北原白秋 邪宗門 正規表現版 雨の日ぐらし
雨の日ぐらし
ち、ち、ち、ち、と、もののせはしく
刻(きざ)む音(おと)……
河岸(かし)のそば、
黴(かび)の香(か)のしめりも暗し、
かくてあな暮れてもゆくか、
驛遞(えきてい)の局(きよく)の長壁(ながかべ)
灰色(はひいろ)に、暗きうれひに、
おとつひも、昨日(きのふ)も、今日(けふ)も。
さあれ、なほ薰(くゆ)りのこれる
一列(ひとつら)の紅(あか)き花罌粟(はなけし)
かたかげの草に濡れつつ、
うちしめり浮きもいでぬる。
雨はまたくらく、あかるく、
やはらかきゆめの曲節(めろでい)……
ち、ち、ち、ち、と絕えずせはしく
刻(きざ)む音……
角窻の玻璃(はり)のくらみを
死(し)の報知(しらせ)ひまなく打電(う)てる。
さてあればそこはかとなく
出でもゆく
薄ぐらき思(おもひ)のやから
その步行(あるき)夜(よ)にか入るらむ。
しばらくは
事もなし。
かかる日の雨の日ぐらし。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻(きざ)む音(おと)……
さもあれや、
雨はまたゆるにしとしと
暮れもゆくゆめの曲節(めろでい)……
いづこにか鈴(すゞ)の音(ね)しつつ、
近く、
はた、遠のく軋(きしり)、
待ちあぐむ郵便馬車(いうびんばしや)の
旗の色(いろ)見えも來なくに、
うち曇る馬の遠嘶(とほなき)。
さあれ、ふと
夕日さしそふ。
瞬間(たまゆら)の夕日さしそふ。
あなあはれ、
あなあはれ、
泣き入りぬ罌粟(けし)のひとつら、
最終(いやはて)に燃(も)えてもちりぬ。
日の光かすかに消ゆる。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻(きざ)む音(おと)……
雨の曲節(めろでい)……
ものなべて、
ものなべて、
さは入らむ、暗き愁に。
あはれ、また、出でゆきし思のやから
歸り來なくに。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻(きざ)む音(おと)……
雨の曲節(めろでい)……
灰色(はひいろ)の局(きよく)は夜(よ)に入る。
四十一年五月
[やぶちゃん注:私の好きな半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目セミ上科セミ科セミ亜科ホソヒグラシ族ヒグラシ属ヒグラシ Tanna japonensis の詩。私はもう楽曲を聴くことが殆んどない。作業しながら聴くのは専ら――亡きアリスと散歩しながら聴いた――それだ。例えば――YouTube のTOMOKI Nature Sounds & Landscapesの「【睡眠用BGM】ひぐらしの鳴き声と川のせせらぎ」――
「驛遞(えきてい)の局(きよく)」郵便局。
「死(し)の報知(しらせ)ひまなく打電(う)てる」電話による電報が開始されるのは明治二三(一八九〇)年で、それまでは郵便局で電報を扱っていたから、これは、或いは白秋の記憶の幼少期の記憶に基づくとすれば(彼は明治一八(一八八五)年一月二十五日生まれ)、この電報を打っている場所はやはり同じ「駅遞局」であると考えてよいと私は思う。但し、これは言わずもがな、実際の訃報電報の打電音ではなく、ヒグラシの音を不吉なそれにオノマトペイアとしたもの。その気持ちはひどく判る。
因みに、私は本電子化終了後に逸早く縦書ルビ版で「邪宗門」全部をPDFで公開するために、一篇を公開後するごとに、ルビ版を作成している。この偏愛の一篇だけをフライングしてお示ししよう。]