甲子夜話卷之六 19 神祖、駿城御坐のとき、遊所ゆきのことに付上意
6-19 神祖、駿城御坐のとき、遊所ゆきのことに付上意
神祖の駿城に坐ましける頃、若き御旗下の面面、とかく二丁町と云花柳ある處に夜々參るよしを、板倉防州聞へ上しかば、上意に、二丁町に參るもの共、定めて夜は寐ずあるべし。さすれば何かの時は直にかけつけて味方はすべき也。夫式のことは捨置べしとの仰なりしとぞ。
■やぶちゃんの呟き
「御坐」「おまし」。
「旗下」「はたもと」。
「二丁町」(にちうやうまち)「と云」(いふ)花柳」(くわりゆう)は駿府にあった二丁町遊郭のこと。ウィキの「二丁町遊郭」によれば、現在の静岡市葵区駒形通五丁目(グーグル・マップ・データ)付近で、静岡県地震防災センターがある辺りとある。『大御所徳川家康の隠居の地である駿府城下に造られた幕府公認の遊郭で』、一『万坪もの広大な面積を誇っていた。後にその一部は江戸に移され、吉原遊廓になった。蓬莱楼など代表的な遊郭は明治時代以降も続いた』。天正一三(一五八五)年、『徳川家康が終焉の地を求めたとき、今川家の人質として幼少から青年期にかけての多感な時代の大半を過ごした地であること、東西の要衝であること、家康がこよなく愛したと言われる富士山が目前であることから、駿府築城を開始した。築城時に全国から家康側近の大名や家臣をはじめ武士、大工方、人夫、農民、商人などが大勢集まっていた。その者達の労をねぎらうために遊女や女歌舞伎も多く集まっていた。しかし、彼女等を巡っての争い事が絶えず、ついには、大御所家康も見るに見かねて遊女と女歌舞伎の追放を命じた。そこに、老齢のため隠居の願いを出していた徳川家康の鷹匠である鷹匠組頭、伊部勘右衛門なる者が』、『自身の辞職を理由に遊郭の設置を願い出ると、大御所家康は事の次第を察してか、その願いを聞き入れた。勘右衛門は現在の安倍川近くに』一『万坪の土地を自費で購入し、故郷である山城国(京都府)伏見から業者や人を集め、自身も「伏見屋」という店を構えた。これが幕府公認の遊郭の始まりである』。『後に、町の一部を江戸の吉原遊廓に移したので、残った町がいわゆる「二丁町」と呼ばれ、全国に知られた静岡の歓楽街になった』。『駿府城下には町が』九十六『か町あり、その内』七『か町が遊廓であった。その内の』五『か町分が江戸へ移り、残った』二『か町が二丁町の由来ともいわれる。『東海道中膝栗毛』にも登場する』が、『空襲で焼失し、今ではその名残すら見えないが、存在を確かめることができる稲荷神社』(ここ。グーグル・マップ・データ)『が僅かながらにひっそり佇んでいる』とある。
「板倉防州」板倉重宗(天正一四(一五八六)年~明暦二(一六五七)年)。駿河国生まれで板倉勝重の長男。下総国関宿藩藩主。秀忠の将軍宣下に際して従五位下周防守に叙任され、大坂の両陣に従軍。書院番頭を経て、京都所司代となり、父勝重とともに名所司代として知られた。
「聞へ上しかば」ママ。「聞こえあげしかば」。「言ひ上ぐ」の謙譲語。申し上げる。
「直に」「ただちに」。
「味方すべき也」護衛に着くことが出来ようほどに。
「夫式」「それしき」。
「捨置べし」「すておくべし」。