北原白秋 邪宗門 正規表現版 赤き花の魔睡
赤き花の魔睡
日(ひ)は眞晝(まひる)、ものあたたかに光素(エエテル)の
波動(はどう)は甘(あま)く、また、緩(ゆ)るく、戶(と)に照りかへす、
その濁(にご)る硝子(がらす)のなかに音(おと)もなく、
𠹭囉仿謨(コロロホルム)の香(か)ぞ滴(した)る……毒(どく)の譃言(うはごと)……
遠(とほ)くきく、電車(でんしや)のきしり……
………棄(す)てられし水藥(すゐやく)のゆめ……
やはらかき猫(ねこ)の柔毛(にこげ)と、蹠(あなうら)の
ふくらのしろみ惱(なや)ましく過(す)ぎゆく時(とき)よ。
窓(まど)の下(もと)、生(せい)の痛苦(つうく)に只(たゞ)赤(あか)く戰(そよ)ぎえたてぬ草(くさ)の花
亞鉛(とたん)の管(くだ)の
濕(しめ)りたる筧(かけひ)のすそに……いまし魔睡(ますゐ)す……
四十一年十二月
[やぶちゃん注:「光素(エエテル)」ether。エーテル。古代ギリシア時代から二十世紀初頭までの間、実に永く想定され続けた、全世界・全宇宙を満たす一種の物質の名称。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、地水火風に加えて、「エーテル」(「輝く空気の上層」を表わす言葉)を第五の元素とし、天体の構成要素とした。近代では、全宇宙を満たす希薄な物質とされ、ニュートン力学では「エーテル」に対し、「静止する絶対空間」の存在が前提とされた。また、光や電磁波の媒質とも考えられた。しかし、十九世紀末に「マイケルソン=モーリーの実験」で、「エーテル」に対する地球の運動は見出されず、この結果から、「ローレンツ収縮」の仮説を経、遂に一九〇五年、アインシュタインが「特殊相対性理論」を提唱し、「エーテル」の存在は否定された(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」に拠った)。但し、現在でも擬似科学や一部の新興宗教の中に「エーテルの亡霊」が巣食って蠢いている。
「𠹭囉仿謨(コロロホルム)」前篇「濃霧」に既出既注。
「水藥(すゐやく)」当時は「水」の音「スイ」の歴史的仮名遣は「スヰ」と考えられていたので誤りではない。但し、現在は中国の中古の音韻研究が進んだ結果、歴史的仮名遣でも「スイ」のままであることが確定されている。]