堀内元鎧「信濃奇談」始動 /序・信濃奇談 卷の上 諏訪湖
[やぶちゃん注:堀内元鎧(げんがい)の伊那郡を主とする奇談奇話を集めた「信濃奇談」(上・下二巻)の電子化注を起動する。底本は一九七〇年三一書房刊「日本庶民生活史料集成」第十六巻「奇談・紀聞」の教師で郷土史家・民俗学者向山雅重(むかいやま まさしげ 明治三七(一九〇四)年~平成二(一九九〇)年:長野県上伊那郡宮田村生まれ)氏校訂本を用いる(親本は中村元恒(後述)の後裔の中村家から高遠信徳図書館に寄託された信濃地誌「蕗原拾葉(ふきはらしゅうよう)続」)の巻百六十二・百六十六]。但し、参考校合として早稲田大学図書館「古典総合データベース」にある「信濃奇談」版本を使用した。底本にはルビが殆んどなく、参考底本にもそれ以上のものはないため(それは丸括弧で添えた)、一部の読みに迷ったものは推定で歴史的仮名遣で〔 〕を以って読みを振った。また、濁点落ちの部分が多く、読み難いため、適宜、濁点を補い、また、読点や記号も増やし(句読点は一部で底本のものを変更した)、段落も成形した。踊り字「〱」は正字化或いは「々」とした。筆者によるポイント落ち割注は【 】で本文と同ポイントで示した。歴史的仮名遣の誤りはママであるが、五月蠅いだけなので、基本、指示していない。
本書は向山氏の解題によれば、堀内元鎧(文化四(一八〇七)年~文政一二(一八二九)年:享年二十三歳)が、その父で高遠藩儒者(教授職)・医師・歴史家であった中村元恒(げんこう 安永七(一七七八)年~嘉永四(一八五一)年:号は中倧(ちゅうそう))が語った内容を実子であった元鎧が筆録したものである。元鎧は上穂(現在の長野県駒ケ根市赤穂。グーグル・マップ・データ)に生まれ、『父が高遠藩の儒者となってからは叔父の玄三について医を修めた。業成って、かつて中村家の出である松本の堀内家を嗣ぎ、玄堂の義子となった』が、『次の年の秋病となり、翌文政十二年二月病』いのため、夭折した。本書は『その死を悼んで、父元恒が』『出版したもので、その序文と、巻末に附せられた「堀内玄逸墓表」とによって、本書の成立と、逝』(ゆ)『いた愛児を悼む父の心持がよく出ている』。元恒の出である『中村家は、代々、医を業としていたので、元恒は父に』就いて、『医をならい、高遠藩阪本天山に儒を学んだが、後、京都に上り、猪飼敬所』(いかい/いがいけいしょ)『に儒を、中西鸞山に医を学んだ。文化五(一八〇八)年大出村(現、長野県上伊那郡箕輪町大出)に』て『医を業とするとともに、易の研究を進め』、その傍ら、『郷土資料の蒐集に心かけた』。『ここにあること』、『十七年』にして、『その名声』の『あがるとともに、文政七(一八二四)年』、『高遠藩主の招きをうけ、ついに、藩儒に列し、儒学教授とともに、医家を督することとなった』。『元恒の学は、天山の古文辞学を祖述したものであって、治国平天下、救世済民を目的とし、安民長久の実用的な学問でなければならないとした』。『時』、『あたかも募末、藩財政窮迫の時代、ことに高遠藩は極度に財政が窮乏したため、藩士は食禄を減ぜられ』、『生活が困窮してきた。そのため』、『藩士らの一部に、その救済策として開墾事業を興すよう』、『連署して藩に請願したものかあった。ところが、士たる者が、百姓の真似をして生活を豊かにしようなどということは恥ずべきことだという当事者の意見のためにその請願は却下され』、『しかも、その請願の士の多くは元恒の門人であったので、藩士にこの挙のあるは』、『教授の責任だとし、元恒の禄を半減し、一家を入野谷の黒河内村泉原(現・長野県上伊那郡長谷村黒何内)』(現在は伊那市長谷黒河内(はせくろごうち)。グーグル・マップ・データ)『に流し、親威故旧との文通をも禁じた。時に嘉永二(一八四九)年』、『元恒七十二歳』の時であった。『そしてここに在ること二年、嘉永四年九月』、『病んでこの地に歿した。享年七十四歳』であった。晩年の不遇は胸を撲つものがある。『元恒の蔵書は、二千二百余種、一万一千余巻。儒学関係の註釈等の著述も多く、また、歴史書の蒐集、ことに、郷土関係の文献を収集した「蕗原拾葉」は五十四冊百五十巻。後、元恒の子元起が続篇として集めたものを合せると、計五百二十二巻を成している郷土文献の大集成であ』った。『「信濃奇談」の筆録者堀内元鎧』は『人となり、貞信懿実』(いじつ:心から誠実で麗しいこと)、『口に他人の過悪を言わず、よく継母、義父母に仕えて、皆の感賞するところであった。祖父淡斎に似て俳諧を好み、病篤くなるや、得意の一句をしたためて瞑目した』。『没後、その遺篋』(いきょう)『の中に「信濃奇談」の筆録があった。これは、元恒の説くところの小言隻語までもかならず述べて遺さない』ものであり、『これは元恒の選述したところであるが、元鎧の力によるものであると、父元恒は記している』とあり、底本の親本には『頭註のほかに、上木後に書入された註、ならびに補遺のほとんどか、明らかに元恒の筆蹟のものが多い。つまり、元恒の手沢本を、元起』(元恒の今一人の子。『父と共に在ったが』、父の死から二年後の『嘉永六年、謫居を解かれて藩に出仕、後、江戸に出て昌平黌に学び、林学斎の援をうけ、帰って万延元(一八六〇)年藩学校進徳館を開いた』とある)が、「蕗原拾葉 続篇」へと『編入したことがわかる』とある。最後に『本文の内容は、どの項目にも、和漢の多くの文献を引用して考証しており、元恒の科学的態度のうかがわれるものか多い』と評されておられる。]
信濃奇談 序
予爲家人時東走西奔專從事醫業以糊口妻子傍隆好文藝乎不得暇隙每以爲憾兒元鎧在膝下以纉吾志述吾事於是吾業有達也盖我信濃之地里老所傳鄙說奇談頗有類齊東野語者予徵諸史書一々爲之解說元鎧隨而錄之名曰信濃奇談玆己丑二月元鎧沒偶探遺篋中得之是雖予之所撰述皆元鎧與焉有力可見余之所言小言隻語必述而不遺可謂其意能勤爲子之道今也逝矣悲哉予亦不遺其志傳之世以慰其魂耳
文政己丑仲春 中邨元恒撰
㊞ ㊞
中村直薰書
㊞ ㊞
[やぶちゃん注:最後のクレジットと署名は原本(早稲田大学図書館「古典総合データベース」第一巻PDF)を参考にポイントと位置を配した。実父元恒の序文。書の「中村直薰」は不詳。中村家の相応の書家であったか。「文政己丑仲春」とあるから、まさに元が鎧亡くなったその月の内にこの序文を記していることになる。訓読を勝手流で試みる。
*
予、家人の爲に、時に、東走西奔し、專ら醫業に從事し、以つて妻子の糊口とす。傍ら、文藝の隆好するや、暇(いとま)を得ず、隙(すき)每(ごと)に、以爲(おもへら)く、
「兒(こ)の元鎧、膝下(しつか)に在るを憾(うら)み、以つて、吾が志しを纉(つ)ぎ、吾が事を述べ、是に於いて、吾が業(げふ)、達する有るなり」
と。
盖(けだ)し、我が信濃の地、里老、傳ふる所の、鄙說・奇談、頗る類(るゐ)有り。齊東野語(せいとうやご)は、予が、諸史書に徵(ちよう)して、一々、之れの解說を爲(な)す。元鎧、隨ひて、之れを錄し、名づけて曰はく、「信濃奇談」。
玆(ここ)に己丑(つちのとうし/きちう)二月、元鎧、沒す。
偶(たまた)ま、遺篋(いきやう)の中(うち)を探るに、之れを得(う)。是れ、予の撰述する所と雖も、皆、元鎧と與(とも)にせり。余の所言、見るべき力はあるべし。小言・隻語(せきご)、必ず、述べて、遺(のこ)さず。其の意(こころ)、能く勤め、子の道を爲すと謂ひつべし。
今や、逝(ゆ)けるや、悲しきかな。
予、亦、遺らず、其の志しを世に傳ふるを以つて、其の魂(たましひ)を慰むのみ。
*
「齊東野語」信ずるに足りない下品で愚かな言葉。元は中国の斉(現在の山東省)の国の東部の田舎者の言葉つき「斉東野人の語」の略。「孟子もうし」の「万章篇」が原拠。]
信濃奇談 卷の上
堀内元鎧錄
諏訪湖
信〔しな〕のゝ國諏訪の湖は、わたり一里ばかり、冬になれば、あまねく、氷、とぢて、湖のおもて、鏡のごとく、斧もて、穴をうがち、網おろし、鯉・鯽〔ふな〕など取るを「氷引〔こほりびき〕」といふ。めづらかなるわざなり。
此氷のうへに「神わたり」といふ事ありて、一夜のほどに、白きすじ、いできぬれば、是を見て、後は人も馬も、此うへをゆききする事、むかしより、年ごとの例〔ためし〕とすめれど、あやふげもなきは、いと奇事になむ。私〔わたくし〕にいふ。「かの神渡りの事は狐のわたる也」と貝原翁はいへり。是は朱子が「楚辭」、及び「狐媚叢談」などいへる書に、しか見へたれば、かくはいへるなれど、是は、氷のあつくはれるによりて、われるにぞ有〔ある〕べき。「西域聞見錄」に、氷山〔ひようざん〕を往來する事を記して、『道路無二一定之所一有二神獸一一非ㇾ狼非ㇾ狐每ㇾ晨視二其蹤之所一ㇾ住踐而從ㇾ之必無二差謬一云云。よくこれに似たる事なり。神のわたるといひ、狐のわたるといふ、兩說ともに心得がたし。
[やぶちゃん注:「西域聞見錄」の引用のうち「住」とあるのは、複数の原本の版本で確認したが、孰れも「往」となっているので、「信濃奇談」の原著の誤りであることが判明した。
以下、頭書(かしらがき)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の「信濃奇談」(HTML)を見られたい。]
「閑田次筆」に、出羽の國八郞潟といふ四里に七里の湖ありて、冬は、さながら、氷、あひて、人も馬も其上を行かふ。又、漁人、氷の上に火を燒〔やき〕て暫〔しばらく〕あれば、其處、氷、ぬけて、深き穴となる。其穴に網をおろして、魚をとる、とぞ。氷の厚きも三さか、四さかばかりもあり云云。
[やぶちゃん注:「氷引」湖などの結氷した氷面に適当な距離をおいて穴を空け、第一の穴から網を入れ、順次、次の穴へと送り広げて、魚を獲る漁法で、特に諏訪独特の方言でも漁法というわけでもない。
「神わたり」所謂、「御神渡(おみわた)り」である。ウィキの「諏訪湖」によれば、『冬期に諏訪湖の湖面が全面氷結し、氷の厚さが一定に達すると、昼間の気温上昇で氷がゆるみ、気温が下降する夜間に氷が成長するため』、『「膨張」し、湖面の面積では足りなくなるので、大音響とともに湖面上に氷の亀裂が走りせりあがる』。『この自然現象を御神渡り』『と呼び、伝説では上社の男神が下社の女神のもとへ訪れに行った跡だという。御神渡りが現れた年の冬には、無形民俗文化財に指定されている御渡り神事(みわたりしんじ)が、八剱神社の神官により諏訪湖畔で執り行われる。御渡り神事では、亀裂の入り方などを御渡帳(みわたりちょう)などと照らし、その年の天候、農作物の豊作・凶作を占い、世相を予想する「拝観式」が行われる。古式により「御渡注進状」を神前に捧げる注進式を行い、宮内庁と気象庁に結果の報告を恒例とする。尚、御神渡りはその年の天候によって観測されないこともあるが』、『注進式は行われ、その状態は「明けの海(あけのうみ)」と呼ぶ』。『御神渡りは、できた順に「一之御神渡り」、「二之御神渡り」(古くは「重ねての御渡り」とも呼んだ)、二本の御神渡りが交差するものは「佐久之御神渡り」と呼ぶ。御渡り神事にて確認・検分の拝観がなされる』。『御神渡りは湖が全面結氷し、かつ氷の厚みが十分にないと発生しないので、湖上を歩けるか否かの目安の一つとなる』。但し、『氷の厚さは均一でなく、実際に氷の上を歩くのは危険をともなう行為である』。『平安末期に編纂された』西行の「山家集」に『「春を待つ諏訪のわたりもあるものをいつを限にすべきつららぞ」と記されていること』、応永四(一三九七)年、『室町時代に諏訪神社が幕府へ報告した文書の控え』「御渡注進状扣(ひかえ)」に『「当大明神御渡ノ事」とあることから、古くは平安時代末期頃には呼称があったとされている』とある。
「白きすじ」「白き筋(すぢ)」。
「私にいふ」私見を述べる。
「狐のわたる也」これは私も知っている俗信である。「立命館大学アート・リサーチセンター「ArtWiki」のこちらの「御神渡について」によれば、『諏訪湖の湖面が全面結氷し、寒気が数日続くことで氷の厚さが増してゆく。さらに昼夜の温度差で氷の膨張・収縮がくり返されると、南の岸から北の岸へかけて轟音とともに氷が裂けて、高さ』三十センチメートルから一メートル八十センチメートルほどの『氷の山脈ができる。これを「御神渡り」』『と呼び、伝説では諏訪神社上社の男神・建御名方神』(たけみなかたのかみ)『が下社の女神・八坂刀売神』(やさかとめのかみ)『のもとへ通った道筋といわれて』おり、『また、氷上に人が出ることが許されるのは、神様の通った後というタブー』の解除の謂い『もある』。『一般的に御神渡りは、上記の通り建御名方神が八坂刀売神のもとに向かった跡であるとされているが、別の言い伝えで諏訪明神の御使である狐の所為だという俗信もあ』り、『『郷土研究』の中の「信州諏訪湖畔の狐」によると、諏訪湖から流下する天龍河畔の川岸村などには、大崎様という祝神がおり、これはヲサキ狐を祀ったものだとされている』。『狐の所為だという説について「笈埃随筆 巻之六」』(江戸中期の旅行家百井塘雨(?~寛政六(一七九四)年)の紀行)『には以下のように書いてある』。『(前略)湖水の差出たる諏訪家代々の居城有る所を霞が崎といふ。その大手に橋あり。その橋の下に富士峰の形厳然と水に移る也。毎年極寒になれば、この湖水一面に氷りて、その厚さ計難し。誠に鉄石の如し。故に上下の諏訪、常は三里あるに、此氷の上を真直に行時は僅一里計なり。然れども神使の狐有て、先渡るを考へ、夫よりは重き荷を付たる馬も人も渡るに難なし』とある。
「貝原翁」福岡藩藩医で儒者・本草家の貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)。但し、どうも元恒は何かを勘違いしているのではないかとも思われる。益軒の書いたもので御神渡りをよく記しているものに、貞享二(一六八五)年に木曾路を旅し、書いた「岐蘇路記」があるが、そこには(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書(PDF)の三十六コマ目から視認して起こした。歴史的仮名遣の誤りはママ)、
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此湖(うみ)、冬・春の間、氷はりて寸地も透間なく、湖一面にふさがる。年の寒溫により、霜月の初中(しょちう)・終(じう)、或は師走の初より、氷はりて後(のち)、人、其上を通る。春も年によりて、正月の末・二月の半(なかば)まで氷の上を渡る。二月半までわたれば、氷は二月末まであり。寒ければ、おそく消(きゆ)る。氷のあつさ、年により、八、九寸、一尺二、三寸あり。其上は何ほどの大木・大石を置(おき)ても、わるゝ事なし。幾千人わたりても、あやうからず。氷の上すべるゆへに、「かんじき」をはきて通る。其上に雪つめば、常の道のごとく、「かんじき」を、はかず。わらんじ・草履にても行〔ゆく〕。馬はすべるゆへ、わたらず。日本國中に湖多しといへども、かくのごとく氷はる所、なし。信濃は日本にて最(もつとも)地高くして、寒気、甚〔はなはだ〕ふかき國なる故也。湖の上に、冬、はじめて、氷はりて、第三日、若〔やや〕氷薄ければ、第四、五日の比(ころ)、上の諏訪より、下の諏訪の方(かた)に、よこはゞ五尺ばかり、大なる木石などの通りたる如く、氷の上に、あと付〔つき〕て、みゆる。是、毎年かならず有〔あり〕。奇怪の事也。是を「御渡(みわたり)」と云〔いふ〕。又、「神先(かみざき)」とも云。御渡ありて、後、人、わたる。御渡なき内は、渡らず。氷、なを、うすきゆへ也。年(とし)により御渡の所、かはる。上の諏訪より、ある事は、かはりなし。下の諏訪の方に御渡ある所は、かはる也。其所によりて、年の豊凶をしると云。御渡のすぢ、一文字につき、或は、ゆがむ事、有。「堀川院後百首」[やぶちゃん注:永久四(一一一六 )年の「永久四年百首」の別名「堀河院後度(ごど)百首」のこと。]神祇伯(しんぎはく)顯仲(あきなか)[やぶちゃん注:源顕仲(康平元(一〇五八)年~保延四(一一三八)年)平安後期の公卿で歌人。村上源氏、右大臣源顕房の子。従三位で神祇官の長官であった。]が哥に、「すはの海の氷の上の通路〔かいひぢ〕は神のわたりてとくる也けり」とよめるは、この事ならん。[やぶちゃん注:中略。]此湖、氷はりて、漁人(ぎよ〔じん〕)、氷の下に、あみを引〔ひく〕を「氷引(〔こほり〕びき)」と云。これ又、奇異のわざなり。氷を、一所、ながくうがちて、其所より、あみを入〔いれ〕、また、其先(さき)をうがち、竹の竿(さほ)を持(もち)て、まへのうがちたる所より次のうがちたる所まで、あみを送りやりて、幾所(いく〔しよ〕)も、かくのごとくにうがち、あみをひろくはりて、魚を、とる。昔は、かくの如くするすべを知らずして、冬・春は、漁人、すなどりをせず、といへり。
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とあって、狐のことは全く記していない。私は『貝原益軒「大和本草」より水族の部』の電子化注を完遂しているが、彼が安易に狐が渡るなどと書いて放っておくタイプの人間ではないことは請け負える。しかもこの木曾の紀行は益軒が実際に現地に出向いて親しく実見して記した数少ないドキュメント(彼は若き日の遊学の折り以外は福岡藩を出ていない。されば、魚類に同定などにとんでもない誤りがある)なのである。さても、どうも元恒の批判の情報源として、何か頻りに臭くてしようがないのは、偶然、前に引いた江戸中期の旅行家百井塘雨の紀行「笈埃随筆」なのである。「国立公文書館」のこちらの画像(四十一コマ目)を視認して引く。百井の批評も読んでて、ガチョーーーン!!! てなっちゃうんだけどね。
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諏訪不思議
抑〔そもそも〕、信州諏訪に上下の社有り。其間に湖水を湛〔たた〕ふ。其道路、湖邊を𢌞りて三里也。世に七不思議とて有〔ある〕中に、每日、「社檀[やぶちゃん注:ママ。]の雨」といふ事ありしかば、やがて巳の刻[やぶちゃん注:午前十時頃。]計りに參詣して、靜〔しづか〕に宮・社を廻りつゝ時を移し待〔まち〕けり。此日、六月中旬の事なるに、數日、雨も無く、草、焦〔こが〕れて燒〔やくる〕が如く、更に一㸃の雲さへ見えず、炎暑絕難し。
「いかにや。」
と怪〔あやし〕み、おもひ立𢌞る中、萱葺の二尺餘りもあらん御殿の正面へ、
「じたじた。」
と、水、十滴斗り、滴〔したた〕り落〔おつ〕。
「コハ。あらたなる靈異なりけり。」
と、有難くも、神驗、肝に銘じぬ。世にこれを、
「湖水の水源也。」
と、いひ傳へたり。又、御祭礼には、必ず、七十五の獸の頭を贄〔にへ〕とす。兎・狸・猪・鹿を用ゆ。
「近鄕より持集〔もちあつま〕るに、いつの年にても、七拾五に、增減なし。」
とかや。中に一頭、耳の裂〔さけ〕たる鹿、一頭、必ず、あり。是も又、ふしぎ也。又、古き歌に、
諏訪の海かすみが崎にきて見れば冨士のうへ漕〔こぐ〕あまの釣舟
と詠〔よみ〕しと、彼地に在〔おは〕しける澄月法師に聞ければ、
「誠に。その事よ。湖水の差出〔さしいで〕たる諏訪家代々の居城有る所を霞が崎といふ。その大手に橋あり。その橋の下に冨士峯の形、嚴然と水に移る也。」
每年、極寒になれば、この湖水、一面に氷りて、その厚さ斗り難し。誠に鉄・石の如し。故に、上下の諏訪、常は三里あるに、此氷の上を眞直に行〔ゆく〕時は、僅〔わづか〕一里斗り也。然れ共、神使の狐、有〔あり〕て、先〔まづ〕渡るを考へ、夫よりは重き荷を付〔つけ〕たる馬も人も渡るに難なし。其狐渡らざる間は、氷、破れ安し。春に至り、既に氷解〔とく〕る頃には、其狐、又、渡り戾る也。その後は人も渡らず、「いつしか解る也」と云傳へ、書にも記せり。
是、事實を正さずして傳書の誤〔あやまり〕也。
其狐の渡る事は、韻府[やぶちゃん注:漢字熟語を韻字によって検索できるようにした書。簡単な辞書的役割も担った。]に記したる中華の事を取傳〔とりつた〕へ、「さも有べし」と自得したるは、不ㇾ詳〔つまびらかならざる〕か。
「漢書」文帝紀註師古云、狐之爲ㇾ獸其性多ㇾ疑、每ㇾ渡二氷河一。且聽且渡。故云二疑者一而稱二狐疑一と云々[やぶちゃん注:「漢書」文帝紀の師古の註に云はく、「狐の獸爲(た)るや、其の性、疑、多し、氷河(ひようが)を渡る每(ごと)に、且つ聽き、且つ渡る。故に疑ひぶかき者を云ひて狐疑と曰ふ」と。]。
「述征記」[やぶちゃん注:東晋末年に郭縁生の撰した地誌。]に亦曰、河氷合須二狐聽一而行[やぶちゃん注:河の氷、合(がつ)せば、須(すべか)らく、狐、聽くべくして行く。]。
是等を推考〔おしかんが〕へて傳へ云〔いふ〕なり。諏訪の氷を渡るといふ、中々、類(たぐ)ふべき事には、あらず。又、川などの流れにも、あらず。周匝(シウソウ)[やぶちゃん注:周囲の外縁の総距離。]三里なる湖水の極寒に及ばんとするに、水底より、
「もりもり」
と鳴響〔なりひびき〕、夜となく、晝となく、次第に氷る音、初〔はじめ〕て聞〔きく〕ものは、大〔おほい〕におどろき、奇なりとす。かくて一面に氷る事、厚さ三尺余、五尺に及ぶ。不時に風雨雷電する事、一晝夜、或は二日に及ぶ。是を「御渡り」と稱して、人、大に恐れ、門戶を閉〔ちぢ〕て出〔いで〕ず。
風雨、靜まりて後、見るに、彼〔かの〕尺余の氷の眞中に、一文字に、裂破〔さけやぶ〕る。其幅三尺斗り、向ひ路より、爰方〔こなた〕に貫けり。其山中より出る所、每年、同じく、その出たる所の道路の樹木は、打ひしぎたる樣に倒れ、砂石、乱れ、大なる材木など曳出したる跡のごとし。
爰をもつて、狐の所爲にあらざる事を知るべし。偏〔ひとへ〕に大蛇の出〔いづ〕るなるべし。
四、五尺に及ぶ厚さの氷を、直に裂破り通る程の事也。
その後、村民・旅人迚〔とて〕も、前にいふ如く、駄荷〔だに〕の馬にても、快く通行す。
又、常に漁者ありて、魚を網するものも、此奇事の後は、氷上、二十間、三十間[やぶちゃん注:三十六メートル強から約五十四メートル半。]を隔て、胴突〔どうつき〕を以て、所々に穴を鐫(ゑり)て大網を通し、彼一文字に裂〔さけ〕たる所へ、魚を追出して捕へ賣買す。其味ひ、甘美にして類ひなしといふ。されば「堀川百首」に、顯仲の歌にも、神の渡る諏訪の氷など詠るを考ふべし。其うたは左の如し。
諏訪の海や氷の上の通ひ路は神の渡て解るなりけり 顯仲朝臣
但し、春に至り、又、後、戾る、などとは、なき事にて、三月の頃、自ら解るなれば、人も心得て、通りを止〔やむる〕なり。
[やぶちゃん注:以下、原本では全体が一字下げ。]
因〔ちなみ〕に曰〔いはく〕、「能登大夫資基といふ人、俊賴朝臣の許に來り語りけるは、『信濃國と申〔まうす〕は、極めて風早き所なり。これによりて諏訪明神の社に、「風祝部(カザホウリ)」といふものを置〔おき〕て、かれを奧深く籠置〔こめおき〕、百日の間、尊重し祝ひ祭るに、其年、風、靜にて、農業のため、めでたし。若〔もしく〕は、自然、少〔すこし〕の透間ありて、日の光りを見せつれば、風、治らずして荒し、といふ事なり。これを哥に詠〔よま〕んとおもふ』事を語りけるに、俊賴の答に、『珍らしき事也。さりながら、無下〔むげ〕に俗に近し。かやうの事を更におもひよるべからず。不便〔ふびん〕々々』と、いはれければ、その旨を存する所に、後に俊賴、
信濃なる木曾路の櫻咲にけり風の祝部に透間あらすな
と詠れければ、『黑き事なり』と、五品、大に後悔しけり。
*
最後の話は、鎌倉中期の教訓説話集「十訓抄」にまるまる載っている。「やたがらすナビ」のこちらを見られたい。藤原通基 (寛治四(一〇九〇)年~久安四(一一四八)年)は平安後期の貴族で鎮守府将軍藤原基頼の次男。源俊頼(天喜三(一〇五五)年~大治四(一一二九)年)は歌学書「俊頼髄脳」で知られる貴族歌人。「五品」通基は極官が正四位下・能登守・大蔵卿・左京大夫であるから、その前の五位の時の出来事なのであろう。それにしても、この最後の「風祝部」の話が非常に惹かれる。これは日本の民俗学が隠蔽したがる生贄としての一年神主のニュアンスを非常に強く持っているからである。柳田國男も『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(二十)』で誤魔化すように言及しているが、古代社会に於いては災厄を防ぐために生贄に類するものがあったのであり、ごく近世までその疑似的な祭祀や儀式が行われ続けていたことは疑いがない。小泉八雲も「神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(30) 禮拜と淨めの式(Ⅷ) 一年神主」でそれに触れている。さて。どうだろう、これだけ読んでしまうと、どうも元恒は、最後の美味しいところ(自然科学的には正しい)をとっただけ、という気がしてこないだろうか?
なお、鹿の耳の話が気になった方で、柳田國男の『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(1) 神のわざ』をお読みでない方は、是非、お薦めする。私のカテゴリ「柳田國男」で全十三回に分けてある。
『朱子が「楚辭」』南宋の儒学者で朱子学の創始者朱熹(一一三〇年~一二〇〇年)の「楚辞集注」(そじしっちゅう)。恐らく、同書の、
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猶豫狐多疑而羞聽河冰怡介孤赫其下不聞水聲乃敢遇故人過河冰者要須狐行然後
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辺りを言っているものであろう。
「狐媚叢談」明の憑虚子(ひょうきょし)撰の妖狐譚を集めた文言志怪小説集。
「西域聞見錄」清の東トルキスタン (後の新疆省、現在の新疆ウイグル自治区) 関係の地誌。椿園七十一(ちんえんしちじゅういち)撰。全八巻。一七七七年完成。別名に「新疆外藩紀略」「異域瑣談」などがある。みずからの現地調査に基づいた紀行文で、独自の内容を持ち、当時の官撰地誌には見られない重要な内容を含んでいる、と「ブリタニカ国際大百科事典」にはあった。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛政一三(一八〇一)年に板行された同書の畑道雲(はたどううん)校訂本(PDF。但し、返り点のみしか附されていない)の三十四コマ目の右から五行目に発見した。「卷七 回疆風土記」の「雜錄」の一節である。先に示した通り、文字列に誤りがあるので正して、以下、勝手流で訓読しておく。読みは私が勝手に振った。
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道路は、一定の所、無し。神獸、一つ有り、狼に非ず、狐に非ず。晨(あした)每(ごと)に、其の蹤(あしあと)の往(ゆ)きける所を視て、踐(ふ)むに、之れに從(よ)る。必ず、差謬(さびう)、無し。
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〔氷結した地面には〕道路というような一定の道筋はない〔時には薄い氷が張っているだけでその下には恐るべき断崖や渓谷が待ち受けていることもある〕。ただ、神獣は一匹だけおり、それは狼のようで狼でなく、狐のようで狐ではない。夜が明ける度に、その神獣の歩いた足跡が往き示す所を見つけて、その後を、慕って行くことを常とする。一度として、それが間違うこと〔危険な奈落に落ちること〕は、無い。
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「閑田次筆」国学者伴蒿蹊(ばんこうけい:生まれは近江八幡の京の豪商の子で、同地の同姓の豪商の養子となったが、三十六歳で家督を養子に譲って隠居した)著になる考証随筆。文化三(一八〇六)年刊。「閑田耕筆」の続編。紀実・考古・雑話の三部に分類し、古物・古風俗の図を入れたもの。以下は、巻一の一節であるが、カットがあるので、正しく引く。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本を視認した。
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○くぼたより七里西に、八郞潟といふ四里に七里の湖ありて、冬は、さながら、氷、あひて、人も馬も其上を行かふ。又、漁人(スナドリビト)、氷の上に火を燒〔やき〕て日頃あれば、其所、氷、ぬけて、深き穴となる。其穴に網をおろして、魚をとることをす。「氷の厚きこと、三さか(尺)[やぶちゃん注:「さか」の右添えの漢字。]四さかばかりもあり」など聞ゆ。行〔ゆき〕て見まほしけれど、道のほどもとほく、いたづき[やぶちゃん注:病気。]にかゝりて、もだしぬ。近き城下の川も、氷、あひて、人みな、その上を通ふなり。[やぶちゃん注:以下、考証部は原文では一字下げ。]
閑田按ずるに、八郎潟の樣子、信濃諏訪の湖のごとく成〔なる〕べし。其諏訪のうみは、昔より歌にもよみならしたるを、此八郎潟、又城下の川も、氷の上を行〔ゆき〕かふことは、しる人、稀なり。昔、出羽は蝦夷の地にてありしかば、よき人など、聞〔きく〕も及ばれざるゆゑ成べし。村瀨栲亭〔かうてい〕の語られしも、此記に同じ。
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「村瀨栲亭」(延享元(一七四四)年~文政元(一八一九)年)は京生まれの儒者。天明三(一七八三)年に出羽久保田藩(現在の秋田県)に招かれ、藩政に参加。晩年は京都に戻った。]
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