ブログ・アクセス1,430,000突破記念 梅崎春生 水兵帽の話
[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年七月号『文学界』に発表された小品。単行本未収録。
底本は「梅崎春生全集」第一巻(昭和五九(一九八四)年五月刊)に拠った。
水兵帽は、グーグル画像検索「大日本帝国海軍 水兵帽」をリンクさせておく。
傍点「ヽ」は太字に代えた。簡単な注を文中に挟んだ。
本電子化注は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが先ほど、1,430,000アクセスを突破した記念として公開する。こんなに早く来るとは予測していなかったので、ストックがなく、掌篇で失礼する。【2020年10月11日 藪野直史】]
水兵帽の話
生れてこのかた、赤ちゃん帽を初めとして、さまざまな種類の帽子をかぶって生きてきた。子供帽。学帽。ムギワラ帽。鳥打帽。中折帽。スキイ帽。其の他いろいろ。
これらの帽子は、それぞれ年齢や季節に応じて、僕の顔や身体にほどよく似合ったが、ただひとつ、ある種の帽子だけは、徹底的に僕に似合わなかったようである。
それは水兵帽だ。
戦争末期に召集され、この不似合いな帽子を頭にかぶせられ、一年あまりの期間、僕はしごく憂欝な生き方をした。
水兵帽というのは、誰も知っているように、あの廂(ひさし)のない、ぐるりと細いリボンを巻きつけた、平たい型の帽子だ。リボンには金文字で、大日本帝国海軍、などと縫い取りがしてある。
縫い取りは別として、帽子の型だけから言っても、この型の帽子は、年寄りにはぜんぜん似合わない。似合うのは、五六歳の子供から、せいぜい二十歳の若者どまりである。二十を過ぎると、もうそろそろおかしくなる。その上この型の帽子は、眼鏡には絶対に調和しないのだ。眼鏡をかけた男が、水兵帽をかぶっているほど、不似合いで慘めな恰好はないだろう。
その時、僕は三十歳。ひょろひょろと瘦(や)せ、しかも眼鏡をかけていた。いかに僕といえども、これでは手のつくしようもない。
だから他の連中がやるように、天井に微妙な煩斜をつけてみたり、リボンのヒラヒラをきちんと撫でつけたり、かぶり方に工夫をこらすようなことは、僕は全然やらない。頭にのっけておくだけである。帽子であるからには、とにかく頭に乗せておけばいいんだろう。そういう気持で、お盆(ぼん)でものっけるように、チョコンと頭蓋にのせておく。大事そうにすっぽりと耳までかぶることもしない。思えばそれが不覚のもとであった。あの時吹いた一陣の風のために、僕の水兵帽はフワフワと頭から離れ、ヒラヒラと線路の上にまいおちたのだ。あっと言う間もなかった。あわてて手を伸ばしても、もうおっつかない。列車はすでにゴトンと動き始めていたのだから。
「あ。帽子が!」
傍にいた誰かが呼んだ。線路にあおむけに落ちた帽子の形が、見る見る僕の眼に遠ざかって行く。夏の目がカンカン照っていて、線路と枕木にかこまれた砂利面が、しろじろと浮き上っている。僕の帽子はそのまんなかに、チョコナンと落ちているのだ。その蒼黒い帽子の色は、したたかに僕の眼に沁み入った。僕は車窓から半身を乗り出して、思わずうなり声を立てたと思う。いま帽子を失くしたら、どうなるのか。腹の中まで真黒になる気がしたとたん、僕の身体は背後からあらあらしく車内に引き戻された。あまり身体を乗り出し過ぎていたせいだろう。
「くよくよするな。帽子なくしたぐらいで!」
怒鳴るようにそう言ったのは、ひとりの僕の僚友である。名前はもう忘れた。しかしその男の兵籍番号だけは、今でも覚えている。それは僕と一番違いの番号だったからだ。この男のは、『佐二補水九六八九号』というのだ。佐世保・第二補充兵・水兵・九六八九号という意味である。僕の番号は『九六八八号』であった。その『九六八九号』が勢づけるように、僕の背をどしんと叩いて言った。
「どうにかなるさ。なんだい、帽子のひとつやふたつ位で。元気出せよ」
「くよくよなんか、してないさ」
と僕は答えた。元気よく答えたつもりだったが、声がそれを裏切って、しごく情ない口調となったようだ。車内の皆の眼が、僕にそそがれている。あざけられ、あわれまれているような自分を感じて、僕はあかくなり、小さくなった。車内にいるのは全部、僕の僚友であり、僕同様の応召兵であり、水兵帽があまり似合わぬ連中ばかりである。僕らはその時、防府海軍通信学校から、佐世保海兵団に転勤を命ぜられて、その移動の途中であった。
そこへ輸送係の下士官が、人々を押し分けて、僕の方に近づいてきた。僕の裸の頭を見るなり、とたんに大きな声を出した。
「貴様。帽子は、どうしたんだ。帽子は!」
『昭和十九年海人三機密第一号ノ一四四』という長たらしい名前の軍令がある。サイパン陥落直後に海軍人事部から発せられたものだ。
その内容は――事態が緊迫してきたから、応召老兵たちに特殊教育をほどこすのを中止して、直(ただ)ちに南方島嶼(とうしょ)などに輸送し、玉砕部隊として使用せよ、というほどの命令らしい。僕たちにとっては、容易ならぬ意味をもつ命令だった。
僕たち二百名はその頃、防府通信学校で暗号術の講習を受けていたのである。暑い日盛りを、教室に追い入れられ、暗号術を詰めこまれるのはラクではなかったが、膂力(りょりょく)[やぶちゃん注:筋肉の力。腕力。]に乏しい僕らにとっては、陸戦訓練や作業よりはまだしもマシであった。夜の煙草盆などで、そう言いながら、お互いになぐさめ合ったりしたものだ。通信学校といっても、だから僕らは正規の生徒ではなく、暗号術特技兵臨時講習員という身分なのである。みんな第二乙や丙種の貧弱な身体で、年齢も三十過ぎが多いし、他に使いようもないから、暗号解きにでも使えというわけだったのだろう。
ところがその『第一号ノ一四四』というやつが発令されたばかりに、僕らの環境はまたたく間に一変したのだ。暗号術講習は即日中止され、僕らは荷物をせっせと衣囊(いのう)に詰め込み、それをかついで通信学校から二里の道をテクテク歩き、山陽線三田尻の駅に着いた[やぶちゃん注:「三田尻」駅は現在の防府駅(グーグル・マップ・データ)の旧称。本作発表から十一年後の昭和三七(一九六二)年十一月一日に防府駅に改称された。]。昭和十九年七月二十日のことで、僕が海軍に入って、丁度五十日目にあたる。むちゃくちゃに暑い日であった。これから汽車に詰め込まれて、一応佐世保海兵団に送られるのである。
僕らはすでに『第一号ノ一四四』の内容については、おおむね知悉(ちしつ)していた。誰から説明されなくとも、ひとたび軍隊に入ると、昆虫のように触角が鋭敏にはたらくものだ。ことに自分らの将来については。だから僕らは囚人みたいに不機嫌に、ぞろぞろと汽車に乗り込んだ。みなの顔や手足は、汗と塵埃(じんあい)にまみれて、さんたんたる状態になっている。はつらつとしているのは、輸送係の下土官だけであった。彼等はまだ年若いし、重い衣嚢をかついでいないから、元気なのも当然なのである。僕のところに飛んできたのは、その一人である。
「なにい。帽子を落したア?」眉をつり上げてその下士官は怒鳴った。あまり勢こんで、口も利(き)けない風であった。
「な、なんちゅうことを、貴様、それで、それでもって――」
彼はいきなり腕をふり上げて、僕を殴ろうとしたが、僕が顔を引いたので、その拳はわずか頰をかすめただけである。
「きさまア、そ、そんな恰好(かっこう)で、町なかを歩けると、思うのかア。一体全体――」
僕が黙っていると、下士官は急に言葉を止めて、がっかりした表情になった。再び拳をふり上げる気力もなくしてしまったようだった。その心情は、少しは僕にも判る。帽子をおとしたのは、僕の責任でもあるが、同時に輸送係の責任でもあるのだ。水兵服を着用ししかも無帽の兵隊などというものを、おそらく彼は今までに、想像もしなかったのだろう。それが今、彼の眼の前に立っている。この僕を引率して街なかを行進し、海兵団の団門をくぐったりすることに、この年若い下士官は瞬間に、多大の困惑と憂欝を感じたに違いない。巡邏(じゅんら)や団門の衛兵にも、見咎(とが)められるにきまっている。彼はしばらくそのまま僕をにらみつけていたが、やがて情なさそうに、しぼり出すような声で言った。
「ほんとうに、ほんとに世話を焼かせやがって。一体全体、どうすればいいと言うんだ。え?」
どうすればいいって、僕にどうするすべもないではないか。汽車は全速力で走っているし、飛び降りて拾いにゆく訳にも行かないだろう。だから僕はだまっていた。帽子をおとしたことは、僕にしても、多大の困惑と憂欝なのである。輸送係下士官は僕らを海兵団に送り届ければ役目は済むが、僕にはまだその後(あと)がある。その行く末を思いやると、とても返事するような気分にはなれなかった。
すると突然傍に立っていた『九六八九号』が、落着いた物腰で口を出した。
「――兵曹。こいつも後悔しておることでありますし、次の駅からでも、連絡とって貰ったら如何でしょうか」
「連絡したって、間に合うか!」と下士官はふたたび声を荒らげた。「えりもえって、汽車から帽子を飛ばしやがって」
「はあ。それはこいつも、身に沁みて判っておると思います。何しろこいつは、何時も何時も、シクジリばかりやらかす男で、私どもでよく言い聞かせておきます。ほんにこいつは、世話ばかりをかける、まるで赤ん坊みたいな奴で――」
僕は成行上、黙ってうなだれていたが、『九六八九』号から、こいつ、こいつと呼ばれるのが、しだいに奇妙に癪(しゃく)にさわってきた。帽子を飛ばしたのは、僕自身であって、『九六八九号』と何も関係ないではないか。それにいらざる口を出して、僕をこいつ呼ばわりをする。何時もシクジリやろうとやるまいと、ほんとに余計なお世話だ。僕はただ駅夫の呼ぶ駅名を聞こうとして、窓から首を出してみただけだ。そしたらそこに、いきなり風が吹いてきたんだ。誰が首を出したって、同じ結果になるにきまっている。
それでも『九六八九号』がいろいろと目を利いたおかげか、やがてその下士官は不承不承、自分の席に戻って行った。もっとも僕を責め立てても、帽子が戻るわけではなし、また車内は人いきれで汗臭くて暑いし、いい加滅うんざりしたのかも知れない。下士官が行ってしまうと、僕もうんざりと腰をおろした。ひどく面白くない気分である。頭に何も乗っていないことが、どうも不安で、じっとしておれないような気持であった。なんだか厭な予感が、ちらちらと僕の胸をかすめる。官給品に厳しい海軍のことだから、海兵団についたらどういうことになるのだろう。入隊してまだ日が浅い頃なので、僕にはよく見当もつかなかったが、靴下とか細紐とちがって、何しろ帽子のことだから、ごまかすわけには絶対ゆかない。一目見れば、すぐに判る。
僕は裸の頭を窓枠にもたせ、もう佐世保に着くまで、誰とも口をきくまいと、心にきめた。線路の間にあおむけに落ちた帽子の形や色が、いやにはっきりと瞼によみがえってくる。それと同時に耳の底に、駅夫が呼ぶあの駅の名前、語尾を引っぱるようにして、
「コトウ――コトウ――」
それはそういう呼び声だった。
「コトウ」
どういう字をあてるのか、今もって僕は知らない。それは烈日にかんかん照らされて、萎(しお)れたような、なんとなく侘しい小さな駅だった。
[やぶちゃん注:「コトウ」厚東(ことう)駅である。現在位置は山口県宇部市大字吉見字宮の下(グーグル・マップ・データ)であるが、これは山陽新幹線の敷設に伴い、微妙に移転したもので、旧所在地は同じ住所であるが、北北西に少し行った山陽新幹線の軌道のすぐ直下辺りのようである(スタンフォード大学の旧地図「小郡」で確認出来た)。]
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