北原白秋 邪宗門 正規表現版 艣を拔けよ
艣を拔けよ
はやも聽け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、
御堂(みだう)にははや夕(よべ)の歌きこえ、
蠟(らふ)の火もともるらし、艣(ろ)を拔(ぬ)けよ。
もろもろの美果實(みくだもの)籠(こ)に盛りて、
汝(な)が鴿(はと)ら畑(はた)に下り、しらしらと
歸るらし夕(ゆふ)づつのかげを見よ。
われらいま、空色(そらいろ)の帆(ほ)のやみに
新(あらた)なる大海(おほうみ)の香爐(かうろ)採(と)り
籠(こ)に炷(た)きぬ、ひるがへる魚を見よ。
さるほどに、跪き、ひとびとは
目見(まみ)靑き上人(しやうにん)と夜(よ)に禱(いの)り、
捧げます御(み)くるすの香(か)にや醉ふ、
うらうらと咽ぶらし、歌をきけ。
われらまた祖先(みおや)らが血によりて
洗禮(そそ)がれし假名文(かなぶみ)の御經(みきやう)にぞ
主(しゆう)よ永久(とは)に惠みあれ、われらも、と
鴿(はと)率(ゐ)つつ禱らまし、帆をしぼれ。
はやも聽け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、
御堂(みだう)にははや夕(よべ)の歌きこえ、
蠟(らふ)の火もくゆるらし、艣(ろ)を拔けよ、
[やぶちゃん注:最終行を読点で終わるのは、本詩集の中でも特異点である。
「艣」「櫓・艪」に同じ。舟を漕ぐそれである。]