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2020/10/22

譚海 卷之三 尊純親王 (良純法(入道)親王の誤り)

尊純親王

○尊純親王と聞へしは、後陽成院の八の宮にをはしまして、和歌も堪能に入せられ、御手跡(ごしゆせき)など殊に勝れて、聰明なる宮にましましけるが、時勢にしたがつて放蕩にましまし、伏見の墨染(すみぞめ)の遊女屋に常に遊び給ひ、御行跡(ごぎやうせき)よろしからざりしかば、終(つひ)に甲斐の國に左遷せられ、かしこにてかくれ給ふといへり。鹽(しほ)の山の禪寺の邊(あたり)に御墓ありといへり。甲州へ御首途(おんかどで)の時伏見の遊女に贈らせ給ふ訣別の御文、殊に哀(あはれ)なるもののよし、烏石(うせき)といへる書家祕藏して傳へたるを見たる人のかたりし也。

[やぶちゃん注:「尊純親王」は良純法(入道)親王の誤り。後陽成天皇第八皇子良純入道親王(慶長八(一六〇四)年~寛文九(一六六九)年)。知恩院初代門跡。五歳で知恩院門跡に治定されて同寺に入ったが、出家は先送りされ、その後、慶長一九(一六一四)年に親王宣下を受けて直輔親王と名のり、翌元和元年に徳川家康の猶子となった(これは門跡となるための儀式上の処理で、これより以後、門跡は将軍の猶子となるのが慣例となった)。元和五(一六一九)年十六歳の時、満誉尊照を戒師として出家得度し、良純と名乗った。ところが、寛永二〇(一六四三)年十一月、突如、甲斐国天目山(山梨県甲州市大和町(やまとちょう)木賊(とくさ)にある臨済宗天目山棲雲寺(グーグル・マップ・データ)であろう)に配流された。理由としては、寺務を巡る大衆との対立・酒乱による乱行(らんぎょう)・江戸幕府の朝廷及び寺院への介入への批難・待遇不満・出家不満など、諸説があるが、飾り物である門跡の地位への不満及び幕府からの圧迫に対する不満があったとする見方は一致している。後に甲府の曹洞宗興因寺(甲府市下積翠寺町(しもせきすいじまち)のここ。グーグル・マップ・データ)に移され、幽閉された。但し、ここに甲府で没したとするのも誤りで、万治二(一六五九)年には勅許によって帰京したが、知恩院ではなく、泉涌寺に住んだ。後、北野で還俗、隠退生活を送った。後には以心庵と号し、六十七歳で没し、泉涌寺に葬られて「専蓮社行誉心阿自在良尚大僧正」の諡号(おくりな/シゴウ)が贈られた。明和五(一七六八)年の百回忌に際しては、名誉回復が図られて、改めて「無礙光院宮良純大和尚」の諡号が追贈されてもいる(以上はウィキの「良純入道親王」に拠った)。津村淙庵(元文元(一七三六)年?~文化三(一八〇六)年)の本「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞奇譚をとり纏めたもので、既に名誉回復も終わった後であって、この内容は公家にも寺方にとっても頗る偏頗なものであるはずだが、彼らにとっても名誉回復してしまえば、終わった「過去の人物」であり、還俗してもいるから、寺方も特に文句は言いそうもない。それにしても、誤りが多過ぎていただけない

「伏見の墨染(すみぞめ)の遊女屋」京都府京都市伏見区墨染町(グーグル・マップ・データ)にあった遊廓のこと。サイト「遊廓・遊所データベース」の「京都府所在の遊廓の沿革と概要」によれば、『京都では、江戸・大坂と同様、近世初頭に唯一の公認として島原遊廓ができた』が、十七世紀から十八『世紀にかけての市中東部を中心とする新地開発に伴い、北野、祇園などに茶屋町が形成され、島原は早くも』十八『世紀前半から長期的な営業不振にあえいだ』。十八『世紀末の寛政改革に際して、新地の』四『か所に島原からの出稼を名目とする遊女屋営業が免許され、島原は「茶屋年寄」として出稼地からの上前を取得した(差配体制)。差配体制は、天保改革期の一時廃止をはさみ、明治』三(一八七〇)『年まで継続した』とあり、当該ページのデータの『3)明治後半以降の展開』に、明治一九(一八八六)年の『五業取締規則にもとづく京都府の遊廓統制は』、明治三三(一九〇〇)年の内務省令第四十四号『「娼妓取締規則」公布まで続』き、同『年、娼妓取締規則を受けて出された京都府令第』百『号「貸座敷取締規則」によって、それまでの子方営業は貸座敷営業と見なすようになり、新たに貸座敷営業者・芸紹介業者・娼妓の三区分にもとづいた統制が行われるようになった。規則に掲載された貸座敷営業免許地は、上七軒、五番町、先斗町、祇園新地、島原、宮川町、下河原、七条新地のほか、伏見町の墨染・恵美須町・中書島、橋本、庵我村、宮津万年新地・新浜、舞鶴朝代町の計』十六『か所であった』と記す中に、伏見町墨染があることから、ここが江戸時代からの遊廓であったのであろうことが判る。

「鹽(しほ)の山」山梨県甲州市塩山地区のことであろうが、先の二ヶ寺は孰れも塩山からは東西に有意に離れているので、これも誤りである。

「烏石といへる書家」」江戸中期の書家松下烏石(元禄一二(一六九九)年~安永八(一七七九)年)。ウィキの「松下烏石」によれば、『幕臣の松下常親の次男として生まれる。書は佐々木玄竜・文山兄弟に学んだ。欧陽詢の流れを汲んだ唐様の書法だったという。また』、『詩文を服部南郭に学んでいる。表面にカラスの模様のある天然石を磐井神社(東京都大田区大森)に寄進したことで知られる。この石は「烏石」と呼ばれ』、『評判となり、多くの文人墨客が見学に訪れたという』。『江戸古川に住んでいたが』、『明和年間に京都に移り』、『西本願寺の賓客として晩年を送』ったというとある。そこに出た「烏石」については、私の「耳囊卷之三 鈴森八幡烏石の事」の本文及び注を参照されたい。実は、この松下烏石というのも、かなり問題のある人物だったようである。]

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