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2020/09/04

金玉ねぢぶくさ卷之四 若狹祖母 / 金玉ねぢぶくさ卷之四~了

 

     若狹祖母(わかさばば)

 

Wakasababa

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」の挿絵をトリミングした。]

 

 若狹・越前・加賀・能登・越中、五ケ國の間をはいくわいして、住所をさだめぬ一人の祖母、有〔あり〕。齡(よはひ)五十ばかりに見へて、かしらは蓬(よもぎ)のごとし。眼中は靑く光りて、歯は一まいもおちず。あゆむ事、はやうして、龍馬(りうめ)もおよばず、ちから、つよふして、頭(かしら)に二石の米を戴き、はしる時は、飛(とぶ)鳥を抓(つか)み、怒(いか)るときは、狐狼・惡獸も恐る。さるによつて、不斷、山中(〔さん〕ちう)に住み、人とまじはらず。數(す)百歲いきて、おのれも年をしらず。冬はおく山に住(すん)で、かたちを人に見せず、夏は里近ふ出〔いで〕て、おりおり、見る人あり。かれは人を恥(はぢ)、人はかれをおそる。仙女にもあらず、山姥(〔やま〕うば)にもあらず。若(もし)人にあへば、なつかしげに見おくり、五年・十年に一度づゝ、人にちか付(づい)て物語する事あり。ふるき世の事をとへば、むかしより越路(こしぢ)にすむと見へて、先〔さき〕は「太平記」時代の兵亂(ひやうらん)、別して金(かね)が崎(さき)の落城(らくじやう)、一宮(〔いち〕のみや)親王、幷(ならびに)新田(につた)の一族自害、由良(ゆら)・長はま・阿蘇の大宮司がひるひなき働(はたらき)等(とう)、今、見るやうに物語す。依(よつ)て、世の人、瓜生判官(うりふはんぐわん)が老母(らうぼ)のなれる果(はて)といへど、左(さ)にはあらず。

[やぶちゃん注:「祖母」ここは世間一般の祖母ほどの見える年老いた女の謂い。

「はいくわい」「徘徊」。

「龍馬(りうめ)」ルビはママ。非常にすぐれた馬。駿馬 (しゅんめ) 。現代仮名遣で「りゅうめ」なら「りゆうめ」、「りょうめ」なら「りようめ」である。一般にこの意味の場合は孰れにも読む。なお、この意味では「馬」は「ま」とは読まないのが普通である。

「二石の米」米一合は百八十ミリリットルで重量は百五十グラム、米一升(一・八リットル)は重量にして二キログラム、米一石は米一合の一千倍だから百五十キログラムだから、この婆さん、頭上に三百キログラムを載せることが出来るということになる。

「山中(〔さん〕ちう)」ルビはママ。「中」は「ちゆう」でよい。

「おりおり」ママ。

「山姥(〔やま〕うば)」或いは「やまんば」と訓ずる(「やまおんな」という読みもあるが、私は一度もそう読んだことはない。個人的には「やまんば」で読む)。伝説や昔話で一般には奥山に棲んでいるとされる女怪で、背が高く、髪が長く、口は大きく、目は光って鋭いなど、醜怪な老婆として造形されることが多い。

「金が崎の落城」南北朝の延元元/建武三(一三三六)年)から翌年三月にかけて、越前国金ヶ崎城(グーグル・マップ・データ。現在の福井県敦賀市金ケ崎町(かねがさきちょう))に籠城する新田義貞率いる建武政権残党軍(後の南朝方)の軍勢と、それを攻撃する斯波高経率いる室町幕府北朝方の軍勢との間で行われた戦い。ウィキの「金ヶ崎の戦い」によれば、『後醍醐天皇の建武政権と足利尊氏の間に発生した建武の』兵『乱は、初め南朝が優勢で尊氏を九州に追いやったが、同地で再起して本州に上陸した尊氏に』、延元元/建武三(一三三六)年五月の「湊川の戦い」、続く同年六月から八月にかけての第二次の京都合戦で『大敗し、比叡山に逃れた。さらに建武政権軍は』、翌九月の「近江の戦い」でも敗れ、十月十日を以って『建武政権は足利氏に投降し』、『崩壊した』。『一方、新田義貞と弟の脇屋義助は、後醍醐天皇の二人の皇子恒良』(つねよし:後醍醐天皇の選んだ皇太子。母は後醍醐の寵姫阿野廉子)『親王と尊良親王や』、『公家の洞院実世』(とういんさねよ:太政大臣洞院公賢の子。従一位・左大臣。北畠親房・四条隆資・二条師基とともに南朝の重鎮として政務を指導した)『らを伴って下山し、北陸を目指した。寒中の木ノ芽峠越えにて多数の犠牲者を出したものの、氣比神宮の宮司である気比氏治に迎えられ』、十月十三日、『越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入城した。後醍醐天皇もまた』、『和睦直後に京都を脱して吉野へ逃れ』、延元元/建武三年十二月二十一日(一三三七年一月二十三日)を以って南朝を創始している。『義貞の入城直後、越前国守護斯波高経』(足利氏の有力一門斯波氏(足利尾張家)第四代当主)『が率いる北朝方は金ヶ崎城を包囲した。高経は、守りの堅い金ヶ崎城を攻めあぐね、兵糧攻めを行』い、翌年(延元二/建武四年)、『尊氏は高師泰』(こうのもろやす)『を大将に各国の守護を援軍として派遣し、金ヶ崎城を厳しく攻め立てた。杣山』(そまやま)『城の脇屋義治、瓜生保』(うりゅうたもつ:後注参照)『らは援軍を組織し』、『包囲軍に攻撃をかけるが、救援に失敗。新田義貞、脇屋義助、洞院実世は援軍を求めるため、二人の皇子と新田義顕』(義貞の長男)『らを残し、兵糧の尽きた金ヶ崎城を脱出したが、再び金ヶ崎城へ戻ることはできなかった』。三月三日、『北朝方が金ヶ崎城に攻め込』み、『兵糧攻めによる飢餓』(その凄惨は「太平記」巻第十八「金崎の城落つる事」に『射殺され伏したる死人の股(もも)の肉を切つて、二十餘人の兵ども、一口づつ食うて、これを力にしてぞ戰ひける』とあり、また「梅松論」には『此城に兵粮盡て後は馬を害して食と』するまでになり、遂には『生きながら鬼類となりける。後生、をし計られて哀なり』と記す)『と疲労で城兵は次々と討ち取られ』、三日後の六日に落城、『尊良親王・新田義顕は自害し、恒良親王は北朝方に捕縛された』とある。

「一宮親王」後醍醐天皇第一皇子であった尊良親王。母は二条為子。

「新田の一族自害」ウィキの「新田義貞」によれば、延元三/建武五(一三三八)年閏七月、『義貞は越前国藤島(福井市)の灯明寺畷にて、斯波高経が送った細川出羽守』らの『軍勢と交戦中に戦死した(藤島の戦い)』。『その戦死の顛末は『太平記』に詳しく叙述されている。義貞は、燈明寺』『で負傷者の状況を見回っていたが、斯波高経に所領を安堵された平泉寺の衆徒が篭城する藤島城で自軍が苦戦していると聞き、手勢』五十『騎を率いて藤島城へ向かっていたところを、黒丸城から出撃してきた細川出羽守』『らが率いる斯波軍』三百『と遭遇』、細川『勢は、弓を携え、楯を持った徒立ち』(かちだち)『の兵を多く連れていたため、新田勢は直ちに矢の乱射を受けた』。『楯も持たず、矢を番える射手も一人もいなかった義貞』勢は、『軍勢に包囲されて格好の的となってしまった』。『この時、中野宗昌が退却するよう義貞に誓願したが、義貞は「部下を見殺しにして自分一人生き残るのは不本意」と言って宗昌の願いを聞き入れなかったという』。『矢の乱射を浴びて義貞は落馬し、起き上がったところに眉間に矢が命中』、『致命傷を負った義貞は観念し、頚を太刀で掻き切って自害して果てたという』。享年三十八とされる、とある。但し、以上の通りで、ここで新田一族が自害して果てた訳では、勿論、ない訳で、この謂いにはやや誤解を齎す点で問題があるウィキの「新田氏」によれば、『義貞の戦死後、三男新田義宗が家督を継いだ。足利家の内乱である』「観応の擾乱」(正平五/観応元(一三五〇)年~正平七/観応三(一三五二)年)に『乗じて異母兄の新田義興と共に各地を転戦、一時は義興が鎌倉の奪還を果たすが』、『巻き返され、足利基氏・畠山国清らによって武蔵国矢口渡で謀殺されると』、『劣勢は増すばかりとなった。義詮、基氏が相次いで没すると、義宗は越後から脇屋義治とともに挙兵するが、上野国沼田で関東管領上杉憲顕配下の軍に敗れて』、正平二三/貞治七・応安元(一三六八)年七月、『戦死し、新田氏本宗家は』ここに『事実上』、『滅亡した』とあるのが、それとなる。細かいことを言うようだが、『「太平記」の時代』は、まさにぎりぎり細川頼之の管領就任の直後の貞治六(一三六七)年頃までしか時制範囲としていないのであり、この話に記されている「太平記」絡みの内容は鎌倉幕府滅亡から南北朝前期までで、この「一族自害」は筆者が、つい、筆を滑らせてしまった表現と私は読むのである。

「由良(ゆら)・長はま・阿蘇の大宮司がひるひなき働」「由良」は熱田神宮を指し(平安末期の源義朝の正室で頼朝の母。熱田大宮司藤原季範を父として尾張国に生まれ、熱田神宮の伝承で由良姫と呼ばれることに基づく)、ここは熱田大宮司昌能(まさよし 生没年未詳)のこと。後醍醐天皇の側近として「建武の新政」では武者所結番(けちばん:実務主任)となった。知多半島の波豆(はず)城を押さえ、吉野・伊勢と東国を結ぶ海上交通路の確保に務めた。文和元/正平七(一三五二)年に北朝方と戦ったのを最後に消息不明となった。「長はま」は不詳。当初から後醍醐方について軍功を表わした(後に尊氏方へ寝返った)宗像大社大宮司氏長(後に氏範)のことと思ったが、宗像大社を長浜とは呼ばないので、判らぬ。識者の御教授を乞うものである。「阿蘇」は南朝方についた武将で阿蘇神社大宮司であった阿蘇惟澄(これずみ 延慶二(一三〇九)年?~正平一九/貞治三(一三六四)年)。鎌倉幕府の命を受けて楠木正成の立て籠もる千早城攻めに参戦しようとしたが、その途上で護良親王の令旨を受け、官軍側に寝返った(以降の事蹟はウィキの「阿蘇惟澄」を参照)。

「瓜生判官」瓜生保(?~延元二/建武四(一三三七)年)。越前国(福井県)の武将で、「判官」は通称。ウィキの「瓜生保」によれば、『現在の福井県南越前町阿久和(あくわ)にあたる越前国南条郡飽和村出身。新田義貞の配下として、北条残党の名越時兼を加賀大聖寺で討ち取る』。延元元(一三三六)年十月、『越前に下向した新田義貞を出迎えるが、程なく義貞の下を離反し、一時期』、『足利尊氏に味方』した。「太平記」では、『保は尊氏が送った偽の綸旨に騙されて離反したと伝えるが』、『これが事実であるかどうかの信憑性については疑問もある』。『足利に与した保は斯波高経、高師泰の軍勢に所属して金ケ崎城を攻め、義貞と戦った。しかし、保の弟達はこれに賛同せず、瓜生一族は分裂の様相を呈した』。『その後』、翌『月になると、尊氏から送られた綸旨が偽物であることを看破』し、『弟の義鑑房や照らが義貞の甥脇屋義治を擁立して越前杣山城に挙兵すると』、『これに呼応、斯波の軍から志を同じくする武将数名と共に脱走し、弟達に合流して南朝に帰参した』。『その後は越前で北朝勢と戦い、国府西側にあった新善光寺城を落とすなど、師泰、高経の軍を度々蹴散らして越前における戦局で優位に立っていたが、里見時成に随行して包囲された金ケ崎城の救援に向う最中』、『今川頼貞に待ち伏せされ、時成や弟義鑑房と共に戦死した』とある。]

 

 近比〔ちかごろ〕、越中の山伏、越前ひなが嶽(だけ)へぜんじやうし、山中にて此姥にあへり。

[やぶちゃん注:「ひなが嶽」「比那が嶽」。霊山日野山(ひのさん)(グーグル・マップ・データ)のこと。現在の福井県越前市と南条郡南越前町の境、武生の南東に聳える。「日永岳」「雛が嶽」とも記し、越前富士とも称される。芭蕉が「奥の細道」で詠みこんでいる。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 82 あすの月雨占なはんひなが嶽』を見られたい。

「ぜんじやう」「禪定」。この禅定は修験道のそれで、各地の霊山に登って行者が修行することを指す。]

 

 山伏、よびかけて、暫く物語し、

「御身は仙術を得しや。何(なん)がゆへに、かく長命(〔ちやう〕めい)なる。」

 姥、こたへていふやう、

「我も其ゆへをしらず。たゞしぜんと、命、永く、よはひ、かたぶかず。病ひもなく、歯もぬけず、めもかすまず、愁(うれへ)もなく、たのしみもなく、欲もなく、忿(いかり)もおこらず。一夜(や)に百里・弐百里の道をもはしり、行(ゆき)たければ、ゆき、見たければ、見れども、空をとび、水をかけり、通力(つうりき)がましき事は、曾て、かなはず。

 昔、我おや、若狹の小濱(をばま)に住(すん)で、一人の漁翁(ぎよおう)と親(したし)めり。此翁(をきな)、山より出て、浦に釣をたれ、毎日、我家(いへ)へ立よりて、父とともに酒をのみ侍りぬ。

 ある時、翁(おきな)、

『我〔わが〕すむ山中は、世話をはなれ、月のいろも、一しほ、異(こと)に、風景、おもしろく、其うへ、此ごろ、異魚をつり、美酒をたしなめり。來つて暫く、なぐさみ給へ。』

とて、いざなひ歸りぬ。

 ちゝ、翁とともに山中へゆきて見れば、世におもしろき風景、山のけしき、此國の内とは、見へず。さながら、唐繪(からへ)に書(かけ)るがごとし。岩は、みな、めなふの玉石にして、五色の光り、まじへ、峙(そばだ)ち、草木は、みな、唐木(からき)にして、さまざまの、めなれぬ花、ひらけり。せんだんの樹間(じゆかん)より、異香、風に和して、くんじ渡り、瀧の音は音樂のしらべに似て、ひとへに仙境に不異(ことならず)。

 しばらく行〔ゆき〕て、ちがやの生垣(いけがき)の内に、一つの庵をかまへ、壁も柱も、皆、竹を以て建(たて)たり。其かろらかなる事、有馬ざいくの、きよくろくのごとし。座敷へ請じて、酒を進め、さまざまの目なれぬ菓子を鉢にもり、誠にきれいに住(すみ)なしたる有さま、人間の境界(きやうがい)とは見へず。菓子をふくめば、味(あぢは)ひ、口中にみち、酒は玄天(げんてん)の甘露のごとし。暫く有〔あり〕て、さかなに、

『魚肉(ぎよにく)也。』

とて、二、三歲ばかりの、うつくしき嬰兒の死がいを、まな板にのせ、見るまへにて、是を料理し、靑磁の鉢に、もりて、さし出〔いだ〕す。

『さては。此あるじ、神仙のたぐひにはあらず、鬼神(きじん)・へん化(げ)のわざならん。』

とて、恐しさ、かぎりなく、彼(かの)さかなには、てもかけざりしを、

『世にたぐひなき珍味なり。』

とて、二切れ、三きれ、はしにはさみて、さし出〔いだ〕せば、辭するも、かれが心に背(そむ)かん事、おそろしくて、ぜひなく、鼻紙へ受(うけ)、喰ふ貌(かほ)して、懷中へ入れ、厠(かわや)へ立(たつ)體(てい)に見せ、それより、足にまかせて、にげ歸れり。

『若(もし)、あとより、おつかくる事もや。』

と、あまりのすざまじさに、道にて、懷中のさかなを捨(すつ)る間もなく、やうやう、我家へ歸りて、氣を取失(とりうしな)ひ、暫く有て、正根(せうね)づき、

『彼(かの)肴(さかな)をすてよ。』

とて、せんさくせられしに、我〔われ〕、ようせうの時にて、何心なく、はな紙の、まくら元にありしを、引ちらして、さかなを見付、三きれともに、皆、喰(く)ひ侍りぬ。そののち、彼〔かの〕おきなも、再度(ふたゝ)び、見へず。

 あまりのふしぎさに、人、あまた、いざなひ、彼(かの)山中に入〔いり〕て、いろいろ、たづね求(もとむ)れども、さやうのあやしき所は、なし。

 されば、しばらく、造化のたくみを、うばひなせる仙室(せんしつ)にてや、ありけん。彼(かの)小兒の死がいと見へしは、人魚(にんぎよ)といふ魚(うを)の肉なるべきよし、さる博學なる人の料簡いたされし、とぞ。

 我父、これを得ながら、食(しよく)する事、あたはず、我〔われ〕ひとり、是を食して、壽命、數(す)百歲を經たり。

 まつたく、道果(だうくわ)・仙術のたぐひに、あらず。」

とぞ、語り侍りぬ。

[やぶちゃん注:「ゆへに」ママ。

「かたぶかず」衰えず。滅びず。

「忿(いかり)」音「フン」。「怒り」に同じい。

「空をとび、水をかけり」句末は「てふ」(「といった」)の省略。

「若狹の小濱(をばま)」現在の福井県小浜市附近(グーグル・マップ・データ)。

「漁翁(ぎよおう)」漁師の老人。

「世話」通俗の世界。

「見へず」ママ。以下同じ。

「唐繪(からへ)」ルビはママ。中国の山水画。

「めなふ」ママ。「瑪瑙(めなう)」。

「唐木(からき)」本邦では見かけたことがない異国の樹木。

「めなれぬ」「目馴れぬ」。

「せんだん」「栴檀」。ここはインド・東南アジアに産する香木白檀(びゃくだん)の異名。

「くんじ」「薫じ」。

「ちがや」「茅萱」或いは「茅」。

「有馬ざいくの、きよくろく」「有馬細工の、曲六」有馬は有馬籠を初めとして竹細工が有名。「きょくろく」は「曲彔」であろう。「曲椂」とも書き、法会の際などに高僧が用いる椅子で、背の寄りかかる部分を半円形に曲げ、脚をX字形に交差させたものが多い。ここはその軽さや座り心地の良さを、翁の庵の佇まいに比喩したものととる。

「玄天(げんてん)」語としては「北方の天・冬の天」或いは「天」又は「天空にある太陽・月・星」指して言うが、ここは道家思想に於ける「玄」(奥深いこと)で、その無為自然の人知の及ばぬ絶対原理に満ちた世界の謂いである。

「甘露」中国の古伝承では、王が仁政を行うと、天がその祥瑞として降らすという甘味の液体。また、仏教ではサンスクリット語の「アムリタ」の漢訳語で「不死」「天酒」とも訳される。インド神話では諸神の常用する飲物で、蜜のように甘く、飲むと不老不死になるされるもの。ギリシャ神話の「ネクタル」に相当するが、仏教では正法(しょうぼう)にも譬えられる。

「おつかくる」ママ。

「正根(せうね)」漢字表記もルビもママ。「性根(しやうね)」。正気。

つき、

「彼(かの)肴(さかな)をすてよ。」「あの奇体な嬰児のようなものの切り身を捨てねばならん!」という自身への心内の呼びかけ。

「せんさく」「詮索」。探すこと。

「ようせう」ママ。「幼少(えうせう)」。

「しばらく」「一時ばかり」の意。

「造化のたくみを、うばひなせる」自然の造形を借りて仮に創り上げた。

「料簡」冷静によく考えて推察すること。

「道果(だうくわ)」修験道の修行の結果として得た技。]

 

 誠に人魚は不老不死の良藥とは謂(いひ)つたへたれど、外(ほか)に、「是を食したり」とて長生の人を、きかず。されば、此異女(いぢよ)の長命なる說も、さだかには信じがたし。

 昔より、仙人とて不死の人あるやうに、和漢の書物どもに、かきおきけれど、「これこそ其人」とて、長生の人も不出〔いでず〕、世界に無量の人は、みな、百歲より、内なり。無常の暴風は、神仙を不論(ろんぜず)、性(せい)をうばふ猛鬼(もうき)は、貴賤をきらはずとて、五蘊(ごうん)のからだの破れぬといふ事は、なし。昔より誠の仙人といふは、まつたく、からだの長生(ながいき)するをいふには、あらず。人、其德を賞して、末代まで名のくちぬを、誠の仙人とす。堯舜(げうしゆん)・文武(ぶんぶ)・周公・孔子、佛法にては、みだ・尺迦などが始(はじめ)にて、其外、吳子(ごし)・孫子・太公望・張良・諸葛孔明、是等を、又、「武仙(ぶせん)」といふ。其人、生れてより、數(す)千年を經ぬれど、今に至るまで、其美名(びめい)、くちず。皆人(みな〔ひと〕)、仙人の命を永(なが)ふ、生(いき)るとおもふは、大きなる、ひが事ならんか。

 

 

金玉ねぢぶくさ四ノ終

[やぶちゃん注:「世間の無量の人」この世にある数えきれぬ人間。

「無常の暴風は、神仙を不論(ろんぜず)」仏教の遮ることの出来ない激しい嵐のような無常は、神仙などという存在を問題にしない。

「性(せい)をうばふ猛鬼(もうき)は、貴賤をきらはずとて、五蘊(ごうん)のからだの破れぬといふ事は、なし」「蘊」はサンスクリット語の漢訳で、「集まったもの」の意。諸存在を構成する物質的・精神的な五つの要素を指す。「色(しき)」・「受」・「想」・「行(ぎょう)」・「識」の総称。「色」は物質的な存在、「受」は事物を感受する心の働き、「想」は事物を思い描く心の働き、「行」は心の仮想された意志的な働き、「識」は識別や判断をする心の働き。「本来の仏性(ぶっしょう)を迷わして奪う強力な悪鬼は貴賤を問うことなく誰をも誘惑するものであると言っても、人間という儚い肉体・精神体が何時までも壊れないというようなことはあり得ない」の意。

「くちぬ」「朽ちぬ」。朽ちない、滅びない。

「堯舜」中国の伝説の聖王堯(ぎょう)と舜(しゅん)。

「文武」周の聖王文王(孔子が尊崇した周公旦(以下の「周公」)の父)や周王朝を打ち立「みだ」阿彌陀如来。

「尺迦」釋迦如来。こうも書く。

「吳子」春秋戦国時代に著されたとされる兵法書「呉子」の作者とされる兵法家呉起(当該書の主人公の名でもある)、或いは呉起の門人。同書は古くから「孫子」と並び評された。

「孫子」春秋時代の武将で兵法家であった孫武(生没年未詳)。兵法書「孫子」の作者とされる。

「太公望」(生没年未詳)は周初の功臣で兵法家として知られる呂尚(ろしょう)の尊称。文王に見い出され、周公旦らとともに、武王を助けて殷を滅ぼし、周王朝建国に貢献した。後に斉(せい)侯に封ぜられて斉の基礎を築いた。

「張良」(?~紀元前一六八年)は漢の高祖の功臣。「古今百物語評判卷之四 第十一 黃石公が事」の私の注を参照。

「諸葛孔明」諸葛亮(一八一年~二三四年)は三国時代の蜀漢の宰相。孔明は字(あざな)。劉備に「三顧の礼」を受けて仕え、「天下三分の計」を上申し、劉備の蜀漢建国を助けた。劉備死後、子の劉禅を補佐したが、五丈原で魏軍と対陣中、病死した。

「武仙」武芸に秀でた人の意。最後の五人を指しているが、この語は恐らく本邦で江戸前期に生まれた語であり、一般名詞として中国では使用されていないと思われる。

 

 さても。人魚を食った若狭の八百比丘の話は本邦の人魚の話では最も知られたものである。それが婆さんになって、山姥(やまんば)みたようになっている(但し、一般人と普通に交流というのは山姥の属性とは異なる)という、人魚フリークの私にも、あまり嬉しくもない話である。私の扱った有象無象のものの中では、そうさ、「諸國里人談卷之三 洞穴」がまずはオーソドックスでよろしいか。最近公開したものの中では、「大和本草卷之十三 魚之下 人魚 (一部はニホンアシカ・アザラシ類を比定)」で博物学的にかなり念を入れて注をした。ヴィジュアル系では、「人魚(松森胤保「両羽博物図譜」より)」がなかなかクるものがあるかも知れない(人魚のミイラ図(サイズ入り)有り)。而して私の古い仕儀の、南方熊楠「人魚の話」も面白いとは思う。

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