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2020/09/02

金玉ねぢぶくさ卷之三 城の伊織の介が事 / 金玉ねぢぶくさ卷之三~了

 

   城(じやう)の伊織(いをり)の介が事

 長尾憲信(ながをけんしん)の小ごせう、城の伊織助、十三歲にて見信(けんしん)へ召出(めしだ)され、一萬石に壹萬兩づゝの遣金を拜領して、家、大きに冨(とめ)り。誠(まこと)に天のなせる靈質(れいしつ)なればにや、世にたぐひなき美男(びなん)、けんしん、てうあいの餘(あま)り、

「常詰(じやうづめ)をさせては、もし氣づまりにて病ひもや出〔いづる〕らん。」

と、二人のよこ目を付〔つけ〕て、非番の時は下〔しも〕やしきへ下(さげ)、獨(ひとり)の母へ孝行をつくさせ、恩をあたへ、賞を施して、我領地にもかへまじき程に愛し給へり。

[やぶちゃん注:微妙に名前の表記をずらし、確信犯と思われる「見信」などという表記替えをしているが、弩級の有名人が登場した。越後国の大名で関東管領の覇者上杉(長尾)謙信輝虎(享禄三(一五三〇)年~天正六(一五七八)年)である。彼は生涯独身で、真正の若衆道であった可能性が高い。

「小ごせう」「小小姓」「兒小姓」だが、歴史的仮名遣は「こごしやう」が正しい。未だ元服していない非常に年若い小姓のことを指す。

「城の伊織助」(標題や本文では「いをり」「いほり」と現れるが、普通に歴史的仮名遣は「いおり」でよい。以下、注さない)不詳であるが、城氏(じょうし)は平安から鎌倉初期にかけて越後国で栄えた有力豪族であった。本姓は平氏で、常陸平氏大掾氏の傍系で越後平氏ともいわれる。ウィキの「城氏(平氏)」によれば、『平将門と戦った平貞盛の弟、平繁盛の子(または孫)の余五将軍平維茂の系統で、維茂の子繁茂(繁成/重衛)を祖とする。前九年の役の前哨戦で陸奥守藤原登任とともに安倍氏と戦った繁茂の子貞茂(貞成)が城太郎(城介の家の長男の意)と呼ばれ、子孫が城氏を名乗るようになった。越後国北部を領有し、平氏政権が成立した時期にはさらに勢力を伸ばした』。養和元(一一八一)年に、『時の当主である城資永(助長)が急死し、跡を継いだ弟の』長茂(ながもち)が『横田河原の戦いにおいて義仲と対戦する』も、『奇襲戦法に敗れ』た。その後、長茂は『越後守に任じられたが、城氏の勢力は急速に衰退する。義仲や源頼朝ら源氏により平家が滅亡したあと、長茂』『は梶原景時を頼』って『頼朝に仕え、鎌倉幕府の御家人として』文治五(一一八九)年の奥州合戦や、建久三(一一九二)年の『永福寺の工事に参加したことなどが『吾妻鏡』に伝わるが』、建仁元(一二〇一)年、『叛乱を企てて建仁の乱を起こし、長茂は京において幕府軍に討伐され』、『これと呼応する形で、長茂の甥(資永の遺児)である城小太郎資盛とその叔母(資永・長茂の妹)板額御前が挙兵した。『吾妻鏡』に「城郭(鳥坂城)を越後の国鳥坂に構う」と記録されるが、最終的には佐々木盛綱率いる幕府軍によって鎮圧される(その際、坂額は女性でありながら百発百中の腕前を披露したという)。資盛は脱出して行方不明となり、これにより越後城氏はほぼ完全に史上から姿を消すこととなった』。『後世、戦国時代において』、『その末裔とされる一族が上杉謙信や徳川家康に仕えたとされるが、系譜上のつながりは同時代の木曾氏と同様に後世の』偽称の『可能性が高い』とある。この辺りのことは、私の「★③★北條九代記 巻第三【第3巻】 改元 付 城四郎長茂狼藉 付 城資盛滅亡 竝 坂額女房武勇」「北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」をお読み頂きたい。

「よこ目」観察役。]

 

 しかるに、いほり、業平(なりひら)の再誕にや、一國の人民(にんみん)、貴となく賤(せん)となく、老となく若(にやく)となく、愚となく智となく、男(なん)となく女(によ)となく、一度(ど)、此人のかたちを見しものは、れんぼのおもひに胸をこがし、かなはぬ戀に、死をあらそふ。

[やぶちゃん注:「業平」平安のプレイ・ボーイ在原業平。]

 其中に、直江山城守が若たう、菅(すげ〔の〕)半助といふもの、いかなる垣間(かいま)見にや、此人をこひわびて、なみだの床(とこ)のひとりねには、ゆつばかゞ思ひの火を吐(はき)、こがるゝ胸には、塩がまのけぶりを立〔たて〕り。

[やぶちゃん注:「直江山城守」謙信の重臣には直江景綱(永正六(一五〇九)年?~天正五(一五七七)年)がいるが、彼は大和守である。彼の養子となって後の上杉景勝の名臣となった直江兼続は山城守であるから、その混同か、確信犯のずらしかも知れない。

「若たう」「若黨」。

「菅(すげ〔の〕)半助」不詳。

「なみだの床(とこ)のひとりねには、ゆつばかゞ思ひの火を吐(はき)、こがるゝ胸には、塩がまのけぶりを立〔たて〕り」この前半部、意味がとれない。国書刊行会「江戸文庫」版では、『なみだの床(とこ)のひとりねにしゆつばかゞ思ひの火を吐(はき)、こがるゝ胸(むね)には、塩(しほ)がまのけぶりを立り』となっているが、私はここを対句表現とみて、原本崩しを「し」(「志」の崩し)ではなく、「は」(「者」の崩し)でとったのだが、「江戸文庫」版も、私の判読も、孰れも意味がとれない。識者の御教授を乞うものである。原文はここの左頁の後ろから三行目から二行目にかけてである。個人的には原文の錯字・誤字が疑われるようにも思えるのだが。

 

 然れども、其身は數ならず、いほりは見信のてう愛ふかく、いかゞして思ひたへなんとばかりを、しらすべき風の便〔たより〕もなければ、何とぞ、せめて彼(かの)人の家來となり、不斷、姿なりとも詠(ながめ)くらし度〔たく〕、いろいろと工夫をついやし、さまざまにけいこの功(こう)をつみて、髮、さかやきに、一國名どりの名人となれり。

[やぶちゃん注:この菅半助も伊織助と同じほどの若さであることが判る。少し年上のようである。]

 

 誠にいにしへより、藝は身をたすくるならい、終に願ひ成就して、いほり方へ召出され、ふだん姿を見るのみか、朝夕(てうせき)、御ごしをてにかけて、

『命にかけし本望、ひとへに、めうりにかなひぬ。』

と嬉(うれ)しく、

『あはれ、此人の御身のうへに、いか成〔なる〕大事もがな出來〔いでき〕よかし、一番に御爲(〔おん〕ため)に死して「忠」と「思ひ」の二つをあらはし、せめては死後に成〔なり〕とも「あはれ」とおもひしられて、手便(てづから)一へんの御廻向(ごゑかう)にも預らば、未來も煩惱の罪をめつして、二世〔にせ〕の願ひ、何事か是(これ)にしかん。』

と、晝夜、まどろむ間もなく、大切に勤(つとめ)侍り。

[やぶちゃん注:「ならい」ママ。

「御ごしをてにかけて」「御腰を手に掛けて」。いろいろな場面で直にお助けをして。着替えの折りなどには実際に腰を支えたりもし、直接に体に触れることもあったであろう。

「めうり」ママ。「冥利(みやうり)」。

「あはれ」単なる感動詞。「ああ!」。

「めつして」「滅して」。

「二世の願ひ」二世の契りの願望。中国古代より死しても愛し合う者同士は来世(一般には三世で、その次の世までも)もともに連れ添うものとされる。]

 

 いほりも、半助が忠節心にこたへて、惡くもおもはず、ずいぶん、情(なさけ)をかけしかば、半助、いよいよ嬉(うれ)しさ限りなく、

『何とぞ、思ひの長(たけ)を知(しら)せ參〔まゐら〕せ、たとへ無礼(ぶれい)をにくまれ、御手討(〔お〕うち)に預るとも、かゝる情〔なさけ〕の人のてにかゝりて、露ときへん命、元よりの願ひなれば、一筆〔ひとふで〕の玉づさを、いか成〔なる〕隙(ひま)にも。』

と、首尾を窺(うかゞ)へども、二人のよこ目、晝夜、前後をはなれず、盡(つく)す心のかいもなふ、いたづらに月日を過せり。

[やぶちゃん注:「一筆の玉づさ」一通の恋文。]

 

 ある時、伊織、常のごとく、結立(ゆい〔たて〕)し、髮をときて、彼(かの)もとゆひをより戾して見れば、中に細字(さいじ)にかきたる戀の文〔ふみ〕あり。細くたちて、よりこめたれば、並べて是をよむに、

「思ひの露(つゆ)のきゆるばかり」

と書(かき)とゞめしかば、伊織、殊外〔ことのほか〕、ふく立〔だち〕して、二人のよこ目に、

「此通〔このつう〕を上へ申〔まうし〕あげ給へ。我身、直奏(じきそう)申〔まうす〕べけれども、さやうにて、役人たるおのおのの御無念(〔ご〕ぶ〔ねん〕)ともなるべきかと、かく御兩人より、さうさう、仰上〔おほせあげ〕られ候やうに。」

との事。

[やぶちゃん注:「結立(ゆい〔たて〕)し」ルビはママ。「ゆひたて」が正しい。髪の結い直し。

「たちて」「裁ちて」恋文を縦に細かに裁断して、元結の中に髪に隠れて見えぬように差し込んであったのである。一種の類感術的な意味もあったに違いない。

「よりこめたれば」「撚り込めたれば」。前注参照。

並べて是をよむに、

「ふく立〔だち〕」「腹立」。立腹。

「上」主君。

「直奏(じきそう)」ルビはママ。「ぢきそう」が正しい。]

 

 尤〔もつとも〕、二人も、半介が、家來として主(しう)をこひし無礼の程は惡(にくみ)しかども、

「此事、上へ申あげなば、さだめて、からだに墨(すみ)うちして鋸(のこぎり)にて挽(ひか)るべし。其うけ、いほりは一國名取の男色なれば、國中の女・わらんべさへ、めで迷(まど)ふを、いはんや、莊年(そうねん)の男ざかりに、彼〔かれ〕が身をわすれしも、無理ならず。」

とて、まはりに使はれしものなれば、なじみ尺(だけ)の心の贔屓(ひいき)に、不便(〔ふ〕びん)をくはへて、

「御腹立(ごふくりう)、もつとも。しかしながら、此義を上へ申あげては、半介事〔こと〕、いか成〔なる〕うき目にあはんも、しれがたし。其うへ、こなたの形のうつくしさに、かれが迷(まよ)ひぬるも、にくからず。とかく、私どもさへ、さたなしにすれば、波かぜなふ、すむ事。其うへ、彼(かれ)はこなたの御家來なれば、死罪に成〔なる〕とも追放なりとも、心のまゝに行ひたまへ。上へ仰上られんは、不便の事なり。」

と、いへば、伊織、いよいよ腹立して、

「各(おのおの)には、我ら身のうへにあやしき事あらば、たとへ、かくし候とも、御〔ご〕せんぎを遂(とげ)らるべき役人の、其職(しよく)を守り給はず、か程の事を還(かへつ)ておん蜜(みつ)にしたまはんとは、不吟味(〔ふ〕ぎ〔ん〕み)の至り。何とも、がてん參り難し。我らは、君の御厚恩(〔ご〕こうおん)、深ければ、忠義において、私〔わたくし〕なし。所せん、此段(〔この〕だん)、それがし、直〔ぢき〕に申あげ、御目〔おめ〕がねを掠(かす)めぬ所を、あらはすべし。おのおのにも、來り給へ。」

と、袴(はかま)をちやくし、駕(のりもの)にのれば、二人は、あわて、詞(ことば)なく、かごに從ひ、登城(とうじやう)す。

[やぶちゃん注:「主(しう)」ルビはママ。歴史的仮名遣は「しゆう」でよい。

「墨(すみ)うち」入れ墨。罪人への処罰の付属刑。

「なじみ尺(だけ)の心の贔屓(ひいき)」普段、ともに仕事をしている馴染みの深い関係から生じた親近感からの弁護をしてやりたいという思いを指す。

「おん蜜(みつ)」ママ。「隱密(おんみつ)」。

「不吟味」取り調べを十分にしないこと。

「私〔わたくし〕」自分の都合や利益を優先する利己心。或いは、個人的な秘密。ハイブリッドに解してよい。

「御目〔おめ〕がねを掠(かす)めぬ所」「御眼鏡(おめがね)」主君のものの善悪・可否を見極めらるる力の、及ばないところ(「掠めぬ所」)で、隙を覗ってこっそりとやらかしたとんでもない悪事の意。]

 

 いほり、御前へ出て、右の通〔とほり〕を申上れば、けんしん、腹立(ふくりう)、淺からず、

「いかやうとも、行(おこな)ひやうを、伊織に、はからい候へ。」

のよし。

 いほり、望みけるは、

「私〔わたくし〕、此ごろ、數十腰(す〔じふ〕こし)のあら実(み)をうたせ候へども、いまだ、刄鉄(はがね)をためし申さず。心元なく候へば、此もののからだを以て、やい刄〔ば〕の利鈍(りどん)を試(こゝろみ)度〔たき〕。」

よし、所望しければ、

「とも角(かく)も、なんぢ次第。」

とゆるしを受(うけ)て、屋舖〔やしき〕へ歸り、今日・明日(けふあす)は、しやうじん日なれば、明後日、ころすべきよし。

[やぶちゃん注:「はからい」ママ。

「數十腰(す〔じふ〕こし)のあら実(み)をうたせ候へども」「かなりの数の刀剣を新たに鍛えさせて作らせたので御座いますが」の意。「腰」は刀剣類を数える際の助数詞。以下で鎗・長刀(なぎなた)が数多く出てくるから異様な数とは言えない。異様さを抑えるためにも私は「かなりの数」と訳したのである。

「しやうじん日」「精進日」。祖先の忌日などの精進すべき一定の日。]

 

 則ち、鎗(やり)、なぎなたのあら実(み)を、あまた、取出〔とりいだ〕し、とぎやをよんで、ねた刄(ば)を合〔あは〕させ、半介は、庭ぜんの梅の古木(こぼく)へからめ付〔つけ〕させ、さて、其夜は家老にいひ付〔つけ〕、彼(かの)二人のよこ目を、酒ゑんにて、大きにもてなし、

「誠に、けふは、おのおのにも、御苦労。其うへ、御兩人の御さし圖を背(そむ)き、さぞ、我まゝの至りにおぼしめされん。しかし、其段は若輩に免じ給へ。」

と、元より、其家(いへ)、冨(ふう)きなれば、山海(さんかい)の珍物〔ちんもつ〕を調へ、嘉肴美味(かかうびみ)の數(かず)をつくして、さまざまにもてなしけれども、二人は曾(かつ)て滿足ならず、

『さてさて。形(かたち)に似せぬ情(なさけ)しらず。さだめて今は、半介も姿(すがた)ばかりにまよひしを、さぞ、後悔に思ふらん。』

と、戀も覺果(さめはて)、愛(あい)さうもつきて、中々、酒ゑんもしまざりしを、伊織、二人がきげんを取〔とり〕て、大盃(〔おほ〕さかづき)を、みづから、かたぶけ、あなたへさし、こなたへめぐらし、いろいろ、ちさうの誠〔まこと〕をあらはし、しほらしく、けうを盡(つく)せば、元より、伊織、五百万石の領分に並(ならび)なき美少(びしやう)、志賀寺(しが〔でら〕)の聖人(しやう〔にん〕)をも觀念の牀(ゆか)より迷ひ出す程の男色なれば、さすが、二人も魂(たましい)をうばゝれ、

「いかさま。是は緣につれてこそ戴(いたゞ)け。此盃が千金にも買〔かは〕るゝ物か。」

と、意趣(いしゆ)も、恨(うらみ)も、守〔まもる〕べきつとめも、わすれて、正躰なく醉(ゑい)ふしければ、いほり、

「今(いま)、すこし。」

と、しいけれども、二人ともに前後不覺の躰(てい)。

[やぶちゃん注:「とぎや」「研屋」。

「ねた刄(ば)を合〔あは〕させ」「寢刄を合はさせ」刀剣の刃を研ぎさせ。

「半介」ママ。前は「半助」であるが、「助」と「介」は通字で、自らも、かく書き変えることは多く事例があるので問題ない。

「酒ゑん」ママ。「酒宴(しゆえん)」が正しい。以下も同じ。

「嘉肴」で「美味しい料理」で「美味」は畳語。

『さてさて。形(かたち)に似せぬ情(なさけ)しらず。さだめて今は、半介も姿(すがた)ばかりにまよひしを、さぞ、後悔に思ふらん』これは口に出したのではなく、二人の心内語。「姿(すがた)ばかりにまよひし」とは「あのような惨めな姿となって迷うて」の意。

「愛(あい)さうもつきて」「愛想も盡きて」。伊織に対する好意や信頼感もすっかり尽きてしまって。

「しまざりしを」「染(し)まざりしを」か。心から深く楽しむことも出来ずにいたが。

「ちさう」ママ。「馳走(ちそう)」。

「けう」ママ。「興(きよう)」が正しい。

「志賀寺(しが〔でら〕)の聖人(しやう〔にん〕)」志賀寺は現在の大津市滋賀里甲にあった崇福寺(すうふくじ)のこと。天智天皇の勅願になる由緒ある寺であったが、早くに荒廃して、現在は礎石が残るのみである。この人物のことは、例えば、「太平記」の巻第三十七の「身子聲聞(しんししやうもん)・一角仙人・志賀寺上人の事」に出るのが有名である。Cube-Aki氏の個人サイト内のこちらが、原文と訳があってよい。道心堅固の志賀寺の上人が、京極の御息所(みやすんどころ)(藤原時平の娘褒子(ほうし)。宇多天皇の女官で側室の一人)の花見に来た姿を見て、すっかり迷ってしまう話で、その直後、『わが思ひ、はや遣(や)る方も無かりければ、柴の庵(いほり)に立ち歸つて、本尊に向ひたてまつりたれども、觀念の床(ゆか)の上には、妄想(まうさう)の化(け)のみ立ちそひて、稱名の聲の中には、たへかねたる大息(おほいき)のみぞつかれける』という為体(ていたらく)に陥るシークエンスを、ここでは「觀念の牀(ゆか)より迷ひ出す」と掛けて述べたもの。「觀念の床の上には、妄想の化のみ立ちそひて」とは、何んとか自身の観念(意識)を正しく極楽浄土の荘厳(しょうごん)へと向かわせようとしても、実際の庵の仏前の床からは、忌まわしい愛執の妄想の気ばかりが立ち昇ってきて、わが身に纏わって」の意。

「魂(たましい)」ルビはママ。

「いかさま」感動詞。相手の美貌と接待に対して「いかにも!」「なるほど!」の意。

「緣につれて」美少年の伊織さまとの御縁に繋がって。

「此盃が千金にも買〔かは〕るゝ物か」「この盃の一杯は千金を積んでも買うものだ!」或いは「か」は反語で「買うことはとても出来まいぞ!」の意。後者が適切か。

「意趣」ここは「意地」の意であろう。主君への訴えを止めるように言ったにも拘わらず、伊織が、かく申し上げてしまったことへの「意地」である。「恨みを含むこと」の意もあるが、それでは並列がダブって面白くない。

「恨(うらみ)」ここはあまりに残酷な仕儀を願い出た伊織を見て、普段の彼は我々どころか、多くの人々を謀(たばか)っていたのかと思う恨みであろう。

「守〔まもる〕べきつとめ」本来の目付役として仕事。たとえ酒宴を慫慂されても、本来は、酔うほどに飲んでは仕事にならないから、抑制すべきなのである。

「しいけれども」ママ。「强(しひ)けれども」。]

 

 家賴(けらい)をよびて、直(すぐ)に其處(〔その〕ところ)にしとねを蓋(おゝ)はせ、

「さて。こよひは下々〔しもじも〕までも緩(ゆる)りと休足(きうそく)致し申やうに。」

といひ付、夜もふけ、人しづまりて後、彼(かの)ていぜんの古木(こぼく)の本へゆき、半介に詞(ことば)をかはし、

「さぞや、けさよりの難面(つれなき)ふるまひ、さだめて情(なさけ)しらずとおぼしつらん。何がさて、まゆがみの役なれば、我を大切におもふ人を、にくむべき道(だう)、理〔ことわり〕なし。然れども、御身のしり給ふ通り、上よりの吟味、つよく、二人のよこ目の守り、きびしければ、情をかくべき便〔たより〕もなし。其上、そなたの心底(しんてい)は、我手にかゝり、死するとも、露、恨みぬ覺悟と、見屆(とゞけ)しゆへ、心の外〔ほか〕に、つれなく當り、もはや、可愛(かはゆく)おもはれしあいさうも盡(つか)し給ふらん。」

と、彼(かの)いましめをとき放(はな)ち、みづから、てを取、ねやへ入れ、

「若(もし)たすくべき首尾(しゆび)なふして、我手にかけてころしなば、未來は、かならず、兄弟の、是(これ)、けいやくの盃(さかづき)。」

とて、おもひもよらぬ御情〔おんなさけ〕に、半助、夢(ゆめ)ともわきまへず、うれしさとおそろしさとに身もふるひ、申上〔まうしあぐ〕べき言(こと)の葉(は)もなく、泪(なみだ)ぐみたるばかりなれば、

「はや、夜もふけぬ。」

とて、錦綉(きんしう)のしとねの内に、終夜(よもすがら)、本もうとげさせ、有明(ありあけ)の月もかたぶき、八聲(〔や〕こへ)の鳥の別(わか)れをもよほするに、殘る詞(ことば)をきぬぎぬにつゝみて、又、宵のごとくに、梅の古木へ、いましめ置〔おき〕ぬ。

[やぶちゃん注:「家賴(けらい)」漢字はママ。「家來」。

「休足(きうそく)」漢字はママ。「休息」。

「まゆがみの役」不詳。「眉・髪の役」で、眉や髪の手入れをする役の意か、或いは眉や髪のようにすぐ目の前に近侍する役の意か。私は後者でとっておく。識者の御教授を乞う。因みに小学館「日本国語大辞典」にも「まゆがみ」はない。

「ゆへ」ママ。

「可愛(かはゆく)」この語は半助から見てであり、「かはゆし」は多く幼い子に用いるから、やはり半助は伊織より年上である。

「あいさう」「愛想」。

「けいやく」「契約」。

「錦綉(きんしう)」「錦繡」に同じい。錦 (にしき) と刺繍 (ししゅう) を施した織物。

「本もう」ママ。「本望(ほんまう)」が正しい。

「八聲(〔や〕ごへ)の鳥」ルビ「こへ」はママ。「こゑ」が正しい。「八聲の鳥」(やごゑのとり)で「八聲」は何度も鳴くことを指し、夜の明け方にしばしば鳴く鳥で、鶏(にわとり)のこと。

「殘る詞(ことば)をきぬぎぬにつゝみて」「後朝(きぬぎぬ)の別れ」に掛けたもの。この作者、なかなかに雅趣がある。]

 

 二人のよこ目は、夕部(ゆふべ)の大酒〔おほざけ〕に二日酔して、其日も、やうやう、日出〔ひいで〕て起ぬれども、

「かやうの情(なさけ)しらずに氣遣(き〔づか〕)ひして、我々をつけおき給ひ、二人に千石余(よ)のついへ。大名なればこそ跡(あと)もあかね。たとへ、われわれが油斷したればとて、氣遣ひげの有〔ある〕若衆〔わかしゆ〕ならず。」

と、それより、二人のよこ目も次第に番をおこたれば、毎夜(まいや)、思ひのまゝに情〔なさけ〕をかけしかど、我(わが)近習(きんじう)の家來さへ、曾て、是を、しるもの、なし。

 もはや五夜(いつよ)に及びぬれば、伊織、半介に申けるは、

「いせの海あこぎが浦(うら)に引(ひく)網(あみ)も、度(たび)かさなりてこそ世にはもれけめ。もはや、こよひが今生〔こんじやう〕のいとまごひ、明日(あす)は首尾(しゆび)よく命をたすけ、此國をついほうすべし。他國(たこく)にて、奉公、かせぎ、今の情〔なさけ〕をわすれたまふな。」

と、則ち、道のたすけに〔いちぶ〕三千、下(した)おびの緣(へり)にふくませ、長き別れのなごりをおしめば、半介、なみだをながし、

「さてさて、難有(ありがたき)御情〔おんなさけ〕、いつの世にかは、わすれまいらせ候べき。とかく御手にかゝり相果(〔あひ〕はて)ば、けつく、思ひはあさかるべきに、命、助〔たすか〕り、只今、別れたてまつり、末の闇路(やみぢ)をおぼし召〔めし〕やらせたまへ。」

と、みだるゝ内にも御ためをあんじて、又、いましめのなわを掛(かゝ)り、彼(かの)梅が枝(ゑ)に、よりそひける。

[やぶちゃん注:「夕部(ゆふべ)」漢字表記はママ。「昨夜」。

「二人に千石余(よ)のついへ」「ついへ」は「費」で「ついえ」が正しい。目付役としてそれぞれに法外な石高を与えていたのである。ここは自分たちのことを謂っているので注意が必要。

「大名なればこそ跡(あと)もあかね」意味不明。「飽かね」で、気が変わって二人で二千石余りを与えることがいやになることはあるまいよ、の意か。だとすれば、こんな仕事を真剣にやらんでもよかろうということになり、次のいい加減な主張が出てくるわけである。

「氣遣ひげの有〔ある〕若衆〔わかしゆ〕ならず」気遣いするようなことのあるような若造ではない。

「近習(きんじう)」ルビはママ。「きんじふ」が正しい。

「いせの海あこぎが浦(うら)に引(ひく)網(あみ)も、度(たび)かさなりてこそ世にはもれけめ」平安中期に成立した選者不詳の「古今和歌六帖」巻第三にある、

 逢ふことを阿漕(あこぎ)の島に引く網のたび重ならば人も知りなむ

及び、それを受けた「源平盛衰記」巻第八の「讚岐院ノ事」にある(原文は漢字カタカナ交じり)、

 伊勢の海阿漕が浦に引く網も度重なれば人もこそ知れ

及び、それらをインスパイアした謡曲「阿漕」(作者不詳。シテは漁夫の霊。旅の男が伊勢の阿漕浦を訪れる。来かかった老人(前ジテ)と言葉を交わし、土地に縁のある古歌などについて話し合う。老人は、この浦は殺生禁断であるが、ある男が、毎夜、隠れて網を下ろしていたのが露見して殺されたことがあると物語り、自分こそその男の霊の仮の姿であると明かす。そのうち、にわかに海が荒れ出し、あたりの火も消え果てた闇の中に、老人の姿は消え失せる)の前半の和歌問答で、ワキが「古き歌」として引く、

 伊勢の海阿漕が浦に引く網も度重なれば顯はれにけり

が後者をもととし、それを受けて前シテが「かの六帖の歌に」と言って引く、

 逢ふことも阿漕が浦に引く網も度重なれば顯はれやせん

は、「古今和歌六帖」のそれを変形させたものであり(但し、この能によって本歌は知れ渡った)、そうした総体をさらにインスパイアしたものが本文のこれである。但し、これらの元歌は孰れも本来は男女の密会を想定して歌ったものであるから、ここに引くに最も相応しいものではある。

「ついほう」ママ。「追放(ついはう)」。

「かせぎ」「稼(かせ)ぎ」。動詞。

「一步三千」一分金三千枚。江戸時代の換算では一分金は四分の一両であるから、七百五十両相当の大金となる。一分金はサイズが小さいが、下帯に三千枚はちょっと無理がある気がする。

「けつく」「結句」。結局。つまるところは。

「思ひはあさかるべきに」これは半助の謙遜の辞。

「なわ」ママ。「繩(なは)」。]

Ioritohansuke

[やぶちゃん注:挿絵は一幅のみ。国書刊行会「江戸文庫」版からトリミングした。]

 

 いほり、其翌日(よくじつ)、

「けふは、半介をころすべし。」

と、砂をふるはせ、土壇(どだん)をこしらへ、鎗(やり)やかたなを取出〔とりいだ〕せば、家老(からう)城刑部(じやうのげうぶ)、いさめけるは、

「古(いに〔し〕)へより、人の、執心(しうしん)をうけて、情(なさけ)をかけぬは、各別の事、罪(つみ)におこなふ例(れい)をきかず。それ、恋路(〔こひ〕ぢ)には高きいやしきといふ隔(へだて)なし。只今、彼(かれ)をころし給はゞ、世上(〔せ〕じやう)の取ざた、よろしかるまじ。それ、侍(さぶらい)は、たとへ、小人ならねども、情をしるが肝心なり。いわんや、君(きみ)にはいろざかり、情なふては、たのもしからず。ひらに助(たすけ)させ給へ。」

といへば、二人のよこ目も、是を力に、いろいろと、わび言(ごと)す。

  伊織、あやまりたる風情(ふぜい)して、

「我は一筋に君(きみ)への忠を大切に思ひ、人の謗(そしり)をかへり見ず、殺さんとおもひしかども、御兩人の仰〔おほせ〕、もだし難し。此うへは如何(いか)やうとも、二人の御意〔ぎよい〕にしたがふべし。とも角(かく)も、よろしきやうにはからへ。」

といへば、半助がいましめをとき、重(かさね)て、「此國へ足むけをするにおいては、見合〔みあはせ〕次第(しだい)討(うす)ずて」の旨(むね)、申〔まうし〕ふくめ、一國を追放す。

[やぶちゃん注:「砂をふるはせ、土壇(どだん)をこしらへ」試し斬り・試し刺しをして処刑するために、砂を篩に掛けて、均一な粒子にした上で、それで緻密な土の壇を搗き詰めて(あたかも相撲の硬い頑丈な土俵を作るのと全く同じである)拵え。挿絵にはそれは描かれていない。

「家老(からう)城刑部(じやうのげうぶ)」ルビはママ。「刑部」は「ぎやうぶ」が正しい。同じ城姓であるから、恐らくは伊織助の遠い親族なのであろう。実在した城氏で謙信に仕えた人物として知られているのは城貞茂がいる。但し、彼は子の城景茂に譲るも、その代で謙信の勘気を蒙って、父子ともに会津で浪人となったとされ、後に甲斐国に至って謙信の宿敵武田信玄に仕えている。但し、彼の名乗りは式部少輔で兵部ではないし、息子の景茂は和泉守である。

「人の執心をうけて、情をかけぬは、各別の事、罪におこなふ例をきかず」人が、強い恋慕を受けて、その者に対して一抹の情けをも懸けてやらぬというのは、尋常なことではない、異常なことにて御座る。そうして、その恋慕をただ素直に言い表した(この場合は御髪(みぐし)に潜ませた恋文)だけのことを以って、それを罪となし処罰・処刑を行ったという事例は拙者は聴いたことが御座らぬ。

「侍(さぶらい)」ルビはママ。

「小人ならねども」取るに足らぬ愚かな者でない、相応の人物であったとしても。

「君(きみ)にはいろざかり」「君」はこの場合は尊敬の二人称で伊織を指すのであろう。伊織殿にあっては、主君のお気に入りでもあらせられる、若き美しき美少年の盛りでおられれる。

「君(きみ)」ここは言わずもがな主君長尾を指す。

「もだし難し」無視することはし難い。

「此國へ足むけをするにおいては」この越後国に再び立ち入ったとならば。

「見合〔みあはせ〕次第(しだい)」発見し次第。

「討(うす)ずて」ルビや送り仮名は総てママ(底本のここの右頁の最終行)。国書刊行会「江戸文庫」版でもママ注記がこの箇所には附されてあるが、よく判らぬ。単純に考えると「討(うち)捨て」であろうが、何となく尻の座りが悪い気がする。「見合わせ次第、討ち捨てむずの旨」或いは最後を正規の「打ち捨てむとすの旨」としたくなる私がいる。]

 

 此事、國中に、かくれなく、

「扨も、いほりは形〔かたち〕ににせぬ、情〔なさけ〕しらず。」

「ゑり好(ごのみ)の、くまで。」

のと、こがれし男女〔なんによ〕も戀をさまし、取々〔とりどり〕に謗(そしり)ければ、半介、他國にて此噂(うはさ)を聞(きゝ)、

「さてさて、か程〔ほど〕まれなる情知(〔なさけ〕し)りを、世上〔せじやう〕に、あしくさたする事の、口おしさよ。」

と、下﨟(げらう)の心の悲しさは、有〔あり〕し次第を、獨(ひとり)、二人〔ふたり〕に云分(いひわけ)すれば、

「誠に。珍しき義理噺(〔ぎり〕ばなし)。」

と、段々に語傳(〔かたり〕つた)へ、「一犬(けん)、形(かたち)に吠(ほゆ)れば、百犬、聲(こへ)にほゆる」習〔ならひ〕とて、一家中、是〔この〕ざた、終(つゐ)には見信の耳へ入〔いり〕、嫉妬のいかり、甚(はなはだ)しく、いほりには切(せつ)ぷくさせ、彼〔かの〕半介をたづねられしが、それまでもなく、半助も、此さたを聞(きく)より、はやく、越後へ立越〔たちこし〕、いほりの介が菩提寺に來り、彼〔かれの〕死跡(〔しに〕あと)にて、じがいをとげ、二人、同じ、苔(こけ)の露と、きへ果〔はて〕ぬ。

 後には、けん信も、得度(とくど)あつて、いほりが情〔なさけ〕を深くかんじ、

「おしき小性(〔こ〕せう)をころせし。」

とて、殊外〔ことのほか〕、後悔したまひしと也。

 誠に、「事は密(みつ)を以てなる。語〔ご〕はもらすを以て破(やぶ)るゝ」と、智(ち)有〔ある〕人の愼(つゝ)しみけんも、實〔げに〕、さる事と、おぼへ侍りぬ。

 

 

金玉ねぢぶくさ三終

[やぶちゃん注:「にせぬ」「似せぬ」。似ない。

「ゑり好(ごのみ)の、くまで」「選り好みの、熊手」。「熊手」には「欲の深いことの喩え。またはその人。欲張り」の意がある。

「こがれし」恋焦(こ)がれた。

「取々〔とりどり〕に」人々それぞれの噂の軽蔑した内容があれこれと異なっていることを謂う。てんでに好き勝手に。

「云分(いひわけ)」「言分」。言い分け。

「一犬、形に吠れば、百犬、聲にほゆる」何かの拍子に、一匹の犬が影に怯えて吠え始めると、他の犬もそれにつられて、皆。吠え出すことから、「誰か一人が憶測で物を言うと、世間の人々は、その噂の真偽を確かめようともせずに、全くの真実のこととして噂を広めてしまうことに譬える成句である。但し、この場合、特に附いた尾鰭の部分は語られていないから、寧ろ、半助が語ったのではない、半助と伊織との五夜に及んだ抱擁部分が、まことらしく、エロティックに増殖されて流され、「馬鹿を見たのはかの大武将の長尾の殿様よ」的なオチが附いたものと推定する。さればこそ長尾は堪忍袋の緒が切れて、即座に切腹となったのだと私は読んだ。半助はあくまで実は伊織がかくも巧妙に救って呉れた部分のみを語ったのに違いない。しかし、世上の興味はその間の夜に何があったかの方に興味をズラし勝ちとなるのは世の常である。

「終(つゐ)には」ルビはママ。正しくは「つひには」。

「切(せつ)ぷく」原本は「切(せつ)ふく」であるが、半濁点を附した。

「たづねられしが」捜索させなさったが。

「それまでもなく」そうするまでもなく。

「此さた」伊織切腹の一件。

「彼〔かれの〕死跡(〔しに〕あと)にて」この「彼」は高い確率で「かの」である。意味としては同じであるが、私は「かれの」のとし、伊織と半助の面影をそこにはっきりと映像化したかったが故にかく読んだものである。

「じがいをとげ」「自害を遂げ」。二人同じ、苔(こけ)の露と、きへ果〔はて〕ぬ。

「けん信も、得度(とくど)あつて」実際の上杉輝虎は元亀元(一五七〇)年十二月に数え七十七で出家して法号を「不識庵謙信(ふしきあんけんしん)」と称し、実際にはこの時から初めて「上杉謙信」と名乗るようになる。但し、彼は弘治二(一五五六)年三月二十七歳の時、家臣同士の領地争いや国衆の紛争の調停に嫌気がさし、突然、出家・隠居することを宣言して自ら高野山へ向かっている。ところが、その間に武田信玄に内通した家臣大熊朝秀が反旗を翻したため、他の家臣らの説得を受けて出家を断念し、越後国へ帰国している(朝秀は「駒帰の戦い」で敗れ、越中へ逃れて、後に信玄に仕えた)。この史実から作話上の話柄内仮想時制の下限が概ね判明してくることにはなる。

「小性(〔こ〕せう)」ルビはママ。最初に述べた通り、「こしやう」が正しい。

「事は密(みつ)を以てなる。語はもらすを以て破(やぶ)るゝ」「秘密のうちに物事を行えば、成功するものであるが、外部に話が少しでも漏れると、失敗する」ということ。「韓非子」の「夫事以密成、語以泄敗。未必其身泄之也。而語及所匿之事、如此者身危。」(夫(そ)れ、事は密を以つて成り、語は泄(も)るるを以つて敗(やぶ)る。未だ必ずしも其の身(み)之れを泄らさざるなり。而して語りて、匿(かく)す所の事に及ぶ。此くのごとき者は、身、危(あや)うし。)が典拠。]

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