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2020/09/20

金玉ねぢぶくさ卷之七 蛙も虵を取事

 

    蛙(かへる)も虵(へび)を取〔とる〕事

Ssansukumi

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版をトリミングした。]

 もろこしには、ちんといふ鳥(とり)有〔あり〕て、一さい有情〔うじやう〕の大毒なれば、一日に千里をはしる猛虎も、僅(わづか)雀ほどなるちんを恐れて、竹の林を城くはくとせり。竹は、また、ちんのため、大毒にて、藪ある上をとびぬれば、おのれと落(おち)て死するとかや。此鳥、江〔え〕におりて、水を飮(のめ)ば、一切諸鳥、毒あらん事をおそれて、其水を、のまず。山より犀(さい)といふけだもの出〔いで〕て、又、其水を飮(のみ)ぬれば、毒を消(せう)せん事をはかつて、それより諸鳥も、のむとかやいひ傳へ侍り。

[やぶちゃん注:「ちん」鴆。中国で古代から猛毒を持つとされる想像上の化鳥(けちょう)とされるもの。但し、寺島良安の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴆(ちん) (本当にいないと思いますか? フフフ……)」の私の注を読まれたいが、「鴆」の実在を否定は出来ないし、羽一枚でヒトが死ぬ毒を有する毒鳥は《実在する》のである。但し、その鳥がイコール「鴆」であるかどうかは判らないし、或いは、嘗ての中国に毒鳥「鴆」は実際に棲息していたのだが、今は絶滅してしまった種である可能性もないとは言えない。逆に一九九〇年に発見された毒鳥の存在は、ただ偶然の一致に過ぎず、実在する毒物(或いは複数の毒物の混合体)を「鴆」という架空の鳥由来としたのかも知れない、と枕に書いた。但し、私の注は物理的に相応の時間がないと読めない分量であるので、御覚悟を。なお、「鴆」の(へん)は「沈める」の意で、水中に人を「沈」めるように息の根を止めてしまう「鳥」の意である。

「城くはく」ママ。「城郭(じやうくわく)」が正しい。

「竹は、また、ちんのため、大毒にて」筆者はどこからこの鴆の弱みが藪あるという属性を見出したのだろう? 私はちょっと興味がある。典拠をご存知の方はお教え願いたい。

「犀」が出てきたのは判る。良安も「惟(ただ)犀の角を得て、卽ち、其の毒を解すなり」と言っている通り、犀角だけが鴆毒の解毒剤とされてきたからである。ここでは犀が水を飲もうとして角が水に触れた結果、鴆毒が中和されたという謂いである。]

 

 しかれども、それは見ぬ、もろこしのさた。近くは虵・蛙(かわづ)・蝸牛(くわぎう)の三敵(〔さん〕かたき)とて、かへるは蝸牛をとり、蝸牛はへびを害し、虵は蛙を取る事、草(くさ)うつ童子(わらんべ)まで、皆人〔みなひと〕のしれる所なり。

[やぶちゃん注:「もろこしのさた」「唐土の沙汰」。

「蛙(かわづ)」ルビはママ。以下同じ。「かへる」との混在もママ。

「三敵(〔さん〕かたき)」三竦(さんすく)み。一般には蝸牛より蛞蝓(なめくじ)の方が知られるか(私はずっと蛞蝓で覚えてきた)。蛇は蛙を一呑みにする。蛇に食われる蛙は蛞蝓なら舌でぺろりと一呑みにする。蛙に食われる蛞蝓には何故か蛇の毒が効かず、それどころか蛞蝓の体液は蛇を溶かす(古く近から近世に至るまで本邦ではそう信じられていた)。従って三者が揃って頭を突き合わせた時、彼らは微動だに出来なくなるという俗説である。これは伏線である。

「草(くさ)うつ」「草打つ」無暗に叢をどやすこと。「草を打って蛇に驚く」「草を打って蛇を驚かす」という成句(何気なくしたことから、意外な結果を招いてしまう喩え)に三竦みを掛けたのである。]

 

 ある人の庭ぜんに、あれたる泉水あり。水の汀(みぎは)に、あやめ・まこも、生茂(おいしげり)たる中に、へび、あまた集(あつま)り、彼(かの)泉水にのぞんで、每日、蛙(かへる)を、二つ、三つ、とらぬ日もなく、見るに氣の毒なれども、何(なに)とせいすべきやうなく、一切有情(いつさいうじやう)のそれぞれの業(ごう)を、はたはた、事をかんじて暮しぬ。

[やぶちゃん注:「まこも」「眞菰」単子葉類植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae Oryzeae族マコモ属マコモ Zizania latifolia。水辺に群生し、成長すると、大型になり、人の背丈程まで高くなる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色を、雄花は紫色を呈する。

「せいすべきやうなく」「制すべき樣無く」。

「業(ごう)」ルビはママ。「ごふ」が正しい。

「はたはた」ママ。後半は踊り字「〱」であるが、これは「はなはだ」の誤記ではないかと思われる。]

 

 然るにいつぞのころより、虵、おゝく死して、池の邊(ほとり)に、から、あまた、わだかまれり。何にとらるゝ躰(てい)も見へねば、ふしぎの事に思ひしに、ある夕ぐれ、いづくともなく、三足〔さんぞく〕なる蛙(かわづ)一疋、とび來〔きたり〕て、水の汀なる薄の影にて、しきりに鳴(なく)。其聲をきいて、筑山(つき〔やま〕)の岩のはざまより、大きなるへび一疋、はい出〔いで〕て、此蛙を、とらんとす。蛙(かへる)は鳴(なく)に正根(しやうね)を入れて、後(うしろ)へ虵の臨(のぞむ)事を、しらず。上なるちんより是を見て、氣の毒さに、へびをおいのけ、蛙(かわづ)を助〔たすけ〕んと下へおりける其間に、虵、とびかゝつて、蛙に喰付(くい〔つき〕)ぬ。

[やぶちゃん注:「から、あまた、わだかまれり」「殼、數多、蟠れり」。この「から」は脱皮した空皮のそれではなく、死んだ骸(から)の意。

「とらるゝ」「捕らるる」。

「三足〔さんぞく〕なる蛙(かわづ)」怪奇談に於いて、極めて強い呪力を持つ蟇(ひきがえる)などの特徴としてよく見られる。「みつあし」と読みたいが、あとで「三足(そく)」(底本通り。後出の部分では「ぞく」と濁音化した)とルビが出るので、仕方なく、そうした。

「きいて」ママ。

「筑山(つき〔やま〕)」「築山」。

「はい出〔いで〕て」「はい」はママ。「這ひ」。

「ちん」「亭(ちん)」。庭に設けた四阿(あずまや)のこと。

「おいのけ」ママ。

「喰付(くい〔つき〕)ぬ」ルビはママ。]

 

 『さては、もはやとられぬ』とおもひ、其まゝにして上より詠居(ながめい)ければ、しばらく有〔あり〕て、彼(かの)へびは死し、蛙(かへる)は還(かへつ)て、つゝがなく外(ほか)の所へ飛(とび)ゆきて、又、元のごとくに鳴(なく)。

 しかる所に、此聲をきいて、いづくともなく、又少(ちいさ)きへび、はひ出て、

「そろりそろり」

と、ねらいより、あいちかく成〔なり〕て、彼かへるに、とびかゝり、既に喰(くら)ひ付〔つく〕所を、かはづ、居直(いなをつ)て、まへ足をあげ、へびのあぎとを討(うち)けるが、此虵、したゝか、ておいたる躰(てい)に見へて、のび、ちゞみ、くるしげに、のたれ𢌞(まはつ)て、終に死せり。かへるは、別の子細なく、又、外(ほか)へのきて、まへのごとくに鳴(なく)。

[やぶちゃん注:「詠居(ながめい)ければ」ルビはママ。

「少(ちいさ)き」ルビはママ。以下同じ。

「ねらいより」ママ。「狙ひ寄り」。

「あいちかく」ママ。「相ひ近く」。

「居直(いなをつ)て」ルビはママ。「居直る」の歴史的仮名遣は「ゐなほる」である。

「あぎと」「顎(あぎと)」。

「ておいたる」ママ。「手負ひたる」。]

 

 あるじ、何とも、ふしん、はれず。

「大きなる蛙(かへる)の少(ちいさ)きへびにとらるゝは、つねの事なり。然るに、此蛙はちいさくして、大きなるへびを、とれり。但し三足(〔さん〕ぞく)の蛙(かへる)は、足(あし)に、子細がな、有〔ある〕か。」

と、立よりて見れば、三足にはあらず、常の四足(〔し〕そく)の蛙(かわづ)成りしが、足に少(ちひさ)き蝸牛(なめくじり)をはさみて、三足(ぞく)にて、とびあるき、へびのとびかゝつてくい付〔つか〕んとする時は、彼(かの)なめくじりをまとひたる手をのべて、へびのあぎとへ、さしこむ。へびは貪りの心、深く、とび付〔つく〕やいなや、跡先(あとさき)をかへり見ず、いづくにもあれ、細(ほそ)ひ所へ、早速、くらい付〔つき〕、此毒にあたり、死すると見へたり。

[やぶちゃん注:「子細がな」この「がな」は副助詞で、不定の対象の例示を意味する。「よく判らぬが、何か仔細か何かでも」の意を添える。

「蝸牛(なめくじり)」歴史的仮名遣は「なめくぢり」が正しい。古くは「かたつむり」も「なめくじ」と呼ばれていたので問題ない。私の「柳田國男 蝸牛考 初版(10) 蛞蝓と蝸牛」を参照されたいが、そこに当時であってさえ、『肥後でも熊本以南、宇土八代球磨の諸郡では、蝸牛のナメクジは其儘にして置いて、却つて蛞蝓の方をばハダカナメタジと謂ふことになつて居る』とある。「なめ」というのは、擬態語で、「滑らかに移動する」ことから「滑め」の字を当てたというのが有力とされる。「舐めるように這う」ということから「舐め」としたという説もある。「くぢ」は、蝸牛や蛞蝓が植物などの上を這った後が、抉(えぐ)られたように削られてあることから、物を突いて搔き回し、中を刳り抜いて取り出す動作を意味する「くじる」とする説があるが、「抉る」は歴史的仮名遣が「くじる」であり、妙にまことしやかで、却って後付けした説のように感じられる。なお、シチュエーションを考えると、この場合、殻付きの蝸牛では片手に挟み難いようにも思われるが、寧ろ、殻に入ってしまった小型の蝸牛ならば、却って挟み易いかも知れない。

「くい付〔つか〕ん」「くい」はママ。

「まとひたる」「纏ひたる」。

「細(ほそ)ひ」ママ。

「くらい付〔つき〕」「くらい」はママ。]

 

 「窮鼠、還(かへつ)て猫をかむ」と世話(〔せ〕わ)にいひ傳へしが、されば、今のかわづも、あまり、へびにとられ、せん方なさに、中間〔なかま〕にて、大ぜい、評義(へうぎ)し、一疋、智勇備(そなは)りたる蛙(かわづ)、此謀(はかりごと)を用ひ、あまたのかへるの死をすくふ、と見へたり。

 國は國主のまゝ、天下は天子のまゝなれども、上(かみ)、道(みち)を失ひ、餓(うへ)たる民をあはれまず、しいせたぐる事、つよければ、「ひ馬(ば)、鞭(べん)すいをおそれず」とて、やせたる馬(むま)に重荷をおふせて、おへども、ゆかぬごとく、民も國の仕置(しおき)を用ひず、かへつて、法度(はつと)を背(そむ)き、右の馬(むま)の鞭(むち)をおそれざるやうに、きびしき成敗(せいばい)をもかへり見ず、不義をおこなひ、盗賊をなして、國・天下を亂せし事ども、和漢兩朝に其ためしおゝし。かやうの事を鑑(かんが)み、一人の榮花の爲に衆を害せぬやうに、下(しも)をあはれみ、仁政を施したまはゞ、國家は万々世に至(いた〔る〕)まで長久ならざらん物か。

[やぶちゃん注:「中間〔なかま〕」「仲間」。

「評義(へうぎ)」ルビはママ。「評議(ひやうぎ)」。

「まゝ」「儘」。思いのまま。藩主や将軍・天皇の望む通り。

「しひせたぐる」ママ。「强(し)ひ虐(せた)ぐる」或いは「虐(しひせた)ぐる」で、甚だ酷い扱いをする、しいたげるの意。

「ひ馬(ば)、鞭(べん)すいをおそれず」「疲馬、鞭箠(べんすい)を畏れず」疲れ切った馬は、どんなに鞭うたれても言うことをきかない(「鞭箠」は馬用の鞭)ことから、貧苦に喘ぐ人々は、どんな厳罰をも恐れなくなるということの喩え。

「おゝし」ママ。]

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