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2020/10/30

堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 蜜蜂

 

 蜜蜂

 

 蜜蜂は紀州の地にて多くかへば、世に「熊野蜂」などと、のぶるなり。信〔しな〕のゝ國は、山より山のかさなりて、秋の末つかたより、山々は雪ふりしきて、寒さも殊にはやければ、蜜蜂などの事は、考〔かんがへ〕たる人だにも、聞〔きき〕しれるもの、なし。まいて、人家に飼〔かひ〕たるは、見し事もあらず。

 近きころ、いづこよりか、來りけん、そこ爰〔ここ〕にむらがりあつまりぬ。はじめのほどは、

「人の害にやなるらんか。」

と燒〔やき〕ころしなどしつ。後には、

「是〔これ〕、蜜蜂なり。」

という事を知りてければ、箱など作りて、飼ことゝはなりぬ。

 文化卯の春の比〔ころ〕、

「夜ごとに、いづこともなく、音樂のおと、聞ゆ。」

と沙汰せり。

「いと、めづらか成〔なる〕事よ。」

と、いひ傅へのゝしる。「白紙物語」に、『是は西土〔さいど〕に鼓妖〔こえう〕と言〔いひ〕し事のありしも、是ならん』など、評せり。

 左〔さ〕にはあらず。かの蜜蜂のむらがりあつまり、或は、むらがりとびて、

「いんいん」

として聲をなすにそ有〔あり〕けん。其時、いまだ蜜蜂なる事をしらずして、「音樂」など、いひなせるなり。

 

[やぶちゃん注:本邦には日本固有種である膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属トウヨウミツバチ亜種ニホンミツバチ Apis cerana japonica が棲息しており、古くは紀州藩によるニホンミツバチの養蜂(養蜂が本邦で本格的に行われるようになるのは江戸時代になってからである)が行われてきたが、ニホンミツバチでは年に一回しか採蜜が出来ず、安定した収量が見込めないことから、ニホンミツバチを用いた養蜂は極めて少なくなってしまい、採取できる蜜の量が多い明治時代に導入されたセイヨウミツバチ(同種は旧世界での養蜂の歴史が長いために亜種が甚だ多いが、本邦の移入種の代表はミツバチ属セイヨウミツバチ亜種イタリアミツバチApis mellifera ligustica である)がすっかり席巻してしてしまい、ウィキの「ミツバチ」によれば、『ニホンミツバチは山間部などで細々と飼育された。ところが近年、セイヨウミツバチの大量失踪』(蜂群(ほうぐん)崩壊症候群(Colony Collapse DisorderCCD:原因不明。詳しくはウィキの「蜂群崩壊症候群」を見られたい。農薬によるミツバチの体内寄生する菌(キノコ)類が原因とする記事を見つけたが、それだけでは説明が出来ない現象である)『という現象が』世界中で発生しており、本邦でも事例があることから、『日本の気候に適した、寒さや害虫に強いニホンミツバチの養蜂が見直されつつある』。『セイヨウミツバチの繁殖力と蜜の採集能力の高さとニホンミツバチの日本の気候に適した、寒さや害虫に強い能力に注目し、セイヨウミツバチ(A. m. ligustica 及び A. m. iberiensis)』(後者はセイヨウミツバチの亜種で種小名から判る通り、イベリア半島(スペイン・ポルトガル)原産である)『とニホンミツバチ(Apis cerana japonica)を掛け合わせて、日本での養蜂に適した品種作りも検討されている』とある。

 辞書類では呆れるばかりだが、ニホンミツバチの独立項立てが殆んどない。ネット上では恐らくはサイト「ニホンミツバチ・養蜂文化ライブラリー」「歴史」「伝統養蜂・映像」が群を抜いて優れ、また、「日本財団 図書館」の『自然と文化』第六十七号の「特集 ニホンミツバチの文化誌」が生物学的考証や民俗誌としても非常に丁寧に書かれてあり、興味深く読める。それでも歴史部分はよく判っていないこともあり、後者では凡そ三パートほどに収まっている。一つは塚本学氏の「日本人のニホンミツバチ観」で、以下に引く。単なる孫引きにならぬように、私が途中に多数の補足注を附した。引用の範囲内を逸脱しているということで日本財団から指摘があれば、総て破棄し、引用に寛容な前者の「歴史」に差し替える用意はある。本引用に附した原本等へのリンクは相応に時間をかけてオリジナルに私が検証したもので、相応に資料的参照として価値があると思っている。著作権侵害として破棄する場合を考えると、興味を惹かれた方は保存されておいた方が無難である。

   《引用開始》

 日本で、動植物についての知識の記録化は、江戸時代中期にいちじるしくなる。日常的にこれに接触して生きてきたひとびとが文字世界に参入してその知見を著作者たちの利用に供し、支配層の都会居住者が各地の生業の場に興味をよせていったのである。

 「本朝食鑑」一六九七年)[やぶちゃん注:元禄十年。医師人見必大が書いた食物本草書。は、江戸城の庭園内で蜂を飼って蜜を採るのを楽しむことがあったかに記す。まとまったニホンミツバチ観察記録の最古の例であろう。巣箱の説明につづけて、「蜂王の座」と「群臣」がそれぞれの官職があるかのように「列座」するとした。多くの蜂が朝巣を出て、ひる頃花のしんやしべを持ち帰るが、入り口には二匹の大きな蜂がいて検査し、花をくわえないできた蜂を追い返す、逆らう蜂は他の多くの蜂によって刺殺されると記す。巣が風雨に侵されたり、人に絶えずのぞかれたり、汚物や虫類が巣に入ったりすると、すべての蜂は巣を捨てていなくなると注意してもいる[やぶちゃん注:それは最終巻の「蛇蟲類」の「蜜蜂」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここからで、江戸城云々は冒頭直ぐの「江都官家設蜂堂於庭上採蜜作戯其製用厚木板并四園以模大柱之内設部房」とあるのを指し、以下の説明もその後に記されてある。リンク先は原本であるが、訓点入りで読み易いので、是非、参照されたい。]

 蜂の分業等の観察成果にちがいないが、当時の人間社会にひきよせてその行動を解釈していることは否めず、怠け蜂の処遇などは、とくにひきつけ過ぎであろう。蜂の生態は洋の東西を通じて、ひと社会を連想させる面が多かったし、日本の観察者は、中国の文献、とりわけ「本草綱目」の圧倒的な影響を受けていた。一六世紀末に成立し一七世紀初にもたらされたこの本は、「礼記檀弓編」[やぶちゃん注:「らいき」「だんぐうへん」と読む。]の蜂は冠をつけているとの記事を引いて蜂に「君臣之礼」ありとし、また王は無毒で刺さないのは君の徳に似る、王を失えば群が潰れるのは臣の節義を示すなど、蜂の封建道徳を強く認めていた[やぶちゃん注:明の李時珍の本草書のチャンピオン「本草綱目」巻第三十九の「蟲之一」の「蜜蜂」の「釋名」には『時珍曰、蜂尾垂鋒故謂之蜂蜂有禮𧍙。範故謂之𧍙。「禮記云」、范、則冠而蟬有緌。「化書」云、蜂有君臣之禮是矣』とあり、『嗚呼、王之無毒、似君徳也。營巢如臺、似建國也。子復為王似分定也、擁王而行似衛主也。王所不螫似遵法也、王失則潰守義節也 』と珍しく感動詞を附して絶賛している!]。

 その「本草綱目」が一面で、蜂は花をとって小便で醸して蜜にする、臭腐が神奇を生ずるとした[やぶちゃん注:先の「蜜蜂」の前の「蜂蜜」の独立項に「時珍曰、蜂采無毒之花、釀以小便而成蜜、所謂臭腐生神奇也」とある。]。西洋の世界で蜜蜂が牡牛の死体から生まれたと長く説かれていたのを連想させる奇妙な説であった。「本朝食鑑」の少し後「大和本草」(一七〇八年)[やぶちゃん注:宝永四年。]が、これを明解に否定したのは中国本草学からの自立表現でもあったが[やぶちゃん注:私の後注参照。]、「後鶉衣」に載る「鳥獣魚虫の掟」(一七五九年)[やぶちゃん注:宝暦九年。俳人横井也有の俳文集「鶉衣」(うずらごろも)。但し、後編は誤りで「拾遺 下」の中にある。短いので、引く(所持する二〇一一年岩難文庫刊堀切実校注を底本とし、漢字を恣意的に正字化した)。『一 蜜蜂の小便、高直(かうぢき)に賣り候よし、諸方の痛みになりよろしからず候。向後は世間一統に、只(ただ)米六升ほどの積(せき)を以て相はらひ申べき事』。]という戯文では蜜蜂を小便売りに擬していて、世間ではなおこの説が一般的だったようだ。「家蜂畜養記」(一七九一年)[やぶちゃん注:寛政三年。](「古事類苑」所引)は、紀伊の養蜂家出身者の著作のようで、暮春から仲夏までの間、快晴の日の夕刻近く巣を出て騒ぐ「八時噪」という現象とこれについでみられる分封活動、新しい巣の収容法、分封数の予測法、外敵に襲われた蜂の戦い等々のくわしい記述とともに、蜂が不潔なものに集まるのも、蜂の足に人の尿がついたのも見たことがないとし、小便で蜜を醸す説を強く否定した[やぶちゃん注:「家蜂畜養記」のそれはかなり長い。「古事類苑全文データベース」こちら(「八時噪」で検索されたい)で電子化したものと、原本画像(PDF。続きはアドレスの数字を増やせば見られる)が読める。その下には一部であるが、「日本山海名産圖會」の冒頭部分も電子化されてある。]

 「家蜂畜養記」の筆者は、蜜蜂に君王ありという古人の言を始め疑ったが実見して信じるようになったと記す。文献や擬人化への依存から自由な観察者で、養蜂家の実務に応じた知識の普及に力を入れた。だがそこでも、分封後の蜂がもとの巣に戻ることは許されず、誤って入るものは殺される、「執事の臣」が王命を行うので法は厳しいなどとする。「虫の諌」(一七六二年)[やぶちゃん注:宝暦十二年。京都の漢詩人江村北海の著になる和文の戯文。虫に仮託した人間社会批判となっている。]と題する本が、蜂を「代々帯刀の武職」としながら、「口にあまき蜜ありて腹にするどき剣をかくす」「才ありて徳なき生まれ」とするなど、「後鶉衣」の例と同様、戯文類が蜂にきびしいのに対して、まじめな観察者の方が蜂に封建道徳を認める傾向が強い。

 「家蜂畜養記」が刊行されずに終わったのに対して、「日本山海名産図会」(一七九九年)[やぶちゃん注:中略。ここには参照が指示されてあるが、原雑誌ノンブルなのでよく判らぬ。恐らくは「◎蜜桶◎」パートであろう。]は、綿密な観察の成果を広く読書人たちの場に普及させた。「八時噪」の記載など「家蜂畜養記」と重なるところも多く、紀州熊野での観察が中心のようだが、諸国の養蜂にも目を向ける。蜂の分業について、「多く群れて花をとる物は巣を造らず、巣を造るものは花を採らず、時に入替りて其役をあらたむ」ことにも注意する。黒蜂十ばかりを「細工人」と呼ぶが、その職掌に花を持たずに帰った蜂を監査して従わないものを刺し殺すとするのは「本朝食鑑」説によったのであろうか[やぶちゃん注:「日本山海名産図会」のそれは早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本第二巻PDF)の14コマ目以下の「○蜂蜜」を参照されたいが、花を持たずに帰った蜂を監査し、不服従の個体を刺し殺すというのは、19コマ目の六行目に出る。]

 日本列島に人類の生活がはじまった頃には、すでにそこにはニホンミツバチが棲息していて、蜂たちは蜜をつくっていたにちがいない。食材を求めて山野の動植物に鋭い目を向けたひとびとが見過ごすわけはなく、蜂蜜の採取は縄文時代以前にはじまっていたろう。養蜂のはじまりはずっと遅れ、その地域は限られていた。紀州熊野をはじめとして各地の養蜂生産が記録されていった江戸時代にも、養蜂によらぬ蜜の採取も行われていた。「本草綱目」での、石蜜・木蜜・土蜜と家蜜という分類がこれに相応し、「大和本草」が木蜜以下の三つは蜜として同一としたように、野生の蜜蜂の巣を採っての養蜂は、分封の巣の採取育成技術と通じたろう。「家蜂畜養記」は、南方は温暖で家蜂があり、寒い北方には土蜂があるが、よく養えば「土蜜」も「家蜜」のようになろうと期待し、「日本山海名産図会」は、山蜜・家蜜に二区分して山蜜の方が濃厚で良いとするとともに、土を深く掘って巣を作る土蜂の一種にも蜜があり、南部地方でこれをデッチスガリというとの記述を残す。自然界に利用すべき生物を求めるうごきはこの時代にもつづいていた[やぶちゃん注:以上は既に私がリンクを張ってあるもので総て原本が読める。]

 「栗氏千虫譜」(一八一一年)は、凶年には無能の「黒蜂」が多くまじり生ずることがあり殺さねばならない、これは「土蜂ニアヤカリテ」生ずるものであるとの記述も残す[やぶちゃん注:栗本丹洲の名品「栗氏千虫譜」の巻頭を飾る、蜜蜂や養蜂を図入りで示すそれの、「ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)の左頁の後ろから五行目以降に書かれてある。本篇は図を含めて非常に素晴らしい。是非、画像を繰って、冒頭から味わって戴きたい。]。一八世紀末にも、将軍家や紀州家の江戸の庭中に蜜蜂が飼育されていた。筆者はそこからの知見も生かし、その分業状況を図のように認識していた。養蜂術の面からも、それぞれの役割変更やこれと「土蜂」との関係など、観察力はなお問われねばならず、それがニホンミツバチの範囲についての理解にも通じたろう。だが、多くの虫について記録したこの大著で、蜂の記述を冒頭に置いたのは、群臣が君命を守り、子が父の令を受け、孜々[やぶちゃん注:「しし」。熱心に努め励むさま。]として蜜を醸すに勤め苦辛することは人倫以上という瑞奇を人に知らせるためであった。

 自然界の動植物に日常的に接していたひとびとの知識と、中国文献による知識とを接合させる試みが、江戸の博物学、日本人の自然知識を高めていったが、文字知識によって実地の観察がまげられる場面もあった。ニホンミツバチのばあい、その行動が封建倫理に適合するかにみえたことの呪縛が、これと別に大きな力をもっていたのである。ただし、金銀を掘り出す鉱山労働者の辛苦を、蜜をあつめる蜂の身の上と同じとした「日本山海名物図絵」(一七五四年)のように、人間社会との類推には別なみかたがあったことも注意されねばなるまい。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

次に、佐々木正己氏の「ニホンミツバチの生態」のニホンミツバチのルーツの記載(学名を斜体に直し、一部の学名や命名者英文で前後を半角空けた)。

   《引用開始》

 ニホンミツバチは日本でただ一種の在来種ミツバチで、北海道を除く日本全土の山野に広く分布している。導入種のセイヨウミツバチがヒトの飼養下にあり、我が国では野生状態で系統を維持している個体群はないのと異なり、飼われているものでも野生状態のものと変わらない。野生個体群の一部が、一時的に伝統的な巣箱で飼養されてはまた山野に戻ることを繰り返している。

1 ニホンミツバチはどこから来たか?

 ニホンミツバチ(Apis cerana japonica Rad.1887)は、分類学上はトウヨウミツバチ(Apis cerana)の一亜種である。アジアにおけるミツバチの分布を図[やぶちゃん注:中略。リンク先を参照されたい。]に示したが、その中でキナバルヤマミツバチやクロオビミツバチは、島や高地に隔離される形で局地的に分布しているのに対し、日本亜種を含む cerana の分布は、熱帯アジアから日本までと実に広い。それはセイヨウミツバチが、西に分布を広げ、ただ一種でアフリカ南部から欧州北部にまで分布しているのと、ちょうど対比される[やぶちゃん注:中略。表有り。リンク先を参照のこと。]。

 では同じ熱帯起源でありながら、なぜセイヨウミツバチとトウヨウミツバチの二種だけが、下北半島のような寒冷の地までを住処とすることができたのであろうか?

 それは熱帯のミツバチが、ただ一枚の巣板を開放空間に作るのに対し、二種は、1.木のうろなどの閉鎖空間に居を求め、2.巣板を複数並べて配置することにより高い保温効率を獲得し、3.長い冬を乗り切るための多量の蜜を貯蔵する性質を獲得したからである。

 日本列島が大陸から隔離されるプロセスは、今から数万年前までの幾度かの間氷期に進んだ。ニホンミツバチはその隔離後、大陸の cerana から区別しうる固有の集団になったと考えられる。日本がまだ朝鮮半島を通じて大陸と地続きだったころ、ミツバチが自由に行き来していたであろうことは、韓国やタイなどの cerana とニホンミツバチとがきわめて近縁であることから想像される。ミトコンドリアDNAの類似度を調べた Smith1991)の結果では、日本とタイのものが近く、最近の Deowanish1997)によれば、韓国と日本のものが大変近い。対馬産のものは本州、四国、九州産のものとは区別され、むしろ韓国の cerana に近いようである。ニホンミツバチの祖先がフィリピンルートで入って来た可能性は、台湾の cerana が日本産のものと大きく異なること、南西諸島に棲息を示す確かな証拠がないことから低い[やぶちゃん注:韓国に分布するトウヨウミツバチとニホンミツバチは近年のDNA解析によって種として近いことが判っている。後の荒俣宏氏の引用中に附した私の注を参照されたい。]

 結局ニホンミツバチは「大陸の cerana が陸橋を通り、現在の西南日本に入り、下北半島まで北進し、北海道には入れなかった」と見るのが適当と考えられる。

   《引用終了》

次に、やはり同じ佐々木氏の「2 ニホンミツバチによる旧式養蜂の歴史」である。

   《引用開始》

 ニホンミツバチによる養蜂がいつ頃から行われていたかは定かでない。文献上で「蜜蜂」の語が初めて用いられたのは「日本書紀」(大日本農史、明治十年)とされる。「百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚をもって三輪山に放ち飼う。しかれどもついに蕃息らず」という記載(六四三年)で、百済の人が奈良の三輪山で養蜂を試みたが、失敗に終わったという記録である。しかし実際にニホンミツバチのことを描写していると思われる記述はこれより少し前、同じ「日本書紀」の六二七年の項にもでてくる[やぶちゃん注:後の荒俣宏氏の引用中で私の注で原文を示す。]

平安時代に入ると諸国から宮中への蜂蜜献上の記録が見られ、当時すでに各地でニホンミツバチが飼われていたことが推察される。平安時代も末期になると、貴族[「今鏡」(一一七〇)の藤原宗輔]や庶民の間(「今昔物語」平安後期の成立)でもミツバチが飼われていた姿が描かれている[やぶちゃん注:「今昔物語集」の知られたそれは、巻第二十九の「於鈴香山蜂螫殺盜人語第三十六」(鈴香(すずか)の山にして、蜂、盜人(ぬすびと)を螫(さ)し殺せる語(こと)第三十六)。「やたがらすナビ」のこちらで全文が読める(新字体)。但し、この水銀商人は、自宅で酒を造っては、ひたすら、蜂に呑ませて大切に祀り飼っていたそれを、二百匹も呼び出して襲わせ、八十余人の盗賊は、その蜂に刺されて悉く死んだとあるからには、ちょっとニホンミツバチとは思われない。敢えて比定するなら、オオスズメバチの可能性が高いように私には読める。但し、ヒトがオオスズメバチを飼い馴らすというのは聴いたことがなく、嘘臭い。]。

 養蜂が本格的に行われるようになったのは江戸時代に入ってからで、蜂の生態観察も飼養技術も飛躍的に進んだ。貝原益軒は「大和本草」(一七〇九年)の中で、ハチミツを採蜜場所により、石密(山の岩場の割れ目などに営巣した巣から採取した蜜)、木蜜、土蜜、家蜜に分類したりしている。生態にも詳しい最初の養蜂技術書は久世敦行の「家蜂畜養記」で、蜂王および王台、巣箱の作り方、巣箱の台の高さ、巣箱を置く場所、闘争、分蜂、雄蜂、巣虫、採蜜法、製蝋法、の十項目からなる渡辺、一九八一)。挿図が良く、広く読まれたのは木村孔恭の「日本山海名産図会」(一七九九)であるという。造巣をする内勤蜂と採餌をする外勤蜂とを区別しており、分蜂の記載も詳しい。小野蘭山の「本草綱目啓蒙」(一八〇三)からは、蜂蜜は全国各地で生産されたものの、薬店ではすべてが熊野蜜の名で売られていた、という当時の状況が読みとれる。

 日本の旧式養蜂を大成させたのは、和歌山県の貞市右衛門(一八二五~一九〇四)といってよい。伝記(松本保千代編 一九五九)によると、巣箱の規格化を実行して数百群を飼い、小規模ながら移動養蜂まで試みている。私は一九九〇年、有田市の貞家を訪問し、群数や蜜の収量、売買のすべてを記録した大福帳を見せて頂き、当時の様子を実感することができた。それによると、翁晩年の一八八二から一九〇二年までの二十年間に、延べ三、六二九箱から一群あたり四・七キログラムもの蜜を採取している。これは現在のセイヨウミツバチによる商業養蜂の数字と比べれば五分の一程度であるが、ニホンミツバチとしてはすばらしい数字である。

 図[3][やぶちゃん注:略。リンク先を参照。]は一八七二年、オーストリアで開かれた万国博へ出品するために編纂された「蜂蜜一覧」の一部である。これはニホンミツバチによる旧式養蜂の総決算ともいうべきもので、分蜂群を収容するときに蜂を静めるための桶の水、五段重ねの継ぎ箱、蝋を分離する工夫など、感心させられる記載が随所にみられる。

 この「蜂蜜一覧」の後間もない明治八年、ドイツの養蜂技術が日本に紹介され、同十年、セイヨウミツバチ群が初めてアメリカ経由で日本に導入される。その後日本の養蜂は導入セイヨウミツバチを用いた近代化への道を歩み、ニホンミツバチは農家の庭先で昔ながらの方法で飼われる程度となってしまった。しかし一方、そのために、伝統的な飼い方が今に残ることになったともいえる。

   《引用終了》

これで概ね日本に於ける蜜蜂観とニホンミツバチの歴史が判ったが、以下、それらと重複する部分もあるが、纏まった刊本記載であり、以上の記載の補填相当部もある、所持する荒俣宏氏の「世界博物大図鑑 第一巻 蟲類」(一九九一年平凡社刊)の「ミツバチ」の項から、本邦に関わる部分を引用する(ピリオド・コンマを句読点に代えた)。

   《引用開始》

 《曰本書紀》皇極天皇2年(64311月の条によると、この年、百済の太子の余豊竹がミツバチの巣4枚を、三輪山で放し飼いにした。しかしうまく繁殖しなかったという。俗にこれは曰本における養蜂の起源といわれるが、亡命中の太子が占いをするためにミツバチを放したという説もあって、そのあたりははっきりしない[やぶちゃん注:荒俣氏は「11月」と書いてあるが、これは十一月の条の後に書かれているだけで、この皇極天皇二(六四三)年のこの年に、という意味であって、十一月の意ではない。以下である。『是歲。百濟太子余豐以密蜂房四枚、放養於三輪山。而終不蕃息』とあり、最後の「蕃息(ばんそく)せず」というのは「繁殖しなかった」の意と読める。但し、彼が放ったのは百済から持ち来ったミツバチと思われ、近年、DNA解析によって基亜種であるトウヨウミツバチ Apis cerana cerana の中でも現在の韓国に棲息する群と近縁であることが判明しているから、或いは、この時の一部が生き残り、本邦のニホンミツバチに遺伝子を残している可能性はゼロとは言えないと私は思う。]。

 曰本の山間部では古く、大木の中をくりぬいて〈蜂洞勁〉[やぶちゃん注:「蜂洞」だと「はちどう」と読むことが確認出来るが、ここは「ほうどうけい」と読んでおく。]という巣箱をつくり、そこにハチの群れをすまわせた。ちなみに原淳氏は。〈蜜蜂今昔〉(《虫の曰本史》所収)という一文のなかで、百済の太子は、三輪山にこの〈蜂洞〉を4つ置いたのではないか、という新説を提唱している。というのも、《曰本書紀》にはこのくだり、〈蜂房四枚〉とある。そして〈枚〉には〈幹〉の意昧もあるからだ。

 ちなみに《曰本山海名産図会》には、ミツバチの野生種の捕獲法が記されている。すなわち、桶や箱に酒や砂糖水を入れ、蓋に孔をたくさんあけて、大木の洞穴にあるハチの巣のそばに置いておく。すると、ハチが自然に容器に移ってくるので、それをもち帰って蓋をかえ、軒や窓にかけておくのだという。

 いっぽう養蜂については、日本でさかんになったのは江戸時代からである。ソバの花がしぼむときが、蜜を採取する目安にされた。採る方法は、まず巣箱の蓋を軽く叩く。するとハチが巣の後ろに逃げこむので、そのとき巣の3分の2を切りとるのである。そして巣をしぼる。こうして巣を3分の1残しておくと,ハチはまた巣をもとのようにつくりなおす。だから同じ巣から何度も蜜がとれたという。

 ミツバチは、巣の温度が高くなると、いっせいに外に出て、はねをあおいで風を送り、巣の温度を低下させる習性がある。日本では、この作業がだいたい午後2時から3時ころ、つまり八ツ時に行なわれることから、これを〈八ツさわぎ〉とよんだ(《日本山海名産図会》)[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本第二巻PDF)の20コマ目の右七行目を参照されたい。]

 なお西洋から技術を導入しての養蜂は1877年(明治10)より始まる。新宿勧農局に、セイヨウミツバチ6群が初めて移入された。

 なお江戸時代には、砂糖と朝鮮飴(熊本県名産の飴菓子)をまぜて、にせの蜂蜜がつくられた。これについて、《和漢三才図会》には、真蜜は黄白だが、にせの蜜は色が黒くて乾きやすい、とある[やぶちゃん注:これについては、私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜜」の電子化注を参照されたい。]

[やぶちゃん注:中略。以下は「蜂蜜」の項となるが、初めのパートが古代エジプト及びローマその他の西域の主記載である。以下、本邦と本草学で強く関連する中国の部分から引用を再開する。]

 中国でも、古くからミツバチを飼養して、その蜜を食料とした。ただし明末の崇禎10年(1637)に書かれた宋応星《天工開物》によると、山ぎわの崖や土穴の巣にある蜜をとるのが8割で、家で採取する蜜の量は、全体の2割にすぎない。

 中国人は古来、崖の上や洞窟につくられたミツバチの巣から、蜜を採取する風習を守ってきた。長い竿を巣房に突きさして蜜をだし、それを竿に伝わらせて、下にある容器で受け取るのである。陣蔵器《本草袷遺》によると、多いときは3~4石(540720ℓ)も採れるという。また同書では、薬用にはこの蜜が最良だとされている。

 陶弘景によれば、ミツバチは、種々の花を人尿で醸成し、蜂蜜をつくるのだという。いっぽう李時珍は、大便を用いて醸成するとして、〈臭腐神奇(しゅうふしんき)を生む〉とはこのことだ、と《本草綱目》で述べている。また《天工開物》の著者宋応星は、人尿説を支持した。

 おもしろいのは尚秉和[やぶちゃん注:しょうへいわ。清末期から中華民国時代の易学者。以下は一九三八年刊。]《中国社会風俗史》である。中国の蜂蜜は。西洋のものよりずっと甘い。醸成する期間が長いからである。西洋のは、蜜ができるとすぐ採取してしまうので、味がひじょうにうすいという。

 《本草綱目》によれば、同じ蜂蜜でも新しい蜜は希薄で黄色、古い蜜には白い結晶質が含まれている。蜜としては古いほうが上等、したがって中国では前者を偽蜜、後者を真蜜とよんで区別した。同書には〈およそ蜜の真偽を試験するには、火筋を紅く焼いて中に挿入し、それを引き上げて見て、気が起こるものならば真物、烟(けむり)が起こるものならば偽物である〉としている。

 曰本ではミツバチに関する知見を、中国からの受け売りと独白の伝承とをミックスさせてつくりあげた。たとえば《和漢三才図会》には、中国の本草書の考えがそのまま引きつがれ、ハチは花を小使で醸して蜜にする、とされた[やぶちゃん注:先と同じく、私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜜」を参照されたい。]。しかし貝原益軒は《大和本草》でこの説を初めてはっきりと否定、ハチは花を巣に運んできて、それを巣に塗りつけて蜜をつくるのだ、と述べた[やぶちゃん注:中村学園の「貝原益軒アーカイブ」の「大和本草」の「陸蟲 蟲之下」PDF)の「蜂蜜(はちみつ)」を参照されたい。長い記載で、冒頭は13コマ目から開始されるが、この否定記載は15コマ目の左ページ後ろから二行目の箇所から始まり、16コマ目にかけて記されてある。]

 《延喜式》典薬寮の〈諸国進年寮雑薬〉には、蜜・蜂房があげられている。ただし原淳《ハチミツの話》によると、この蜜は、養蜂によってつくられたものではなく、天然のものだったらしく、量もあまり多くなかった。

 《曰本山海名産図会》には、蜂蜜は〈紀州熊野を第一とす〉とあり、さらに〈芸州是につぐ、其外勢州、尾州、土州、石州、筑前、伊予、丹波、丹後、出雲などに、昔より出せり〉と記されている[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本第二巻PDF)の16コマ目の「蜂蜜」冒頭の二行目を参照されたい。]

 蜂蜜の産地について、貝原益軒《大和本草》には〈土佐ヨリ出ルヲ好品トス〉とある[やぶちゃん注:先のデータ14コマ目八行目を参照。]

 《本朝食鑑》では、ミツバチが関東にもまれに見かけられる、と記される[やぶちゃん注:人見必大のそれは最終巻の「蛇蟲類」の「蜜蜂」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここの右頁七行目の「江東亦希見ㇾ之」がそれ。]

 日本でも、山奥の崖にあるハチの巣から、熟した蜜を採ることも行なわれた。その場合、長い竿を巣に突きさして、蜜を流しとったという。また、巣ができてから曰が浅く、蜜が熟していないものも、よじのぼってとった(《日本山海名産図会》)[やぶちゃん注:先のデータ20コマ目の左ページ六行目を参照。]

   《引用終了》

「文化卯の春」文化四年丁卯(ひのとう)。一八〇七年。この年の旧暦一月一日はグレゴリオ暦二月七日、旧暦二月一日は三月九日、旧暦三月一日は四月八日である。

「夜ごとに、いづこともなく、音樂のおと、聞ゆ」これは即座に想起する実話笑話がある。「耳囊 卷之三 聊の事より奇怪を談じそめる事」である(原文と私の注及び現代語訳有り)。私はそこで正体のハチをニホンミツバチと同定した。事件は安永の初めである。安永年間は西暦一七七二年から一七八一年で、ここで信濃でニホンミツバチの群れ(時期的に見て確かに分蜂する頃である)が確認されたのより、三十年余り前である。私はその同定比定を今も変えるつもりはない。第一、前に見た通り、「本朝食鑑」一六九七年)では百年以上前に江戸城内庭園で養蜂が行われていたとあるのだから。

「白紙物語」読み不詳。「しらがみものがたり」と読んでおく。底本の向山雅重氏の補註に、話者『元恒の叔父吉川鸞岡』(「らんこう」と読んでおく)『が見聞を記したもの。鸞岡』(宝暦九(一七五九)年~文政三(一八二〇)年)『は、吉川崇広の次男、家を継ぎ』、『医を業とし、かたわら俳人として活躍、医号を養性、俳号を鸞岡。父の代よりその居を白紙関(現、長野県伊那市伊那郡)と名づけ、風流のひと作を示さざればここを通さなかったという』とある。

「西土」ここは中国。

「鼓妖」清の紀昀が著した文言志怪小説集「閱微草堂筆記」の巻八の「如是我聞 二」の以下。

   *

姚安公又言一夕。與親友數人。同宿舅氏齋中。已滅燭就寢矣。忽大聲曰巨炮發於床前。屋瓦皆震。滿堂戰慄。噤不能語。有耳聾數日者。時冬十月。不應有雷霆。又無焰光衝擊。亦不似雷霆。公同年高丈爾炤曰。此為鼓妖。非吉徵也。主人宜修德以禳之。德音公亦終日栗慄慄。無一事不謹愼。是歲家有縊死者。別無他故。殆戒懼之力歟。

(姚安公(てうあんこう)、又、言はく、「一夕、親友數人と與(とも)に、舅氏の齋中[やぶちゃん注:書斎。]に同宿す。已に燭を滅(け)して就寢せんとす。忽ち、大聲、巨炮の曰ふがごとく、床の前に發す。屋の瓦、皆、震ふ。滿堂、戰慄し、噤(ごん)して[やぶちゃん注:黙ったままで。]、語る能はず。耳の聾すること、數日たる者も有り。時に冬十月、應(まさ)に雷霆の有るべからざるべく、又、焰光、衝擊も無く、亦、雷霆に似ず。公と同年なる高丈爾炤(こうじやうじしやう)が曰はく、『此れ、鼓妖なり。吉徵に非ざるなり。主人、宜しく德を修め、以つて、之れを禳(はら)ふべし』と。德音公も亦、終日、慄慄として、一事をも謹愼せざる無し。是の歲、家に縊死せる者は有るも、別に他に故(こと)無し。殆んど戒懼の力[やぶちゃん注:過ちを犯さないよう気をつけよという霊的な力による戒め。]なるか。)

   *

この話、如何にも辛気臭い載道的(日本で言う道話)な怪談で気に入らぬ。「鼓妖」は怪声を発する妖物で、「春秋左氏伝」や、「漢書」の「五行志」に出る古い妖獣ではある。]

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