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2020/09/08

金玉ねぢぶくさ卷之六 里見義弘武を悟し因緣の事

 

金玉ねぢぶくさ卷之六

    里見義弘、武(ぶ)を悟(さとり)し因緣の事

 人は、おのれを知(しつ)て、不出不入(でずいらず)に身をおこなへば、萬事について、過(あやまち)なし。出過(ですぎ)たるを奢(おごり)とし、たらざるを無礼(ぶれい)とし、分〔ぶん〕ざいに相應せねば、過てもよからず、たらぬも惡(あし)し。

「先王の法服(ほうぶく[やぶちゃん注:「ほう」はママ。以下同じ。])にあらざれば、あへて不服(ふくせず)、せんわうの德行(〔とく〕かう)にあらざれば、敢ておこなはず。先王の法言(ほうげん)に不在(あらざれ)ば、あへて不言(いはず)。」

と、孔子も誡(いま)しめ給ひしなり。

[やぶちゃん注:年:里見義弘(大永五(一五二五)年~天正六(一五七八)年)は戦国・織豊時代の武将。義尭(よしたか)の嫡子。通称は太郎。父とともに房総に於ける里見氏の大名領国制の全盛期を築き上げた。対外的には、当初は親上杉氏の姿勢をとり、古河公方の継承問題に介入して、北条氏及びその擁立する足利義氏と対立した。永禄七(一五六四)年の「第二次国府台(こうのだい)の戦い」(現在の千葉県市川市)では敗戦を喫したものの(因みに、この時の相手は相模国鎌倉郡玉縄城主であった北条綱成で、今、私はそこ難攻不落の玉縄城の北を守る郭(くるわ)から同城跡を正面に眺めている)、同十年の「三船山の戦い」での勝利を機に、北条氏勢力を房総の地より駆逐、「越相同盟」(越後と相模)が結ばれるや、上杉氏と決別して政治的自立を果たした。元亀三(一五七二)年には、「副将軍」として鶴ケ谷八幡宮修造を主催している。またこの頃、理想の為政者たらんとの意志を表明する「鳳凰の印判」を作成し使用している。しかし、天正二(一五七四)年に父義尭が病死するや、内外に問題が噴出し、後継者問題も解決出来ぬままに病死した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「不出不入に身をおこなへば」万事に於いて出入・増減のないこと(過不足のない状態・ほどよい様態)をモットーとすれば。

「分〔ぶん〕ざい」「分際」。身のほど。その人に応じた許容される存在としての限度内。

「先王の法服にあらざれば……」以下は儒教経典の一つである「孝経」(こうきょう:全一巻。孔子と弟子の曾子(そうし)との問答形式で「孝」に就いて述べたもので、「十三経(けい)」の一つ)の「卿大夫(けいたいふ)章第四」(「卿」は大臣で、諸侯に次ぐ高位。「大夫」は「卿」に次ぐ重職位)の冒頭一節の引用であるが、お尻が切れている。

   *

非先王之法服、不敢服。非先王之法言、不敢道。非先王之德行、不敢行。是故非法不言、非道不行。

   *

 先王(せんわう)の法服(はうふく)に非ざれば、敢へて服(ふく)せず。先王の法言(はうげん)に非ざれば、敢へて道(い)はず。先王の德行(とくかう)に非ざれば、敢へて行はず。是(この)故(ゆゑ)に、法(はう)に非ざれば言はず、道(みち)に非あらざれば、行はず。

   *

 先の聖王がお定めになられた礼法に適(かな)った衣服でなければ、決して身に纏(まと)わない。その王がお定めになられた礼法に適った言葉でなければ、決して言わない。その王がお定めになられた道徳に適った正しい行いでなければ、決して行わない。この理(ことわり)故に、その王のお定めになられた礼法に適っていなければ、何も言わず、その尊い道徳に適っていなければ、何も行わないのである。

   *]

 

 一年(〔ひと〕とせ)、阿房(〔あ〕わ)の國、里見義弘、りん國の敵とたゝかひ、後に和睦して、異國の會盟(くわいめい)をまなび、たがひに國ざかいへ出會(であい)、向後(けうこう)、意(い)しゆ、あらざる旨を、ちかはんとす。

[やぶちゃん注:「國ざかい」ママ。

「出會(であい)」ルビはママ。

「向後(けうこう)」ルビはママ。「きやうこう」が正しい。現代仮名遣は「きょうこう」。今後。]

 

 我〔われ〕におとらぬ郞等〔らうだう〕、四、五人、從へ、既に城下を離るゝ事、三里にして、山あり。谷を隔(へだて)て、こなたなるそば道を通るに、いづくともなく、臥長(ふしたけ)十丈斗〔ばかり〕の大虵(〔だい〕じや)一疋、あらはれ、大きなる牛を見付〔みつけ〕て、終(つい)に追(ぼつ)つめ、引〔ひき〕まとひ、たゞ一口に飮(のみ)ぬ。

 人々、おどろき、

「あら、すざまじのありさまや。」

と、暫く、馬をひかへて、詠居(ながめい)ければ、彼(かの)大じや、牛をのみしまいて、下なる谷へ下〔さが〕る。さがるにしたがひ、大蛇の形、次第に、ちいさふなり、

「とん」

と、谷底(〔たに〕ぞこ)へ落(おり)ては、やうやう一尺ばかりの小虵(〔こ〕へび)となり、草むらへ、かくれんとす。しかるに、空にて、鳶(とび)一疋、まいしが、此へびを見て、

「つつ」

と下り、蛇を引〔ひつ〕かけ、二町ばかりあなたなる辻堂のやねにて、たちまちに引〔ひつ〕さき、喰(くら)ひぬ。

[やぶちゃん注:文中の「へび」の漢字に「虵」「蛇」の二様の表記のあるのはママ。使い分けているわけでもない。

「そば道」「岨道」。崖道。ここは崖の途中を拓いた道であろう。

「臥長(ふしたけ)十丈」全長約三十メートル三十センチ。

「終(つい)に」ルビはママ。以下同じ。

「追(ぼつ)つめ」小学館「日本国語大辞典」に、「ぼっつける」を立項し、『追付・追着』の漢字を当てた上、文語『ぼっつく』で他動詞カ行下二段とし、『追っていく。追いつめていく。また、たどり着く』とある。引用例はまさしく西鶴の武家物の第一作である浮世草子「武芸伝来記」(貞享四(一六八七)年板行)と、歌舞伎「曾我梅菊念力弦」(そがきょうだいおもいのはりゆみ:四代鶴屋南北ほかの合作で初演は文政元(一八一八)年)であった(本作浮世草子怪談集「金玉ねぢぶくさ」は元禄一七(一七〇四)年板行)。まさに出来立てほやほやの口語表現だったことが判る。

「引〔ひき〕まとひ」牛に幾重にも巻き纏いついて。

「詠居(ながめい)ければ」ルビはママ。「い」は「ゐ」が正しい。

「のみしまいて」ママ。「吞み仕舞(しま)ひて」。

「下なる」「したなる」「しもなる」二様に読めるが、「した」でよかろう。

「ちいさふなり」ママ。

「とん」蛇の落下着地時のオノマトペイア。

「まいしが」ママ。「舞ひしが」。

「つつ」鳶の直下への急降下のオノマトペイア。

「下り」「くだり」「さがり」二様に読めるが、力動感からは前者であろう。

「二町」約二百十八メートル。]

 

Satomiyosihiro

[やぶちゃん注:国書刊行「江戸文庫」版をトリミング合成し、中央の合成部分が判らぬように修正を加え、上下左右の額罫を除去して、全体に清拭を施した。]

 

 人々、おどろき、

「是、たゞ事ならず。」

と、不思議のおもひをなしければ、よしひろ、申されけるは、

「されば、此大じやの、始(はじめ)十丈の形の時は、大きなる牛をだに吞(のみ)しが、變成諸形(へんぜうしよげう)の通力(つうりき)は得ながら、今一尺の小蛇となりては、とびをだに、制する力、なし。されば、虵(じや)のみにかぎるべからず。人も大身・小身の品〔ひん〕あつて、身躰さう應の威(い)をかゝやかし、大身〔たいしん〕なれば、大身の力を用ひ、小身なれば、小身の力を尽(つく)す。爰〔ここ〕を以て、『大象(〔だい〕ざう)、兎徑(とけい)にあそばず、らん鳳(ほう)、けい雀(じやく)と群(ぐん)を同(おなじ)ふせず』と、いへり。然〔しか〕るに、我〔われ〕、今日、會めいなればとて、小〔こ〕ぜいにて、敵に、おもむく。是、大じやの小蛇(〔こ〕へび)と成〔なり〕て叢(くさむら)に遊ぶがごとし。さだめて、氏神八幡大ぼさつの、武運を守り給ふ御示現(ごじげん)なるべし。若(もし)敵と參會(さんくわい)して、一旦、事の變あらば、小ぜいにて如何〔いかが〕すべき。」

と、それより、いづれも取〔とつ〕て歸し、二度〔ふたたび〕、會めいに出〔いで〕ざりしとかや。

[やぶちゃん注:「變成諸形(へんぜうしよげう)」ルビはママ。正しくは「へんじやうしよぎやう」が正しい(現代仮名遣は「へんじょうしょぎょう」)。別なものに生れ変り、諸々の形態を、見かけ上、現わすこと。

「身躰さう應」「身體相應(しんたいさうわう)」。

「大象(〔だい〕ざう)、兎徑(とけい)にあそばず、らん鳳(ほう)、けい雀(じやく)と群(ぐん)を同(おなじ)ふせず」「兎徑」はウサギの通る道。前者は「大きな象は兎の通う獣道は通らない。大人物は自分に相応しくないつまらぬ地位には満足しない。或いは、大人物はつまらぬ人物を相手としない」という喩えで、後の「らん鳳」は「鸞鳳」で、鸞鳥と鳳凰を指し、ともにめでたい伝承上の鳥。ここは君子など仁の高い人物を喩えたもの。対する「けい雀」は「鶏(雞)・雀」で、とるに足らぬどこにでもいるニワトリやスズメのような凡夫を指す。これは恐らく「三国伝記」(室町時代の説話集で玄棟著。応永一四(一四〇七)年成立)の「四」に出る「鸞鳳、爭(あらそひ)てか、鷄雀と群せん、と念(ねんじ)て」が出典か(以上は小学館「日本国語大辞典」その他を参考にした)。

「八幡大ぼさつの、武運を守り給ふ」源氏が信仰して以来、八幡信仰は武家に最も人気が高かった。]

 

 誠に大名は大名の行義(げうぎ)をくづさず、居(を)る時は邦境(ほうけう)を守り、行時(ゆくとき)は行列を備へ、軍(ぐん)には紀律(きりつ)を示し、陣には隊伍(たいご)を調へ、武をはり、威をかゝやかして、盗賊をおさへ、亂をしづめ、其國を安泰にしてこそ、其家〔そのいへ〕は久しかるべし。若(もし)おのれをしらずして、武家は公家のまねをし、百姓が侍のまねをすれば、兩方ともに禮にかなはず、終(つい)には家を失ひ、身をほろぼすに遠からず。

 とかく、出家は出家、町人は町人、山伏は山伏、いしやはいしやと、それぞれ、風俗を守り、聖人のおきてに背き給ふべからざるものか。

[やぶちゃん注:「行義(げうぎ)」ルビはママ。「行儀(ぎやうぎ)」。ここは広義の大名の示すべき大義・礼節を指す。

「邦境(ほうけう)」ルビはママ。「はうきやう」が正しい。領地区画を明らかに示す国境(くにざかい)。]

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