都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 卷之三 靱晴宗夫婦再生の緣をむすぶ事
席上奇観垣根草三之卷
靱晴宗(ともはるむね)夫婦再生(さいしやう)の緣をむすぶ事
いにしへ、朝家いまだ盛んなりし頃、豐後は久我家(こがけ)の領國にして、國司代を置きて取りまつろひ、郡司を知らせたる國人(くにうど)に、靱の大領(たいりやう)冬宗といふものあり。嫡子は早世して、次男小次郞晴宗、生(むまれ)淸げに、心ざま、優にやさしく、幼(いとけなき)より、詩歌管弦の外、書畫の工(たくみ)なる、
「鄙(ひな)には類(たぐひ)まれなる才なり。」
と、人みな、もてはやしけり。
[やぶちゃん注:「靱晴宗」不詳。
「朝家いまだ盛んなりし頃」本篇の時制設定は明らかに平安末期である。そう限定出来るのは、後で遊女の文化職業としての『白拍子』と『今樣』が登場人物の言葉に出るからである。後者は平安中期に発生し、瞬く間に流行歌となり、平安末期には後白河法皇が熱中し過ぎて喉を痛めたほどに熱中し、彼が採録・編纂した今様の集大成「梁塵秘抄」(の一部)が今に伝わっており、遊女芸としての専門職である白拍子に至っては、平安末期から室町初期にかけて成立したものだからである。
「豐後」現在の大分県の中・南部。国府は現在の大分市にあったと推定される。
「久我家」村上源氏の嫡流。清華家(せいがけ:摂関家に次ぎ、太政大臣を極官とし、大臣・大将を兼ねた家系)。源顕房の娘賢子(けんし)が白河天皇の皇后となり、堀河天皇を産んだ。賢子の兄雅実(まさざね)は太政(だいじょう)大臣となり、後に久我家の家祖と仰がれたが、十二世紀初頭までにその邸宅を京都久我(現在の京都市伏見区)に営み、「久我太政大臣」と称されたのが家名の由来。源氏の中でも官位が高かった。
「知らせたる」「領らす」とも書く連語(動詞「しる」の未然形+上代の尊敬の助動詞「す」)で尊敬語。「お治めになる」の意。
「靱の大領冬宗」不詳。]
いまだ世をしらざる日、都に登りて、國司の館(たち)に宮仕(みやづかへ)侍(はんべ)るうち、父の大領、みまかりしに、繼母(けいぼ)のはからひとして、三男三郞直宗(なほむね)なるもの、家業を襲(おそ/ツグ)ふ。されども、小次郞は國司のおぼえ他(た)にこえたれば、爭ふ事なく、それが心にまかせたり。在京のうち紀の何某(なにがし)の娘初瀨(はつせ)といへるを娶(めと)り、偕老のちぎり、あさからず暮しけるが、
「父の墳墓(ふんぼ/ハカシヨ)へもまうでたく、又は、一族の者にも、國司の恩顧のほども目(ま)のあたりきこえんものを。」
と思ひたちて、國司に、其よし、申しけるに、衣服・太刀なんどの類(るゐ)、かずかずたまはりて、如月(きさらぎ)の頃、妻もろとも、從者兩三人を具して、難波津(なにはづ)より、舟もよひして、はるばるこぎ出すに、春の海原、のどかなるうへ、おぼろにかすむ須磨・明石のながめ、
「これなん、一刻千金。」
と、妻もろともに、酒くみかはし、吟情(ぎんじやう)をなやまし、夜ふくるまで、いねもやらで、詠(なが)め居たりしに、船の者どもは、早や、いびき高く聞ゆるにぞ、苫(とま)さしよせて、ふしぬ。
[やぶちゃん注:「紀の何某の娘初瀨」不詳。
「兩三人」二、三人。
「難波津」古くより大阪湾にあった港湾施設。現在の大阪市中央区付近(グーグル・マップ・データ)に位置していたと考えられている。
「吟情」詩歌を吟詠せんとする気持ち。
「苫」「篷」とも書く。菅 (すげ) や茅 (かや) などを粗く編んだ莚(むしろ)。和船や家屋を覆って雨露を凌ぐのに用いた。]
其頃、伊豫・讃岐の間(あひだ)に、海賊(かいぞく/フナヌスビト)あまた橫行(わうぎやう)して、往來の客船をなやませしが、小次郞は、かくとも知らで不虞(ふぐ)[やぶちゃん注:思いがけないこと。不慮。]の備(そなへ)もなかりしに、とくより、海賊の窺ひて、熟睡(じゆくすゐ/ネイル)をはかりて、究竟(くつきやう)[やぶちゃん注:ここは「屈強」に同じ。]の者共、小次郞が船に上り、器物・調度の類(るゐ)、己(おの)が船に移すに、初瀨、驚きて、
「こは、いかに。」
と、おとたつるを[やぶちゃん注:声を挙げたところが。]、これをも己(おのれ)が船にうちこみたる物音に、小次郞、目さめて、刀、おつとり、起上(たちあが)るを、有無をいはず、海へ投げいれたり。
從者(ずさ)のねおびれたる[やぶちゃん注:寝ぼけていた者。]をも、みなみな、海に打込みて、水主(すいしゆ)には、奪ひとりたる衣服など、處分(しよぶん/ワケトラセ)して、賊船は遙に漕去(こぎさ)りぬ。
初瀨、聲をかぎり、泣叫(なきさけ)べども、いかんともすべき樣なく、海にいらんとすれば、押へて働き得ず。中にも賊主(ぞくしゆ/ゾクノカシラ)と覺しきが、詞(ことば)をやはらげて云く、
「汝一人をたすけ置くこと、心なきにあらず。我輩(わがともがら)かゝる非義は、ふるまふといへども、生れながらの海賊にもあらず、嫡子あれども、いまださだまる妻もむかへず、下賤(げせん/シモサマ)の女をめとらんも、心ぐるし。さいはひ、汝、鄙にはめなれぬ容儀(ようぎ)なれば、我息婦(わがよめ)となしてんと思ふより、かく計らひおきたり。心をとゞめて、利害をはかり見よ。」
といふに、初瀨、
『眼前に夫の死を見て、何たのしみにながらへて、辱(はづかしめ)をみん。』
とおもへども、頗る心さとき女にて、
『あはれ、敵(かたき)をとりて怨(ゑん)を報い、夫にも手向けばや。』
と、おもふ心、うかびて、はじめて、淚をとゞむ。
賊主、その肯(うけが)ひたるを喜びて、やがて船を岸につけて、己(おのれ)が家に歸る。
賊主、妻とてもなく、乳母なる老婆一人のみにむて、その餘は、みな、海賊の者ども、あつまり居(ゐ)るなり。嫡子といふは、このほど風の心地にて引籠りゐたるに、すこしは心ゆるして日を經るうち、賊主も、そのけはひの外心(ほかごゝろ)なきに安堵して、家事をゆだねぬ。
十日餘を過ぎて、一人、來りて、
「長州の商船(しやうせん/アキンドブネ)きたるあり。その備(そなへ)、堅固なれば、心して向ひ給へ。」
と告ぐるに、賊主、その夜は大小の海賊、みなみな、引具して出でぬ。
初瀨、
『さいはひ。』
と、老婆がいぬるをまちて、裏なる一重(ひとへ)の垣をこえて、四方をみれども、もとより都の外(ほか)は、ふみもみぬ鄙路(ひなぢ/ヰナカミチ)、ことに人ばなれたるところなれば、何所(いづく)をさしてと思ひさだむることもなく、月の出(で)し、ほのかたをしるべに走るに、蘆葦(あしかや)生茂(おひしげ)りて路もなき所を、凡そ、二、三里も來りぬらんとおもふ所に、行先(ゆくさき)、入海(いりうみ)にして、わたらんやう、なし。引返して右に走るに、遠里(とほざと)に鳥[やぶちゃん注:鶏。]のこゑするに、
「さては。人家のあるにや。」
と走るうちに、夜もほのぽのと明けわたる頃、からうじて磯邊に出でたり。
商船と覺しきが、一艘、つなぎよせたり。
しきりに、
「たすけたまはれ。」
とよぶに、船のうちより、ねむびれたる聲して、
「なにごとにや。」
と尋ぬるに、
「委しきことは船にてこそ申さめ。とくのせたまへ。」
といふに、船主(ふなぬし)、とま、おし開きて見るに、艶(えん)なる女の、髮みだれ、すそ、ほころび、玉ぼこ[やぶちゃん注:玉鉾でこれは道の枕詞であるから、それを援用して彼女の足のことを指していよう。]も、あけになりて[やぶちゃん注:血だらけになって。]、打倒れたれども、天然の國色(こくしよく)[やぶちゃん注:その国で一番の容色。絶世の美女。]、いとゞ媚(こび)あるに、船主、俄(にはか)にかひがひしく抱きのせて、湯藥(たうやく)をあたへていたはるに、宵より息をかぎりに走りたるが、すこし、心ゆりして[やぶちゃん注:気持ちが緩んで。]、氣、つき、力、たゆみたるにや、肢體(したい)もひえて、人心地、なし。
さまざま、いたはりて、藥をあたへ、やうやう、呼吸もたしかに覺ゆるにぞ、粥などあたへて、なほも、
「疲(つかれ)を息(いこ)はしめん。」
とて、端なる一間をしつらひて、ふさしむ。
元來、此船は筑紫の人商(ひとあきびと)にて、諸國を廻(めぐ)りて、婦女をすかし欺きて、轉賣(てんばい/マタウリ)する船なり。はじめ、初瀨をみるより、
『おもひの外(ほか)に德づきたり。』
と心積(こゝろづもり)して、急に船〔ふな〕もよひ[やぶちゃん注:「船催」。出航の準備。]して、藝州の嚴嶋(いつくしま)に渡りて、かの所の「葛尾(くづを)の長(ちやう)」といふものゝ許(もと)に、鳥目三拾貫文に轉賣して、人商は他國にさりぬ。
[やぶちゃん注:「葛尾(くづを)の長(ちやう)」不詳。
「鳥目三拾貫文」後の慶長年間の換算で(読者は江戸時代それでしか換算しないだろうから問題なかろう)、金一両は鐚銭(びたせん)四貫文であったから、七両半、江戸時代の換算で最高で九十七万円弱、後期のインフレで低く見積もって四十万円弱の範囲内となろうか。]
その頃まで、吉備・いつくしまなどは、海路のよせよく、繁華の所なるゆゑ、爰かしこに賈舶商船(かはくしやうせん/タビアキビトノフネ)の纜(ともづな)をつなぐ。路の邊(べ)の柳、客をまねき、物いはでさへ、人のよりくるもの、まして籬(まがき)にわらひて手折(たを)りやすきには、遊客旅人(いうかくりよじん)の歸るを忘るゝも斷(ことわり)ぞかし。わきて、「葛尾の長」ときこえしは、家居(いへゐ)もきよらかに、つぎつぎしく侍(はんべ)れば、國の下司(したづかさ)、或は、祿(ろく)いまださだまらぬ人などは、いふもさらなり、やんごとなき國司代なんども、うちひそまりて[やぶちゃん注:こつそりと。]通ひくる人、多ければ、妓女(ぎじよ/オヤマ)も、綾戶・二村(ふたむら)・袖師(そでし)など、名姝(めいしゆ)の名、四方(よも)にかくれなし。されども、さすがは鄙(ひな/ヰナカ)にて、初瀨が艶色(ゑんしよく[やぶちゃん注:原本のママ。])に及ぶものなし。
[やぶちゃん注:「綾戶・二村・袖師」ここで知られた遊女の源氏名らしい。
「名姝」現代中国語でも「美女」の意。]
長、大きに喜びて、其客(かく/ツトメスル)をむかへん事をさとせども、初瀨、人商(ひとあきびと)の船にありて、はじめて毒蛇の口をのがれて、虎狼の害におちいりたる心地して、ふつにものをもいはず、夜晝となく、ひきかづきて泣きくらす。まことや、王昭君が胡地(こち)に嫁(か)せし、「漢宮萬里月前膓(かんきうばんりつきのまへのおもおもひ)」、楊貴妃が驪山(りざん)の舊宴をおもひて、「梨花一枝春帶雨(りくわいつしはるあめをおぶ)」と、いひけんも、かくや、とおもはれ、誠に天然の國色、惱める西施、泣ける虞氏(ぐし)、「せまらば、王をや、碎きなん」と、煙花(えんくわ/サト)に馴れたる妓女に、すゝめ、さとさしめんとす。
[やぶちゃん注:「人商(ひとあきびと)の船にありて、はじめて毒蛇の口をのがれて、」は表現が不全。「人商(ひとあきびと)の船にありて、はじめて毒蛇の口をのがれたりと思ふたに、」ぐらいにして欲しいところだ。
「王昭君」紀元前一世紀頃の前漢の女性。昭君は字(あざな)。後宮に仕え、三三年、元帝の命により、匈奴(秦・漢の頃にモンゴル高原を拠点としていた遊牧騎馬民族。しばしば中国に侵攻した)の呼韓邪単于(こかんやぜんう)に嫁し、寧胡閼氏(ねい こえんし)と称した。単于の没後、再嫁したが、漢土を慕いながら、生涯を胡地に送った。古来、中国文学の題材として扱われるが、この悲劇は宮廷画家毛延寿 (もうえんじゅ) に賄賂を送らなかったため、故意に彼女が醜女に描かれたことに起因するとされる。しかし、昭君が胡地に赴くに際して、元帝は初めて王昭君を見、その美貌に驚き、毛延寿の悪業が露見し、彼を斬罪に処したと伝える。中国・日本の画題として好んで扱われた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「漢宮萬里月前膓」大江朝綱(仁和二(八八六)年~天徳元(九五七)年:漢詩人。参議。祖父音人 (おとんど) 以来の学業を継ぎ、博学多才で詩文の誉れが高かった。当時の詔勅や辞表などは殆んどが彼の手に成ったといわれ、また、書道にも優れていた。詩は艶麗優美で後世の手本にされた。音人が「江相公」と称されたことから、「後江相公(のちのごうしょうこう)」と称された)の作で、「和漢朗詠集」の「王昭君」と題して載る。元は七律であるが、同書では二句ずつに分けて四つで収載してある(なお、同書には多く彼の詩歌が載るが、誤って「江相公」として載っている)。高橋春雄氏のサイト「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」のこちらに、原文と訓読と訳が載る。
「驪山」西安の東の現在の陝西省臨潼(りんとう)県城の東南にある標高千三百二メートルの山。山麓に温泉があり、玄宗が楊貴妃のために華清宮を建てたことで知られる。
「梨花一枝春帶雨」言わずもがな、白居易の「長恨歌」のエンディングのプレの一節。私の『白居易「長恨歌」原詩及びオリジナル訓読・オリジナル訳附』を参照されたい。
「煙花」遊女及び遊廓に生きる境涯。]
多くの妓女の中にも、名を得たる綾戶・二村、近く居よりて、
「かくなる上は、長くかなしみて、詮(せん)なきことなり。我々とても、あかぬ中を、親・夫のために、かひなき身を川竹(かはたけ)の流(ながれ)にひたし、或は心ならずも、人あきびとにかどはされて、爰に賣渡されたるも侍(はんべ)り。朝夕に馴るれば、又、思ひやる事も侍りて、寄來(よりく)る人も、ふつに、むくつけなるのみにも侍らず。さまざま、かはる波の枕にも、おもひよる湊も、なきにしも、あらず。それがためには、遂には、たのもしげある世をもしめんと、そら賴(だのみ)にも暮らすことにて、うきが中にも、たのしみも侍り。」
などと、よそながら、言葉たくみにすゝむれど、答(こたへ)だにせねば、多くの妓女も詞つきて、
「今、しばし、里の色香も目になれば、心もなどか花にうつらであるべき。」
とて、綾戶がねやに、いたはり置きぬ。
[やぶちゃん注:「あかぬ中」「飽かぬ仲」で後の「親・夫」との本来の幸せな親密ないい仲の状態を指す。
「川竹の流」川の畔りに生えている竹が空しく流れてゆくような身で、やはり遊女や遊女の身の上を指す。
「たのもしげある世をもしめん」「賴もし氣ある世をも占めん」。頼もしく幸せに思えるような未来をこそ、いつか必ず、と念ずることであろう。そこには「苦界(くがい)浄土」の含みもあろう。]
その夜、人しづまりて後、綾戶、また云ふやう、
「君、ひたすら操(みさを)を守りたまはゞ、この上、いかなる遠き國へも賣渡され、からきめを見給はば、今日を戀ひ給ふとも、かへるまじ。その上、この里に妓女多かる中(なか)、『白拍子(しらびやうし)』といふは、あながちに客をむかふるにも侍(はんべ)らず、たゞ一さしの風流(ふりゆう)に酒宴の興を添へ、または高貴の家に召されて、月花(つきはな)の色を增すのみにて、操をくじき給ふにも侍らず。君は正しく都人と見たれば、今樣(いまやう)なんどは堪能(かんのう)にてや、おはすらん。あはれ、そのみちをだに勤めたまはゞ、里のかざしともなり、身もやすく心にも恥づることなかるべし。」
と、いとしみじみと、さとし、きこゆるに、初瀨、おもふやう、
『われ、甲斐なき命をすてもやらで今日(けふ)にいたるは、夫の仇(あだ)を報ぜんとおもふよりなれば、身をも汚(けが)さで、高貴の家に近づくこそ願ふところなれ。』
と、はじめて、淚をとどめて、綾戶に向ひ、
「それのをしへに從ひ參らせん。よきにはからひたまはれ。」
といふに、綾戶、よろこびて、此よし、長(ちやう)に告ぐるに、
「計(はかりごと)成りたり。」
と、翌日より、專ら、歌舞吹彈(かぶすゐだん/ウタマヒイトタケ)をしふるに、もとより糸竹(いとたけ)は幼(いとけなき)より馴れたることなれば、ほどなく、里に名をしられ、
「初瀨が今樣には、天(あま)ぎる雲も停(とゞま)る。」
とぞ、いひはやしける。
[やぶちゃん注:「かへるまじ」この「まじ」は打消推量の不可能。ここへ帰ることさえできますまいよ。
「歌舞吹彈(かぶすゐだん/ウタマヒイトタケ)」「吹」が笛で「タケ」(竹)、「彈」が筝や琵琶で「イト」(糸)に当たる。]
[やぶちゃん注:底本の画像をトリミングし、聊か清拭した。話柄の展開から、冒頭に掲げず、ここに挿入した。]
頃しも、藤原朝臣道信卿、あらたに國府へ下り給ひ、ことに近年、朝家の事、繁きに、海賊追捕(つゐほ[やぶちゃん注:ママ。]/センギ)も忽(ゆるがせ)に成りたりしを、
「この度(たび)は、海賊、ことごとく搦捕(からめと)り、海路(かいろ)の風波(ふうは)を靜めよ。」
との別勅を蒙り給ひ、西國・南海に、此よし、施行(せぎやう/フレナガス)したまヘば、諸國の來使、たゆる間なく、國府の繁華、往年にまさりけり。
一日、國司誕辰(たんしん/タンジヤウビ)の慶賀(けいが/シウギ)にて、白拍子をめさるゝに、初瀨、その數(かず)にえらばれて館(やかた)に參るに、國司、甚だ其名手を賞し給ひ、數日(すじつ)をとゞめ給ふ。
ある夜、月のあかゝりしに、南の殿(との)に出でたまひて、初瀬に、
「琵琶、つかふまつれ。」
と侍(はんべ)れば、初瀨、床(とこ)におかれたる錦の袋紐(ふくろひも)、とく、とくくと見るより、淚をうかめ、やゝ伏沈(ふししづ)みたりしが、やがて、淚ながらに抱(いだ)きて、四(よつ)の緒(を)かきならし、一曲を彈ずるに、大弦、小弦、嘈々切切(さうさうせつせつ)として、雨のごとく、語るがごとく、曉の鶴、夜の鹿、腸(はらわた)を斷つかなしみ、泣くがごとく、訴ふるがごとく、餘韻嫋々(でうでう)として、細谷川(ほそたにがは)の流(ながれ)、よどみてかきくれたるに、國司、覺えず、狩衣(かりぎぬ)の袖をうるほし給ひ、
「汝が心中、限りなき愁(うれひ)あるに似たり。流離哀怨(りうりあいえん/ワカレサマヨフカナシミ)の聲、宛然(えんぜん)として明(あきらか)なり。つゝまず、語れ。」
と宣(のたま)ふに、初瀨、おぼえず、撥(ばち)をすてゝ、ふしまろびて、絕入(たえい)りしが、やゝありて、淚をおさへて、身の上の、くはしきことをきこえ參らせ、
「この琵琶こそ『裂帛(さきぎぬ)』と名づけて、夫が常々秘藏したりしを、六とせ以前、海賊の襲ひたりし時、主(ぬし)さへむなしくなり侍(はんべ)れば、海賊の手に入りしが、君の御許(みもと)へは、如何にして來りけん。」
と、憚るところなく申すに、國司、甚だ驚き給ひ、
「晴宗、久我家にありし折は、わが館(たち)へも、きたり見えたり。國に下りては、さだめて一所(いつしよ)の安堵をもしつらめとおもひしに、はからざる橫難(をうなん)。また、汝が報讐(ほうしう)の志(こゝろざし)、感ずるにあまりあり。われ、其力を助け得さすベし。幸(さいはひ)に海賊を探る最中(もなか)なれば、やはか、その賊、天網(てんまう/アミ[やぶちゃん注:後者は「網」のみに附す。])を漏(もる)るべき。さるにても、賊が住居(すまひ)は、いづれの國の境と覺えたるや。」
と宣ふに、初瀨、
「はじめより此國に來るまで、國(くに)所(ところ)の名だにしらず。たゞ、兩三人の面貌(おもて[やぶちゃん注:二字へのルビ。])を、とめたるのみ。」
といふに、國司、うなづきたまひ、
「この琵琶を得たる手より探らば、賊の巢穴をしるべし。」
とて、頓(やが)て長(ちやう)には、初瀨が身の價(あたひ)をたまはりて、北の方の許に、ひそかに置き給ひぬ。
[やぶちゃん注:「藤原朝臣道信」知られた人物としては、「小倉百人一首」の(五二番)、
明けぬれば暮るるものとは知りながら
なほ恨めしき朝ぼらけかな
の「後朝(きぬぎぬ)の別れ」を詠じた一首で知られる藤原道信(天禄三(九七二)年~正暦五(九九四)年)である。しかし、そうなると、時制上の矛盾が生じる。彼は平安中期の人物だからである。またしても、キャスティング、悪し! しかしまあ、最後のシークエンスへの伏線なんだろうなあ……
「嘈々切切」これは、初瀬の引くのが琵琶であるから、白居易の長篇「琵琶行」の一節のインスパイアである。
*
大絃嘈嘈如急雨
小絃切切如私語
嘈嘈切切錯雜彈
大珠小珠落玉盤
大絃(たいげん)は嘈嘈(さうさう)として 急雨のごとく
小絃は切切(せつせつ)として 私語のごとし
嘈嘈と 切切と 錯雑して彈(だん)じ
大珠(だいしゆ) 小珠(せうしゆ) 玉盤に落つ
*
「嘈嘈」は音が激しく多いさまを、「切切」は音が繊細で速いさまを謂う。
一ページで序から全部の原文・訓読・訳を載せておられるサイト「井手敏博の日々逍遥」のこちらをリンクさせておく。
「餘韻嫋々」音が鳴り止んでも、なお、幽かに残る響き。或いは、その音が細く長く続く(かのように感ずる)さま。「嫋嫋」(現代仮名遣「じょうじょう」)は「音声の細く長く続くさま」を謂う。これも蘇軾の「前赤壁賦」に基づくものである。
「細谷川(ほそたにがは)の流(ながれ)」漢詩に基づく二連奏が気になったものか、終わりは「古今和歌集」の巻第二十の(一〇八二番)、
*
眞金(まがね)吹く吉備の中山帶にせる
細谷川(ほそたにかは)の音のさやけさ
*
辺りを意識したものであろう。この歌には左注があり、
この歌は、承和の御嘗(おもむべ)の吉備國の歌
とあり(「承和の御嘗」は仁明(にんみょう)天皇の大嘗祭のこと。即位から約九ヶ月後の天長一〇年十一月十五日(八三三年十二月二十九日)に行われた)、ロケーションが近い。
「宛然」ある対象や様態とそっくりそのままであるさま。
「撥をすてゝ」老婆心乍ら、悲しみの余り、思わず、力なくとり落したのである。
「絕入(たえい)りし」通常は気絶・失神を指すが、ここは見た目そのように見える、則ち、悲哀が昂じ、暫く動かくことさえ出来なかったのである。
「橫難」思いがけなく(これが「横」の意。「横死」などで使う)起こる災い。不慮の災難。
「北の方」道信の正室。]
かの「裂帛(さきぎぬ)」の琵琶は、國人星川庄司(ほしかはしやうじ)なるもの、奉りたるなれば、いそぎ召して尋ね給ふに、
「先年、豫州大三嶋(おほみしま)へ、公(おほやけ)の事につきて罷(まか)りたるに、海珠寺(かいしゆじ)といふ禪院に寄宿したりし時、寺僧の所持なるを見て、價(あたひ)の絹をあたへて、とり來れり。その來歷を尋ね侍りしに、同じ國、『川(かは)の上(かみ)』といふ所の檀越(だんをつ)、『香火の料に』とて寄せたるなりと承りし。」
と申すにぞ、
「さては。賊主が踪跡(そうせき/アリカ)も影響をしるべし。」
と、豫州の諸司へ追捕のこと、しきりに促し給ふ。とくより、四國は賊の藪澤(さうたく)ときこえたれば、追捕の密使、よりよりに搦捕(からめと)り來(きた)るに、國司、初瀨をひそかに簾中(れんちう[やぶちゃん注:ママ。]/ミスノウチ)にかくし置きて、窺(うかゞ)はさせ給ふに、
「その者にあらず。」
といふ。さらば、
「猶も、賊主を漏(もら)したり。」
とて、の在家(ざいけ)を探り求むるに、かしこくも影響なし。
[やぶちゃん注:「星川庄司」不詳。
「豫州大三嶋」現在の芸予諸島(一部が広島県)の、愛媛県今治市に属する大三島(グーグル・マップ・データ)。愛媛県の最北に位置し、同県に属する島の中では最大。
「海珠寺」この名の寺(禅寺)は大三島には現存しない。「宝珠寺」ならあるが、真言宗である。
「川の上」愛媛県内には複数の「川上」が認められるが、不名誉な、しかも作り話であるから、それらを挙げるのはやめておく。
「檀越」檀家。
「踪跡」足跡。
「影響」影が形に従い、響きが音に応じるの意から、ここは、その確かな存在の謂いであろう。
「藪澤」雑木や雑草が生い茂っている湿地。転じて、フラットな意味で「物の集まっているところ」を指す。
「かしこくも」普通は「申すも恐れ多いことに」の意。ここでは「どうもはかばかしくなくて」の意としかとれないが、適切な使い方とは思われない。]
翌春(よくはる)、大洲(おほず)の沖にて、防州(ばうしう)の商船に、海賊、あまた亂入したりしを、折節、追捕使の船、ちかきにかゝりゐて、この動靜(どうじやう)を聞くより、取圍(とりかこ)みて、一人も殘らず、生捕(いけど)りて國府に參らす。
また、はじめのごとく、初瀨に窺はしむるに、
「かれこそ賊主なり。」
と答ふ。
されば、張本なれば、とて一々、盤詰(ばんきつ/ギンミ)にするに、七年以前、京家(〔きやう〕け)の武士の船を襲ひたりしことまで、具(つぶさ)に白狀におよぶ。
國司、きこしめして自ら廳(ちやう)に出でたまひ、初瀨を召して、
「賊主、この婦をしるや。」
と宣ふに、賊主、大きに駭(おどろ)きて、面(おもて)、土(つち)のごとし。
國司、笑つて云く、
「天道昭々(せうせう/アキラカ)、なんぞ、むなしからん、婦人、微々たる一念、今日に達することを、えたり。されども、公の罪人(つみんど)なれば、私の計(はからひ)にまかせがたし。」
とて、梟木(けうぼく/ゴクモン)にさらして後、初瀨に、たびければ、その首を小次郞が靈位(れいゐ/ヰハイ)に備へて、千辛萬苦して報讐の志、やうやうに屆きたるを、生ける人にいふごとく、喞(かこ)ちて祭りしこそ、誠に千載の恨(うらみ)こゝに散じ、萬緖(ばんしよ)の鬱、忽ちに、ひらけたりといふべし。見聞(けんもん)の人、淚をおとさゞるはなし。
[やぶちゃん注:「大洲(おほず)」現在の愛媛県大洲市(グーグル・マップ・データ)。
「防州」周防(すおう)国。
「盤詰」漢語の用法。中文サイトでは「何度も繰り返し、細かく訊問すること」を意味するようである。
「たびければ」「賜(た)びければ」。
「喞ちて」激しく嘆きながら語って。
「萬緖」よろずの糸口。あらゆる事柄。]
その後、僧をやとひて、夫をはじめ從者(ずさ)までの追善に水陸(すゐりく/セガキ[やぶちゃん注:原本の左ルビ。「施餓鬼」。])を修したりし。その費(つひへ)、みな、國司、わきまへたまひしに、初瀨、恩惠の海山(うみやま)なるを謝し、なほ、この上いかなる師をも賴み、剃度(ていど/カミオロシ)して、亡夫の菩提を祈り度(た)きよしを申しきこゆるに、國司も其志の切なるを感じさせ給ひしが、折しも、北の方、御產(ごさん)の臨月なれば、
「御產やの宮仕し參らせて後、心のまゝなるべし。」
と、北の方よりもふくめ給ふに、いなむベきやうなくして、御產をまちゐたり。
[やぶちゃん注:「水陸(すゐりく/セガキ[やぶちゃん注:原本の左ルビ。「施餓鬼」。])」施餓鬼会(せがきえ)は水死者(元来は殺生対象であった魚類の供養が本来のものであった)のために水辺でも盛んに行われる。ご存知ない方は、私の「小泉八雲 海のほとりにて (大谷正信訳)」を読まれたい。祭壇の絵もある。]
その頃、國司、別殿を營(えい)したまひ、畫工(ぐわこう/エシ)を求め給ふに、近頃、肥後よりきたり住む菅野主馬(すがのしゆめ)といへるを進むるものあり。めして一幅をかゝしめ給ふに、畫法、正しく、氣韻、また、凡(ぼん)ならぬに、愛(め)でさせたまひ、その出身を尋ね給ふに、
「肥後の產。」
と答ふ。されども、言葉のはしの鄙(ひな)めかざるに怪しみたまひ、
「その本貫(ほんくわん/コキヤウ)・師家體來(しかでんらい/ヱノリウギ)を委しく語れ。」
と宣ふに、主馬、辭することあたはず、
「元は豐後の產にして、國司につかへて都にとどまり、たまたま、國にかへらんとして海賊の難にあひ、妻なる者もむなしくなりしに、幼(いとけな)きとき、水練の術(じゆつ)をすこしくならひたるに、からき命を保ちて、商船にたすけられ、國にかへるに、繼母(けいぼ)の姦(かたまし)きより、
「都の繁華に身を失ひ、零落(れいらく/オチブレ)したりし。」
と、あらぬ罪を數へて、一族どもに見限りて、よるべなく、賴みおもふ京都の國司の館(やかた)には、打續きて早世(そうせい/ワカジニ)したまひ、他家より家を繼ぎたまふと聞くに、賴む木の下(もと)雨(あま)もりて、所さだめず、さすらへありき、肥後にいさゝかの所緣侍(はんべ)りて、それにやしなはれ、惜しからぬ命ながらに、『一度(ひとたび)、汚名をもすゝぎて、父なるものゝ墳墓(ふんぼ/ハカシヨ)をも掃(はら)ひて、その後(のち)は出家して、先だちたる者の菩提をも吊(とむら)ひてんもの』と、おもひ侍るより、繪のことは、都にありしとき、少しく指(ゆび)を染めたるを、今日の煙(けふり)のよすがになし侍るのみにて、何の師傳と、をこがましくきこえ參らする事も侍(はんべ)らず。」
と、淚にくれて答へ申すに、國司、つくづく見給ふに、姓名は變りたれども、面(おも)ざし、紛(まご)ふかたなき晴宗なり、と覺しければ、「裂帛(さきぎぬ)の琵琶」を出して、
「これなん、覺えあるや。」
と宣ふに、主馬、驚いて、
「申すもおそれ侍(はんべ)れども、やつがれ、往年祕藏したりし『裂帛』と申すに、たがふことなく覺え侍る。」
といふに、國司、いよいよ、晴宗なる事をしろしめせども、わざと、
「汝、妻子とてもなく、世にたのみなき身なれば、われに仕へて賤務(せんむ/シモノヤク)をもとらんや。」
主馬、拜伏して、
「犬馬(けんば)の勞(らう)をつくさん。」
といふ。國司、また僞りて云く、
「さいはひ、我に一婢(いつぴ/ヒトリノコシモト)あり。出身いやしからぬ者なれば、汝、めとらば、われ、義女(ぎぢよ/ムスメブン)として、めあはせんは、いかん。」
主馬云く、
「尊命(そんめい/ギヨイ)の重き、背(そむ)き奉る理(り)なし。たゞ、此一事(いちじ)は、鄙心(ひしん)、安からざる所あり。亡妻、罪なくして賊手(ぞくしゆ)に死し、某(それがし)、生(せい)を偸(ぬす)みて、今日に至りても、身の置所なきまゝ、はかばかしき追薦(ついせん)をも、いとなまず、『幽魂(いうこん)、さだめて薄情(はくじやう/ミヅクサキ)を恨みん』と、心に恥づるところあれば、まして再醮(さいせう/ゴサイ)の念は、つゆ、侍(はんべ)らず。願はくは、高明(かうめい)、鄙情(ひじやう)を察し給へ。」
と實情をのぶるに、國司、ますます、感嘆したまひ、
「婚儀は心にまかすべし。今日より、館下(くわんか)にありて安穩(あんをん)なるべし。」
と宣ふに、主馬、恩を謝して退(しりぞ)きぬ。
[やぶちゃん注:「姦(かたまし)き」「かだまし」とも。動詞「奸(かだ)む」の形容詞化。 心がねじけている。悪賢く、誠意がない。
「一族どもに見限りて」原本もママ。「見限られて」とあるべきところ。
「吊(とむら)ひ」「弔ふ」はしばしばこの漢字も用いる。
「追薦(ついせん)」「追善」はこうも書く。
「再醮(さいせう/ゴサイ)」「醮」はもと星辰を祀って、それに酒肴を供えることにを意味し、そこから人の通過儀礼としての冠礼や婚姻に於いて行われる神への酒礼の一法となった。されば、ここは再び妻を娶ることの意となるのである。
「高明」地位高く勢力があり、富貴にして、学識に優れているという道信の尊い人柄への尊敬表現。
「鄙情」田舎染みた気持ち、賤(いや)しい感情という自身の気持ちを卑称した謙遜語。]
ほどなく、北の方、御產、ことゆゑなく、しかも若君にて、上下、その賀をのぶるに、國司より酒(さけ)賜りて、終日(ひねもす)、酒(しゆ)を酌みて、夜に入りて、興、闌(たけなは)なる時、國司、主馬を近く召され、
「この賀筵(がえん)にて汝に再生(さいしやう)の緣をむすばしむべし。恐らくは鬼魅(きみ/バケモノ)とやせん。驚くことなかれ、われに『返魂(はんごん)の術(じゆつ)』あり、今、見すべし。」
とて、初瀨を召し給ふに、北の方、とくより、初瀨には、
「明日こそ汝が剃度(ていど/シユツケ)をゆるすべければ、今宵は、うき世の花の名殘に。」
とて、侍女に仰せて衣眼をあらためさせ、よろづ、きよらにかざりたれば、さなきだに麗しきが上に、盛飾濃粧(せいしよくぢようさう/カミカタチケハイ)の風流をつくしたる、誠に天津乙女(あまつをとめ)の月の宮を出づるかと、うたがはる。
侍女、いざなうて、國司の傍(かたはら)に坐するを、
『いかなる上﨟やらん。』
と、面(おもて)をあげて、よくよくみれば、妻の初瀨なり。
初瀨も、その小次郞なるに、
「こは、いかに、夢か現(うつゝ)か。」
と、淚こぼれて、詞(ことば)いでず。
人々のおはすをも打忘れて、取りすがりて、且(かつ)、悅び、且、なげきて、たがひに淚はとゞめ得ず。
國司、座にむかひて、初瀨が貞操なる、又、晴宗が心の變ぜすして誠あるをかたり給ふに、一座、みな、感稱(かんしよう)して國司の仁惠(じんけい)を知りぬ。
國司、盃(さかづき)をとりて、初瀨にたまひ、
「汝、今生(こんじやう)に賴(たのみ)なかりしものを、今、はからずも、未了(みれう/ツキヌ)の緣(えん)をむすぶ。『初瀨』の名をも『瀧川』と改めて、われても遂にあひみる月の盃を晴宗に與ふベし。晴宗、又、もとの姓名に復して、幸に下司(したつかさ)の闕(か)けたるあれば、我に仕ふべし。かの『裂帛(さきぎぬ)』の琵琶も、かへしあたへむ。なれども、枉(ま)げて、我にあたへよ、『裂帛』の名も哀怨(あいゑん/カナシミウラミ)に出でたれば、今より『有明(ありあけ)』と名づけて秘藏すべし。われ、また、美意(びい)をつぐなふため、婚儀を助けん。」
とて、侍女に命じ給へば、白銀〔しろがね〕百枚、いろいろの小袖、十重(とかさね)をさゝげ出でたり。夫婦の者、天を拜し、地に謝して、その恩惠の雨(あめ)、山(やま)なるを喜び、これより長く國司に仕へて、恩顧、また、他にこゆるにぞ、國なる一族も、このよしを聞き、繼母(けいぼ)のさかしらなるを知りて、昔のごとく、親しみたりしとぞ。
誠に、物の離合(りがふ/ハナレアフ)、みな、其(その)數(すう/サダマリ)ありて、其緣、盡きざれば、胡越(こゑつ)も遠からずといヘども、かゝるたぐひも、又、ためしすくなく覺え侍(はんべ)る。
[やぶちゃん注:「返魂(はんごん)の術」「反魂」とも書く。死者の魂を呼び返す術。死んだ人を蘇らせる呪法。元は道教の神仙術の一つ(本来の仏教はこうした生死に関わる幻術を嫌う)。
「盛飾濃粧(せいしよくぢようさう/カミカタチケハイ)」「濃」の音「ノウ」は慣用音で、呉音では「ニユウ(ニュウ)」、漢音では「ヂヨウ(ジョウ)」である。
「『初瀨』の名をも『瀧川』と改めて、われても遂にあひみる月の盃を晴宗に與ふベし」「小倉百人一首」の源俊籟頼朝臣の(七四番)、
憂かりける人を初瀨(はつせ)の山おろしよ
はげしかれとは祈らぬものを
に、初瀬の名と今までの流離の憂愁を掛けた上で、同じく崇徳院の(七七番)、
瀨をはやみ岩にせかるる瀧川(たきがは)の
われても末(すゑ)に逢はむとぞ思ふ
を掛けて、再会の言祝ぎと改名の由来としたもの。
「闕(か)けたるあれば」欠員があるので。
「なれども、枉(ま)げて、我にあたへよ」恣意的な或いは二人にとって本意ではないかも知れぬが、そこを曲げて、やはり改名権を、またしても私に与えよ、というのである。
「『裂帛』の名も哀怨(あいゑん/カナシミウラミ)に出でたれば、今より『有明(ありあけ)』と名づけて秘藏すべし」これが先に出した道信の歌に基づく改名であることは明白であろう。道信のそれは「後朝の別れ」、則ち、「朝ぼらけ」を迎えてあなたと別れねばならぬのが「恨めしき」と嘆いたものであり、それは「帛」=「神前に供える白い絹」を無体にも二つに裂く如き悲痛の音(ね)を奏でるという、二人の辛苦の半生を象徴する不吉な名であるから、これを吉兆に変じて「有明」としようというのである。この場合の有明は、しかし道信の一首の男(晴宗に比し得る)の別れの悲しみの「朝ぼらけ」というよりは、やはり「百人一首」の素性法師の(二一番)、
今來むといひしばかりに長月の
有明の月を待ち出でつるかな
をインスパイアしているのではなかろうか。こちらは女性の身になって詠んだ一首で、「行くよ」と言いながら、少しも訪ねて来てくれぬつれない男への、女性の不安と期待とが、ない交ぜとなった怨情を表現したものであるから、今までの想像を絶する苦界の中で小次郎晴宗に思いを寄せ続けた初瀬の思いをこそ「有明」に掛けて、妻初瀬とともにこの琵琶「有明」を大切にせよという、実に洒落たはからいなのだと、私は思う。但し、私は和歌嫌いであるから、もっとピッタリくる原拠構造がある可能性は高い。どうか、そうしたものがあるとなれば、識者の御教授を乞うものである。
「美意(びい)」二人のこれまでの立派な堅い志。
「つぐなふ」今と同じく「賠償する」の意なので、このコーダの直接話法の謂いとしては、あまりよい単語とは思われない。
「さかしらなる」「賢しらなる」。小賢しい。けちな悪知恵ばかりが働くさま。
「胡越(こゑつ)も遠からず」「胡越」は古代中国の北方の胡の国と南方の越の国で、転じて、互いに遠く離れていること、疎遠であることを喩えていう語で、初・盛唐期に歴史家呉兢(ごきょう 六七〇年~七四九年)が編纂したとされる太宗の言行録「貞観政要」(じょうがんせいよう)に、「物竭誠則胡越爲、傲物則骨肉為行路「物にして誠(まこと)を竭(つく)せば、則ち、胡越も一體と爲(な)り、物にして傲(おご)れば、則ち、骨肉も行路(かうろ)と爲る」(何物に対しても誠意を尽くせば、遠く離れたの人心も親密な一体となり、何物に対しても傲慢になってしまえば、肉親でさえも路傍の赤の他人となってしまう)。とあるのに基づく。]