甲子夜話卷之六 18 文化の御製幷近世京都紳の秀逸
6-18 文化の御製幷近世京都紳の秀逸
林氏云。京紳の歌も、近世は多くは依ㇾ樣畫二胡廬一の類なり。偶々人の傳るを聞中、秀逸とも云べきは耳底に殘りて、忘れたくも忘れられず。これぞ名歌とも云べき。
春江霞 文化十二年 御 製
月花の影も匂ひもこめてけり
霞あやなす春の入江は
落花 閑院美仁親王
のどかなる春日なれども櫻花
ちる木のもとは風ぞ吹ける
五月雨
さみだれのふるやのゝきにすくふ蜂の
晴まを待てたゝんとやする
春月 西洞院風月入道
櫻には霞かねたる影見えて
花より外は春のよの月
郭公 裏松入道固禪
いざゝらば月も入りけりほとゝぎす
夢に待夜の枕さだめむ
月前時雨 前中納言實秋
床寒き寐覺の友の窓の月
またかきくもりふる時雨哉
月前雁
雲霧もなくそら高くすむ月の
南に向ふはつかりの聲
夜雨
つれづれの雨もいとはじあすは猶
花の木のめやはるの手枕
■やぶちゃんの呟き
「林氏」お馴染みの林述斎。
「依ㇾ樣畫二胡廬一」「樣(やう)に依りて胡廬(ころ)を畫(ゑが)く」。決まりきった様式に従って瓢簞(ひょうたん)を描く」という凡庸なマニエリスムから、「手本の通りにだけ行って、少しも工夫されていないこと」を揶揄する故事成句。「胡蘆」が普通。小学館「日本国語大辞典」によれば、宋の太祖は、尚書陶穀の起草した制誥(せいこう)詔令(詔勅に同じ)は「様によって胡蘆を描くものだ」として重んじなかったので、穀は「堪ㇾ笑翰林陶学士、一生依ㇾ様画二葫蘆一」と詠じて自嘲したという「続湘山野録」などに見える故事からとし、『様式にのみたよって、真実みのない外形だけの瓢箪の絵を描く意で、表面の形状、先例の通りをまねて何ら独創的なところがないことのたとえ』とある。
「文化十二年 御 製」光格天皇(明和八(一七七一)年~天保一一(一八四〇)年/在位: 安永八(一七八〇)年~文化一四(一八一七)年)。
「閑院美仁親王」閑院宮美仁親王(かんいんのみやはるひとしんのう 宝暦七(一七五八)年~文政元(一八一八)年)。歌道に造詣が深かったという。
「西洞院風月入道」公卿西洞院時名(にしのとういんときな 享保一五(一七三〇)年~寛政一〇(一七九八)年)。風月は号。従五位上・少納言・備前権介を経て桃園天皇に仕える。竹内式部に師事して神道・儒学及び尊王思想を学び、朝権の回復を志したが、前関白一条道香(みちか)・関白近衛内前(うちさき)らに弾圧され、式部門下の公卿二十余名とともに処罰され、免官・永蟄居(閉門の上、自宅内の一室に謹慎させ、生涯解除を認めないもの)を命ぜられた(宝暦事件)。
「裏松入道固禪」公家で有職故実家裏松光世(みつよ 元文元(一七三六)年~文化元(一八〇四)年)。内大臣烏丸光栄(からすまるみつひで)の五男。裏松益光の養子となった。固禅は法名。思想家竹内敬持と往来があり、前注に出た「宝暦事件」に連座し、江戸幕府の忌諱に触れ、遠慮(自主的な自宅軟禁で、夜間の秘かな外出は黙認された)の処分を受け、その二年後には「所労と称し出仕致さざる事」との沙汰で永蟄居を命ぜられ、出家させられた。三十年の蟄居生活の間に「大内裏図考證」を著したが、天明八(一七八八)年に内裏が焼失し、その再建に当たって彼の著書の考證を参考とすることとなり、その功により、勅命により、赦免されている。
「前中納言實秋」不詳。
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