は)りついてくる。

「痛い」

 私は思わず口に出す。男の指が乱暴に、油薬みたいなものを、傷口へなすりつけてきたのだ。そして黒っぽい布きれで、器用にそこらを緊縛する。しめつけられた傷口を、熱い血が鼓動をうって、じんじんと流れてゆくのが判る。男は布きれの端を、きりりと結び上げながら、低いささやくような声で、

「――お前も、兵隊だな?」

 私はうなずいて見せる。しかし相手に通じたかどうかは判らない。

 緊縛が済むと、私は素直な気持になって、衣囊の中を探る。奥の方に固いものが、ごろごろと指に触れる。その二つ三つをひっぱり出す。そして男に手渡す。

 私は柱にもたれて、ゴボウ剣の刃先が、カンヅメに突きささる音を、しばらく聞いていた。その音が、騒然たる風の音と、いきなり重なり合ってくる。ぎい、ぎぎっ、と部屋が歪む。私は柱に爪を立て、呼吸をつめる。階段口を通して、仄白い道路が眼に入ってくる。さっき崩壊した向いの家が、ごちゃごちゃした堆積となって、そのなかから、突風にうながされて、板片やブリキ板が、猛然と飛び立ってゆく。まるで無鉄砲な選手みたいだ。

「もう、駄目かなあ」

 その危惧が、瞬間私をおびやかす。この家の柱や梁(はり)の軋りが、妙に疲れたような響きを帯びてきている。それがひどく気になるのだ。

[やぶちゃん注:「十一二夜の月齢」いつもお世話になっている「暦のページ」で、昭和二〇(一九四五)年八月の月齢を見ると、それに当たるのは十九日か二十日になる。

「ゴボウ剣」刀身の長さと黒い色から通称された陸軍の「三十年式銃剣」のこと。明治三〇(一八九七)年採用。第二次世界大戦に於ける日本軍の主力銃剣である。]

 

      一五

 

「こりゃ、すごいや、お赤飯だぜ、おめえ」

 男はふたたび柱のそばに、にじり寄ってきた。

 部屋の広さは六畳ほどもあった。板張りの上に、ござが敷いてあるが、ひっきりなしに落ちてくる砂や壁土で、そこら一面がざらざらだ。家具も、道具も、なにもない。物置きみたいに、がらんとしている。がらんとした空間に、太柱がいっぽん突きぬけている。その柱の下にうずくまって、私たちは額を寄せ合い、カソヅメの赤飯を手摑みに、しきりに口に頰ばっていた。こんなお目出度くない状況で、お赤飯とはなにごとか。そんな思いが、ちらちらと私をはしる。しかし我が相客は、そんなことを考えもしないらしい。ただひたすら、食べている。食べることだけに、熱中している。その旺盛な咀嚼音(そしゃくおん)が、すぐ側で聞えるので、それに追われるように、私も顎を動かしている。そしてふと感じたままを、そっくり私は口に出す。私のつもりでは、相手に親しみをこめた感じだったのだが。

「ずいぶん、食うじゃないか、お前」

 ぎょっとしたように、男は柱から身を引く。そして私もはっと固くなる。男の右手がまさしく、ゴボウ剣を摑んでいたからだ。私は遽(あわ)てて、言葉をつぐ。

「ど、どうしたんだよ」

「食って、悪いのか」

 ひどく険しい声が、男の口から、はねかえってきた。二の句をつがせぬほど、その語調は激しい。しかしその激しさは、どこか空虚だ。私につっかかるというより、発作的に喚(わめ)いたという感じがある。私は黙る。黙ったまま、無意識に身構える。そして男の動静に、全神経をあつめている。男の体軀は、私よりも細く、ひよわそうだ。しかしその右手に、ゴボウ剣を握って、私をねらっている。風がどどっと吹きつけると、男の身体もその形のまま、よろよろとゆらぐようだ。私も思わず片手をついて、動揺に抵抗する姿勢になる。

 男の影が、すこしずつ、後ずさりするらしい。そして押しつけるような、ぶきみに緊張した声で、

「おめえ。どういうつもりで、ここへ来たんだ」

「雨宿り、だよ」

「なに。どこから、来たんだ」

「高鍋の駅、からだ」

「駅からだあ?」

 男はひるんだような声を立てた。しかし直ぐ盛(も)り返すように、甲(かん)高い声で、

「駅から、わざわざ、どんなつもりだい」

 私は黙ってしまう。どんなつもりだったのか、私にも判らないのだ。むちゃくちゃに走り出したとたんに、皆を見失ってしまったのである。と思うけれども、しかしあの時、私は皆から意識的に離れたかったのではないか。そんな思いが、今ちらと頭をかすめる。とにかく独りに、なりたかったのではないか。しかし独りになって、私は一体、どうするつもりだったのか。

 私が黙っているので、男はすこしずついらだって来るらしい。とつぜん乱れたような声になって、

「おめえは、いったい、誰だ。誰だよ」

 ある疑念が瞬間に、私の胸に結実する。この男は、何かをおそれている。おそれていることで、極度に過敏になっている。――しかし次の瞬間、その疑念もたちまち断ち切れ、かき消されてしまう。身も心もすくむような音響とともに、突風がぐゎんとぶつかってきたからだ。巨大な掌で、いきなりひっぱたかれるような衝撃。梁(はり)や柱や垂木(たるき)が、それぞれ終末的な悲鳴をあげて、不協和に騒ぎたてる。部屋全体が大きくぐらぐらと揺れ、どこからか砂や土塊(つちくれ)がばらばらと飛んでくる。私は脚をちぢめた昆虫のようになって、必死に柱に身体をおしつけている。その私のすぐ背後からおちてくる、物が引き裂けるような、すさまじい音響。

 総身が凝縮するような気がして、思わず私はその音へ振り返っていた。

 

      一六

 

 私の背後の壁面の、柱と壁の部分がめりめりと引き裂けて、幅五寸ほどにも分離していたのである。

 そこから風が棒になって、どどっと私の正面に殺到してきた。

 あのアッシャア館の最後のように、その裂け目から月光がさし入り、無気味な音とともに、その月の光の幅が、しだいに拡がってくるのだ。全身の毛穴がけば立つような気持で、私はそれを見た。[やぶちゃん注:「アッシャア館の最後」アメリカの幻想作家エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe 一八〇九年~一八四九年)が一八三九年に発表したゴシック・ロマンの名篇「アッシャー家の崩壊」(The Fall of the House of Usher)。]

「大変だ!」

 それからどういう風に、自分の身体が動いたのか、ほとんど自覚がない。とつぜん視界がむちゃくちゃに入り乱れ、そこらで音が鳴りはためき、私は衣囊もなにも遺棄して、階段口まで来ていた。いつの間にか、汗でぬるぬるした男の身体を、私は右手でしっかり抱えていたようである。そしてそのまま転がり落ちるように、まっくらな階段を駈け降りていた。その瞬間壁面の一部が倒壊したと見え、むせるような壁土の臭いが、私たちを追っかけてきた。

 腕で顔をおおいながら、私はやみくもに土間へ飛んで、表の方に駈け出そうとした。その私の肩に、男の両手がしがみついてきた。

「そ、そっちは、あぶないんだ」

 私はたちまち判断力を失って、もろくも引き戻された。男のあらあらしい呼吸が、耳のそばに聞える。そして私は引きずられるように、柱や戸板に二三度ぶつかりながら、暗い土間を、裏手の方に走っていた。男の掌が私の肩を、しびれるほどきつく摑んでいる。出口の敷板に爪先をしたたか打ち当てて、私たちは嵐の中にころがり出た。

「は、はやく」

 白っぽい月の光の下で、そこは裏庭のような広場になっているのだ。私たちはよろめきながら、そこを斜めに駈け抜けた。繩や木の板みたいなものが、顔や肩をかすめて飛ぶ。そして私たちは背を曲げて、裏庭のすみへ走った。低い土塀がそこで直角に折れている。その一角へ、呼吸をはずませて、私たちはころがり込んだ。

 そこにしやがみこんだまま、私たちはものも言わず、眼だけを大きく見開き、しばらく犬のようにあえいでいた。

 私たちが今飛び出した二階家は、ぼんやりした空明りを背景にして、奇怪な形にねじくれていたのである。二階の梁木がいっぽん外(はず)れて、軒からだらりとぶら下り、風にゆらゆらと揺れているのだ。と見る間に、それはもぎ取られたように軒端(のきば)をはなれて、ふわりと中空を泳ぐようにして、向うの方に落下して行った。そのとたんに、屋根全体ががっくりと傾いて、屋根瓦が月の光をはじきながら、ざらざらとこぼれ落ちるのを、私はありありと目撃した。さいわい私たちの位置から、そこまで二十米あまりある。

 ひとつの危険からのがれ得たという実感が、私にはっきり来るまでに、なお二三分はかかったと思う。やっと人心地ついたとき、衣囊をあの二階に遣棄してきたことが、初めて意識にのぼってきた。

(これは大変だ!)

 兵隊の本能がうごいて、先ずそれが頭にきた。次の瞬間、自分がすでに解員された身だと気がつくと、弛緩(しかん)した笑いが私の咽喉(のど)にこみ上げてきた。

 私は声を立てて、わらったのかも知れない。

 

      一七

 

 その時そばの男が、背をぐっと起したのだ。

 そしていきなり私に向き直った。

「おれは、……だ」

「え?」

 男の顔色はまっさおに見えたが、声は低く落着いている。私の顔を真正面から見据えながら、

「おれは、逃げたんだ。逃げてきたんだ」

 男の身体には、土塀の影が黒々とおちているが、首だけがその影から抜けて、月光にしらじらと浮いている。汗が玉になって、その額や頰に光っている。涙かも知れない。蒼白い塑像(そぞう)のように、顔の筋肉が緊張している。その唇だけがわずかに動いて、呟くような声で、

「つまり、おれは、逃げなきゃ、よかったんだ。つまり――」

 咄嗟(とっさ)にして、私はそれを了解した。この男の常ならぬ挙動。ふしぎな容貌の衰えなどのすべてを。ちょっとした沈黙の後、私は問い返す。

「――いつ、脱走してきたんだね?」

 私は自分の声が、急にいやらしい猫撫で声になるのを感じる。そのことで私は、ふと自分を嫌悪(けんお)する気持におちる。

 なにか重大な立会人になることを拒否する気持が、私の内部ではっきり動いていた。しかし私は視線を、男の顔からそらさない。私の顔も、月の光に浮いている筈だ。そして私の額にも、ぎらぎらと汗の玉が並んでいるだろう。

 やがて男はがっくりと、背を土塀にもたせかける。そして力が抜けたように、こんどは素直な口調になって、とぎれとぎれしゃべり出す。急に元気を喪(うしな)ったことについて、何故か私はこの男に、憎しみに似た感情を持ち始めているのだ。そしてその感情をいらいらともてあましながら、しばらく私は口をつぐんでいた。

 風威がしだいにその頃から、衰えてくる気配があった。

 

      一八

 

 農家風の低く厚い土塀が、私たちを風から守っているのだが、その土塀にぶつかる突風の震動が、すこしずつ間遠になってくるようであった。それと同時に、風に乗って土塀を越え、頭上をかすめ去る板屑(いたくず)などの数が、目に見えて減少してくるのが感じられた。決定的な音響がしだいに弱まり、余波みたいな雑然たる騒音となって、遠くに消えてゆくらしい。しかし時折、発作的な逆風が捲き起って、庭の水溜りをさあっと吹き上げ、しぶきを私たちに浴びせてくるのだが、それにしても颱風が峠をこしたことは、四囲の状況からも、もう疑えなかった。

 張りつめていた緊張がとけて、妙に不安な下降感が私にやってきた。頭の一部に変に陽気な気分をのこしたまま、急にとろけるように睡くなってくる。疲労からくるひどい変調をかんじながら、濡れてざらざらした土塀に背をもたせ、この経験を知らぬ脱走兵の言葉に、私はうつうつと耳を傾けていた。そして神経的に手を動かして、地面の草をしきりにむしり取っていた。男の声は、低くみだれている。自分だけでしゃべっているような語調だ。ほとんど聞きとれないのである。

 男のその呟きが、ふと途(と)切れる。そして私は初めて発言の機会をつかむ。強い抵抗がそこにある。それは何故だろう。彼の自由を告げるというのに、私の気持ははなはだしく残酷になっている。この上もない意地悪いことを敢行するような気分だ。私の内にあるもの、善意というより、はっきりした悪意であるようだ。おのずから不機嫌な口調となって、思いきって。

「だって、お前、もう戦争は、すっかり済んだんだぜ」

 男の姿勢がぎゅっと凝縮するのが、はっきりと判る。男の刺すような視線を頰に感じながら、再びおっかぶせるように、

「――逃亡も、脱走も、あるもんか。みんな御破算だよ」

 とつぜん男が笛みたいな叫びを立てたようだ。そしてそれっきり。立ち上ろうとして、またへたへたと腰をおろす。風がいろんなものを飛ばしてくるので、立ち上るのはまだ危いのだ。

 風の音が、またひとしきり、潮騒(しおさい)のように押しよせてくる。いくぶん弱まってきたとは言え、まだこの厚い土塀を根元から、ずしんと震動させてくるのだ。私は膝を抱いて、じっとしている。そして感覚の全触手を、隣の男にあつめていた。男は死にかかった章魚(たこ)のように、無抵抗に壁によりかかったままでいるらしい。小刻みに慄えているのが判る。性急な息づかいがつたわってくる。何か言いそうなものなのに、かたくなに黙り込んでいるのだ。

(ざまあみろ)

 私も黙りこくったまま、ふとそう思ってみる。すると胸のなかの残酷な主調が、急に憐憫(れんびん)にとってかわるのを自覚する。この男にたいする憐憫ではない。もっと別の、なにものに対してとも知れぬ、叫び出したくなるような焦噪と憐憫。――そして一時に発してくる、深い疲労と倦怠。

 私は月を見上げていた。いやらしい赤さで、それは中天に懸(かか)っている。ふいにかすかな嘔(は)き気がこみ上げてくる。そして咽喉(のど)の奥から、小さなアクビがつづけざまに出てくる。口の中がカラカラに乾いて、舌の根が引きつるように痛い。月の面のうすぐろい斑点を見詰めていると、やがて虚脱したような睡気が、ふかぶかとかぶさってくる。その誘(いざ)ないに応じるのが、今の私にはもっとも自然らしく感じられた。

「おれは、ちょっと、やすむよ」

 そう言ったと思う。そして眼を半分見開いたまま、私は眠りに入ったらしい。神経の一部を残して、あとはすっかり喪神したように。

 そしてどの位経ったのか、私にはよく判らない。一時間足らずのことだと思う。

 

      一九

 

 ニラの匂いがしていた。

「ニラだな」

「うん、そう」

「なつかしい匂い、だな」

「うん」

 意識は醒(さ)めないのに、口だけが醒めて、隣の男と会話のやりとりをしていたようだ。寝言のつづきのような自分の返事で、私はぼんやりと目を醒ましていた。

 気がつくと、風の音はずっとおだやかになっている。空の高みでコウコウと鳴っているだけで、地上ではほとんど収まったようである。

 月の位置が移動したのか、私たちがいる土誹塀のかげも、すっかり白々と明るくなっている。そこらいっぱいに密生しているのが、ニラらしい。すべてなぎ倒されたように、ひらたく折れ伏している。その青く細い葉々の間から、白く小さな花が黙々とのぞいている。先刻私が無意識に、しきりにむしっていたのも、これらしい。その葉の折れ口から、ニラ特有の匂いが、ぷんとただよってくる。あの時は気がつかなかったのに、今は親しく鼻にのぼってくる。

「これ、タマゴとじにすると、とてもうまいぜ」

「うん。うまい」

 男にならって、私も手を伸ばして、花をつけた細茎をもぎとっていた。そして何故ともなく、眼に近づけて見る。小さい花だ。六枚の白い花びら。六本の細い花芯(かしん)。ひとつの茎に、七つ八つのその花が、傘状にくっついている。そこらに月の光がちらちら揺れている。鼻にもって行っても、ほとんど匂わない。強いて嗅ぎ当てようとするように、私はしきりに鼻を鳴らしながら、何となく考えている。

(この小さな花のことを、あとになって、何度も何度も、おれは思い出すだろう!)

 やがて横で男の影が、ゆるゆると立ち上った。そしてなにか試すように、二三度足踏みしている。それを見上げながら、私はぼんやりと話しかけている。

「もう、行くのかい」

「うん。もう、大丈夫だろう」

「そりゃもう、大丈夫だろうな」

「もう大丈夫だよ」

「じゃ、おれも、行こうかな」

 壁に掌をついて、やっとのことで、私も立ち上る。身体の節々がいたい。それと同時に、眠っている間に、自分の情緒がすっかり変化したことに、私はすこしずつ気付いている。この男の存在も、なにかよそごとみたいに、今は感じられるのだ。

 男はややびっこを引きながら、庭をよこぎって、家の方に歩いて行く。ひどく無表情な背中だ。その背について、私も歪んだ家の中に入ってゆく。暗い土間の中途で、私は立ち止って、自分の声でないような声で、

「やはりおれは、ここでもう少し、休んで行くよ」

 まだ眠いし、疲れてはいるし、動くのは大儀であった。外に出てもまだ暗いし、行くあてもない。濡れていない場所で、もう一休みしたかった。ひたすら、それだけである。

「そうかい」

 男はちらとふり返る。そして無感動な声で、

「じゃ、アバよ」

「アバよ」

 表通りの月光に、男の痩せた黒い影がうかび、ちょっと右手をあげる。そしてそのまま横へ切れて、私の一夜の同伴者の姿は、それっきり消えてしまう。私はただそれを見ている。無感動に見送っている。表皮が妙に硬化して、感動がうごく幅や余地が、胸のなかからなくなったような感じだ。やがて私は手探りで、ごそごそと框(かまち)に這い上る。

 土や砂でザラザラした板の間のすみに、むしろみたいなものを探りあてる。肌にべたつく襯衣(シャツ)を脱ぎ捨て、そこヘ横になり、私はゆっくりと背骨を伸ばす。そして瞼を閉じる。あとは朝を待つだけだと、自分に言い聞かせながら。――

 

      二〇

 

 朝の日光の下で、高鍋の駅前は、ざわざわと混雑していた。

 一夜の晦冥(かいめい)がすぎると、嘘のように晴れ、風は凪(な)ぎ、陽(ひ)はかんかん照り始めている。蝉(せみ)の声があちこちにむらがり響き、今日もまた暑くなりそうな天気である。空には雲ひとつ見えない。青々と澄みわたっている。嵐をすっかり忘れたような、素知らぬ表情だ。颱風の痕跡は、地上にだけとどまっている。道路や溝のあふれた雨水。なぎ倒された樹々。倒れた電柱。地面を這う電線。倒壊した家屋。そこらを人々の姿が、縫うように動いている。

 高鍋の駅舎も、まったく原形を失って、雑多なものの堆積(たいせき)になっていた。板片やガラスや瓦の破片が、そこらいっぱいに散乱している。巨大な掌で、一挙にぐしゃりと潰されたように見える。その上に、七八人の男たちが登って、ツルハシやシャベルで、その堆積を掘り起している。

「おおい。どうしたい」

 駅前の待合所みたいな家の中から、私に呼びかける声がする。見ると、部隊で顔なじみになっていた、看護科の若い下士官だ。

「どうしたね。おや、眼鏡は?」

「うっかりしてて、飛ばされたよ」

「へえ。損害はそれだけかい。うまくやったね」

 そして下士官は、わかわかしい声で笑い出す。笑いながらも、しきりに身体を動かして、薬品箱を開いたり、注射器の整理をしたりしている。その待合所の中には、五六人の男たちが、立ったり動いたりしている。国民服を着た、町の役員らしいのもいる。消毒薬の臭いがただよっている。下士官は倒壊した駅舎の方を、顎でしゃくりながら、

「どうだい。ひでえもんだろう」

 待合所の土間に、戸板が二つ敷いてある。そしてその上に、二人の男が横たわっている。その一人は苦しそうにうめいている。あとの一人は、血の気をすっかり失って、瞼をじっと閉じている。私が見たのは、その男の顔であった。それは汽車で座席がいっしょだった、あのミミズクに似た老兵の顔である。皮膚が灰白色になって、表情も歪んだまま硬ばっているが、あの男の顔にまぎれもなかった。いきなり胸を衝かれたような気持で、私は口走る。

「どうしたんだい、これは」

 思わず詰問的な口調となった。びっくりしたような顔で、下士官は私を見る。

「息引き取ったんだよ。さっき」

 そして下士官は、器用に注射器に薬液をみたしながら、

「運が悪いやつだよ。この男は」

 いったん駅舎から身をもって退避しながら、風の小康(しょうこう)時に、遺棄した衣囊を取りに、ふたたび駅舎に入ったという。そしてその瞬間に、駅舎は轟然と倒壊したのだという。

「はたの者が、止めたというんだがな。なにしろ運が悪い男だよ」

 そう言い捨てて下士官は、注射器を指にはさんで、もう一人の怪我人の方にあるいてゆく。

 私は土間のしきい口に立ったまま、しばらく老兵の死貌(しにがお)に眼をおとしていた。戸板の枕許に、老兵のものらしい衣囊が、泥によごれて置いてある。この衣囊の中に、子供の写真や、子供へ土産の航空糧食が、ぎっしり入っているのだろう。しかしこれがこの男の生命の代償としては、あまりによごれて、あまりにも惨めに変形している。泥と布のかたまりのような、その衣囊をじっと見ていると、私はやはり急に耐え難くなってくる。しかし私にも、どうするすべもないのだ。私に判るのは、ただそれだけである。

 駅前や道路で、呼び交す声や別れを告げる声が、遠く近くひびいている。ぞろぞろと人が動いている。次の駅まで、皆徒歩であるくのだ。着のみ着のままの男。衣囊を重そうにかついだ男。どこからか大八車をやとってきて、それに荷物を運ばせている一群。それらの上に、晩夏の太陽がかっと照りつけ、人々の濡れしめった衣服から、白く水蒸気が立ちのぼっている。ものや人の影が、地上に鮮かに動いている。日を背に受けて私の影も、私の足許から濡れた地面に、平たく黒々と伸びているのだ。このいやらしい影を、えいえいと引き摺(ず)って、やがて私も次の駅まで、三里の道を歩かねばならぬことは、確実であった。

 

梅崎春生 無名颱風 (前)

 

[やぶちゃん注:昭和二五(一九五〇)年八月刊『別冊文芸春秋』第十七号及び、同年十月刊の同雑誌第十八号に連載され、後、同年十一月刊の月曜書房の作品集「黒い花」に収録された。

 底本は「梅崎春生全集」第一巻(昭和五九(一九八四)年五月刊)に拠った。

 なお、梅崎春生「生活」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字とした。

 一部に注を附した。

 全体が十章からなる。このブログ版では、二部に分けて「一」から「十」と、「十一」から終章までに分ける。後にサイト一括版をPDF縦書版としてアップする予定である。

 

   無 名 颱 風

 

      

 昭和二十年八月下句、かなりの風速をもった颱風(たいふう)が、九州南西部の一帯を通り抜けた。終戦後、とは言っても、まだ数日を経たばかりだから、しゃれた名前のつきようもない。無名の颱風である。

 この颱風が、どんな性質のものだったのか、どこから来てどの方面へ抜けたのか、私は未だによく知らない。知るよしもない。

 ただ私は当時、その風域の一端にいて、それが狂暴に地表を擦過し、物と人とを傷つきやぶる状況を、つぶさに体験した。地点によって異るだろうが、私の場合この颱風は、薄暮の一刻にとつぜん始まり、夜中を荒れ通し、翌朝の晩方に終った。この一夜の印象は、その時おかれた環境のゆえもあって、今なお私に鮮烈である。

 かなりの風速、と、さきに書いたけれど、控え目に記億を探ってみても、やはりそれはかなり以上の風速だったような気がする。昭和六年の夏北九州をおそった、風速四十五米の颱風を私は知っているが、身に迫る兇暴さにおいて、それと同程度の、ある瞬間にはそれ以上のものを、この無名颱風は具(そな)えていたようだ。身を倚(よ)るすべもない、ふつうでない状況が、あるいはそれを実際以上に、私に感じさせたのかも知れないが。――

[やぶちゃん注:敗戦直後の大災害を齎した台風としては枕崎台風(昭和二〇(一九四五)年台風第十六号)が有名だが、それは九月十七日に鹿児島県川辺郡枕崎町付近の上陸で、ここに描かれる台風ではない。サイト「四国災害アーカイブス」の「昭和20年8月の台風」に、昭和二〇(一九四五)年八月二十五日として、現在の香川県三豊(みとよ)市高瀬町(たかせちょう:リンク先に国土地理院の地図有り)、当時の当地、旧三豊郡比地二村(ひじふたむら)の村役場「日誌簿」に、同日、午後四時より夜半にかけて暴風雨が襲った旨の記事があるとある。当該ページには資料へのリンクがあるので、それで見ると、「高瀬町史 通史編 現代」の「三 災害の発生」の冒頭に、「暴風雨の災害」と項立てし、『終戦の年の比地二村役場『日誌簿』八月二十五日の欄に、「午後四時ヨリ夜半ニカケテ暴風雨、敵ノ占領上陸ヲ明日ニ控ヘテ神風吹クカト疑カハシムル計リナリ」』とあった(この記載もなんとも哀しいが、香川には崇徳院の白峯陵がある。昭和天皇は開戦に際し、ここに崇徳院がアメリカに加担せぬことを祈って遣使を遣わしていることを思い出し、寧ろ、荒ぶるその御霊の歓喜を想起したことを告白しておく)。当時の村役場があったのは現在のJA香川県比地二支店(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であると、ウィキの「比地二村」にある。以下の「二」の最初のロケーションは鹿児島駅で、敗戦解除直後(当時の残務処理・物資分配などから考えても十七日以降と考えてよかろう。「二」に無蓋の鹿児島駅のホームで「二日も三日も待ってる人だってある」という描写があるからには、十八日以降としてもいいと思う)である(そのシーンの初めは炎天下である)。「三」の頭では、「都城を過ぎる頃から、列車をおおう空模様が、あやしく乱れ始めてきた」とあり、「六」で雨が降り始め、「九」の宮崎の高鍋駅で既に風雨激しく、川が氾濫しているという記載がある。而してこの「一」の描写を見ると、作品後半の台風の襲来と通過は凡そ十二時間で、その時のロケーションは高鍋駅近くである。鹿児島駅と旧比地二村役場の位置は直線で約四百十九キロメートル離れている。さらに、途中に出る都城駅と先の同村役場を直線で引くと、そのルートの真下に高鍋があることが判るはずである。されば、実際に敗戦直後に発生したこの台風がこの「無名颱風」のモデルであると断じてよい。なお、調べてみたところ、株式会社「気象サービス」の「気象トピック」の「終戦の日」によれば、当時のラジオ放送の天気予報は同月二十二日から再開されたとある。昭和一六(一九四一)年十二月八日のハワイの真珠湾攻撃を境としてラジオの天気予報は放送が禁止されていた。実に三年八ヶ月振りの天気予報であったが、ちゃんと報じられたとすれば、まさにこの台風はその予報の中で伝えられてあったはずである(と思ったが、以下の引用にあるようにそれはなかったと考えた方がよいようである。因みに、敗戦の日の天気図がサイト「SORA 2016年8月号」の「気象アーカイブス(17) 終戦の日の空は本当に晴れていたのか?」で確認出来る)。どうも気になって、さらに調べてみたのだが、妙な記事が見つかった。「いであ株式会社」のサイト「お天気豆知識」の「終戦と台風」である。そこには『終戦後の最初の台風』(リンク先に『終戦後最初に上陸した台風の経路図』とキャプションした日本地図がある)『は、豆台風でしたが』、『終戦の日の約』一『週間後、ラジオで天気予報が再開された翌日の』八月二十三日『未明に房総半島に上陸して関東地方を北西方向に通過しています。気象観測は空襲で破壊されていない気象官署で行われていました。しかし、海上の観測は皆無です。現在でも海上の気象観測は航行中の船の観測が頼りですが、当時は航行する船舶はほとんどありませんでした。さらに通信回線も完全に復旧しておらず、離島からの情報は入ってきませんでした。このため、台風が接近していることがわからず、まさに不意打ちだったようです』とあったからである。この台風は小さいし、その進路は明後日の方角で、鹿児島・宮崎・香川に影響を与えたとは思われない。梅崎が台風を捏造したというなら、香川の記録がおかしなことになる。同年同月の「中央気象台月報」を国立国会図書館デジタルコレクションで探してみたが、ない。もし、この昭和二〇(一九四五)年八月下旬の天気図を見られた方は、御教授戴けると幸いである。

 

      

 

 その当時、とにかくすべてのものが、ひどく混乱していた。交通状態、人の往き来、そんなものが何もかも。――ことに南九州一円においては、他の地方にくらべても、混乱状態は一段とひどかっただろう。所在の交通機関は、沖繩米空軍にさんざんたたかれていたし、また内地の第一線として、一部隊の数もおびただしく、やがて連合軍が鹿屋(かのや)に進駐してくるというので、それらがほぼ一斉に解散してしまったからだ。

 だからそこらの街道、停車場、波止場(はとば)、汽車や牛車やトラックに、復員荷物を背負ったさまざまの兵士が満ちあふれ、動き廻り、右往左往していた。晩夏の烈日のもとで、それらはまるで巣をつつかれた蟻(あり)のように、右へ左へ無目的な動き方をしていた。もちろん個々をあたれば、各自の故郷にむかって動いているに違いないのだが、全体としては、錯雑したでたらめな蠢(うごめ)きにしか見えなかった。

 それらが整然とした動きをとらないのは、いきなり軍務から解き放たれた情緒の混乱と、とにかく一刻も早く故郷へ戻ろうという焦躁(しょうそう)で、それぞれが方途を失っていたせいでもあったが、交通機関の不整備がまず第一の原因であった。鉄道の状況は、ことにひどかった。汽車が何時(いつ)くるのかも判らなかった。故郷を遠隔地に持ち、鉄道のみをたよりにする者たちに、それは大きな不安と焦躁をもたらした。何しろ食糧も、一日分しか支給されていないのに、汽車が来なければ、一体どうなるのか。

 ――建物も天蓋(てんがい)もない、歩廊だけの鹿児島駅で、陽(ひ)にかんかん照らされながら、私たちは空(むな)しく汽車を待っていた。待っている外はないのである。歩いて帰るわけにも行かないのだから。[やぶちゃん注:「歩廊」ホームのこと。]

 ひどくむしむしと暑い日であった。歩廊にあふれた群のなかで、ふとした言葉の行き違いで、小競合(こぜりあい)がおこったり、下士宮が兵隊に袋叩きにされたりした。その側に将校がいても、横目でそれを眺めているだけで、別に止めようとするでもなかった。かと思うと、向うの方では、変にはしゃいだ歌声がおこって、自棄(やけ)っぱちな笑い声が立ったりした。すべてが別々に、揺れ動いていた。そしてみんな同じ境遇にもかかわらず、妙につめたい無関心が、どこかに動いているのが感じられた。陽は相変らずかんかん照りつけ、風は死んで動かない。空気はじっとりと湿気を含んで重かった。歩廊の彼方の線路ぎわに、向日葵(ひまわり)の花が七つ八つ、一列にうなだれて咲いている。嘔(は)きたくなるような真黄色の大輪だ。時折思い出したように、私は汗づく眼を見開いて、線路の方を眺めるのだが、その度にそこに汽車の姿はなく、花の色ばかりが目に沁(し)みてくる。もう四五時間にもなる。

「――ええい。いつまで待たせる気だい」

 近くで誰かが、うなるように叫んだりする。誰もそれに答えない。いつ汽車が来るか、誰も知る訳はないのだ。駅員や駅長でさえも知らないのだから。

「莫迦(ばか)にしてやがる。この重い荷物を背負って、五六箇所も歩くんだとよ」

 ――さっき私たちの要求によって、駅員が歩廊にやってきて、その説明によると、九州本線は確実に五六箇所きれ、徒歩連絡せねばならぬが、日豊線は全然状況が不明だと言う。うまく行けば全部つながっているが、断(き)れていれば、どこで降ろされるか判らない。それはそれとして、だいいち、汽車が何時くるのかも分明しないと言う。ダイヤの混乱、それどころの話ではなかった。

「今日中に乗れれば、運が好い方ですよ。二日も三日も待ってる人だってある位だから」

 ――歩廊の一隅に積み重ねた枕木のかげに、私は衣囊(いのう)を、抱いてうずくまっていた。炎日の直射を避けて、七八人の兵士が私のまわりにひしめきしゃがんでいる。私より年長の、応召兵ばかりだ。顔がみんな汗でびっしょり濡れている。一体に顔面筋肉の動きがすくない。しかしそれでも、いらいらした表情や、不安げな色を、皆かくし切れないでいる。早く汽車に乗らないと、部隊から呼び返しに来ないかと、怖れている風にも見える。それをごまかすように、彼等は線路を見渡したり、時々ぼそぼそと私語したりしている。注意するともなく、私はその私語をとびとびに耳にとめている。

「――ひどくむしむしするなあ。おい」

「――ほら、こんなにべとべとや」

「――嵐でも来るんじゃないかいな」

「――とにかく早く汽車がこんかのう」

「そううまく行けば、なあ」

 そんな風にきれぎれの会話が、ぼそぼそと始まったり、止んだりしている。しばらくしてその中の一人が、暑そうに身じろぎしながら、ぼんやりしたような口調で言う。その声と、むくんだような顔付が、ひどく印象的だ。

「――俺たちはいつも、運がわるい方だったから、のう。いつも、いつも」

 しかしこの度は、彼等(私をふくめて)は運が悪い方ではなかった。と言うのは思いもかけず、間もなく奇蹟のように、汽車がやってきたからだ。

 歩廊の一角がざわめき立ったと思うと、前触れもなく汚れた汽車が、するすると歩廊に入ってきたのである。午後の二時。客車を五六輛しかつけない、短く矮小(わいしょう)な列車であった。それが僥倖(ぎょうこう)にも、丁度私たちの前に止ったのだ。四方からわっと沸(わ)きたって押しよせる中を、私たちはむちゃくちゃに動いて、どうにか客車に乗り込んでいた。歩廊の群を半分以上積み残し、叫声と罵声(ばせい)をあとにして、やがてとにかく汽車は動き出した。積み残された者達の呪(のろ)いを背にうけて、私たちは曲りなりにも、座席の一角に必死にとりついていた。

 今思って見ても、これはとにかく一応の幸運だったと言えるだろう。(真の幸運だったかどうかは判らない)後で聞いたのだが、この汽車に乗りそこねて、それから二日間、ここで日曝(ひざら)しになっていた兵隊もあった、という話だから。

 

     

 

 都城(みやこのじょう)を過ぎる頃から、列車をおおう空模様が、あやしく乱れ始めてきたのである。

 大きな掌をひろげるように、薄墨色の雲群が地平からぐんぐん伸びて、やがて太陽を包みかくしてくるらしい。車窓に飛び去る稲田や疎林が、風が立ちそめたと見えて、思い思いになびき揺れている。その風景の部分部分が、急に蒼然と日の色をうしなってくる。

 なにか不安なものが、かすかに胸に滲(にじ)んでくる。今朝部隊を離れるときの、あのへんに狂騒的な亢奮(こうふん)がもう醒(さ)めかかっていて、窓から吹き入る風に私は顔をさらしたまま、しきりに首筋や背中の汗をこすりとっていた。湿度がしだいに高まるらしく、顔を内側にむけると、眼鏡がすぐに曇ってきた。

 隼人(はやと)駅で、九州本線に乗り換える者が、ぞろぞろとかたまって下車したが、それ以上の人数が入れ替りに押し入ってきて、車内は身動きもできない程であった。人いきれでむんむんする。大部分は年とった補充兵だが、年若い兵隊や下士官などもばらばらといた。

 下士官が通路にしゃがんだりしていても、座席の兵隊は今は席をゆずろうとしなかった。そしてそれは不自然ではなかった。ごくあたり前の情景に見えた。部隊では一律に同じような生彩のない顔をしていた連中が、汽車でそこから離れ遠ざかるにつれて、すこしずつ娑婆(しゃば)の表情をとりもどしてくるのが、はっきり感じられた。遠慮がちだがやはり浮わついた調子で、皆会話を交したり、控え目な笑い声をたてたりしている。老兵が席を占め談笑するそばに、若い下士官が疲れてうずくまっている。数日前までは想像もできない風景だが、今ではすでに、軍服はまとっていても、世間のおじさんが席にかけ、生白い若者がしゃがんでいる、そんな風にしか見えない。戦終って数日経ち、軍務をとかれた今となっては、おのずから年齢という世間の掟(おきて)が、この車室にも通用し始まるらしい。それを不自然でなく眺める私も、いつしか世間の感情を、徐々にとりもどし始めているのだろう。――しかしその自覚は、必ずしも今の私に愉快ではないのだ。ひどい倦怠(けんたい)のさなかにいるような、また密度の違う世界に無理矢理に追いこまれるような、生理的にかすかな厭らしささえ、ありありと感じられる。何故だろう。戦争から解放されて、今はすっかり自由になったというのに、私のこの感じは一体何だろう?

 私の前の座席には、鹿児島駅いらいミミズクに似た顔をした四十四五の老応召兵がちょこんと腰かけていた。

 押しつけられた窮屈な姿勢のまま、彼はさっきから衣囊の口を開いて、その中の風呂敷包みを結び直したり、小さな木箱をとり出して、その中のものを詰め換えたり、整頓したりしていた。木箱の中には、解員時に分配された航空糧食や携帯口糧がぎっしり詰っている。ふと見るとその上に、小さな写真が一葉、表をむけて乗っかっている。

 その私の視線に気付いたのか、垂れた瞼(まぶた)をひっぱりあげるようにして、その老兵は顔を起した。濁った大きな眼である。首を左右にふりながら、はっきりしない呂律(ろれつ)でつぶやいた。

 「――子供がふたりもあるのですよ。九つに六つ」

 特に私にむかって言った調子でもない。独白じみた呟(つぶや)きである。表情のはっきりしない、いくらか沈欝な感じのする容貌だが、その瞬間にある笑いが、喜悦とも羞恥ともつかぬ色をのせて、ぶわぶわと顔いっぱいに拡がるのを、私ははっきり見た。

 ある感じをもって、私はぐっと背を立てた。そして少し乱暴な動さで右手を伸ばし、老兵の木箱の中から、すばやくその写真をかすめ上げた。老兵のカサカサした掌が、あわててそれを追ったが、私はもうその写真を、自分の眼にかざしていた。

「ふん。これがその、あんたの息子さんたち、というわけだね」

[やぶちゃん注:「都城駅」はここ。宮崎県都城市。「隼人駅」はそこから西直線で三十一キロ手前の鹿児島寄りのここ。現在は鹿児島県霧島市隼人町(はやとちょう)。因みに、私はあくまで地理に不案内な方のために注しているだけで、私のために附しているのではない。私の母はこの日この時、鹿児島県曽於市大隅町岩川にいた。十三歲であった。祖父は旧志布志線岩川駅近くの歯科医であった。]

 

      

 

 この老兵は、さっき鹿児島駅の歩廊で、私のそばにしゃがんで、仲間とぼそぼそ私語をしていたあの男だ。それを私は知っている。そして汽車がきた時、私の手にたすけられて、やっと窓から転がりこんで、私の前の座席にすわったのだ。

 しかしこの印象的な風貌を、私はその時初めて意識にとめたのではない。

 この赤く濁った大きな眼を、ミミズクに似た顔を、ずっと前から私はよく見覚えているのである。この老兵は鹿児島ふきんの海軍基地で、私と同じ部隊にいたのだ。

 この部隊に転勤になった当初のころ、私は足指にヒョウソを病んで、毎日医務室にかよっていた。診察の順番を待つための行列のなかに、私はこの男の顔をしばしば見た、と思う。

 元来設営の袖充兵らしいのだが、身体にどんな故障があったのか知らないが、そんな具合に医務室へ出入しているうちに、設営の任に堪えないと診断されたのかも知れない。その次(つぎ)気がついたときは、彼はいつの間にか医務室の雑用がかりになっていたようである。顔色は悪くぶよぶよとふくれてはいるが、肩や胸が不釣合にほそく、手指が妙に長くて、掌全部はまるで鳥類のそれのようにカサカサに乾いていた。

 部隊に赤痢が蔓延(まんえん)していると言うので、その掌に消毒剤を入れた噴霧器を握り、あちこち消毒をして廻っていた。これはおおよそ楽な配置であっただろう。私の居住区にも、両三度来た。

 ある夕方、私は当直の疲れで寝台に横になり、うとうとと眠り始めていた。

 するといきなり生ぬるい霧のようなものが、裸の胸や脇腹にふきつけてきたので、ぎょっとして眼醒めたら、この男が噴霧器を乙な形にかまえて、寝台の側に立ちはだかっていた。[やぶちゃん注:底本には最後の句点がないが、誤植と断じ、補った。]

 私はとたんに腹を立てた。

「なんだ。寝てるところに、薬をかけるやつがあるか。目は疣(いぼ)か」

 私は思わず上半身を起してどなっても、この男の顔つきは、なぜ私がどなるのか理解しかねる、といったようなぼんやりした表情であった。

「兵曹。私は消毒をばしているところです」

 大きな眼をみひらいて私を見ているのだが、その眼は丁度、昼間に大きく開いていても視力を喪失しているあのミミズクの眼に、そっくりであった。こっちの姿が彼の瞳孔(どうこう)にうつっているのかどうか、はなはだたよりない。

 こんな場合に怒ったって、相手はみじんも反応も示さないにきまっている。それは私はかねて充分承知しているのだから、にがにがしく舌打ちでもしてから、呟く外はない。

「いい加減にしろよ、ほんとに」

 

      

 

 いい加減にしなよ。ほんとに。

 私は知っている。

 私も補充兵だから、年配で海軍に召集された男たちの気持は、だいたい類推できる。

 私たち三十歳前後の連中は、前年召集されたのだが、四十代の男たちはおおむねこの年に入ってからだ。だから私は、私の後から次々入ってくる連中の様子を、つぶさに眺めてきた。彼等は大体同じコースをたどって、同じ型の兵隊になってゆくのだ。

 入団する当初は、彼等は皆それぞれの世間の貌(かお)をぶらさげてくる。自尊心だとか好奇心だとか、軍隊内では通用しそうもない属性を、表情に漲(みなぎ)らせてやってくる。もちろんある種の構えをもって、――いかにも烈しい肉体的訓練を充分覚悟しているぞ、といった風な気構えを誇示しながら、悲壮な面(おも)もちで入ってくる。

 ところが一箇月もたたないうちに、息子ほどの年頃の兵長に、ようしやなく尻を打たれたり、甲板掃除で追い廻されたり、だんだん自分が人間以下に取りあつかわれていることが、身に沁みて判ってくる頃から、彼等の世間なみの自尊心や好奇心や、その他もろもろの属性は、しだいに消えてなくなってゆく。喜怒哀楽が表情に出てこなくなる。

 しかし消えてなくなるのは、表面からだけだ。彼等の感情は表に出ずに、もっぱら心の内側に折れこんでゆくのだ。するどく深く、折れ曲ってゆくのである。彼等は総じて無表情となる。

 そして彼等は頑強に無表情をたもち、そこでいろんなものを韜晦(とうかい)することによって、その日その日を生きようと思い始める。肉体を、上から命ぜられても、最小限度に使用しようと心にかたくきめる。肉体のみならず、精神をも。[やぶちゃん注:「韜晦」自分の本心や才能・地位などを敢えて包み隠すこと。]

 かくして彼等はみな一様に動作がにぶくなり、しだいに痴呆に似た老兵となってゆくのだ。勿論これらは、根本的にはポーズにすぎない。しかしもうその時は、それが擬体か本体か、外部からは見分けがつかなくなっている。そして若い兵長や下士官が、なんて年寄りはのろくさいのかと怒り嘆いても、彼等がふたたび娑婆に戻れば、生馬(いきうま)の眼を抜くような利発な商人であったり、腕っこきの職人であったり、あるいは俊敏な学者であることには、とうてい思い及ばないだろう。[やぶちゃん注:「擬体」表記はママ。後で正しく「擬態」と出る。同じミスは既発表の梅崎春生「生活」にも認められるので、丁寧な再推敲もせずに援用していることが判る。]

 流体がおのずと抵抗のすくない流線形をとるように、彼等はいろんな抵抗を避けるために、概していかなる擬態をも採用する。その為につんぼの真似をしたり、馬鹿をよそおったりすることも、珍らしいことではないのだ。

 ここに仮に、彼等と書いた。彼等ではない。もちろん私ならびに私たちである。

 ただ三十前後の私たちが、長いことかかっても、完全には化け終(おお)せなかったところを、此の年召集された四十前後は、極めて巧妙に、しかも頑固になしとげたようである。世間で苦労してきた賜(たまもの)という外(ほか)はない。

 だから私は、軍隊で会ったいかなる人間も、だいたい信用しない。ことに四十代の兵隊を。私ですら贋(にせ)の表情をどうにか保ちつづけてきたから、この男たちもうまく仮面をかぶり終せたに違いないのだ。

 今この座席から見渡せる幾多の老兵らも、部隊にいた時は、ただひとつの表情しか持ちあわせなかった。それがただ部隊をはなれ汽車に乗ったというだけで、もはや娑婆の風情(ふぜい)をとりもどし始めている。

 私の前にいる老兵も、部隊にいたころは、なにか得体の知れぬ痴鈍な感じだったのが、今ははっきり解放された喜びを、身のこなしにあらわしている。向うの座席に、所書(ところがき)をかいて交換している二人の老兵も、弁当を分け合って食べている他の群も、それはもはやあの一つの表情からぬけ出している。世間人としての匂いを立て始めている。老兵からかすめた小さな写真に眺め入っているこの私にしても、はたから見ればやはりそう見えるのかも知れないのだ。――しかし召集前、私はそんな世間の貌(かお)を信用していたのか。世間の中で私は、自らを韜晦(とうかい)せずに純粋に生きてきたのか。ふとその事に思い当ると、にがい唾が口にいっぱいあふれるような気持がして、私は写真をぐっと老兵の方につき戻した。

「そうです。そうです」私が写真を眺めている間、彼は私の顔をじっと見守っていたらしい。ぶよぶよと頰にゆるんだ笑いをうかべて、しきりに合点合点をしながら、調子をつけるように、

「これが長男、これ、次男」

 ピントの合わぬ、ぼやけた写真であった。縁が色褪(あ)せているのは、おそらく汗がしみたのであろう。納屋(なや)みたいな感じの建物の前に、子供が二人写っていた。二人とも、まぶしそうに笑っていた。大きい方は頭が平たく、手には小旗を持っていた。小さい方はくりくりした眼を、あらぬ方に向けている。その眼の形が何となく、この老兵にそっくりである。子供たちの背後に、三十五六の女が立っている。母親なのだろう。これは笑っていない。うっむいているので、眉の間に暗い翳(かげ)がおちている。女も子供も、上等の服装はしていない。あまり裕福な感じではない。しかしこの素人(しろうと)らしい撮り方のゆえに、子供の頰の乳くさい軟かさや、日向(ひなた)に照らされた着物の匂いのようなものまで、かえってなまなましく画面に浮びただよっている。

「うしろのは、おかみさん?」

「ええ。ええ」

 老兵はそれを大事そうに、ちらと私にかざして見せた。車窓からどっと吹き入る風が、その縁をひらひらとなびかせる。風が急にひやりとした湿気をふくんでくる。部隊にいた頃は、過去もなにもない、現象みたいにしか眺められなかったこの男が、ふるさとには家庭と職業をちゃんと持っているということが、俄(にわ)かに実感として私に迫ってきた。その実感は私自身にからんで、なにかかすかに不快な抵抗を伴ってくる。

「故郷(くに)はどこなんだね。どこまで帰るのか」

「ヘヘえ」写真を丁寧に箱にしまいながら「原籍は福岡県です。しかし、その、居住区は別府」

 居住区だってやがら、と通路に立った若い上等兵がわらい出した。乾いてぎすぎすしたわらい声であった。老兵はきょとんとした顔をあげたが、そちらを見るでもなく、こんどは別の小さな紙包みを箱から取り出して、無神経に私の顔の前にひらひらさせた。

「あなたさん」私のことをそう呼んだ。「これを湯で溶かすと、そっくりお萩(はぎ)になりますがな。饀粉(あんこ)は饀粉、御飯は御飯、とな。さっき駅で仲間のものが、うまいとこ拵(こしら)えて食べよりました」

 航空糧食の一種で、お萩を粉末にしたものである。私も三四箇支給をうけて、衣囊の中にしまってある。

「あんたはなぜ食べなかったんだね」

「へへえ」老兵はまた曖昧(あいまい)な笑い方をしながら「子供に食べさしてやりたい、と思いまして、な」

「子供に会いたいかね」

 老兵は何か言いかけて、口ごもった。灼(や)けつくような色が、その赤らんだ眼の底をはしって消えるのを、私は見た。老兵の略帽は、長いこと洗濯しないと見えて、うすぐろく変色している。

 

      

 

 野面(のづら)に光が蒼然とおとろえ、数百の復員兵をのせたこの小さな列車は、いやな軋(きし)りを立てながら、がらんとした大きな駅に辷(すべ)りこんでとまった。

 停車と同時にあちこちの窓から、ぴょんぴょん蝗(いなご)のように飛び出して、歩廊の水道栓に兵隊らは走ってゆく。群りひしめく彼等の青いシャツの裾が、一斉(いっせい)にはたはたとなびく。吹きつける風はさらに、歩廊の表面をぬめぬめと光らせ、線路の側で小さな渦巻きをつくっている。

 眼をあげると、油煙を溶かしたような黒雲が、もはや南の空の半分をおおい、その千切れた雲端をはげしく揺すりながら、ひくく垂れ下ってくるらしい。それを眺めていると、胸が急に息苦しくなってくるような、背後から追い立てられるような、不安に満ちた緊張感が私に迫ってくる。

「これは嵐になるかな。悪くすれば」

 なにかをごまかすように、口の中でつぶやいてみる。

 汽車が突然ごとんと動き出すと、水を汲み残したままの水筒をかかえ、七八人の兵達が叫びながら歩廊をはしって、ばらばらと汽車を追ってくる。汽車は速力を早めた。

 毀(こわ)れくずれた町並が、線路にそって連なる。大きな踏切りを越えた。線路沿いのせまい道を、カンカン帽をかぶった中年の男があるいて行く。突風がいきなり帽子を吹き飛ばした。白い浴衣(ゆかた)のたもとを風でふくらませながら、男は腰をかがめてそれを追っかける。黒い柵伝いに、カンカン帽はどこまでも転がってゆくのだ。その男の姿体を、はっきり私の眼底に残したまま、汽車はそこを轟然(ごうぜん)とはしり抜けた。

 「ああ、あの感じなんだな」

 浴衣にカンカン帽をかぶった姿。そんな服装が暗示する生活。それがこの世間にあるということ、自分にふたたび始まるということが、なぜか先ず肌合わぬ感じとして私にきた。そんな生活を私もかつて営(いとな)んでいた。その記憶がとつぜん身体によみがえってくる。いつか私もあんな姿勢で、飛ばされた帽子を追っかけた。その時の気持や身体の感覚。――この汽車で東京にもどる。着物を着て、畳の上で飯をくう。背広をきて、毎日役所にかよう。夕方夕刊を買って、省線で戻ってくる。時には風で帽子を吹き飛ばされたり、乏しい銭で安酒を飲んでみたり、そんな生活の枝葉。(しかしそんな生活をこそ、この二年近くの間、私はひそかに渇望しつづけていた!)

 それだのに今となって、その渇望は渇望の形のまま、ヘんに不透明な翳(かげ)をひき始めている。ごく微かな、ぼんやりした侘しい翳を。それはいきなり気圧の低い世界に立たされたような、生理的に不安定な感じを伴っている。湿って不味(まず)いほまれを、ざらざらと口に吸い付けながら、私はしきりに煙をはき出していた。今朝部隊の門を出るときの、あの昂揚(こうよう)された自由感が、何時の間にか、なにか質の違ったものとすり替えられている。そんな筈はあり得ないのに、その感じは膜のように私にかぶさってくる。そいつの襞(ひだ)を探りあてようと焦(あせ)りながら、私は視線だけをぼんやり窓外にあずけていた。その私の頰や額を、とつぜん水粒をふくんだ風が、つめたく弾(はじ)き撲(なぐ)った。[やぶちゃん注:「ほまれ」軍隊内で需品として支給されていた軍用煙草の銘柄の一つ。「保万礼」「譽」「ほまれ」の表記のものもある。大蔵省専売局が製造・発売した紙巻煙草の銘柄で発売当初は民間用だったが、後に軍隊専用となった。旭日旗を交差させたデザインである。]

「雨だ」

 車内があわただしくざわめいて、ガタガタと窓のガラスを立て始めた。いきなり人いきれがこもって、ぼうと眼鏡が内側から曇る。

 長い時間不自然な姿勢で、座席にいるせいで、尻の骨がぐきぐきと痛い。前の老兵が衣囊の紐(ひも)をぐいぐいしめる度に、そのかたい角が私のすねをつき上げてくる。外は蒼然と昏(く)れかかるのに、車室には燈が全然ともらない。

 車内の皆は、やや談笑に疲れたのか、ぼんやりしている者が多いが、それらの眼が明かに不安を宿して、時折窓外にはしるのも、あやしい空模様につながって、列車が何時停まるか知れないという危惧(きぐ)を、はっきり感じているに違いないのだ。その危惧は、私をも強く摑んでいる。(戦争がすんで、やっと身軽になったというのに、また見知らぬ土地におろされて、厄介なことになるのは、もう御免だ)しかし誰もまだ、それを口に出さない。うっかり口辷らせると、たちまちそれが実現するかも知れない。そんな畏(おそ)れが、皆の口をつぐませている風に見える。そこだけを避けて、低声の会話が交されている。

「さっきのあの駅、宮崎?」

「え。広瀬。広瀬だろう」

「大分(おおいた)着は、明朝かな。この分では午(ひる)過ぎになるかなあ。え」[やぶちゃん注:独立した「え」は相手への応答を促す辞。]

 衣囊の紐を結び終えた前の老兵は、すこしの間窓の外を見ていたが、ふと心配そうに私に間いかけてきた。

「この汽車はまっすぐ、別府まで行くとでしょうか」

[やぶちゃん注:「宮崎」駅はここ、「広瀬」駅は現在の宮崎県宮崎市にある佐土原駅の旧称。後の昭和四〇(一九六五)年七月に佐土原駅に改称している。]

 

       

 

「おれは知らんよ」あとは思わず口に出た。「おそらくどこかで、断(き)れているだろう」

「断れているとすれば、私どもはどうなるとでしょう」

「降りるんだよ」

 そっけなく私は答える。日豊線をえらんだことについて、しだいに私は後晦し始めていたのである。隼人(はやと)で下車して、九州本線に乗り換えればよかった。さんざん選んで、これでは悪い籤(くじ)を引きあてたかも知れない。いやな予感がする。隼人駅で手を振りながら降りて行った連中の姿が、ある感じをもって瞼にうかんでくる。

 しきりに顔の汗をぬぐいながら、ガラス窓に吹きつける風雨の音を聞いているうちに、私はしかし急に胸がいらだってきた。

「どうせ、どのみち、家へ帰れるんだ。二日や三日伸びたって、大したことはないさ」

「え。へえ」

「そんな早く帰り着いても、しかたがないじゃないか」

 老兵は頰にちょっと厭な色をうかべて黙った。そしてまっすぐ私を見て言った。

「私どもは、一刻も早く、帰りたいとです」

 はっきりした口調であった。私はすこしひるんだ。部隊にいたときのように、命令を受けても理解できない風であったり、寝ている人間に消毒液をかけたり、そんなけたを外(はず)した動作や感情は、もうこの男にはない。あれはやはり擬態だったのだ、と思う。意識した擬態ではないとしても、保護色や警戒色のように外界に反応して、自然とその個体に具わったのだろう。しかしそれはどちらでもいい。もはや私と関係ないことだし、それほどの興味もない。ないにも拘(かかわ)らず、この老兵の顔を見ていると、私はしてやられたという感じが強かった。

 私から眼をそらさず、老兵はまた追っかけるように、口をひらいた。

「あなたさんはそれほど、帰りたくないとですか」

「いや」私はたじろいだ。すぐ気を立てなおして、こんどは逆に相手をたしかめるように「そんなに帰りたいものかな。家では何をやっていたんだね」

「人形を造るとです。人形師」

 別府土産の人形をつくるのが、その商売だという。それから老兵は、やや雄弁になって、粘土から人形を造り上げる工程を、いちいち話し出した。時々手真似も入る。小さな工房をもち、そこで注文の仕事をするのらしい。職人は使っていないが、弟が一人いて、それと一緒に働いていたのだという。

「――私が学資を出してやりましてな、中学を卒業させました。ところが中学出ても、人形をば造りたいと言うもんで、仕事の加勢をさせておりますが、これが私ども以上の腕利きで、これが人形は、別府でいっとう良い店から、いくらでん注文があるとです。え、二月。二月に私が海軍に引っぱられたあとは、弟一人でやっておりましたが、これも六月頃陸軍に引っぱられたということで、女房からその便りがあったきり、その後のことは判りませんです」

「お内儀(かみ)さんはあの写真のうしろに立っていた人だね」

 外ではますます、風雨がつのってくるらしい。列車は左右に厭な振動をつづけながら走ってゆく。窓ガラスに雨滴がぶつかって、筋となって流れおちる上を、また新しい雨滴がつぎつぎ打ちつけてくる。車室の内部も暗く、人々の顔の輪郭も定かならぬほどだ。反対側の窓の彼方に、海が墨色に拡がっているように見えるが、それも海かどうか判らない。視野はいちめんに昏く、一色に轟々と鳴りはためいている。

 通路で誰かがマッチをすった。瞬間そこらあたりが、ぽうと薄赤くほのめく。その光に浮き上った人々は皆、顔にかぐろく隈(くま)をつくり、まことに荒(すさ)み果てた感じであった。

 身体のしんに熱っぽい疲労を感じあてながら、私は背を曲げて、時折物憂(う)くあいづちを打ちながら、老兵がしゃベるのをうつうつと聞いていた。他に何かやらねばならぬことが、沢山あるような気ばかりしながら。

 

      

 

「……巡検が終りますとな、いつも砂浜の莨盆(たばこぼん)にでて、仲間のものと夜遅くまで話しこむとです。皆帰りたいという話ばかりで、何の因果(いんが)でこんな海軍に入ったんじゃろか、孫子の代まで海軍には入れんちゅうてな。私は医務室の仕事になったから、まあ良かったけんど、他の連中は、この汽車にも乗っとりますが、毎日モッコかつぎで、肩の肉がやぶれたり底豆を出したり、とにかく満足な体の奴はおらんとです。みんな私が楽な仕事をしているのを羨しがりましてな、いつも言い返してやったとですが、お前らは要領がわるい、軍人は要領を旨とすべしと知らんかてな。しかしあまり可哀そうなんで、医務室から薬をもってきてやって、煙草と交換してやったりしましたたい。その薬を罠盆のまわりでつけ合いながら、こんなとこ見たらカアチャンが泣くだろう、そんなことか二人が言ったりしますとな、笑うどころか皆しんとしてしまって、そんな具合にしてやっと、八月十五日になりました」[やぶちゃん注:「そこまめ」。足の裏にできる肉刺 (まめ) 。]

「――ラジオががあがあ言うだけで、なんにも判らず、隊長さんの訓辞では、今よりももっと働かねばならんという話で、居住区へ戻ってきて、陛下もこれ以上やって皆死んでしまえとは、何とむごいことをおっしやるかと、みな寄り合って悲観しているうちに、あのラジオは終戦のことと判りましてな、班長や分隊士がやけになって酒をば打ちくろうて、まことに今まで一生懸命にやってこられたのに、何ともはや気の毒とは思いましたけんど、私どもは皆してこれで家へ帰れる、子供や女房の顔も拝めるちゅうて、悪いと思ったが、肩をたたき合うて喜びましたがな。この世ではもう逢えぬ、こんりんざい逢えぬと、私どもはあきらめて、なるたけ思い出すまいとつとめておったところへ、とっけもなくこんな事になって、私はそれから女房や子供のことばっかり考えつづけですたし」[やぶちゃん注:「とっけもなく」「思いもよらず、とんでもないことに」の意。熊本弁として認識している向きが多いが、江戸後期の「東海道中膝栗毛」に既に口語形容詞として使用されており、宮城生まれ東京育ちの志賀直哉の名作「暗夜行路」でも使用されている。]

「――ヘええ。女房は今年三十二になります。おとなしい、良い奴でしてな。出てくる時、おれが死んだら弟と一緒になれ、そう言うたらな、情(じょう)がないちゅうてむちゃくちゃに泣きましてな、私もそんな覚悟でいた処をこんなことになって、あいつもさぞかし喜ぶじゃろ。あいつにもなにか軍隊土産(みやげ)でも持って行きたい、と思いましても、隊で支給されたのは兵隊のものばっかりでな、甘いものも少しは貰ったけんど、これは子供の分。その他は、毛布や、米や、罐詰(かんづめ)や。女むきの土産物は、何もありやせんちゅうて、笑い合ったりしましたけんどな」

「――何も要らん、帰してさえ呉れれば、何も要らん。こつちから金出してもいい、と言うてた連中が、いよいよ帰れるとなると、皆とたんに慾張りになりましてな、俺の毛布はスフだから純毛のがほしいとか、靴をかっぱらわれたから又盗(と)ってくるとか、浅間しいと思いますけんど、私もそれでな。これだけあれば、四五年は着る物の不自由はせん、そうなれば女房もたすかるだろうし、また伜(せがれ)たちにしても……おや?」[やぶちゃん注:「スフ」レーヨン (rayon)の旧称。人絹(絹のように光沢を持つことから)とも言った。「ステープル・ファイバー(staple fiber)」(本来は「不連続な長さの繊維状のもの」の意)の略。太平洋戦争中、輸入削減によって綿花が極端に不足したため、それを補うために国内の化学繊維で作った紡績用の短繊維を指す。]

 がたんと汽車がとまった。どこかの駅についたらしい。と思ったとたん、濡れた窓ガラスの向う側に、人の顔が五つ六つひしめき迫って、手でガラスをがたがたとたたく。同時に叫び喚(わめ)いているらしいのだが、何を言っているのか、さっぱり聞きとれない。ガラスがべっとりと水に濡れているので、それらの顔の形は暗く歪(ゆが)んで、幽鬼じみてこちらに迫ってくる。

「あけるな。あけるな」

「喚いたって乗れやせんぞ。こんなにいっぱいだあ」

 車内の通路から、そんな声がとぶ。

 しかしその勢に押されて、ついに開いた一つの窓から、外の声々が決定的な意思を伝えて、かん高く突き通ってくる。

「この汽車は、ここ停りだぞ」

「先には行けんぞ」

「早く降りろ、降りろ」

 口々に喚きながら、窓からいきなり荷物を押しこんだり、気も早く上半身を車内につっこんでくるのもいる。みな年若い兵隊や下士官らだ。

「先にはもう行けんぞお。鉄橋が落ちたんだあ。ぼさぼさするなあ」

 この駅のすぐ先の鉄橋が、増水のため落ちて、不通になっているというのだ。この連中は延岡(のべおか)付近の特攻基地の解員兵で、徒歩連絡で河を越え、鹿児島方面へ帰郷する途次だという。全員びっしょりと雨に濡れている。動作はあらあらしく、殺気立っている。[やぶちゃん注:「延岡」ここ。]

 出る者と入ろうとする者で、たちまち狭い車室は大混乱になった。暗い車内に、黒い影がいそがしく入り乱れ、濡れた肌の臭いがひしひしと充満した。名前を呼び合う声や、ののしり合う声に混って、窓ガラスがパリパリパリと砕け散る音がひびきわたった。

 重い衣囊に引きずられるようにして、私は真暗な中を、なかば窓から転がり落ちた。飛沫をふくんだ烈風が、その時私の全身に、横ざまに吹きつけてきた。私は立ち上ろうとしてよろめいた。

[やぶちゃん注:「先にはもう行けんぞお。鉄橋が落ちたんだあ」次章冒頭に出る高鍋駅のすぐ北で小丸(おまる)川河口に架かる小丸川橋梁がある。この橋は小丸川の河口部直近内側が南北に延びる砂州の内側で大きく抉れて広くなっている部分に架橋されているため、非常に長いことが判る(リンクさせたグーグル・マップ・データ航空写真を拡大されたい)。ウィキの「高鍋駅」には、昭和二〇(一九四五)年七月十六日に『空襲により』、『駅本屋構内被災全焼し』、『小丸川橋梁落橋』とあるものの、七月二十七日に『橋梁復旧』とするのだが、「国土交通省 九州地方整備局」公式サイト内のこちらの「小丸川鉄道(おまるがわてつどう)橋」を見ると、『日豊線整備の一環として大正』八(一九一九)年に『小丸川鉄橋が着工、同』一〇(一九二一)年の春、『長さが九州第一の』八百五・四九メートルに及ぶ『大鉄橋、小丸川鉄橋が完成した。これによって高鍋、美々津間の日豊線が開通した』。しかし、昭和二〇(一九四五)年六月二十九日の『大空襲で小丸川鉄橋は大型爆弾の集中投下を受けて』五『ヵ所のガードが落ち』、『不通となり、日豊線は折り返し運転となった。さらに』、昭和二〇(一九四五)年八月二十七日の台風によって被害を受けた、とあり、昭和二三(一九四八)年三月二十日になってやっと再建された、とある。この最後の記載はまさにここで描写される台風のことを意味しているように思われる。日付が前の香川県のデータの後になってはいるが、この時、台風が襲来した事実の傍証ともなろうかとも思われるので示しておく。]

 

      

 

 日豊線高鍋駅。

 その建物を、その時、私は初めて見たのである。(そしてもう永久に、見ることはない)

 ペンキの塗立てみたいな、つい近頃建てたという感じの、しょうしゃな駅舎であった。しかしそこら一帯が停電で、燈ひとつない暗さだから、はっきりと見て確かめた訳ではない。ただそういう感じがしただけである。

 私たちは降りしぶく歩廊をはしり、改札をぬけて、この駅舎の中に集っていた。総数にして、千名近くの復員兵が、汽車を見捨てて、暗い待合室に続々と詰めかけてきた。

 駅のすぐ前から、高鍋の町が始まっているらしい。薄黝(うすぐろ)い屋根の稜角が、ぼんやりした空明りを背にして、凸凹にそそり立っている。雨をともなった烈風が、そこら一帯を間歇(かんけつ)的に、どどっ、どどっ、と吹き荒れている。汽車を乗捨ててきた歩廊の方角は、激しいしぶきにさえぎられて、一面の真暗闇である。[やぶちゃん注:「黝」は音「ユウ」で、「蒼黒い・黒・黒い・黒む・薄暗い」などの意を持つ。]

 しかも風威はしだいに加わってくるらしい。

 風と風との間の小休止が、だんだん短くなってくる。

 切迫した空気が、急に闇のなかに立てこめてきた。汽車の中では、自分も動いているのだから、それほどには感じなかったが、こうして静止して見ると、ただごとでない状況におかれたことが、ひしひしと身に迫ってくる。と言ってこちらからは、何も手を下しようがない。無抵抗に身をすくめて、それが収まるのを待つ外はないのだ。

 暗い待合室には人と荷物がぎっしり詰め合って、輪郭も定かに見えないが、気配だけは物々しく動いていた。あらあらしい呼吸、物を引きずる音、それらが触れ合いぶっつかる音、呼びあう声々、それらを圧倒するように、地鳴りと雷鳴を伴った烈風が、建物全体をぐゎんと撲りつけてくる。建物は生きもののように悲鳴を上げながら、ぐらぐらと身震いをする。その瞬間だけは、駅舎内の物音と人声はすベて絶え、呼吸をつめた沈黙がそこに凝縮する。建物の振動や軋(きし)り音の感じから、この駅舎がひよわな細っこい建て方をしてあることが、皮膚にじかに伝わってくるのである。

「こいつはまずいな。こいつはまずいな」

 闇の底に衣囊を置き、それにのしかかるように身をもたせながら、私はしきりにつぶやいていた。雨に濡れて肌は冷えているのに、額からはじとじとと汗が滲み出てくる。今は暗くて判らないけれども、明るいところで見るこの駅の有様を、私は頭のすみで想像に組み立てていた。近頃出来に特有な、資材不足で手を抜いて、ペンキやベニヤ板などで外観だけをととのえた、やわな建物の外貌を――その建物の在り方をのろう言葉が、思わず口に上ってくる。何かしら呟いていないと、すこし不安なのだ。[やぶちゃん注:「近頃出来」「ちかごろしゅったい」と読んでおく。]

「あぶないぞう。あぶないぞう」

 闇の遠くから、そんな声がちぎれちぎれに間えてくる。

 風の合い間には、やはりそこらで色んなものが動き廻り、短い会話のやりとりが交されている。この風雨を冒(おか)して、川向うの駅まで徒歩連絡に出かけた一団が、やがて空しく戻ってきたらしい。大丸川は大氾濫(はんらん)していて、橋をすべて没し、渡河は不可能だという。不安からくる緊張が、それらの会話を生き生きさせている。どこかで笑い声さえひびいている。すべてが狂躁的に、呼吸(いき)ぎれしたようにはずんでいる。[やぶちゃん注:「大丸川」小丸(おまる)川の誤り。既に注で述べた通り、高鍋駅から北へ出てすぐの位置に大きな河口がああり、そこに九州一の橋梁が掛かっている。]

 烈風がおどろな響きをつれてひとしきり襲ってきた。建物は熱病やみのようにはげしく慄え立ち、不快な軋り音を発して揺れた。ガラスが破れる音、なにかがもぎとられるような音がして、つめたい飛沫がさあっと顔にかぶさってくる。建物の一部が、窓か壁か天蓋かが破れて、そこから雨が直接降りしぶいてくるのだ。

 私は無意識裡(り)に、衣囊を身体でおおう姿勢になっていた。衣囊が濡れるのが心配なのか。その倒錯に気付くと、私は急に腹だたしくまた可笑(おか)しくなって、勢よく背をおこして立ち上った。風威はいささかも衰えるもようはないが、雨はいくぶん小止みになった様子で、それで空がすこし明るんだのか、あるいは眼が闇に慣れてきたのか、ものの動きのぼうとした輪郭が、視野にちらちらととらえられて来た。

 駅舎内から三々五々飛び出して、風雨に安全な場所をもとめて、人影が街なかに駈け出してゆくらしい。そこらで呼びあう声が、風の音にまぎれて聞えてくる。白い稲光(いなびかり)がぱっと流れて、軒下を駈けてゆく人々の姿を、瞬時に照らし出した。

 その時建物の土台から、ぎぎっと突然不気味な音がひろがって、風圧に耐えかねて駅舎全体が、すこし傾きかしいだらしい。突風がうなりを立てて、どどっと吹き入ってきた。

 顔の皮が急につめたくなるような気がして、私も衣囊を引摑むと、いろんなものとぶつかり合いながら、出入口の仄(ほの)明りへ飛び出した。そして呼吸をはずませて街なかに走り入った。

 

      一〇

 

 その高鍋の町の有様は、その夜の私のきれぎれの印象を、今ここにつづり合せて見ても、ことのほか異様である。

 しかし私は少からず動顚(どうてん)していたから、その時それを異様に感じる余裕はなかった。またその動顚ゆえに、私の印象もはなはだしく錯誤しているかも知れない。記憶や印象の脱落も、もちろんある。

 その夜の私の印象では、高鍋という町は、ぜんぜんの無人の巷(ちまた)である。住民ひとり居ない感じの、死に絶えた町の様相であった。

 大きな家や小さな家が、参差(しんし)して並んではいるが、すベて爆撃か爆風で根太(ねだ)がゆるんで、傾いたり歪んだりして建っている。全町あげて疎開し、この嵐の下に、がらんどうの家々だけが残っている。あわただしく駈けぬけた印象では、まさしくそうであった。[やぶちゃん注:「参差」互いに入り交じるさま。高低・長短などがあって不揃いなさま。]

 私は呼吸をはずませて走っていた。走っているつもりだが、衣囊が重いのと、風圧がはげしいため、よろめき歩くに過ぎないようである。仝身にしぶいてくるのは、雨なのか、水溜りを逆風が吹き上げてくるのか、よく判らない。

 吹き倒されそうになると、物かげに身をよせたり、電柱に抱きついたりして、風の弱まりを待って、進んでゆく。何分か、何十分か、そんなふうにして動いていたか、私はよく覚えていない。風雨から完全に避けられる場所を求めて、少しずつ移動しているうちに、どの屋根の下もたよりなく見えて、いっそ歩いている方が安全だ、という気持にもなっていたのだろう。全身は水から引き上げられた犬みたいに、もうこれ以上濡れようがない状態になっていた。

 一緒に街に駈けこんだ連中とも、いつかばらばらに別れて、風のみが吹き荒れる暗い夜道を、私はほとんど無我夢中でうごいていた。しぶきが眼鼻をふさいでくるので、時時舌を垂らして私はあえいだ。風物の輪郭は小暗くみだれ、歪みぼやけている。さっき駅舎を飛び出したとたん、突風が私の眼鏡をさらって行ったのだ。

 視界がちらちらとする。瞳孔が対象に定まらない。そのことが私の判断力を、なおのこと狂わせてくる。私は眼を大きく見開こうと努力しながら、その瞼の引っぱり上げる感覚で、ふいに先刻の老兵の顔を、あわただしく思い出したりしている。

「あいつは、どうしただろうな。あいつは」

 ――私はとある家の軒下のような処に身をよせていた。おぼろに眼に入ってくる風物の感じからでは、街外(はず)れのような一角であるらしい。神経はとがっていても、体が綿のように疲れていて、これ以上風に抗して足を踏み出すことは、とても出来そうになかった。ここで夜明ししようか。肩で小刻みに呼吸しながら、私はそうかんがえた。そのうちに風も収まるだろう。

 それからどの位経ったか判らない。そこらの記億がない。暗い軒下にある防火水槽のかげににじり寄って、私はひとりうずくまっていた。濡れた肌から身体の内部に、冷えがしんしんと沁み通ってきて、私はがたがたと慄えながら、衣囊の紐をといていた。毛布などを取出して、万一の場合の防禦物(ぼうぎょぶつ)にしようと思ったのである。衣囊につっこんだ手が、ふと濡れた箱包みに触れたとき、私は今朝から何も食べていないのを思い出した。虚脱した空腹感が、いきなり胃をしめつけてきた。私は昏迷を感じながら、あわただしくその箱を引きずり出そうとした。

 その時、さかまく突風がななめに私におちてきて、いきなり濡れた服の裾を、猛烈にあおり立てた。うずくまる私の腰を浮かすほど、その風圧ははげしく強かった。それと同時に、板片(いたぎれ)みたいな堅く小さなものが、瞬間に顔の皮をかすめて、私の腕にしたたかぶつかってきた。圧痛が二の腕をはしった。

 私は悲鳴を上げたのだろうと思う。防火水槽の混凝土(コンクリート)に思わず懸命にしがみつきながら、眼鏡をとばした不確かな視力で、風の行方を見定めようとしていた。雲が切れて、そこからおちてくる夜の光で、仄(ほの)白く浮き上った夜の道を、板片や木の枝や、屋根瓦のようなものまでが猛烈な速力で走ってゆくのだ。しかも風位が定まらぬと見えて、それらは突然方向を変えたり、鼠花火のようにそこらを狂い廻ったりしている。

 しんじつの恐怖が、その時始めて私に湧き上った。この颱風は峠をこしていない。まだまだ烈しくなる。その予感が私をぎゅっと摑んだ。それは直覚的に私にきた。

 私は衣囊もろとも、軒下から土間にころがりこんだ。むしろの下に逃げこむムカデみたいに、嵐の眼から自分を隠すことで、ひたすら生命を保とうとするかのように。安全地を選択する余裕は、もう無かった。――身体がひとりでに、本能で動いた。

 

2020/09/05

大和本草卷之十三 魚之下 彈塗(めくらはぜ) (ムツゴロウ・タビラクチ)

 

【外】

彈塗 筑紫海ノ斥地ニ多シハゼノ形ニ似タリ前二足

アリテヲドル潮退キテ見ユ目高ク出ツ不可食三才

圖繪四十巻ニノセタリ其圖ニモ二足アリ目出タリ○

寧波志彈塗一名闡胡

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

彈塗(めくらはぜ) 筑紫〔の〕海の斥地(かた〔ち〕)に多し。「はぜ」の形に似たり。前に二足ありて、をどる。潮、退〔(の)〕きて、見ゆ。目、高く出づ。食ふべからず。「三才圖繪」四十巻に、のせたり。其の圖にも二足あり。目、出(いで)たり。

○「寧波志」〔に〕、『彈塗〔(ダント)〕。一名、闡胡〔(センコ)〕』〔と〕。

[やぶちゃん注:これはもう、

スズキ目ハゼ亜目ハゼ科オキスデルシス亜科ムツゴロウ属ムツゴロウ Boleophthalmus pectinirostris

でしょう。しかし、困るんだな、先の「大和本草卷之十三 魚之下 むつ (考えに考えた末にムツゴロウに比定)」でそっちを迷った末に、ムツゴロウにしちゃったからね。しかし、あらゆる点で、これは第一にムツゴロウに同定して間違いない。まず、益軒の誤りを正しておく。彼は「寧波志」に『彈塗〔(ダント)〕。一名、闡胡〔(センコ)〕』とあると記しているが、この「闡胡」は「闌胡」の誤りである。「寧波志」は明の張時徹らの撰になる浙江省寧波府の地誌「寧波府志」のことで、「早稲田大学図書館古典総合データベース」のこちらで、原本(一五六〇年序)を見ることが出来たので、探してみたところ、「物土志」の「卷十二 志九」の「物產」の「鱗部」のここ(右頁四行目)に、

   *

闌胡【形如小鰍而短大者如人指長三五寸計潮退數千百跳躑塗泥中、土民施小鈎取之一名彈塗】

   *

とあるからである。自然勝手流で訓読すると、

   *

闌胡(ランコ)【形、小さき鰍(シウ)のごとくして、短し。大なる者、人の指のごとく、長さ三、五寸計(ばか)り。潮、退(ひ)けば、數千、百、跳(をど)り、躑(しやが)み、泥中に塗(まみ)れるとき、土民、小さき鈎(はり)を施(はな)ちて、之れを取る。一名「彈塗」。】

   *

で、「鰍」は国字としては「カジカ」を指すが、ここは中国語であるから「ドジョウ」のことである。ドジョウみたいな形態で、潮が引いた干潟で、数百匹、数千匹が、盛んに跳躍し、しゃがみこんでは、泥に塗れるという特徴的行動と、小さな釣り針だけを仕掛けたものを投げて、それを引っ掛ける漁法といい、「彈塗」を中文サイトで検索すると、台湾のサイト「國家重要濕地保育計畫」内の湿地(潟)の生物を紹介するページに「大彈塗」として、ムツゴロウの学名と写真が出るから、もう絶対間違いないわけよ! 因みに、ムツゴロウは日本では有明海・八代海にしか棲息しないが、東アジア全般(日本・朝鮮半島・中国・台湾)に広く分布しているので誤解のないように(ムツゴロウを日本固有種だと思っている日本人は結構多いのだ。学名もリンネの命名だよ)。

めくらはぜ」ギョロ目が目立つのに、目が見えないかのようにのたくるからであろうか。差別呼称で滅亡する異名である。但し、「川のさかな情報館」こちらのページで、

ハゼ科オキスデルシス亜科タビラクチ属タビラクチ Apocryptodon punctatus

の異名として出るので、本種も本項に含まれるとした方がよい。同種は干潟に棲息する海産のハゼの仲間で、日本では有明海・八代海・瀬戸内海で、他にフィリピンやインドにも分布する。体長六センチメートルで、体色は淡褐色。体側に暗色斑が、複数。並ぶ。下顎は上顎より短い。左右の腹鰭は吸盤状となっている。なお、本種はテッポウエビ類(軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目コエビ下目テッポウエビ上科テッポウエビ科テッポウエビ属 Alpheus 或いは同属の最大種テッポウエビ Alpheus brevicristatus)の生息孔の中に潜んで、共生(これは数少ない真の共生と思われ、視覚がよいハゼ類が敵を見つけてテッポウエビに知らせ、テッポウエビが作り上げた巣穴にともに隠れる)していることで知られる。

「斥地(かた〔ち〕)」本来の漢語では広く開拓地を指す語であるが、ここでは益軒は「かた」とルビを振っており、潮が引くと見ることが出来る、と言っているからには、これは明らかに「潟」の「かた」である。

「前に二足ありて」ムツゴロウは干潟では胸鰭をあたかも手か足のように器用に動かして盛んに這ったり、全身を使ってかなりの高さまで飛び跳ねて移動する。彼らが干潟上で生活出来るのは、皮膚と口の中に溜めた水で呼吸しているからだとされる。

「食ふべからず」おかしいなぁ? 益軒先生、美味いのに!

『「三才圖繪」四十巻に、のせたり。其の圖にも二足あり』「四十巻」というのは不審。私の調べたところでは、七十一巻の「鳥獸五卷」の「彈塗」である。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像の一六〇九年序の以下である(トリミングした)。

Danto

「寧波府志」を参照しているのが見てとれる。電子化する。

   *

 彈塗

一名闌胡形似小鰍而短大長三五寸計潮退數千百爲群揚鬐跳擲海塗泥中作穴而居以其彈跳于塗故云

   *

同前で訓読してみる。

   *

 彈塗

一名、「闌胡」。形、小さき鰍(どぢやう)に似て、短かく長くして、三、五寸計り。潮、退けば、數千、百、群れを爲し、揚がる。鬐(たてがみ)あり。跳び、擲(なげう)ち、海の塗(まみ)れる泥の中に、穴を作りて居(きよ)す。其れ、塗(まみれ)に彈(はじ)けて跳(をど)るを以つて、故(か)く、云ふ。

   *

しかし、この絵は、イモリかカエルの幼体のようにも見える。まあ、いいか。]

金玉ねぢぶくさ卷之五 血達磨の事

 

金玉ねぢぶくさ卷之五

   血達磨(ちだるま)の事

Tidaruma

[やぶちゃん注:挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の二幅をトリミングして寄せて合成した。完全にくっつけると、縁側と掛け軸の端の、計三ヶ所が全く合致せず、却って見た目、おかしくなってしまうので、かく間を空けておいた。一部の汚損を清拭した。]

 

 智・仁・勇・忠は士の守る所なり。勇に大勇あり、小勇あり。忠に切あり、儀あり。其〔その〕可(か)なる所をゑらんで、死すべきに死し、小恥を忍んで、のがるべきを、のがる。是、大勇なり。又、忠切なり。命をかろんじて、人にはづかしめを不受(うけず)、つよきにほこつて、よはきを、しのぐ。是、血氣の勇なりとかや。切を捨(すて)て、義を守り、仁を離れて、勇をとるは、智者のせざる所なり。しかれども、武士は武威をかゝやかして、人を制し、亂をしづめ、國家を治(おさ〔む〕)る役なれば、長劍をよこたへ、面(おもて)に勇をはる事、是も、出家は、しゆつけの役にて、長袖(ながそで)を着るがごとし。此道理をしらず、命をかろんじ、死をおそれず、わづかの義理に人と討果(うちはた)し、祿(ろく)のかはりに報ずべき身を、私〔わたくし〕の意趣にうしなひ、君(きみ)の御用にたゝざるは、金(こがね)を土にかゆるが如し。

[やぶちゃん注:「治(おさ〔む〕)る」ルビはママ。国書刊行会「江戸文庫」版は『おさ(め)』とルビ補填している。

「長袖(ながそで)を着るがごとし」「長袖」を音読みして「ちやうしう(ちょうしゅう)」と読み、「そでの長い衣服を着た公卿・僧侶などを嘲(あざけ)っていう語がある。ここ、よく言いたいことが判らない。「長劍をよこたへ、面(おもて)に勇をはる事」武士の魂たる太刀を抜くこともせず、顔にばかり武威を表わして人を威嚇するのは、僧のようだ、それは坊主のすることだ、お公家がたや坊さんの真似をしているのと同じことだ」のという謂いか?

「かゆる」「變(か)ゆる」。「變ふ」(代ふ・替ふ:他動詞ハ行下二段活用)が他動詞ヤ行下二段活用に転じたもの。]

 

 されば、細川幽斎公の御時、さる浪人兄弟、いづれも器量さかんなる仁物(じんぶつ)、當(たう)御家(〔おん〕いへ)を望〔のぞみ〕しかば、ある日、御前(〔ご〕ぜん)へ召出〔めしいだ〕され、

「なんぢら二人、武藝は、いかやうの事をか、する。」

と、御たづねありければ、

「何にても、事に臨んで、人の得いたさぬ事を仕り、御用に相立〔あひたて〕申べき。」

よし、申上〔まうしあぐ〕る。

 幽斎、二人が骨(こつ)がら、勇、ゑいなるを見給ひ、たのもしく思召(おぼしめし)、兄に四百石、弟に三百石つかはされしが、其後(のち)、江戶の大火事の節(せつ)、御上屋舖(〔おんかみや〕しき)へ、ほのほ、かゝり、「むさし鐙(あぶみ)」に書(かき)たるごとく、大風、はげしく、猛火、煙(けぶり)をまいて、ふせぎとめられぬに相(あい)きはまり、大事の御用の道具は悉(ことごと)く除(のけ)しに、いかゞ仕(し)たりけん、別(べつ)して御祕藏の達磨の繪のかけ物一ぷく、御殿の床(とこ)にかゝりしを、其まゝにて取わすれ、殊外〔ことのほか〕、おしみ給ひ、御〔ご〕きげん、あしく見へたまへば、近習(きんじう)のめんめん、手足をにぎり、

「いまだ御てんへは燒(やけ)かゝり候まじ。兼(かね)て人の及ばぬ御用を達(たつ)すべきよし申罷有〔まうしまかりあり〕候へば、彼(かの)新參もの二人に仰付られ、へんじもはやく、取〔とり〕につかはされ、しかるべき。」

よし、申上る。

 ゆうさい、

「實(げに)も。」

と、おぼし召(めし)、彼(かの)兄弟を御ぜんへめされ、

「今一度、御屋しきへ行(ゆき)、若(もし)あやふからずば、取來〔とりきた〕るべし。しぜん、御てんへ火かゝりなば、かならず、さうさう歸るべき。」

よし。

 二人は上意をかしこまり、息をばかりに、かけ付て見れば、たゞ今、御殿へもえ付〔つく〕體(てい)。うしろの門をのりこへて、ほのほ・けぶりの中をくゞり、やうやう、御てんへ入〔いり〕ぬれば、屋根は一まいに、めう火なれども、いまだ下へは火も、もれず。かのだるまの繪、つゝがなく床(とこ)にありしを、早速、はづし、

「くるくる」

と、まき、羽織(はをり)につゝみ、出〔いで〕んとすれば、もはや、十方〔じつぱう〕、燒(やけ)ふさがり、終(つい)に二人は、やけ死〔じに〕ぬ。

[やぶちゃん注:「細川幽斎」(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)は戦国から江戸初期にかけての武将・戦国大名で歌人。三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男であったが、伯父細川元常の養子となった。細川忠興の父である。足利義晴・義輝、織田信長に仕え、丹後田辺城主となり、その後、豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。和歌は三条西実枝(さねき)に学び、古今伝授をうけて二条家の正統を伝え、有職故実・書道・茶道にも通じた博覧強記の人物である。剃髪して幽斎玄旨と号した。以上は講談社「日本人名大辞典」に拠ったが、ウィキの「細川幽斎」を見ると、「関ヶ原の戦い」後は、『幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれて』おり、亡くなったのも『京都三条車屋町の自邸』とある。また、ウィキの「小倉藩」を見ると、息子の忠興は「関ヶ原の戦い」で『細川忠興は東軍に属して戦い、居城である丹後国田辺城は父細川幽斎が勅命により講和するまで西軍に頑強に抵抗した(田辺城の戦い)。その功により』、『戦後』、『細川氏は丹後田辺・豊後杵築合わせて』十八『万石から、豊前一国と豊後国国東郡・速見郡』を与えられて都合三十九万九千石と『大幅加増され、小倉藩を立藩し』てはいる。従って、幽斎存命中に、小倉藩の上屋敷や下屋敷は確かに江戸にあったが、そこに幽斎がいた可能性は極めて低いのではないか? たまたま訪ねていたと仮定しても、そこに達磨の絵をたまたま持ってきて掛けていたり、その時にたまたま火事で屋敷が類焼したりした可能性はもっと低くなり、だいたいからして、本文の叙述が自体が、全体、あたかも幽斎その人が、その上屋敷の主人であるかのような書き方が成されていること自体、全く以っておかしいことが判る。

「勇、ゑいなる」「ゑい」は「鋭」(気鋭)か。しかし、であれば、歴史的仮名遣は「えい」である。

「得いたさぬ事」何度も出てきているとおり、この「得」は不可能の呼応の副詞の「え」の当て字である。

「むさし鐙(あぶみ)」「むさしあぶみ」は浄土真宗の僧で優れた仮名草子作家であった浅井了意(?~元禄四(一六九一)年)による仮名草子で、万治四(一六六一)年板行で、以後も何度か再板行された。上・下二巻。物語の中で明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日~四日)に発生した江戸の大半を焼いた「明和の大火」(出火の伝承状況から「振袖火事」とも呼ぶ)のことを記しており、被害状況を伝える図版も添えられてある。ウィキの「むさしあぶみ」によれば、『明暦の大火で全てを失った男が出家して楽斎房と名乗り、旅に出たところ、故郷の京北野天神で旧友の小間物売に遇い、自らの身の上を語る体裁をとる。著者と伝えられる浅井了意も上方の人だが、『江戸名所記』を執筆するなど江戸の事情にも通じ、浪人の身から出家した人物であるなど重なる部分があ』り、『大火の悲惨さを伝えることを目的とした文学作品であり、誇張した表現も多いと思われるが、大火の顛末がかなり正確に記されており、明暦の大火を語る上で欠かせない史料である。伝馬町牢屋敷の切り放ちや浅草門での悲劇など数々の逸話が載るが、大火の通称振袖火事の由来となった娘については触れられていないことが注目される』とある。しかし、「明和の大火」は、細川幽斎の死後、四十七年も後のことである(本「金玉ねぢぶくさ」は元禄一七(一七〇四)年板行)。「書(かき)たるごとく」が、「明和の大火」ような大火事で、という意味にはとれないから、この話全体が有り得ない話であることがダメ押しでバレてしまう。

「相(あい)」ルビはママ。

「手足をにぎり」彼らには手足がだせず、如何ともし難くて、すっかり固まってしまって動けない様子を言うのであろう。

「へんじもはやく」「返事も早く」。返事を待つまでもなく。かく約定したのだから、という「しぜん」「自然」。副詞。万一。

「息をばかりに」息せき切って。

「一まいに」一面に。

「めう火」「猛火」は、かくも読む。現代仮名遣は「みょうか」。

「終(つい)に」ルビはママ。]

 

 火、しづまりてのち、さうさう、灰をのけさせ、彼(かの)死がいを見せさせ給へば、兄が、てにかけ、弟(おとゝ)の首(くび)を討(うち)、咽喉(いんこう)をくり、腸(はら)わたを引出〔ひきいだ〕し、彼(かの)かけ物を羽おりにまいて、其跡へ、おしこみつゝ、おのれは、はらを十文字に切〔きり〕、其口を引〔ひき〕あけ、弟のむくろを我腹の中へおしこんで、いだき付〔つき〕て、死し居(い)たり。掛物を引出し見れば、よくよく、はをりにまきしゆへ、繪には、のりも、つかざりしが、左右上下の緣(へり)、すこしづゞ、血にそまれり。

[やぶちゃん注:「まいて」ママ。「卷(ま)きて」。

「おしこんで」ママ。現在の口語表現と完全に一致する。

「居(い)たり」ルビはママ。

「はをり」ママ。「はおり」でよい。

「ゆへ」ママ。「故(ゆゑ)」。

「のり」血糊(ちのり)。]

 

 誠に二人がいさぎよきしわざ、武士の鑑(かゞみ)なるべきはたらきなれば、殊外〔ことのほか〕、御感(〔ぎよ〕かん)あつて、繪(ゑ)よりは、深(ふか)く、おしみ給ひ、血に染(そみ)たる掛物を、わざと、御〔ご〕しゆふくも、くはへられず、かの兄弟が上下〔かみしも〕着(き)て、此繪を守護するていを、繪ざうにうつさせ、ともに三ぷく一對とし、「細川の家の血だるま」とて、御家(〔お〕いへ)の宝物(たから〔もの〕)となり、今に御〔ご〕秘藏なさるゝよし。

[やぶちゃん注:「おしみ」ママ。

「しゆふく」「修復」。

「繪ざう」ママ。「繪像(ゑざう)」が正しい。

「てい」「體(てい)」。様子。絵姿のポーズを指す。

「三ぷく一對」中央に達磨の軸、その左右に、達磨(大師)を守護するように(仏像の脇侍のように)二人の図像が描かれているのであろう。

「細川の家の血だるま」私の最終注を参照されたい。

 

 戰塲に先をかけ、死をあらそふは、もつとも武士のつねなれども、事、急成〔なる〕めう火の中にて、此繪をすくひしはたらきをおもへば、智あり、忠あり、勇有て、漢の起信が高祖の爲に榮陽城〔けいやうじやう〕のかこみをとき、楚の項王に燒〔やき〕ころされしも、中々、これには及〔およぶ〕べからず。

[やぶちゃん注:「漢の起信が高祖の爲に榮陽城のかこみをとき、楚の項王に燒ころされし」これは、紀元前二〇四年に、項羽の楚軍と劉邦の漢軍との間で滎陽(けいよう:現在の河南省鄭州市滎陽市。グーグル・マップ・データ)で行われた「滎陽の戦い」を指す。ウィキの「滎陽の戦い」によれば、『項羽の留守中に楚軍の拠点であった彭城を陥落させた劉邦ら諸侯連合軍は、戦勝に浮かれて油断し切っていたところを』、『帰ってきた項羽の楚軍に急襲されて大敗した』。『劉邦らは命からがら彭城から落ち延び、滎陽で楚の大軍に包囲されることとなった』。『不利な状況の中で』、元項羽の部下で寝返った軍師陳平が、『項羽が疑り深い性格であるため』、『部下との離間が容易に出来ると進言し、劉邦もその実行に』四『万金もの大金を陳平に与え』、『自由に使わせた。そして「范増・鍾離眜』(しょうりばつ)『・龍且』(りゅうしょ)『・周殷といった項羽の重臣たちが、功績を上げても項羽が恩賞を出し渋るため、漢に協力して項羽を滅ぼし』、『王になろうとしている」との噂を流し、項羽はそれを信じて疑うようになった』。『特に腹心である范増に対しては、楚の使者が漢へ派遣された際に、はじめ范増の使わした使者として豪華な宴席に招き、范増と仲が良いかのように振舞った。そして使者が項羽の使者であると聞くと、すぐさま粗末な席に変えさせた。このため』、『項羽は更に疑うようになって』、『范増は失脚することとなり、故郷に帰る途中で憤死した』(私は背中に腫瘍が出来て病死したと聴いている)。『こうして陳平は、楚最大の知謀の才を戦わずして排除した』。また、知恵者であった張良は、『包囲戦の途中、儒者』酈 食其(れき いき)『が「項羽はかつての六国(戦国七雄から秦を除いた)の子孫たちを殺して、その領地を奪ってしまいました。漢王陛下がその子孫を諸侯に封じれば、皆』、『喜んで陛下の臣下になるでしょう」と説き、劉邦もこれを受け容れた』。『その後、劉邦が食事をしている時に張良がやって来たので、酈食其の策を話した。張良は「(そんな策を実行すれば)陛下の大事は去ります」と反対し、劉邦が理由を問うと、張良は劉邦の箸をとって説明を始めた』。『張良は諸侯を封じた周朝の武王を例に不可の理由を』六『つ挙げ、今の劉邦には武王のような事が出来ないと説いた。更に「かつての六国の遺臣たちが陛下に付き従っているのは、何か功績を挙げて』、『いつの日か恩賞の土地を貰わんがためです。もし陛下が六国を復活させれば』、皆、『故郷へと帰ってそれぞれの主君に仕えるようになるでしょう。陛下は一体誰と天下をお取りになるおつもりですか。もし、その六国が楚に脅かされ、楚に従うようになってしまったら、陛下はどうやって六国の上に立つおつもりですか。これが第』七、第八の』『理由です」と答え、劉邦は慌てて策を取り止めた』とある。さらに、『楚軍の包囲が続く中、漢軍の食料はついに尽きてしまった。ここで陳平は偽』(にせ)『の漢王を城の外へ出して』、『楚軍が油断したところを』、『城の反対側から脱出する』という「金蝉脱殻(きんぜんだっかく)の計」(魏・晋・南北朝時代の兵法書「兵法(へいほう)三十六計」に載る戦略。ウィキの「金蝉脱殻」によれば、『敵軍が太刀打ちできないほど強大で、抵抗するほど損害が拡大するような状態のため、一時撤退して体制を立て直したいとする。この際、何の策もなく撤退すると』、『敵軍の追撃を受ける危険性があるが、金蝉脱殻の計はこのような状態において安全に撤退するための策である。すなわち、蝉が抜け殻を残して飛び去るように、あたかも現在地に留まっているように見せかけておいて』、『主力を撤退させるのである。撤退の場合だけでなく、戦略的な目的で主力を移動させたい場合にもそのまま使える手段である』。ここの場合は、『将軍の紀信が劉邦に扮し、鎧兜を身につけて兵士に扮した婦女子とともに降伏を装った。城を包囲していた楚軍は、最初』、『軍勢が城の外へ出てきたので襲ったが、中身が婦人であったため留まり、続いて身なりが立派なものが悠々と出てきたのでこれは降伏だと思い、長きに渡る戦いも終わって』、『ようやく故郷に帰れると口々に万歳と叫んだ。他の面を包囲していた楚軍も、何の騒ぎかと』、『そちらへ集まった。その隙に劉邦は反対側の門から逃れ、本拠地まで戻って体制を立て直すことに成功した』とある)を策謀し、『その偽』の『漢王に紀信』(?~紀元前二〇四年:劉邦に仕えた武将)『を、滎陽に残る守りには周苛・樅公』(しょうこう)『を「彼らは死を厭わないでしょう」と』言って『付かせるように言った。合わせて』、『裏切る恐れのある魏豹を残し、周苛たちに邪魔だと思わせ』、『始末させることにした』。『この策は実行され、見越した通り』、『紀信は即刻』、『処刑され、周苛たちは魏豹を誅殺して項羽の攻めにもよく持ちこたえたが、ついに落城して処刑された』(ウィキの「紀信」によれば、『囮となった紀信は項羽によって火刑に処された』とある)。以下、「戦後」の項などが続くが、割愛する。

 さて、実は平凡社「世界大百科事典」に、「細川の血達磨」として立項し、以下のようにある(コンマを読点に代えた。後も同じ)。『講談。肥後熊本の細川家に伝わる名宝の由来譚。主人公の名をとって《大川友右衛門(おおかわともえもん)》とも題する。細川綱利侯に仕えた大川友右衛門は、江戸屋敷類焼の際、切腹して主家の重宝達磨の掛軸をみずからの腹中に収め、命にかえてみごと、お家の宝を守り通したといわれる。この血に染まった達磨が、細川の血達磨と呼ばれ、長く友右衛門の忠節がたたえられた。いわゆる武勇物、忠義物の一つであるが,その他友右衛門が綱利の小姓と男の契り(衆道)を結ぶ話や、妖刀村正のたたりなど面白いくだりがある』とあり、さらに「血達磨物」の項もあって、『歌舞伎狂言の一系統。細川家火災の際、重宝達磨の一軸を忠臣が血で守り、血染めの達磨となったという実録に取材した、男色とマゾヒズムがモティーフの作品群』を言う語で、正徳二(一七一二)年、『京都布袋屋座《加州桜谷血達磨(かしゅうさくらがやつちのだるま)》が劇化の嚆矢(こうし)で、これをうけて』、寛政九(一九九七)年五月、『大坂角(かど)の芝居《浅草霊験記》(近松徳三作)が細川・秋田両家のお家騒動を背景に再構成し、大当りをとった。江戸へ移入されたのは』寛政一二(一八〇〇)年閏四月の『市村座《男結盟立願(おとこむすびちかいのりゆうがん)》で、大筋は前作そのままの上演。さらに嘉永元(一八四八)年八月の、『中村座《高木織右武実録》たかぎおりえもんぶどうじつろく』》』(三世桜田治助作)や文久二(一八六二)年八月の、『市村座《月見曠(つきみのはれ)名画一軸》(河竹黙阿弥作)などがある。いずれの作も劇場が火を忌むため、実録にある火事のシーンは』再現さ『れなかったが』、明治二二(一八八九)年十一月に市村座で打たれた『《蔦模様血染御書(つたもようちぞめのごしゅいん)》』(三世河竹新七作)『にいたって、主人公大川友右衛門が火中に腹を切って御朱印を腹中に守る場面を演じ』、『評判となった』とあった。

 まず、細川綱利(寛永二〇(一六四三)年~正徳四(一七一四)年)は肥後国熊本藩三代藩主にして熊本藩細川家四代で、幽斎の子細川忠興が曾祖父に当たる。彼は赤穂浪士の最期を厚遇した人物として知られる。

 ところが、一方、「大川友右衛門」という人物は『実録』(「世界大百科事典」の先の「血達磨物」引用に出る)という割には、いくらネット検索を掛けても、実在を明らかにする史料がまるで見つからないのである。ところが、そうしているうちに、この名前、どうも、以前に何かで読んだという記憶がほのぼのと蘇ってきた! 而して今、探し当てた。一九九五年講談社現代新書刊の氏家幹人(みきと)氏の「武士道とエロス」だった(二十五年前で流石に反応が遅かった)。しかも当該部を再読して、さらに吃驚した。若衆道に詳しい氏家氏にして、『この名前に接したのはほんの数年前のことだ』と告白されているのである。しかも、氏家氏は、やはり、この血達磨譚の最も古い部類として「加州桜谷血達磨」と「浅草霊験記」を挙げておられるのであった。さても私のこの書き振りで恐らくお判り戴けるものと思うが、氏家氏は、この大川友右衛門なる人物の実在するデータを、以下のどこにも、述べておられないのである。これは若衆道研究のプロである氏家氏自身が「大川友右衛門は実在しない」と認識されているからに他ならない(モデルがいたのでは? と思われる方に言っておくと、有力なモデルがあったのなら、氏家氏ならば必ずそこまで探られ、明記したはずである、と答えておく)。なお、先の引用には、彼が『細川綱利侯に仕えた大川友右衛門』とあり、彼が『綱利の小姓と男の契り(衆道)を結ぶ』とあるのだが、氏家氏の「浅草霊験記」他の梗概や他作品のあらましによれば、大川友右衛門は、浪人、或いは、稲葉侯の藩士、という設定上の異同があり、細川侯の寵愛の愛童(これも小姓或いは侍童とも異同あり)を見初めて、彼と契りを結ばんものと、細川家の中間(ちゅうげん)となって、目出度く兄弟の契り(若衆道)を結び、細川侯にそれがバレるも、細川侯は咎めだてもせず、却って友右衛門を士分に取り立ててくれ、それに感激し、火災の際に細川家の重宝(これまた、細川家系図であるとか、幕府から支給された朱印状とか、達磨の一軸と、まるで一定していない)を腹掻っ捌いてそこに突っ込んで救い、忠義死にするというのである。しかも氏家氏は、この『忘れられたヒーロー? 彼はすくなくとも明治大正の頃はなかな有名な人だったらしい』と言われ、明治の演劇評論家・劇作家の依田学海や、かの徳冨蘆花(健次郎)の日記、山田美妙編の「新体詞選」に美妙自作のズバり、「大川友右衞門」と題する詩一篇が載る、とあって、まさに旧来の歌舞伎や新来の講談によって、明治・大正の近代に於いてこそ「大川友右衛門」が架空の人物でありながら、実在した人物と錯覚された、或いは、願望されたのだということがはっきりしてきたと私は思うのである。やはり、私は大川友右衛門なる人物は実在しないと考える。

 さても、以上の記載を縦覧するに、やや繰り返しとなるが、「講談」というのは明治になって生じた語である。或いはそれに先行する、江戸時代の大道芸の一種である辻講釈(大道講釈:もとは「太平記」などの軍記物に注釈を加えつつ、調子を付けて語るもので、宝永年間(一七〇四年~一七一一年)には公許の常設小屋で上演されるようになり、「講釈」と呼ばれるようになった。文政年間(一八一八年~一八三一年)には話芸としてほぼ確立して幾つかの流派が誕生した。以上はウィキの「講談」に拠った)に原話或いは原素材があったのかも知れぬが、本「金玉ねぢぶくさ」は元禄一七(一七〇四)年板行で、以上に補注した通り、辻講釈が定席で世間に行われるようになるその初年の年なのであり、本「金玉ねぢぶくさ」の「血達磨の事」の方が、世間に本話を喧伝した点では、早いのではないかとまず思ったのである。さらに、劇作として知られるようになるのは実に本書板行より八年も後なのである。さすれば、本篇で言う「細川の家の血だるま」の流布された最初の震源地そのものが、実は、この話なのではないか? さすればこの一篇の価値は相応に非常に高いもの(時代設定のハチャメチャには眼を瞑ってであるが)と言えるのではなかろうかと思ったのである。

 そこでさらに調べてみたところ、倉員(くらかず)正江(現在は長谷川姓か)氏の論文『実録「細川の血達磨」の成立と浮世草子――『金玉ねぢぶくさ』と『男色大鑑』を中心に』(早稲田大学国文学会発行『国文学研究』(二〇〇〇年六月。PDFで「早稲田大学リポジトリ」からダウン・ロード可能)があり、その中で(「二」の末尾)、倉員氏が、『本作が後の「細川の血達磨」の鼻祖となったことは疑えない』とされ、『後出実録類では細川家を舞台としている』が、実は、『実録』(と冠した)『作者が『ねじぶくさ』を参照したことは明らかである』と断じておられるのを見出せたである。考証はすこぶる詳細である。是非、一読をお薦めする。

 にしても、本篇は本書の標準通底属性であるはずの若衆道の部分を、後の血達磨譚とは異なり、全く避けており(意図的というよりも偶然であろう)、その分、兄弟の、凄絶というより、見た目、猟奇的な顚末(始末)に、私なぞは思わず慄(ぞっ)としたものである。]

梅崎春生 年齢

 

[やぶちゃん注:昭和四〇(一九六五)年五月号『小説新潮』。単行本未収録。本作は遺作となってしまった「幻化」の前月、死の二ヶ月前の発表である。

 底本は「梅崎春生全集」第一巻(昭和五九(一九八四)年五月刊)に拠った。

 なお、梅崎春生「生活」の私の冒頭注を参照されたい。この小説、梅崎春生の作品の中では段落の長さが短いのが特徴である。

 一部に注を附した。]

 

   年  齢

 

 汽車は轟々と走っていた。と書きたいところだが、実はよたよたと走っていた。時々停ったり、また動き出したりして、いつ目的地に着くのか判らない。終戦直後の九州の汽車なので、ムリもない。乗客はほとんど復員兵であった。

 車輛は木造で、掃除もろくにしないと見え、すすけでいた。手指が触れると、煤(すす)でまっくろになりそうだ。動きが遅いのは、保線の不完全と、燃料が粗悪なせいだろう。ダイヤがめちゃめちゃだった。いや、ダイヤなんてものはなかった。動いている汽車は、全部臨時列車だった。車輔も不揃いで、天井に穴のあいたものもある。晩夏の烈日の下で、歪んだその列車は、私たちや荷物を満載して、よたよたと進行していたのだ。

「実際ひどい汽車だな」

「よごれ放題と来やがる」

 などと批判の声はあちこちから上っていたが、不平や不満の響きはほとんど感じられなかった。彼等は汽車に乗れたということだけで、おおむね満足していたのである。乗れなくて駅に取り残されたのもたくさんいるのを、知っていたからだ。これに乗っていれば、とにかく故郷に復員出米る。その気分が皆を陽気にしていた。

 第一鹿児島を発(た)つ時から、賭けだった。九州本線に乗るか、日豊線を利用するか。各駅間の電信も杜絶(とぜつ)しているらしく、状態がさっぱり判らない。完通しているという噂もあれば、三箇所断(き)れていて徒歩巡絡だという情報もある。どれが真相で、どれがデマか、誰も確言出来る者はいない。

 私は福岡県の福岡へ復員する予定だった。九州本線を利用しても、日豊線に乗っても、臣離的にはそう違わない。しかし歩かせられるのはイヤだ。重い復員荷物を持っている関係上、汽車だけで帰りたかった。荷物は衣囊(いのう)中にいっぱい。放出物資の毛布や靴や航空糧食などで、やたらに重い。これをかついで、二里も三里もはとても歩けない。是非歩けというなら、歩けないこともないが、すこし内容を整理して捨てる必要がある。世間に物資が乏しいことは知っていた。はち切れそうな物資をかついでいる姿が、娑婆(しゃば)の人々(民間人を指す軍隊用語)の反感を買うことは知っていたが、こちらからすれば、

「一年半近く海軍で追い廻され、棒でたたかれたりして、なんでこの荷物が捨てられるか!」

 というのが私の気持で、生命がたすかったことだけで満足すべき筈なのに、私は他の連中と同じく、はなはだエゴイスティクな心境になっていた。当時としては、まあ当然のことだろう。

 昨日の午後、鹿児島駅で、汽車を待っていた。駅といっても、建物も天蓋もない。歩廊があるだけで、そこに各基地からあつまった復員兵がひしめき合っている。そこにするすると汚れた汽車が、前触れもなく入って米た。そこで大混乱が湧き起った。汽車に乗ろうとするためだ。

 幸運だったのは、その汽車が丁度私が休んでいる前に停ったことである。他人をかき分けて乗るのは、私の一番ニガ手とするところだが、目前に停ったので、急いで荷物を放り込み、窓から強引に乗り込んでしまった。駅に待機していた兵の半分は、歩廊に取り残されたのである。乗り込んだわれわれは、お互いにその幸運を祝い合った。これがほんとの幸運であったかどうか、あとにならねば判らない。

 夕方頃から嵐が吹き始め、宮崎県の大丸川の鉄橋がこわれてしまい、乗客一同は日豊線高鍋駅でおろされて、台風のさなかを高鍋の町に閉じ込められるという結果になる。[やぶちゃん注:「高鍋駅」はここ(グーグル・マップ・データ)であるが、「大丸川」というのはその先で長い鉄橋で渡る小丸川の誤りであろう。なお、次は一行空けである。]

 

 で、今よたよたと走っている汽車は、昨日の汽車ではない。夜明けまで高鍋の町に閉じ込められ、台風一過の好天気の中を次の駅まで歩いた。歩いたのは身ひとつで、荷物は牛車をやとって乗せた。その牛車の割カンが一人当り三円で、十数人分を乗せたのだが、私にはひどい高値に思われた。二年近く世間と接しないので、ものの値段が判らなくなっていたのである。[やぶちゃん注:「次の駅」は川南(かわみなみ)駅(グーグル・マップ・データ)。現在の営業距離では一・一キロメートルであるが、大丸川を渡るためにかなり迂回せねばならないので(大丸川は少なくとも現在は河口部内側(日豊線の鉄橋がある部分)が妙に広くなっている)、現在の国道十号高鍋バイパスも破壊されていた可能性を考えると、実測で最悪の場合、十二キロメートル弱の距離を歩くことになる。]

 次の駅で数時間待ち、かろうじてつかまえたのがこの汽車で、もちろん満員である。一区画四人席に、四人乗っている。それじゃ満員じゃないではないか、と思う向きもあるだろうが、人間の他に荷物がある。それが座席の上に乗っている。通路に坐ったり立ったりしている復員兵の荷物も、座席に積んである。そして乗客は荷物の上に、または荷物の間に、ちぢこまっているのだ。もうこれ以上、荷物や人を乗せる余地はない。

 私の斜め前に、若い復員兵が一人、やはり荷物の間に腰かけていた。ずんぐりして、蟹(かに)のような感じがする。その若者は手拭いで鉢巻をしている。その鉢巻に、血が滲んでいる。発熱でもしているのか、眼がとろんとうるんでいる。私はその顔も名もはっきりと見知っていた。木田という兵長だ。もちろん向うも。

 その若者は最初、網棚の上に寝ていた。しかし汽車の網棚は狭いので、寝返りも打てないし、体が鋼鉄の部分に当って、ごつごつするに違いない。私にはその経験はないが、やがてやり切れなくなったのだろう、短い体を無器用に折り曲げて、座席の上に下りて来た。そして私の顔を見た。

 私もじっとそいつの顔を見返した。

 若者は荷物の間に、ぐにゃぐにゃと体を入れる隙を見つけて、窮屈な姿勢で収まった。眼を閉じる。少し経って、またあける。窓外の景色を見る。また閉じる。いかにもつらさを誇張しているみたいだ。

「兵長。どうかなさったのですか?」

 私の横にいる老兵が、その若者に問いかける。老兵といっても三十七、八の年配で、ふつうの世間では『老』などと言われる齢ではない。海軍に召集されたばかりに、爺さん扱いをされるのである。まだ解員された直ぐなので、自分は社会の『壮年』だという意識を取り戻せないのだ。腕には『一等水兵』のしるしをつけている。

「昨夜の嵐で、ケガしたんだ」

 若者がもの憂(う)く答える。兵長が一水に答えるつっけんどんな調子だ。私はにがい笑いを押えて、兵長の顔を横目で見ている。にがいだけではない。かすかな憎しみもある。

「繃帯(ほうたい)を上げまっしょうか。看護科からたくさん貰って来ましたんで。薬も――」

老兵はなお執拗に言葉を続ける。言葉だけでなく、自分の衣囊の紐(ひも)を解こうとする。老兵と若者は、齢がずいぶん違う。親子ほども違う。年若の者に対するいたわりなのか。それとも旧上級者への阿諛なのか。

「よせよ」

 私は傍から口を出した。

「折角もらって来たんだろう。家まで持って帰れよ」

「でも――」

 老兵は私の顔を見て、おどおどと答える。体に似合わないぶくぶくした略服を着ている。今年になって召集されたのだろう。

 昭和二十年の初めから、陸海軍は兵員数をふやすために、競争で民間人をごしごしと召集した。その結果、若いのは狩りつくして、三十代の後半や四十過ぎたのも召集された。彼等はおおむね体力が弱い。強いのはとっくの昔に召集されていたからだ。そこで体力のない老兵たちは何をしたか? 自分たちの居住する壕掘りなどに使役され、掘り終らないうちに戦は終った。結局彼等はたいてい、軍隊の飯を食い棒で尻をたたかれただけで、ほとんど何もしなかったということになる。ムダなことをしたもんだ。

「でもも、へったくれも、ないだろう」

 私はすこし語気荒く言った。

「娑婆に戻れば、繃帯なんかは貴重品だぜ。なかなか手には入らない」

「へい」

 はい、と、へえ、の間のような答え方をした。

「では、やめときます。兵曹」

 解いた紐をまた結び直した。木田兵長はうすら眼で、それを見ている。私は兵曹だから、兵長より位が上だ。老水兵が私の勧告に従うのは、当然である。そういう計算を見通して、私は口を出したのだ。兵長は血に汚れた鉢巻に手を触れた。明かに新しい繩帯を欲しがっていた。――

 

 私、三十歳。昭和十九年六月一日召集。兵隊で一年ほど過ごし、下士官志願。二十年五月海軍二等兵曹となる。陸軍の位に直すと、伍長だ。

 なぜ下士官を志願したか? 兵の生活がつらかったからである。なぜつらかったか? 甲板掃除や、夜の罰直があったからである。

 召集されたのは、二十九歳で、当時私は老兵だった。(昭和二十年になると、三十代、四十代が召集されて来で、私も老でなく、中年増(どしま)ぐらいになったが)現役や志願の兵隊といっしょに働くのは、ムリであった。いや、働くのはそうムリでなかったが、軍隊の持つ不合理さに耐えるのに苦労をした。

 海軍は陸軍と違って、合理的な軍隊だと思っていたら、入団早々おかしなことにぶっつかり、呆れた。入団当日吊床(ハンモック)のくくり方を習い、その夜それに寝る。翌朝、かけ声がかかった。

「総員起し五分前」

 だから私は吊床から降りて、くくり始めた。すると下士官が飛んで来て、いきなり私をぶんなぐったのだ。

「なぜ起きるんだ?」

 なぜなぐられるのか、私には判らなかった。説明によると、総員起しで起きるべきであって、五分前には起きてはいけないんだそうである。早起きしてほめられるかと思ったら、その逆であった。しかしかけ声で眼が覚める。五分間じっとしておれというのは、どうにも理解出来なかった。

 甲板掃除も、そうだ。

 甲板というのは、軍艦の甲板だけでなく、陸上の兵舎の床のことも言う。それを水兵たちが掃布(そうふ)というもので、しゃがんで、あるいは尻を立てて拭き上げる、もっとも原始的な掃除の仕方をやる、そんなことをせずに、水をざあっと流して機械で拭き上げるとか、電気掃除機のように塵埃を吸い取るとかすればいい。当時の科学の精粋みたいな軍艦でも、そんなバカなことをやっていた。それが私には理解出来なかった。水を含んで重い掃布を、大正時代の下宿の女中さんのように尻を立て、端から端まで押して走る。二十年の初めに、私は指宿(いぶすき)航空隊に通信兵としていたが、そこでの勤務が一番つらかった。数年前に心覚えに書きとめた文章がある。それを記すと――

 薩摩半島というのは、日本本土のだいたい最南端にあって、その中でも指宿は内海に面している関係上、冬でも寒さ知らず、温泉がわき熱帯植物が生え、雪なんかは見たことがない別天地だという風に、近頃の新聞に書いてあった。ホントかね、と私は疑う。

 実は私は戦争中、一冬を指宿で過ごしたことがある。もちろん避寒や疎開でなく、兵隊として行ったのだ。寒かった。

 しかし兵隊生活がラクでなかったのは、寒さのためだけではない。まず勤務がつらかった。ふつう通信科の勤務は三交替制、たとえば三時間勤務すれば六時間休みという具合だったが、ここは二交替制で、当直の時間は二十四時間だ。つまりきょうの正午に当直につけば、翌日の正午までぶっつづけに働くのである。夜間は交替に暗号室に毛布をしいて眠る。しかし時間が来たからといって、兵曹だの兵長だのを揺り起せば、たちまち彼等は機嫌を悪くするので、われわれ一等水兵は遠慮して、彼等のぶんまで起きで勤務する。そんな事情で徹夜となることが、しばしばであった。三十歳だから身体がもったが、今ではとても出来ないことだ。

 では、二十四時間働いて、次の二十四時間は休養かというと、そうは問屋がおろさない。兵隊に休養というものはないのだ。いろんな仕事がある。たとえば甲板掃除だ。朝夕二回やる。オスタップ(大きなたらいのこと)に水を入れ、えっさえっさと運ぶ。掃布という雑巾の親玉みたいなので、床をこすって廻る。冷たい水なので、手足はひびあかぎれだらけになった。[やぶちゃん注:「オスタップ」wash tab(洗浄用バケツ)の訛った日本海軍の隠語。]

 それに掃除面積がやけに広かった。電信室、暗号室、居住区その他。あの部隊は何でも大ぶりに出来ていて、電信室などはちょいとした雨天体操場ぐらいもあった。兵長の号令一下、四つんばいになって重い掃布を端から端まで押して行く。呼吸が苦しくて膝ががくがくとなる。すると兵長が叫ぶ。

「マ、ワ、レエッー」

 すなわち廻って、同じ姿勢で戻って来ねばならぬ。途中でへばりでもしようものなら、兵長の持った頑丈(がんじょう)な棒が、尻に飛んで来る。

「何であんな掃除の仕方をやらせるんだろうなあ」

 私は相棒の老兵としばしば訝(いぶか)り、嘆き合ったものだ。清潔にするというより、下級兵士をいじめるためにその方法が考案されたとしか、考えようがない。

 夜の掃除が終って巡検、それで眠れるかというと、そうでない。それからがたいへんだ。居住区の甲板にわれわれを整列させ、兵長が文句を言う。長々と紋切型の説教をする。どこの部隊でも決り文句だったから、明治大正の頃から次々に言い伝えられたものに違いない。揚句(あげく)の果てに、

「きさまたち、やる気がないなら、やるようにしてやる!」

 一人ずつ順々に前に出て、兵長から棒で尻をなぐられる。その棒を海軍精神注入棒と称し、野球のバットみたいなもので、バットより少し長めに太めに出来ていた。

 筋骨たくましい兵長がそれを振り上げ、力任せに振りおろすのだから、その痛さは言語に絶した。その日の兵長の心境によって、三本ぐらいで済むこともあるが、十本もなぐられることもある。尻に紫色のあざの絶え間がなかった。

 棒でなぐるのは、手でなぐるより、拳を傷めない。その点では合理的だが、なぐられる側からすると、犬や猫じゃあるまいし、非合理極まる私刑だった。

 そこに年齢の間題が加わる。

 兵長は、志願で来ると二十歳、現役でも二十二三ぐらいである。三十にもなって、そんな青二才から尻をなぐられる。死んだ気になって勤めてはいたが、やはり私にも体力の限界がある。

「畜生。何も知らないくせに、おれの尻を叩きやがって!」

と、いつも思う。

 実際彼等は世間のことを何も知らなかったし、想像力というものを持っていなかった。齢が三十だろうと四十だろうと、自分たちと同じように働ける、手足が柔軟に動かせると思い込んでいた。そこでわれわれが出来ないのは、努力していない、怠けていると考えるのだ。そこに思い違いがあった。

 年齢の問題には、自尊心もからまって来る。

 現役の兵隊は、二十一か二十二で、上等水兵になる。この連中が志願兵の二十ぐらいの兵長からしめ上げられる。一つか二つの年下の兵長から叩かれて、彼等は無念の涙を流して、口惜しがる。

 そんなに口惜しいなら、十歳も違う私たちをどうして呉れるんだと言いたいけれども、かえって一二歳違う方が口惜しく、我慢出来ないのかも知れない。

「早く兵長になりてえなあ」

というのが彼等の嘆きで、

「その時は志願兵の若いのを、一人残らず叩きのめしてやる!」

 そこが私たちと考えの違うところで、私は兵長になって人をたたきたいなどと、ケチな考えは絶対に持たなかった。三十にもなって、十八九の子供のような新兵を叩いたって、仕方がないではないか。

 

 以上のように海軍の年齢は、海軍に入った年月日できまるのであって、世間での年齢は通用しない。私たちは世間の年齢は多かったにもかかわらず、『若い兵隊』と呼称されていた。老兵にして若い兵隊であるとは、妙な話だが、実状はそうだった。

 一箇月でも半月でも、早く入った方が上なのである。

 そこで妙な経験をした。

 防府海軍通信学校で、私たち老兵は一隊となり、暗号の講習を受けていた。別の棟には志願兵の一隊がいた。もうこの頃は十五六歳から志願を受けつけていたのだろう。子供子供したのが多くて、隊は違うけれど洗面所や烹炊所で、時々いっしょになる。

 初めの中、その少年たちはわれわれに敬意を払っていた。齢をとっているので、よほど偉く思っていたらしい。話しかけると、

「ハイ」

「ハイ」

 と直立した姿勢で答える。

 ところがある日、少年たちはわれわれの入団日が六月一日であることを知った。私の仲間がうっかりしゃべったらしいのである。俄然(がぜん)少年兵たちの態度が変った。

「おれたちは五月二十五日に入ったんだぞ」

「六月一日(いっぴ)の兵隊のくせに、大きな面をするな」

 と、洗面の場所もゆずって呉れないし、烹炊所での受取りもあと廻しにされる。私たちはあきれて、慨嘆した。

「たった五日先に入っただけで、あんなに威張るのかねえ」

「一体どういう気持だろう。あいつらは」

 まあそれはそれでよかった。海軍での屈辱に私は慣れ始めていたし、不合理を言い争う気分にはなれなかった。

 ある日のことだ。私たちと少年兵たちとは、入浴の時間が、いつもはかけ違っていたが、何かの都合でいっしょになったことがある。私は少年兵たちの裸を見て、内心アッとおどろいた。彼等の大半は、下半身が無毛だったのだ。無毛症なのではない。体が未成熟で、まだ生えていなかったのである。

 毛も生え揃わぬ青二才、などという言葉があるが、そんなのからお前呼ばわりされている。その違和感というか哀しさというか、それが先ず来た。こちらの体は浮世の辛酸(しんさん)をなめ尽しているのに、あいつらの体は蠟燭みたいにのっぺりして、苦労の跡がないじゃないか。

 海軍年齢とは、かくの如くバカバカしいものであった。これは銘記されていい。仕事の能力とは関係ないのだ。もっとも現今においても、官公署や会社の序列は、年齢順にはなっていないようだが、海軍にくらべるとまだマシだ。

 で、私は下士官になった。暗号の下士官だ。

 下士官になってほっとしたのは、甲板掃除や飯運びをしないですむ。それよりも棒でぶんなぐられずにすむことであった。尻なぐりはもっぱら兵長がやるので、いかな兵長でも私に手を出すことは出来ない。

 軍隊では士官と下士官、下士官と兵とは、はっきりした区別があって、兵同士のいさかいは隊内で処理されるが、兵と下士官ではそう行かない。うっかりすると抗命罪ということに問われるらしい。

 ちやんと敬礼もしなけりゃいけない。しなきや欠礼ということになる。

 その点で兵長たちが口惜しがり、かげ口をきいていることを、私は知っていた。

「あいつは十九年六月入りのくせに、いっぱしの下士官面をしやがって!」

 部下の一水や上水にも、いろんな性格の者がいて、そう告げ口をして来る。告げ口する性格の人間をあまり好きでないが、その言はたいへん参考になる。

 生理的年齢や精神年齢において、私は彼等よりずいぶん上なので、上官になるのは当然のようなものだが、どうも彼等は海軍ぼけがしているとしか思えなかった。

「娑婆(しゃば)に出て見ろ。お前たちはチンピラで、三十代、四十代の今いじめている老兵たちには頭が上らないんだぞ」

 と思う。思うが口には出さない。出しても判るような相手ではない。

 他の下士官とも微妙な隔てがあった。他のは皆二等水兵から営々と勤め上げ、今は下士官になっている。下士官になると一応分別もつくから、直接私に当りはしないが、とかくのけ者にする気配がある。海軍年齢の若さにこだわっているのだ。

 戦争中江田島出の士官と、学徒出の予備士官と確執があった。それに兵隊から上って来た特務士官も加わって、心理的にスムーズに行かないという事情があったようだ。士官たちの世界はその頃私と関係なかったし、知りたい興味もなかった。戦後、手記や小説で読んだだけである。今思うに、私と他の下士官との関係は、特務士官対予備士官の関係、それに近いものがあったかとも思う。[やぶちゃん注:「特務士官」海軍の学歴至上主義のために大尉の位までに制限配置された後になって設けられた準階級で、叩き上げの優秀なエキスパートであっても、将校とはなれず、将校たる正規の「士官」よりも下位とされた階級。兵曹長から昇進した者は海軍少尉ではなく、海軍特務少尉となった。]

 ただ違うのは、私が部隊で一人であり、他の下士官はたくさんいた。対立するような人数が揃っていなかった。たとえばどちらも集団で、十人対十人なら、かならず確執が起きる。それが哀しい人間の宿命である。

 しかし私の場合、相手は何人もいるが、こちらは一人である。だから確執までには至らなかった。

 終戦の日、私が降伏を知ったのは、午後六時である。ラジオで天皇の放送があるのは知っていたが、眠さが先に立って、居住壕の寝台で正午から六時まで、ぐっすりと眠ってしまった。六時から暗号の当直に立つ。暗号室に入って、暗号控えを見ると『終戦』という文字が突然眼に飛び込んで来て、びっくりした。掌暗号長に、

「戦争は終ったんですか?」

と聞いた。

 掌暗号長は特務士官である。特務士官というのは、水兵から順々に進級して下士官となり、準士官を経て、士官となる。そこで年齢も三十を越えている。思うに敗戦で一番ショックを受けたのは、特務士官ではなかっただろうか。

「そうだよ」

 掌暗号長は妙な笑い方をして答えた。あの笑いには、無量の感慨がこめられていたに違いない。

「終ったんだよ。海軍はなくなってしまうんだ。しかし他の連中には言うな」

 私は自分の机の前に腰をおろした。五分ほど暗号控えをめくっている中に、何か耐え難くなって、掌暗号長に便所に行くと断り、外に出て、居住壕に駆け帰った。駆け帰ったけれども、何もすることはない。居住壕の一番奥に、べンチが設いてある。そこに電信科の下士官がぼんやりと横になっていた。私の顔を見て言った。

「戦争、負けたんだって?」

る。

「そうですよ」

「アメリカ軍が上陸して来たら、日本の軍隊はどうなるんだ?」

「武装解除ということになっています」

 敗戦や武装解除の件は、口外禁止と掌暗号長に念を押されたが、私はしゃべってしまった。口外禁止と言っても、すぐ知れ渡ることだし、かくしおおせるものでない。

「武装解除、か」

 と、下士官は答えた。あとで思うと、武装解除という言葉を、武器を捨てて解散という風には取らず、アメリカ軍の前に一列に並んで武器をもぎ取られるという風に解釈したらしい。無念げな表情で、眼をつむった。それで私は暗号室に戻った。戻りながら、三十歳という年齢が、にわかに自分に戻って来るのを感じた。

「戦争が済んだ。もうおれは若い兵隊でもないし、若い下士官でもない」

 

 翌日になった。朝、暗号や電信の下土官たちが、壕の奥で何かひそひそ話をしている。私がそこに顔を出すと、昨日の下士官が言った。

「梅崎二曹はいいなあ。娑婆へ戻れば、会社の課長か何かだろう」

 ひそひそ話は、この後の身のふり方について、相談でもしていたらしい。そこに私が現われたので、早速そ言葉が飛び出したのだろう。

 私は笑って答えなかった。

 復員しても、私は課長なんかではない。しかし、

「私は諜長ではないですよ」

 と弁解するのも変だし、黙っている他はなかった。私は学校出ではあったが、下っ端の役人だった。それを説明したって、彼等のなぐさめにはならなかっただろう。

 その夕方のことだ。

 私が暗号の当直に立つために暗号室に入って行くと、私の前の当直長の木田兵長というのが、顔をまっかにして当直の兵隊を怒鳴りつけている。木田は日頃無口な男だが、何かかんかんに怒っているようだ。この木田は志順兵でなく、現役兵である。私は当直が違うので、ほとんど会話を交したことがない。

 木田は私と会っても、敬礼をしたことがない。そっぽ向いてしまう。とがめようと思えば、とがめることが出来るが、私はそうしなかった。二十二三の若者とはり合っても仕方がない。

「この中に軍機を洩(も)らしたやつがいる!」

 木田は海軍精神注入棒で地面をたたきつけた。兵隊はしゅんとなっている。

「日本軍が武装解除されると、しゃべったやつはどこにいる!」

 私を横目に見ながら、そう怒鳴った。あきらかに私を意識している。昨日電信の下士官にしゃべったことを、私は思い出した。あの下士官がまた別の男たちに、言い触らしたのだろう。木田はその下士官から、元兇は私であることを、探り出したに違いない。

「さっき設営の応召兵が、おれんとこに聞きに来た」

 武装解除はほんとかどうかと、老兵が聞きに来たということらしい。なぜ木田が今怒鳴っているかというと、丁度(ちょうど)当直の交替時刻で、私が暗号室にやって来るのを予期していたのだ。

「しゃべったのは、どこにいる!」

 木田はさらに声をはり上げた。

「覚えのあるやつは、立て! 軍機を洩らしたやつは、おれが今ぶってやる。上官であろうと何であろうと、おれはそいつを徹底的にぶちのめしてやるぞ!」

「木田。もういいじゃないか。やめろ!」

 今まで黙って聞いていた掌暗号長が顔を上げて、木田をにらみつけた。

「上官であろうと何であろうととは、何ていう言い草だ。たかが兵長のくせに、言葉が過ぎるぞ!」

 私は黙って椅子に腰をかけていた。心の中で考えていた。木田よ。そんなに気違いのように怒ることはないじゃないか。お前だって志願で入ったんじゃなく、徴集で入ったんだろう。つまり海軍が好きではなく、無理矢理に引っぱられたのだろう。だからお前は志願兵にいじめられて、ひねくれたんじゃないか。海軍を好きでないという点では、お互いさまだ。被害者同士がどうして傷つけ合わねばならないのか。木田よ。よく考えろ。

 私は木田の顔を見た。木田は私に向って、にらむような目付になった。そして何か言い出そうとして、周囲を見廻した。掌暗号長や兵隊の眼が、にがにがしげに、恨めしげにそそがれる。彼はがっくり来たらしい。表情を突然くしゃくしゃに歪め、精神棒を地面にごろりと放り投げ、急ぎ足でとっとっと壕を出て行った。くしゃくしゃにした瞬間、涙がきらりと木田の眼に光るのを、私は見た。

「仕様がないな」

と私は言って、精神棒を拾い上げ、壕の外に出て、谷底に力まかせに投げ込んでやった。棒は急斜面をごろんごろんと転がって、夏草の中に見えなくなった。軍機を洩らした件は、それでうやむやになってしまった。

 

 で、復員列車で私の前に腰かけているのが、その木田兵長なのである。網棚から降りて来た時、私がいるのを見て、木田は、しまった、というような表情を見せた。それから急につらそうな態度となり、とろんとした眼をあけたり閉じたり、窓外を眺めたりしている。

「おい。兵長」

 やがて私は木田に話しかけた。

「頭は何でやられたんだ?」

 木田は黙っている。さっき繃帯(ほうたい)のことで、いやがらせをされたと思っているのだ。私はさらに強く言った。

「返事しないのか。お前、口はないのか?」

「瓦(かわら)です」

 木田は不承不承口を開いた。

 昨夜の嵐はひどかった。私は頑丈な空家に入って一夜を無事に過ごしたが、戸外では瓦や板やトタンが飛び交い、また家が倒れたりして、怪我人が何人も出た。木田も飛び来る瓦に頭を打たれたのだろう。眼がうるんでいるところを見ると、たしかに発熱している。出来れば早く手当をする必要がある。ただし自前でだ。老兵が繃帯を提供するのは、私は許せない気持になっている。

「瓦か。お前の家はどこだ」

「え。耶馬渓(やばけい)の近くです」

「じゃ中津で乗り換えだな。早く家に戻って、頭の手当をしろ。お前、繃帯持ってないのか」

 木田は黙っている。それが怪しかった。

「持ってるな。看護科から貰った筈だ」

 彼は私を見た。うなずいた。

「なぜ自分で取っ替えないんだ。戦争が済むと、兵長もヘったくれもないんだぞ」

 初めはゆっくり話し合うつもりだった。口をきいている中に、だんだん気持が折れ曲り、いこじになって来るのを感じる。大人気ないと思いながらも、そうなってしまう。

「お前、齢はいくつだい?」

 木田は眼を据えた。

「二十三です」

「そうか。おれは三十だ。そしてこのおっさんは――」

 私は老兵をかえりみる。老兵は勢こんで答えた。

「わたしは三十九ですたい」

「こちらは三十九だ」

 私は木田の顔から視線を離さず、そう言った。

「お前は終歌の翌日、暗号室で大いばりでわめいていたじゃないか。あれはどんなつもりだね?」

「いばっているのは兵曹の方じゃないですか」

 木田は口借しげに言い返した。

「何でそんなにいばってんです?」

「三十だからだ。お前より七つ齢上だからだ」

 私はすこし無茶を言った。

「何ならお前をひっぱたいてやろうか。顎を出せ。すったくってやる!」

 バカなことを言っているな、と自分でも感じながら、言った。木田の方から殴りかかるかも知れない。そう思って身構えた。

 木田はゆっくりと車内を見廻した。近くに下士官や兵が乗っている。興味探そうにこちらを見ている。木田は顔を元に戻した。うるんだ眼から、突然涙があふれ出た。彼は顔をおおって泣き出した。私にはそれが意外だった。自己嫌悪がまっくろに胸にひろがって来た。――それから中津までの一時間、木田は泣きじゃくっていた。中津駅で泣きやむと、悄然(しょうぜん)と窓から歩廊に出て行った。

 今思っても、気の毒なことをしたと思う。

[やぶちゃん注:「耶馬渓」大分県中津市にある山国川(やまくにがわ)の上・中流域及びその支流域を中心とした渓谷。日本三大奇勝として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中津」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「乗り換え」当時は大分交通耶馬渓線(旧耶馬渓鉄道。この敗戦の年の四月に合併して改称していた)が中津駅から耶馬渓へと連絡していた。昭和五〇(一九七五)年に全線が廃止され、現在は存在しない。]

2020/09/04

甲子夜話卷之六 19 神祖、駿城御坐のとき、遊所ゆきのことに付上意

 

6-19 神祖、駿城御坐のとき、遊所ゆきのことに付上意

神祖の駿城に坐ましける頃、若き御旗下の面面、とかく二丁町と云花柳ある處に夜々參るよしを、板倉防州聞へ上しかば、上意に、二丁町に參るもの共、定めて夜は寐ずあるべし。さすれば何かの時は直にかけつけて味方はすべき也。夫式のことは捨置べしとの仰なりしとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「御坐」「おまし」。

「旗下」「はたもと」。

「二丁町」(にちうやうまち)「と云」(いふ)花柳」(くわりゆう)は駿府にあった二丁町遊郭のこと。ウィキの「二丁町遊郭」によれば、現在の静岡市葵区駒形通五丁目(グーグル・マップ・データ)付近で、静岡県地震防災センターがある辺りとある。『大御所徳川家康の隠居の地である駿府城下に造られた幕府公認の遊郭で』、一『万坪もの広大な面積を誇っていた。後にその一部は江戸に移され、吉原遊廓になった。蓬莱楼など代表的な遊郭は明治時代以降も続いた』。天正一三(一五八五)年、『徳川家康が終焉の地を求めたとき、今川家の人質として幼少から青年期にかけての多感な時代の大半を過ごした地であること、東西の要衝であること、家康がこよなく愛したと言われる富士山が目前であることから、駿府築城を開始した。築城時に全国から家康側近の大名や家臣をはじめ武士、大工方、人夫、農民、商人などが大勢集まっていた。その者達の労をねぎらうために遊女や女歌舞伎も多く集まっていた。しかし、彼女等を巡っての争い事が絶えず、ついには、大御所家康も見るに見かねて遊女と女歌舞伎の追放を命じた。そこに、老齢のため隠居の願いを出していた徳川家康の鷹匠である鷹匠組頭、伊部勘右衛門なる者が』、『自身の辞職を理由に遊郭の設置を願い出ると、大御所家康は事の次第を察してか、その願いを聞き入れた。勘右衛門は現在の安倍川近くに』一『万坪の土地を自費で購入し、故郷である山城国(京都府)伏見から業者や人を集め、自身も「伏見屋」という店を構えた。これが幕府公認の遊郭の始まりである』。『後に、町の一部を江戸の吉原遊廓に移したので、残った町がいわゆる「二丁町」と呼ばれ、全国に知られた静岡の歓楽街になった』。『駿府城下には町が』九十六『か町あり、その内』七『か町が遊廓であった。その内の』五『か町分が江戸へ移り、残った』二『か町が二丁町の由来ともいわれる。『東海道中膝栗毛』にも登場する』が、『空襲で焼失し、今ではその名残すら見えないが、存在を確かめることができる稲荷神社』(ここ。グーグル・マップ・データ)『が僅かながらにひっそり佇んでいる』とある。

「板倉防州」板倉重宗(天正一四(一五八六)年~明暦二(一六五七)年)。駿河国生まれで板倉勝重の長男。下総国関宿藩藩主。秀忠の将軍宣下に際して従五位下周防守に叙任され、大坂の両陣に従軍。書院番頭を経て、京都所司代となり、父勝重とともに名所司代として知られた。

「聞へ上しかば」ママ。「聞こえあげしかば」。「言ひ上ぐ」の謙譲語。申し上げる。

「直に」「ただちに」。

「味方すべき也」護衛に着くことが出来ようほどに。

「夫式」「それしき」。

「捨置べし」「すておくべし」。

甲子夜話卷之六 18 文化の御製幷近世京都紳の秀逸

 

6-18 文化の御製幷近世京都紳の秀逸

林氏云。京紳の歌も、近世は多くは依ㇾ樣畫胡廬の類なり。偶々人の傳るを聞中、秀逸とも云べきは耳底に殘りて、忘れたくも忘れられず。これぞ名歌とも云べき。

   春江霞     文化十二年 御 製

 月花の影も匂ひもこめてけり

      霞あやなす春の入江は

   落花        閑院美仁親王

 のどかなる春日なれども櫻花

      ちる木のもとは風ぞ吹ける

   五月雨

 さみだれのふるやのゝきにすくふ蜂の

      晴まを待てたゝんとやする

   春月       西洞院風月入道

 櫻には霞かねたる影見えて

      花より外は春のよの月

   郭公       裏松入道固禪

 いざゝらば月も入りけりほとゝぎす

      夢に待夜の枕さだめむ

   月前時雨     前中納言實秋

 床寒き寐覺の友の窓の月

      またかきくもりふる時雨哉

   月前雁

 雲霧もなくそら高くすむ月の

      南に向ふはつかりの聲

   夜雨

 つれづれの雨もいとはじあすは猶

      花の木のめやはるの手枕

■やぶちゃんの呟き

「林氏」お馴染みの林述斎。

「依ㇾ樣畫胡廬」「樣(やう)に依りて胡廬(ころ)を畫(ゑが)く」。決まりきった様式に従って瓢簞(ひょうたん)を描く」という凡庸なマニエリスムから、「手本の通りにだけ行って、少しも工夫されていないこと」を揶揄する故事成句。「胡蘆」が普通。小学館「日本国語大辞典」によれば、宋の太祖は、尚書陶穀の起草した制誥(せいこう)詔令(詔勅に同じ)は「様によって胡蘆を描くものだ」として重んじなかったので、穀は「堪ㇾ笑翰林陶学士、一生依ㇾ様画葫蘆」と詠じて自嘲したという「続湘山野録」などに見える故事からとし、『様式にのみたよって、真実みのない外形だけの瓢箪の絵を描く意で、表面の形状、先例の通りをまねて何ら独創的なところがないことのたとえ』とある。

「文化十二年 御 製」光格天皇(明和八(一七七一)年~天保一一(一八四〇)年/在位: 安永八(一七八〇)年~文化一四(一八一七)年)。

「閑院美仁親王」閑院宮美仁親王(かんいんのみやはるひとしんのう 宝暦七(一七五八)年~文政元(一八一八)年)。歌道に造詣が深かったという。

「西洞院風月入道」公卿西洞院時名(にしのとういんときな 享保一五(一七三〇)年~寛政一〇(一七九八)年)。風月は号。従五位上・少納言・備前権介を経て桃園天皇に仕える。竹内式部に師事して神道・儒学及び尊王思想を学び、朝権の回復を志したが、前関白一条道香(みちか)・関白近衛内前(うちさき)らに弾圧され、式部門下の公卿二十余名とともに処罰され、免官・永蟄居(閉門の上、自宅内の一室に謹慎させ、生涯解除を認めないもの)を命ぜられた(宝暦事件)。

「裏松入道固禪」公家で有職故実家裏松光世(みつよ 元文元(一七三六)年~文化元(一八〇四)年)。内大臣烏丸光栄(からすまるみつひで)の五男。裏松益光の養子となった。固禅は法名。思想家竹内敬持と往来があり、前注に出た「宝暦事件」に連座し、江戸幕府の忌諱に触れ、遠慮(自主的な自宅軟禁で、夜間の秘かな外出は黙認された)の処分を受け、その二年後には「所労と称し出仕致さざる事」との沙汰で永蟄居を命ぜられ、出家させられた。三十年の蟄居生活の間に「大内裏図考證」を著したが、天明八(一七八八)年に内裏が焼失し、その再建に当たって彼の著書の考證を参考とすることとなり、その功により、勅命により、赦免されている。

「前中納言實秋」不詳。

大和本草卷之十三 魚之下 和尚魚(をしやううを) (アシカ・オットセイの誤認)

 

【外】

和尚魚 三才圖繪曰東洋大海有和尚魚狀如鱉

其身紅赤色從潮水而至日本ニ坊主魚ト云海上ニ

頭ヲサシ出セハ僧ノコトシ性味未詳大魚ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

和尚魚〔(をしやううを)〕 「三才圖繪」に曰はく、『東洋の大海に和尚魚有り。狀〔(かたち)〕、鱉〔(べつ)〕のごとく、其の身、紅・赤色。潮水〔(しほみづ)〕に從ひて至る』〔と〕。日本に「坊主魚」と云ふ。海上に頭をさし出せば、僧のごとし。性・味、未だ詳かならず。大魚なり。

[やぶちゃん注寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「和尚魚(おしやういを) 海坊主」に於いて、私は「アシカ(鰭脚)亜目の水棲哺乳類」と同定した。そこで私は以下ののように理由を述べた(必ず、まず良安の本文を読まれ、挿絵を見られたい)

   *

 多くの資料がウミガメの誤認とするが、私は全く賛同できない。寧ろ、顔面が人の顔に似ている点、坊主のように頭部がつるんとしている点、一・五から二メートル弱という体長、魚網に被害を齎す点、両手を胸の前で重ね合わせて涙を流しながら命を救ってくれることを乞うかのような動作や空を仰ぐような姿勢をする点(こんな仕草をする動物、水族館のショーで見たことがあるでしょう?)等を綜合すると、私にはこれは哺乳綱ネコ(食肉)目アシカ(鰭脚)亜目アザラシ科Phocidaeのアザラシ類か同じネコ(食肉)目アシカ(鰭脚)亜目アシカ科Otariidaeのアシカ類及びアシカ科オットセイ亜科Arctocephalinaeに属するオットセイ類等の誤認以外の何物でもないという気がする。スッポンに似ているという点で付図のような甲羅を背負ってしまう訳(それがウミガメ誤認説を導くのであろう)だが、これは断じてスッポンの甲羅では、ない。実際のスッポンの形状をよく思い出して頂きたい。甲羅は厚い皮膚に覆われており鱗板(りんばん。角質板とも言い、爬虫類の鱗が癒合して板状になったもの)がなく、つるんとして平たい。また多くの種は背甲と腹甲が固着することなく、側縁の部分は一種の結合組織で柔軟に結びついている。四肢を見ると、前肢は長く扁平なオール状を呈しており、後肢は短い。さて「この私のスッポンの叙述」は恰も上に上げた水生哺乳類のイメージとかけ離れているであろうか? 私にはよく似ているように思われるのである。ちなみに「山海経動物記・三足亀」には私と全く同じような見解からアザラシやオットセイ、ヨウスコウカワイルカを巨大なスッポンと誤認したのではないかという解釈が示されている(この「アザラシやオットセイ」の部分の同サイトのリンク先「鯥魚」(ろくぎょ)も必読である)。是非、お読みになることをお薦めする。

   *

十二年前の私の見解だが、特に変更したり、新たに付け加えるべきものはない。さても、まず、明の王圻(おうき)の「三才圖會」(一六〇九年序)の「鳥獸六卷 鱗介類」の原本の図説を国立国会図書館デジタルコレクションの画像こちらからダウン・ロードしてトリミングしたものをここに示す。

Kokuritutosyokanosyouuo

本文を電子化する。

   *

 和尚魚

東洋大海有和尚魚状如鱉其身紅赤色從潮水而至

   *

良安も総て引いているが、やや違うので、私が訓読し、漢字を正字化したものを示す。一部に私が歴史的仮名遣で読みを振った。

   *

 和尙魚(をしやううを)

東洋の大海、和尚魚、有り。狀(かたち)、鱉(べつ)のごとく、其の身、紅赤色。潮汐(ちやうせき)に從ひて至る。

   *

「鱉」は音「ベツ」で、漢字としては「鼈」と同じで所謂、スッポン(爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis:現在の同種の中文名は「中華鱉」である)のことである。良安も本文では(字のスレでよく判らぬのだが)「ス本」(すぽん)とルビを振っているように見える。

「紅赤色」に異論を唱える方がいるかも知れぬが、アシカは全身が黄褐色から焦茶色と多様で、特に♀は黄赤への偏差が強く、オットセイの成老個体では灰赤褐色を呈する。特に海中から上がって乾燥すると、彼らの体毛はより赤みがかって見える。]

金玉ねぢぶくさ卷之四 若狹祖母 / 金玉ねぢぶくさ卷之四~了

 

     若狹祖母(わかさばば)

 

Wakasababa

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」の挿絵をトリミングした。]

 

 若狹・越前・加賀・能登・越中、五ケ國の間をはいくわいして、住所をさだめぬ一人の祖母、有〔あり〕。齡(よはひ)五十ばかりに見へて、かしらは蓬(よもぎ)のごとし。眼中は靑く光りて、歯は一まいもおちず。あゆむ事、はやうして、龍馬(りうめ)もおよばず、ちから、つよふして、頭(かしら)に二石の米を戴き、はしる時は、飛(とぶ)鳥を抓(つか)み、怒(いか)るときは、狐狼・惡獸も恐る。さるによつて、不斷、山中(〔さん〕ちう)に住み、人とまじはらず。數(す)百歲いきて、おのれも年をしらず。冬はおく山に住(すん)で、かたちを人に見せず、夏は里近ふ出〔いで〕て、おりおり、見る人あり。かれは人を恥(はぢ)、人はかれをおそる。仙女にもあらず、山姥(〔やま〕うば)にもあらず。若(もし)人にあへば、なつかしげに見おくり、五年・十年に一度づゝ、人にちか付(づい)て物語する事あり。ふるき世の事をとへば、むかしより越路(こしぢ)にすむと見へて、先〔さき〕は「太平記」時代の兵亂(ひやうらん)、別して金(かね)が崎(さき)の落城(らくじやう)、一宮(〔いち〕のみや)親王、幷(ならびに)新田(につた)の一族自害、由良(ゆら)・長はま・阿蘇の大宮司がひるひなき働(はたらき)等(とう)、今、見るやうに物語す。依(よつ)て、世の人、瓜生判官(うりふはんぐわん)が老母(らうぼ)のなれる果(はて)といへど、左(さ)にはあらず。

[やぶちゃん注:「祖母」ここは世間一般の祖母ほどの見える年老いた女の謂い。

「はいくわい」「徘徊」。

「龍馬(りうめ)」ルビはママ。非常にすぐれた馬。駿馬 (しゅんめ) 。現代仮名遣で「りゅうめ」なら「りゆうめ」、「りょうめ」なら「りようめ」である。一般にこの意味の場合は孰れにも読む。なお、この意味では「馬」は「ま」とは読まないのが普通である。

「二石の米」米一合は百八十ミリリットルで重量は百五十グラム、米一升(一・八リットル)は重量にして二キログラム、米一石は米一合の一千倍だから百五十キログラムだから、この婆さん、頭上に三百キログラムを載せることが出来るということになる。

「山中(〔さん〕ちう)」ルビはママ。「中」は「ちゆう」でよい。

「おりおり」ママ。

「山姥(〔やま〕うば)」或いは「やまんば」と訓ずる(「やまおんな」という読みもあるが、私は一度もそう読んだことはない。個人的には「やまんば」で読む)。伝説や昔話で一般には奥山に棲んでいるとされる女怪で、背が高く、髪が長く、口は大きく、目は光って鋭いなど、醜怪な老婆として造形されることが多い。

「金が崎の落城」南北朝の延元元/建武三(一三三六)年)から翌年三月にかけて、越前国金ヶ崎城(グーグル・マップ・データ。現在の福井県敦賀市金ケ崎町(かねがさきちょう))に籠城する新田義貞率いる建武政権残党軍(後の南朝方)の軍勢と、それを攻撃する斯波高経率いる室町幕府北朝方の軍勢との間で行われた戦い。ウィキの「金ヶ崎の戦い」によれば、『後醍醐天皇の建武政権と足利尊氏の間に発生した建武の』兵『乱は、初め南朝が優勢で尊氏を九州に追いやったが、同地で再起して本州に上陸した尊氏に』、延元元/建武三(一三三六)年五月の「湊川の戦い」、続く同年六月から八月にかけての第二次の京都合戦で『大敗し、比叡山に逃れた。さらに建武政権軍は』、翌九月の「近江の戦い」でも敗れ、十月十日を以って『建武政権は足利氏に投降し』、『崩壊した』。『一方、新田義貞と弟の脇屋義助は、後醍醐天皇の二人の皇子恒良』(つねよし:後醍醐天皇の選んだ皇太子。母は後醍醐の寵姫阿野廉子)『親王と尊良親王や』、『公家の洞院実世』(とういんさねよ:太政大臣洞院公賢の子。従一位・左大臣。北畠親房・四条隆資・二条師基とともに南朝の重鎮として政務を指導した)『らを伴って下山し、北陸を目指した。寒中の木ノ芽峠越えにて多数の犠牲者を出したものの、氣比神宮の宮司である気比氏治に迎えられ』、十月十三日、『越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入城した。後醍醐天皇もまた』、『和睦直後に京都を脱して吉野へ逃れ』、延元元/建武三年十二月二十一日(一三三七年一月二十三日)を以って南朝を創始している。『義貞の入城直後、越前国守護斯波高経』(足利氏の有力一門斯波氏(足利尾張家)第四代当主)『が率いる北朝方は金ヶ崎城を包囲した。高経は、守りの堅い金ヶ崎城を攻めあぐね、兵糧攻めを行』い、翌年(延元二/建武四年)、『尊氏は高師泰』(こうのもろやす)『を大将に各国の守護を援軍として派遣し、金ヶ崎城を厳しく攻め立てた。杣山』(そまやま)『城の脇屋義治、瓜生保』(うりゅうたもつ:後注参照)『らは援軍を組織し』、『包囲軍に攻撃をかけるが、救援に失敗。新田義貞、脇屋義助、洞院実世は援軍を求めるため、二人の皇子と新田義顕』(義貞の長男)『らを残し、兵糧の尽きた金ヶ崎城を脱出したが、再び金ヶ崎城へ戻ることはできなかった』。三月三日、『北朝方が金ヶ崎城に攻め込』み、『兵糧攻めによる飢餓』(その凄惨は「太平記」巻第十八「金崎の城落つる事」に『射殺され伏したる死人の股(もも)の肉を切つて、二十餘人の兵ども、一口づつ食うて、これを力にしてぞ戰ひける』とあり、また「梅松論」には『此城に兵粮盡て後は馬を害して食と』するまでになり、遂には『生きながら鬼類となりける。後生、をし計られて哀なり』と記す)『と疲労で城兵は次々と討ち取られ』、三日後の六日に落城、『尊良親王・新田義顕は自害し、恒良親王は北朝方に捕縛された』とある。

「一宮親王」後醍醐天皇第一皇子であった尊良親王。母は二条為子。

「新田の一族自害」ウィキの「新田義貞」によれば、延元三/建武五(一三三八)年閏七月、『義貞は越前国藤島(福井市)の灯明寺畷にて、斯波高経が送った細川出羽守』らの『軍勢と交戦中に戦死した(藤島の戦い)』。『その戦死の顛末は『太平記』に詳しく叙述されている。義貞は、燈明寺』『で負傷者の状況を見回っていたが、斯波高経に所領を安堵された平泉寺の衆徒が篭城する藤島城で自軍が苦戦していると聞き、手勢』五十『騎を率いて藤島城へ向かっていたところを、黒丸城から出撃してきた細川出羽守』『らが率いる斯波軍』三百『と遭遇』、細川『勢は、弓を携え、楯を持った徒立ち』(かちだち)『の兵を多く連れていたため、新田勢は直ちに矢の乱射を受けた』。『楯も持たず、矢を番える射手も一人もいなかった義貞』勢は、『軍勢に包囲されて格好の的となってしまった』。『この時、中野宗昌が退却するよう義貞に誓願したが、義貞は「部下を見殺しにして自分一人生き残るのは不本意」と言って宗昌の願いを聞き入れなかったという』。『矢の乱射を浴びて義貞は落馬し、起き上がったところに眉間に矢が命中』、『致命傷を負った義貞は観念し、頚を太刀で掻き切って自害して果てたという』。享年三十八とされる、とある。但し、以上の通りで、ここで新田一族が自害して果てた訳では、勿論、ない訳で、この謂いにはやや誤解を齎す点で問題があるウィキの「新田氏」によれば、『義貞の戦死後、三男新田義宗が家督を継いだ。足利家の内乱である』「観応の擾乱」(正平五/観応元(一三五〇)年~正平七/観応三(一三五二)年)に『乗じて異母兄の新田義興と共に各地を転戦、一時は義興が鎌倉の奪還を果たすが』、『巻き返され、足利基氏・畠山国清らによって武蔵国矢口渡で謀殺されると』、『劣勢は増すばかりとなった。義詮、基氏が相次いで没すると、義宗は越後から脇屋義治とともに挙兵するが、上野国沼田で関東管領上杉憲顕配下の軍に敗れて』、正平二三/貞治七・応安元(一三六八)年七月、『戦死し、新田氏本宗家は』ここに『事実上』、『滅亡した』とあるのが、それとなる。細かいことを言うようだが、『「太平記」の時代』は、まさにぎりぎり細川頼之の管領就任の直後の貞治六(一三六七)年頃までしか時制範囲としていないのであり、この話に記されている「太平記」絡みの内容は鎌倉幕府滅亡から南北朝前期までで、この「一族自害」は筆者が、つい、筆を滑らせてしまった表現と私は読むのである。

「由良(ゆら)・長はま・阿蘇の大宮司がひるひなき働」「由良」は熱田神宮を指し(平安末期の源義朝の正室で頼朝の母。熱田大宮司藤原季範を父として尾張国に生まれ、熱田神宮の伝承で由良姫と呼ばれることに基づく)、ここは熱田大宮司昌能(まさよし 生没年未詳)のこと。後醍醐天皇の側近として「建武の新政」では武者所結番(けちばん:実務主任)となった。知多半島の波豆(はず)城を押さえ、吉野・伊勢と東国を結ぶ海上交通路の確保に務めた。文和元/正平七(一三五二)年に北朝方と戦ったのを最後に消息不明となった。「長はま」は不詳。当初から後醍醐方について軍功を表わした(後に尊氏方へ寝返った)宗像大社大宮司氏長(後に氏範)のことと思ったが、宗像大社を長浜とは呼ばないので、判らぬ。識者の御教授を乞うものである。「阿蘇」は南朝方についた武将で阿蘇神社大宮司であった阿蘇惟澄(これずみ 延慶二(一三〇九)年?~正平一九/貞治三(一三六四)年)。鎌倉幕府の命を受けて楠木正成の立て籠もる千早城攻めに参戦しようとしたが、その途上で護良親王の令旨を受け、官軍側に寝返った(以降の事蹟はウィキの「阿蘇惟澄」を参照)。

「瓜生判官」瓜生保(?~延元二/建武四(一三三七)年)。越前国(福井県)の武将で、「判官」は通称。ウィキの