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2020/10/18

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之四 小櫻奇緣によりて貴子をうむ事

 

席上奇観垣根草四之巻

     小櫻奇緣によりて貴子をうむ事

Kozakura

[やぶちゃん注:底本よりトリミングした。珍しく、話柄の瞬間を、よく、絵にしている。清水寺であることが、非常によく判る挿絵である。味わいたい。]

 大和の國高市(たかいち)の郡(こほり)に小野兵衞(をのひやうゑ)といふあり、代々、農家にて、家、富榮(とみさか)えて、一郡の豪家(がうか)なりしが、夫(それ)が子に太夫通明(たいふみちあきら)といふあり。幼(いとけなき)より御堂殿(みだうどの)に宮仕(みやづか)へて、諸士(しよし)たり。父の兵衞、身まかりて後は、故鄕に歸りて、橘(たちばな)の何某(なにがし)が娘をめとりて、父の業(ぎやう)をつぎ、

「公(おほやけ)の禮節に身心(しんじん)をくるしめんより、村野(そんや/ヰナカ)の活計(かつけい/クラシ)、天年を全うする基(もとゐ)。」

と、よろこび暮しけり。

[やぶちゃん注:「大和の國高市の郡」現在の奈良県中西部の古くからの郡名。奈良盆地の南部にあり、大和・飛鳥時代の政治・文化の中心で、古くは興福寺・東大寺の荘園が多かった。昭和三一(一九五六)年に北部の町村が合併して橿原市が成立。現在は高取町と明日香村とからなる。古くは「たけち」と称した。この南北の中央部分が相当する(グーグル・マップ・データ)。

「小野兵衞」不詳。

「太夫通明」不詳。

「御堂殿」藤原道長(康保三(九六六)年~万寿四(一〇二八)年)の異称。

「諸士」侍。]

 

 然るに、年四十(よそぢ)をすぐるまで、一子とてをなく、明暮、これをなげき、

『老のね覺(ざめ)のたのしみにも、あはれ、子といふもの持ちたらば。』

とおもふにつけて、

「誠や、枯れたる木にも花さく、大悲のめぐみ、などか、いのるに甲斐なかるべき。」

と、夫婦もろとも、初瀨寺(はせでら)の觀世音(くわんぜおん)に、一七日〔いちひちにち〕、參籠したりしに、夢ともなく、うつゝ心に、御帳(みちやう)のうちに妙なる御聲(みこへ[やぶちゃん注:原本のママ。])にて、

「汝等は都(みやこ)淸水(きよみづ)の本尊(ほぞん)こそ有緣(うえん)なれ。とく、かしこに詣でよかし。」

と宣〔のたま〕ふと覺えて、其感應(かんおう)のむなしからざるをよろこびて、佛のをしへにまかせ、都、淸水に籠りて、

「求男求女(ぐなんぐによ)のおんちかごと、心念不空(しんねんふくう)の御〔おん〕いさをし、たがはせたまはずは、あはれみたまへ。」

と、一すぢに祈るに、七日〔なぬか〕滿つる曉に、ねむるともなく、まどろみたりしに、うつくしき童子一人、手に今をさかりの山櫻一枝(ひとえだ)、もちたまひしが、やがて、妻が枕のほとりにさし置きて、寶殿(はうでん)に入り給ふ、と見て、ゆめ、さめぬ。

 夫の太夫に此よしを語りて、

「所願むなしからぬしるし。」

と、猶も賴(たのみ)をかけて下向したりしに、ほどなく、只ならぬ身となり、十月(とつき)滿ちて女子をまうく。夫婦のよろこび、たとへをとるに、ものなし。

 靈夢(れいむ)にかたどりて、「小櫻」と名付けて、手のうちの珊瑚(さんご)と、いつくしみ、そだつるに、まことや、大悲の授けましましたるしるしにや、天性の艶色(ゑんしよく)、玉(たま)をあざむき、花もはづるよそほひ、父母の心は、いふもさらなり、近隣の者も其國色(こくしよく)をしらざるもの、なし。

[やぶちゃん注:「初瀨寺」現在の奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山(ぶさん)神楽院(かぐらいん)長谷寺(はせでら)。本尊は十一面観世音菩薩。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「淸水」京都府京都市東山区清水にある音羽山清水寺(きよみずでら)。もとは法相宗であったが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。本尊は十一面千手観世音菩薩。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「本尊(ほぞん)」「ほんぞん」に同じ。

「おんちかごと」「御誓言」。

「心念不空」「観音経」に出る「我爲汝略說 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦」で、訓読するなら、「我れ、汝が爲に略して說(と)かん。名を聞き及び、身(しん)を見、心に念じて、空しく過(す)ぐさざれば、能く諸有苦(しようく)を滅せん)」、「私はそなたのために簡潔に医謂おう。仏の名をしっかりと聞き、仏の姿を見、それを一途に心に念じ、忘れることなく過ごしたならば、ありとある苦痛をよく滅することが出来る」の意。

「寶殿」経蔵。

「國色」その国で一番の容色。絶世の美女。]

 

 齡(よはひ)もすでに最中(もなか)の月にちかづけば、あこがれ慕ふも、數をしらず、中にも一族のうち、河邊三郞、芳賀(はが)十郞なるもの、切(せち)におもひ入れて、

「我、むかへとらん。」

と爭ひて、仲人(なかびと)をもて、太夫夫婦に、其よし、きこゆれども、同じ一族といひ、何(いづ)れ隔(へだて)なきに、おもひわずらふうち、國の郡代何某(なにがし)、

「其子のためにむかへん。」

と、度々(たびたび)、使(つかひ)をもて、せめたりしに、太夫、おもふやう、

『老らくのたのしみ、只、此ものにあり。外(ほか)せしめんは、もとより本意(ほんい)ならず。されども、今その贅婿(ぜいしよ/イリムコ)を議せば、爭(あらそひ)を生ずる基(もとゐ)なり。暫し、都にのぼせ、いづかたへも宮仕させて、ゆるゆる、是をはからば、穩便の計(はからひ)なるべし。其うへ、玉(たま)を塵(ちり)に埋(うづ)まむよりは、はからぬ身のさいはひもあらば、老らくの榮行(さかゆ)く末も見まほし。』

など、おもひきはめ、取りしたゝめて、都にのぼせ、時の關白家に宮仕させける。

 郡代をはじめ、河邊、芳賀も、遺恨にはおもへども、力なくて、やみぬ。

[やぶちゃん注:「齡もすでに最中の月にちかづけば」女性の元服に相当する「髪上げ」・「裳着(もぎ)」の儀式をする年頃に近づいたので。概ね高貴な階級では古くは満十二、十三歳頃から十六歳頃に行われた。

「關白家」後の方を見ると、何時もの通り、時制違いの人物が出現するので、考証すること自体が甚だ無駄なのであるが、まず、矛盾や不道徳性を避けるためには、やはり父が仕えたのと同じ道長としておくのが無難である。]

 

 かくて、小櫻は官仕の後は、野路(のぢ)の梅がえを、御園(みその)にうつしたるこゝちにて、ひときは、容儀もすぐれ、歌の道、手習ふわざまで、をさをさ、世の人並(ひとなみ)には、まさりければ、政所(まんどころ)の御いつくしみ、ふかくおはしけり。

 頃しも、立ちかへる春のけしき、彌生の空といへば、柳・櫻の錦(にしき)、をりわたす都のながめ、さなきだに、大宮人(おほみやびと)のいとまありげに、

「そこよ、こゝよ。」

と、花に心はあこがるゝ折しも、關白家の政所、東山に、さくら狩して、

「いざや。名にし負ふ地主(ぢしゆ)の櫻を。」

とて、車を東南(ひがしみなみ)にきしらせ、やがて、中門(ちうもん[やぶちゃん注:ママ。])にさしよせて、政所をはじめ、あまたの女房、よりつどひ、袖をつらねて、幕となし、絹の香に、空も薰(かを)るばかり。

「さぞな、花の本意(ほい)ならめ。」

と、けふの花見はこゝにとゞまりぬ。

[やぶちゃん注:「政所」道長の正室ととるなら、源倫子(りんし/みちこ 康保元(九六四)年~天喜元(一〇五三)年)。父は左大臣源雅信、母は藤原穆子(ぼくし/あつこ)。宇多天皇の曾孫に当たる。

「地主」東山区にある地主神社。清水寺に隣接する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中門(ちうもん)」清水寺の中門である「轟橋轟門(とどろきばしとどろきもん)」(グーグル・マップ・データ航空写真)の事と思われる。]

 

 其頃、淸水のほとりに、年久しく行ひすまし、うき世を、雲のよそに見かぎりたるひじり、すみ給へり。むかしは叡山橫川(よかは)の學匠にて智淵中將(ちえんちゆうじやう)と呼びまゐらせて、僧綱(そうかう)もおもひのまゝすゝみたまひ、公家の梵筵(ぼんえん)につらなり、一山(いつさん)の學徒に仰がれたまひしかど、

「中々に、名聞(みやうもん)ぐるし。」

とて、山を離れてさすらへありき給ひし後、此山の奧に、形ばかりの庵(いほり)、ひきつくろひ、弟子の僧一人ならで具したまふものもなく、明暮、法華讀誦の外は、大悲の寶號(はうがう)を念じておはせしが、

「野も山も、花さき鳥鳴くにぞ、さては、うき世の春にこそ、我もまた、常ならぬ世になぞらへても、詠(なが)めんものを。」

と、けふしも、庵を出でて、地主(ぢしゆ)のほとりに、たちやすらひたまひ、

「誠や。人家(にんか)のへだてなき山の景色。」

と、杖にすがりて、遷流(せんる/ムジヤウ)の觀(くわん)、こらし居(ゐ)たまふに、小櫻は、何心なく政所のあそばしたる短册(たんざく)をもちながら、とある櫻の枝に手をかけたりしを、聖(ひじり)、一目(ひとめ)見給ふより、いかなるすく世(せ)の惡緣にてか侍(はんべ)りけん、さすがの大道心、たちまち、心、ゆるみて、

「こは。そも、いかにや。みめかたち、うるはしき女もあれば、あるものかは。古(いにすへ)の美人ときこえしも、などか、たとへにとるべき。離欲の仙人が帝釋天(たいしやくてん)の后(きさき)に通(つう)をうしなひたるも、かゝる類(たぐひ)なるべし。常々、不淨觀(ふじやうくわん)の前には、ひたすら、女はけがれたるものから、臭皮袋(しうひたい/ケガレタルイレモノ)とも見すてしが、それはなみの女にて、かゝる美人は、何れのところにか不淨の念のたよるべきか。あな、うるはし。」

と、うつゝ心なく、見とれたまふに、小ざくらも、

『後(うしろ)に人やある。』

と、かづきたる絹、すこし、かいやりて、見かはしたるに、八(や)そぢにあまるひじりの目もあやに見とれたまふさまに、

『けしからず。』

とや、おもひけん、かほ、そむけたるに、まなじりは、猶、のこりたるが、なほ、媚(こび)ありて、蓮葉(はちすば)に、露、こぼれ、曉の月、山の端にかすかになるまで、詠(なが)めやりたまひしかども、さすがはとし頃(ごろ)行ひすましたまヘるしるし、

「き。」

と、おもひかへし、

「こは、そも、佛のみまへにて、ちかひたることの、たがひたるよ。」

と、淨業障(じやうごつしやう)の文(もん)、誦(ず)じすてゝ、庵に引籠り、又も坐禪の床(ゆか)にのぼりたまヘども、介爾(けに/ワヅカ)、愛欲の雲きりに、さとりの月、かくれ、一念起動(きどう/サワグ)の、波風に禁(いましめ)の堤(つゝみ)、くずれ、護摩の煙(けふり)にふすぼりたまひし本尊も、ありしすがたに見まがひ、さとりの心、いつしか、雲井の空にまよひて、夜晝となく、おもひわづらひたまひ、遂には重き病にそみ給ふ。

[やぶちゃん注:「叡山橫川」比叡山延暦寺の横川中堂を中心とした横川(よかわ)地区(グーグル・マップ・データ航空写真)。慈覚大師円仁によって開かれ、源信・親鸞・日蓮・道元といた名僧らが修行に入った地である。

「智淵中將」不詳。

「僧綱(そうかう)」通常は「そうがう」(そうごう)と濁る。僧尼の大綱を保ち、諸寺を監督するために設けられた僧官の総称。中国に始まったが、本邦では京師の諸寺より推挙された智徳兼備の人物が任命され、綱所(こうじょ)にあって事務を行い、僧正・僧都・律師の三階の称が用いられ、これをさらに大・少・正・権などに分けた。人数も「弘仁格(こうにんきゃく)」では僧正・大僧都各一名・少僧都二名・律師四名と定められたが、後に漸次増員し、貞観六(八六四)年には、これらに相当する僧位として、僧正に法印大和尚位(ほういんだいかしょうい)、僧都に法眼(ほうげん)和尚位、律師に法橋上人位(ほうきょうしょうにんい)が設けられたこともあって、人数の増加に拍車をかけ、応徳三(一〇八六)年には総勢二十七人と激増し、有名無実となった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「公家の梵筵(ぼんえん)」公家衆の法座。

「一山(いつさん)」比叡山。

「名聞(みやうもん)ぐるし」あたかも名声を求める「ために」するようなありさまが如何にも見苦しい。

「弟子の僧一人ならで」「ならで」は連語で「以外には」の意。

「大悲の寶號(はうがう)」「宝号」は観音を指し示す日本語の漢字表現「南無大慈大悲觀世音菩薩」を指す。

「人家(にんか)のへだてなき山の景色」人の住む世界と自然とが分離していないように見かけ上は見える山の景観。しかし所詮それも本質は「遷流(せんる/ムジヤウ)」=無常の時空間であるとする。

「こらし居(ゐ)たまふに」「凝らす居給ふ」。ここに既に凝(じ)っと対象を見つめてしまうという執着への踏み間違い(綻び)が現れていると私は読む。

「離欲の仙人が帝釋天(たいしやくてん)の后(きさき)に通(つう)をうしなひたる」これは「今昔物語集」の巻第五の「天竺付(つけたり)佛前」の「天帝釋夫人舍脂音聞仙人語第三十」(天帝釋(てんたいしやく)の夫人(ぶにん)舍脂(しやし)の音(こゑ)を聞きし仙人の語(こと)第三十)を指す。短いので、総て引く。

   *

 今は昔、舍脂夫人と云ふは、天帝釋の御妻(みめ)なり。毗摩質多羅阿修羅王(びましつたらあしゆらわう)[やぶちゃん注:須弥山最深部にある阿修羅界の王。]の娘なり。佛(ほとけ)[やぶちゃん注:釈迦。]、未だ世に出で給はざる前に、一(ひとり)の仙人、有りけり。名をば提婆延那(だいばなえん)と云ふ。帝釋、常に其の仙の所に行きて、仙法を習ひ給ふ。其の時に、舍脂夫人、心の中に思ふ樣、

『帝釋、定めて仙法を習ふにしも有らじ。此の人、必ず、他(ほか)の夫人の有るか。』

と思ひて、密(ひそか)に、夫人、帝釋の後ろに隱れて、尋ね行きて見れば、實(まこと)に帝釋、仙の前に居(ゐ)給へり。帝釋、夫人の密に來れるを見給ひて、呵嘖(かしやく)[やぶちゃん注:声を荒らげて叱責すること。]して宣はく、

「仙の法は、女人(によにん)に見しめず。亦、聞かしめず。早う、還り給ふべし。」

と云ひて、蓮(はちす)の莖(くき)を以つて、舍脂夫人を打つ。

 其の時に、舍脂夫人、あまへて、帝釋と戲(たはぶ)る。其の時に、仙人、夫人のあてなる音(こゑ)を聞きて、心の穢(け)がれければ、忽ちに、仙の通力、失せて、凡夫(ぼんぷ)に成りにけり。

 然(さ)れば、「女人は仙の法の爲に、大(おほき)なる障(さはり)なり」となむ、語り傳へたるとや。

   *

「不淨觀」身体の不浄さを観ずる行法の一つ。自身や他者の身体が腐敗・白骨化していさまを観想し、それへの執着を断つことを基本とする。九相図絵巻はこれを図案化したもの。

「女はけがれたるものから、臭皮袋(しうひたい/ケガレタルイレモノ)とも見すてしが」「女」と限定するが、これは前の不浄観から判る通り、誤りである。「中身に腥(なまぐさ)い物を入れている皮袋」で、我々、「人間の」不潔な「肉体」を広く指す語である。

「それはなみの女にて、かゝる美人は、何れのところにか不淨の念のたよるべきか、あな、うるはし」この儚い見かけ上の「美」に捕われて哀しくも差別化して取り立ててしまった瞬間、この智淵の長年の修行は完全に無化されてしまったのである。

「淨業障(じやうごつしやう)」業障(ごっしょう)とは、悪業のために浄なる聖道とその加行(かぎょう)の善根を妨げる障り。「ごうしょう」とも読む。

「文(もん)」経文。呪文。

「介爾(けに/ワヅカ)」仏語で、非常に微弱なこと。主として一刹那の心(一念)の形容に用いる。

「雲きり」「雲霧」。

「護摩の煙(けふり)にふすぼりたまひし本尊も、ありしすがたに見まがひ」護摩を焚いている煙の向こうにぼんやり見える本尊(恐らくは観世音菩薩像)も、さっき見た小桜の面影に髣髴してしまうというのである。このシークエンスはなかなかに上手い。]

 

 されども、われからこがす、と覺(おぼ)して、醫療(いれう)をも用ひたまはねば、弟子の僧もせんすべなくて、日を送るうち、「山科の宰相」ときこえしは、値遇(ちぐう)の緣ありて、折には、庵にまうでたまひしが、此やうを見たまひて、

「など、醫師(いし/クスシ)をも、めさざるや。御いたはりは何やらん。」

と、さまざま、なぐさめたまふに、聖、枕をもたげて、淚ながらに、ありしあらましをかたりたまへば、宰相、驚きて、

「さては。道心のいみじくおはすを、さまたげ奉らんと、障碍神(しやうげじん)のわざにてこそ侍(はべ)るらめ。さるにても、御心〔みこころ〕をやすんじ給へ。毒をもて、毒をかる方便(てだて)、はからひ申すべし。」

とて、其日の花見車(はなみぐるま)をしるしに、尋ねたまへば、やがて關白家の御車(みくるま)にて、その女こそ、新命婦(しんみやうぶ)「小ざくら」と、たしかにいふものあり。

 宰相、こまごかと消息(せうそく/フミ)して、

「かゝる貴(たふと)き聖の夫(それ)ゆゑに、末の世かけて、まよひ給はんも、淺ましくも、そらおそろし。とても、世をさりたまひてんこと、風(かぜ)の前の燈(ともしび)きえぬ間(ま)に、一度、きたり、まみえたまはゞ、そこのためにも、あしき緣(えにし)にも侍(はんべ)るまじ。」

など、理(ことはり[やぶちゃん注:ママ。])せめて、いひ送りたまへば、小ざくら、もとより、心ある女にて、

「うれしくもきこえたまふものかな。とく、まゐりてこそ申さめ。」

といらヘて、あくるあした、淸水に尋ねきたり、

「消息たまはりし女こそ、まゐりたれ。」

と、具したる女に案内させ、やがて、ひじりの枕のほとりに、ちかく居(ゐ)よりて、

「此ほどの御いたはりは、つたなき自(みづか)らゆゑときこえ侍(はんべ)るに、かへすがへすも、罪ふかき身を持ちて、一度(〔いち〕ど)、きよらかにさとりたまひし御心〔みこころ〕をくるしめ奉ることの、あさましさよ。さるにても、すく世(せ)、いかなるえにしの侍(はべ)るらん。又、末(すゑ)の世、やみ路をも照したまはるべきわが身の幸(さいはひ)を、御佛(みほとけ)のこしらヘたまひし事にや、とおもひわきまへて、御勞(おんいたはり)をも、見もし、御心をも、なぐさめ參らせんため、來(きた)りまみえ侍(はんべ)る。」

と、懇(ねんごろ)にきこゆるにぞ、聖、淚をおさへて、

「さらば、某(それがし)が、年頃(としごろ)、讀誦(どくじゆ)の功(こう)つもりたる、法華十萬部の、最上の功德(くどく)を、のこりなく讓りまゐらせん。此すゑ、いかなる人にも馴れ給ひ、男子(をとこご)をまうけたまはゞ、攝政・關白、もしや、出家となしたまはゞ、僧正・僧都、姬ならば、女御・更衣、是なん、しるしとし給ふべし。」

とて、弟子の僧に筆をとらしめて、

  多年愛養菩提樹

  留遇人間第一春

[やぶちゃん注:「多年 愛し養ふ 菩提の樹(うゑき)」「留(とゞ)めて遇(あ)はしむ 人間 第一の春」と訓じている。]

二句を吟じ畢(をは)りて、座をくみ、掌(たなごころ)を合せて、終(つゐ[やぶちゃん注:原本のママ。])に、こときれたまふ。

 小櫻、おどろきて、雨露(あめつゆ)となげきかなしめども、其甲斐なく、まして、宮仕の身なれば、心ならずも、そのまま歸りし跡(あと)にて、山科家より荼毘(だび/クワソウ)の儀とり行ひたまひ、鳥部山に葬り、供養、さまざま、沙汰したまふ。

 小櫻も、折には、まうでて、

「今はの御言葉、たがひなくは、末々(すゑずゑ)は一宇の伽藍をたてまゐらせん。」

と祈りしが、ほどなく宇治殿(うぢどの)におもはれて、君達(きんだち)・姬君、數人(すにん)出來(でき)て、いつくしみ、深かりし事ども、聖のことば、露(つゆ)違(たが)ふことなく、みなみな、爵位・昇進、心のまゝに、ときめきたまひけり。

 小櫻、宇治殿に事のやうを、きこえまゐらせて、一宇を建立し、如意山(によいさん)普門寺(ふもんじ)となづけ、興福寺の千覺律師、供養の導師には、たち給ひし。封戶(ほうこ/ジリヤウ)あまたよせられて、めでたき伽藍なりしが、近き頃までは東山に其舊趾(きうし)侍(はんべ)りしとぞ。

[やぶちゃん注:「われからこがす」「我から焦がす」。病原は外ならぬ、自分自身の焦がれる愛執の一念にあることが判っているから、医療の世話にも敢えてならぬのである。

「山科の宰相」不詳。山科家は羽林家の家格を有する公家であるが成立は、平安末期、後白河法皇の下北面に仕えた藤原教成に始まるから、この話柄とは自制的に合わないと思う。識者の御教授を乞う。

「障碍神(しやうげじん)」「障碍」は「障礙」とも書き、仏教で悟りの障害となるものを広く言う。

「毒をかる方便(てだて)」「かる」は「狩(か)る」。

「命婦」平安中期以降の中級の女官や中﨟 (ちゅうろう) の女房の称。

「消息」この場合は現在の智淵の様態とその原因の「山科の宰相」から受けた知らせの意。

「宮仕の身なれば、心ならずも、そのまま歸りし」「死の穢れ」に触れた者は宮中へ戻ることは出来ないので、秘密裏にして、「山科の宰相」へ応急の処置を頼んだものであろう。

「宇治殿」父道長の後を継いで、後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世に、関白を実に五十年の長きに亘って務めた藤原頼通(正暦三(九九二)年~延久六(一〇七四)年)の別名である。永承七(一〇五二)年に平等院鳳凰堂を作るが、これは道長の別荘であった宇治殿を改修したものであった。晩年閉居したのも宇治であった。

「君達(きんだち)」摂関家・清華家 (せいがけ:摂関家に次いで大臣家の上に位し、大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる家柄) などの子弟。

「如意山(によいさん)普門寺(ふもんじ)」不詳。嘗て現在の京都府京都市東山区東福寺隣にあった臨済宗凌霄山普門寺があるが、これは鎌倉時代の峯寺関白藤原道家の開基で話が合わない。

「興福寺の千覺律師」興福寺に入り僧正隆覚に師事した千覚(康和三(一一〇一)年~?)がいるが、彼は平安末期の僧で、ウィキの「千覚」を見ても、時制が合わない。またしても、やられた感じがする。]

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