金玉ねぢぶくさ卷之四 冨士の影の山
金玉ねぢぶくさ卷之四
冨士の影(かげ)の山
天文の比〔ころ〕、さる公家の靑侍二人、諸朋輩の中に別(わけ)て深く交(まじは)り、たがひに死(しな)ば一處(〔いつ〕しよ)といひかはして、兄弟のちぎりをぞなしける。
然るに一人のもの、世の盛衰無常なる事を觀じ、彼(かの)むつまじき朋輩に語りけるは、
「それ人の世にある百年、三万六千日の光陰は奔箭(ほんせん)・下流の水の如し。此内に浮雲(ふうん)の冨(とみ)をねがひ、如泡(によはう)の寶(たから)をあつめて、若電(にやくでん)の身をやしなふ。萬事は、みな、夢なり。たれか百年を保(たもた)ん。かゝるはかなき身を名利の爲につかはれ、さまざまの煩惱をつみて、一生を苦(くるし)むるこそ、ほひなきわざなれ。我〔われ〕、こゝに悟道して、長からぬうき世をいとひ、三衣一鉢(〔さん〕ゑ〔いつ〕はつ)にさまをかへて、あまねく諸國を修行し、めなれぬ事を見て、角(かど)ある心をねり、此度〔このたび〕、生死(しやうじ)を離れ、未來は、永く眞如法性(しんによほつしやう)の都に立歸りたき願ひ。然れば、日比、うらなく、謂(いひ)かはせし中〔なか〕のちぎりも、遠からぬわかれに、なごりおしく侍り。命ながらへて二度(ふたゝび)立歸らん事も不定(〔ふ〕でう)なれば、思ひ出されんおりおりは、立出(たちいで)し時を其日として、一遍の𢌞向をもなし給はれ。」
と、念ごろに語れば、彼(かの)人、きいて、ともに悟道し、
「さても奇特(きどく)の發起(ほつき)。我とても同じ如露赤如電(によろやくによでん)のかりの身なれば、何かは、さのみ此世を貪(むさぼ)るべき。いざや、ともに發心(ほつしん)をとげ、諸國を同行(どうぎやう)してめぐり、みらいまでも一蓮詫生(れんたくしやう)のちぎりを、たがへじ。」
とて、二人、等しく髮(もとゞり)をきり、苔(こけ)の袂(たもと)にさまをかへ、一人は名を「春知(しゆんち)」と改め、今一人は「春忍(〔しゆん〕にん)」と呼(よび)て、いづれも道心けんごにおこなひすまし、それより直(すぐ)に國々を修業(しゆぎやう)し、まづ、東國をのこらず見めぐり、奧州の「外(そと)のはま」より、ゑぞ・松まへの浦々嶋々まで、悉(ことごと)く一見し、其年もくれ、迎(むかふ)る春も立〔たち〕、夏も過(すぎ)、秋風も立〔たて〕ば、それより、西國行脚とこゝろざして、一まづ、都にのぼりぬ。
[やぶちゃん注:「天文」一五三二年~一五五五年。
「奔箭」放った矢が眼にも止まらぬ速さで奔(はし)ること。
「如泡(によはう)」水の上の「泡のごとく」儚(はかな)いこと。言うまでもなく、前の「浮雲」も同じい。
「若電(にやくでん)の身」「雷」(かみなり)の一閃の「若」(ごと)き儚い人間としての「身」体。
「ほひなきわざなれ」ママ。「本意(ほい)無き術(わざ)なれ」。
「三衣一鉢(〔さん〕ゑ〔いつ〕ぱつ)」「ゑ」のルビはママ。原本では「鉢」は「はつ」と清音であるが、半濁点を附した。行脚僧の形(なり)を指す。「三衣」は既出既注(そこの「大衣(だいゑ)」の注を見よ)であるが、ここではそれらを着る「僧侶」となることを指す。
「心をねり」「心を練り」。心を穏やかに和らげ。
「眞如法性(しんによほつしやう)」「眞如」も「法性」も孰れもサンスクリット語「ダルマター」の漢訳。「法の核心たる絶対真正の法たるところの性(しょう)」の意。人間の持つ虚妄や分別といったものを超越した存在(法)の真のままにある様態。総ての存在の真実常住である本性(ほんしょう)。「眞如法性の都」はそうした永遠の真正の法に満ちた極楽浄土の時空間。
「うらなく」「裏無く」。隠し立てせず、隔ても無い。
「不定(〔ふ〕でう)」ルビはママ。「ふじやう」が正しい。
「おりおり」ママ。「折々(をりをり)」。
「ともに悟道し」その話を聴いて、瞬時にともに「道」の「悟」りへ向かう心が完全にオーバ・ラップしたのである。
「如露赤如電(によろやくによでん)」「赤」はママ。「如露亦如電」の誤記。「亦」の音「ヤク」は呉音(漢音は「エキ」)。「金剛般若経」にある連語で、「露の如く儚く、電光のように瞬時の間に消え去る」で、「総て、因縁によって生じたものは実体がなく、空である」ことを譬えた語。
「一蓮詫生」「詫」はママ。「一蓮托生」
「苔(こけ)の袂(たもと)」連語で「俗世を捨てている僧・隠者などの衣服」であるが、ここはそうした遁世者を指す。
「外(そと)のはま」外が浜(そとがはま)。青森県東津軽郡及び青森市に相当する地域の内、陸奥湾沿岸を指す古来の広域地名。青森県東津軽郡外ヶ浜町(グーグル・マップ・データ)として名が残る。]
[やぶちゃん注:最初に出る二幅連続のもの。国書刊行会「江戸文庫」版のものをトリミング合成し、上下左右の枠を除去し、一部の汚損を清拭した。]
さいわい、道の便(たより)なれば、駿(する)河の國において、冨士ぜんじやうの志しおこり、彼(かの)山路(ぢ)にさしかゝりぬ。
抑(そもそも)此山は、扶桑第一の名山にて、上(うへ)には、法界躰性智(〔ほふかい〕たいせうち)大毘廬遮那佛(〔だい〕びるしやなぶつ)ちん座ましまし、粟散邊地(ぞくさんへんち)の淨土なれば、火の踏合(ふみやい)または心の不淨(じやう)なる人、ぜんじやうすれば、さまざま、ふしぎなる事おゝし。
[やぶちゃん注:「冨士ぜんじやう」「冨士禪定」。この禅定は修験道のそれで、富士山・白山・立山などの霊山に登って行者が修行することを指す。
「法界躰性智(〔ほふかい〕たいせうち)」ルビはママ。正しくは「ほふかいたいしやうち」で、大日如来が備え持つされる五種の智恵の一つ。密教では、この法界体性智の他、大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智を挙げる。法界体性智は永遠普遍・自性清浄なる大日如来の絶対智で、他の四智を統合する智恵とされる。
「大毘廬遮那佛」大乗仏教における仏の一つ。「華厳経」に於いて中心的な存在として扱われる尊格で、密教では大日如来と同一視される。
「粟散邊地」僻地にある粟(あわ)を散らしたような小国の意であるが、日本をも指し、ここは後者。
「火の踏合(ふみやい)」ルビはママ。ここは神道的なニュアンスか。所謂、潔斎して鑽(き)り出した清浄な火を用いているか、日常の穢れた火を用いているかの意であろう。]
然るに、二人の道心出家の身は、淨穢不二(じやうゑ〔ふに〕)と心得、もとより長旅(ながたび)なれば、別行(べつぎあう)・別火(べつくわ)のあらためにもおよばず、直(すぐ)に麓の道を分(わけ)て、山のけしきを望(のぞめ)ば、おりふし、雲はれて、一點の霞もなく、峯は霧をしのいで、空にあらはれ、道はあきらかに見へて、天にかけ橋をつたふ。
[やぶちゃん注:「淨穢不二」清浄な悟りと不浄な煩悩とは対立するものと思われるが、真如の上では差別がなく同一であることを言う。
「別行(べつぎやう)」霊山富士へ登るに際し、身を潔斎する行を指す。
「別火(べつくわ)」潔斎のためには、神聖不浄の火を鑽り出して、数日前から、その火だけを用いて調理などをし、身の穢れを内から払う必要があり、そうした行為を、かく言う。]
不思議や、暫く有〔あり〕て、「影の山」とて、峯二つに峙(そばだ)ち、道左右に別れて、何(いづ)れを山、いづれを影(かげ)とわきまへがたければ、二人、前後をぼうじて、ふもとの原をさまよひ、其日も、やうやうにくれぬ。
[やぶちゃん注:「影の山」恐らくは山の峰の形が殆んど相同でしかもそれが奥と手前にあり、それが遠近感喪失を起こして、あたかも光と影(この場合は黝(くろ)ずんだ山塊)の鏡の写しのように現われ、惑わされてしまい、所謂、リング・ワンダリング(ring wandering:環形彷徨。人が方向感覚を失って無意識の内に円を描くように同一地点を彷徨い歩くこと)に陥ってしまったものと思われる。視界が極端に悪いか、逆に広大で変化に乏しい自然界でしばしば生じる。昔は「狐狸に化かされた」と考えられた。
「ぼうじて」ママ。「望(ばう)じて」が正しい。眺めて。]
然れども、求むべきやどりもなく、かなたこなたせし程に、と有〔ある〕山陰に、杉の生垣(いけがき)をかまへて、物しづかに住〔すみ〕なしたる家形(やかた)あり。
萩の折戶(をりど)の隙(ひま)より、灯(ともしび)の影、もり出(いで)て、人の音(をと)なひは、きこへず。
二人の法師、よろこび、あみ戶を押あけて、一夜の宿を求めんと、内のやうすを窺(うかゞ)へば、あづまや作(づく)りの板やをきれいにしつらい、其風流なるけしき、得も謂(いひ)がたし。書院のしやうじをあけ離(はな)して、二十(はたち)ばかりの女房一人、灯(ともしび)の本(もと)に、卓(しよく)をさゝへて、見臺(けんだい)に草紙(さうし)をひろげ、詠入(ながめ〔いり〕)たるありさま、其うつくしさ、世にたぐひなく、八十種好(しゆがう)に三十二相(さう)備(そなは)り、「遊仙窟」の十郞か、寶萊宮の太眞(たいしん)か、いかさま、上界の仙女なるべし。かゝる鄙(ひな)の山中に、か程の美女のすむ事、人間とは見へず。其外には人の住(すむ)躰(てい)も見へず、勝手とおぼしき所も、なし。
[やぶちゃん注:「萩の折戶」竹や木の枝を折って作った簡素な開き戸で、その脇に萩が咲いていたのであろう。これは庭に面した小さなものであろう。以下の「あみ戶」とは異なるととる。
「もり出(いで)て」「漏り出でて」。「漏る」は中古まではラ行四段活用で、中世以降に下二段活用が多く見られるようになる。時空間を超えた異界的雅趣を示すにはよい用法である。
「あみ戶」薄板・竹・葦などを編んで作った戸。後の挿絵に描かれているものを、それととる。
「人の音(をと)なひは、きこへず」「をと」「きこへ」はママ。音から推察するに、人の入る気配がないことを言う。
「しつらい」ママ。以下も同じ。
「得も」筆者の癖で、呼応の副詞「え」を漢字表記したもの。後の挿絵に描かれてある。
「卓(しよく)」「シヨク(ショク)」は唐音。仏前に置いて香華を供える机(茶の湯にも用いる)。「をさゝへて」は、その前に身を置いたままに、の意かと思ったが、後に出る挿絵では実際にそこに左肘を置いて、顔を支えている。
「見臺」同じく後に出る挿絵に卓の前にかなりしっかりした書見台が描かれてある。
「八十種好(しゆがう)に三十二相(さう)」「三十二相八十種好」(さんじゅうにそうはちじっしゅごう)は釈迦如来の姿の三十二の目立った特徴を指し、その三十二相の細かな特徴をより詳しく述べたものが八十種好相。
『「遊仙窟」の十郞』「十郞」はママ。「遊仙窟」初唐に書かれた文語中編小説で張鷟(ちょうさく 六六〇年頃~七四〇年頃) の著。全一巻。勅命を奉じて旅に出た作者と同姓の張文成が、神仙の窟に迷い込み、崔十娘という美女と歓楽の一夜を過す物語を張生の一人称で綴ったもの。六朝駢文 (べんぶん) の華麗な文体を基調とし、応酬される詩や対話には韻文を用い、さらに民間の俗語も交えた、多彩な文体で書かれてある。但し、本書は中国では早くに失われてしまい、日本にのみ伝わったもので、本邦で古来よりよく知られた奇書の一つである。「十郞」は、そこに出る神仙の寡婦の崔「十娘」(さいじゅうじょう)の誤りである。
「寶萊宮の太眞」白居易の「長恨歌」の後半、漢皇(実は玄宗皇帝)の命を受けて方士が楊貴妃の魂を捜し、遂に蓬莱山に至って貴妃の生まれ変わりである仙女に出逢う。それが太真である。太真は玄宗に見初められた際に、一時的に女道士とされた際の実際の道号である(楊貴妃はもともと玄宗の第十八子寿王李瑁(りぼう)の妃であったのを奪ったのであるが、そのために出家の形をとって誤魔化したのである)。
「見へず」ママ。以下同じ。]
二人の法師、おもひけるは、
『さだめて是(これ)は、鬼神(きじん)・こだまの、化女(けぢよ)と成〔なり〕て、道心をさまたげ、もし、愛欲の心をおこさば、其たよりを窺(うかゞ)ふて、われわれを害せん爲に、如此〔かくのごとき〕のもうけをしつらい、二人が心を、とらかさんと、かまへたるものなるべし。いざや、立のき、此害を、のがれん。』
と、いへば、春忍、
「いやいや、かゝる所へ來かゝつて、元より、かれが變化(へんげ)ならば、たとへ迯(にげ)たりとも、のがれは、せじ。其うへかやうの者に出(で)あふも、一つは修行の種(たね)なれば、所詮、彼(かの)ものに詞(ことば)をかはし、性躰(せうたい)を見屆(とゞけ)ん。」
と、二人ともに書院(しよいん)のさきへ立〔たち〕より、
「我々は諸國修行の沙門成〔なる〕が、冨士ぜんじやうの道にまよひ、其うへ、日に行(ゆき)くれ、外(ほか)に求(もとむ)べき宿(やど)もなし。ねがはくは、あはれみをたれて、一夜の宿をかし給へ。」
と申せば、女おどろきたるけしきもなく、しほらしき物ごしにて、
「誠(まこと)に諸國しゆぎやうの御僧(〔おん〕そう)、世にたつとき御身なれば、結緣(けちゑん)の爲(ため)、御宿(〔おん〕やど)參らせ度(たく)侍(はべ)れども、こよひは、あるじ、遠く出(いで)て、夜ふけて歸り候ゆへ、るすに御宿まいらせん事も、いかゞなれば、御〔お〕いたはしながら、かなひ難き。」
よし、やさしき噯(あいさつ)に、二人の道心(だうしん)氣(き)をうばゝれて、
『たとへ、まよひ化生(けしやう)の者にもせよ、害せられておしむべき命(いのち)にもあらず。なをなを、やうすを見屆てふしんを晴(はら)さん。』
と、
「苦(くる)しからずは、あるじの御歸りを、これにて待請(まちうけ)申〔まうし〕たき。」
よし望めば、女、申けるは、
「あるじも情(なさけ)しれる人にて、わけて旅人を痛(いた)はり侍りぬ。殊(こと)に御僧に御宿參らせ候事、るすにても、こなたは、くるしからず。さ程におぼしめされば、こなたへ御入候へ。」
とて、一間(ま)なる座敷へ請じ、召合(めしあわせ)のふすまを立切(たてきり)、
「それに御やすみ候へ。」
とて、又元の見臺に向ひ、草紙に詠入(ながめ〔いり〕)ぬ。
[やぶちゃん注:「こだま」「木靈」。木霊精霊(こだますだま)の類い。
「もうけ」ママ。「設(まう)け」。この家が事前の仮構の仕込みであると疑ったのである。
「とらかさん」「盪(とら)かす・蕩かす」で、「惑わして本心を失わせる。また、心を和らげてうっとりさせて油断させる」の意。
「性躰(せうたい)」ルビはママ。これだと「しやうたい」。「正體」に同じい。
「結緣(けちゑん)」ルビはママ。
「噯(あいさつ)」「噯」の字は音「アイ」で①「息・暖かい気」②「げっぷ」の意があるが、それとは別に音「ガイ」で、③感嘆や痛惜の思いを含んだ「ああ!」という嘆く声の意がある。また、国字として「なぐさめる」の意があると、大修館書店「廣漢和辭典」にはあるから、漢語の③の意と国訓をダブルで、当て字して、当て訓したものと私はとる。
「なをなを」ママ。「なほなほ」。
「ふしん」「不審」。
「苦(くる)しからずは」「ずは」は、打消の助動詞「ず」の連用形に係助詞「は」が、或いは「ず」の未然形に順接の仮定条件を示す接続助詞「は」が付いたもの。お困りにならぬのであらば。]
[やぶちゃん注:独立した一幅の挿絵。同じく「江戸文庫」版のものを単にトリミングした。]
さて、そのあたりを見れば、夜(よる)のしとねを始(はじめ)、萬(よろづ)の調度に至るまで、みやびやかなる事、更に人間〔じんかん〕の類(たぐひ)にあらず。ふすまのすき、とぼし火の影より見れば、かの女のかたち、其うつくしさ、いふばかりなし。
「さては。いよいよ變化のわざなるべし。さるにても、あるじといふは、いかやうの者にかあらん。油斷をせば、彼等に服(ぶく)せらるべし。」
と、護身法(ごしんぼう)を結び、九字(〔く〕じ)を切(きり)かけて、二人ともに、すこしも、まどろまで、ふしぎの事のあらはるゝを、今や今やと、まち居(い)ければ、やうやう、うしみつ過(すぐ)るころに至(いた〔り〕)て、いづくともなく、轡(くつわ)の音、
「りんりん」
と、きこゆ。二人、あやしみ、
「さればこそ。此山中へ騎馬の來(きた)るべき謂れなし。さだめて是も變化のわざなるべし。」
と、氣をつめて窺ひ居(い)ければ、かの轡の音、ぜんぜんとして近くきこへ、庵のまへにて鳴(なり)やみぬ。
馬上の人、馬(むま)よりおるゝと覺へて、草ずりの音、
「がらがら」
と、きこゆ。
「扨は、てい主の歸りたるならん。」
と、ふすまの影より望めば、齡(よはひ)、莊年の男、色、白く、器量さかんなるが、紅(くれなひ)の鉢卷をしめ、白糸(しらいと)おどしの鎧ひたゝれに、白枝(しらゑ)のなぎなたを携(たづさ)へ、あみ戶をあけて、内へ入りぬ。彼(かの)おんな、立出〔たちいで〕、
「今霄(こよひ)の首尾(しゆび)ば、いかゞ。」
と問へば、
「あゝ、無念。こよひも、かなはず。」
とて、泪(なみだ)をながしぬ。
[やぶちゃん注:「人間〔じんかん〕の類(たぐひ)」世間一般の調度類。
「ふすまのすき」「襖の隙」。
「服(ぶく)せらるべし」怪奇談としては「食われてしまうかも知れぬぞ!」の意でとる。
「護身法(ごしんぼう)」以下の「九字」と合わせて「九字護身法(くじごしんぽふ)」のこと。但し、歴史的仮名遣は正確には、この場合、仏教の影響下に於ける修験道のそれであるから、「法」は「ぽふ」でなくてはおかしい。「臨」・「兵」(ひょう)・「闘」・「者」・「皆」・「陣」・「烈」・「在」・「前」の九字の呪文と九種類の指で作る印によって除災や戦勝などを祈る呪法。密教や修験道にそれがよく知られるが、本来は道教の六甲秘呪という九字の作法が修験道などに混入し、その他のさまざまな呪法が混淆して出来上がった、本邦独自の呪術である。
「まどろまで」「微睡(まどろ)まで」。眠らないで。
「まち居(い)ければ」ルビはママ。以下も同じ。
「うしみつ」「丑滿」午前二時から二時半頃。
「轡(くつわ)」もとは「口輪(くちわ)の意」で、手綱をつけるために馬の口に噛ませる金具。
「ぜんぜんとして」「冉冉として」次第に進んでくるさま。
「覺へて」ママ。
「草ずり」「草摺り」。鎧の胴の下部に装着する付属具。大腿部を守るために、革又は鉄を連結し、通常は五段下りに縅(おど)して下げる。
「莊年」「壯年」に同じい。
「器量さかんなるが」力量・容貌ともに優れていると見える男が。
「紅(くれなひ)」ルビはママ。「くれなゐ」が正しい。
「白糸(しらいと)おどし」ママ。「白糸縅(威)」は歴史的仮名遣は「しらいとをどし」が正しい。鎧 (よろい) の縅(おどし)の一種。全体に白い糸で縅したもの。グーグル画像検索「白糸縅」を見られたい。
「鎧ひたゝれ」「鎧直垂」、軍陣に際して、鎧の下に着る直垂。錦(にしき)・綾・平絹などで仕立て、袖細で袖口と袴(はかま)の裾口に括(くく)り緒(お)を通したもの。平安末期から中世にかけて用いられた。
「白枝(しらゑ)」ルビはママ。白柄(しらえ)に同じい。
「首尾ば、いかゞ」国書刊行会「江戸文庫」版では、『首尾は』と清音であるが、原本(右頁最終行)では明らかに濁点が打たれてある。取り立ての係助詞「は」ではあるが、近世初期に「ば」と濁るようになったから、清音にする必要はない。]
さて、ふみ石に草鞋(わらんづ)二足(そく)あるを見て、其故をとへば、女房、
「されば。今霄(こよひ)、旅のしゆ行者とて、御僧二人わたらせ給ふを、結緣のため、宿し參らせてさふらふ。」
と、いへば、おとこ、
「それは、いづくに渡らせたまふぞ。」
と、いふをきいて、二人の法師、ふすまを引あけ、
「我々にて候。御るすにて候ひしかども、道にまよひ、日に行(ゆき)くれ、一夜(や)の宿を申請(〔まうし〕うけ)、たびの勞(つか)れを晴(はら)し、ゆるりと休足(きうそく)、かたじけなき。」
よし申せば、彼(かの)おとこ、二人のはなしを聞(きい)て、
「さてさて、うら山しき、おのおのの境界(きやうがい)。誠(まこと)に我らこそ御僧一宿(〔いつ〕しゆく)の結ゑんによつて、ざいしやうを滅し、おつつけ、苦患(くげん)をまぬかるべしと、ありがたく覺へ候。」
とて、さまざまにもてなしければ、二人の道心、
「さるにても、君〔きみ〕には、いか成〔なる〕御方〔おかた〕の閑居にて、かやうの所には住(すま)せ給ふぞや。御名〔おんな〕をば、なのらせ給へ。」
と、いへば、夫婦ともに泪(なみだ)をうかめ、
「申〔まうす〕につけて、はづかしけれど、それがしは、古への曾我の十郞祐成(すけなり)、これなる者は、大磯の「とら」。二人がからだは、裙野が原の露ときへしかど、魂魄(こんぱく)は數(す)百歲の苔の下に、しんい・邪婬(じやゐん)の罪に引れて、かく、しゆら道(だう)のくるしみを、受(うけ)侍るなり。さるにても、我〔わが〕弟の五郞時宗(ときむね)は、ようせうより箱根にすんで、毎日、法花(ほつけ)講讀の功力(くりき)に引れ、今、人間に立歸り、甲州・信州二ヶ國のあるじ、武田晴信入道信玄と、なれり。然れども、隔生卽亡(きやくしやうそくぼう)の理(ことは)りによつて前生(ぜんしやう)の事をしらず。願くは、御僧、此事を傳へて、追善をなし、我(わが)跡をとはせ、成佛を得せしめたまへ。」
と、則(すなはち)、印(しるし)に金(こがね)の目貫(めぬき)を、片(かた)し取出〔とりいだ〕し、二人の僧にあたへて、
「もはや夜(よ)も、いたう更(ふけ)ぬれば、暫くまどろみ、つかれを、はらしおはしませ。」
と、四人一處(しよ)にうたゝねして、松ふく風の音におどろき、枕をもたげて、あたりを見れば、四阿屋作(あづま〔や〕づく)りのやかたと見へしは、枯野に殘る薄となり、あるじの姿と思ひしは、苔、るいるいたる、石塔のまへに、二人、忙然(ぼうぜん)とおき上りて、ふじ山よりの下向道(げこうだう)に、直(すぐ)に甲州へ立越(〔たち〕こ)へ、印の目ぬきを以て、右の通(とをり)を申上〔まうしあぐ〕れば、信玄、すなはち、對面有〔あり〕て、懷中より目貫を、かたし取出し、今の片しに合〔あはせ〕て見れば、金(かね)ももやうも一具(ぐ)して、分(ぶん)ごうも違(ちが)はざれば、信玄、なみだをながして、彼(かの)幽靈のついぜんの爲(ため)、千部の經を書写して、千僧(〔せん〕ぞう)を以てくやうし、其後、かの二人の僧を、さまざま、もてなし、都へおくり歸されぬ。
されば、信玄程(ほど)の、物に動じぬ大將の、何とて、目貫の一具したればとて、世に類(るい)おゝきせうこをもつて、かくまで信ぜられしぞと、その因緣を尋(たづ〔ぬ〕)れば、此人、たんじやうのおりふし、左の手をにぎり詰(つめ)、いろいろ、開けども、終に、其ゆび、延(のび)ず。漸々(やう〔やう〕)、七月〔ななつき〕めに至(いたつ)て、おのれと、始(はじめ)てひらけ、内に此〔この〕片しの目ぬきを、にぎり居給へり。
『何とぞ、子細あるべし。』
とて、深く此さたを世に秘し給ひしが、今のめぬきと一具せし故、うたがひもなく、せうこに用ひ給ひし、となり。
かゝる奇特(きどく)をおもへば、「若有聞法者無一不成佛(にやくうもんぼうしやむ〔いつふ〕じやうぶつ)のためし、難有〔ありがた〕かりける事どもなり。
[やぶちゃん注:「ふみ石」「踏み石」。上り框(がまち)の前に設けられた履物の着脱の便を考えて置かれた踏み石。
「草鞋(わらんづ)」「わらぢ」は「藁鞋」の「わらぐつ」が「わらんづ」と音変化したものが、がさらに縮約変化して出来た。
「おとこ」ママ。以下同じ。
「いづくに渡らせたまふぞ」「何処(いずこ)へご案内申し上げのか?」。
「きいて」ママ。
「休足(きうそく)」「休息」に同じい。
「聞(きい)て」ルビはママ。
「うら山しき」「羨ましき」。
「ざいしやう」「罪障」。
「苦患(くげん)」苦しみ。狭義には地獄道で受ける苦痛を指すが、祐成と「おとら」のいるのは修羅道(人間道のすぐ下。終始、戦い争い続けて止まず、苦しみや怒りが絶えないが、地獄のような明白な罪科としてのそれではなく、自らの内にある「瞋(じん)」(自分の嫌いなものを憎み嫌悪する「瞋」恚(しんい))・「慢」(奢り高ぶり。増長「慢」)・「痴」(愚かさ。愚「痴」)の三つの苦しみによって生ずるものとされる)であるから、広義のそれ(但し、修羅道以下の畜生道・餓鬼道・地獄道を総て「地獄」ととる見方があり、それだと矛盾はない)。なお、「患」には表外音でちゃんと「ゲン」があるが、現行では、まず、この熟語以外では目にしない。
「曾我の十郞祐成」(承安二(一一七二)年~建久四年五月二十八日(一一九三年六月二十八日)ここではウィキの「曾我祐成」を引いておく。安元二(一一七六)年、曾我十郎祐成が五歳の時、『実父・河津祐泰が同族の工藤祐経に暗殺された。その後、母が自身と弟を連れ相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主・曾我祐信に再嫁した。のち養父・祐信を烏帽子親に元服』『して祐成を名乗り、その後は北条時政の庇護の下にあったという』。建久四年の五月二十八日、『富士の巻狩りが行われた際、弟・時致』(ときむね)『と共に父の敵・工藤祐経を殺害したが、仁田忠常に討たれた』(弟時致は翌日に処刑)。先に示した私の「北條九代記 富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討 パート2〈曾我兄弟仇討ち〉」の本文及び私の注も参照されたい。事件はこの付近(グーグル・マップ・データ航空写真)で発生したとされる。
「大磯のとら」虎御前(安元元(一一七五)年~寛元三(一二四五)年)は相模国大磯の遊女。和歌にも優れ、容姿端麗であったという。「曾我物語」では曾我十郎祐成の愛人として登場し、曾我兄弟が仇討ちの本懐を遂げて世を去った後、兄弟の供養のために回国の尼僧となったと伝えられる。「曾我物語」のルーツは彼女によって語られたものとも言う。これは後、踊り巫女や瞽女などの女語りとして伝承され、やがて能や浄瑠璃の素材となり、「曾我物」と総称する歌舞伎などの人気狂言となったのである。
「二人」曾我祐成とお虎。
「裙野が原」祐成は実際に富士の裾野で亡くなったが、お虎は上記の通り、そうではない。ここはしかし、富士山というロケーションから→富士の牧狩り→曾我兄弟仇討→曾我兄弟の語り部→回国の尼僧となって旅に亡くなったお虎、儚く旅路に「露」(つゆ)「ときへし」(ママ。「消えし」が正しい)お虎の面影と素直にオーバー・ラップするから、特に違和感はない。
「しんい」「苦患」で注した「瞋恚」。
「邪婬」お虎はまさに苦海の救われぬ遊女で祐成の妾(正式な妻として迎えていない。これは連座させないためでもあったろう)あったから、かく言うのであろうが、お虎は「吾妻鏡」によれば、彼女は事件の三日後の六月一日に鎌倉幕府に召喚されて訊問を受けたが、「口狀(こうじやう)のごときは、其の咎(とが)無きの間(あひだ)、放ち遣(つか)はされ畢(をは)んぬ」とあり、さらに、同月六月十八日の条に、
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十八日癸丑 故曾我十郞妾【大磯虎。雖不除髮着黑衣袈裟。】迎亡夫三七日忌辰。於筥根山別當行實坊修佛事。捧和字諷誦文。引葦毛馬一疋。爲唱導施物等。件馬者。祐成最後所與虎也。則今日遂出家。赴信濃國善光寺。時年十九歲也。見聞緇素莫不拭悲淚云々。
(小十八日癸丑(みづのとうし) 故曾我十郎が妾【大磯の「虎」。除髮せずと雖も黑衣の袈裟を着る。】亡夫の三七日の忌辰(きしん)を迎へ、筥根山(はこねさん)別當行實坊に於いて、佛事を修す。和字(わじ)の諷誦文(ふじゆもん)を捧げ、葦毛の馬一疋を引き、唱導(しやうだう)の施物(せもつ)等と爲(な)す。件(くだん)の馬は、祐成、最後に虎に與へる所なり。則ち、今日、出家を遂げ、信濃國善光寺へ赴く。時に年十九歲なり。見聞の緇素(しそ)、悲淚(ひるい)を拭(のご)はずといふこと莫(な)しと云々。)
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とある。「和字」は、ひらがなのこと。「諷誦文」とは死者の冥福を祈るために三宝 への布施の物品や布施の趣旨などを記した文章。追善の法会の導師が読んだ。「ふうじゆ(じゅ)もん」とも読む。「緇素」の「緇」は「黒」の意で「黒衣」、「素」は「白」で白衣で「俗人」のこと。集まった僧や民衆。
さても、この「吾妻鏡」が再編集された頃には、既に原「曾我物語」とも言うべき伝承が形成されていたことは疑いがないにしても、僅かに十九の彼女である。寧ろ、仏は彼女をよりよく転生させようとするであろう。少なくとも修羅道に行くべき因果にはない。しかし、お虎自身にとってはどうだろう? 彼女は修羅道に堕ちても、祐成とともに生きることを必ずや選ぶ。されば、かく二人がともにいることに、何らの矛盾はないのである。いや、二世の契りからも、それは絶対なのである。
「弟の五郞時宗(ときむね)」曾我五郎時致(承安四(一一七四)年~建久四年五月二十九日(一一九三年六月二十九日)は「時宗」とも書いた。建久元(一一九〇)年九月七日に、頼朝の岳父北条時政を烏帽子親として元服、その偏諱を賜って時致と名乗ったとされ、その後は時政の庇護の下にあったとされる。仇討で兄は討たれたが、時致は将軍頼朝を襲おうとし、その宿所に侵入したものの、女装した小舎人(こどねり)御所五郎丸によって捕らえられた。翌日、頼朝の取調べを受けた際、仇討ちに至った心情を述べ、それを聴いた頼朝は助命を考えたが、討たれた祐経の遺児犬房丸(後の伊東祐時)の懇請により、彼らに引き渡され、処刑された。
「ようせう」「幼少」。歴史的仮名遣は「えうせう」が正しい。
「箱根にすんで、毎日、法花(ほつけ)講讀の功力(くりき)に引れ」これは、大分(だいぶん)後の、曽我兄弟の事跡を主題として膨れ上がった「曾我物」(能・幸若舞・浄瑠璃・歌舞伎など)で形成された話に基づいている。
「武田晴信入道信玄」彼は大永元(一五二一)年生まれで、元亀四(一五七三)年没である。冒頭で「天文の比」(一五三二年~一五五五年)と言っている。作品内時制の設定の上限を絞り得る。かの「川中島の戦い」(緒戦は天文二二(一五五三)年)の前後辺りを考えてよいのではなかろうか。
「隔生卽亡(きやくしやうそくぼう)」漢字表記やルビはママ。「隔生即忘」が正しく、読みは「きやく(或いは「かく」)しやうそくばう」(これは誤った「亡」の字であっても同じ)となる。「生を隔てて、来世に行くと、前世のことは、すべて忘れてしまうこと」を言う。例えば来世に生れ変った場合、現世のことは、一切、記憶に残らないことを言う。但し、仏・菩薩は、その有するところの「六神通」や「五神通」といった「宿命通」によって、自他の過去を知ることが出来るとされる。
「目貫」刀の刀身と柄を固定する目釘(めくぎ)のこと。後には柄(つか)の外に現われた目釘の鋲頭(びょうがしら)と座が、装飾化されて、その部分を指すようになり、さらに目釘と分離した飾り金物として柄の目立つ部分に据えられるようになった装飾具の呼称と変じた。時代的には実用的ななそれであるが、本作が書かれた時代、読まれた時代を考えれば、圧倒的に後者である。細工物であるからこそ「もやう」(「模樣」)も一致するのである。
「片(かた)し」これで一語の名詞。「片足」の略かとも言われるが、「対になっているものの片方」、「片一方」の意である。
「忙然(ぼうぜん)」漢字表記はこれもありである。私は「呆然」と書くが、「茫然」「惘然」なども可である。ここは「あっけにとられるさま」の意。
「分(ぶん)ごう」表記はママ。「分毫」。歴史的仮名遣は「ぶんがう」が正しい。程度や量のごく少ない、というより、全くないこと。
「一具したればとて」一揃いとして合致したからと言って。
「世に類(るい)おゝきせうこをもつて、かくまで信ぜられしぞ」「世の中に、目貫なんどというものはゴマンとあって、そこに全く同じものがたまたま合致したとして出てきても、何の不思議も、これ、ない。それは幾らでもあり得る、偶然の一致でしかない。そんなものは凡そ、亡き兄の持ち物であったという証拠なんどには到底ならない。そんな怪しい物品を以って、どうしてそこまでお目出度くお信じになってしまわれたのか?」の意。
「おりふし」ママ。「折節(をりふし)」。
「若有聞法者無一不成佛(にやくうもんぼうしやむ〔いつふ〕じやうぶつ)」「法華経」の「方便品」の偈文(第二句)。「若(も)し、法を聞く者有らば、一つとして成佛(じやうぶつ)せざるもの無し」。
さて。実はこの話、明らかに先行する種本がある。それは、本作(元禄一七(一七〇四)年板行)よりも二十七年前の延宝五(一六七七)年に板行されている「宿直草」の「卷五 第四 曾我の幽靈の事」である。僧が一人であること、信玄が小田原城主であることなど以外は甚だ酷似しており(お虎の熱湯の湯浴みなどはそちらの方が怪奇談としてのツボを押さえている)、剽窃のレベルである。ちょっと残念。]