北原白秋 邪宗門 正規表現版 天鵝絨のにほひ
天鵝絨のにほひ
やはらかに腐れつつゆく暗(やみ)の室(むろ)。
その片隅(かたすみ)の薄(うす)あかり、背(そびら)にうけて
天鵝絨(びろうど)の赤(あか)きふくらみうちかつぎ、
にほふともなく在(あ)るとなく、蹲(うづく)み居れば。
暮れてゆく夏の思と、日向葵(ひぐるま)の
凋(しを)れの甘き香(か)もぞする。……ああ見まもれど
おもむろに惱(なや)みまじろふ色の陰影(かげ)
それともわかね……熱病(ねつびやう)の闇のをののき……
Hachisch(ハシツシユ)か、酢(す)か、茴香酒(アブサン)か、くるほしく
溺(おぼ)れしあとの日の疲勞(つかれ)……縺(もつ)れちらぼふ
Wagner(ワグネル)の戀慕(れんぼ)の樂(がく)の音(ね)のゆらぎ
耳かたぶけてうち透(す)かし、在(あ)りは在(あ)れども。
それらみな素足(すあし)のもとのくらがりに
爛壞(らんゑ)の光放(はな)つとき、そのかなしみの
腐(くさ)れたる曲(きよく)の綠(みどり)を如何(いか)にせむ。
君を思ふとのたまひしゆめの言葉(ことば)も。
わかき日の赤(あか)きなやみに織りいでし
にほひ、いろ、ゆめ、おぼろかに嗅(か)ぐとなけれど、
ものやはに暮れもかぬれば、わがこころ
天鵝絨(びろうど)深くひきかつぎ、今日(けふ)も淚す。
四十一年十二月
[やぶちゃん注:本詩篇の秘蹟の鑰(かぎ)は第四連終わりの「君を思ふとのたまひしゆめの言葉(ことば)も」にある。これは「抒情小曲集 おもひで」の自序「わが生ひたち」や、同詩集の「たんぽぽ」に詠み込まれた、愛する友人中島鎭夫のことである。これは特に必要不可欠と思われるので、「たんぽぽ」に注したものを再掲する。
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所持する書籍ではこれが如何なる人物か分からなかったが、複数のネット記事を並べてみることでやっと判明した。以下はリンク先以外の信頼出来る資料も参考にしてある。彼は白秋の親友で中島鎭夫(なかじましずお(しづを) 明治一九(一八八六)年五月九日~明治三七(一九〇四)年二月十三日)のことである。ペンネームは白雨(はくう)。享年十九(満十七歳)。中学に入学した白秋は級友と回覧雑誌を作って歌作・詩作にいそしみ、後期には校内で文学会を組織して新聞『硯香』小説や論説なども書いたが、低能教育の弊風を非難する内容の一文が学当局の忌諱に触れ、問題となったりした。その交流の中でも最も親しかったのが中島鎭夫であった。左大臣光永氏の「北原白秋 朗読」の本篇の解説に『「白秋」「白雨」、どちらもペンネームに「白」の字がついてますが、これは彼ら文学仲間の連帯の証でした』。『中島青年はみずから文芸部を発足し、生徒の』八『割近くが部員になったということですから、行動力とリーダーシップがあったようです』。『ところが中島青年がトルストイの『復活』を回し読みしていたところ、普段から文芸部をよく思わない教師から難癖をつけられ、退学に追い込まれます』。『当時』(明治三七(一九〇四)年)『は日露戦争に突入した年で、ロシア文学を愛好しているだけで非難の対象になったのです』。『中島青年はこの疑いに名誉を傷つけられ、自らの潔白を証明するため、短刀で喉を突いて自刃しました』。『中島青年は死に際して自分のぶんも文学の志を遂げてくれと白秋に遺書を遺します』。『一番の親友を失った白秋の心中は想像するにあまりあります。白秋はその気持ちを「林下の黙想」という詩に託して「文庫」に投稿』、『この詩は審査員に絶賛され』、明治三七年四月号に『全文掲載されます』。『そしてこの年、白秋は中学を中退し、父に内緒で上京。本格的に文学の道を歩み始めたのでした』とある。また、「西日本新聞社」公式サイト内の「日本がロシアに宣戦布告をした3日後のこと…」という記事は、『日本がロシアに宣戦布告をした』三『日後のこと。現在の福岡県柳川市で』十七『歳の文学少年が命を絶った。中島鎮夫(しずお)、ペンネームは白雨(はくう)。後に国民的詩人となる北原白秋の大親友である』。『白秋の回想によると、鎮夫は神童肌の少年で、語学に堪能だった。英語に加え独学でロシア語も勉強していたことから「露探」(ロシアのスパイ)のぬれぎぬを着せられる。汚名に耐えきれず、親戚の家の押し入れで、喉を短刀で突いた。「あなたを思っている」との遺書を白秋に残して』早朝に逝ったのであった。『教室で鎮夫の死を知った白秋はぽろぽろ泣いて駆けつけ』、『友の遺骸を板に乗せ、タンポポが咲く野道を家まで運んだ』とある。サイト「ブック・バン」の「【文庫双六】自死した親友を悼む白秋の悲しみ――川本三郎」には、『白秋は鎮夫を愛していた。「二人は肉交こそなかったが、殆ど同性の恋に堕ちていたかもわからないほど、日ましに親密になった」とのちに回想している』ともある。日露戦争の明治天皇の「露國ニ對スル宣戰ノ詔勅」が正式な宣戦布告で、これは明治三七(一九〇四)年二月十日であった(事実上の開戦はこの二日前の同年二月八日の旅順港にあったロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)であったが、当時は攻撃開始の前に宣戦布告しなければならないという国際法の規定がなかった)。
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友の屈辱の自刃から既に四年、しかし、白秋の悲しみは癒えていない。天鵞絨の塊りが――それを被った少年のままの白秋が――今も――酒蔵の隅で――哀しく慄えている…………
「天鵝絨」先の「室内庭園」に既出既注。
「蹲(うづく)み居れば」「うづくみ」とある以上、「ゐれば」ではなく「をれば」である。
「Hachisch(ハシツシユ)」先の「赤き僧正」に既出既注。
「茴香酒(アブサン)」absinthe で、フランス語。音写するなら「アプサァント」。古くからフランス・スイス・チェコ・スペインなどを中心にヨーロッパ各国でニガヨモギ(双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科キク亜科ヨモギ属ニガヨモギ Artemisia absinthium)・アニス(英語 anise。双子葉植物綱セリ目セリ科ミツバグサ属アニス Pimpinella anisum)・ウイキョウ(セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare)などを中心に複数のハーブやスパイスを主成分として作られてきたアルコール度の高い(四十~八十九%)薬草系リキュールの一つ。元はギリシア語の「ヨモギ」を意味する「アプシンシオン」に由来する。
「Wagner(ワグネル)」ドイツの作曲家で「楽劇王」の異名を持つヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner 一八一三年~一八八三年)。
「戀慕の樂音」私はワーグナーに冥いが、一応はCDで持ってはいる「トリスタンとイゾルデ」(Tristan und Isolde:全三幕。一八五七年から一八五九年にかけて作曲。初演はミュンヘンのバイエルン宮廷歌劇場で一八六五年六月十日)。本歌劇は中世ヨーロッパの伝説の一つである騎士トリスタンと彼の伯父マルクの王妃イゾルデの悲恋を描いたもので、ワーグナーのそれは『至高の愛の究極的な賛美である』とウィキの「トリスタンとイゾルデ(楽劇)」とある。作劇経緯にはワーグナー自身の不倫事件も関わっていることがそこで判る。
「ものやはに」これは恐らく「もの柔(やは)に」であろう。「もの」は接頭語で漠然とした様態を指すそれで、一般的には「何んとなく」と訳すが、漠然とした現実世界の時空間に対する感覚意識の対象物全体を指し、それが実は朦朧としていて、まさに天鵞絨のように柔らかな捉え難いことを表象しているのではないか? 暮れることも出来かねているというのは、現実の午後の逢魔が時に近い境界的時空間を示しつつ、同時にそれは「わがこころ」にも投影されて、時自体が擬人化されて「暮れか」ねているのである。さればこそ「もの」柔らかな天鵞絨を「ひきかつ」いで、「今日も淚す」るしかないのである、と私は読む。大方の御叱正を俟つ。]