北原白秋 邪宗門 正規表現版 濃霧
濃 霧
濃霧(のうむ)はそそぐ……腐(くさ)れたる大理(だいり)の石の
生(なま)くさく吐息(といき)するかと蒸し暑く、
はた、冷(ひや)やかに官能(くわんのう)の疲(つか)れし光―
月はなほ夜(よ)の氛圍氣(ふんゐき)の朧(おぼろ)なる恐怖(おそれ)に懸(かゝ)る。
濃霧(のうむ)はそそぐ……そこここに蟲の神經(しんけい)
鋭(と)く、甘く、壓(お)しつぶさるる嗟嘆(なげき)して
飛びもあへなく耽溺(たんでき)のくるひにぞ入る。
薄ら闇、盲啞(まうあ)の院(ゐん)の角硝子(かくがらす)暗くかがやく。
濃霧(のうむ)はそそぐ……さながらに戰(をのゝ)く窓は
亞刺比亞(アラビヤ)の魔法(まはふ)の館(たち)の薄笑(うすわらひ)。
麻痺藥(しびれぐすり)の酸(す)ゆき香(か)に日ねもす噎(む)せて
聾(ろう)したる、はた、盲(めし)ひたる圓頂閣(まるやね)か、壁の中風(ちゆうふう)。
濃霧(のうむ)はそそぐ……甘く、また、重く、くるしく、
いづくにか凋(しを)れし花の息づまり、
苑(その)のあたりの泥濘(ぬかるみ)に落ちし燕や、
月の色半死(はんし)の生(しやう)に惱(なや)むごとただかき曇る。
濃霧(のうむ)はそそぐ……いつしかに蟲も盲(し)ひつつ
聾(ろう)したる光のそこにうち痺(しび)れ、
啞(おうし)とぞなる。そのときにひとつの硝子(がらす)
幽魂(いうこん)の如(ごと)くに靑くおぼろめき、ピアノ鳴りいづ。
濃霧(のうむ)はそそぐ……數(かず)の、見よ、人かげうごき、
闌(ふ)くる夜(よ)の恐怖(おそれ)か、痛(いた)きわななきに
ただかいさぐる手のさばき――靈(たま)の彈奏(だんそう)、
盲目(めしひ)彈き、啞(おうし)と聾者(ろうじや)圓(つぶ)ら眼(め)に重(かさ)なり覗(のぞ)く。
濃霧(のうむ)はそそぐ……聲もなき聲の密語(みつご)や。
官能(くわんのう)の疲(つか)れにまじるすすりなき
靈(たま)の震慄(おびえ)の音(ね)も甘く聾(ろう)しゆきつつ、
ちかき野に喉(のど)絞(し)めらるる淫(たは)れ女(め)のゆるき痙攣(けいれん)。
濃霧(のうむ)はそそぐ……香(か)の腐蝕(ふしよく)、肉(にく)の衰頽(すゐたい)、――
呼吸(いき)深く𠹭囉仿謨(コロロホルム)や吸ひ入るる
朧(ろう)たる暑き夜(よ)の魔睡(ますゐ)……重く、いみじく、
音(おと)もなき盲啞(まうあ)の院(ゐん)の氛圍氣(ふんゐき)に月はしたたる。
四十一年十月
[やぶちゃん注:第一連三行目末のダッシュ一字分はママ。第六連及び第八連に普通の二字分のダッシュが使用されており(後者にはカスレあり)、ここはカスレさえ見えないので、誤植か活字脱落と思われる。
「氛圍氣」「雰圍氣」に同じいが、実はこの「氛」には「空中に漂う気(き)・気配」以外に、「禍い」の意がある。
「啞(おうし)」言語発生が出来ない障碍者を指す。但し、「おうし」の歴史的仮名遣は「おふし」が正しい。則ち、このルビは口語の仮名遣ということになる。「おし」はその「おふし」の縮約とされる。小学館「日本国語大辞典」によれば、「おふし」は古く、「古事記」に現われ、平安時代の昌泰年間(八九八年~九〇一年)に僧の昌住が編纂したとされる現存する最古の漢和辞典である「新撰字鏡」に『暗 扵不志』とあり、その後の例文表示に従い、原本に当たった、承平年間(九三一年~九三八年)に成立した源順の辞書「和名類聚鈔」(二十巻本)の巻第三の、「形体部第八 病類第四十」には、『瘖瘂(ヲフシ) 「說文」に云はく、『瘖瘂(をふし)【「音」「鵶」の二音。「於布之」。】言ふ能はざるなり』(訓読した)とあった(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。右頁二行目)。「おし」の項の例文として引くのが、紫式部の「源氏物語」(長保三(一〇〇一)年以後の起筆と推定)の「常夏」(但し、そこでは「をし」と表記。「和名類聚鈔」のルビも「をふし」であるが、「説文」の与えるは音「音」であるから歴史的仮名遣は「おし」でよい)であるから、「おふし」→「おし」の成立はまず間違いないであろう。なお、「日本国語大辞典」の載せる「おうし」の語源説は孰れも承服し難いので示さない。
「𠹭囉仿謨(コロロホルム)」chloroform。トリハロメタン(trihalomethane)を代表する一種であるトリクロロメタン (trichloromethane) 。CHCl3。無色・揮発性で、甘いような特有の臭気を持つ液体。メタンを塩素と反応させて生成する。有機化合物の溶剤フロンの原料となり、以前は外科手術の吸引麻酔剤として使われたが、発癌性が確認されたことから現在は使用しない。]