北原白秋 邪宗門 正規表現版 赤き僧正
赤 き 僧 正
邪宗(じやしゆう)の僧ぞ彷徨(さまよ)へる……瞳据(す)ゑつつ、
黃昏(たそがれ)の藥草園(やくさうゑん)の外光(ぐわいくわう)に浮きいでながら、
赤々(あかあか)と毒のほめきの恐怖(おそれ)して、顫(ふる)ひ戰(をのゝ)く
陰影(いんえい)のそこはかとなきおぼろめき
まへに、うしろに……さはあれど、月の光の
水(み)の面(も)なる葦(あし)のわか芽(め)に顫(ふる)ふ時。
あるは、靄ふる遠方(をちかた)の窓の硝子(がらす)に
ほの靑きソロのピアノの咽(むせ)ぶ時。
瞳据(す)ゑつつ身動(みじろ)かず、長き僧服(そうふく)
爛壞(らんゑ)する暗紅色(あんこうしよく)のにほひしてただ暮れなやむ。
さて在るは、曩(さき)に吸(す)ひたる
Hachisch(ハシツシユ)の毒のめぐりを待てるにか、
あるは劇(はげ)しき歡樂(くわんらく)の後の魔睡(ますゐ)や忍ぶらむ。
手に持つは黑き梟(ふくろう)
爛々(らんらん)と眼(め)は光る……
そのすそに蟋蟀(こほろぎ)の啼く……
四十一年十二月
[やぶちゃん注:「梟(ふくろう)」のルビはママ。歴史的仮名遣は「ふくろふ」が正しい。
「曩(さき)に」「先に」に同じい。今より前に。以前に。但し、事実上の今日の近い時間の意ではあるまい。
「Hachisch(ハシツシユ)」これはフランス語の綴りで、音写するなら、「アシュシュ」。英語綴りでは「hashish・hasheesh」で、音写は「ハッシッシュ・ハシシ・ハシシュ」など。所謂、「大麻」(バラ目アサ(麻)科アサ属アサ Cannabis sativa。カンナビス・サティバ。英名も Cannabis。因みに、御存じのことと思うが、種小名は、稲=単子葉植物綱イネ目イネ科イネ亜科イネ属イネ Oryza sativa のそれと同じだが、これはラテン語の動詞「sero」(セロー:種をまく)の形容詞形「栽培された」の意で、多くの栽培植物の種小名に用いられている)の♀株が分泌する樹脂から作る麻薬。狭義には、大麻の葉を煙草のように吸うのがマリファナ(marihuana・marijuana。スペイン語「marijuana」由来)で、こちらは一般にその樹脂を固めたものを称する。因みに、小学館「日本国語大辞典」は「ハシッシュ」の見出しで載せ、音写タイプの幾つかを挙げた後、『「マリファナ」に同じ』として、名誉なことに、本篇のこの一行が例文の筆頭に出ている。
「魔睡(ますゐ)」の読みはママ。「睡」は「すい」でよい。]