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« 梅崎春生 無名颱風 (前) | トップページ | 梅崎春生 無名颱風 一括PDF縦書サイト版 公開 »

2020/09/06

梅崎春生 無名颱風 (後) / 無名颱風~了

 

      一一

 

 私の直覚は正しかった。

 大体その頃からの数十分が、高鍋の町における、この無名の颱風の最盛期にあたっていたようである。

 不気味な、真空状態に似た静寂が、二分間ほどつづいた。と思うと、地鳴りのような音を立てて、ふたたび烈風が飛びかかってきたのだ。猛烈に飛びかかってきた。文字通りその感じであった。それはひと休みして、最後の打撃を加えてくる猛獣に似ていた。

 私がころがりこんだのは、土間がだだっぴろい、農家造りみたいな家屋であった。分厚い閤を手探りながら、やっと私は上(あが)り框(がまち)にとりついた。框には土や砂がかぶさっているらしく、脛(すね)にザラザラと触れた。人が住んでいる気配はさらにない。だから挨拶も略して、そこにある柱にすがって、土足のまま畳へ這いのぼった。手ざわりの感じでは、その柱は丸く太く、直径も一尺ぐらいはあるようである。暗くて家の内部は見えないが、柱のたくましい感触は、いくぶんの安心感を私に与えた。その柱に身をすりよせて、私は大きく呼吸をした。

「――困ったな。困ったことになったな」

 皆とはぐれてしまったことが悔(くや)まれてならなかった。皆といっしょならば、気も紛(まぎ)れるだろうし、危機を避けるすべもあるだろう。こう独りとなっては、すべて自分の判断と直覚でうごく外(ほか)はない。しかし私は自分のそれに、ほとんど自信をなくしていたのである。体が冷えてぞくぞくと寒かった。気温も急に低下してくるようだ。その悪寒(おかん)と疲労の底で、足を縮めて丸まった昆虫の姿勢を自分に感じながらも、吹きつける風の方向や強度に私は全神経をあつめていた。

 風の間隔がしだいに近まってくるらしい。それと一緒に風速も加わってくることが、家の揺れ方ではっきり感じられる。古い造りだと見えて、家の各部分が風圧に応じて、猛烈なきしりを立てる。四五秒置きの突風は、今までの音とちがって、へんに乾いた狂噪的な響きを帯びている。家の内部は暗い。音だけが私を取り巻いている。滑車に似た梁(はり)の軋(きし)りが、一風ごとに増大してきて、私が倚(よ)る太柱もぐぐっと揺れて、私の身体を衝き上げてくる。おそろしい手答えをその度に私に伝えてくるのだ。

 ――ここは危険だ?

 そんな考えがちらっと頭をかすめる。と、居ても立ってもいられない気持にかられ、闇のなかに片手を伸ばし、私は柱の下をはなれて、徐々に奥の方に移動し始めた。じっとしていることに耐えられなかった。

 伸ばした手が、なにか横木にふれた。なお手探ると、それは階段の登り口のようである。この家には、二階がある。

 ――階下はあぶない!

 そのことが矢のように、私の頭にひらめいた。昭和六年の颱風のとき、風で倒壊したある二階家の有様が、その瞬間、まざまざとよみがえっていたのだ。その家は二階は原形のまま、階下だけがぐしゃりと潰(つぶ)れていたのである。私は反射的に足をかけ、濡れた衣囊を引きずりながら、盲虫のように階段を這いのぼり始めた。

 こういう危急の状況に、なぜ重い衣囊を遺棄して、身軽にならないのか。私はほぼ無意識に、衣囊を引きずっていたのだろうが、その時側から、それを捨てろと忠告されたとしても、おそらくは捨て切れなかったに違いない。身軽になるということは、ただひとりの自分になることだ。それは言うまでもなく、余りに辛すぎる。その気持が、この重量ある伴侶(はんりょ)に、多分の頼もしさを、私に感じさせていたのだろう。ことに、どこに通じるのかも判らない階段を、盲めっぽうに登っている今の状況としては!

 まったく、此の家の構造や間取りを、私は何も知らないのだ。そしてこの家が、高鍋の町のどの地点にあるかということも。――だいいち高鍋の町からして、地図の上で、九州のどの辺に位置するかも、私には見当がつかないのである。「たかなべ」などという駅名を、今日下車してみて、始めて見知った程だから。その私にとって無名にひとしいこの町の、無名の地点の、無名の家の階段を、しゃにむに登ってゆく。その階段の恰好も、それを登る自分の姿勢さえも、まっくらだから、私には全然見えないのである。ただ判るのは、その階段がひどく揺れているということだけだ。

(何ということだろう!)

 今朝炎天の下で部隊を離れる時には、予測もできなかった運命が、私におちようとしている。一寸先は闇。文字通り今の状況は、一寸先は闇であった。その闇を手探る私の指が、階段の最上段に触れたらしい。そして私はぎくりとして、ほとんど衣囊を取り落そうとした。

「誰だ。そこにくるのは」

 闇の中から、そんなしゃがれた声が、いきなり飛んできたからである。空家だと思っていたのに、誰かがこの二階にいる。それが私をおどろかせた。私は身構えた。その押しつぶされたような声は、隔意と警戒だけでなく、はっきりと敵意を含んでいたからである。[やぶちゃん注:「隔意」(かくい/きゃくい)は「心に隔たりのある思い・打ち解けない感じ」の意。]

「怪しい者じゃない」

私の返事もすこしかすれた。舌がもつれて、長いこと声帯を使用しなかったような気がした。

「しばらく、雨宿り、させて呉れ。たのむ」

 その時、白い稲妻の光が、そこらを瞬間的に、仄明るくした。中二階みたいな、狭い板じきの部屋である。その部屋の真中を、太い柱が立ち貫いていて、その柱のかげにうずくまっている一人の男の形を、私はちらと眼に収めた。上半身が裸だったようである。その裸の胸や手が、私にむかって構えていた。距離は一間[やぶちゃん注:一メートル八十二センチほど。]ほどであった。むこうも私の姿を認めたようだ。

「雨宿りだあ?」

 ふたたび闇に沈んだ部屋の中から、男のたかぶった声が戻ってきた。私はそれに短く応じながら、衣囊を引っぱり上げ、柱の方ににじり寄って行った。階下よりもやはりここの方が、安全なような気がしたし、身近に人間が一人でもいるということが、私には力強く思われたから。

「やけに吹きまくるじゃないか」

 私は柱のそばにいた。柱は先刻のより、一廻り大きかった。この家の大黒柱みたいなもののようであった。

[やぶちゃん注:「昭和六年の颱風」この当時、梅崎春生は福岡修猷館中学を卒業した十七歳の時で(一浪して翌年に五高に入学)、福岡にいた。この年の台風については、前に見たサイト「四国災害アーカイブス」の中に「昭和6年10月の台風」があり、一九三一年十月十三日に『台風が九州、四国をかすめ、和歌山南方に上陸した。非常に速かったので、短時間強雨の被害になった』(下線太字は私が附した。後も同じ)旨の記事があるとある。当該ページには原資料へのリンクがあるので、それで見ると、「中村市史 続編」の「災害編」の中の「明治二十七年より昭和二年に至る風水害」の年表に(実際の年表には昭和九年までのデータが載る)、昭和六(一九三一)年の条に『十月十三日 台風』とあって、『九州四国を掠め、和歌山南方で上陸した七三五㎜の台風。非常に速かったので短時間強風の被害となる』とあって、後者の原資料を信ずるなら、ここでの描写と親和性があると言える

「盲虫」「ざとうむし」と当て訓して読んでいるものと思う。節足動物門鋏角亜門蛛形(クモガタ)綱ザトウムシ目 Opiliones に属するグループの総称和名で、異名総称としては「メクラグモ」とも呼ばれるが、その呼称は地方によっては、全く別種の真正のクモ類である足の長い鋏角亜門クモ綱クモ目ユウレイグモ科 Pholcidae の類をも指すので注意が必要。節足動本邦産は約百種ほどおり、通常は体は七〜八ミリメートルの豆粒状を呈し、五〜六センチメートル、時には十数センチメートルにも及ぶの糸のような長い四対の脚を、盲人が杖で探り歩くように、全身を震わせながら歩行することからの和名である(差別和名として検討が必要だろう。「座頭」自体がその内、若者には漢字も当てられなくなるであろうし)。腹部に明らかな体節構造を持つ点、しかも頭胸部と腹部が密着して見た目が概ね楕円体に纏まって見える点(クモ類は両部の間に明確なくびれが認められる)、出糸突起を有さない(糸を生成しない)ことでクモ類と区別される。夜行性。山地に多いが、平地や海岸にも棲み、岩の割れ目や壁面の角などに多数で固まっていることがある。クモ類には生理的嫌悪感の免疫がある私だが、彼らはダメ。]

 

      一二

 

 その部屋から、今登ってきた階段を通して、表の道路が見えた。

 雲はあちこち断(き)れて、雨はすでに止んでいるらしい。道路はぼうと明るく、その向うに家が並んでいるのが見える。月が出ているのかも知れない。突風が乾いた音をますます強めてくる。揺れの点では階下よりもここが烈しいようだ。大浪に揺られる船の底みたいに、ぎぎっと軋み、かたむき揺れる。ロウリングのみならず、不気味なピッチングも加わる。[やぶちゃん注:「ロウリング」(rolling)「ピッチング」(pitching)梅崎春生も主人公も元海軍兵(既に解員されている)であるから、自然にこうした表現が出る。船舶が海上を航行する場合、強風や波浪により、横揺れ(ローリング)や縦揺れ(ピッチング)、及びその他それらが複雑した動揺が発生する。ピッチングは前や後ろからの波風によって船首と船尾が恰もシーソーのように上下に揺れることで、ローリングは船体が横からの波風によって左右に揺れることを指す。]

 突風のたびに無意識に身体が凝縮して、どうしても、柱にすがりつく姿勢になってしまう。闇の中でその都度(つど)、私の手が男の腕に触れ合ったりする。男の肌は濡れてつめたかった。

 さっき板片をぶっつけた私の二の腕が、じんじんと熱い。ぬるぬるする。皮膚が裂けて、出血しているらしい。また眼鏡を飛ばされたとき、右耳のうしろを傷つけたと見えて、そこもじんじんと疼(うず)く。脈搏がそこに打っているのが判る。不整調で、早い。

 部屋が悲鳴をあげてざわめき揺れる度に、男もはげしく柱にしがみついて来るようだ。掌や腕がぶつかり合う具合で、それは判る。嵐に恐怖をかんじてしることが、その動きで私に伝わってくる。触れた感じでは男の体軀は、私よりも細く小さいようだ。男の呼吸は鞴(ふいご)のように荒い。

 突風のあい間に、私たちは短い言葉を交し合っていた。私からの発言や質問の方が多い。しゃべることで、相手や自分を確かめていないと、不安と恐怖で押しつぶされるような気がするのだ。顔かたちもまだ見知らぬのに、私はその男に、生物的な親近感をつよく保ち始めている。しかしそれは私の一方的な感じかも知れない。男の返事や話しかけには、もはや敵意はほとんど消えていても、まだ隔意の風情(ふぜい)が頑強にのこっているのだ。そこに異質のものが、こつんと感じられてくる。

「あんたも、兵隊かね?」

 切迫しているので、言葉が長いセンテンスでは出てこない。そう訊ねながら、私はできるだけ衣囊を身近に引きよせる。万一の場合の衝撃を、それで避けようとする下心からだ。こんなものが役立つかどうか。しかしその計算を離れて、ほとんど無自覚に私は動作している。

 男はあらく息づくだけで、それには答えない。

 次の風のあい間に、異様に緊張した声で、男は口をひらく。私に問いかけるともなく、独白ともつかぬ、中途半端なうわずった調子で。

「こ、ここは危いかな。外に出た方が、いいかなあ」

「外は駄目だよ」

 私は次のあい間に、頼むように言う。

「ここよりは、もっと危いよ」

 この男にいま駈け出されては、私もはなはだ困るのだ。そして実際、ここから見える仄白い道路に、いろんな形のものが、すばらしい速度で走り廻っているのである。板片や瓦のようなものだけでなく、相当な大きさをもっものまでが。

 戸板や唐紙が立ったまま、何枚も何枚も、道路の上をトコトコと走って行く。ふしぎに倒れない。妖怪じみたおそろしさがある。そして急に速度を増して、宙天(ちゅうてん)に捲き上る。

 

      一三

 

 とにかくその男は、すこしずつ変であった。

 変ではあるけれども、確かに変であると感じるだけのゆとりが、私にはなかった。

 包囲する轟音がたちゆるむとき、好奇心や相手をたしかめたい欲望が、ふと皮膚や唇の上に戻ってくるのだが、次の瞬間に、それはばらばらにかき消されてしまう。

「どうぞ。――どうぞ」

 音響と振動が通りすぎるのを、祈るような気持で待っている。そして短い小康がくる。電光が時々白っぽく流れる。

 この家には、雨戸は立ててあるようだが、唐紙や障子などの建具は何もないようであった。手探りでも触れなかったし、稲光もそれらを照らし出さない。家具らしいものの形もない。しめっぽい臭いからしても、空家のように思われるが、そうすればこの男は何だろう。私と同じ境遇だろうと、漠然と私はきめているのだが(そう思うのが一番カンタンだからだ)、どこかしっくりしない。食い違ってくるものがある。しかしむこうでも、私をそんなに感じているかも知れない。なにぶん動顚(どうてん)の状態だから、感情や挙動が平常通りにゆく訳もないのだ。

(とにかく、とにかく、これが済んでから。――)

 なにもかも後廻し、ひたすらその気持であった。戦争中やっと命を全うしてきたのに、やっと解放された当日に、はからざることになっては大変だ。是が非でも。是が非でも。私は衣囊に肩を埋めてみたり、柱の方に身じろいでみたり、架空の圧力にたいして、絶えず防禦(ぼうぎょ)の姿勢をととのえながら、神経だけで力んでいた。この家の屋根瓦(がわら)をばりばりと持ち去る、すさまじい音がする。壁の外側にも、重いものやするどいものが、ひっきりなしにぶつかってくるのである。

「――もう、駄目かも知れないぜ」

 やがて闇の底で、男の投げ出すような声がした。

「もうそろそろ、今度は駄目らしい」

「駄目なもんか」

 即座に私は答える。その言葉に引きずりこまれることから、懸命に抵抗しながら。――しかしそろそろ、この男が気持の隔てをなくしかけていることが、その語調から感じられた。

「そら、少し収まったようじゃないか」

「風向きが変る前に、ちょっと収まるんだ」と男が答える。「さっきから聞いているから、おれにはよく判るんだ」

 突風がすこしとぎれて、余波みたいな雑然たる音響がごうごうと鳴っている。

「何か食うもの、ないか」

「あるよ、何かあるだろう」

 私はあわただしく衣囊を引きよせて、紐(ひも)をまさぐる。紐が濡れてからみつき、なかなか解けない。中には今朝支給された弁当がある筈だ。少しして、男が言う。

「お前は、テンゾクか」

「え。テンゾクって何だい」

 なにか賊(ぞく)みたいな意味かと、私は理解しかねていた。紐がやっと解ける。

「テンゾクさ。ほら」

 男の説明で、やっと、転属だということが判る。この言葉は海軍では使わないから、耳慣れない。部隊から別の部隊へ変ることを意味するようだ。この男は陸軍の兵隊だ、と私は推知する。しかしそれにしても、少しずつ妙だ。何を考えているのか、と私はちょっと訝(いぶか)り思う。思うだけで、考えがそこから進まないのだが。男が探るような声を出してくる。[やぶちゃん注:諸記載を見るに、海軍では「転出」と言ったようである。]

「荷物持ってるんだろう、なあ、お前」

 男の掌が暗がりの中で、私の衣囊を手さぐっているのが感じられる。私の手がやっと衣囊の中で、食物を入れた包みに触れた。胃のへんがぎゅっと収縮してくる。空腹感というよりは、空虚感にちかい。

 指に濡れてべとべとしたものがくっついてきた。私はそれをいきなり口に持って行く。甘い。口腔の粘膜に、とつぜんその甘さは沁み入ってゆく。饀(あん)の甘さだ。航空糧食のお萩の粉末が、雨でどろどろに溶けて、饀粉と御飯にそっくり出来上っているのだ。外包がやぶれて、チューブからしぼり出るように、それがはみ出していたのである。

 ふたたびひとかたまりの突風が、破裂するような音をたてて、斜めに空から舞い降りてきた。浪のように揺れる闇の中を、私は男の掌をあわててまさぐって、どろどろのお萩をおしつけてやる。そして私も忙がしく、自分の掌を唇に押し当てる。それだけが仕事のように。

(あいつはどうしているだろうな。あのミミズクの旦那は!)

 航空糧食からの聯想(れんそう)が、ちらとそこに走る。子供に食べさせてやりたい、と言った老兵のぶよぶよした表情。

 ――その時、階段を通して見える道の向うに、白っぽい光芒がひらめして、小さな藁(わら)屋根の家の形が、くっきりと浮き上った。それはゼラチンのように、抵抗にはげしく慄えていた。と思うと、ぐにゃぐにゃと折れ曲って、無雑作に平たくなった。無声映画でも見るように、崩壊音もひびいて来ない。しかしおそろしい実感が、私を打ってきて、思わず全身が硬直した。

 私は何か叫び声を立てたかも知れない。

 

 おそらく、この突風だったのだろう。(と後で私は思うのだが)

 この家から数町ほど離れた、あの新装の高鍋駅が、ほぼこの時刻に、轟然と倒壊していたのである。駅舎に残っていた少数の人々は、ほとんどその前に危険をかんじて、すべて身をもって退避していたのだが、その突風の寸前の小康時にふと気を許したとみえて、その中の二人ほどが、駅舎に遺棄した衣囊を取りに、ふたたび駅に駈け入ったのである。崩壊は、それと同時であった、と言う。――そしてその不運な一人が、あのミミズクに似た老兵であった。(翌朝、私はそれを知った)おそらくは子供に土産の衣囊を見捨てるに忍びなかったのであろう。

 ――しかし私はそのときは、そういうことも知らずに、大浪のように揺れる柱に片手でしがみつき、片手でしきりにお萩を摑みながら、瞼をかたく閉じていたのである。生きているという実感が、まもなく奪いさられるかも知れない。その瞬間を全身をもって恐怖しながら、その実感を保って行こうと努力するかのように、しきりにお萩の甘さを口いっぱいに押し込んでいたのである。

 まだ甘い。まだ甘い。と口腔内にひろがる甘さを、舌と粘膜でドンランに確かめつづけながら。――

[やぶちゃん注:「数町」一町は百九メートル。

 なお、私は非常に残念に思う。「おそらく、この突風だったのだろう。(と後で私は思うのだが)」(この前の一行空けは本篇で唯一の特異点である)と次の二段落は(厳密には、まず行空けはせず、さらに「――しかし私はそのときは、そういうことも知らずに、」の部分だけを変えて、「――私はそのとき、大浪のように揺れる柱に片手でしがみつき、片手でしきりにお萩を摑みながら、瞼をかたく閉じていたのである。生きているという実感が、まもなく奪いさられるかも知れない。その瞬間を全身をもって恐怖しながら、その実感を保って行こうと努力するかのように、しきりにお萩の甘さを口いっぱいに押し込んでいたのである。」とすべきであったと思うのである。これがあることで本作のコーダのリアルな映像としての衝撃が甚だ薄まってしまうことになるからである。]

 

       一四

 

 いつの間にか雲が断(き)れ、月が出ていた。

 あたりがぼうっと明るくなっている。

 風威はまだ衰えない。ますます強い。難破船の船艙(せんそう)のように、ぎぎっと撓(たわ)み揺れるこの部屋の、その内部の模様が、おぼろに見分けがついてくる。眼が慣れてきたのだと思ったら、ふと眼を上にやると、明り取りのちいさな天窓の彼方に、ぽっかりと月が出ている。血を塗ったような赤さだ。

「月が!」

 十一二夜の月齢だ。ちぎれた海藻(かいそう)みたいな断雲がしきりに月面をかすめ飛ぶので、月そのものがぐんぐん走っているように見える。そしてこの部屋も月に引張られて、いっしょに走って行くようだ。と思うと、またひとしきり、風のかたまりがぐゎんとぶつかってくる。たちまち部屋全体が、めりめりと慄えあがる。

 私たちはいつか身体を寄せ合って、お互いを楯(たて)とするような形になっていた。そして風の合い間に、衣囊に手をつっこんで、にちゃにちゃになったお萩を摑み出して、しきりに口に押しこんでいた。

「もう、ないのか、もう――」

 男の声が、私をうながす。衣囊の内側にべたべた付着した分をのこして、航空糧食のお萩もあらかた食べ終ったのだ。男の声はなにか切迫していて、私はぎょっとする。

「まだ、何か、あるだろう。食わせろや」

 天窓からおちる月の明りで、私はその時初めて、このふしぎな相客の顔を眺めていた。男は裸の上半身をねじむけて、衣囊をのぞきこむようにしている。その輪郭がはっきり判るほどは明るくない。ぼんやりと目鼻立ちがうかがわれる程度だ。うつむいたその顔の下辺が、へんに黒っぽく隈どられていると思ったら、眼を近づけてみると、それはおびただしく密生した無精髭(ぶしょうひげ)である。私が黙っているので、男は急に顔をあげて、しかし言葉は哀願するような調子になった。

「なあ。おれは、腹へってんだぞ」

「腹がへっているって――」

 当感したような語調になるのが、自分でもわかる。男の異常な食慾もへんに思われるし、受けとめかねるような気持である。

「あと、何かあったかなあ。あとは、生米と、カンヅメと――」

「あ、カンヅメがいいや」

 男の声はとたんに生き生きとなる。若い響きを帯びてくる。うすぐらいので、年配もよく判別できないが、この男は私より若いのかも知れない。そして上半身をななめに曲げて、壁ぎわに腕を伸ばす。そこらにこまごましたものが、重ねて置かれてあるようだ。押えたような声で、

「早く、カンヅメを出せや。おれが、切ってやる」

 姿勢をおこした男の右手に、細長いものが握られている。ゴボウ剣だ、と判るまでに、時間を要しない。彼は腕を曲げて、私に向ってそれをかざしている。催促するというより、威嚇(いかく)するような姿勢だ。表情も定かでないが、何かすてばちな圧力を、私に加えてくるふうである。私はいささかむっとする。と同時に、不安にもなる。この男は、何者だろう。一体なにごとか。男の顔の角度がすこしずつ動いて、私の全身を睨(ね)め廻すらしい。私は身体を固くして、男を見返していた。

 やがて男の手が、ふと下に下りる。そして気を許したような、とんきょうな声で、

 「なんだ。怪我してるじゃないかよ。おまえ」

 男の視線が、私の左腕におちているらしい。さっき防火水槽のそばで、何かに打ちつけたところだ。と気付いた時、とつぜんその部分がじんじんと熱くなり、するどい痛みがよみがえってきた。私は思わず、そこへ掌をやる。

 濡れた服地が、そこだけベロリと破れている。指がいきなり、ぬるぬるした皮膚にふれる。血だ。血が乾かないまま、そこらを黒く濡らしている。指を触れた部分にヒリリと痛みが走る。

「待てよ。おれが直ぐ、緊縛(きんばく)してやっからな」

 男の声は急になごやかになる。ふたたび壁ぎわに于を伸ばす気配で、

「どこで、ころんだんだ。え」

「何かにぶつかったんだよ、表で」

 私は用心しながら、上衣をそろそろと脱いで、襯衣(シャツ)だけとなる。脱いだ服地はぞんぶんに水を吸って、じっとりと重い。襯衣も雨水と汗に濡れて、気味悪く肌にべたべたと貼(は)りついてくる。

「痛い」

 私は思わず口に出す。男の指が乱暴に、油薬みたいなものを、傷口へなすりつけてきたのだ。そして黒っぽい布きれで、器用にそこらを緊縛する。しめつけられた傷口を、熱い血が鼓動をうって、じんじんと流れてゆくのが判る。男は布きれの端を、きりりと結び上げながら、低いささやくような声で、

「――お前も、兵隊だな?」

 私はうなずいて見せる。しかし相手に通じたかどうかは判らない。

 緊縛が済むと、私は素直な気持になって、衣囊の中を探る。奥の方に固いものが、ごろごろと指に触れる。その二つ三つをひっぱり出す。そして男に手渡す。

 私は柱にもたれて、ゴボウ剣の刃先が、カンヅメに突きささる音を、しばらく聞いていた。その音が、騒然たる風の音と、いきなり重なり合ってくる。ぎい、ぎぎっ、と部屋が歪む。私は柱に爪を立て、呼吸をつめる。階段口を通して、仄白い道路が眼に入ってくる。さっき崩壊した向いの家が、ごちゃごちゃした堆積となって、そのなかから、突風にうながされて、板片やブリキ板が、猛然と飛び立ってゆく。まるで無鉄砲な選手みたいだ。

「もう、駄目かなあ」

 その危惧が、瞬間私をおびやかす。この家の柱や梁(はり)の軋りが、妙に疲れたような響きを帯びてきている。それがひどく気になるのだ。

[やぶちゃん注:「十一二夜の月齢」いつもお世話になっている「暦のページ」で、昭和二〇(一九四五)年八月の月齢を見ると、それに当たるのは十九日か二十日になる。

「ゴボウ剣」刀身の長さと黒い色から通称された陸軍の「三十年式銃剣」のこと。明治三〇(一八九七)年採用。第二次世界大戦に於ける日本軍の主力銃剣である。]

 

      一五

 

「こりゃ、すごいや、お赤飯だぜ、おめえ」

 男はふたたび柱のそばに、にじり寄ってきた。

 部屋の広さは六畳ほどもあった。板張りの上に、ござが敷いてあるが、ひっきりなしに落ちてくる砂や壁土で、そこら一面がざらざらだ。家具も、道具も、なにもない。物置きみたいに、がらんとしている。がらんとした空間に、太柱がいっぽん突きぬけている。その柱の下にうずくまって、私たちは額を寄せ合い、カソヅメの赤飯を手摑みに、しきりに口に頰ばっていた。こんなお目出度くない状況で、お赤飯とはなにごとか。そんな思いが、ちらちらと私をはしる。しかし我が相客は、そんなことを考えもしないらしい。ただひたすら、食べている。食べることだけに、熱中している。その旺盛な咀嚼音(そしゃくおん)が、すぐ側で聞えるので、それに追われるように、私も顎を動かしている。そしてふと感じたままを、そっくり私は口に出す。私のつもりでは、相手に親しみをこめた感じだったのだが。

「ずいぶん、食うじゃないか、お前」

 ぎょっとしたように、男は柱から身を引く。そして私もはっと固くなる。男の右手がまさしく、ゴボウ剣を摑んでいたからだ。私は遽(あわ)てて、言葉をつぐ。

「ど、どうしたんだよ」

「食って、悪いのか」

 ひどく険しい声が、男の口から、はねかえってきた。二の句をつがせぬほど、その語調は激しい。しかしその激しさは、どこか空虚だ。私につっかかるというより、発作的に喚(わめ)いたという感じがある。私は黙る。黙ったまま、無意識に身構える。そして男の動静に、全神経をあつめている。男の体軀は、私よりも細く、ひよわそうだ。しかしその右手に、ゴボウ剣を握って、私をねらっている。風がどどっと吹きつけると、男の身体もその形のまま、よろよろとゆらぐようだ。私も思わず片手をついて、動揺に抵抗する姿勢になる。

 男の影が、すこしずつ、後ずさりするらしい。そして押しつけるような、ぶきみに緊張した声で、

「おめえ。どういうつもりで、ここへ来たんだ」

「雨宿り、だよ」

「なに。どこから、来たんだ」

「高鍋の駅、からだ」

「駅からだあ?」

 男はひるんだような声を立てた。しかし直ぐ盛(も)り返すように、甲(かん)高い声で、

「駅から、わざわざ、どんなつもりだい」

 私は黙ってしまう。どんなつもりだったのか、私にも判らないのだ。むちゃくちゃに走り出したとたんに、皆を見失ってしまったのである。と思うけれども、しかしあの時、私は皆から意識的に離れたかったのではないか。そんな思いが、今ちらと頭をかすめる。とにかく独りに、なりたかったのではないか。しかし独りになって、私は一体、どうするつもりだったのか。

 私が黙っているので、男はすこしずついらだって来るらしい。とつぜん乱れたような声になって、

「おめえは、いったい、誰だ。誰だよ」

 ある疑念が瞬間に、私の胸に結実する。この男は、何かをおそれている。おそれていることで、極度に過敏になっている。――しかし次の瞬間、その疑念もたちまち断ち切れ、かき消されてしまう。身も心もすくむような音響とともに、突風がぐゎんとぶつかってきたからだ。巨大な掌で、いきなりひっぱたかれるような衝撃。梁(はり)や柱や垂木(たるき)が、それぞれ終末的な悲鳴をあげて、不協和に騒ぎたてる。部屋全体が大きくぐらぐらと揺れ、どこからか砂や土塊(つちくれ)がばらばらと飛んでくる。私は脚をちぢめた昆虫のようになって、必死に柱に身体をおしつけている。その私のすぐ背後からおちてくる、物が引き裂けるような、すさまじい音響。

 総身が凝縮するような気がして、思わず私はその音へ振り返っていた。

 

      一六

 

 私の背後の壁面の、柱と壁の部分がめりめりと引き裂けて、幅五寸ほどにも分離していたのである。

 そこから風が棒になって、どどっと私の正面に殺到してきた。

 あのアッシャア館の最後のように、その裂け目から月光がさし入り、無気味な音とともに、その月の光の幅が、しだいに拡がってくるのだ。全身の毛穴がけば立つような気持で、私はそれを見た。[やぶちゃん注:「アッシャア館の最後」アメリカの幻想作家エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe 一八〇九年~一八四九年)が一八三九年に発表したゴシック・ロマンの名篇「アッシャー家の崩壊」(The Fall of the House of Usher)。]

「大変だ!」

 それからどういう風に、自分の身体が動いたのか、ほとんど自覚がない。とつぜん視界がむちゃくちゃに入り乱れ、そこらで音が鳴りはためき、私は衣囊もなにも遺棄して、階段口まで来ていた。いつの間にか、汗でぬるぬるした男の身体を、私は右手でしっかり抱えていたようである。そしてそのまま転がり落ちるように、まっくらな階段を駈け降りていた。その瞬間壁面の一部が倒壊したと見え、むせるような壁土の臭いが、私たちを追っかけてきた。

 腕で顔をおおいながら、私はやみくもに土間へ飛んで、表の方に駈け出そうとした。その私の肩に、男の両手がしがみついてきた。

「そ、そっちは、あぶないんだ」

 私はたちまち判断力を失って、もろくも引き戻された。男のあらあらしい呼吸が、耳のそばに聞える。そして私は引きずられるように、柱や戸板に二三度ぶつかりながら、暗い土間を、裏手の方に走っていた。男の掌が私の肩を、しびれるほどきつく摑んでいる。出口の敷板に爪先をしたたか打ち当てて、私たちは嵐の中にころがり出た。

「は、はやく」

 白っぽい月の光の下で、そこは裏庭のような広場になっているのだ。私たちはよろめきながら、そこを斜めに駈け抜けた。繩や木の板みたいなものが、顔や肩をかすめて飛ぶ。そして私たちは背を曲げて、裏庭のすみへ走った。低い土塀がそこで直角に折れている。その一角へ、呼吸をはずませて、私たちはころがり込んだ。

 そこにしやがみこんだまま、私たちはものも言わず、眼だけを大きく見開き、しばらく犬のようにあえいでいた。

 私たちが今飛び出した二階家は、ぼんやりした空明りを背景にして、奇怪な形にねじくれていたのである。二階の梁木がいっぽん外(はず)れて、軒からだらりとぶら下り、風にゆらゆらと揺れているのだ。と見る間に、それはもぎ取られたように軒端(のきば)をはなれて、ふわりと中空を泳ぐようにして、向うの方に落下して行った。そのとたんに、屋根全体ががっくりと傾いて、屋根瓦が月の光をはじきながら、ざらざらとこぼれ落ちるのを、私はありありと目撃した。さいわい私たちの位置から、そこまで二十米あまりある。

 ひとつの危険からのがれ得たという実感が、私にはっきり来るまでに、なお二三分はかかったと思う。やっと人心地ついたとき、衣囊をあの二階に遣棄してきたことが、初めて意識にのぼってきた。

(これは大変だ!)

 兵隊の本能がうごいて、先ずそれが頭にきた。次の瞬間、自分がすでに解員された身だと気がつくと、弛緩(しかん)した笑いが私の咽喉(のど)にこみ上げてきた。

 私は声を立てて、わらったのかも知れない。

 

      一七

 

 その時そばの男が、背をぐっと起したのだ。

 そしていきなり私に向き直った。

「おれは、……だ」

「え?」

 男の顔色はまっさおに見えたが、声は低く落着いている。私の顔を真正面から見据えながら、

「おれは、逃げたんだ。逃げてきたんだ」

 男の身体には、土塀の影が黒々とおちているが、首だけがその影から抜けて、月光にしらじらと浮いている。汗が玉になって、その額や頰に光っている。涙かも知れない。蒼白い塑像(そぞう)のように、顔の筋肉が緊張している。その唇だけがわずかに動いて、呟くような声で、

「つまり、おれは、逃げなきゃ、よかったんだ。つまり――」

 咄嗟(とっさ)にして、私はそれを了解した。この男の常ならぬ挙動。ふしぎな容貌の衰えなどのすべてを。ちょっとした沈黙の後、私は問い返す。

「――いつ、脱走してきたんだね?」

 私は自分の声が、急にいやらしい猫撫で声になるのを感じる。そのことで私は、ふと自分を嫌悪(けんお)する気持におちる。

 なにか重大な立会人になることを拒否する気持が、私の内部ではっきり動いていた。しかし私は視線を、男の顔からそらさない。私の顔も、月の光に浮いている筈だ。そして私の額にも、ぎらぎらと汗の玉が並んでいるだろう。

 やがて男はがっくりと、背を土塀にもたせかける。そして力が抜けたように、こんどは素直な口調になって、とぎれとぎれしゃべり出す。急に元気を喪(うしな)ったことについて、何故か私はこの男に、憎しみに似た感情を持ち始めているのだ。そしてその感情をいらいらともてあましながら、しばらく私は口をつぐんでいた。

 風威がしだいにその頃から、衰えてくる気配があった。

 

      一八

 

 農家風の低く厚い土塀が、私たちを風から守っているのだが、その土塀にぶつかる突風の震動が、すこしずつ間遠になってくるようであった。それと同時に、風に乗って土塀を越え、頭上をかすめ去る板屑(いたくず)などの数が、目に見えて減少してくるのが感じられた。決定的な音響がしだいに弱まり、余波みたいな雑然たる騒音となって、遠くに消えてゆくらしい。しかし時折、発作的な逆風が捲き起って、庭の水溜りをさあっと吹き上げ、しぶきを私たちに浴びせてくるのだが、それにしても颱風が峠をこしたことは、四囲の状況からも、もう疑えなかった。

 張りつめていた緊張がとけて、妙に不安な下降感が私にやってきた。頭の一部に変に陽気な気分をのこしたまま、急にとろけるように睡くなってくる。疲労からくるひどい変調をかんじながら、濡れてざらざらした土塀に背をもたせ、この経験を知らぬ脱走兵の言葉に、私はうつうつと耳を傾けていた。そして神経的に手を動かして、地面の草をしきりにむしり取っていた。男の声は、低くみだれている。自分だけでしゃべっているような語調だ。ほとんど聞きとれないのである。

 男のその呟きが、ふと途(と)切れる。そして私は初めて発言の機会をつかむ。強い抵抗がそこにある。それは何故だろう。彼の自由を告げるというのに、私の気持ははなはだしく残酷になっている。この上もない意地悪いことを敢行するような気分だ。私の内にあるもの、善意というより、はっきりした悪意であるようだ。おのずから不機嫌な口調となって、思いきって。

「だって、お前、もう戦争は、すっかり済んだんだぜ」

 男の姿勢がぎゅっと凝縮するのが、はっきりと判る。男の刺すような視線を頰に感じながら、再びおっかぶせるように、

「――逃亡も、脱走も、あるもんか。みんな御破算だよ」

 とつぜん男が笛みたいな叫びを立てたようだ。そしてそれっきり。立ち上ろうとして、またへたへたと腰をおろす。風がいろんなものを飛ばしてくるので、立ち上るのはまだ危いのだ。

 風の音が、またひとしきり、潮騒(しおさい)のように押しよせてくる。いくぶん弱まってきたとは言え、まだこの厚い土塀を根元から、ずしんと震動させてくるのだ。私は膝を抱いて、じっとしている。そして感覚の全触手を、隣の男にあつめていた。男は死にかかった章魚(たこ)のように、無抵抗に壁によりかかったままでいるらしい。小刻みに慄えているのが判る。性急な息づかいがつたわってくる。何か言いそうなものなのに、かたくなに黙り込んでいるのだ。

(ざまあみろ)

 私も黙りこくったまま、ふとそう思ってみる。すると胸のなかの残酷な主調が、急に憐憫(れんびん)にとってかわるのを自覚する。この男にたいする憐憫ではない。もっと別の、なにものに対してとも知れぬ、叫び出したくなるような焦噪と憐憫。――そして一時に発してくる、深い疲労と倦怠。

 私は月を見上げていた。いやらしい赤さで、それは中天に懸(かか)っている。ふいにかすかな嘔(は)き気がこみ上げてくる。そして咽喉(のど)の奥から、小さなアクビがつづけざまに出てくる。口の中がカラカラに乾いて、舌の根が引きつるように痛い。月の面のうすぐろい斑点を見詰めていると、やがて虚脱したような睡気が、ふかぶかとかぶさってくる。その誘(いざ)ないに応じるのが、今の私にはもっとも自然らしく感じられた。

「おれは、ちょっと、やすむよ」

 そう言ったと思う。そして眼を半分見開いたまま、私は眠りに入ったらしい。神経の一部を残して、あとはすっかり喪神したように。

 そしてどの位経ったのか、私にはよく判らない。一時間足らずのことだと思う。

 

      一九

 

 ニラの匂いがしていた。

「ニラだな」

「うん、そう」

「なつかしい匂い、だな」

「うん」

 意識は醒(さ)めないのに、口だけが醒めて、隣の男と会話のやりとりをしていたようだ。寝言のつづきのような自分の返事で、私はぼんやりと目を醒ましていた。

 気がつくと、風の音はずっとおだやかになっている。空の高みでコウコウと鳴っているだけで、地上ではほとんど収まったようである。

 月の位置が移動したのか、私たちがいる土誹塀のかげも、すっかり白々と明るくなっている。そこらいっぱいに密生しているのが、ニラらしい。すべてなぎ倒されたように、ひらたく折れ伏している。その青く細い葉々の間から、白く小さな花が黙々とのぞいている。先刻私が無意識に、しきりにむしっていたのも、これらしい。その葉の折れ口から、ニラ特有の匂いが、ぷんとただよってくる。あの時は気がつかなかったのに、今は親しく鼻にのぼってくる。

「これ、タマゴとじにすると、とてもうまいぜ」

「うん。うまい」

 男にならって、私も手を伸ばして、花をつけた細茎をもぎとっていた。そして何故ともなく、眼に近づけて見る。小さい花だ。六枚の白い花びら。六本の細い花芯(かしん)。ひとつの茎に、七つ八つのその花が、傘状にくっついている。そこらに月の光がちらちら揺れている。鼻にもって行っても、ほとんど匂わない。強いて嗅ぎ当てようとするように、私はしきりに鼻を鳴らしながら、何となく考えている。

(この小さな花のことを、あとになって、何度も何度も、おれは思い出すだろう!)

 やがて横で男の影が、ゆるゆると立ち上った。そしてなにか試すように、二三度足踏みしている。それを見上げながら、私はぼんやりと話しかけている。

「もう、行くのかい」

「うん。もう、大丈夫だろう」

「そりゃもう、大丈夫だろうな」

「もう大丈夫だよ」

「じゃ、おれも、行こうかな」

 壁に掌をついて、やっとのことで、私も立ち上る。身体の節々がいたい。それと同時に、眠っている間に、自分の情緒がすっかり変化したことに、私はすこしずつ気付いている。この男の存在も、なにかよそごとみたいに、今は感じられるのだ。

 男はややびっこを引きながら、庭をよこぎって、家の方に歩いて行く。ひどく無表情な背中だ。その背について、私も歪んだ家の中に入ってゆく。暗い土間の中途で、私は立ち止って、自分の声でないような声で、

「やはりおれは、ここでもう少し、休んで行くよ」

 まだ眠いし、疲れてはいるし、動くのは大儀であった。外に出てもまだ暗いし、行くあてもない。濡れていない場所で、もう一休みしたかった。ひたすら、それだけである。

「そうかい」

 男はちらとふり返る。そして無感動な声で、

「じゃ、アバよ」

「アバよ」

 表通りの月光に、男の痩せた黒い影がうかび、ちょっと右手をあげる。そしてそのまま横へ切れて、私の一夜の同伴者の姿は、それっきり消えてしまう。私はただそれを見ている。無感動に見送っている。表皮が妙に硬化して、感動がうごく幅や余地が、胸のなかからなくなったような感じだ。やがて私は手探りで、ごそごそと框(かまち)に這い上る。

 土や砂でザラザラした板の間のすみに、むしろみたいなものを探りあてる。肌にべたつく襯衣(シャツ)を脱ぎ捨て、そこヘ横になり、私はゆっくりと背骨を伸ばす。そして瞼を閉じる。あとは朝を待つだけだと、自分に言い聞かせながら。――

 

      二〇

 

 朝の日光の下で、高鍋の駅前は、ざわざわと混雑していた。

 一夜の晦冥(かいめい)がすぎると、嘘のように晴れ、風は凪(な)ぎ、陽(ひ)はかんかん照り始めている。蝉(せみ)の声があちこちにむらがり響き、今日もまた暑くなりそうな天気である。空には雲ひとつ見えない。青々と澄みわたっている。嵐をすっかり忘れたような、素知らぬ表情だ。颱風の痕跡は、地上にだけとどまっている。道路や溝のあふれた雨水。なぎ倒された樹々。倒れた電柱。地面を這う電線。倒壊した家屋。そこらを人々の姿が、縫うように動いている。

 高鍋の駅舎も、まったく原形を失って、雑多なものの堆積(たいせき)になっていた。板片やガラスや瓦の破片が、そこらいっぱいに散乱している。巨大な掌で、一挙にぐしゃりと潰されたように見える。その上に、七八人の男たちが登って、ツルハシやシャベルで、その堆積を掘り起している。

「おおい。どうしたい」

 駅前の待合所みたいな家の中から、私に呼びかける声がする。見ると、部隊で顔なじみになっていた、看護科の若い下士官だ。

「どうしたね。おや、眼鏡は?」

「うっかりしてて、飛ばされたよ」

「へえ。損害はそれだけかい。うまくやったね」

 そして下士官は、わかわかしい声で笑い出す。笑いながらも、しきりに身体を動かして、薬品箱を開いたり、注射器の整理をしたりしている。その待合所の中には、五六人の男たちが、立ったり動いたりしている。国民服を着た、町の役員らしいのもいる。消毒薬の臭いがただよっている。下士官は倒壊した駅舎の方を、顎でしゃくりながら、

「どうだい。ひでえもんだろう」

 待合所の土間に、戸板が二つ敷いてある。そしてその上に、二人の男が横たわっている。その一人は苦しそうにうめいている。あとの一人は、血の気をすっかり失って、瞼をじっと閉じている。私が見たのは、その男の顔であった。それは汽車で座席がいっしょだった、あのミミズクに似た老兵の顔である。皮膚が灰白色になって、表情も歪んだまま硬ばっているが、あの男の顔にまぎれもなかった。いきなり胸を衝かれたような気持で、私は口走る。

「どうしたんだい、これは」

 思わず詰問的な口調となった。びっくりしたような顔で、下士官は私を見る。

「息引き取ったんだよ。さっき」

 そして下士官は、器用に注射器に薬液をみたしながら、

「運が悪いやつだよ。この男は」

 いったん駅舎から身をもって退避しながら、風の小康(しょうこう)時に、遺棄した衣囊を取りに、ふたたび駅舎に入ったという。そしてその瞬間に、駅舎は轟然と倒壊したのだという。

「はたの者が、止めたというんだがな。なにしろ運が悪い男だよ」

 そう言い捨てて下士官は、注射器を指にはさんで、もう一人の怪我人の方にあるいてゆく。

 私は土間のしきい口に立ったまま、しばらく老兵の死貌(しにがお)に眼をおとしていた。戸板の枕許に、老兵のものらしい衣囊が、泥によごれて置いてある。この衣囊の中に、子供の写真や、子供へ土産の航空糧食が、ぎっしり入っているのだろう。しかしこれがこの男の生命の代償としては、あまりによごれて、あまりにも惨めに変形している。泥と布のかたまりのような、その衣囊をじっと見ていると、私はやはり急に耐え難くなってくる。しかし私にも、どうするすべもないのだ。私に判るのは、ただそれだけである。

 駅前や道路で、呼び交す声や別れを告げる声が、遠く近くひびいている。ぞろぞろと人が動いている。次の駅まで、皆徒歩であるくのだ。着のみ着のままの男。衣囊を重そうにかついだ男。どこからか大八車をやとってきて、それに荷物を運ばせている一群。それらの上に、晩夏の太陽がかっと照りつけ、人々の濡れしめった衣服から、白く水蒸気が立ちのぼっている。ものや人の影が、地上に鮮かに動いている。日を背に受けて私の影も、私の足許から濡れた地面に、平たく黒々と伸びているのだ。このいやらしい影を、えいえいと引き摺(ず)って、やがて私も次の駅まで、三里の道を歩かねばならぬことは、確実であった。

 

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