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2020/09/05

金玉ねぢぶくさ卷之五 血達磨の事

 

金玉ねぢぶくさ卷之五

   血達磨(ちだるま)の事

Tidaruma

[やぶちゃん注:挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の二幅をトリミングして寄せて合成した。完全にくっつけると、縁側と掛け軸の端の、計三ヶ所が全く合致せず、却って見た目、おかしくなってしまうので、かく間を空けておいた。一部の汚損を清拭した。]

 

 智・仁・勇・忠は士の守る所なり。勇に大勇あり、小勇あり。忠に切あり、儀あり。其〔その〕可(か)なる所をゑらんで、死すべきに死し、小恥を忍んで、のがるべきを、のがる。是、大勇なり。又、忠切なり。命をかろんじて、人にはづかしめを不受(うけず)、つよきにほこつて、よはきを、しのぐ。是、血氣の勇なりとかや。切を捨(すて)て、義を守り、仁を離れて、勇をとるは、智者のせざる所なり。しかれども、武士は武威をかゝやかして、人を制し、亂をしづめ、國家を治(おさ〔む〕)る役なれば、長劍をよこたへ、面(おもて)に勇をはる事、是も、出家は、しゆつけの役にて、長袖(ながそで)を着るがごとし。此道理をしらず、命をかろんじ、死をおそれず、わづかの義理に人と討果(うちはた)し、祿(ろく)のかはりに報ずべき身を、私〔わたくし〕の意趣にうしなひ、君(きみ)の御用にたゝざるは、金(こがね)を土にかゆるが如し。

[やぶちゃん注:「治(おさ〔む〕)る」ルビはママ。国書刊行会「江戸文庫」版は『おさ(め)』とルビ補填している。

「長袖(ながそで)を着るがごとし」「長袖」を音読みして「ちやうしう(ちょうしゅう)」と読み、「そでの長い衣服を着た公卿・僧侶などを嘲(あざけ)っていう語がある。ここ、よく言いたいことが判らない。「長劍をよこたへ、面(おもて)に勇をはる事」武士の魂たる太刀を抜くこともせず、顔にばかり武威を表わして人を威嚇するのは、僧のようだ、それは坊主のすることだ、お公家がたや坊さんの真似をしているのと同じことだ」のという謂いか?

「かゆる」「變(か)ゆる」。「變ふ」(代ふ・替ふ:他動詞ハ行下二段活用)が他動詞ヤ行下二段活用に転じたもの。]

 

 されば、細川幽斎公の御時、さる浪人兄弟、いづれも器量さかんなる仁物(じんぶつ)、當(たう)御家(〔おん〕いへ)を望〔のぞみ〕しかば、ある日、御前(〔ご〕ぜん)へ召出〔めしいだ〕され、

「なんぢら二人、武藝は、いかやうの事をか、する。」

と、御たづねありければ、

「何にても、事に臨んで、人の得いたさぬ事を仕り、御用に相立〔あひたて〕申べき。」

よし、申上〔まうしあぐ〕る。

 幽斎、二人が骨(こつ)がら、勇、ゑいなるを見給ひ、たのもしく思召(おぼしめし)、兄に四百石、弟に三百石つかはされしが、其後(のち)、江戶の大火事の節(せつ)、御上屋舖(〔おんかみや〕しき)へ、ほのほ、かゝり、「むさし鐙(あぶみ)」に書(かき)たるごとく、大風、はげしく、猛火、煙(けぶり)をまいて、ふせぎとめられぬに相(あい)きはまり、大事の御用の道具は悉(ことごと)く除(のけ)しに、いかゞ仕(し)たりけん、別(べつ)して御祕藏の達磨の繪のかけ物一ぷく、御殿の床(とこ)にかゝりしを、其まゝにて取わすれ、殊外〔ことのほか〕、おしみ給ひ、御〔ご〕きげん、あしく見へたまへば、近習(きんじう)のめんめん、手足をにぎり、

「いまだ御てんへは燒(やけ)かゝり候まじ。兼(かね)て人の及ばぬ御用を達(たつ)すべきよし申罷有〔まうしまかりあり〕候へば、彼(かの)新參もの二人に仰付られ、へんじもはやく、取〔とり〕につかはされ、しかるべき。」

よし、申上る。

 ゆうさい、

「實(げに)も。」

と、おぼし召(めし)、彼(かの)兄弟を御ぜんへめされ、

「今一度、御屋しきへ行(ゆき)、若(もし)あやふからずば、取來〔とりきた〕るべし。しぜん、御てんへ火かゝりなば、かならず、さうさう歸るべき。」

よし。

 二人は上意をかしこまり、息をばかりに、かけ付て見れば、たゞ今、御殿へもえ付〔つく〕體(てい)。うしろの門をのりこへて、ほのほ・けぶりの中をくゞり、やうやう、御てんへ入〔いり〕ぬれば、屋根は一まいに、めう火なれども、いまだ下へは火も、もれず。かのだるまの繪、つゝがなく床(とこ)にありしを、早速、はづし、

「くるくる」

と、まき、羽織(はをり)につゝみ、出〔いで〕んとすれば、もはや、十方〔じつぱう〕、燒(やけ)ふさがり、終(つい)に二人は、やけ死〔じに〕ぬ。

[やぶちゃん注:「細川幽斎」(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)は戦国から江戸初期にかけての武将・戦国大名で歌人。三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男であったが、伯父細川元常の養子となった。細川忠興の父である。足利義晴・義輝、織田信長に仕え、丹後田辺城主となり、その後、豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。和歌は三条西実枝(さねき)に学び、古今伝授をうけて二条家の正統を伝え、有職故実・書道・茶道にも通じた博覧強記の人物である。剃髪して幽斎玄旨と号した。以上は講談社「日本人名大辞典」に拠ったが、ウィキの「細川幽斎」を見ると、「関ヶ原の戦い」後は、『幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれて』おり、亡くなったのも『京都三条車屋町の自邸』とある。また、ウィキの「小倉藩」を見ると、息子の忠興は「関ヶ原の戦い」で『細川忠興は東軍に属して戦い、居城である丹後国田辺城は父細川幽斎が勅命により講和するまで西軍に頑強に抵抗した(田辺城の戦い)。その功により』、『戦後』、『細川氏は丹後田辺・豊後杵築合わせて』十八『万石から、豊前一国と豊後国国東郡・速見郡』を与えられて都合三十九万九千石と『大幅加増され、小倉藩を立藩し』てはいる。従って、幽斎存命中に、小倉藩の上屋敷や下屋敷は確かに江戸にあったが、そこに幽斎がいた可能性は極めて低いのではないか? たまたま訪ねていたと仮定しても、そこに達磨の絵をたまたま持ってきて掛けていたり、その時にたまたま火事で屋敷が類焼したりした可能性はもっと低くなり、だいたいからして、本文の叙述が自体が、全体、あたかも幽斎その人が、その上屋敷の主人であるかのような書き方が成されていること自体、全く以っておかしいことが判る。

「勇、ゑいなる」「ゑい」は「鋭」(気鋭)か。しかし、であれば、歴史的仮名遣は「えい」である。

「得いたさぬ事」何度も出てきているとおり、この「得」は不可能の呼応の副詞の「え」の当て字である。

「むさし鐙(あぶみ)」「むさしあぶみ」は浄土真宗の僧で優れた仮名草子作家であった浅井了意(?~元禄四(一六九一)年)による仮名草子で、万治四(一六六一)年板行で、以後も何度か再板行された。上・下二巻。物語の中で明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日~四日)に発生した江戸の大半を焼いた「明和の大火」(出火の伝承状況から「振袖火事」とも呼ぶ)のことを記しており、被害状況を伝える図版も添えられてある。ウィキの「むさしあぶみ」によれば、『明暦の大火で全てを失った男が出家して楽斎房と名乗り、旅に出たところ、故郷の京北野天神で旧友の小間物売に遇い、自らの身の上を語る体裁をとる。著者と伝えられる浅井了意も上方の人だが、『江戸名所記』を執筆するなど江戸の事情にも通じ、浪人の身から出家した人物であるなど重なる部分があ』り、『大火の悲惨さを伝えることを目的とした文学作品であり、誇張した表現も多いと思われるが、大火の顛末がかなり正確に記されており、明暦の大火を語る上で欠かせない史料である。伝馬町牢屋敷の切り放ちや浅草門での悲劇など数々の逸話が載るが、大火の通称振袖火事の由来となった娘については触れられていないことが注目される』とある。しかし、「明和の大火」は、細川幽斎の死後、四十七年も後のことである(本「金玉ねぢぶくさ」は元禄一七(一七〇四)年板行)。「書(かき)たるごとく」が、「明和の大火」ような大火事で、という意味にはとれないから、この話全体が有り得ない話であることがダメ押しでバレてしまう。

「相(あい)」ルビはママ。

「手足をにぎり」彼らには手足がだせず、如何ともし難くて、すっかり固まってしまって動けない様子を言うのであろう。

「へんじもはやく」「返事も早く」。返事を待つまでもなく。かく約定したのだから、という「しぜん」「自然」。副詞。万一。

「息をばかりに」息せき切って。

「一まいに」一面に。

「めう火」「猛火」は、かくも読む。現代仮名遣は「みょうか」。

「終(つい)に」ルビはママ。]

 

 火、しづまりてのち、さうさう、灰をのけさせ、彼(かの)死がいを見せさせ給へば、兄が、てにかけ、弟(おとゝ)の首(くび)を討(うち)、咽喉(いんこう)をくり、腸(はら)わたを引出〔ひきいだ〕し、彼(かの)かけ物を羽おりにまいて、其跡へ、おしこみつゝ、おのれは、はらを十文字に切〔きり〕、其口を引〔ひき〕あけ、弟のむくろを我腹の中へおしこんで、いだき付〔つき〕て、死し居(い)たり。掛物を引出し見れば、よくよく、はをりにまきしゆへ、繪には、のりも、つかざりしが、左右上下の緣(へり)、すこしづゞ、血にそまれり。

[やぶちゃん注:「まいて」ママ。「卷(ま)きて」。

「おしこんで」ママ。現在の口語表現と完全に一致する。

「居(い)たり」ルビはママ。

「はをり」ママ。「はおり」でよい。

「ゆへ」ママ。「故(ゆゑ)」。

「のり」血糊(ちのり)。]

 

 誠に二人がいさぎよきしわざ、武士の鑑(かゞみ)なるべきはたらきなれば、殊外〔ことのほか〕、御感(〔ぎよ〕かん)あつて、繪(ゑ)よりは、深(ふか)く、おしみ給ひ、血に染(そみ)たる掛物を、わざと、御〔ご〕しゆふくも、くはへられず、かの兄弟が上下〔かみしも〕着(き)て、此繪を守護するていを、繪ざうにうつさせ、ともに三ぷく一對とし、「細川の家の血だるま」とて、御家(〔お〕いへ)の宝物(たから〔もの〕)となり、今に御〔ご〕秘藏なさるゝよし。

[やぶちゃん注:「おしみ」ママ。

「しゆふく」「修復」。

「繪ざう」ママ。「繪像(ゑざう)」が正しい。

「てい」「體(てい)」。様子。絵姿のポーズを指す。

「三ぷく一對」中央に達磨の軸、その左右に、達磨(大師)を守護するように(仏像の脇侍のように)二人の図像が描かれているのであろう。

「細川の家の血だるま」私の最終注を参照されたい。

 

 戰塲に先をかけ、死をあらそふは、もつとも武士のつねなれども、事、急成〔なる〕めう火の中にて、此繪をすくひしはたらきをおもへば、智あり、忠あり、勇有て、漢の起信が高祖の爲に榮陽城〔けいやうじやう〕のかこみをとき、楚の項王に燒〔やき〕ころされしも、中々、これには及〔およぶ〕べからず。

[やぶちゃん注:「漢の起信が高祖の爲に榮陽城のかこみをとき、楚の項王に燒ころされし」これは、紀元前二〇四年に、項羽の楚軍と劉邦の漢軍との間で滎陽(けいよう:現在の河南省鄭州市滎陽市。グーグル・マップ・データ)で行われた「滎陽の戦い」を指す。ウィキの「滎陽の戦い」によれば、『項羽の留守中に楚軍の拠点であった彭城を陥落させた劉邦ら諸侯連合軍は、戦勝に浮かれて油断し切っていたところを』、『帰ってきた項羽の楚軍に急襲されて大敗した』。『劉邦らは命からがら彭城から落ち延び、滎陽で楚の大軍に包囲されることとなった』。『不利な状況の中で』、元項羽の部下で寝返った軍師陳平が、『項羽が疑り深い性格であるため』、『部下との離間が容易に出来ると進言し、劉邦もその実行に』四『万金もの大金を陳平に与え』、『自由に使わせた。そして「范増・鍾離眜』(しょうりばつ)『・龍且』(りゅうしょ)『・周殷といった項羽の重臣たちが、功績を上げても項羽が恩賞を出し渋るため、漢に協力して項羽を滅ぼし』、『王になろうとしている」との噂を流し、項羽はそれを信じて疑うようになった』。『特に腹心である范増に対しては、楚の使者が漢へ派遣された際に、はじめ范増の使わした使者として豪華な宴席に招き、范増と仲が良いかのように振舞った。そして使者が項羽の使者であると聞くと、すぐさま粗末な席に変えさせた。このため』、『項羽は更に疑うようになって』、『范増は失脚することとなり、故郷に帰る途中で憤死した』(私は背中に腫瘍が出来て病死したと聴いている)。『こうして陳平は、楚最大の知謀の才を戦わずして排除した』。また、知恵者であった張良は、『包囲戦の途中、儒者』酈 食其(れき いき)『が「項羽はかつての六国(戦国七雄から秦を除いた)の子孫たちを殺して、その領地を奪ってしまいました。漢王陛下がその子孫を諸侯に封じれば、皆』、『喜んで陛下の臣下になるでしょう」と説き、劉邦もこれを受け容れた』。『その後、劉邦が食事をしている時に張良がやって来たので、酈食其の策を話した。張良は「(そんな策を実行すれば)陛下の大事は去ります」と反対し、劉邦が理由を問うと、張良は劉邦の箸をとって説明を始めた』。『張良は諸侯を封じた周朝の武王を例に不可の理由を』六『つ挙げ、今の劉邦には武王のような事が出来ないと説いた。更に「かつての六国の遺臣たちが陛下に付き従っているのは、何か功績を挙げて』、『いつの日か恩賞の土地を貰わんがためです。もし陛下が六国を復活させれば』、皆、『故郷へと帰ってそれぞれの主君に仕えるようになるでしょう。陛下は一体誰と天下をお取りになるおつもりですか。もし、その六国が楚に脅かされ、楚に従うようになってしまったら、陛下はどうやって六国の上に立つおつもりですか。これが第』七、第八の』『理由です」と答え、劉邦は慌てて策を取り止めた』とある。さらに、『楚軍の包囲が続く中、漢軍の食料はついに尽きてしまった。ここで陳平は偽』(にせ)『の漢王を城の外へ出して』、『楚軍が油断したところを』、『城の反対側から脱出する』という「金蝉脱殻(きんぜんだっかく)の計」(魏・晋・南北朝時代の兵法書「兵法(へいほう)三十六計」に載る戦略。ウィキの「金蝉脱殻」によれば、『敵軍が太刀打ちできないほど強大で、抵抗するほど損害が拡大するような状態のため、一時撤退して体制を立て直したいとする。この際、何の策もなく撤退すると』、『敵軍の追撃を受ける危険性があるが、金蝉脱殻の計はこのような状態において安全に撤退するための策である。すなわち、蝉が抜け殻を残して飛び去るように、あたかも現在地に留まっているように見せかけておいて』、『主力を撤退させるのである。撤退の場合だけでなく、戦略的な目的で主力を移動させたい場合にもそのまま使える手段である』。ここの場合は、『将軍の紀信が劉邦に扮し、鎧兜を身につけて兵士に扮した婦女子とともに降伏を装った。城を包囲していた楚軍は、最初』、『軍勢が城の外へ出てきたので襲ったが、中身が婦人であったため留まり、続いて身なりが立派なものが悠々と出てきたのでこれは降伏だと思い、長きに渡る戦いも終わって』、『ようやく故郷に帰れると口々に万歳と叫んだ。他の面を包囲していた楚軍も、何の騒ぎかと』、『そちらへ集まった。その隙に劉邦は反対側の門から逃れ、本拠地まで戻って体制を立て直すことに成功した』とある)を策謀し、『その偽』の『漢王に紀信』(?~紀元前二〇四年:劉邦に仕えた武将)『を、滎陽に残る守りには周苛・樅公』(しょうこう)『を「彼らは死を厭わないでしょう」と』言って『付かせるように言った。合わせて』、『裏切る恐れのある魏豹を残し、周苛たちに邪魔だと思わせ』、『始末させることにした』。『この策は実行され、見越した通り』、『紀信は即刻』、『処刑され、周苛たちは魏豹を誅殺して項羽の攻めにもよく持ちこたえたが、ついに落城して処刑された』(ウィキの「紀信」によれば、『囮となった紀信は項羽によって火刑に処された』とある)。以下、「戦後」の項などが続くが、割愛する。

 さて、実は平凡社「世界大百科事典」に、「細川の血達磨」として立項し、以下のようにある(コンマを読点に代えた。後も同じ)。『講談。肥後熊本の細川家に伝わる名宝の由来譚。主人公の名をとって《大川友右衛門(おおかわともえもん)》とも題する。細川綱利侯に仕えた大川友右衛門は、江戸屋敷類焼の際、切腹して主家の重宝達磨の掛軸をみずからの腹中に収め、命にかえてみごと、お家の宝を守り通したといわれる。この血に染まった達磨が、細川の血達磨と呼ばれ、長く友右衛門の忠節がたたえられた。いわゆる武勇物、忠義物の一つであるが,その他友右衛門が綱利の小姓と男の契り(衆道)を結ぶ話や、妖刀村正のたたりなど面白いくだりがある』とあり、さらに「血達磨物」の項もあって、『歌舞伎狂言の一系統。細川家火災の際、重宝達磨の一軸を忠臣が血で守り、血染めの達磨となったという実録に取材した、男色とマゾヒズムがモティーフの作品群』を言う語で、正徳二(一七一二)年、『京都布袋屋座《加州桜谷血達磨(かしゅうさくらがやつちのだるま)》が劇化の嚆矢(こうし)で、これをうけて』、寛政九(一九九七)年五月、『大坂角(かど)の芝居《浅草霊験記》(近松徳三作)が細川・秋田両家のお家騒動を背景に再構成し、大当りをとった。江戸へ移入されたのは』寛政一二(一八〇〇)年閏四月の『市村座《男結盟立願(おとこむすびちかいのりゆうがん)》で、大筋は前作そのままの上演。さらに嘉永元(一八四八)年八月の、『中村座《高木織右武実録》たかぎおりえもんぶどうじつろく』》』(三世桜田治助作)や文久二(一八六二)年八月の、『市村座《月見曠(つきみのはれ)名画一軸》(河竹黙阿弥作)などがある。いずれの作も劇場が火を忌むため、実録にある火事のシーンは』再現さ『れなかったが』、明治二二(一八八九)年十一月に市村座で打たれた『《蔦模様血染御書(つたもようちぞめのごしゅいん)》』(三世河竹新七作)『にいたって、主人公大川友右衛門が火中に腹を切って御朱印を腹中に守る場面を演じ』、『評判となった』とあった。

 まず、細川綱利(寛永二〇(一六四三)年~正徳四(一七一四)年)は肥後国熊本藩三代藩主にして熊本藩細川家四代で、幽斎の子細川忠興が曾祖父に当たる。彼は赤穂浪士の最期を厚遇した人物として知られる。

 ところが、一方、「大川友右衛門」という人物は『実録』(「世界大百科事典」の先の「血達磨物」引用に出る)という割には、いくらネット検索を掛けても、実在を明らかにする史料がまるで見つからないのである。ところが、そうしているうちに、この名前、どうも、以前に何かで読んだという記憶がほのぼのと蘇ってきた! 而して今、探し当てた。一九九五年講談社現代新書刊の氏家幹人(みきと)氏の「武士道とエロス」だった(二十五年前で流石に反応が遅かった)。しかも当該部を再読して、さらに吃驚した。若衆道に詳しい氏家氏にして、『この名前に接したのはほんの数年前のことだ』と告白されているのである。しかも、氏家氏は、やはり、この血達磨譚の最も古い部類として「加州桜谷血達磨」と「浅草霊験記」を挙げておられるのであった。さても私のこの書き振りで恐らくお判り戴けるものと思うが、氏家氏は、この大川友右衛門なる人物の実在するデータを、以下のどこにも、述べておられないのである。これは若衆道研究のプロである氏家氏自身が「大川友右衛門は実在しない」と認識されているからに他ならない(モデルがいたのでは? と思われる方に言っておくと、有力なモデルがあったのなら、氏家氏ならば必ずそこまで探られ、明記したはずである、と答えておく)。なお、先の引用には、彼が『細川綱利侯に仕えた大川友右衛門』とあり、彼が『綱利の小姓と男の契り(衆道)を結ぶ』とあるのだが、氏家氏の「浅草霊験記」他の梗概や他作品のあらましによれば、大川友右衛門は、浪人、或いは、稲葉侯の藩士、という設定上の異同があり、細川侯の寵愛の愛童(これも小姓或いは侍童とも異同あり)を見初めて、彼と契りを結ばんものと、細川家の中間(ちゅうげん)となって、目出度く兄弟の契り(若衆道)を結び、細川侯にそれがバレるも、細川侯は咎めだてもせず、却って友右衛門を士分に取り立ててくれ、それに感激し、火災の際に細川家の重宝(これまた、細川家系図であるとか、幕府から支給された朱印状とか、達磨の一軸と、まるで一定していない)を腹掻っ捌いてそこに突っ込んで救い、忠義死にするというのである。しかも氏家氏は、この『忘れられたヒーロー? 彼はすくなくとも明治大正の頃はなかな有名な人だったらしい』と言われ、明治の演劇評論家・劇作家の依田学海や、かの徳冨蘆花(健次郎)の日記、山田美妙編の「新体詞選」に美妙自作のズバり、「大川友右衞門」と題する詩一篇が載る、とあって、まさに旧来の歌舞伎や新来の講談によって、明治・大正の近代に於いてこそ「大川友右衛門」が架空の人物でありながら、実在した人物と錯覚された、或いは、願望されたのだということがはっきりしてきたと私は思うのである。やはり、私は大川友右衛門なる人物は実在しないと考える。

 さても、以上の記載を縦覧するに、やや繰り返しとなるが、「講談」というのは明治になって生じた語である。或いはそれに先行する、江戸時代の大道芸の一種である辻講釈(大道講釈:もとは「太平記」などの軍記物に注釈を加えつつ、調子を付けて語るもので、宝永年間(一七〇四年~一七一一年)には公許の常設小屋で上演されるようになり、「講釈」と呼ばれるようになった。文政年間(一八一八年~一八三一年)には話芸としてほぼ確立して幾つかの流派が誕生した。以上はウィキの「講談」に拠った)に原話或いは原素材があったのかも知れぬが、本「金玉ねぢぶくさ」は元禄一七(一七〇四)年板行で、以上に補注した通り、辻講釈が定席で世間に行われるようになるその初年の年なのであり、本「金玉ねぢぶくさ」の「血達磨の事」の方が、世間に本話を喧伝した点では、早いのではないかとまず思ったのである。さらに、劇作として知られるようになるのは実に本書板行より八年も後なのである。さすれば、本篇で言う「細川の家の血だるま」の流布された最初の震源地そのものが、実は、この話なのではないか? さすればこの一篇の価値は相応に非常に高いもの(時代設定のハチャメチャには眼を瞑ってであるが)と言えるのではなかろうかと思ったのである。

 そこでさらに調べてみたところ、倉員(くらかず)正江(現在は長谷川姓か)氏の論文『実録「細川の血達磨」の成立と浮世草子――『金玉ねぢぶくさ』と『男色大鑑』を中心に』(早稲田大学国文学会発行『国文学研究』(二〇〇〇年六月。PDFで「早稲田大学リポジトリ」からダウン・ロード可能)があり、その中で(「二」の末尾)、倉員氏が、『本作が後の「細川の血達磨」の鼻祖となったことは疑えない』とされ、『後出実録類では細川家を舞台としている』が、実は、『実録』(と冠した)『作者が『ねじぶくさ』を参照したことは明らかである』と断じておられるのを見出せたである。考証はすこぶる詳細である。是非、一読をお薦めする。

 にしても、本篇は本書の標準通底属性であるはずの若衆道の部分を、後の血達磨譚とは異なり、全く避けており(意図的というよりも偶然であろう)、その分、兄弟の、凄絶というより、見た目、猟奇的な顚末(始末)に、私なぞは思わず慄(ぞっ)としたものである。]

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