都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 始動 / 外題・「卷首」・深草の翁相字の術蛇妖を知る事
[やぶちゃん注:儒者・医師にして近世読本作家の祖と称される都賀庭鐘(つが ていしょう 享保三(一七一八)年~寛政六(一七九四)年?)の怪談集「席上奇観 垣根草」(かきねぐさ:初版は明和七(一七七〇)年板行。ペン・ネームは「草官散人」)の電子化注を開始する。序文では本書を古い竹箱の中から発見した作者不詳の作品と言っているが、これは仮託である。
底本は所持する昭和二(一九二七)年刊の「日本名著全集第一期出版 江戶文藝之部第十卷」の「怪談名作集」を用いるが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」にある原本と校合する。なお、私が底本としたものは、岡島昭浩先生がPDF化されたものをここでダウン・ロードすることが出来る。
同底本には、親本とした「皇都書林 梅花堂藏」の奥書を持つそれの、冒頭の標題・扉・巻首の序や奥書などが原本画像そのままに挿入されているので、その画像も一部で示す。かなりのルビが附されてあるが、五月蠅いので、読みが振れると判断したものだけを附した。但し、右に読みを左に意味ルビをカタカナで記した部分は必ず附し、「使女(しじよ/メシツカヒ)」のように示した。反対に、若い読者の便を考え、読み難いと判断したルビ無しの漢字にはルビの多い上記原本で確認して附した(但し、歴史的仮名遣を誤っているので、それは私の判断で訂して挿入してある)。なお、それを区別することには意味がないので、同じ丸括弧を用いたが、一部にはそちらにもルビがないものもあるので、そこでは〔 〕で私が推定の読みを歴史的仮名遣で示した。なお、本底本は原本の歴史的仮名遣の誤りを有意に修正して正してある優れものである。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部で句読点や記号を変更・追加し、読み易さを考え(本文は完全なベタ)、段落を成形した。禁欲的に注を附す。基本、短くて済むものは文中に、長いものは当該段落末或いはソリッドな段落群の後に配し(台詞内の場合は台詞の直後に配したものもある)、その後は一行空けた。]
席上
垣根草
奇観
[やぶちゃん注:表紙と思しきもの。「席上」と「奇観」は実際には「垣根草」の上に二行で入る。次の扉のそれも同じ。]
草官散人纂述
十八公子訂校 浪華崇尚堂刊
古今
墻根草
竒観
[やぶちゃん注:「崇尚」の判読は自信がない。調べても、この名の書肆は見当たらない。識者の御教授を乞う。
以下、卷首の筆者による序文であるが、原本画像では御覧の通り、「観」「巻」「覧」など、かなりの字が旧字ではなく、新字と同じような略字になっているものが散見されるが、実は底本では、この枠の上に本文が一行三字で活字化されており、そこは総て正字となっている。私は漢字表記と句読点はそちらを主に参考にしたことをお断りしておく。これは底本本文が正字であるのと合わせるためである。]
席上奇觀垣根草卷首
近頃、古篋(こけう)の中に垣根草と題せるものがたりを獲てこれを披覽するに、其文鄙俚(ひり)にして諸家の草紙ものがたりの體(てい)にあらず。假名づかひすら、いゐ、ゑえのわかちなく、觀るにたへずといへども、其(その)載(のす)るところは、皆古昔(こしやく)の遺事・幽冥・人物・靈異の談、誠に席上の奇觀といふべし。作者の姓名を知らず。恐らくは奇をこのむ閑人(かんじん)、これをもて茶話(さわ)に代ゆるものならじ。これをよむ人、遲日長夜(ちじつちやうや)の徒然を消(せう)する友とせば、作者の本意なるべし。洛西隱士某(それがし)誌(しる)す。
[やぶちゃん注:「鄙俚」言語が田舎染みていて賤(いや)しいこと。「野鄙」に同じい。
「茶話に代ゆるものならじ」ただの気軽な世間話の代わりに書いたというわけではあるまい。字背に奇談としての相応の都賀の自信が窺える。
以下、原本ではクレジットまで一字下げ。一行空けた。本文は訓点附きの漢文であるが、画像を添えたので、訓読して示す。上部の活字部分でも訓読してある。]
此草紙、世敎を扶け史傳を補ふの書に非ずと雖も、之を讀みて一時の奇觀に供するときは、則ち、作者の本意と謂ふべきなり。仍〔よつ〕て剞劂〔きけつ〕に授くと爾〔のみ〕と云ふ。
明和七年寅正月菅翁某誌
[やぶちゃん注:「剞劂」「剞」は「曲がった刀」、「劂」は「曲がった鑿(のみ)」で、版木を彫ることから転じて、板行、印刷出版の意。「上梓」に同じい。
「明和七年は庚寅(かのえとら/コウイン)でグレゴリオ暦一七七〇年(既に旧暦一日で二月十五日)。
以下、一行、空いている。同じく原本は全体が一字下げ。]
因(ちなみ)にしるす。此書、原本一帙(ちつ)十卷侍りしを、今、その前篇を梓(あづさ)にちりばむ。後篇五卷は古今武將外傳と題して凡そ古今の武將の事蹟紀傳にもれたるをあつめたるにてまことに逸史といふべき書なり。梓行(しかう)は他日にまつのみ。
[やぶちゃん注:ここに書かれた後篇は書かれたかどうかは不詳。
以下、目録が載るが、それは最後に回す。]
席上竒観垣根草一之巻
深草の翁(おきな)、相字(さうじ)の術、蛇妖を知る事
[やぶちゃん注:挿絵。底本の画像を合成し、かなり強力に清拭しておいた。]
元弘の頃、山城深草の里に一人の隱士あり。常に都に出でて、市町〔いちまち〕をめぐりて、相字の術をうりて、一錢を乞ひ、その日の糧(かて)、たれば、又、術をほどこさず。その術、文字の點・畫(くわく)をわかちて、吉凶禍福をいふに、少しも差(たが)ふことなし。世の人、姓名をしらず、只、「深草の翁」とのみ、よびなせり。
[やぶちゃん注:「深草」「山城深草の里」山城国紀伊郡深草郷。現在の京都府京都市伏見区のこの中央南北部分の広域呼称(グーグル・マップ・データ)。少し拡大すれば、「深草」を町名の頭に持つところが多数見られる。「元弘」一三三一年から一三三四年まで。但し、大覚寺統(南朝)側では元徳元年・正慶元年・正慶二年・建武元年となる。言わずもがな乍ら、元弘三年五月二十二日(ユリウス暦一三三三年七月四日/グレゴリオ暦換算一三三三年七月十二日)に鎌倉幕府が滅亡している。
「相字の術」被検者が選んだ手書きの任意の文字を見て、その字を書いたその人の運勢を判ずる占い。
「その日の糧、たれば、又、術をほどこさず」見料が溜まり、その日の衣食住の生活費が足りるだけになると、それ以上は占いをしなかった。所謂、賢人の「足ることを知る」である。
「差(たが)ふ」「違ふ」に同じ。]
元弘・建武の亂に、畿内、最も爭亂の境(さかひ)となり、四民、その土(ど)に、やすんずる事なし。翁も、いづちへか、亂を避けたりけん、ふつに見えず。曆應(りやくわう)の頃にいたり、都もすこし靜(しづか)ならんとす。翁、また、都に出づる事、はじめのごとし。人、やゝ、其術の妙なるをしりて、相をもとむる者、多し。
上皇、其名を聞召(きこしめ)して、「朝(てう)」の字を以て、北面(ほくめん)をして、翁に相せしめ給ふ。翁、僅(わづか)に見て、驚きて云く、
「是、官人の書し給ふにあらず。『朝』の字、わかつときは、『十』『月』『十』『日』の字なり。しかも『日』『月』を左右にしたる字たれば、此月此日に降誕(こうたん/ムマレ)し給ふところの天子ならで、當る人、なし。されども、『日』、小にして、『月』、大なるをもて見れば、恐らくは御位(みくらゐ)を下(お)り居(ゐ)させ給ふなるべし。」
といふに、北面、馳せかへりて、此よしを奏す。
[やぶちゃん注:「元弘・建武の亂」「元弘の乱」は狭義には元弘元・元徳三(一三三一)年に後醍醐天皇が計画した鎌倉幕府討滅クーデター未遂事件を指すが、広義にはここから鎌倉幕府滅亡までを言うのが普通。「建武の乱」の方は建武政権期(広義の南北朝時代。建武の元号も始まりは同じ一三三四年だが、大覚寺統(南朝)方では「元弘」の後で、「延元」の前となり、一三三六年まで。持明院統(北朝)方では「正慶」の後で、「暦応」の前となり、一三三八年までが「建武」の期間となる)、建武二年十一月十九日(一三三六年一月二日)から延元元/建武三年十月十日(一三三六年十一月十三日:後醍醐が尊氏に投降し、武政権が崩壊した日である)にかけて後醍醐天皇の建武政権と足利尊氏ら足利氏との間で行われた一連の戦いを指し、「延元の乱」とも呼ぶ。広義には「中先代(なかせんだい)の乱」など、建武政権期に発生した他の騒乱も含む。足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立した。一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し(南朝)、幕府が擁立した北朝との間で南北朝の内乱が開始した(以上は概ねウィキの「建武の乱」に拠った)。
「曆應」南北朝時代の光明天皇の代で北朝が使用した元号。建武の後、康永の前で、一三三八年から一三四二年まで。この時代の天皇は北朝が光明天皇、南朝が後醍醐天皇と後村上天皇。但し、後で「鹽冶判官高定」塩冶高貞(?~興国二/暦応四(一三四一)年)が出てくるから、これは、暦応四(一三四一)年二月以前でなくてはならなくなる。
「上皇」てっきり後醍醐のことかと思っていたが、後で細川氏が登場するから南朝ではあり得ない(因みに後醍醐の誕生日は十一月二十六日)。そうすると、光厳上皇となるが、彼の誕生日は正和二年七月九日で合わない。一応、この時期の前後の天皇や上皇を調べたが、十月十日生まれの者はいない。
「北面」「北面の武士」の略。院の御所の北面に詰め、院中の警備に当たった院直属の親衛隊。]
翌日、院の御所へめされ、再び字を相せしめ給ひ、その外、伺候の人々・女房達まで、各(おのおの)、一字をかきて相せしむるに、皆、その字によりて論辯する所、毫髮(がうばつ)も差(たが)ふこと、なし。上皇、甚だ賞し給ひ、時服(じふく)一領・鳥目壹貫文(いつかんもん)を賜ふ。翁、唯、一字每に一錢を收めて、其餘(よ)をかへりみず。上皇、ますます其寡欲(くはよく)を歎じ給ふ。
[やぶちゃん注:「毫髮(がうばつ)」底本は「がうはう」となっているが、従えないので、原本を確認した。「毫毛」に同じで「極く僅かな事・ほんの少し」の意。
「時服」毎年、春と秋又は夏と冬の二季に、朝廷や将軍などから、諸臣に賜った衣服。
「壹貫文」当時の読者の時代感覚では一両の四分の一相当となる。]
是より、朝野に其名たかく、都下、これがために喧(かまびす)し。一日、細川家の館(たち)に、諸大名、集りて、雜談(ざふだん)のうへにて、翁が術の精妙なるをいふ人あり。因つて、これを招きて、相をもとむ。
先づ館の主、賴之、春の字を以て示す。翁云く、
「『春』の字、析(わか)つときは、『三』『人』の『日』たり。君、後來(かうらい)、三人の隨一(ずい〔いち〕)となり、威權、おのおの、日の昇るがごとくたらん。されども、君、はじめて此字を書し給へば、三家〔さんけ〕の中(なか)にて、わきて、威權、君が手にあらん。但(ただ)、恐らくは、讒者(ざんしや)ために覆(おほ)はれ給ふべし。日月〔じつげつ〕の蝕(しよく)、はるゝこと、速(すみやか)なりといへども、これこそ愼みたまふところなり。」
といふ。
鹽冶判官(えんやはんぐわん)高定も座にありて、「大」の字を以て、相をもとむ。
翁云く、
「『大』の字、一點を傍(かたはら)に加へて『犬(いぬ)』となる。今、犬をみず。君、遠からずして守(まもり)をうしなひ給ふべし。一點を上に加ふるときは『夭(よう)』となる。『女』を添へて『妖』となる。君の禍(わざはひ)、婦人よりおこりて夭折(ようしやく/ワカジニ)し給ふべし。但し、『大』の下一點を添へて『太(たい/ハナハダシ)』となる。今、『太』を見ず。甚だしくしたまはざる時は、禍を免(まぬか)れ給ふベし。」
といふに、鹽冶、色、よろこびず。
果して頼之は、斯波・畠山と三管領の職を掌り、中にも、細川、最もあらはれ、四箇國の惣管(そうかん)にして、威權、ならぶものなかりしが、康曆(こうりやく)の頃、讒(ざん)によりて譴責(けんせき)せらる。後に、又、舊職に復して、寵遇、むかしに過ぎたり。鹽冶は其妻より、事、出來(いでき)て、遂に執事師直(もろなほ)がために斃(たを)されたり。翁が詞、少しもたがふこと、なし。
[やぶちゃん注:「斃(たを)されたり」の読みは原本から送ったが、ママである。正しくは「たふ」である。
「細川家」前の暦応の限定条件からだと、細川氏嫡流第四代当主細川和氏(かずうじ/ともうじ 永仁四(一二九六)年~興国三/康永元(一三四二)年)しかあり得ないのだが、ところがどっこい、最初に出てくるのが、「館の主、賴之」だ。これは、ひどい時代考証だ。細川頼之(元徳元(一三二九)年(別説もある)~元中九/明徳三(一三九二)年)は正平七/観応三(一三五二)年)に南朝の京都侵攻で父頼春が戦死して初めて、細川家の当主となるからで、この生年が正しいとすると、この時(先に出た暦応一年から三年(一三三八年から一三四〇年)年では、未だ満九歳から十一歳である。父は戦死であるから、家督はその時に移ったはずである。私は結構、都賀庭鐘をかっているのだが、この時代設定の杜撰さは少し失望した。しかし、或いは上皇の誕生日と併せて実は確信犯で、実は知られたオール・スター・キャストをしながら、史実ではないということを臭わせるための仕儀なのかも知れない。なお、頼之の後は養子(異母弟)頼元とその子孫が斯波氏・畠山氏とともに三管領として幕政を担った。彼は第三代将軍義満の管領として幕政を主導したが、ウィキの「細川頼之」によれば、彼の『施政は、政敵である斯波氏や山名氏との派閥抗争』、義満の継母であった『渋川幸子』(こうし)『や寺院勢力の介入、南朝の反抗などで難航した。また、今川了俊の九州制圧も長期化していた。こうした中、頼之は辞意を表明して義満に慰留されることで信任を回復することも何度かあった』。ところが天授五/康暦元(一三七九)年、『頼之の養子頼元を総大将とする紀伊国への南朝征討が失敗』してしまい、『義満がこれに代えて反頼之派の山名氏清らを征討に向かわせ、さらに斯波氏や土岐頼康に兵を与えたところ、諸将は頼之の罷免を求めて京都へ兵を進め、斯波派に転じた京極高秀らも参加して将軍邸を包囲した(御所巻)。この』「康暦の政変」と『呼ばれるクーデターの結果、頼之は義満から退去命令を受け』、『一族を連れて領国の四国へ落ちて行き、その途上で出家した。後任の管領には斯波義将が就任し、幕府人事も斯波派に改められ、一部の政策は覆された』。『義満は斯波派の頼之討伐の要望を抑えたが、政変を知った伊予の河野通堯』(こうのみちたか)『は幕府に帰服すると』、『斯波派と結んで』、『討伐の御書を受け、頼之に対抗した。頼之は管領時代に弟の頼有に命じて国人の被官化を進めていたことから、その力で通堯や細川正氏(清氏の遺児)らを破り』、弘和元/永徳元(一三八一)年には『通堯の遺児通義と和睦し、分国統治を進めていった』。『頼之の養子頼元は赦免運動を行い』、元中六/康応元(一三八九)年の『義満の厳島神社参詣の折には船舶の提供を手配し、讃岐の宇多津で赦免された。そして』、元中八/明徳二(一三九一)年に『斯波義将が義満と対立して管領を辞任したことを機に、義満から上洛命令を受けた頼之が入京を果たした』とあり、讒言とは言わないが、不当な理由で一時的に失脚した事実がこの占いで当たっていると言いたいのであろうが、時代設定を誤っていては、それも台無しだ。因みに、頼元以後、代々、右京大夫(唐名は「右京兆」)に任ぜられたことから、この家系は「京兆家」と呼ばれる。
「覆(おほ)はれ」光が何かに覆われるように、不吉なことが起こることを言っている。
「四箇國」頼之が四国を平定したことを指しているのであろう。但し、彼はそれ以前に中国地方の備前国・備中国・備後国・安芸国・伊予国など数箇国を統括している。
「鹽冶判官(えんやはんぐわん)高定」塩冶高貞(?~興国二/暦応四(一三四一)年)のことであろう。ウィキの「塩冶高貞」によれば、もとは『鎌倉幕府出雲国守護』で、後の『建武政権・室町幕府では隠岐国守護も兼任』した。『北朝隠岐守・近江守。従五位上』。「元弘の乱」では『後醍醐天皇の挙兵に呼応し、鎌倉幕府との戦いに貢献、建武政権にも仕えた』。「建武の乱」では、初め、『後醍醐天皇方だったが、やがて足利尊氏方に転じ、南北朝の内乱でも北朝・室町幕府の有力武将として力を奮った。しかし』、興国二/暦応四年三月二十四日に『京都を突如』、『出奔、足利直義』『から謀反の嫌疑をかけられて、桃井直常・山名時氏を主将とする追討軍の攻撃を受け、数日後、播磨国で自害した。謀反の真偽は不明だが、一説に、皇族早田宮の出身とされる妻を介して南朝と通じていたのではないかと言う』。なお、「太平記」で『描かれる、幕府執事の高師直との個人的確執は、史証が無い創作である』とあり、「創作」の項に、「太平記」として、巻二十一では、『幕府執事の高師直の讒言にあって破滅したと描かれている』。『師直の讒言の原因については、師直が高貞の美人妻に恋心を抱き、恋文を文人の吉田兼好や家臣の薬師寺公義に代筆させて彼女に送ったが、拒絶され逆上したためである、とされている』。『この讒言によって、将軍から謀反の疑いをかけられたため、ひそかに京都を出奔し』、『領国の出雲に向かうが、山名時氏・桃井直常らの追討を受けて、妻子らは播磨国蔭山(現在の兵庫県姫路市)で自害した』。『高貞はなんとか出雲に帰りついたものの、家臣らに妻子の自害した旨を聞き』「これ以上、生きていても仕方がない。七度生まれ変わっても、師直の敵となり、奴に復讐を果たしたい」と『述べ、出雲国宍道郷』(ししじのさと)『の佐々布山』(ささふやま)『で、馬上で自害したという』。作中では、延元四/暦応二(一三三九)年の『出来事として描かれて』、『史実とは』二『年のずれがあり』、『また』、『日付も京都を出奔した日が』三月二十七日、『自害した日が』四月一日『となっている』。以上の「太平記」の『物語を裏付ける同時代史料は現存しない』とある。
「師直」高師直(こうのもろなお ?~正平六/観応二(一三五一)年)は足利尊氏の執事として南朝軍と戦い、大功を挙げたが、ウィキの「高師直」によれば、『革新的な政策と急速な勢力拡大から、将軍弟で事実上の幕府最高指導者である保守派の足利直義と対立、なかば隠居していた将軍尊氏も巻き込む足利氏の内紛である』「観応の擾乱」に発展し、『一時は直義を制するが、最終的に直義が南朝側へ離反して武力を回復したことから』、「打出浜の戦い」で敗北して投降、『護送中に直義派の上杉能憲』(よしのり)『らによって暗殺された』。彼は専ら「仮名手本忠臣蔵」で狡猾狷介な人物として認識される向きが強いが、実際には『私人としては敬虔で模範的な人物だった』とされ、『和歌や書に優れ、歌人としては勅撰集』「風雅和歌集」に入撰するなど、『当時の武士』としては『珍しく』、『高い教養を身に着けた文化人・風流人でもあった』とある。]
後に、執事高(かうの)師直、直義と不平にして確執に及ぶ頃、翁を招きて「桑(そう/クハ)」の字を以て吉凶を、とふ。
翁、一見して、眉を顰(ひそ)めて云く、
「君の禍、四十日を出づべからず。析(わか)つて四の『十』の字となるを以てなり。其餘は、いふにたらず。」
と、恐るゝ色なく答ふるに、一座の人、執事の怒(いかり)をおそれて、叱(しつ/シカリ)して、さらしむ。門前に出でて、
「枯骨死灰(ここつしはい)にひとしき人、何のおそるゝことあらん。」
と獨言(ひとりごと)して去りぬ。果して、三十八日を經て、族滅の禍におよべり。人々、その言(こと)の神(しん)のごとくなるに服す。
[やぶちゃん注:「不平」不仲。]
その頃、松浦(まつら)左衞門友近といふもの、在京したりしが、國なる肥前は、大半、南朝に與力(よりき)し奉り、中にも松浦が一族、のこらず、無二の宮方と聞えたるに、友近、在京のうちとはいへども、將軍家の疑ひ、かゝりて、數年(すねん)の忠勤もいたづらに暮らす折しも、その妻(さい)、妊娠(にんしん/ハラミ)して、已に十二月の餘(よ)に及べども、分娩(ぶんべん/ウマルヽ)の氣色(きしよく)なし。
友近、翁を招きて「也(や)」の字をかゝしめて、相を求む。翁云く、
「『也』の字、もとより、助語(じよご)なれば、是、必ず君の内助(ないじよ/オクガタ)の書し給ふならん。『也』の字、上に『三十』あり、下に一畫、添へたるを以てみるに、盛年(せいねん/トシ)三十一なるべし。」
友近云く、
「翁の詞に、たがふこと、なし。猶、その詳(つまびらか)なることをきかん。」
翁云く、
「『也』に水あれば、池、馬あれば、馳(はす)となる。今、池に水なく、馳するに、馬、なし。君、必ず、進退に窮し給ふべし。況や、人を添へて他となり、土あれば、地なり。今、人と土とを、さる。君、親屬・土地に離れ給ふなるべし。されども『也』の字、語の末にありて、そのはじまらんとするの兆(きざし)なり。この後(のち)、榮達(えいたつ/リツシン)のことあるべし。」
といふに、友近、驚きて、
「翁の言(こと)、一々差(たが)ふこと、なし。願はくは產期(さんき/ウマレドキ)の遲速(ちそく)を示し給へ。」
といふ。翁云く、
「『也』の字、中に『十』あり、兩邊に二畫あり。下、また、一畫あれば、必ず、三月にして出產あるべし。只、一の奇怪(きくはい/アヤシキ)にわたる、あり。故に、餘事を論じて、君の心をかたからしむ。忌みたまはず、是をいはん。『也』の字、虫を加へて虵(じや/ヘビ)となる。今、賢室(けんしつ/オクガタ)の孕み給ふ所、正しくは虵妖(じやえう)なり。速(すみやか)に其妖を拂ひたまはずは、安穩なるまじ。」
といふに、友近、大〔おほき〕に驚き、是を除くの術を、こふ。
翁云く、
「我、聊か、薄術(はくじゆつ)あり。試みに用ゐ給へ。」
とて、門前に出でて、やがて座にかへり、懷中を探りて、一封の藥を出〔いだ〕し、
「東流水(とうりうすゐ)にて三朝(みあさ)に服し給はゞ、其しるし、あるべし。」
と、ねんごろにをしへて、去りぬ。
これを用ゐるに、案のごとく、三日を過ぎて、腹中、雷鳴(らいめい/オホヒニナリ)痛楚(つうそ/ヨクイタム)して、小蛇、數十(すじふ)を、くだす。
數日(すじつ)の後(のち)、體(たい)、平(たひらか)に、氣力、復して、平日に、かはらず。ほどなく、將軍家の不審、はれて、はじめて前功(ぜんこう/マヘノテガラ)の賞(しよう/テガラ)にあづかる。
友近、謝儀をきこえむため、尋ぬるに、そののちは影迹(えいせき/アトカタ)をだに見る人なく、遂に、その終るところを、しらず。
世の人、その術を學ばんことをこふものあれば、
「術の、をしゆべきなし、中(ちゆう/アタル)と不中(ふちゆう/アタラザル)とは、われ、しらず。たまたま、あたるも幸ひなり。」
とて、かつて傳へざりしゆゑ、其術を傳へたる者なかりしとぞ。
[やぶちゃん注:「をしゆ」はママ。「教(おし)ゆ」。]
[やぶちゃん注:「松浦左衞門友近」不詳。孰れにせよ、平安時代から戦国時代に肥前松浦地方で組織された武士団の水軍として知られた連合松浦党(まつらとう:一族は四十八つに分かれているという)の中の一人であろう。
「薄術」たいしたことはない幻術。
「東流水」単に住するところの東の川流れの謂いであろう。]