北原白秋 邪宗門 正規表現版 魔國のたそがれ
魔 國 の た そ が れ
うち曇(くも)る暗紅色(あんこうしよく)の大(おほ)き日の
魔法(まはふ)の國に病(や)ましげの笑(ゑみ)して入れば、
もの甘(あま)き驢馬(ろば)の鳴く音(ね)にもよほされ、
このもかのもに惱(なや)ましき吐息(といき)ぞおこる。
そのかみの激(はげ)しき夢や忍(しの)ぶらむ。
鬱黃(うこん)の百合(ゆり)は血(ち)ににじむ眸(ひとみ)をつぶり、
人間(にんげん)の聲(こゑ)して挑(いど)み、飛びかはし
鸚鵡(あうむ)の鳥はかなしげに翅(つばさ)ふるはす。
草も木もかの誘惑(いざなひ)に化(な)されつる
旅のわかうど、暮れ行けば心ひまなく
えもわかぬ毒(どく)の怨言(かごと)になやまされ、
われと悲しき歡樂(くわんらく)に怕(おそ)れて顫(ふる)ふ。
日は沈み、たそがれどきの空(そら)の色
靑き魔藥(まやく)の薰(かをり)して古(ふ)りつつゆけば、
ほのかにも誘(さそ)はれ來(きた)る隊商(カラバン)の
鈴(すず)鳴る……あはれ、今日(けふ)もまた恐怖(おそれ)の豫報(しらせ)。
はとばかり默(つぐ)み戰(をのの)くものの息(いき)。
色(いろ)天鵝絨(びろうど)を擦(す)るごとき裳裾(もすそ)のほかは
聲もなく甘く重(おも)たき靄(もや)の闇(やみ)、
はやも王女(わうぢよ)の領(し)らすべき夜(よ)とこそなりぬ。
四十一年八月
[やぶちゃん注:「鬱黃(うこん)」「鬱金」はこうも書く。ウコン色。鮮やかな黄色。黄金色(きんいろ)。
「怨言(かごと)」「託言(かごと)」。古語で「不平・愚痴・恨みごと」の意がある。]
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