北原白秋 邪宗門 正規表現版 蜜の室
蜜 の 室
薄暮(くれがた)の潤(うる)みにごれる室(むろ)の内(うち)、
甘くも腐(くさ)る百合(ゆり)の蜜(みつ)、はた、靄(もや)ぼかし
色赤きいんくの罎(びん)のかたちして
ひそかに點(とも)る豆らんぷ息(いき)づみ曇る。
『豐國(とよくに)』のぼやけし似顏(にがほ)生(なま)ぬるく、
曇硝子(くもりがらす)の窻のそと外光(ぐわいくわう)なやむ。
ものの本(ほん)、あるはちらぼふ日のなげき、
暮れもなやめる靈(たましひ)の金字(きんじ)のにほひ。
接吻(くちつけ)の長(なが)き甘さに倦(あ)きぬらむ。
そと手をほどき靄の内(うち)さぐる心地(こゝち)に、
色盲(しきまう)の瞳(ひとみ)の女(をんな)うらまどひ、
病(や)めるペリガンいま遠き濕地(しめぢ)になげく。
かかるとき、おぼめき摩(なす)る Violon(井゛オ ロン) の
なやみの絃(いと)の手觸(てさはり)のにほひの重(おも)さ。
鈍(にぶ)き毛(け)の絨氈(じゆたん)に甘き蜜(みつ)の闇(やみ)
澱(おど)み饐(す)えつつ……血のごともらんぷは消ゆる。
四十一年八月
[やぶちゃん注:「息(いき)づみ」「息詰み」。これには「息を詰めて腹に力を入れる」の意と、「こらえる・辛抱する」の意があるが、「ひそかに點る」を受ける以上、後者の擬人法である。
「豐國」最も知られるのは初代歌川豊国(明和六(一七六九)年~文政八(一八二五)年)であるが(豊国の襲名者は本詩篇以前では四代目までいる)、「ぼやけ」たタッチの「似顔」で「生ぬる」い感じは私は受けない。「ぼやけし」というのは或いは浮世絵の女の顔のステロタイプというか、マニエリスム的な部分を言っているのかも知れない。
「ペリガン」ペリカン。「曇日」で既出既注であるが、そこでは「ベリガン」となっていたことは注記済みである。
「Violon(井゙オロン)」ルビは御覧の通り、「井」に濁点で、「ヸ」ではない。一字ではユニコードでも表記出来ないが、漢字の「井」をポイント落ちにし、濁点「゛」を上付き半角にして示した。
「絨氈(じゆたん)」はママ。後発の作品集では「じゆうたん」となっているが、私は誤植とは思わない。「絨」には「ジユ(ジュ)」の音があるからであり、作者の五・七の音律からは「じゆたん(じゅたん)」を選んで何らおかしくないからである。実際、朗読して見た時、この部分に「じゅうたん」の緩みが入るのでは、頗るコーダの雰囲気を躓かせ、壊すように思われるからでもある。]
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