北原白秋 邪宗門 正規表現版 狂へる椿
狂 へ る 椿
ああ、暮春(ぼしゆん)。
なべて惱(なや)まし。
溶(とろ)けゆく雲のまろがり、
大(おほ)ぞらのにほひも、ゆめも。
ああ、暮春。
大理石(なめいし)のまぶしきにほひ――
幾基(いくもと)の墓の日向(ひなた)に
照りかへし、
くわと入る光。
ものやはき眩暈(くるめき)の甘き恐怖(おそれ)よ。
あかあかと狂ひいでぬる藪椿(やぶつばき)、
自棄(やけ)に熱(ねつ)病(や)む靈(たま)か、見よ、枝もたわわに
狂ひ咲き、
狂ひいでぬる赤き花、
赤き譃言(うはごと)。
そがかたへなる崖(がけ)の上(うへ)、
うち濕(しめ)り、熱(ほて)り、まぶしく、また、ねぶく
大路(おほぢ)に淀(よど)むもののおと。
人力車夫(じんりきしやふ)は
ひとつらね靑白(あをじろ)の幌(ほろ)をならべぬ。
客を待つこころごころに。
ああ、暮春。
さあれ、また、うちも向へる
いと高く暗き崖(がけ)には、
窓(まど)もなき牢獄(ひとや)の壁の
長き列(つら)、はては閉(とざ)せる
灰黑(はひぐろ)の重き裏門(うらもん)。
はたやいま落つる日ひびき、
照りあかる窪地(くぼち)のそらの
いづこにか、
さはひとり、
濕(しめ)り吹きゆく
幼(をさな)ごころの日のうれひ、
そのちやるめらの
笛の曲(ふし)。
笛の曲(ふし)…………
かくて、はた、病(や)みぬる椿(つばき)、
赤く、赤く、狂(くる)へる椿(つばき)。
四十一年六月
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