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2020/09/05

梅崎春生 年齢

 

[やぶちゃん注:昭和四〇(一九六五)年五月号『小説新潮』。単行本未収録。本作は遺作となってしまった「幻化」の前月、死の二ヶ月前の発表である。

 底本は「梅崎春生全集」第一巻(昭和五九(一九八四)年五月刊)に拠った。

 なお、梅崎春生「生活」の私の冒頭注を参照されたい。この小説、梅崎春生の作品の中では段落の長さが短いのが特徴である。

 一部に注を附した。]

 

   年  齢

 

 汽車は轟々と走っていた。と書きたいところだが、実はよたよたと走っていた。時々停ったり、また動き出したりして、いつ目的地に着くのか判らない。終戦直後の九州の汽車なので、ムリもない。乗客はほとんど復員兵であった。

 車輛は木造で、掃除もろくにしないと見え、すすけでいた。手指が触れると、煤(すす)でまっくろになりそうだ。動きが遅いのは、保線の不完全と、燃料が粗悪なせいだろう。ダイヤがめちゃめちゃだった。いや、ダイヤなんてものはなかった。動いている汽車は、全部臨時列車だった。車輔も不揃いで、天井に穴のあいたものもある。晩夏の烈日の下で、歪んだその列車は、私たちや荷物を満載して、よたよたと進行していたのだ。

「実際ひどい汽車だな」

「よごれ放題と来やがる」

 などと批判の声はあちこちから上っていたが、不平や不満の響きはほとんど感じられなかった。彼等は汽車に乗れたということだけで、おおむね満足していたのである。乗れなくて駅に取り残されたのもたくさんいるのを、知っていたからだ。これに乗っていれば、とにかく故郷に復員出米る。その気分が皆を陽気にしていた。

 第一鹿児島を発(た)つ時から、賭けだった。九州本線に乗るか、日豊線を利用するか。各駅間の電信も杜絶(とぜつ)しているらしく、状態がさっぱり判らない。完通しているという噂もあれば、三箇所断(き)れていて徒歩巡絡だという情報もある。どれが真相で、どれがデマか、誰も確言出来る者はいない。

 私は福岡県の福岡へ復員する予定だった。九州本線を利用しても、日豊線に乗っても、臣離的にはそう違わない。しかし歩かせられるのはイヤだ。重い復員荷物を持っている関係上、汽車だけで帰りたかった。荷物は衣囊(いのう)中にいっぱい。放出物資の毛布や靴や航空糧食などで、やたらに重い。これをかついで、二里も三里もはとても歩けない。是非歩けというなら、歩けないこともないが、すこし内容を整理して捨てる必要がある。世間に物資が乏しいことは知っていた。はち切れそうな物資をかついでいる姿が、娑婆(しゃば)の人々(民間人を指す軍隊用語)の反感を買うことは知っていたが、こちらからすれば、

「一年半近く海軍で追い廻され、棒でたたかれたりして、なんでこの荷物が捨てられるか!」

 というのが私の気持で、生命がたすかったことだけで満足すべき筈なのに、私は他の連中と同じく、はなはだエゴイスティクな心境になっていた。当時としては、まあ当然のことだろう。

 昨日の午後、鹿児島駅で、汽車を待っていた。駅といっても、建物も天蓋もない。歩廊があるだけで、そこに各基地からあつまった復員兵がひしめき合っている。そこにするすると汚れた汽車が、前触れもなく入って米た。そこで大混乱が湧き起った。汽車に乗ろうとするためだ。

 幸運だったのは、その汽車が丁度私が休んでいる前に停ったことである。他人をかき分けて乗るのは、私の一番ニガ手とするところだが、目前に停ったので、急いで荷物を放り込み、窓から強引に乗り込んでしまった。駅に待機していた兵の半分は、歩廊に取り残されたのである。乗り込んだわれわれは、お互いにその幸運を祝い合った。これがほんとの幸運であったかどうか、あとにならねば判らない。

 夕方頃から嵐が吹き始め、宮崎県の大丸川の鉄橋がこわれてしまい、乗客一同は日豊線高鍋駅でおろされて、台風のさなかを高鍋の町に閉じ込められるという結果になる。[やぶちゃん注:「高鍋駅」はここ(グーグル・マップ・データ)であるが、「大丸川」というのはその先で長い鉄橋で渡る小丸川の誤りであろう。なお、次は一行空けである。]

 

 で、今よたよたと走っている汽車は、昨日の汽車ではない。夜明けまで高鍋の町に閉じ込められ、台風一過の好天気の中を次の駅まで歩いた。歩いたのは身ひとつで、荷物は牛車をやとって乗せた。その牛車の割カンが一人当り三円で、十数人分を乗せたのだが、私にはひどい高値に思われた。二年近く世間と接しないので、ものの値段が判らなくなっていたのである。[やぶちゃん注:「次の駅」は川南(かわみなみ)駅(グーグル・マップ・データ)。現在の営業距離では一・一キロメートルであるが、大丸川を渡るためにかなり迂回せねばならないので(大丸川は少なくとも現在は河口部内側(日豊線の鉄橋がある部分)が妙に広くなっている)、現在の国道十号高鍋バイパスも破壊されていた可能性を考えると、実測で最悪の場合、十二キロメートル弱の距離を歩くことになる。]

 次の駅で数時間待ち、かろうじてつかまえたのがこの汽車で、もちろん満員である。一区画四人席に、四人乗っている。それじゃ満員じゃないではないか、と思う向きもあるだろうが、人間の他に荷物がある。それが座席の上に乗っている。通路に坐ったり立ったりしている復員兵の荷物も、座席に積んである。そして乗客は荷物の上に、または荷物の間に、ちぢこまっているのだ。もうこれ以上、荷物や人を乗せる余地はない。

 私の斜め前に、若い復員兵が一人、やはり荷物の間に腰かけていた。ずんぐりして、蟹(かに)のような感じがする。その若者は手拭いで鉢巻をしている。その鉢巻に、血が滲んでいる。発熱でもしているのか、眼がとろんとうるんでいる。私はその顔も名もはっきりと見知っていた。木田という兵長だ。もちろん向うも。

 その若者は最初、網棚の上に寝ていた。しかし汽車の網棚は狭いので、寝返りも打てないし、体が鋼鉄の部分に当って、ごつごつするに違いない。私にはその経験はないが、やがてやり切れなくなったのだろう、短い体を無器用に折り曲げて、座席の上に下りて来た。そして私の顔を見た。

 私もじっとそいつの顔を見返した。

 若者は荷物の間に、ぐにゃぐにゃと体を入れる隙を見つけて、窮屈な姿勢で収まった。眼を閉じる。少し経って、またあける。窓外の景色を見る。また閉じる。いかにもつらさを誇張しているみたいだ。

「兵長。どうかなさったのですか?」

 私の横にいる老兵が、その若者に問いかける。老兵といっても三十七、八の年配で、ふつうの世間では『老』などと言われる齢ではない。海軍に召集されたばかりに、爺さん扱いをされるのである。まだ解員された直ぐなので、自分は社会の『壮年』だという意識を取り戻せないのだ。腕には『一等水兵』のしるしをつけている。

「昨夜の嵐で、ケガしたんだ」

 若者がもの憂(う)く答える。兵長が一水に答えるつっけんどんな調子だ。私はにがい笑いを押えて、兵長の顔を横目で見ている。にがいだけではない。かすかな憎しみもある。

「繃帯(ほうたい)を上げまっしょうか。看護科からたくさん貰って来ましたんで。薬も――」

老兵はなお執拗に言葉を続ける。言葉だけでなく、自分の衣囊の紐(ひも)を解こうとする。老兵と若者は、齢がずいぶん違う。親子ほども違う。年若の者に対するいたわりなのか。それとも旧上級者への阿諛なのか。

「よせよ」

 私は傍から口を出した。

「折角もらって来たんだろう。家まで持って帰れよ」

「でも――」

 老兵は私の顔を見て、おどおどと答える。体に似合わないぶくぶくした略服を着ている。今年になって召集されたのだろう。

 昭和二十年の初めから、陸海軍は兵員数をふやすために、競争で民間人をごしごしと召集した。その結果、若いのは狩りつくして、三十代の後半や四十過ぎたのも召集された。彼等はおおむね体力が弱い。強いのはとっくの昔に召集されていたからだ。そこで体力のない老兵たちは何をしたか? 自分たちの居住する壕掘りなどに使役され、掘り終らないうちに戦は終った。結局彼等はたいてい、軍隊の飯を食い棒で尻をたたかれただけで、ほとんど何もしなかったということになる。ムダなことをしたもんだ。

「でもも、へったくれも、ないだろう」

 私はすこし語気荒く言った。

「娑婆に戻れば、繃帯なんかは貴重品だぜ。なかなか手には入らない」

「へい」

 はい、と、へえ、の間のような答え方をした。

「では、やめときます。兵曹」

 解いた紐をまた結び直した。木田兵長はうすら眼で、それを見ている。私は兵曹だから、兵長より位が上だ。老水兵が私の勧告に従うのは、当然である。そういう計算を見通して、私は口を出したのだ。兵長は血に汚れた鉢巻に手を触れた。明かに新しい繩帯を欲しがっていた。――

 

 私、三十歳。昭和十九年六月一日召集。兵隊で一年ほど過ごし、下士官志願。二十年五月海軍二等兵曹となる。陸軍の位に直すと、伍長だ。

 なぜ下士官を志願したか? 兵の生活がつらかったからである。なぜつらかったか? 甲板掃除や、夜の罰直があったからである。

 召集されたのは、二十九歳で、当時私は老兵だった。(昭和二十年になると、三十代、四十代が召集されて来で、私も老でなく、中年増(どしま)ぐらいになったが)現役や志願の兵隊といっしょに働くのは、ムリであった。いや、働くのはそうムリでなかったが、軍隊の持つ不合理さに耐えるのに苦労をした。

 海軍は陸軍と違って、合理的な軍隊だと思っていたら、入団早々おかしなことにぶっつかり、呆れた。入団当日吊床(ハンモック)のくくり方を習い、その夜それに寝る。翌朝、かけ声がかかった。

「総員起し五分前」

 だから私は吊床から降りて、くくり始めた。すると下士官が飛んで来て、いきなり私をぶんなぐったのだ。

「なぜ起きるんだ?」

 なぜなぐられるのか、私には判らなかった。説明によると、総員起しで起きるべきであって、五分前には起きてはいけないんだそうである。早起きしてほめられるかと思ったら、その逆であった。しかしかけ声で眼が覚める。五分間じっとしておれというのは、どうにも理解出来なかった。

 甲板掃除も、そうだ。

 甲板というのは、軍艦の甲板だけでなく、陸上の兵舎の床のことも言う。それを水兵たちが掃布(そうふ)というもので、しゃがんで、あるいは尻を立てて拭き上げる、もっとも原始的な掃除の仕方をやる、そんなことをせずに、水をざあっと流して機械で拭き上げるとか、電気掃除機のように塵埃を吸い取るとかすればいい。当時の科学の精粋みたいな軍艦でも、そんなバカなことをやっていた。それが私には理解出来なかった。水を含んで重い掃布を、大正時代の下宿の女中さんのように尻を立て、端から端まで押して走る。二十年の初めに、私は指宿(いぶすき)航空隊に通信兵としていたが、そこでの勤務が一番つらかった。数年前に心覚えに書きとめた文章がある。それを記すと――

 薩摩半島というのは、日本本土のだいたい最南端にあって、その中でも指宿は内海に面している関係上、冬でも寒さ知らず、温泉がわき熱帯植物が生え、雪なんかは見たことがない別天地だという風に、近頃の新聞に書いてあった。ホントかね、と私は疑う。

 実は私は戦争中、一冬を指宿で過ごしたことがある。もちろん避寒や疎開でなく、兵隊として行ったのだ。寒かった。

 しかし兵隊生活がラクでなかったのは、寒さのためだけではない。まず勤務がつらかった。ふつう通信科の勤務は三交替制、たとえば三時間勤務すれば六時間休みという具合だったが、ここは二交替制で、当直の時間は二十四時間だ。つまりきょうの正午に当直につけば、翌日の正午までぶっつづけに働くのである。夜間は交替に暗号室に毛布をしいて眠る。しかし時間が来たからといって、兵曹だの兵長だのを揺り起せば、たちまち彼等は機嫌を悪くするので、われわれ一等水兵は遠慮して、彼等のぶんまで起きで勤務する。そんな事情で徹夜となることが、しばしばであった。三十歳だから身体がもったが、今ではとても出来ないことだ。

 では、二十四時間働いて、次の二十四時間は休養かというと、そうは問屋がおろさない。兵隊に休養というものはないのだ。いろんな仕事がある。たとえば甲板掃除だ。朝夕二回やる。オスタップ(大きなたらいのこと)に水を入れ、えっさえっさと運ぶ。掃布という雑巾の親玉みたいなので、床をこすって廻る。冷たい水なので、手足はひびあかぎれだらけになった。[やぶちゃん注:「オスタップ」wash tab(洗浄用バケツ)の訛った日本海軍の隠語。]

 それに掃除面積がやけに広かった。電信室、暗号室、居住区その他。あの部隊は何でも大ぶりに出来ていて、電信室などはちょいとした雨天体操場ぐらいもあった。兵長の号令一下、四つんばいになって重い掃布を端から端まで押して行く。呼吸が苦しくて膝ががくがくとなる。すると兵長が叫ぶ。

「マ、ワ、レエッー」

 すなわち廻って、同じ姿勢で戻って来ねばならぬ。途中でへばりでもしようものなら、兵長の持った頑丈(がんじょう)な棒が、尻に飛んで来る。

「何であんな掃除の仕方をやらせるんだろうなあ」

 私は相棒の老兵としばしば訝(いぶか)り、嘆き合ったものだ。清潔にするというより、下級兵士をいじめるためにその方法が考案されたとしか、考えようがない。

 夜の掃除が終って巡検、それで眠れるかというと、そうでない。それからがたいへんだ。居住区の甲板にわれわれを整列させ、兵長が文句を言う。長々と紋切型の説教をする。どこの部隊でも決り文句だったから、明治大正の頃から次々に言い伝えられたものに違いない。揚句(あげく)の果てに、

「きさまたち、やる気がないなら、やるようにしてやる!」

 一人ずつ順々に前に出て、兵長から棒で尻をなぐられる。その棒を海軍精神注入棒と称し、野球のバットみたいなもので、バットより少し長めに太めに出来ていた。

 筋骨たくましい兵長がそれを振り上げ、力任せに振りおろすのだから、その痛さは言語に絶した。その日の兵長の心境によって、三本ぐらいで済むこともあるが、十本もなぐられることもある。尻に紫色のあざの絶え間がなかった。

 棒でなぐるのは、手でなぐるより、拳を傷めない。その点では合理的だが、なぐられる側からすると、犬や猫じゃあるまいし、非合理極まる私刑だった。

 そこに年齢の間題が加わる。

 兵長は、志願で来ると二十歳、現役でも二十二三ぐらいである。三十にもなって、そんな青二才から尻をなぐられる。死んだ気になって勤めてはいたが、やはり私にも体力の限界がある。

「畜生。何も知らないくせに、おれの尻を叩きやがって!」

と、いつも思う。

 実際彼等は世間のことを何も知らなかったし、想像力というものを持っていなかった。齢が三十だろうと四十だろうと、自分たちと同じように働ける、手足が柔軟に動かせると思い込んでいた。そこでわれわれが出来ないのは、努力していない、怠けていると考えるのだ。そこに思い違いがあった。

 年齢の問題には、自尊心もからまって来る。

 現役の兵隊は、二十一か二十二で、上等水兵になる。この連中が志願兵の二十ぐらいの兵長からしめ上げられる。一つか二つの年下の兵長から叩かれて、彼等は無念の涙を流して、口惜しがる。

 そんなに口惜しいなら、十歳も違う私たちをどうして呉れるんだと言いたいけれども、かえって一二歳違う方が口惜しく、我慢出来ないのかも知れない。

「早く兵長になりてえなあ」

というのが彼等の嘆きで、

「その時は志願兵の若いのを、一人残らず叩きのめしてやる!」

 そこが私たちと考えの違うところで、私は兵長になって人をたたきたいなどと、ケチな考えは絶対に持たなかった。三十にもなって、十八九の子供のような新兵を叩いたって、仕方がないではないか。

 

 以上のように海軍の年齢は、海軍に入った年月日できまるのであって、世間での年齢は通用しない。私たちは世間の年齢は多かったにもかかわらず、『若い兵隊』と呼称されていた。老兵にして若い兵隊であるとは、妙な話だが、実状はそうだった。

 一箇月でも半月でも、早く入った方が上なのである。

 そこで妙な経験をした。

 防府海軍通信学校で、私たち老兵は一隊となり、暗号の講習を受けていた。別の棟には志願兵の一隊がいた。もうこの頃は十五六歳から志願を受けつけていたのだろう。子供子供したのが多くて、隊は違うけれど洗面所や烹炊所で、時々いっしょになる。

 初めの中、その少年たちはわれわれに敬意を払っていた。齢をとっているので、よほど偉く思っていたらしい。話しかけると、

「ハイ」

「ハイ」

 と直立した姿勢で答える。

 ところがある日、少年たちはわれわれの入団日が六月一日であることを知った。私の仲間がうっかりしゃべったらしいのである。俄然(がぜん)少年兵たちの態度が変った。

「おれたちは五月二十五日に入ったんだぞ」

「六月一日(いっぴ)の兵隊のくせに、大きな面をするな」

 と、洗面の場所もゆずって呉れないし、烹炊所での受取りもあと廻しにされる。私たちはあきれて、慨嘆した。

「たった五日先に入っただけで、あんなに威張るのかねえ」

「一体どういう気持だろう。あいつらは」

 まあそれはそれでよかった。海軍での屈辱に私は慣れ始めていたし、不合理を言い争う気分にはなれなかった。

 ある日のことだ。私たちと少年兵たちとは、入浴の時間が、いつもはかけ違っていたが、何かの都合でいっしょになったことがある。私は少年兵たちの裸を見て、内心アッとおどろいた。彼等の大半は、下半身が無毛だったのだ。無毛症なのではない。体が未成熟で、まだ生えていなかったのである。

 毛も生え揃わぬ青二才、などという言葉があるが、そんなのからお前呼ばわりされている。その違和感というか哀しさというか、それが先ず来た。こちらの体は浮世の辛酸(しんさん)をなめ尽しているのに、あいつらの体は蠟燭みたいにのっぺりして、苦労の跡がないじゃないか。

 海軍年齢とは、かくの如くバカバカしいものであった。これは銘記されていい。仕事の能力とは関係ないのだ。もっとも現今においても、官公署や会社の序列は、年齢順にはなっていないようだが、海軍にくらべるとまだマシだ。

 で、私は下士官になった。暗号の下士官だ。

 下士官になってほっとしたのは、甲板掃除や飯運びをしないですむ。それよりも棒でぶんなぐられずにすむことであった。尻なぐりはもっぱら兵長がやるので、いかな兵長でも私に手を出すことは出来ない。

 軍隊では士官と下士官、下士官と兵とは、はっきりした区別があって、兵同士のいさかいは隊内で処理されるが、兵と下士官ではそう行かない。うっかりすると抗命罪ということに問われるらしい。

 ちやんと敬礼もしなけりゃいけない。しなきや欠礼ということになる。

 その点で兵長たちが口惜しがり、かげ口をきいていることを、私は知っていた。

「あいつは十九年六月入りのくせに、いっぱしの下士官面をしやがって!」

 部下の一水や上水にも、いろんな性格の者がいて、そう告げ口をして来る。告げ口する性格の人間をあまり好きでないが、その言はたいへん参考になる。

 生理的年齢や精神年齢において、私は彼等よりずいぶん上なので、上官になるのは当然のようなものだが、どうも彼等は海軍ぼけがしているとしか思えなかった。

「娑婆(しゃば)に出て見ろ。お前たちはチンピラで、三十代、四十代の今いじめている老兵たちには頭が上らないんだぞ」

 と思う。思うが口には出さない。出しても判るような相手ではない。

 他の下士官とも微妙な隔てがあった。他のは皆二等水兵から営々と勤め上げ、今は下士官になっている。下士官になると一応分別もつくから、直接私に当りはしないが、とかくのけ者にする気配がある。海軍年齢の若さにこだわっているのだ。

 戦争中江田島出の士官と、学徒出の予備士官と確執があった。それに兵隊から上って来た特務士官も加わって、心理的にスムーズに行かないという事情があったようだ。士官たちの世界はその頃私と関係なかったし、知りたい興味もなかった。戦後、手記や小説で読んだだけである。今思うに、私と他の下士官との関係は、特務士官対予備士官の関係、それに近いものがあったかとも思う。[やぶちゃん注:「特務士官」海軍の学歴至上主義のために大尉の位までに制限配置された後になって設けられた準階級で、叩き上げの優秀なエキスパートであっても、将校とはなれず、将校たる正規の「士官」よりも下位とされた階級。兵曹長から昇進した者は海軍少尉ではなく、海軍特務少尉となった。]

 ただ違うのは、私が部隊で一人であり、他の下士官はたくさんいた。対立するような人数が揃っていなかった。たとえばどちらも集団で、十人対十人なら、かならず確執が起きる。それが哀しい人間の宿命である。

 しかし私の場合、相手は何人もいるが、こちらは一人である。だから確執までには至らなかった。

 終戦の日、私が降伏を知ったのは、午後六時である。ラジオで天皇の放送があるのは知っていたが、眠さが先に立って、居住壕の寝台で正午から六時まで、ぐっすりと眠ってしまった。六時から暗号の当直に立つ。暗号室に入って、暗号控えを見ると『終戦』という文字が突然眼に飛び込んで来て、びっくりした。掌暗号長に、

「戦争は終ったんですか?」

と聞いた。

 掌暗号長は特務士官である。特務士官というのは、水兵から順々に進級して下士官となり、準士官を経て、士官となる。そこで年齢も三十を越えている。思うに敗戦で一番ショックを受けたのは、特務士官ではなかっただろうか。

「そうだよ」

 掌暗号長は妙な笑い方をして答えた。あの笑いには、無量の感慨がこめられていたに違いない。

「終ったんだよ。海軍はなくなってしまうんだ。しかし他の連中には言うな」

 私は自分の机の前に腰をおろした。五分ほど暗号控えをめくっている中に、何か耐え難くなって、掌暗号長に便所に行くと断り、外に出て、居住壕に駆け帰った。駆け帰ったけれども、何もすることはない。居住壕の一番奥に、べンチが設いてある。そこに電信科の下士官がぼんやりと横になっていた。私の顔を見て言った。

「戦争、負けたんだって?」

る。

「そうですよ」

「アメリカ軍が上陸して来たら、日本の軍隊はどうなるんだ?」

「武装解除ということになっています」

 敗戦や武装解除の件は、口外禁止と掌暗号長に念を押されたが、私はしゃべってしまった。口外禁止と言っても、すぐ知れ渡ることだし、かくしおおせるものでない。

「武装解除、か」

 と、下士官は答えた。あとで思うと、武装解除という言葉を、武器を捨てて解散という風には取らず、アメリカ軍の前に一列に並んで武器をもぎ取られるという風に解釈したらしい。無念げな表情で、眼をつむった。それで私は暗号室に戻った。戻りながら、三十歳という年齢が、にわかに自分に戻って来るのを感じた。

「戦争が済んだ。もうおれは若い兵隊でもないし、若い下士官でもない」

 

 翌日になった。朝、暗号や電信の下土官たちが、壕の奥で何かひそひそ話をしている。私がそこに顔を出すと、昨日の下士官が言った。

「梅崎二曹はいいなあ。娑婆へ戻れば、会社の課長か何かだろう」

 ひそひそ話は、この後の身のふり方について、相談でもしていたらしい。そこに私が現われたので、早速そ言葉が飛び出したのだろう。

 私は笑って答えなかった。

 復員しても、私は課長なんかではない。しかし、

「私は諜長ではないですよ」

 と弁解するのも変だし、黙っている他はなかった。私は学校出ではあったが、下っ端の役人だった。それを説明したって、彼等のなぐさめにはならなかっただろう。

 その夕方のことだ。

 私が暗号の当直に立つために暗号室に入って行くと、私の前の当直長の木田兵長というのが、顔をまっかにして当直の兵隊を怒鳴りつけている。木田は日頃無口な男だが、何かかんかんに怒っているようだ。この木田は志順兵でなく、現役兵である。私は当直が違うので、ほとんど会話を交したことがない。

 木田は私と会っても、敬礼をしたことがない。そっぽ向いてしまう。とがめようと思えば、とがめることが出来るが、私はそうしなかった。二十二三の若者とはり合っても仕方がない。

「この中に軍機を洩(も)らしたやつがいる!」

 木田は海軍精神注入棒で地面をたたきつけた。兵隊はしゅんとなっている。

「日本軍が武装解除されると、しゃべったやつはどこにいる!」

 私を横目に見ながら、そう怒鳴った。あきらかに私を意識している。昨日電信の下士官にしゃべったことを、私は思い出した。あの下士官がまた別の男たちに、言い触らしたのだろう。木田はその下士官から、元兇は私であることを、探り出したに違いない。

「さっき設営の応召兵が、おれんとこに聞きに来た」

 武装解除はほんとかどうかと、老兵が聞きに来たということらしい。なぜ木田が今怒鳴っているかというと、丁度(ちょうど)当直の交替時刻で、私が暗号室にやって来るのを予期していたのだ。

「しゃべったのは、どこにいる!」

 木田はさらに声をはり上げた。

「覚えのあるやつは、立て! 軍機を洩らしたやつは、おれが今ぶってやる。上官であろうと何であろうと、おれはそいつを徹底的にぶちのめしてやるぞ!」

「木田。もういいじゃないか。やめろ!」

 今まで黙って聞いていた掌暗号長が顔を上げて、木田をにらみつけた。

「上官であろうと何であろうととは、何ていう言い草だ。たかが兵長のくせに、言葉が過ぎるぞ!」

 私は黙って椅子に腰をかけていた。心の中で考えていた。木田よ。そんなに気違いのように怒ることはないじゃないか。お前だって志願で入ったんじゃなく、徴集で入ったんだろう。つまり海軍が好きではなく、無理矢理に引っぱられたのだろう。だからお前は志願兵にいじめられて、ひねくれたんじゃないか。海軍を好きでないという点では、お互いさまだ。被害者同士がどうして傷つけ合わねばならないのか。木田よ。よく考えろ。

 私は木田の顔を見た。木田は私に向って、にらむような目付になった。そして何か言い出そうとして、周囲を見廻した。掌暗号長や兵隊の眼が、にがにがしげに、恨めしげにそそがれる。彼はがっくり来たらしい。表情を突然くしゃくしゃに歪め、精神棒を地面にごろりと放り投げ、急ぎ足でとっとっと壕を出て行った。くしゃくしゃにした瞬間、涙がきらりと木田の眼に光るのを、私は見た。

「仕様がないな」

と私は言って、精神棒を拾い上げ、壕の外に出て、谷底に力まかせに投げ込んでやった。棒は急斜面をごろんごろんと転がって、夏草の中に見えなくなった。軍機を洩らした件は、それでうやむやになってしまった。

 

 で、復員列車で私の前に腰かけているのが、その木田兵長なのである。網棚から降りて来た時、私がいるのを見て、木田は、しまった、というような表情を見せた。それから急につらそうな態度となり、とろんとした眼をあけたり閉じたり、窓外を眺めたりしている。

「おい。兵長」

 やがて私は木田に話しかけた。

「頭は何でやられたんだ?」

 木田は黙っている。さっき繃帯(ほうたい)のことで、いやがらせをされたと思っているのだ。私はさらに強く言った。

「返事しないのか。お前、口はないのか?」

「瓦(かわら)です」

 木田は不承不承口を開いた。

 昨夜の嵐はひどかった。私は頑丈な空家に入って一夜を無事に過ごしたが、戸外では瓦や板やトタンが飛び交い、また家が倒れたりして、怪我人が何人も出た。木田も飛び来る瓦に頭を打たれたのだろう。眼がうるんでいるところを見ると、たしかに発熱している。出来れば早く手当をする必要がある。ただし自前でだ。老兵が繃帯を提供するのは、私は許せない気持になっている。

「瓦か。お前の家はどこだ」

「え。耶馬渓(やばけい)の近くです」

「じゃ中津で乗り換えだな。早く家に戻って、頭の手当をしろ。お前、繃帯持ってないのか」

 木田は黙っている。それが怪しかった。

「持ってるな。看護科から貰った筈だ」

 彼は私を見た。うなずいた。

「なぜ自分で取っ替えないんだ。戦争が済むと、兵長もヘったくれもないんだぞ」

 初めはゆっくり話し合うつもりだった。口をきいている中に、だんだん気持が折れ曲り、いこじになって来るのを感じる。大人気ないと思いながらも、そうなってしまう。

「お前、齢はいくつだい?」

 木田は眼を据えた。

「二十三です」

「そうか。おれは三十だ。そしてこのおっさんは――」

 私は老兵をかえりみる。老兵は勢こんで答えた。

「わたしは三十九ですたい」

「こちらは三十九だ」

 私は木田の顔から視線を離さず、そう言った。

「お前は終歌の翌日、暗号室で大いばりでわめいていたじゃないか。あれはどんなつもりだね?」

「いばっているのは兵曹の方じゃないですか」

 木田は口借しげに言い返した。

「何でそんなにいばってんです?」

「三十だからだ。お前より七つ齢上だからだ」

 私はすこし無茶を言った。

「何ならお前をひっぱたいてやろうか。顎を出せ。すったくってやる!」

 バカなことを言っているな、と自分でも感じながら、言った。木田の方から殴りかかるかも知れない。そう思って身構えた。

 木田はゆっくりと車内を見廻した。近くに下士官や兵が乗っている。興味探そうにこちらを見ている。木田は顔を元に戻した。うるんだ眼から、突然涙があふれ出た。彼は顔をおおって泣き出した。私にはそれが意外だった。自己嫌悪がまっくろに胸にひろがって来た。――それから中津までの一時間、木田は泣きじゃくっていた。中津駅で泣きやむと、悄然(しょうぜん)と窓から歩廊に出て行った。

 今思っても、気の毒なことをしたと思う。

[やぶちゃん注:「耶馬渓」大分県中津市にある山国川(やまくにがわ)の上・中流域及びその支流域を中心とした渓谷。日本三大奇勝として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中津」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「乗り換え」当時は大分交通耶馬渓線(旧耶馬渓鉄道。この敗戦の年の四月に合併して改称していた)が中津駅から耶馬渓へと連絡していた。昭和五〇(一九七五)年に全線が廃止され、現在は存在しない。]

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