北原白秋 邪宗門 正規表現版 耽溺
耽 溺
あな悲(かな)し、紅(あか)き帆(ほ)きたる。
聽(き)けよ、今(いま)、紅(あか)き帆(ほ)きたる。
白日(はくじつ)の光の水脈(みを)に、
わが戀の器樂(きがく)の海に。
あはれ、聽け、光は噎(むせ)び、
海顫ひ、淸搔(すががき)焦(こ)がれ
眩暈(めくる)めく悲愁(かなしみ)の極(はて)、
苦悶(もだえ)そふ歡樂(よろこび)のせて
キユラソオの紅(あか)き帆(ほ)ひびく。
彈(ひ)けよ、彈(ひ)け、毒(どく)の井゙オロン
吹けよ、また媚藥(びやく)の嵐。
あはれ歌、あはれ幻(まぼろし)、
その海に紅(あか)き帆(ほ)光る。
海の歌きこゆ、このとき、
『噫(あゝ)、かなし、炎(ほのほ)よ、慾(よく)よ、
接吻(くちつけ)よ。』
聽けよ、また苦(にが)き愛着(あいぢやく)、
肉(しゝむら)のおびえと恐怖(おそれ)、
『死ねよ、死ね』、紅(あか)き帆(ほ)響(ひゞ)く、
『戀よ、汝(な)よ。』
彈(ひ)けよ、彈(ひ)け、毒の井゙オロン
吹けよ、また媚藥(びやく)の嵐。
一瞬(ひととき)よ、――光よ、水脈(みを)よ、
樂(がく)の音(ね)よ――酒のキユラソオ、
接吻(くちつけ)の非命(ひめい)の快樂(けらく)、
毒水(どくすゐ)の火のわななきよ。
狂(くる)へ、狂(くる)へ、破滅(ほろび)の渚(なぎさ)、
聽くははや樂(がく)の大極(たいきよく)、
狂亂(きやうらん)の日の光吸(す)ふ
紅(あか)き帆の終(つひ)のはためき。
死なむ、死なむ、二人(ふたり)は死なむ。
紅(あか)き帆(ほ)きゆる。
紅(あか)き帆(ほ)きゆる。
四十年十二月
[やぶちゃん注:「淸搔(すががき)」幾つかの意味があるが、原義を当てる。和琴 (わごん) の手法の一つで、全部の弦を一度に弾いて、手前から三番目又は四番目の弦の余韻だけを残すように、他の弦を左指で押さえるもの。
「キユラソオ」Curaçao(フランス語)。リキュールの一種。古くからオランダが主産地で、現在もオランダ自治領であるカリブ海のクラサオ(キュラソー)島特産のビター・オレンジの未熟果の果皮を乾燥させ、基酒であるラムに浸出したもの。フランス産キュラソーはブランデーを基酒とする。オレンジ色のオレンジ・キュラソーや無色のホワイト・キュラソーなどがあり、アルコールは約四十度と高く、カクテルによく用いられる。ブルー・キュラソーの色がよく知られるが、オレンジ・キュラソーを樽熟成させたものは褐色を帯びる。ここで出た二箇所のそれは、後者はそのままであるが、前者は、その色を想像の航海する帆船の色に転じたものである。
「非命」天命でなく、思いがけない災難で死ぬこと。横死。]
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