北原白秋 邪宗門 正規表現版 濁江の空
濁 江 の 空
腐(くさ)れたる林檎(りんご)の如き日のにほひ
圓(まろ)らに、さあれ、光なく甘(あま)げに沈む
晚春(おそはる)の濁(にごり)重(おも)たき靄の内(うち)、
ふと、カキ色(いろ)の輕氣球(けいききう)くだるけはひす。
遠方(をちかた)の曇(くも)れる都市(とし)の屋根(やね)の色
たゆげに仰(あふ)ぐ人はいま鈍(にぶ)くもきかむ、
濁江(にごりえ)のねぶたき、あるは、やや赤(あか)き
にほひの空のいづこにか洩(も)るる鐵(てつ)の音(ね)。
なやましき、さは江(え)の泥(どろ)の沈澱(おどみ)より
あかるともなき灰紅(くわいこう)の帆のふくらみに
傳(つた)へくる潜水夫(もぐりのひと)が作業(さげふ)にか、
饐(す)えたる吐息(といき)そこはかと水面(みのも)に黃(き)ばむ。
河岸(かし)になほ物見(ものみ)る子らはうづくまり、
はや倦(う)ましげに人形(にんぎやう)をそが手に泣かす。
日暮(ひくれ)どき、入日(いりひ)に濁る靄(もや)の内(うち)、
また、ふくらかに輕氣球(けいききう)くだるけはひす。
四十一年八月
[やぶちゃん注:第一連の「靄」にルビなく、最終連にあるのはママ。
「カキ色」カーキ色。英語「Khaki」。黄色系の砂や土っぽい色であるが、特に軍服に用いられる淡い茶系色を指す。この英語はヒンディー語で「土埃色の」を意味する語が元であるが、そのヒンディー語も元はペルシャ語の「土埃」から借り入れた語である(ウィキの「カーキ色」に拠る)。
「沈澱(おどみ)」「澱(よど)み」に同じい。但し、歴史的仮名遣は「をどみ」が正しいようである。]