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2020/10/18

北原白秋 邪宗門 正規表現版 パート「外光と印象」/太田正雄(木下杢太郎・文)/冷めがたの印象

 

Gaikoutoinsyou

 

  外光と印象

 

[やぶちゃん注:パート標題と石井白亭の絵。]

 

 

近世佛國繪畫の鑑賞者をわかき旅人にたとへばや。もとより Watteau の羅曼底、Corot の敍情詩は唯微かにそのおぼろげなる記憶に殘れるのみ。やや暗き Fontainebleau の森より曇れる道を巴里の市街に出づれば Seine の河、そが上の船、河に臨める Café の、皆「刹那」の如くしるく明かなる Manet の陽光に輝きわたれるに驚くならむ。そは Velazquez の灰色より俄に現れいでたる午后の日なりき。あはれ日はやうやう暮れてぞゆく。金綠に紅薔薇を覆輪にしたりけむ Monet の波の面も靑みゆき、靑みゆき、ほのかになつかしくはた悲しき Cafin の夕は來る。燈の薄黃は Whistler の好みの色とぞ。月出づ。Pissarro のあをき衢を Verlaine の白月の賦など口荒みつつ過ぎゆくは誰が家の子ぞや。               太田正雄

 

[やぶちゃん注:以上は前の本パート表題の裏(右ページ)に記されてある。底本では極くポイントが小さい。最後の署名は底本では下一字上げインデント。なお、ブラウザの表示字のフォントの大きさやによっては、フランス語の単語が行末から次行にかかる場合、或いは、同様に句読点がそうなる場合、自動的に送られて空間が生ずるが、そのような字空きは存在しないので注意されたい。また、但し、フランス語の前後には底本の見た目に似るように半角分の字空けを施してある。太田正雄とは詩人(劇作・翻訳もよくした)にしいて美術史や切支丹史研究家であり、また医学者(皮膚科学)でもあった木下杢太郎(明治一八(一八八五)年~昭和二〇(一九四五)年)の本名である。而して彼の手に成る、この「外光と印象」パートへの序文である。

「Watteau」ジャン=アントワーヌ・ヴァトー(Jean-Antoine Watteau 一六八四年~一七二一年)はロココ時代のフランスの画家で、「シテール島への船出」(L'embarquement pour Cythère:第一ヴァージョン:一七一七年)や「ジル」(Gilles:一七一八年~一七一九年)で知られる。

「羅曼底」恐らくは「ろまんちつく」(歴史的仮名遣)或いは、フランス語原音に近づけるならば、「ロマンテイク(ロマンティク)」と読んでいる。英語なら「romantic」であるが、ここはフランス語で「romantique」。ここは、空想好きな、夢見がちな「わかき旅人」ということになる。但し、北原白秋自身は後に出る詩篇「羅曼底の瞳」では高い確率で「ロマンチツク」と読んでいる。但し、ここはそれに倣う必要はない。

「Corot」十九世紀のフランスの画家で「バルビゾン派」(École de Barbizon:自然主義的・写実主義的一団)の一人で次世代の「印象派」との橋渡しをした画家ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot 一七九六年~一八七五年)。私が真っ先に思い浮かべるのは晩年の「青い服の婦人」(La dame en bleu:一八七四年)。

「Fontainebleau の森」フォンテーヌブローの森(Forêt de Fontainebleau:フォレ・ド・フォンテーヌブロー)。パリ南東郊外のフォンテーヌブロー市街の西側一帯に広がる二百五十平方キロメートルに及ぶ広大な森。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「Seine の河」セーヌ川(la Seine)。

「Manet」十九世紀のフランスの画家で「印象派」の先駆者とされるエドゥアール・マネ(Édouard Manet 一八三二年~一八八三年)。絵画界にスキャンダルを巻き起こした「草上の昼食」(Le Déjeuner sur l'herbe:一八六二年~一八六三年。但し、初題は「水浴」(Le Bain)。一八六七年に画家自身が改題した)と「オランピア」(Olympia:一八六三年)が彼の代表作とされる。

「Velazquez」バロック期、スペイン絵画の黄金時代であった十七世紀を代表する巨匠ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez 一五九九年~一六六〇年)。先のエドゥアール・マネは彼のことを「画家の中の画家」(peintre des peintres)と呼んだ。

「Monet」「印象派」を代表するフランスの画家クロード・モネ(Claude Monet 一八四〇年~一九二六年)。代表作「印象・日の出」(Impression, soleil levant:一八七二年)が「印象派」の名の由来となったことはとみに有名。

「Cafin」画家の名らしいが、不詳。但し、島内裕子氏の論文『「舞踏会」におけるロティとヴァトーの位相』(『放送大学研究年報』十二。一九九四年。PDFでダウン・ロード可能)で、本篇全部を掲げ(そこでは島内氏は本引用を詩集「邪宗門」の『「外光と印象」と題された三一編の白秋の詩に付けられた木下杢太郎の序文』と規定しておられる)、『本論からはやや逸れるが』と前置きされた上で、『ここに出てくる何人もの画家の名前やヴェルレーヌのような詩人は、よく知られた芸術家であるのに対して、ただひとり、Cafinという人物だけが未詳である、という点に関して』、『一言述べておきたい』とされ、『現在は忘れ去られてしまっていても、当時はよく知られた芸術家だった可能性はある。杢太郎の書き方だけからは、この人物が画家であるのか、あるいはヴェルレーヌのような詩人であるのかも不明瞭である。しかしながら、「ほのかになつかしくはた悲しきCafinの夕は来る」という表現から、少なくとも、この芸術家の世界が、夕暮に象徴されるものであることだけはわかる。このことを手がかりとして、杢太郎の翻訳した』『リヒヤルド・ムウテル著』『『十九世紀仏国絵画史』を読んでゆくと、次のような箇所がある』として、フランスの風景画家ジャン=シャルル・カザン(Jean-Charles Cazin 一八四〇年~一九〇一年)についての記載部分を引用された後、『このカザンという画家についての記述と、先の序文のCafinの記述には共通性が見られないだろうか。カザンは、白昼の明るい絵を描かず、夕方から夜のほの暗い絵を描いたという。「聖書的風景画」ということばや、星空の夜を特に好んだという記述は、やや杢太郎の序文とイメージの違いがあるようにも思われるが、全体の書き方から感じられるカザンの画題や画風は、杢太郎が言うところの「ほのかになつかしくはた悲しき」という雰囲気とかなり近いようにも思われる。そのように考えると、『邪宗門』序文のCafinは、あるいは、このムウテルの美術論に出てくるカザンのことではないだろうか。カザンCazinとCafinは、綴りがよく似ているので、誤植されたのではないか、というのがわたしの推測である。従来この点については注意されてこなかったようなので、本論からは逸れたが気付いたこととして、ここに書いた』とある。私はこの見解に全面的に賛同する。ジャン=シャルル・カザンは彼の日本語版ウィキ(但し、かなり不備があるので、仏文ウィキその他を参照にして追記した。継ぎ接ぎだらけなのはそのためである)によれば、『パ=ド=カレー県』(Pas-de-Calais)『のサメール(Samer)で生まれた』。一八四六年に『家族とブローニュ=シュル=メール』(Boulogne-sur-Mer:フランス北部のドーバー海峡沿岸)『に移った』。一八六二年、二十二歳の時、『パリに出て』、『工芸学校でオラース・ルコック・ド・ボワボードラン』(Horace Lecoq de Boisbaudran)『に学んだ』。一八六三年の『「落選展」』(フランスで公式のサロンの審査員によって落選させられた作品を集めた展覧会。特にこの一八六三年の展覧会を指すことが多い。落選作には先のマネの「草上の昼食」や、後に出るホイッスラーの「白の少女」が含まれていた)『に出展している』。一八六三年から一八六八年までエミール・トレラ(Émile Trélat)が『校長を務める私立の建築学校(École Spéciale d'Architecture)で絵を教えた』。一八六八年に画家・版画家であったマリー・クラリス・マルゲリッタ・ギエ(Marie Clarisse Marguerite Guillet 一八四四年~一九二四年)と『結婚した』。一八六八年には『トゥール』(Tours:フランスの中部)『の美術館の学芸員に任じられ、美術館の絵画学校の校長も務めた』。『普仏戦争の後、混乱していたフランスを離れ』、一八七〇年代の初めに、アルフォンス・ルグロ』(Alphonse Legros)『と彫刻家のジュール・ダルー』(Jules Dalou)『とイギリスに渡り、イギリスで美術学校を開こうとしたが』、『これは成功しなかった。イギリスではヴィクトリア&アルバート博物館』(Victoria and Albert Museum)『で工芸品を研究し、磁器のデザインの仕事をした』。一八七四年に『イギリスを離れ、イタリア、オランダを旅してフランスに戻った』。一八七六年に「サロン・ド・パリ」(Salon de Paris)『に出展した。パ=ド=カレー県のブローニュ=シュル=メール』(Boulogne-sur-Mer)『に居を構え、宗教的な題材や歴史画も描いたがパ=ド=カレー県の風景を主に描いた。パリのパンテオンのピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ』(Pierre Puvis de Chavannes 一八二四年~一八九八年)『の未完の装飾画を完成させた』。『パリの工芸学校で同窓であったオーギュスト・ロダン』(François-Auguste-René Rodin 一八四〇年~一九一七年)『の友人で、ロダンの彫刻』「カレーの市民」(Les Bourgeois de Calais:ロダンの著名な彫刻の一つ。一八八八年完成。「百年戦争」時の一三四七年にイギリス海峡に於けるフランス側の重要な港カレーが一年以上に亙ってイギリス軍に包囲されていた「カレー包囲戦」の出来事に基づいて作られたもの)『一人のウスタシュ・ド・サン・ピエール』(Eustache de Saint Pierre:カレー市の指導者の一人)『の像のモデルを務めた』とある。

「Whistler」アメリカの画家・版画家ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler 一八三四年~一九〇三年)。主にロンドンで活動した。「印象派」の画家たちと同世代であるが、その色調や画面構成などには浮世絵を始めとする日本美術の影響が濃く、「印象派」とも伝統的アカデミズムとも一線を画した独自の絵画世界を展開した。「落選展」に出た「白のシンフォニー第一番:白の少女」(Symphony in White, No. 1: The White Girl:一八六二年)がよく知られる。ここで杢太郎が想起しているのは、恐らく「青と金のノクターン:オールド・バターシー・ブリッジ」(Nocturne: Blue and Gold - Old Battersea Bridge:一八七二年~一八七五年頃)であろう。

「Pissarro」「印象派」のフランスの画家カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro 一八三〇年~一九〇三年)。田園風景画を好んだ。

「Verlaine の白月の賦」フランス「象徴派」の詩人ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine 一八四四年~一八九六年)の「白き月影」などと訳される詩集「優しき歌」(La Bonne Chanson:一八七〇年刊)の中の一篇(La lune blanche…)のこと。原文はフランスのサイトのこちらを、国立国会図書館デジタルコレクションの川路柳虹訳「ヴェルレーヌ詩抄」(大正四(一九一五)年白日社刊)の中のそれをリンクさせておく(左ページの「Ⅲ」とある詩篇)。]

 

 

  冷めがたの印象

 

あわただし、旗ひるがへし、

朱(しゆ)の色の驛遞馬車(えきていぐるま)跳(をど)りゆく。

 

曇日(くもりび)の色なき街(まち)は

淸水(しみづ)さす石油(せきゆ)の噎(むせび)、

轢(し)かれ泣く停車場(ていしやば)の鈴(すゞ)、溝(みぞ)の毒(どく)、

晝の三味(しやみ)、鑢(やすり)磨(す)る歌、

茴香酒(アブサン)の靑み泡だつ火の叫(さけび)、

絕えず眩(くる)めく白楊(やまならし)、遂に疲れて

マンドリン奏(かな)でわづらふ風の群(むれ)、

あなあはれ、そのかげに乞食(かたゐ)ゆきかふ。

 

くわと來り、燃(も)えゆく旗は

死に墮(お)つる、夏の光のうしろかげ。

 

灰色の亞鉛(とたん)の屋根に、

靑銅(せいどう)の擬寶珠(ぎぼしゆ)の錆(さび)に、

また寒き萬象(ものみな)の愁(うれひ)のうへに、

爛(たゞ)れ彈(ひ)く猩紅熱(しやうこうねつ)の火の調(しらべ)、

狂氣(きやうき)の色と冷(さ)めがたの疲勞(つかれ)に、今は

ひた嘆(なげ)く、悔(くい)と、惱(なやみ)と、戰慄(をのゝき)と。

 

あかあかとひらめく旗は

猥(みだ)らなるその最終(いやはて)の夏の曲(きよく)。

 

あなあはれ、あなあはれ、

あなあはれ、光消えさる。

四十年十一月

 

[やぶちゃん注:「驛遞馬車」郵便馬車。

「茴香酒(アブサン)」「天鵝絨のにほひ」の私の注を参照。

「白楊(やまならし)」「下枝のゆらぎ」の私の「白楊(はくやう)」の注を参照されたい。

「猩紅熱」(しょうこうねつ)溶血性連鎖球菌によって起こる感染症。咽喉が痛み、急に高熱を出し、全身に発疹が現われる。小児に多く、治療にはペニシリンが有効。以前は「法定伝染病」・「学校伝染病」の一つであったが、ペニシリンで治療すれば軽症で治ることが多いことから、「溶連菌感染症」という病名で在宅治療を行うのが普通となり、現在では猩紅熱という病名で法的な規制は受けない(小学館「大辞泉」に拠った)。]

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