甲子夜話卷之六 20 松平幸千代元服のとき有德廟上意
6-20 松平幸千代元服のとき有德廟上意
德廟の御時、松平幸千代【出羽守こと】は八歲にて殿上元服。御盃下さるゝ時、御酌は目賀田長門守なりしが、過て盃に盈る計につぎたりしかば、早くも御覽ぜられて、其酒給ばいたみ申さん。滴み候得と仰ありしに、幸千代騷がず一口吞、さて左の袂へ酒のまゝ盃をさし入れしかば、何れも不思議の若ものよ迚、内々稱美しけるを聞しめして、人は年相應の智をよしとす。餘りに年不相應也とて、思召に應ぜざりしと也。
■やぶちゃんの呟き
「松平幸千代」出雲国松江藩第六代藩主松平宗衍(むねのぶ 享保一四(一七二九)年五月二十八日~天明二(一七八二)年)。ウィキの「松平宗衍」を見ると、彼は隠居後に奇行を繰り返したとして、かなり「異常」と呼べる内容が記されてあるので、是非、見られたい。
「有德廟」(うとくべう)徳川吉宗。宗衍は偏諱。
「八歲」とあるが、誤り。彼の元服は寛保二(一七四二)年一二月十一日で数え十四である。この時、従四位下に叙位され、侍従に任官、後に出羽守を兼任した。
「目賀田長門守」目賀田守成。吉宗には紀州藩より従って側近として仕え、旗本となった。
「過て」「あやまちて」。
「盈る計に」「みつるばかりに」。
「給ば」「たば」。飲んだのでは。これも次もその次も吉宗の自敬表現ととる。
「いたみ申さん」【2020年10月23日改稿】いつも御指摘を戴くT氏より、これと次の注は間違っていると御指摘を戴いたので修正する。T氏より、『「いたみ申さん」 は、酔っぱらてしまう』の意であり、『「滴み候得」は多すぎる酒の量なので、一口のんで残りは 「 滴み 」(たらす =捨てる )し、杯を空にするよう』に、と吉宗は気を使って指示したのであって、私の『「代わりのものを用意させよう。」では、目賀田長門守の不調法が、目出』ってしまうので、それは、ない。さて、『「将軍の言う通り」に 松平幸千代が酒の残りを 「 滴み 」 ( たらす =捨てる)した場所が、自分の袖の中』であったことが、『「内々稱美しける」内容と見ました』。『将軍は、杯を載せてきた三方か何かにでも、 「 滴み 」 ( たらす = 捨てる)とおもいきや、袖の中』にさっと零し入れたことに『意表をつかれ』、逆に『「子供らしくない」と考えたようです』とあった。正しくそうとって、総てが自然な画面となる。何時もながら、T氏に感謝申し上げる。
「滴み候得」「したみさふらえ」。【2020年10月23日改稿】「残りは滴せてて、飲まぬがよかろう」。
「一口吞」「ひとくち、のみ」。
「何れも」その場にあった者たち誰もが、後に。
「迚」「とて」。
「内々」非公式な噂話として。
「稱美しける」若いのに洒落た処置だと褒め称えあったのである。
「聞しめして」「きこしめして」。
「思召に應ぜざりしと也」「おぼしめしにおうぜざりしとなり」。そうした過剰な少年への讃美を、年齢不相応な出過ぎた小賢しい振舞いであるとして、お採り上げになられなかった、というのである。但し、八歲なら、この話、「御尤も」と思うが、事実の、十四であれば、どうか? という気は私は、する。しかし、晩年の様態を見ると、吉宗の不快は、寧ろ、当たっているという気がする。