北原白秋 邪宗門 正規表現版 浴室
浴 室
水落つ、たたと……………浴室(よくしつ)の眞白き湯壺(ゆつぼ)
大理石(なめいし)の苦惱(なやみ)に湯氣(ゆげ)ぞたちのぼる。
硝子(がらす)の外(そと)の濁川(にごりがは)、日にあかあかと
小蒸汽(こじようき)の船腹(ふなばら)光るひとみぎり、太鼓ぞ鳴れる。
水落つ、たたと……………灰色(はひいろ)の亞鉛(とたん)の屋根の
繫留所(けいりうじよ)、わが窓近き陰欝(いんうつ)に
行德(ぎやうとく)ゆきの人はいま見つつ聲なし、
川むかひ、黃褐色(わうかつしよく)の雲のもと、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たたと……………兩國(りやうごく)の大吊橋(おほつりばし)は
うち煤(すす)け、上手斜(かみてななめ)に日を浴(あ)びて、
色薄黃(き)ばみ、はた重く、ちやるめらまじり
忙(せは)しげに夜(よ)に入る子らが身の運(はこ)び、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たたと……………もの甘く、あるひは赤く、
うらわかきわれの素肌(すはだ)に沁(し)みきたる
鐵(てつ)のにほひと、腐(くさ)れゆく石鹼(しやぼん)のしぶき。
水面(みのも)には荷足(にたり)の暮れて呼ぶ聲す、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たたと……………たたとあな音色(ねいろ)柔(やは)らに、
大理石(なめいし)の苦惱(なやみ)に湯氣(ゆげ)は濃(こ)く、温(ぬ)るく、
鈍(にぶ)きどよみと外光(ぐわいくわう)のなまめく靄に
疲(つか)れゆく赤き都會(とくわい)のらうたげさ、太皷ぞ鳴れる。
四十一年八月
[やぶちゃん注:本篇については、本庄あかね氏の論文『北原白秋「浴室」の詩法 : 時の推移の表現をめぐって』(『稿本近代文学』(二〇一一年十二月発行)所収・PDF)が優れている。ロケーションはグーグル・マップ・データではこの範囲で、「今昔マップ」で示すとこの範囲。]
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