金玉ねぢぶくさ卷之八 菖蒲池の狼の事
菖蒲池(かまふち)の狼の事
[やぶちゃん注:挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版からトリミングした。]
天地の變、造化(ざうくわ)の巧(たくみ)の、さまざまにあらはすところの、しんら万像(まんざう)、一つとしてふしぎならずといふ事、なし。天に日月〔じつげつ〕のめぐり、地に草木(さうもく)の生(しやう)じ、火のあつくして物を燒(やき)ほろぼし、水の冷(ひやゝ)かにして魚(うを)を生じ、土の萬物(ばんぶつ)をふくみ、鐵石(てつせき)のかたくして火を出し、鳥のそらをとび、うをの水をかける、あるひは雷(かみなり)鳴(なり)、大地ふるひ、雨露霜雪(うろさうせつ)ふり、うしほわき、風ふき、春はかすみ、夏はあつく、秋は霧たち、冬はさむく、人の物謂(ものいひ)、からだの働(はたらく)、惣(さう)じて一さいの事を心を付〔つけ〕てあんじて見れば、世界は、みな、ふしぎにて、かためり。ちかく、人の生(むま)れ、又は死する、是、いづくより來り、いづくへさり、我身は何の緣によつて生じ、何時〔なんどき〕緣、つきて、又、いづくへ歸る。過去は何にて、未來は何に成るといふ事を、わきまへず、三世了達(〔さんぜ〕れうだつ)の佛の智惠は各別、凡夫の料簡にて是をさとる事、あたはず。いわんや、其外のふしぎをや。たゞし、一さいの有情(うじやう)は、躰・卵・濕・化(たいらんしつけ)の四つを不出〔いでず〕、あるひは腹の内より形をそなはりて生(うま)るゝ者もあれば、たまごにて生れ、後(のち)にかたちのそなはるもあり、又は、うるをひの中より陽氣にむされて涌(わく)もあり、物の形を化(け)して、生(しやう)をかへたる類(たぐい)もあり、それぞれの業(ごう)に引〔ひか〕れて、それぞれの像(かたち)を受〔うく〕る。
[やぶちゃん注:「菖蒲池(かまふち)」の読みはママ。正確に言うと、原本でのルビは「菖蒲」に「かまふ」が、均等ではなく、上を詰めて振られ、「池」にのみ「ち」が振られている。ここ。本文でも同じである。地名であるが、それは後で注する。
「しんら万像(まんざう)」ママ。「森羅萬象(しんらばんしやう)」。
「天に日月のめぐり、地に草木の生じ、火のあつくして物を燒ほろぼし、水の冷かにして魚を生じ、土の萬物をふくみ、鐵石のかたくして火を出し」天地乾坤で陰陽説を、重ねて「草木」の「木」から以下、五行説を説く。
「うしほわき」「潮、湧き」。
「あんじて見れば」「按じて見れば」。
「かためり」「固めり」。不思議の塊りという状態であること。
「つきて」「盡きて」。
「三世了達(れうだつ)」仏語。過去・現在・未来に亙って一切を明らかに悟っていること。諸仏の智慧は三世を完全に見通しているとされる。
「料簡」思慮分別。
「躰・卵・濕・化(たいらんしつけ)の四つ」「躰」はママ。「胎」の誤り。所謂、仏語の「四生(ししやう(ししょう))」を指す。生物をその生じ方から四種に分類したもの。胎生 (たいしょう)・卵生・湿生・化生 (けしょう) 。
「むされて」「蒸されて」。
「業(ごう)」ルビはママ。「ごふ」が正しい。]
此外に、變化(へんげ)のものありて、時々、おのれが天に受得(うけゑ)し像(かたち)を變じ、人の眼(まなこ)をまどはす事あり。是、變化の、誠に其像を變ずるにや、迷ふものゝ眼(まなこ)の變ずるにや。むかしより、智德ある人の狐(きつね)狸(たぬき)に化(ばか)されたるためし、なし。大かたは、其〔その〕明德(めいとく)のあきらかならぬより、物に動(どう)じて眼(まなこ)まよひ、かれは化(ばか)さねども、こなたより化さるゝにや。さりながら、禽獸の夭怪(ようくわい)をなす事、一がいになしとも謂(いひ)がたし。
[やぶちゃん注:「受得(うけゑ)し」「ゑ」のルビはママ。
「こなたより化さるゝ」自身が錯覚して変化の物の怪に化かされたのだと一方的に思い込んでしまうことを言っている。
「夭怪(ようくわい)」漢字表記・ルビともにママ。「妖怪(えうくわい)」。「夭」に「妖」の意はない。
「一がいに」「一槪に」。]
越前の國大野郡(ごほり)菖蒲池(かまふち)の邊(あたり)へ、狼、おゝく出〔いで〕てあれ、人の通ひたへたりし刻(きざみ)、ある出家、かまふちの孫右衞門方へ志(こゝろ)して往(ゆき)侍りしに、其日は、狼、殊外〔ことのほか〕はやく出〔いで〕て、見れば、跡・先におびたゝしく、數〔す〕十疋、徘徊す。此僧、往(ゆく)事も還(かへる)事もかなはず、進退きはまつて、ぜひなく、大木のありしに、のぼりて、枝の上に、一夜をあかさんとす。
[やぶちゃん注:「越前の國大野郡菖蒲池」現在の福井県大野市菖蒲池(しょうぶいけ)(グーグル・マップ・データ)。「かまふ」の読みは不明。当初は蒲(ガマ)かと思ったが、ガマを菖蒲(ショウブ或いはアヤメ)とは書かない。また「ふ」があるので「蒲生」で「がまふ」と読んだ可能性が強いが、「菖蒲」を「がもう」と読む例は私は知らない。さればこそ総て清音のままで示した。]
日の暮るにしたがひ、あまたの狼、皆、此木の下(もと)に集(あつま)り、上なるほうしを守りて、一ぴきのおふかみ、人のごとく、物いひ、
「かまふちの孫右衞門が嚊(かゝ)を呼(よん)で、談合〔はなしあは〕せば、よろしき謀(はかりごと)あるべし。」
といふ。
いづれも、
「尤〔もつとも〕。」
と同心して、一疋、いづともなく、かけ徃(ゆき)しが、しばらく有〔あり〕て、大きなる狼、一ぴき、彼(かの)使(つか)ひとともに來り、木の下(もと)により、上なるほうしを見て、
「別(べち)の子細、なし。我、是をとるべし。肩車(かた〔ぐ〕るま)にのせて、さゝげよ。」
といへば、
「我も我も。」
と、後(うしろ)の股(また)に首さし入〔いれ〕て、次第に捧(さゝげ)しかば、程なく、僧のきわに近づきぬ。
[やぶちゃん注:「ほうし」歴史的仮名遣は一般なら「はふし」、仏教用語なら「ほふし」である。以下同じ。
「守りて」見守って。
「おふかみ」ママ。「狼」は歴史的仮名遣は「おほかみ」である。]
彼〔かの〕僧、せん方なく、折ふし、守り刀を持〔もち〕しかば、是をぬいて拂ひしに、上なるおゝかみの正中(たゞなか)を切〔きつ〕たり。
夫〔それ〕より崩(くづれ)おちて、狼ども、悉(ことごと)く歸りさりぬ。
夜あけて是を見れば、果して、牛程なる狼一ぴき、死せり。
扨、孫衞門方へ徃(ゆき)ぬれば、
「こよひ、女房、『厠(かわや)へゆく』とて、いづくともなく出〔いで〕しが、今に歸らず。」
とて、上を下へと、かへし、たづねぬ。
ほうし、かくすも便〔びん〕なさに、道にてのありさまを、くはしく語れば、孫衞門、始〔はじめ〕は誠〔まこと〕とせざりしが、あまり、女房の行衞をたづねかねて、彼(かの)木の下(もと)へ人をつかはして見すれば、大きなる狼、死し居たり。又、こなたなる道もなき山の端(は)に衣類を、皆、ぬぎおけり。
「さては。我本さいは、とく、是にとられぬらん。此ほうしの害するにあらずんば、我もこれにとらるべし。」
とて、女房の親里〔おやざと〕へ其〔その〕だんをいへば、しうと、中々、がてんせず。
此事、せんぎに及びしが、女房、孫衞門へ嫁(か)して八年になり、則〔すなはち〕當年七さいの男子あり。
はだをぬがせて見れば、背筋に狼の毛、生(おひ)たり。
是を以て、舅(しうと)も得心(とくしん)し、
「扨は。我家にて誠の娘(むすめ)は、ようせうの時にとられぬるにこそ。」
とて、それより、せんぎを止(やみ)侍りぬ。
其〔その〕子孫にいたるまで、代、替りても、背中の毛は、たへず。同所大野町大井六兵衞方にて、其狼よりは三代目孫〔まご〕の背中を、はだをぬがせてくわしく見侍りしなり。
[やぶちゃん注:「夜あけて」直後に孫衛門の所に辿り着くが、そこで孫右衛門の語りの初めで「こよひ、女房、……」と述べている。これは僧が孫右衛門の家に辿り着いた時が、未だ曙以前で、暗かったせいである。江戸以前では、太陽が昇って明るくならないと、前日の感覚で語られるのが普通だから「今宵」で何らおかしくないのである。そもそもがここはかなりの山間地であるから、明るくなるのも遅いのである。
「上を下へと、かへし、たづねぬ」使用人の上の者から下賤の者まで全員に繰り返し家内及び戸外を探させたことを言っていよう。
「便なさ」「便無(びんな)し」で「気の毒だ」の意があるから、その名詞形。
「ようせう」ママ。「幼少(えうせう)」。
「せんぎ」「詮議」。
「たへず」ママ。「絕えず」。
「同所大野町」現在の大野市の市街中心部であろう(グーグル・マップ・データ)。
「大井六兵衞方にて、其狼よりは三代目孫〔まご〕の背中を、はだをぬがせてくわしく見侍りしなり」本書の中の特異点である。則ち、語っている筆者が実際に狼の化した女が生んだ狼男の三代目の孫に当たる人物の背中を実際に衣服を脱がせて観察したというのである! やったね! 章花堂! でも……後、一話で終わりやん……]