金玉ねぢぶくさ卷之六 山本勘助入道、大度の事 / 金玉ねぢぶくさ卷之六~了
山本勘助入道、大度(たいど)の事
[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版をトリミングした。]
人の賢愚は、其氣質の淸濁にわかれたる所、既にそれぞれの天命を受ぬるうへは、ぜひもなし。其中に智ある人は、いふに不及(およばず)。たとへ、おろかなりとても、日ごろ、能(よく)たしなみて、事に當(あたつ)て物に動じぬは、其身の一德なり。
[やぶちゃん注:山本勘助(明応二(一四九三)年~永禄四(一五六一)年)戦国武将。「甲陽軍鑑には、武田信玄に仕えた、独眼で片足が不自由な名軍師として記されている。同書によれば、幼名は貞幸。後に勘助、晴幸とする。しかし、武田信玄の本名晴信の「晴」は将軍足利義晴の諱の一字を与えられたもので、それを家臣に与えることは、通常、考えられない。三河牛窪(現在の愛知県豊川市)の出身で、天文一二(一五四三)年、板垣信方の推挙によって信玄に仕えるようになり、次第に認められて「足軽大将五人衆」と称されるに至った。信玄と上杉謙信が一騎打ちをしたとして有名な永禄四(一五六一)年の「川中島の戦い」(第四次)に於いて、作戦を指揮するも失敗、その責任をとって討ち死にしたとされる。「甲陽軍鑑」が広く読まれた上、近松門左衛門の浄瑠璃やそれを歌舞伎化した「信州川中島合戦」などで取り上げられることで、軍師としての勘助の名は広く世に知られるようになったが、実在は、長い間、疑問視されてきた。しかし、弘治三(一五五七)年と推定される六月二十三日附「市河文書」の中に、信玄が奥信濃の土豪市河藤若に宛てた書状があり、そこに「山本菅助」という名前が見られることから、実在説が有力になってきた。しかし、この人物が「甲陽軍鑑」の山本勘助と同一人であるという証拠はなく、実在の人物とするには未だ疑問が多い(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「大度」度量の大きいこと。]
武田信玄の家老山本勘介入道道喜(どうき)、登城(とうじやう)せしるすに、上(かみ)、だい所のいろりに居(す)へたる五とく、おのれと、うごき出〔いで〕て、一家の男女〔なんによ〕、おどろき、城へ、人をはしらせて、道喜(だうき)に其通〔そのとほり〕を告(つげ)ければ、道喜、使(つかい)に、とくと、やうすを聞(きゝ)、
「歸るまでも、なし。さやうの事は、まゝ有〔ある〕事にて、先〔まづ〕は、よからぬ事なり。かならず、さたなしにして、下々にも、しらす事、なかれ。」
と謂(いゝ)て返しぬ。
其身は、しん玄のまへにて、させる用事もなかりしかど、終日(ひねもす)、もの語(がたり)して、やうやう暮に及んで、やしきへ下り、彼〔かの〕五德の事は、たづねもせず、段々、家賴(けらい)の出〔いで〕て語るを聞(きゝ)、かの、うごきし五とくの方〔かた〕へは、目もやらず、さあらぬ體(てい)にて、其夜は、あかしぬ。
[やぶちゃん注:「道喜(どうき)」「道喜(だうき)」のルビの違いはママ。無論、後者が正しい。
「上」妻。
「使(つかい)」ルビはママ。
「さたなし」「沙汰無し」。何も対処しないこと。
「謂(いゝ)て」ルビはママ。
「終日(ひねもす)」国書刊行会「江戸文庫」版は『ひねもそ』と判読しているが、「そ」と「す」の崩しはよく似ているので、私は「す」で読んだ。
「家賴(けらい)」「賴」はママ。]
翌日、非番なれば、いづかたへも出ざりしに、又、五とく、動(うごき)出〔いで〕、けふはきのふに增(まさ)り、二つ並びし五德、二つ共にうごきて、後には、いろりより、おどり出、其邊(あたり)へ灰をちらし、不思議なるありさま、いふばかりなし。
道喜、此體(てい)をつくづくと見て、暫く思案をめぐらし、奧より、からかねの五德を取出〔とりいだ〕し、其おどる五德と、ならべおきけれども、是は、曾て、うごきも、せず。家らいに謂付て、外より、又、鐵五とくを取よせて、右の五德とならべければ、是も同ぜんにうごいて、三つ共に、暮に至るまで、おどりやまず。
入道、とくと思案して打うなづき、右の五とくを板に並べて、奧の座しきへ直(なを)させければ、三つともに、たちまち、しづまりて、うごき、やみぬ。
[やぶちゃん注:「からかね」青銅。
「おどる」ママ。「をどる」が正しい。以下同じ。
「直(なを)させければ」ルビはママ。「なほ」が正しい。置きしまわせたところ。]
扨、それより、國中の山伏どもをよび集め、
「若〔もし〕いづれもが行力〔ぎやうりき〕にて、是を祈りとめ候事、なるまじきや。」
と尋(たづぬ)れば、いづれも、おのれをかへり見て、請〔うけ〕あふもの、なかりし所に、はるか末座(ばつざ)なる山ぶし一人、すゝみ出、
「我ら、師匠より傳受の密法(みつほう)にて、只今まで、かやうの事をいのり、たびたび、きどくをあらはしたる事、御座候。」
と申す。
「然らば、其方、祈り申やうに。」
とて、屋舖にとめられ、則(すなはち)、かのいろりの間〔ま〕に、だんをかまへ、かんたんくだきて、祈りければ、實(げに)、行力の奇特(〔き〕どく)と見へて、それより、五とく、忽(たちまち)に、おどりやみぬ。
[やぶちゃん注:「密法(みつほう)」ルビはママ。「法」は「はふ」或いは仏教用語では「ほふ」であるから、孰れでも誤りである。]
道喜、やがて、彼〔かの〕山ぶしを、しばらせ、
「なんぢ、何とて、我屋しきの五德をおどらせしぞ。ありやうに、はく狀すべし。若〔もし〕僞りをいふにおいては、たち所に殺害(せつがい)すべし。」
と、痛く責(せめ)られて、山伏、申けるは、
「まつたく、外の子細、さふらはず。如此〔かくのごとく〕に五とくをおどらせ置(をい)て、わたくし祈り、やめ候〔さふらへ〕ば、誠に奇代の驗者〔げんざ〕とおぼし召〔めし〕、向後(けう〔こう〕)、御歸依に預り、御領分の山ぶしの棟梁となり、一國を祈(き)たう、旦那に引請〔ひきうけ〕、ふう貴、心のまゝ成〔な〕らん事を欲(ほつ)し、かくのごとく、巧(たくみ)しかども、信玄公の御城内へは、たよるべき緣、ござなく、さいはひ、君〔きみ〕には御家老の御事〔おんこと〕なれば、御城内も同ぜんにぞんじ、料理人さい藤五兵衞を語らい、能(よく)肥〔こえ〕たる磁石の破(われ)を、てん上へ、はさみ、石の性(せい)にて、五德をはたらかせ、我ら、きたう致候内〔いたしさふらふうち〕に、彼〔かの〕磁石を、取すてさせ申やうに相圖を極め、我ら、運のつたなさは、事ならざる内に、方便(てだて)あらはれ、還(かへつ)て、ぞんじよらぬ御せんぎにあひ、たくみし事も、いたづらになり、しん玄公に崇敬(そうけう)せられん事も、かなはず、あまつさへ、身のわざはひを引出〔ひきいだし〕し侍りぬ。」
と、ありのまゝに白狀せしかば、道喜、懷中より、彼(かの)磁石のかけを取出し、
「其石は是にては、なきか。なんぢが祈禱せし内、五兵衞がとらざる先に、我、是を取れり。さるにても、ふしぎの石かな。」
とて、彼〔かの〕おどりし五德をとり出し、二尺、三尺、間(あい)を置〔おき〕て、此石を以て釣上(つりあぐ)れば、漸(やゝ)もすれば、とび上〔あがり〕て、彼石へ吸(すい)つき、力を入〔いれ〕て、はなたざれば、たやすふは、はなれがたし。
殿上(てんじやう)へあげて、疊の上なる五德を吸(すわ)すれば、石の性は、つよし、五とくは、おもし、
「むくむく」
とおどり揚(あがつ)て、あやしき事、いふばかりなし。
道喜、彼山伏にむかひ、
「定めて、まだ、外に深き子細あるべし。今、兵乱(へうらん)の節〔せつ〕なれば、りん國より當城(たうじやう)の虚実(きよじつ)をしらん為〔ため〕、なんぢを以て、忍びに入れ、味方(みかた)の備へを窺ふなるべし。眞直(まつすぐ)に、白狀すべし。」
と、再三、がうもんに及びしかども、別の子細もあらざるゆへ、
「誠に、か程、つたなき謀(はかり〔ご〕と)にて、我を欺かんとせし事、蜘蛛(ちちう)のあみに大鳳(〔たい〕ほう)を待〔まち〕、せうめいが海を埋(うめ)んとするに等し。然れども、千丈の堤(つゝみ)も蟻穴(ぎけつ)よりくづるゝといへば、常に小事にも油斷すべきにあらず。」
と、それより、用心、猶、以て、きびしくし、山伏は死罪をなだめ、されども、
「國中〔くにうち〕には置〔おき〕がたし。」
迚(とて)、一國を追放しぬ。
是より、
「道喜、智謀ふかき人。」
と、さたせられて、いよいよ軍〔いくさ〕も名高く、隣國の人も、おそれ侍りぬ。
金玉ねぢぶくさ六終
[やぶちゃん注:「置(をい)て」ルビはママ。
「向後(けう〔こう〕)」ルビはママ。「きやうこう」(或いは「きやうご」)が正しい。
「料理人さい藤五兵衞」の処分が言及されていないのが甚だ不満である。
「崇敬(そうけう)」ルビはママ。「すうけい」。
「吸(すい)つき」ルビはママ。
「力を入〔いれ〕て」強い力を以ってかくして。
「殿上(てんじやう)」天井。
「吸(すわ)すれば」ルビはママ。
「兵乱(へうらん)」漢字表記とルビはママ。「ひやうらん」が正しい。「へいらん」ならば、そのまま同じであるから、孰れでも誤りである。
「虚実」漢字表記はママ。
「がうもん」「拷問」。
「ゆへ」ママ。
「蜘蛛(ちちう)のあみに大鳳(〔たい〕ほう)を待〔まち〕」蜘蛛がちっぽけな網でもって大鳳が掛かるのを待ち。
「せうめいが海を埋(うめ)んとする」「せいめい」は致命的な誤り。言うなら、「精衞(せいゑい)が海を埋めんとする」でなくてはおかしい。「精衞顚海」(せいえいてんかい)の成句で知られる。「山海経」の「北山経」が出典で、「精衛」とは伝説上の小鳥の名で、「填海」は海を埋(うず)めることを謂う。伝説上の皇帝炎帝の娘であっや女娃(じょあ)は東海で溺れ死んだが、女娃は小さな鳥精衛へと化身し、自身を殺した東海を、小石や小枝などで埋め尽くそうしたが、失敗に終わったという故事に基づき、「実現不可能な計画を立て、結局は失敗して全くの無駄に終わること」の譬えである(他に「何時まで経っても悔やんでいること」のそれにも用いる)。
「千丈の堤も蟻穴よりくづるゝ」ほんの僅かな不注意や油断から、大事が起こることの譬え。「韓非子」の「喩老篇」にある「天下之難事必作於易、天下之大事必作於細」、「千丈之堤以螻蟻之穴潰、百尺之室以突隙之烟焚」(天下の難事は必ず易きより作(な)り、天下の大事は必ず細なるより作る)、「千丈の堤も螻蟻 (らうぎ) の穴を以て潰 (つひ) ゆ」に基づく。「螻蟻」はケラとアリ。]