[やぶちゃん注:さても、実は以下の本文電化は、既に三日目の夜に全部、出来上がっていた。而して、そこで私は感じた。――天下に博識を誇った一条兼良を手玉にとる少年(実は妖狐)の博覧強記、即ち、作者都賀庭鐘のそれが――どうにも何かやり過ぎて――実に不快で小憎らしい――と――である。されば、そこで私は決心した。――「ここで兼良を黙らせてしまう、その妖狐=都賀庭鐘の『智』をテツテ的に検証してやろうじゃあ、ねえか!」――されば、殆んど丸二日を注にかけた。――ちょいと、ガムばったな――と自分でも思う。お読みあれ。]
千載(せんざい)の斑狐(はんこ)一條太閤を試むる事
應仁の亂は古今未曾有(みぞう)の至變(しへん)にして、元弘・建武の亂は其類(たぐひ)にあらず。五畿七道みだれざるところなく、群雄、蜂のごとく起りて、各國に割據(かつきよ/ワカレ)して爪牙(さうが/イキホヒ)を逞(たくま)しうすること、唐土(もろこし)の戰國といひしも、かゝる例(ためし)なるべし。上(かみ)一人より公卿・殿上人まで、こゝかしこに身をよせて、からき命を保ちて太平を待つの外なし。中にも一條太閤兼良(かねよし)公は、いさゝかの緣を求めて、江州に亂を避けたまふ。公は、もとより、古今獨步の大才(たいさい)にて、其博識、又、いにしへにも類(たぐひ)まれに、詩文和歌のみちまで、一時(〔いち〕じ)に肩を比(なら)ぶる人なし。「四書童子訓」・「花鳥餘情(くわてうよじやう)」・「歌林良材(かりんりやうざい)」・「公事根元(くじこんげん)」など數多(あまた)の書をあらはし、後生(こうせい)の便(たより)となしたまへり。常々、不平を抱きたまひて、
「我、菅丞相(くわんしやうじやう)に勝(まさ)ること、三つあり。菅公は、官、右府(いうふ)にとゞまり、我は相國に昇る。菅公は、其家、もとより、攝關の家にあらず。我は累代、執柄(しつへい)の家なり。菅公は唐土(もろこし)の事は李唐(りたう)以前のみをしり、本朝の事は延喜以前のみを、しる。われは和漢の古(いにしへ)を知るのみならず、李唐以後、延喜以後の事を、しる。此三條、彼(か)の公に勝れども、後世、我を見ること、公の萬分が一にも、およぶまじきこそ遺恨なれ。」
と宣(のたま)ふより、時の人、太閤を請(しやう)するには菅公の畫像・墨蹟などは憚りたりしに、たまたま心附かぬものあれば、はなはだ不興し給ひしとぞ。かくまで自ら許し給ふ、誠に衰世(すゐせい)の大才(たいさい)といふべし。
されども、政務は久しく武家の手にありて、損益(そんえき)したまふこと、あたはず。徒(いたづ)に虛位(きよゐ/ムナシキクラヰ)を守りたまひ、夫(それ)さへ、身を置きたまふ所なく、江濃(かうのう/アフミミノ)の間(あひだ)にさすらへありきたまひて、草莽(さうまう/クサムラ)に身をひそめたまふこそ、不幸なれ。
[やぶちゃん注:「千載の斑狐」千年を生きた妖狐。年古りたる故に毛色が斑(まだら)となって普通の狐とは異なるということか。
「一條太閤」「兼良」(応永九(一四〇二)年~文明一三(一四八一)年)は室町時代の公卿で古典・有職学者。「かねら」とも呼ぶ。法名は覚恵(かくけい)。「一条禅閤」と称し、謚号は後成恩寺。父は関白左大臣一条経嗣、母は参議東坊城秀長(ひがしぼうじょうのひでなが)の娘。応永一九(一四一二)年に元服して叙爵、翌年、従三位、同二十一年に正三位・権中納言となり、同二十三年に権大納言となって家督を継いだ。同二十八年、内大臣、同三十一年、右大臣、同三十二年、従一位、永享元(一四二九)年に左大臣、永享四年八月には摂政・氏長者となったが、時の室町幕府第六代将軍足利義教が二条持基を重用したことから、同年十月に摂政を辞任させられている。文安元(一四四四)年に足利義政が将軍になると、同三年に太政大臣、翌年には関白となった。宝徳二(一四五〇)年に太政大臣を、享徳二(一四五三)年に関白を辞任、同年准三宮に叙せられて長禄二(一四五八)年に辞した。応仁元(一四六七)年には再び関白となったが、「応仁の乱」(応仁元(一四六七年)に発生。約十一年続き、彼の生前である文明九(一四七八)年に終息をみた)の勃発により、同二年に奈良興福寺大乗院門跡尋尊(兼良五男)のもとに疎開した。文明二(一四七〇)年に関白を辞し、同五年に美濃に下向、その後、奈良に戻って、まもなく大乗院で出家した。同九年に帰京し、同十一年には越前の朝倉孝景のもとに下向して、家領であった足羽御厨(あすはのみくり)の返還を要めたが、聞き入れられず、二百貫文の寄進を得て帰京、同十三年に病没した。墓所は東福寺。兼良は当時、「五百年以来の才人」と謳われ、古典学・有職学の第一人者であった。ここに示されたように、有職故実を始めとする多くの著作があり、「源氏物語」などを天皇や将軍家に進講し、歌学入門書や教訓書から仏教書も手掛けた。兼良の博識な学問と多数の著書は、当時の人々の啓蒙と学問研究に多大な功績を残した(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「元弘・建武の亂」後醍醐天皇の討幕運動(元徳三(一三三一)年六月)から鎌倉幕府滅亡から元弘三年六月五日(一三三三年七月十七日)を経、建武政権期(広義の南北朝前期)の建武二(一三三六)年十一月から延元元/建武三(一三三六)年十月までの後醍醐の建武政権と足利尊氏を筆頭とする足利氏との間で行われた一連の戦乱。
「四書童子訓」一条兼良による「四書」の仮名抄の注釈書。兼良には「五経抄」もあったと伝えられるが、この「大学」に対する一巻のみが四書五経関連の唯一の漢籍の注釈書として現存する。文安元(一四四四)年の写本が知られるので、それ以前の成立である。
「花鳥餘情」文明四(一四七二)年成立。「源氏物語」の注釈書。彼は後に本書の秘伝書として「源語秘訣」も著している。
「歌林良材」作歌ための由緒ある良歌を収集した作歌入門書で、後世の歌人に大きな影響を与えた。
「公事根元」「公事根源」或いは「公事根源抄」が正しい。有職故実書。後醍醐天皇の「建武年中行事」や、祖父二条良基が著した「年中行事歌合」などを参考にし、元旦の四方拝から、大晦日の追儺までの、宮中行事百余を月順に記し、起源・由来・内容・特色などを記す。参照したウィキの「公事根源」によれば、『奥書によると』、応永二九(一四二二)年に『兼良が自分の子弟の教育のために書いたものとあり、また』、『後世に書かれた識語には』、『室町幕府』第五代『将軍足利義量』(よしかず:満十七で夭折した)『の求めに応じて』、十九『歳の兼良が何の書物も見ずに書いて』進呈したとする。本文に「年中行事歌合」からの本文引用が多く』、『兼良の著作と呼ぶべきではないとする説もある』『が、こうした著作方法は当時の学問では広く行われており』、『兼良が独自に採用した他書の所説も含んでいることから』、『兼良独自の著作とするべきであるとする反論もある』。『後世において重んじられ』、複数の『注釈書が書かれている』とある。
「菅丞相」菅原道真(承和一二(八四五)年~延喜三年二月二十五日(九〇三年三月二十六日)。
「右府」右大臣の唐名。
「相國」太政 (だいじょう)大臣・左大臣・右大臣の唐名。
「執柄」摂政・関白の異称。
「李唐」唐代のこと。李淵が隋を滅ぼして建国し、皇帝は代々、李氏が継いだことによる呼称。
「延喜」平安中期の元号。九〇一年から九二三年まで。当代の天皇は醍醐天皇。道真は延喜三年に亡くなっているのだから、いかにも馬鹿げた物言いである。]
頃しも、愛知川(えちがは)の片ほとりに蟄居(ちつきよ/カクレスミ)したまひ、友もなき荒れたる軒に都をしのび、徒然を慰めかねておはせしに、たまたま、編戶をおとづるものあり。
「誰(た)そ。」
と見たまへば、年頃二十(はたち)ばかりの少年(せうねん/ワカモノ)、身にはふと布(ぬの)をまとヘども、眼中、ひかりありて骨相(こつさう)の奇なるに、『世のなみの村夫(そんふ)にはあらじ』と請(しやう)したまヘば、少年、辭することなく、座につきて、
「某(それがし)は此川上高野(たかの)のほとりに住み侍る萱尾何某(かやをなにがし)と申す者なるが、幼(いとけなき)より書籍(しよじやく)を好み、手は卷(まき)を捨て侍(はんべ)らねども、寒村のかなしさ、然(しか)るべき師友とてもなく、これのみ歎き侍りしに、はからずも、君(きみ)、此所(このところ)にさすらへましますことを、うけたまはり、恐(おそれ)はかへりみず、推(お)して參りたれ。」
といふに、太閤、よろこびて、其學ぶところを試みたまふに、和漢の學、其博(ひろ)きこと、海のごとく、辯舌、水の流るゝがごとし。
[やぶちゃん注:「愛知川」(えちがわ)は滋賀県東部(湖東地域)を流れる川。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「高野」愛知川の川上に、滋賀県東近江市永源寺高野町(えいげんじたかのちょう)(グーグル・マップ・データ)がある。
「萱尾(かやお)」この姓、如何にも九尾狐みたように妖しく見えるのだが実は、永源寺高野町の東、愛知川上流左岸に旧永源寺町内であった東近江市萱尾町(かやおちょう)という地名(本文でも後に出る)が現存する(グーグル・マップ・データ)。]
太閤、大いに驚きて、
「天下の奇才なり。」
と、再三、稱美し給へば、少年、謝して云く、
「敢て、あたらず。されども、君の尊名(そんめい/オナ)、雷霆(らいてい)のごとく、僻境(へききやう/カタヰナカ)某(それがし)がごときも、幼(いとけなき)より、これを仰ぐ。今、試みに、五、三を問ひ奉らん。そも、四書の名、程(てい)・朱(しゆ)に出でたるは、論、なし。『大學』・『中庸』の二篇を表出(へうしゆつ)したるは、何れの時とやせん。」
太閤云く、
「程・朱、はじめて戴記(たいき)の中(うち)より表出して、四書の名、いでたり。」
少年云く、
「晋(しん)の戴顒(たいぐう)、『中庸傳』二卷を作る。又、梁の武帝、『講疏』一卷、『制旨義(せいしぎ)』五卷を製す。宋の仁宗、王堯臣(わうげうしん)に『中庸』一篇を賜ひ、呂瑧(りよしん)に『大學』一篇を賜はりしを以てみれば、なんぞ程・朱を待たんや。」
太閤、其精覈(せいかく/クハシクアキラム)に伏したまふ。
[やぶちゃん注:「程・朱」宋代の儒学者で新儒学(道学)の創始者である程顥(ていこう 一〇三二年~一〇八五年)・程頤(ていい 一〇三三年~一一〇七年)兄弟と、後の朱子学の創始者朱熹(しゅき 一一三〇年~一二〇〇年)を指す。
「戴記」漢代の儒者戴徳が古代の礼文献を取捨して整理した儒教関連の論文集「大戴礼記(だたいらいき)」。元は全十三巻八十五篇であったが、現在はその過半が失われ、四十篇のみ現存する。現存部分には「大学」と「中庸」は含まれていないようである。
「晋の戴顒」(三七八年~四四一年:辞書類では「たいぎょう」と読んでいる)は南北朝期の晋・宋の学者。官の召請を辞し、隠者として過ごした。初めて「中庸」を表彰したのは彼とされ、「禮記傳」・「中庸傳」を書いており、また「荘子」の大旨を述べて、「逍遙論」をも著している。
「梁の武帝」南朝梁の初代皇帝蕭衍(しょうえん 五〇二年~五四九年)。彼は「中庸講疏」二巻を著し、「制旨中庸義」五巻を編集させている。
「宋の仁宗」在位は一〇二二年から一〇六三年。
「王堯臣」(一〇〇三年~一〇五八年)仁宗の治世の賢臣。
「呂瑧」同じく仁宗の治世の臣か。「中國哲學書電子化計劃」の明夏良勝の「中庸衍義」の「原序」の一節に、まさにここに書かれている(問題としている)ようなことが、以下のように記されてある。「宋仁宗時王堯臣及第賜中庸篇呂臻及第賜大學篇始掇取於載記中至大儒程顥及頥尊信之簡編循次旨趣有歸朱熹集說章句別爲」といった文字列を見出せる。
「精覈」(底本や原本では「覈」の字は(かんむり)の「襾」(かなめがしら)の下部が完全に塞がった「覀」のこの(グリフウィキ)字体であるが、表字出来ないので、かくした)。「覈」は「調べて明らかにする」の意で、詳しく調べて明らかにすることの意。]
又、云く、
「西瓜(すゐくわ)の中國に來(きた)る、いづれの時とやせん。」
太閤云く、
「五代の時、胡嶠(こきやう)といふ者、戎(えびす)の地より種(たね)をとり來りて、はじめて、中國に西瓜あり。」
少年云く、
「もし、しからば、『梁の武帝、西園(せいゑん)に綠沈瓜(りよくしんくわ)を食(くら)はふ[やぶちゃん注:底本・原本のママ。]』とあるは、何物なるや。」
太閤、言葉なし。
[やぶちゃん注:「西瓜」ウリ目ウリ科スイカ属スイカ Citrullus lanatus の原種は、ウィキの「スイカ」によれば、『熱帯アフリカのサバンナ地帯や砂漠地帯』とし、『西瓜の漢字は中国語の西瓜(北京語:シーグァ xīguā)に由来する。日本語のスイカは「西瓜」の唐音である。中国の西方(中央アジア)から伝来した瓜とされるため』、『この名称が付いた』とある。『原種は西アフリカ原産のエグシメロン、アフリカ北東部原産のCitrullus lanatus var.colocynthoides等、様々な説が存在する。リビアでは』、五千『年前の集落の遺跡よりスイカの種が見つかっていることから、それよりも以前から品種改良が行われていたことが判明している』。『エジプトでは』四千『年前の壁画にスイカが描かれているが』、『当時は種のほうを食べていたとみられている』。『ツタンカーメンの墳墓等』、四千『年以上前の遺跡から種が発見されており、各種壁画にも原種の球形ではなく』、『栽培種特有の楕円形をしたスイカが描かれている。またこの頃、現在カラハリ砂漠で栽培されるシトロンメロンが発明された』。『紀元前』五百『年頃には地中海を通じ』、『ヨーロッパ南部へ伝来。地中海の乾燥地帯での栽培が続けられるうちに果実を食べる植物として発達した』。『ヒポクラテスやディオスコリデスは医薬品としてスイカについて言及している。古代ローマでは大プリニウスが『博物誌』の中で強力な解熱効果がある食品としてスイカを紹介している。古代イスラエルでは「アヴァッティヒム(avattihim)」という名で貢税対象として扱われ、さらに』二百『年頃に書かれた文献の中でイチジク、ブドウ、ザクロと同じ仲間に分類されていることから、すでに甘味嗜好品として品種改良に成功していたことが窺える。もっとも、地中海地域で普及したスイカは黒皮または無地皮のものが一般的だった』。また、『この頃の文献では「熟したスイカの果肉は黄色」と記述されており』、四二五『年頃のイスラエルのモザイク画にもオレンジがかったスイカの断面が描かれており、こちらもやはりオレンジがかった黄色い果肉が描かれている。スイカは糖度を決定する遺伝子と果肉を赤くする遺伝子とがペアになっているため、まだ現代品種ほど甘くはなかったことが推察される。果肉が赤いスイカが描かれた最初期の資料は』、十四『世紀のイタリア語版『健康全書』であり、楕円形で緑色の筋の入ったスイカが収穫される様子や赤い断面を晒して販売されるスイカの図が描かれている』。『日本に伝わった時期は定かでないが、室町時代以降とされる』。天正七(一五七九)年、『ポルトガル人が長崎にカボチャとスイカの種を持ち込んだ説や』、慶安年間(一六四八年から一六五二年まで)に、『隠元禅師が中国から種を持ち込んだ説がある』。元福岡藩士宮崎安貞が元禄一〇(一六九七)年に刊した日本最古の農業書「農業全書」では、『西瓜ハ昔ハ日本になし。寬永の末初て其種子來り。其後やうやく諸州にひろまる。」と記されてある。一方、。正徳二(一七一二)年に成立した寺島良安の「和漢三才図会」では、『慶安年間に隠元禅師が中国大陸から持ち帰った説をとっている』。『日本全国に広まったのは江戸時代後期である』。『しかし、果肉が赤いことからなかなか受け入れられず、品種改良による大衆化によって栽培面積が』やっと『増えるのは』、『大正時代になってからである』とある。この筆者は伝来をかなり詳しく追っているが、中国への伝来は、一切、記していない。それにしても、本話柄は室町後期・戦国の初めで、実はここで西瓜談義をすること自体が、有り得ないことになるという、「がっくりオチ」がつくことになる。
「五代」唐朝滅亡の九〇七年から、宋朝の興った九六〇年までの間、中原の地に興亡した後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五つの王朝の時代。中原以外の地方には北漢・荊南・前蜀・後蜀・呉・南唐・呉越・閩・楚・南漢などの十国が、おのおの割拠したため、併せて五代十国時代と呼ぶ。
「胡嶠」(生没年未詳)五代後晋の県令。「維基文庫」の「胡嶠」に、彼が契丹(きったん:四世紀から十四世紀にかけて満州から中央アジアの地域に住んだ半農半牧の民族)の地に軍を進めて(捕虜になったか?)帰った際に、西瓜を中国に齎したとあり、これが漢人が初めて西瓜に接触した始まりだと記してある。原拠は胡嶠著の「陷虜記」とする。
「戎(えびす)」西戎で、中国西方の異民族全般に用いる。
「梁の武帝、西園に綠沈瓜を食はふ」清の沈濂(しんれん)の「懷小編」の中に「綠沈瓜」として、「丹鉛總錄南史梁武帝西園食綠沈瓜綠沈卽西瓜皮色也案西瓜至五代時中國始有見於五代史附錄然陸宣公論獻瓜果人擬官狀云累路百姓進獻果子胡瓜等胡瓜疑卽西瓜如升庵言則六代已有西瓜矣」とあった。グーグル・ブックスのこちらの画像から起こした。「丹鉛總錄」は明の楊慎(一四八八年~一五五九年)撰の一種の百科事典か。]
又、云く、
「『竹實(ちくじつ/タケノミ)は鳳凰の食する所といふ』、いぶかし。近頃、多く生ずる所の竹實ならんや。」
太閤云く、
「いまだ考へず。」
少年云く、
「竹實、二種ありて、鳳の食ふものは、大いさ、鷄卵(けいらん/ニハトリノタマゴ)のごとく、其味(あぢはひ)、蜜にまさる、といふ。今、此方(はう)に生ずる所は、江淮(かうわい)の間(あひだ)に『竹米(ちくべい)』と呼ぶものにして、生ずれば、其竹、ひさしからずして枯(か)るといふ。唐句(たうく)に『饑年竹生ㇾ花(きねん たけ はなをしやうず)』とも見えて、『荒年(くわうねん/キキン)の兆(しるし)なり』と李𪽌(りぶん)が『該聞集』に載せたり。何ぞ、一物(いちもつ)ならん。」
太閤、言葉なし。
又、云く、
「曹操、關羽を漢壽亭侯(かんじゆていこう)に封(ほう)じたる事、『三國志』に見えたり。其字義、いかん。」
太閤云く、
「いまだ考ヘず。」
少年云く、
「蜀の嚴道(げんだう)に漢壽(かんじゆ)といふ地ありし故に、漢壽亭侯に封じたるものを、後世、『漢』の字を世の名として、壽亭侯と呼ぶは、あやまらずや。」
太閤、言葉なし。
又、云く、
「『論語』に『紫の朱を奪ふ』とあり、いぶかし。紫と朱と、何ぞ、まぎるゝ事かあらんや。」
太閤云く、
「いまだ考へず。」
少年云く、
「宋の仁宗の頃より、紫(むらさき)を染むるに、紫草(しさう)を多く用ひて、『油紫(ゆし)』と名づく。是、我が國染むる所の紫(むらさき)なり。古(いにしへ)の紫は染むるに『靑(せい/アヲク)』とすることなく、紫草を纔(わづか)に用ひたり。鷄冠(けいくわん)を『紫色(ししよく)』といふを以て、知るべし。唐土(もろこし)も淳凞(じゆんき)の項よりは、紫色、いにしへに復して、北紫(ほくし)と呼びたるよし。近世、たまたま、染むる所の紅紫(べにむらさき)なるべし。『朱(あけ)を奪ふ』と宣(のたま)ふも宜(むべ)ならずや。」
太闇、こと葉なし。
[やぶちゃん注:「竹實」竹(単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科タケ連 Bambuseae。現生タケ類は、学説により異なるが、世界で六百から千二百種、本邦には百五十から六百種が植生するとされる)の開花と結実については、サイト「笹JAPON」(webマガジン)の「竹の実と笹の実・竹の花と笹の花」がよい。『タケ類は開花すると』、『ほとんどのものが』結実せずに『枯死してしまいます』。『一斉に枯れるのを見て、昔の人は伝染病のせいだと考え、伝染するのを恐れて皆』、伐ったり、『焼き払ったりもしました』。『しかし近年、一度に枯れる原因は伝染病ではないことが分かっています』。さて、『目的を持って植えられた竹の中で有用なものは地下茎を隣の人が貰い受けます』。『これを』、『また』、『貰って植えることがくり返されると、ひとつの部落や渓谷で栽培される竹は同系統のものとなることが多くなります』。『そうすると、広大な竹藪の元をたどると』、『ひとつの個体に行き着くため、似通った環境で育った竹は同時期に開花し』、さらに『タケ類は開花後に枯れる特徴があるため、同系統のタケ類は一斉に枯れてしまいます』。『タケ類の開花は珍しく』、俗説では、六十年から百二十年に一度と『言われています』。『そのため、開花は不吉の前兆と考えられることもあります。しかし、あくまで俗説であって科学的根拠はありません』。『花をつけ、実を結ぶのは植物によく見られる現象です』。『タケ類も同様に栄養成長が終わり、生殖成長になると花をつけます』。『では、生殖成長になる要因は何でしょうか?』 『乾燥続きの年には藪の一部がよく開花すること、稈』(かん)『の反面がしばしば開花することから、体内の炭素化合物が鍵になっているのではないかという説が唱えられています』。『稈は炭素化合物の増量で開花します』。『タケ類に開花がおこると』、『結実』、『実がなります』が、『結実の頻度は非常に少なく、よく結実すると考えられているチマキザサ』(タケ連ササ属チシマザサ Sasa kurilensis:北方種)でも三〇%ほども『実をつけません』。『反対に実をめったにつけない種もあります。少ないものだと、その確率は数万分の』一『と考えられています』(代表例はタケ連マダケ属マダケ Phyllostachys bambusoides)とある。この、開花のスパンの長さに加えて、結実しないものが多いという事実も、民俗社会では甚だ異常な凶兆様態と捉えられるであろう。なお、私は小学校六年の終わり、今いる鎌倉を去る頃、裏山の崖の笹叢に一斉に花が咲いたのを覚えている。昭和四四(一九六九)年初から二月までの間と記憶している。亡き母が「不吉とされるのよ」と教えてくれたのを思い出す。
『竹實(ちくじつ/タケノミ)は鳳凰の食する所といふ』鳳凰やそれに類すると思われる伝説上の鳥が、梧桐の木にしか住まず、「練實」(竹の実)しか食べないという伝承は「荘子」その他漢籍の諸書に現われる。柳川順子氏のサイト「中国文学研究室」の「元白応酬詩の感想」の注の一に、『「梢雲」とは、竹を産する山の名。『文選』巻』五、『左思「呉都賦」に、「梢雲無以踰、嶰谷弗能連。鸑鷟食其実、鵷鶵擾其間(梢雲も以て踰ゆる無く、嶰谷も連なる能はず。鸑鷟は其の実を食べ、鵷鶵は其の間に擾(やす)んず)」、劉逵の注に「鸑鷟、鳳鶵。鵷鶵、『周本紀』曰、鳳類也。非梧桐不棲、非竹実不食。黄帝時鳳集東園、食帝竹実、終身不去(鸑鷟とは、鳳鶵なり。鵷鶵とは、『周本紀』に曰く、鳳の類なり。梧桐の非ずんば棲まず、竹の実に非ずんば食せず。黄帝の時 鳳 東園に集まり、帝の竹の実を食べ、終身去らず、と)」。李善注に「梢雲、山名。出竹(梢雲とは、山の名なり。竹を出だす)」と』あり、さらに注の五で、『鳳凰は、伝説上の一対の鳥。竹の実のみを食べる。『詩経』大雅「巻阿」に「鳳皇鳴矣、于彼高岡。梧桐生矣、于彼朝陽(鳳皇は鳴く、彼の高岡に。梧桐は生ず、彼の朝陽に)」、鄭玄の注に「鳳皇之性、非梧桐不棲、非竹実不食(鳳皇の性、梧桐に非ずんば棲まず、竹実に非ずんば食せず)」と』あると記されてある。
「江淮(かうわい)」江蘇省北部の長江下流部と淮河(わいが)下流部との間にある江淮平原。長江中下游(ちょうこうちゅうかゆう)平原の一部。大運河や無数の人工水路が縦横に走る水郷地帯。この中央部の北の淮河と南の長江に挟まれた東西に広がる平野域(グーグル・マップ・データ)。
「竹米(ちくべい)」これが我々の知っている竹の実のこと。さても、この少年、則ち、作者都賀庭鐘が参考にしたのは、明の李時珍の「本草綱目」であろうことが判明した(寛文九(一六六九)年風月莊左衞門板行本の訓点(国立国会図書館デジタルコレクション)を参考に訓読した)。
*
竹實[主治]神明に通じ、身を輕くし、氣を益す【「本經」。】。
[發明]「别録」に曰はく、『竹實、益州に出づ』と。弘景曰はく、『竹實、藍田の江東に出づ。乃(すなは)ち花有りて實し。頃來(ちかごろ)、斑斑として、實、有り。狀(かたち)、小麥のごとし。飯と爲して食ふべし』と。「承」に曰はく、『舊(むかし)、竹の實有り、鸞鳯の食する所。今-近-道(いま)、竹間、時に、花開くを見る。小白にして、棗の花のごとし。亦、實を結ぶこと、小麥のごとし。子(み)、氣味、無くして、濇(とどこほ)る。江浙の人、號して「竹米」と爲す。以つて荒年の兆しと爲す。其の竹、卽ち、死せる。必ずや、鸞鳯の食する所の者に非ず。近ごろ、餘干の人、有り、言はく、「竹實、大いさ、雞(にはとり)の子(たまご)のごとし、竹葉、層層として包褁(はうか)す。味、甘くして、蜜に勝されり。之れを食して、人をして、心膈、淸凉ならしめて生らしむ。深き竹林、茂盛䝉宻(まうみつ)[やぶちゃん注:びっしりと映えていることであろう。]の處、頃(この)ごろ、因りて之れを得。但し、日、久しくして、汁、枯乾して、味、尚ほ、存するのみ。乃ち、知んぬ、鸞鳯の食する所、常の物に非ざるなり」と』と。時珍曰はく、『按ずるに、陳藏器が「本草」に云はく、『竹肉 一名「竹實」。苦竹の枝上に生ず。大いさ、雞の子のごとし。「肉臠(にくれん)[やぶちゃん注:細かく切った肉。]」に似たり。大毒有り。須らく、灰汁(あく)を以つて煮、二度、煉(や)く。訖(をは)りて乃ち、常の菜に依つて茹(ゆ)で食す。煉きて熟せざるときは、則ち、人の喉を㦸(さ)し、血を出だし、手の爪、盡く脫するなり』と。此の說、陳承が說く所の竹實と相ひ似たり。恐くは、卽ち、一物(いちもつ)なり。但し、苦竹の上の者の毒有るのみ。「竹米」の「竹實」と同じからず。
*
少年が「何ぞ、一物(いちもつ)ならん」と批判するのも、この時珍の最後の最後の部分の受け売りに過ぎぬことさえ判る。
「唐句(たうく)に『饑年竹生ㇾ花(きねん たけ はなをしやうず)』とも見えて」宋の蕭立之の以下の五律。
*
茶陵道中
山深迷落日
一徑窅無涯
老屋茅生菌
饑年竹有花
西來無道路
南去亦塵沙
獨立蒼茫外
吾生何處家
*
「窅」の訓読は「えう(よう)として」で奥深くて遠いさまを謂う。
「『荒年(くわうねん/キキン)の兆(しるし)なり』と李𪽌(りぶん)が『該聞集』に載せたり」「該聞集」は宋李𪽌(りぶん)が『該聞集』李𪽌』
「何ぞ、一物(いちもつ)ならん」鳳凰の餌のそれは別としても、竹の種は多く、中国では漢方薬として、また、多く結実するものは今も食用としているぐらいだから、一種類でないという謂いは正しいとは言える。
「漢壽亭侯」ウィキの「関羽」によれば、西暦二〇〇年に『劉備が東征してきた曹操の攻撃を受けて敗れ、下邳』(かひ)『に撤退せず』、『北上し』、『袁紹の元に逃げると、関羽は一時的に曹操に降り』、『賓客として遇された。曹操は関羽を偏将軍に任命し、礼遇したという。曹操と袁紹が戦争となると(官渡の戦い)、関羽は呂布の降将の張遼と共に白馬県を攻撃していた袁紹の将の顔良の攻撃を曹操に命じられた。関羽は顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃し顔良を刺殺し、その首を持ち帰った。この時、袁紹軍の諸将で相手になる者はいなかったという(白馬の戦い)。曹操は即刻』、『上表して』漢寿亭侯に『封じた』とあり、注に『三国時代は呉の支配下にあったため、「呉寿」と改称され、西晋で「漢寿」に戻された。蜀漢の漢寿は益州広漢郡の葭萌県を改称したもので、別の地名』であるとある。正しい「漢壽」は現在の湖南省常徳市漢寿県(グーグル・マップ・データ)。というわけで、遂に妖狐の誤りを発見した! 「蜀の嚴道(げんだう)に漢壽(かんじゆ)といふ地ありし」というのは現在の四川省雅安市滎経(えいけい)県(グーグル・マップ・データ)で、アウト!
「『論語』に『紫の朱を奪ふ』とあり」「論語」の「陽貨第十七」の以下。
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子曰。惡紫之奪朱也。惡鄭聲之亂雅樂也。惡利口之覆邦家者。
(子曰はく、「紫(むらさき)の朱(しゆ)を奪ふを惡(にく)む。鄭聲(ていせい)の雅(が)、樂(がく)を亂すを惡む。利口(りこう)の邦家(ほうか)を覆へす者を惡む。」と。)
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意味は「web漢文大系」のこちらを見られたい。
「紫草(しさう)」現在の中国産種はシソ目ムラサキ科ムラサキ属セイヨウムラサキ Lithospermum offcinale。少年は本邦のムラサキ Lithospermum erythrorhizon と同じとするが、同属の別種である。但し、次注を参照。
「油紫(ゆし)」「正字通」にあるらしい。小林昭世氏の論文「『正字通』による糸部首漢字の色彩表現調査」(日本デザイン学会『デザイン学研究』二〇一六年・PDF)に、『紫の説明においては、紅花による染色を基にして、その上に藍を染め、紫色を得る。その紫色は深く染めると、北窓からみた冷たい感じの色であり、それが北紫と呼ばれた。また、北紫を染めるとき、紅花による染を深く染めすぎて、それが正色としての赤と間違われるので、「悪紫奪朱」の由来となったのであろう。紫の染色のなかには油に汚れて、油紫といわれる深い紫色となり、これは三品以上の官服の色であった。今回の調査によっては北紫と油紫の色名は明時代の特有な色名であろうと推測できる。残念ながら、その染色材料は明確に確認できていない』とあるから、前注のセイヨウムラサキに同定比定は出来ないことになる。
「古(いにしへ)の紫は染むるに『靑(せい/アヲク)』とすることなく、紫草を纔(わづか)に用ひたり。鷄冠(けいくわん)を『紫色(ししよく)』といふを以て、知るべし」という謂いからは、くすんだごく薄い紫色を言っているようである。「論語」の言っているのは、色を濁すとか、圧倒するという視覚的物理的現象としての色の変異を指しているのではなく、間色である紫がそのなまめかしさの故に好まれ、正しき純色である赤が圧倒されて、低く認識されることが憎むべき習慣であると言っているのである。
「淳凞(じゆんき)」南宋の孝宗の治世で用いられた元号。一一七四年から一一八九年。
「北紫(ほくし)」前の小林氏の論文の引用を参照。]
又、云く、
「我が國、詩のはじまる、誰人(たれびと)とか、したまふ。」
太閣云く、
「大津皇子たる事、諸書に見えたり。」
少年云く、
「大津皇子にさきだちて、大友皇子・河島皇子、ともに五言の詩を作り給ふ。大友叛逆(ほんぎやく/ムホン)の冤(ゑん/ムジツ)をかうむりたまひし故、世の人、これをしらず。『日本紀』にも漏らされたるにや。」
太閤、言葉なし。
又、云く、
「羅城門の名、いかなる義ぞや。」
太閤云く、
「いまだ考へず。」
少年云く、
「羅城・羅郭などと同じ意(こゝろ)にて、外郭(ぐわいかく/ソトグルワ)なり。唐の懿宗の時、羅城を築くといふ。注に『外郭なり』といふ。平安城外郭の門なるを以て名づけたるなるべし。」
太閤、言葉なし。
又、云く、
「木曾路は美濃の地なりや、信濃なりや。」
太閤云く、
「信濃なる木曾といふを以て見るに、信濃なること、論なし。」
少年云く、
「承和(しやうわ)・仁壽(にんじゆ)の頃、度々、兩國の境を論じたることありしに、勅使をつかはされ、美濃の地なるよしを定めたまへり。其後、信濃に屬(しよく)したる事、國史(こくし/キロク)に見あたらず。」
といふに、太閤、大いに憤り、
『かゝる小冠者(こくわんじや)に難殺(なんさつ/イヒツメラル)せらるゝこそ、やすからね。』
と、おぼせども、せんすべなく、沈吟(ちんぎん)したまひしが、忽ち、一計を生じて云く、
「少年、和歌をたしむや。」
少年云く、
「幼(いとけなき)より、是をたしめども、ふつに、近世、軟弱華靡(なんじやくくわひ)の體(てい)をこのまず。世の人歌(〔ひと〕うた)と覺えたるは、剪裁(せんさい/ツクリバナ)の花にして、生色(せいしよく/ホンノイロ)なし、某(それがし)、たしむ所は、流俗に同じからず。」
太閤云く、
「懷中、詠草ありや。」
少年、一册を呈す。
ひらき見たまふに、誠に秀逸にして、たけ高く、詞(ことば)なだらかなる事、定家の、いはゆる、「企て及ぶべからず」と歎じたまひし風調なり。
太閤、卷を收めて云く、
「少年、全才といふべし。されども、和歌は其門に入らざれば、奧儀(あうぎ)をきはむる事、かたし。詠草、秀逸なりといへども、地下(ぢげ)の風にて、見るに、たらず。」
と嘲(あざけ)りたまふに、少年、冷笑(あざわら)うて云く、
「君の賢明なる、猶、流俗の說を執(しう)したまふは、なんぞや。聖(ひじり)と貴(たつと[やぶちゃん注:ママ。])ぶ人丸(ひとまる)・赤人(あかひと)、地下ならずや。貫之(つらゆき)・躬恒(みつね)が輩(ともがら)、又、地下の淺官(せんくわん/カロキモノ)。和歌式を定めし窺仙(喜撰)[やぶちゃん注:以上は底本編者による補正追加。]は姓氏(せいし/ウジ)もさだかならぬ桑門(よすてびと)なり。一時(〔いち〕じ)の風(ふう)をよみなほさんとせし西行は、北面の士(さむらひ)の入道したるに侍(はんべ)らずや。人の心を種(たね)とする歌に、貴賤の差別(しやべつ)あるものならば、何ゆゑ、かゝる輩(ともがら)を先達(せんだつ)とはし給ふやらん。雲井の上に春秋(はるあき)を詠(なが)めたまふも、賤(しづ)が家(や)に折(をり)しる梅に春をしり、夜さむにうちあかすきぬたに夢さまして、こしかた行末をおもひやるも、心になどか違ひ侍るべき。よろこび、かなしみの心も、同じ心にて、月・雪・花も、同じながめなるもの、などか貴賤の差別(しやべつ)を論ずべきや。こと葉(ば)に雅俗ありて、古今を諭じ、心に淺深(せんしん)ありて、優劣を定むるのみにて、人の貴賤をもて、論ずるものにあらず。まして、地下(ぢげ)・堂上(たうしやう)のわかれたるは、朝家(てうか)衰へ、政務、武家に歸してより後のならはしにて、むかし、かつて、其論、なし。攝祿(せつろく)の家に地下あり、寒微(かんび/カスカ)の家にも殿上に登るあり。内外の名にして、貴賤の名にあらず。惣じて朝權、鎌倉にうつりて後は、みなみな、虛位(きよゐ)に居たまふより、さまざまの流風(りうふう)出來(いでき)て、或は和歌の家、手跡の家など、技藝を專務としたまひ、百工(ひやくこう)と其能(のう)を爭ひたまふに、いたる。天朝(てんてう)の大臣(だいじん)、なんぞ、かゝる末技(まつぎ)を本(もと)と、したまふや。衰世のさま、やむことなき業(わざ)なるを、君のごとき、古今の治亂(ちらん)に達したまひたるすら、かゝる事を眉目(びぼく)とし給ふ。今日の大變も、みづから招きたまふといふべし。」
と、憚るところなくいふに、太閤、心、醉(ゑ)へるがごとく、面(おもて)、黃(き)になり給ひ、一言(〔いち〕ごん)のいらへ、なかりしが、ひそかに、おもひたまふは、
『此少年、必ず、非常のものならん。是をこゝろむるは、劒(けん)と鏡とに、しくものなし。』
と、帶劒(たいけん/タチ)と鏡一枚を出(いだ)して、
「少年。これを、しるや。」
と宣へば、少年、色、よろこびずして云く、
「君、おそらくは、我を、鬼魅(きみ/バケモノ)妖狐(えうこ)の類(たぐひ)と、おもひたまふなるべし。天地の廣き、なんぞ、奇才なしとせん。衰世なりといへども、君のごとき命世(めいせい)の大才(たいさい)を生じたり。後生(こうせい)の畏るべき、孔子すら、あなどりたまはず。夫(それ)、劒は、陽にして、威ある物たり。鬼魅は、陰にして、形なき物たり。威あるを以て形なきに逼(せま)るときは、其妖、鎖鑠(せうれき/ウチケサル)して敵する事あたはず。此故に鬼魅は劒をおそる。鏡、また、陽にして明なる物なり。精(せい)は陰にして僞變(ぎへん/カリニアラハル)せる物なり。僞變(ぎへん/カリニアラハル)せるもの、至明(しめい)に逢ふときは、其形を暴露(ばうろ/アラハレ)して迯(のが)るゝ所なり。此ゆゑに、狐狸・花月の妖、みな、鏡を畏る。むかし、抱朴子(はうばくし)、此事を論じ置きたり。某(それがし)、これを知る事、久し。君、此の二〔ふたつの〕物(もの)を以(も)て試みたまふことの拙(つたな)さよ。」
とて、傲然(がうぜん)として、畏るゝ氣色(けしき)なし。
[やぶちゃん注:「詩」漢詩。
「大津皇子」(天智二(六六三)年~朱鳥(しゅちょう/すちょう)元(六八六)年)は天武朝の皇族政治家・歌人・漢詩人。天武天皇の第三皇子で、母は大田皇女 (ひめみこ) 。同母の姉に万葉歌人大伯 (おおくの) 皇女がいる。「壬申の乱」(天武元(六七二)年)の際、近江を脱出して父の一行に合流、父は大いに喜んだという。天武一二(六八三)年、初めて朝政に参与したが、天皇崩御の直後、皇太子草壁皇子に謀反のかどで捕えられ、処刑された。「日本書紀」・「懐風藻」の伝によれば。文武に秀でた大人物で、「詩賦の興れるは大津より始る」とされる。「万葉集」に短歌四首、「懐風藻」に漢詩四篇を残しているが、このうち、「万葉集」巻三の辞世の歌と「懐風藻」の「五言臨終一絕」は有名で、高く評価されている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「大友皇子」(大化四(六四八)年~天武元(六七二)年)は天智天皇の第一皇子。伊賀皇子とも。天智一〇(六七一)年、天智天皇没後に即位したかどうかは不明。「日本書紀」は即位記事を載せていない。明治政府になってから、天皇としての即位があったはずだとされ、明治三(一八七〇)年に弘文天皇と追諡(ついし)された。母は伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)の娘で、伊賀国の豪族の出身であろう。「壬申の乱」で大海人皇子(後の天武天皇)によって亡ぼされた。天智天皇はその晩年、天智十年に、大友皇子を太政大臣とし、蘇我赤兄を左大臣に、中臣金(なかとみのかね)を右大臣とするとともに、大海人皇子を後継者にしようとしたが、大海人皇子は固辞したことになっている。さらに同年、大友皇子と左右大臣らは、近江大津宮の内裏の西殿の織(おり)仏像の前で、天智の詔を守る誓いを立てている。このように天智は、結果として大友皇子を中心に蘇我赤兄、中臣金など、古くからの大和朝廷に参画した畿内の大豪族を結集し、権力を安定させ、大友皇子を後継者とすることとなった。ところが、吉野に退いた大海人皇子との間で争いが生じ、「壬申の乱」が起こり、大友皇子は東国・筑紫・吉備など、全国に渡って、軍隊を派遣し、大海人方を征討することにしたが、最終的に東国・大和の兵を中心に電撃作戦に出た大海人皇子の軍隊に敗れ、天武元年七月、瀬田橋で決戦を挑んだものの、支えきれず、自縊して没した。「壬申の乱」の原因については、大友皇子と大海人皇子との皇位継承争いとみられているが、その原因の詳細は不明である。大友皇子は漢詩文にも秀で、「懐風藻」にも淡海朝大友皇子二首として詩が残されている。「懐風藻」に残された詳しい伝記によると、博学で多くの知識に通じており、群臣は畏れ、服従していたという。また、広く学識者と親交があったとし、彼らは百済滅亡(六六三年)後に亡命者として来日した人々であった。このように、大友皇子を支えたのは左右大臣としては蘇我・中臣という古くからの豪族であり、また学識者としては、百済からの亡命官人たちであった。これは畿内の大豪族の古い絆を断ち、親百済外交を改めて、新羅との親交を開いた大海人皇子、則ち、天武政権の政策とは対照的に、古い体制に依拠していたものと考えられる。大友皇子の能力が「懐風藻」などで高く評価され、「太子は天性明悟、博く古を雅愛する」と述べられているように、個人的に秀でたものがあったにも拘わらず、「壬申の乱」に敗れたのは、その背景となった歴史的基盤に要因があったものと考えられている(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「河島皇子」川島皇子(斉明三(六五七)年~持統五(六九一)年)は天智天皇の第二皇子。母は色夫古娘(しこふこのいらつめ)。「河島皇子」「河島王」とも記す。妻は天武天皇の娘泊瀬部皇女(はつせべのみこひめ)。大津皇子と親交があって、運命を共にする約束をしていたが、朱鳥元年に大津皇子の謀反が暴露された際には、大津皇子の計画を告発する立場に立ったとされている。政府はその忠誠を嘉したが、世間では、その告発行為の是非を問う声が多かったという。事件当時から、大津への同情の声があったためかとも考えられる。天武一〇(六八一)年、忍壁皇子(おさかべのみこ)とともに、上古諸事の記定に参加し、国史の編纂に携わった。文筆の能力を評価されてのことであったらしい。「懐風藻」に五言絶句一首を残す。また、「万葉集」巻第一に「白波の濱松が枝(え)の手向草(たむけぐさ)幾代(いくよ)までにか年の經(へ)ぬらむ」の一首を収めるが(三四番)、これは山上憶良の歌かとも注記されてある。越智野(現在の奈良県高取町越智)に葬られ、その折に柿本人麻呂が泊瀬部皇女と忍壁皇子に献じた歌が「万葉集」巻第二(一九四・一九五番)に残されている(同前)。
「羅城門」本来は都城を取り囲む城壁である「羅城」に開かれた「門」の意。
「唐の懿宗」唐の第二十代皇帝。在位は八五九年~八七三年。史書によれば、暗愚な性格であったという(ウィキの「懿宗(唐)」に拠る)。「資治通鑑」(しじつがん:北宋の司馬光が一〇六五年の英宗の詔により編纂した編年体歴史書)によれば、咸通九年で八六八年のことらしい。
「承和(しやうわ)」仁明天皇の治世。八三四年~八四八年。
「仁壽(にんじゆ)」文徳天皇の治世。八五一年~八五四年。
「勅使をつかはされ、美濃の地なるよしを定めたまへり」誤り。もう少し後である。ウィキの「美濃国」によれば、『木曽谷に関しては』、『しばしば美濃国と信濃国の間で領有権が争われたが、貞観年中』(八五九年~八七六年)『に朝廷は藤原朝臣正範や靭負直継雄らを派遣して国境を鳥居峠とした。その後平安末期までに木曽は信濃国という認識がされ始めており』、「平家物語」などは『信濃国木曽と記述するようになる。鎌倉時代には大吉祖荘』(おおぎそのしょう:現在の長野県木曽郡木曽町・木祖村付近と推定されている)『は信濃、小木曽荘』(おぎそのしょう:現在の長野県木曽郡南木曽町・上松町・大桑村付近と推定されている)『は美濃と書かれる傾向にあった』。室町中頃までは「美濃國木曾莊」とする記述が見られる。『美濃国恵那郡であった木曽全域が信濃国になった時期について、信州大学人文学部の山本英二准教授が木曽郡大桑村の定勝寺の古文書の回向文の中から年代が分かる』五『点で』、延徳三(一四九一)年には、「美濃州惠那郡木曾」庄とあるが、永正一二(一五一五)年には、「信濃州木曾莊」と『書かれていた』ことから、『木曽が美濃国恵那郡から信濃国へ移ったのは』、この一四九一年から一五一五年の『間と結論付けた』(一条兼兼良は文明一三(一四八一)年没であるから、少年の謂いは正しいことになる)。天正一四(一五八六)年に木曽川が氾濫して流路をほぼ現在のものに変えたことをうけて、変更された木曽川の北岸と中洲を尾張国から美濃国に移した。現在の地図にあてはめると、北岸は岐阜県のうち境川と木曽川にはさまれた一帯、中洲は各務原市川島にあたる』とある。
「ふつに」「都に・盡に」。副詞。下に打消しの語を伴って、「全然・全く(~ない)」の意。
「剪裁(せんさい/ツクリバナ)」花を摘み取ること。ここは自然を失った紛い物の謂い。
『定家の、いはゆる、「企て及ぶべからず」と歎じたまひし風調なり』出典不詳。或いは、室町中期の臨済宗の歌僧正徹(しょうてつ 永徳元(一三八一)年~長禄三(一四五九)年)の歌論書「正徹物語」(前半は正徹の自筆、後半は弟子の聞書と考えられている。文安五(一四四八)年頃、または宝徳二(一四五〇)年頃の成立。歌論と歌話を集成するが、藤原定家に対する傾倒が著しく、その「幽玄」論は重要な影響力を持った)にある、「此道にて定家をなみせん輩は、冥加も有るべからず。罰をかうむるべき事也」辺りを変形させたものか。
「貴(たつと)ぶ」私は、小学校五年の時、担任であった国語の並木裕先生から、「尊ぶ」は「たっとぶ」、「貴ぶ」は「とうとぶ」と読む、と教わったことを絶対の掟としている。
「地下(ぢげ)」ここは「堂上」に対する語で、清涼殿の「殿上の間」に昇殿する資格を持たない人を広く指す。一般的には、蔵人を除く六位以下の官人、及び四位・五位の内で、「殿上人」の資格を持たない者、「地下の諸大夫(しよだいぶ)」を指すが、本来は昇殿の資格がある者でも一時的にこれを奪われる場合があった。特に鎌倉末期以降に公家の家格が固定されると、位階・官職に関係なく、地下であり続ける公家方が多数発生し、堂上家以外の出身者は公卿となっても、昇殿しないのが慣例とさえなった。
「人丸(ひとまる)」柿本人麻呂(斉明天皇六(六六〇)年頃~神亀元(七二四)年)。後世、次の山部赤人と共に「歌聖」と呼ばれ、称えられている。三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。参照したウィキの「柿本人麻呂」によれば、『柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。人麻呂の出自については、父を柿本大庭』(かきのもとのおおば)、『兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献』『がある。また、同文献では人麻呂の子に柿本蓑麿(母は依羅衣屋娘子』(よさみのいらつめ)『を挙げており、人麻呂以降の子孫は石見国美乃郡司として土着し、鎌倉時代以降は益田氏を称して石見国人となったされる。いずれにしても生前や死没直後の史料には出自・官途について記載がなく、確実なことは不明である』。人麻呂の経歴は「続日本紀」等の『史書にも記載がないことから定かではなく』、「万葉集」の詠歌と、『それに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。一般には』天武天皇九(六八〇)年には『出仕していたとみられ』、『天武朝から歌人としての活動を始め、持統朝に花開いたとみられる。ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌』『を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある』。『江戸時代、賀茂真淵によって草壁皇子に舎人』(とねり)『として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠はない。複数の皇子・皇女(弓削皇子、舎人親王、新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないとも思われる。近時は宮廷歌人であったと目されることが多い』『が、宮廷歌人という職掌が持統朝にはなく、結局は不明である』とある。
「赤人」山部赤人(?~天平八(七三六)年?)の姓は宿禰。大山上・山部足島の子とする系図がある。官位は外従六位下・上総少目。三十六歌仙の一人。参照したウィキの「山部赤人」によれば、山部氏(山部連(やまべのむらじ)・山部宿禰(やまべのすくね)は、『天神系氏族である久米氏の一族で、職業部』(しょくぎょうべ)『の一つである山部の伴造家』(とものみやつこけ)『とされる。また』、天武天皇一三(六八四)年に「八色(やくさ)の姓(かばね)」の『制定によって』、『山部連から山部宿禰への改姓が行われているが』、『この時に赤人が宿禰姓を賜与されたかどうかははっきりしない』。彼の経歴も定かではなく、「続日本紀」などの『正史に名前が見えないことから、下級官人であったと推測されている。神亀・天平の両時代にのみ』、『和歌作品が残され、行幸などに随行した際の天皇讃歌が多いことから、聖武天皇時代の宮廷歌人だったと思われる。作られた和歌から諸国を旅したとも推測される。同時代の歌人には山上憶良や大伴旅人がいる』とある。
「躬恒」平安前期の歌人凡河内躬恒(おおしこうちのみつね 生没年不詳)。三十六歌仙の一人。紀貫之と並称される名歌人。紀貫之・壬生忠岑・紀友則とともに「古今和歌集」撰者。
「和歌式を定めし窺仙(喜撰)は姓氏(せいし/ウジ)もさだかならぬ桑門(よすてびと)なり」平安前期の歌人で六歌仙の一人。紀貫之が「古今和歌集仮名序」で、その名を挙げて論じているが、実は出自・伝記ともに未詳で、出家して宇治に住んだことがわずかに推定されるだけの幻に近い人物であり、確実な歌作は「古今和歌集」巻第十八の「雑歌下」の、
わが庵(いほ)は都のたつみしかぞすむ
世をうぢ山と人はいふなり
の一首だけである。歌学書「和歌作式(喜撰式)」の作者ともされるが、これも後世の仮託である。一説に桓武天皇の後裔とも、近くは役行者系統の道術士であったという説もある。
「差別(しやべつ)」「さべつ」に同じいが、仏語として、「万物の本体が一如平等であるのに対し、その万物に高下・善悪などの特殊相があること」をも意味する。ここは正法(しょうぼう)に敵対するであろう妖狐の言葉であるから、仏語としてのそれを批判的に含めたとも言えよう。
「攝祿(せつろく)の家」「攝籙」の誤り。摂政又は関白のこと。また、摂関家。
「内外」原本には右に「ないぐはい」、左に「をくむきとざま」(ママ)と振る。
「朝權」本来は「朝廷の権力」の意であるが、ここはズラして国政の実権限の意で用いている。
「眉目(びぼく)」面目。名誉。誉れ。
「非常のもの」行動や様子が甚だ異常であるさま。人間ではない異類のものの意。
「命世(めいせい)」その時代に最もすぐれていて名高いこと。また、その人。
「後生(こうせい)の畏るべき、孔子すら、あなどりたまはず」「論語」の「子罕第九」の、
*
子曰。後生可畏。焉知來者之不如今也。四十五十而無聞焉。斯亦不足畏也已。
(子曰はく、「後生、畏るべし。焉(いずづくん)ぞ來者(らいしや)の今に如(し)かざるを知らんや。四十、五十にして聞ゆること無くんば、斯(こ)れ亦、畏るるに足らざるのみ。」と。)
*
に基づく。「若者という存在、それを侮っては、いけない! 彼らの将来の存在が、我々のこの現在に及ばないなどと、一体、誰が謂い得よう? しかし、まあ、四十、五十の歳にもなって、衆目を惹くこともないような輩は、これ、なんの! 恐れるに足らない。」の謂い。
「精(せい)」精霊。精霊木霊(すだまこだま)。魑魅魍魎。
「至明(しめい)」はっきりと核心まで知り尽くすこと。「見切る」の意。
「抱朴子」晋の道士で道教研究家の葛洪(かつこう 二八三年~三四三年)の号(同時に神仙思想と煉丹術に関する彼の著になる理論書「抱朴子」の書名でもあるが、ここは号である)。ウィキの「葛洪」によれば、彼は『後漢以来の名門の家に生まれたが』、『父が』十三『歳の時になくなると、薪売りなどで生活を立てるようになる』。十六歳で、はじめて「孝経」・「論語」・「易経」・「詩経」を『読み、その他』、『史書や百家の説を広く読み』、『暗誦するよう心がけた』。その頃。『神仙思想に興味をもつようになったが、それは従祖(父の従兄弟)の葛仙公(葛玄)とその弟子の鄭隠』(ていいん)『の影響という。鄭隠には弟子入りし、馬迹山中で壇をつくって誓いをたててから』、「太清丹経」・「九鼎丹経」・「金液丹経」と、『経典には書いていない口訣を授けられた』。二十歳の時、「張昌の乱」で『江南地方が侵略されようとしたため、葛洪は義軍をおこし』、『その功により』、『伏波将軍に任じられた。襄陽へ行き』、博物学者でもあった『広州刺史となった嵆含』(けいがん)『に仕え、属官として兵を募集するために広州へ赴き』、『何年か滞在した』。道士で『南海郡太守だった鮑靚』(ほうせい)『に師事し、その娘と結婚したのも』、『その頃である。鮑靚からは主に尸解』(しかい)『法(自分の死体から抜け出して仙人となる方法)を伝えられたと思われる』。三一七年頃、『郷里に帰り』、「抱朴子」を『著した。同じ年』、『東晋の元帝から関中侯に任命された。晩年になって、丹薬をつくるために、辰砂の出るベトナム方面に赴任しようとして家族を連れて広東まで行くが、そこで刺史から無理に』留められしまい、『広東の羅浮山に入って金丹を練ったり』、『著述を続けた。羅浮山で』死んだとされるが、『後世の人は尸解したと伝える。著作としては』他に「神仙傳」・「隱逸傳」・「肘後備急方」など、多数がある。以下の鏡の効用については、巻第十七「登涉」の初めの方に出る。
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又、萬物の老いたる者、其の精、悉く能く、人の形に假託し、以つて人の目を眩惑して、常に人を試むるも,唯、鏡中に於いては、其の眞形(しんぎやう)を易(か)ふる能はざるのみ。是(ここ)を以つて、古への入山の道士は、皆、明鏡の徑(わたり)九寸已上なるを以つて、背後に懸く。則ち、老魅(らうみ)、敢へて人に近づかざるなり。或いは、來たりて人を試むる者有れば、則ち、當(まさ)に鏡中を顧み、視るべし。其の、是れ、仙人及び山中の好(よ)き神ならんには、鏡中を顧みるに、故(もと)より人の形のごとくなるも、若し、是れ、鳥獸・邪魅ならば、則ち、其の形貌、皆、鏡中に見(あらは)れん。又、老魅、若し來らば、其の去るときは、必ず、却行(あとしざり)す。行かば、鏡を轉じて、之れに對すべし。其の後ろにして之れを視るに、若し、是れ、老魅ならば、必ず、踵(かかと)、無きなり。其の踵有る者は、則ち、山神(さんじん)なり。昔、張蓋蹋(がいきふ)及び偶高成の二人、並びに、蜀の雲臺山の石室中に精思せしに、忽ち、一人有りて、黃(き)の練(ねりぎぬ)の單衣(ひとえ)と葛巾(くずぬののづきん)を著け、往きて其の前に到りて曰はく、「勞するかな、道士、乃(すなは)ち、幽隱に辛苦す。」と。(ここ)是に於いて、二人、鏡中を顧み視れば、乃ち、是れ、鹿なり。因りて之れを叱(しつ)して曰はく、「汝、是れ、山中の老いたる鹿なるに、何ぞ敢へて詐(いつは)りて人の形を爲すや」と。言、未だ絕えざるに、來りし人は、卽ち、鹿と成りて走り去れりと。林慮山の下に一亭有り、其の中に鬼(き)有り、宿する者有る每(ごと)に、或いは死し、或いは病めり。常に、夜、數十人有りて、衣の色、或いは黃、或いは白、或いは黑。或いは男あり、或いは女ありき。後、郅伯夷(けきはくい)なる者、之れを過ぎて宿し、燈燭を明にして、坐して、經を誦みしに、夜半、十餘人、來たる有り。伯夷と對坐し、自ら共に樗蒲博戲(ちよぼはくぎ)[やぶちゃん注:ダイス・ゲームの博奕(ばくち)の一種。]す。伯夷、密かに鏡を以つて之れを照せば、乃ち、是れ、群犬なり。伯夷、乃ち、燭を執つて起ち、佯(いつは)り誤りて、燭燼(もえさし)を以つて其の衣を爇(や)くに、乃ち、毛を燋(こ)がすの氣(かざ)を作(な)す。伯夷、小刀を懷(ふところ)にし、因りて一人を捉へて之れを刺すに、初めは人の叫びを作(な)せしが、死して犬と成り、餘の犬も悉く走り、是に於いて遂に絕えしことは、乃ち、鏡の力なり。
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がそれである。以上の原文は「中國哲學書電子化計劃」のこちらを参考にし、訓読は、私の愛読書である昭和二二(一九四七)年岩波文庫刊の石島快隆(やすたか)譯注「抱朴子」に拠った。
「傲然」驕(おご)り高ぶって尊大に振る舞うさま。]
太閤、謝して云く、
「聊(いさゝ)か戲れたるのみ。少年、意(こゝろ)に挾(さしはさ)むことなかれ。我、此ところにありて無聊(ぶりやう)沈鬱に堪へず。少年、暫くこゝにとゞまりて、ゆるゆる、古今(ここん)を談ぜんは、いかん。況や、今日(こんにち)、暮に及びたり。夜もすがら、旅館の徒然を慰めん。」
と宣へば、少年、いなむことなくして、一間(ひとま)にしりぞきぬ。
太閣、いよいよ、あやしみ給ひ、
『天下、奇才なきにしもあらずと、かゝる絕世(ぜつせい/ヨニスグルヽ)の俊才、我、又、しらざること、あらんや。おもふに、鬼魅にあらずんば、必ず、千載の妖狐なるべし。我、聞く、千載の妖狐(ようこ/フルギツネ)は劒・鏡をもおそれず。只、千年の古木(こぼく)を以て照す時は、其形をあらはす、といふ。』
[やぶちゃん注:本文の切れは悪いが、ここでシークエンスが変ずるのでブレイクしておく。]
「千年を經たる古木やある。」
と、隣家(りんか)の翁(おきな)をまねきて、ひそかに尋ねたまへば、
「多賀の社(やしろ)のほとりにこそ、千年の餘(よ)になるといふなる杉の侍(はんべ)る。」
と答ふ。
太閤、よろこびたまひ、村夫(そんぷ/ムラビト)の心たけき者をめして、
「今宵、多賀に至りて、其古木、きりて得させよ。」
と宣ふに、諾(かしこま)りて出(いで)行きぬ。
やがて、多賀に近づくに、森のほとりに、翁一人、たゝずみて、
「何事の急ありてか、かく夜中(やちう)に來りたまふ。社參(しやさん)の人とも覺え侍〔はんべ〕らず。古木をきりとらんためにや。」
と、いふに、兩三人の者ども、驚きて、
「其事なり。」
と答ふ。
翁云く、
「われ、とくより、是をさとれり。此山奧、荒川溪(あらかはだに)のほとり、萱尾(かやを)といふに千年を經たる老狐の侍るが、きのふ、此に來りて、
『ちかき頃、一條太閤、愛知川(えちがは)の邊(ほとり)に蟄居したまふ。公(きみ)は博學の名、かくれなく、古今類(たぐひ)なしと自負(じふ/ホコリ)したまふ。我、試みに見(まみ)えて、公(きみ)の博識をなやまし、鋭氣を折(くじ)かんため、かしこに行かんとおもふ。翁にも共に來れ。』
とすゝむるゆゑ、我、制(せい/トヾメ)して云く、
『汝が才智詭辯、天下、たれか、敵する者、あらん。太閤、服したまはんこと、明(あきらか)なり。只、おそらくは奇禍(きくわ)に逢はん。汝のみにあらず、其餘殃(よあう)、翁をも連累(れんるゐ/マキゾヘ)すべし。其時、悔ゆとも、及ぶまじ。光をつゝみ、德をかくして、天年(てんねん)を保ちたらんこそ、本意(ほんい)なれ。草木、花うるはしきを以て折られ、虎豹(こへう)、皮の章(あや/モヤウ)あるを以て殺さる。美玉、碎けやすく、甘泉(かんせん/ヨキミヅ)は竭(つ)きやすし。汝、ゆかば、玉(たま)を懷きて深淵(しんえん/フカキフチ)にのぞむの禍(わざはひ)あらん。』
と、再三、制せしかど、用ひずして、まかりぬ。果して、禍、翁(をきな[やぶちゃん注:原文のママ。])にも、およびたることよ。」
と、いふかとおもへば、かきけすごとくに、行方(ゆきがた)を、しらず。
村人、あやしめども、もとより膽(きも)ふとき若もの共(ども)なれば、
「いざや。」
と、彼(か)の杉を切倒(きりたを[やぶちゃん注:原文のママ。])し、一束(いつそく)の薪(たきゞ)をとり、かへりてありし。
[やぶちゃん注:「多賀の社(やしろ)」愛知川からは東北に十キロメートル前後離れるが、滋賀県犬上郡多賀町多賀にある多賀大社のことであろう(グーグル・マップ・データ)。中世には多賀大明神として信仰を集め、何より、特に「長寿祈願の神」として信仰された点で老狐と老神木に強い親和性があるからである。ウィキの「多賀大社」によれば、『多賀社は特に長寿祈願の神として信仰された』。『鎌倉時代の僧である重源に以下の伝承がある。東大寺再建を発念して』二十『年にならんとする』六十一『歳の重源』(ちょうげん)『が、着工時に成就祈願のため』、『伊勢神宮に』十七『日間参籠』『したところ、夢に天照大神が現れ、「事業成功のため寿命を延ばしたいなら、多賀神に祈願せよ」と告げた。重源が多賀社に参拝すると、ひとひらの柏の葉が舞い落ちてきた。見ればその葉は「莚」の字の形に虫食い跡の残るものであった。「莚」は「廿」』(異体字に「卄」がある)『と「延」に分けられ、「廿」は「二十」の意であるから、これは「(寿命が)二十年延びる」と読み解ける。神の意を得て大いに歓喜し』、『奮い立った重源は以後さらに』二十『年にわたる努力を続け』、見事、『東大寺の再建を成し遂げ、報恩謝徳のため』に『当社に赴き、境内の石に座り込むと眠るように』して『亡くなったと伝わる。今日も境内にあるその石は「寿命石」と呼ばれている。また、当社の神紋の一つ「虫くい折れ柏紋」』『はこの伝承が由来である(今一つに三つ巴がある)』。天正一六(一五八八)年には、『多賀社への信仰篤かった豊臣秀吉が』「三年、それがだめなら二年、せめて三十日でも」と、母大政所の『延命を祈願し、成就したため、社殿の改修を行わせようと大名に与えるに等しい米』一『万石を奉納した』とある。
「荒川溪(あらかはだに)」不詳。但し、次注参照。
「萱尾(かやを)」不詳。先に出した東近江市萱尾町(かやおちょう)(グーグル・マップ・データ)は愛知川上流で、南東に有意に一山超えた位置で繋がらない。しかしながら、多賀大社の南西近くを流れる犬上川は渓谷を形成しており、その際上流には滋賀県犬上郡多賀町「萱原(かやはら)」という地名を見出せる(ここから南東に山を越えると「萱尾町」でもある)。
「餘殃(よあう)」使い方が微妙におかしい。これは「先祖の行った悪事の報いが、災いとなって、その子孫に残ること」を指すからである。
「竭(つ)き」この「竭」は音「ケツ」で「悉く・失くす・尽きる」の意がある。]
事ども、つまびらかに太閤に語り參らすれば、
「扨こそ。老狐の精に、疑ひなし。」
と、次の間にて、かの薪を燃(もや)したまへば、熟睡(じゆくすゐ/ヨクネイリ)したる少年、
「あ。」
と、叫ぶ聲して、年ふる斑狐(はんこ/マダラギツネ)、妻戶(つまど)、蹴(け)はなし、迯(に)げいづるを、村人ども、持ちたる斧(をの)にて、只、一刀(ひとかたな)に打殺(うちころ)したり。
太閤云く、
「かれが本形(ほんぎやう)をあらはさしめて、其詭辯を折(くじ)かんためなるに、千載を經たる靈狐(れいこ)を徒(いたづら)に殺したるこそ、便(びん)なけれ。」
とて、後(うしろ)なる山の麓に埋みて、しるしを殘したまひしより、里人、「狐塚(きつねづか)」と呼んで、今にありとぞ。
其後(そのゝち)、都も、すこし靜(しづか)ならんとせし故、太閤も歸洛を催したまひしが、
「社頭の古木をきりたることをも謝し參らせん。」
とて、多賀に詣(まふ)で、奉幣・神樂(かぐら)など、執行(とりおこな)ひたまひしとき、よませたまひけるとて、
多賀の宮たが世にかくはあとたれて
神さびにけりあけの玉垣
今に人口(じんこう)に殘れり。
蟄居したまひし所をも「公(きみ)が畑」とて、里人の、いみじき事に語り傳へ侍る。
都にかへりたまひしに、文明のはじめより、漸(やうやう)、靜謐(せいひつ)におよびしかば、「文明一統記」を著(あらは)したまひ、治亂の大略をしめし、後に入道したまひて、禪閤(ぜんかく)とぞ稱しける。
誠に命世(めいせい)の大才、不幸にして國家陽九(こつかやうきう/テンカノヤクドシ)の運に逢ひたまひしこそ遺恨なれ。
されば、博識は公(きみ)の長じたまふところにて、詩文は短なる所にや、世に傳ふるも、又、いとすくなし。「新續古今(しんぞくこきん[やぶちゃん注:底本・原本ともにママ。])」の序、紀行の詩など、漸く世に傳へたるのみ。
其後、太閤、常々、斑狐の事をかたりて嗟嘆(さたん)したまひ、日記等(とう)にも、しるしたまひしとぞ。
[やぶちゃん注:「かの薪を燃したまへば」ここは最後に都賀庭鐘、笑いを狙ったらしいが、如何にもショボい。千年の古木の杉とは言え、これは狐狸や穴熊を穴から追い立てて狩る野蛮な柴を燃やして煙りで燻し出す狩法そのまんまだからである。兼良の俗物性を駄目押しする効果はある。
「妻戶」家の端に設けた両開きの戸。
「狐塚」『蟄居したまひし所をも「公(きみ)が畑」とて、里人の、いみじき事』(天下の関白さまがお住まいになった格別なこと(場所)として)『に語り傳へ侍る』とともに不詳。残念、これが実在すれば、兼良の蟄居していたロケーションも限定できたのになぁ。
「多賀の宮たが世にかくはあとたれて神さびにけりあけの玉垣」都賀庭鐘が兼良のふりして作るとはちょっと思えないから、何かに兼良の歌として載っているのだろうとは思うが、判らぬ。識者の御教授を乞う。
「文明」は応仁三年四月二十八日(一四六九年六月八日)改元であるが、「応仁の乱」が終息するのは、文明九年十一月(一四七七年十二月)のことである。兼良は文明一三(一四八一)年没で、享年八十であった。
「文明一統記」教訓書。成立年未詳。兼良が第九代将軍足利義尚の求めに応じて、政治上の戒めを述べたもの。八幡大菩薩に祈念すべきこと、孝行・正直・慈悲・芸能を嗜むべきこと、政道を心にかけるべきことの六項目から成る。
「入道したまひて、禪閤(ぜんかく)とぞ稱しける」平凡社「百科事典マイペディア」では、文明五(一四七三)年に出家して、『失意のうちに死んだ。法名覚恵(かくえ)』とある。
「陽九」重陽なのに不審に思ったが、これは「陽九の厄(やく)」で、本邦の「ハレ」と「ケガレ」の両極が一致するのと同じく、中国の古代社会では、最大の陽気をシンボライズする最大の陽数である「九」や「九月九日」の「重陽」というのは、陽の気が強過ぎ、逆に不吉なものを呼び込む凶であるとして、実は最も注意を必要とする節気として選ばれていた一面があるようである。而してその禍々しき符牒としての「陽九」という漢語は、まさに「世界の終末を意味する陰陽家の語として存在したらしいのである。されば、腑に落ちる。
「新續古今」二十一代集の最後に当たる勅撰和歌集「新續古今和歌集」(しんしょくこきんわかしゅう:「ぞく」とは普通は読まない)。第六代将軍足利義教の執奏により、後花園天皇の勅宣を以って、権中納言飛鳥井雅世が撰進、堯孝が編纂に助力した。永享五(一四三三)年)八月に下命され、同十年に四季部奏覧、翌十一年六月に成立した。真・仮名序はとものこの一条兼良の筆になる。撰進のために応製百首(永享百首)が召され、宝治(後嵯峨院)・弘安(亀山院)・嘉元(後宇多院)・文保(同)・貞和(尊円法親王)度の百首歌も選考資料とされた。下命時の後花園院は当時十五歳の若年ながら、詩歌管弦の造詣深く、御製も多く伝わる好文の賢主として知られ、飛鳥井雅世は新古今選者の一人である雅経の六世の孫であり、庇護を受けた足利義教の推輓で選者の栄誉に浴した。二条派の入集が有意で、京極・冷泉派は皆無に近く、選者とその庇護者の態度が知れる。女流の入選は極めて少ない。選歌範囲は広く、「新古今」以後に重点をおきながら、各時代より入集している。なかでも「新古今」時代を尊重し、良経・俊成・定家・家隆及び後鳥羽・順徳両院が入集数の上位を占め、発意者である足利義教(十八首)以外にも武家方の歌が頗る多いのも特徴である。選者雅世の先祖の優遇も目立つ。後花園は再度の勅撰集計画も練っていたが、「応仁の乱」によって中断し、以後。遂に勅撰集は編まれなかった(以上はウィキの「新続古今和歌集」に拠った)。
「太閤、常々、斑狐の事をかたりて嗟嘆(さたん)したまひ、日記等(とう)にも、しるしたまひしとぞ」兼良の日記が残っているのか、いないのか、知らないが、流石に、もう、疲れた。調べる気は、ない。悪しからず。]