北原白秋 邪宗門 正規表現版 納曾利
納 曾 利
入日のしばし、空はいま雲の震慄(おびえ)のあかあかと
鋭(するど)にわかく、はた、苦(にが)く狂ひただるる樂(がく)の色。
また、高窻の鬱金香(うこんかう)。かげに斃(たふ)るる白牛(しろうし)の
眉間(みけん)のいたみ、憤怒(いきどほり)。血に笑(ゑ)む人がさけびごゑ。
さあれ、いま納曾利(なそり)のなげき……
鈍(にぶ)き思(おもひ)の灰色(はひいろ)の壁の家内(やぬち)に、
吹(ふ)き鳴らす古き舞樂(ぶがく)の笙(せう)の節(ふし)、
納曾利(なそり)のなげき……
納曾利(なそり)のなげき、ひとしなみ
おほらににほふ雅樂寮(うたれう)の古きいみじき日の愁(うれひ)、
納曾利(なそり)の舞(まひ)の
人のゆめ、鈍(にぶ)くものうき足どりの裾ゆるらかに、
おもむろの振(ふり)のみやびの舞(まひ)あそび、
納曾利(なそり)のなげき……
くりかへし、さはくりかへし、
ゆめのごと後(しりへ)に連(つ)るる笙(せう)の節(ふし)、
笛(ふえ)のねとりもすずろかに、廣(ひろ)き家内(やぬち)に、
おなじことおなじ嫋(なよび)にくりかへし、
舞(ま)へる思(おもひ)の
倦(う)める思(おもひ)のにほやかさ、
ゆるき鞨皷(かつこ)の
音(ね)もにぶく、
古(ふる)き納曾利(なそり)の舞(まひ)をさめ……
今(いま)しも街(まち)の空(そら)高(たか)く消(き)ゆる光(ひかり)のわななきに、
ほのかに靑(あを)く、なほ苦(にが)く顫(ふる)ひくづるる雲(くも)の色(いろ)。
また、浮(う)きのこる欝金香(うこんかう)。暮(く)れて果(は)てたる白牛(しろうし)の
聲(こゑ)なき骸(むくろ)。人(ひと)だかり、血(ち)を見(み)て默(もだ)す冷笑(ひやわらひ)。
四十一年七月
[やぶちゃん注:以上の絵は本篇の第一連の終わった七八ページの左に挿入されている山本鼎の何処かの木場のそれ。本篇第一連を含む見開きで示した。山本鼎(かなえ 明治一五(一八八二)年~昭和二一(一九四六)年は画家・版画家。愛知県岡崎市生まれ。桜井暁雲に木口木版を学ぶ。東京美術学校卒業。明治四〇(一九〇七)年、本詩集装幀を取り仕切っている石井柏亭らと美術雑誌『方寸』を創刊し、創作版画運動を起こした。春陽会等に油絵を発表するとともに、日本創作版画協会・日本版画協会創立の立役者となり、日本近代版画の確立と普及に尽力した。この間、一九一九年から一九一六年にはフランスに遊学。帰国の途次、ロシア農民美術に啓発され、長野県上田近郊に日本農民美術研究所を設立,農家の副業としての農民美術の育成に努めた(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。本作は「山本鼎アーカイブズ」のこちらで、原画は明治四二(一九〇九)年の作品で(本詩集は明治四十二年三月十日印刷)、十八・九×十三・二センチメートルであることが判る。
「納曾利」雅楽のなかの高麗楽(こまがく)の曲名。「納蘇利」とも書く。高麗壱越(こまいちこつ)調に属する。曲の由来は明らかでない。二人舞。二頭の竜が舞い戯れるさまをかたどったものといわれ、「双竜舞(そうりゅうのまい)」の別称もある。笛の「小乱声(こらんじょう)」という前奏曲に続いて(他の辞書等の記載を見ると、この序に当たる部分は伝わっておらず、従って現在演奏される「序」は元来の本曲のものではない。また、白秋の本篇の大きな三パートの構成(中間部三連が総て一字下げ)は思うにその序破急を模したもののようにも思われる)、この曲の破と急が舞われる。音楽も舞いも、リズミカルで変化に富んでおり、曲の構成が整った名曲である。舞人は裲襠(りょうとう)装束(「うちかけ」とも読み、「打掛」とも書く。古代の武官の礼服(らいふく)に用いられる衣服で、貫頭衣(かんとうい)の一種。長方形の布を二つ折りにし、中央の穴に頭を通して着用し、上から帯を締める。錦で作られ、縁どりが施されている。舞楽の装束の裲襠装束は金襴で縁どりしたものと、毛皮のような房飾りの附いたものがある)に、長く毛を垂らした濃い緑色の面をつけて、細長い銀色の桴(ばち)を持つ。正式には左方(さほう)の「陵王」という曲と対を成して舞われる。但し、「納曾利」を一人で舞うこともあり、この時の舞いは別して「落蹲 (らくそん)」と呼ぶ。但し、春日大社に伝承される「納曾利」は一人舞で、「落蹲」のほうが二人舞である(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。YouTube のチャンネル「雅楽」の「納曽利」をリンクさせておく。
「ねとり」「音取」。雅楽に於いて、管弦合奏の始めに作法として行う一種の序奏。楽器の音調を整え、雰囲気を醸成する。]
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